第九章
♢♢♢ 第九章 ♢♢♢
越前リョーマという少年に会ったのは、私が精ちゃんと再会した日の翌日だった。日が沈みかけてきたのでテニスの練習でもしようと公園に来た私は、一人壁打ちをする少年の姿を見つけた。ほんの気紛れで少し遠い公園にやって来たのが彼と出会えた理由だろう。
声をかけてみようかとも思ったが、彼は私を知らないし何よりも集中しているから邪魔をしたくない。見なかったことにして私も練習しよう、そう意気込んで彼とは少し離れた場所に荷物を下ろした。
「熱心なものね」
思わず心の声が漏れてしまった。私の存在に全く気付かないくらい集中しているのだから大したものだ。きっとそれくらい、強くなりたいと願っているのだろう。
『俺はとある1年に期待している』
ふと兄の言葉が過ぎった。いつぞやかの電話で静かに呟いた彼の声を思い出す。聞くまでもない、兄が期待を寄せている1年はきっと彼のことだ。こんなに凄い1年が何人もいたら青学の一人勝ちになってしまうもの。
そう思っていると、彼が動きを止めた。私の視線に気付いてしまったのか、怪訝そうな目で睨んでくる。
「ねえ、さっきから何?」
「…いや、何も」
「ジロジロ見ないでくんない?気が散るんだけど」
なんて可愛げのない子だろう。でも、私も似たようなものかもしれない。それこそあの二人に初めて話しかけられた時、私はもっと感じが悪かった。
「なら、話しかけても良い?」
「やだ」
「分かった」
うん、あの頃の私に本当そっくり。毎回こんな態度を取っていたはずなのに飽きることなく話しかけてくれた精ちゃんの懐の深さを思い知る。私ならすぐに愛想を尽かしていた。
大きく深呼吸をした私は、軽く準備運動を済ませるとラケットとボールを取り出した。指先から伝わる無機質な感触は未だに慣れない。せっかく兄が歩み寄ってくれたのだ、その勇気と優しさを無下にしたくない。でも、私がもう一度ラケットを握るのはメイディを裏切る行為になるのではという思いは消し去れない。
「…全部私が始めたことだわ」
分かっている、あの子は私にそんな生き方を強いたりしない。好きな事を我慢して不幸になれなんて、お前だけ楽しむのは許さないなんて、そんなこと望むわけない。ただ私が許されたかったから、私が私を許せなかったから自らを束縛していただけ。きっと兄は全て気付いていたから私にあんな提案をしたのだろう。
「…それでも良いの、嬉しいから」
ボールを空に投げ出してラケットを振りかざせば、壁が綺麗に打ち返してくれる。こうやってがむしゃらにラケットを降っていればいつの間にか心が晴れている。どんなに暗い気持ちに取り憑かれていても、ちゃんと立ち直ることができるのよ。
休むことなく壁にボールを打ち付けていた私は、隣の先客の存在すら奇麗に忘れていた。でも突然私のボールに自分のボールをぶつけて邪魔をしてきたものだから嫌でも思い出してしまった。
「…何?」
「アンタこそ、どうしたの?」
「何が?」
「何って…泣いてるじゃんアンタ」
「泣いてる?私が…?」
驚いて目元に手を当てれば、生温い水の感触がする。汗なんじゃないかと思ったけど、目の前に立つ少年の姿がぼやけてるからこれは涙だ。
「なんで…」
私は泣いてるの?何か悲しいことあったっけ?テニスをしながら泣くなんて意味が分からない。
兄の仲間が、私の友人がテニスをしている姿に心打たれた。兄が私をテニスに誘ってくれて嬉しかった。昨日は精ちゃんに会えて、もう死んでも良いと思った。
「…そっか」
私は嬉しいのね。でも同時に申し訳ないの。私ばかり良い思いして、あの子に申し訳ないんだわ。あの子の時間は止まっているのに私の時間は動き出した。それが堪らなく怖いんだ。
深呼吸と共に涙を拭うと、目の前の少年に視線を戻す。先程とは打って変わって不安そうな表情で私を見つめる彼は年相応の普通の男の子に見えた。そして同時に、一つでき心が生まれてしまった。
「ねえ貴方」
「…何?」
「1ゲームだけ付き合ってくれない?」
少年の目が大きく見開かれる。何だコイツはと言わんばかりに私の顔を凝視しているけど無理もない。ジロジロ見てきたかと思えば突然泣き出して、挙げ句の果てに勝負を持ちかけてきたとなれば完全に変質者だ。
当然断られる、そう思っていたけど彼は案外人が良いようだ。
「良いよ、1ゲームね」
「…へえ、優しいのね」
「別に。俺も誰かと試合したかっただけ」
うん、やっぱり可愛くない。でも普通に良い子かもしれない。無視してやり過ごすこともできただろうにそうしなかった、彼の行動が全てを物語っている気がした。
