第八章
* * *
「兄さん、良いチームを持ったね」
電話越しに聞こえてくる優里の声は穏やかなものだった。日本に戻ってきてからというものテニスを遠ざけていた妹は、昨日関東大会の決勝を観に行ったらしい。俺がいないから行ったのか、対戦相手が立海だから行ったのかは不明だが、辛い経験をした彼女がもう一度テニスに触れようとした、その姿勢が嬉しかった。
「ああ、自慢のチームだ」
「兄さんの穴は彼らがちゃんと埋めていたわ」
「ああ、信じていた」
妹が仲間たちの話をしているのは不思議な感じがする。不二とは交流を持っているようだが、妹の口から不二について聞かれたことはなかった。それは彼女が無意識に作っている壁のようなもので、相手に必要以上に踏み込ませないための予防線だ。本人が言っていたわけではないが、一緒に暮らしていることもあって兄妹の癖というものは分かってしまう。
「お前がチームメイトの話をしてくれる日がくるとは思ってなかった」
「…そうよね、私も思ってなかった」
妹は今どんな顔をしているのだろう。穏やかな顔をしていれば良いが、彼女はなかなか複雑な子だ。
「でも、観に行って良かった。…人にはそれぞれ物語があるのよね。昨日はそれを改めて感じたの」
そう言った優里の声は普段よりも優しく聞こえた。成長と共に感情の起伏が読み取りにくくなってしまった彼女だが、心の中では色んなことを思っているのだろう。
「優里」
「なぁに?」
「兄の頼みを聞いてくれるか?」
「もちろん。何でも言って」
「可能な範囲で構わない。…青学の様子を見ておいて欲しい」
きっと妹に頼むことではない。でも、世界を見てきた彼女ならチームメイトの成長を見逃さないと思った。そして何より、妹を辛い記憶から救い出してやりたかった。あんなにテニスが好きだったのだ、もう一度ラケットを握っても良いと思って欲しい。
「分かった。毎日兄さんに報告するわ」
きっと俺の真意は伝わっていない。それでも、毎日寝る前に妹の声が聞けるのかと思うと安心する。強くあろうと頑張っている凛々しくも脆い妹が、俺のいない間に一人で苦しみはしないかと心配していた。
「よろしく頼む。…もし気になることがあれば直接言ってやっても構わない」
「それはやめとくわ。あまり目立ちたくないの」
「お前はそうやってすぐ壁を作る」
妹が小さく笑った。図星なのか、はたまた聞き流しただけなのか不明だが、きっと向こうでは気怠そうに夜空を眺めているのだろう。
「不二も大石もお前に好意的だ。声をかけたら喜ぶ」
「そうなのかなぁ」
「そうだ。…あと、どんなことでも構わない。何か困ったことがあれば頼ると良い」
東京を発つ前、その二人に妹のことを話した。二人は優里と接点があるようだから、もし何かあれば力になって欲しいと頼んでいた。以前から優里と親しくしていた不二は快く承諾してくれたが、大石は少し不安そうに頭をかいていた。
「優しいのね。…でも、私のことは気にしないで」
彼女はいつもそう言うが、少し目を離せば遠くに行ってしまいそうな危うさは未だに消えていない。半年前、人生で最も恐ろしい経験をした俺はきっとこの先も安心できない。
「…もう一つ頼みがある」
「ええ、聞くわ」
俺は小さく息を吐くと、電話を握る手に力を込めた。今までずっと言いたかったことを、今この瞬間に打ち明ける。
「俺がそっちに戻ったら、打ち合い をしよう」
「…兄さんと?」
「そうだ」
昔はよく一緒に打ち合い をしていた。妹にテニスの基本を教えたのは俺で、あの頃の俺たちにわだかまりなんてものはなく純粋にテニスを楽しんでいた。余計なことを考えずに好きに打ち合っていたあの日々があったからこそ、俺はここまで強くなれた。
しばらくの沈黙の後、優里の小さな笑い声が耳に届く。
「約束ね。…待ってるから、早く帰ってきてよ」
