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第八章

* * *




 それからというもの、私は少しずつ体を動かし始めた。約1年間運動という運動をしてこなかった私の体は大層鈍っていたが、やはり経験があると感覚を取り戻すのにそこまで苦労はなかった。
 そんな8月のある日、私はふと彼らの顔を思い出した。忘れていたわけではないが、関東大会決勝のあの日負けを経験した彼らはどうなっているのか知りたくなった。かつての友人が落ち込んでいやしないかと心配になった。


「分かってるわ、私の気にすることじゃない」


 立海大付属中学の校門前で深呼吸した私は、一度左右を確認すると校内に足を踏み入れた。もう二度と訪れるつもりはなかったけど、もう一回くらいなら許されても良いはずだ。


「上手く会えれば良いんだけど」


 前回と違うことといえば今は夏休み真っ只中。当然部活はやっているだろうが、既に練習時間が終わっていたりそもそも今日が休日だったりしたら何も確認しようがない。ただ他校に遊びに来ただけになってしまう。


「まあ、その時はその時よね。友人の中学をこっそり見に来た、それも良いじゃない」


 一人でクスクス笑う私は傍から見たら変人だろう。でも、立海には私を知る人がほとんどいないし、ましてや今は夏休みだから生徒数も普段より少ないはずだから問題ない。
 目だけをキョロキョロ動かしてテニスコートを探せば、私の心配は不要だったとすぐ分かった。テニスコートのど真ん中で大声を出しているのは間違いなく彼だ。


「ふふっ…元気そうね、弦ちゃん」


 今日は誰にも気付かれたくないから、ここで静かに見守るわ。貴方を心配していたけど、本当に貴方は強いのね。私はいつも貴方に裏切られてばかりだわ、良い意味でね。
 思わず安堵のため息が出てしまう。そして同時にもう一つの期待が頭を過る。もう一人の友人は、今どうしているのだろう。あの日、手術は上手くいったのだろうか。その後どうしているのだろうか。


「精ちゃん…」


 貴方が恋しい。今までに感じたことのない胸の痛みを、この半年間ずっと感じてる。貴方が病気で倒れたと聞いた日からずっと、苦しくて苦しくて仕方なかった。貴方の顔が見たくて見たくて気が狂いそうだった。


「…会いに来てよ」


 ドイツに経つ前、もう二度と会わないと決めていた。なのに2年足らずで再会してしまった。離れていた間は何も感じなかったはずなのに、ひたすら自分の未来しか見ていなかったはずなのにどうして今はこんなにも泣きたくなるのだろう。
 大きなため息と共に空を見上げた私は、そのままゆっくりと深呼吸をして視線を元に戻した。遠くに見えるテニス部を見つめながら、乱れかけていた呼吸を整える。
 ようやくいつもの調子を取り戻しかけていた私は、次の瞬間聞こえてきた懐かしい声に再び息が止まりそうになった。


「優里!!」


 聞き間違える訳がない。いつも私を癒やしてくれた美しくも凛々しいあの声を、恋しくて恋しくて堪らなかった人の声を間違えるなんて有り得ない。


「優里…!優里だよね?」


 最後に会った日よりも更に男らしくなった、でもやはり美しい彼は紛れもなく幸村精市だ。あの日から1年も経ってないはずなのに、もう何年も会えていなかったかのように感じてしまう。


「…精ちゃん?」
「うん、そうだよ『精ちゃん』だよ。君の親友、幸村精市だよ」


 泣き笑いのような表情でそう言った彼は今まで見てきた何よりも美しい。そしてもう一つ、彼の口から紡がれた『親友』という言葉に目頭が熱くなる。でもやっぱり彼が目の前にいるという事実が何よりも嬉しくて、気が付けば涙がこぼれ落ちていた。


「…会いたかった」


 やっとの思いでそれだけを口にした。もっと言うべきことがあるはずなのに、これ以上は何も言えない。次から次へと溢れてくる涙が止まらなくて立っていることもできない。
 顔を両手で覆って膝を付いた私を、彼はどんな表情で見ているのだろう。彼の顔をしっかり見たいのに、今はとても見れそうにない。


「俺も、会いたかったよ。…来てくれたんだね、ありがとう」


 この温もりは精ちゃんのものだろうか。兄の温もりとはどこか違う、強く優しい熱が私の心を満たしていく。


「…もうどこにも、行かないで」
「それは俺の台詞だよ」
「…側にいて」
「それも、俺の台詞」


 彼の腕に力がこもる。とても病み上がりとは思えない逞しい胸板は、彼がこの短期間いかに必死に努力してきたかを物語っている。


「もう私…」


 死んでも良いわ──その言葉は声にならなかったけど、代わりに彼の背中に腕を回して力の限り抱き締める。真っ白な頭の中で辛うじて残っている理性を頼りに声を殺してすすり泣く。


「おかえり優里」


 彼の優しい声色のせいで更に涙が止まらなくなる。おかえり、なんて私が言うべき言葉なのにどうして彼に言わせてるのだろう。あの日最悪の別れ方をしてしまったからその精算なのかもしれないけど、何れにしても私が全て悪かった。


「…ごめんね、精ちゃん」


 私は貴方のことがこんなにも好きだったのに、劣等感と無意味なプライドから強引に理屈を付けて貴方を遠ざけた。貴方だけじゃない、弦ちゃんにも全く同じことをしてしまった。あの時貴方たちが怒った理由が今になってようやく分かったの。


「Ich liebe dich(愛してる)」


 かつてメイディが私に言ってきた言葉。日課のように使っていたから嫌でも覚えてしまった。自惚れでなければ、きっと彼らも同じように思っていてくれたのだ。


「…諦めなくて良かった」


 消え入るような声でそう言った彼も泣いているのだろうか。男子にしては少し高めの奇麗な声が微かに震えているのは、今までの苦労を思い返しているからだろう。
 今の私は彼と何も分かち合えないけど、それでも今この瞬間だけは夢のような再会に心を震わせていたい。彼がもう一度立って歩いている、その奇跡をしっかりと噛み締めていたかった。





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