越前リョーマという少年に会ったのは、私が精ちゃんと再会した日の翌日だった。日が沈みかけてきたのでテニスの練習でもしようと公園に来た私は、一人壁打ちをする少年の姿を見つけた。ほんの気紛れで少し遠い公園にやって来たのが彼と出会えた理由だろう。
声をかけてみようかとも思ったが、彼は私を知らないし何よりも集中しているから邪魔をしたくない。見なかったことにして私も練習しよう、そう意気込んで彼とは少し離れた場所に荷物を下ろした。
「熱心なものね」
思わず心の声が漏れてしまった。私の存在に全く気付かないくらい集中しているのだから大したものだ。きっとそれくらい、強くなりたいと願っているのだろう。
『俺はとある1年に期待している』
ふと兄の言葉が過ぎった。いつぞやかの電話で静かに呟いた彼の声を思い出す。聞くまでもない、兄が期待を寄せている1年はきっと彼のことだ。こんなに凄い1年が何人もいたら青学の一人勝ちになってしまうもの。
そう思っていると、彼が動きを止めた。私の視線に気付いてしまったのか、怪訝そうな目で睨んでくる。
「ねえ、さっきから何?」
「…いや、何も」
「ジロジロ見ないでくんない?気が散るんだけど」
なんて可愛げのない子だろう。でも、私も似たようなものかもしれない。それこそあの二人に初めて話しかけられた時、私はもっと感じが悪かった。
「なら、話しかけても良い?」
「やだ」
「分かった」
うん、あの頃の私に本当そっくり。毎回こんな態度を取っていたはずなのに飽きることなく話しかけてくれた精ちゃんの懐の深さを思い知る。私ならすぐに愛想を尽かしていた。
大きく深呼吸をした私は、軽く準備運動を済ませるとラケットとボールを取り出した。指先から伝わる無機質な感触は未だに慣れない。せっかく兄が歩み寄ってくれたのだ、その勇気と優しさを無下にしたくない。でも、私がもう一度ラケットを握るのはメイディを裏切る行為になるのではという思いは消し去れない。
「…全部私が始めたことだわ」
分かっている、あの子は私にそんな生き方を強いたりしない。好きな事を我慢して不幸になれなんて、お前だけ楽しむのは許さないなんて、そんなこと望むわけない。ただ私が許されたかったから、私が私を許せなかったから自らを束縛していただけ。きっと兄は全て気付いていたから私にあんな提案をしたのだろう。
「…それでも良いの、嬉しいから」
ボールを空に投げ出してラケットを振りかざせば、壁が綺麗に打ち返してくれる。こうやってがむしゃらにラケットを降っていればいつの間にか心が晴れている。どんなに暗い気持ちに取り憑かれていても、ちゃんと立ち直ることができるのよ。
休むことなく壁にボールを打ち付けていた私は、隣の先客の存在すら奇麗に忘れていた。でも突然私のボールに自分のボールをぶつけて邪魔をしてきたものだから嫌でも思い出してしまった。
「…何?」
「アンタこそ、どうしたの?」
「何が?」
「何って…泣いてるじゃんアンタ」
「泣いてる?私が…?」
驚いて目元に手を当てれば、生温い水の感触がする。汗なんじゃないかと思ったけど、目の前に立つ少年の姿がぼやけてるからこれは涙だ。
「なんで…」
私は泣いてるの?何か悲しいことあったっけ?テニスをしながら泣くなんて意味が分からない。
兄の仲間が、私の友人がテニスをしている姿に心打たれた。兄が私をテニスに誘ってくれて嬉しかった。昨日は精ちゃんに会えて、もう死んでも良いと思った。
「…そっか」
私は嬉しいのね。でも同時に申し訳ないの。私ばかり良い思いして、あの子に申し訳ないんだわ。あの子の時間は止まっているのに私の時間は動き出した。それが堪らなく怖いんだ。
深呼吸と共に涙を拭うと、目の前の少年に視線を戻す。先程とは打って変わって不安そうな表情で私を見つめる彼は年相応の普通の男の子に見えた。そして同時に、一つでき心が生まれてしまった。
「ねえ貴方」
「…何?」
「1ゲームだけ付き合ってくれない?」
少年の目が大きく見開かれる。何だコイツはと言わんばかりに私の顔を凝視しているけど無理もない。ジロジロ見てきたかと思えば突然泣き出して、挙げ句の果てに勝負を持ちかけてきたとなれば完全に変質者だ。
当然断られる、そう思っていたけど彼は案外人が良いようだ。
「良いよ、1ゲームね」
「…へえ、優しいのね」
「別に。俺も誰かと試合したかっただけ」
うん、やっぱり可愛くない。でも普通に良い子かもしれない。無視してやり過ごすこともできただろうにそうしなかった、彼の行動が全てを物語っている気がした。