頬が緩むのが自分でも分かった。断られるとは思っていなかったが、こんなにも分かりやすく喜んでくれるとも思っていなかった。そして俺と同じように、妹にとってもあの日々は大切なものだったのだと認識できたことが嬉しかった。
「兄さん、良いチームを持ったね」
電話越しに聞こえてくる優里の声は穏やかなものだった。日本に戻ってきてからというものテニスを遠ざけていた妹は、昨日関東大会の決勝を観に行ったらしい。俺がいないから行ったのか、対戦相手が立海だから行ったのかは不明だが、辛い経験をした彼女がもう一度テニスに触れようとした、その姿勢が嬉しかった。
「ああ、自慢のチームだ」
「兄さんの穴は彼らがちゃんと埋めていたわ」
「ああ、信じていた」
妹が仲間たちの話をしているのは不思議な感じがする。不二とは交流を持っているようだが、妹の口から不二について聞かれたことはなかった。それは彼女が無意識に作っている壁のようなもので、相手に必要以上に踏み込ませないための予防線だ。本人が言っていたわけではないが、一緒に暮らしていることもあって兄妹の癖というものは分かってしまう。
「お前がチームメイトの話をしてくれる日がくるとは思ってなかった」
「…そうよね、私も思ってなかった」
妹は今どんな顔をしているのだろう。穏やかな顔をしていれば良いが、彼女はなかなか複雑な子だ。
「でも、観に行って良かった。…人にはそれぞれ物語があるのよね。昨日はそれを改めて感じたの」
そう言った優里の声は普段よりも優しく聞こえた。成長と共に感情の起伏が読み取りにくくなってしまった彼女だが、心の中では色んなことを思っているのだろう。
「優里」
「なぁに?」
「兄の頼みを聞いてくれるか?」
「もちろん。何でも言って」
「可能な範囲で構わない。…青学の様子を見ておいて欲しい」
きっと妹に頼むことではない。でも、世界を見てきた彼女ならチームメイトの成長を見逃さないと思った。そして何より、妹を辛い記憶から救い出してやりたかった。あんなにテニスが好きだったのだ、もう一度ラケットを握っても良いと思って欲しい。
「分かった。毎日兄さんに報告するわ」
きっと俺の真意は伝わっていない。それでも、毎日寝る前に妹の声が聞けるのかと思うと安心する。強くあろうと頑張っている凛々しくも脆い妹が、俺のいない間に一人で苦しみはしないかと心配していた。
「よろしく頼む。…もし気になることがあれば直接言ってやっても構わない」
「それはやめとくわ。あまり目立ちたくないの」
「お前はそうやってすぐ壁を作る」
妹が小さく笑った。図星なのか、はたまた聞き流しただけなのか不明だが、きっと向こうでは気怠そうに夜空を眺めているのだろう。
「不二も大石もお前に好意的だ。声をかけたら喜ぶ」
「そうなのかなぁ」
「そうだ。…あと、どんなことでも構わない。何か困ったことがあれば頼ると良い」
東京を発つ前、その二人に妹のことを話した。二人は優里と接点があるようだから、もし何かあれば力になって欲しいと頼んでいた。以前から優里と親しくしていた不二は快く承諾してくれたが、大石は少し不安そうに頭をかいていた。
「優しいのね。…でも、私のことは気にしないで」
彼女はいつもそう言うが、少し目を離せば遠くに行ってしまいそうな危うさは未だに消えていない。半年前、人生で最も恐ろしい経験をした俺はきっとこの先も安心できない。
「…もう一つ頼みがある」
「ええ、聞くわ」
俺は小さく息を吐くと、電話を握る手に力を込めた。今までずっと言いたかったことを、今この瞬間に打ち明ける。
「俺がそっちに戻ったら、
「…兄さんと?」
「そうだ」
昔はよく一緒に
しばらくの沈黙の後、優里の小さな笑い声が耳に届く。
「約束ね。…待ってるから、早く帰ってきてよ」
頬が緩むのが自分でも分かった。断られるとは思っていなかったが、こんなにも分かりやすく喜んでくれるとも思っていなかった。そして俺と同じように、妹にとってもあの日々は大切なものだったのだと認識できたことが嬉しかった。