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第七章

* * *



 幸村の見舞いの帰り道、真っ直ぐ帰る気になれなくて病院の近くを彷徨っていた。珍しく声を荒らげていた幸村を思い出しながら、張り裂けるような胸の痛みと共に見知らぬ河原を歩き続ける。


「…くそっ」


 テニスの話をしないでくれ、そう言って泣き叫んでいた友人の声が耳から離れない。無敗で帰りを待つと言ったものの、幸村の心が追いついていなかったことに気付けなかった。それが不甲斐なくてやり切れない。


「…む?」


 汗を拭うべく帽子を脱ぎ視線を上げた先に、見覚えのあるシルエットを捉えた。肩の辺りまで伸びた黒髪を風になびかせているあの人物を見るのは半年振りだ。一体こんな所で何をしているのか甚だ疑問だが、声をかけたならきっと逃げ出すだろう。
 ならば、黙ってその背中を見つめていよう。本当は声をかけて幸村の所まで引っ張って行きたいところだが、今日という今日はタイミングが悪い。さすがの幸村も、今日ばかりは会いたくないだろう。


「…真田さん」


 彼女が振り向いた。距離はそれなりに開いていたけど、彼女の凛とした声は確かに俺の耳に届いてきた。


「どうしたんですか、こんな所で」
「…いや、この近くに用があってな」
「そうですか」


 彼女が近付いてくる。昔とは打って変わり儚げな雰囲気をまとっているのは、それくらい彼女が苦労したのか、はたまた単に成長しただけなのか。


「…今日は逃げないのだな」
「逃げて欲しいんですか?」
「いや、逃げないで欲しい」


 ずっと話がしたかった。今までお前がどのような思いでいたのか、聞きたくて仕方なかった。


「あの日はごめんなさい。…取り乱しました」
「…そのようだな」
「…幸村さんの調子はどうですか?」
「…あまり良くない」


 会話が続かない。彼女の敬語に一抹の寂しさを覚えるが、それを咎める気にもなれない。
 きっと今日でなければもっとしっかり話せただろう。そんな露骨に距離を置くなと、幸村に会いに来てほしいと、半ば強引にでも言ってしまえただろう。


「手術を受けるって聞きました」
「…迷っているようだ」
「なぜ?」


 何故──。それを本人の口からは聞かなかった。否、聞けなかったのだ。他でもないあの男のことだ、恐らく医者から何か言われたのだろう。奴の心を揺らがすほどの何かを言われたのだろう。そして、その何かの正体は容易に想像がつく。


「テニスはもう無理──とでも言われたのだろう」
「…それは、辛いですね」


 小さな声でそう言った彼女の顔を盗み見る。黒髪の隙間から覗く藍色の瞳に映る悲しみの色が、今までの幸村と重なって見えた。


「…優里」


 この名前を呼ぶのも久しぶりだ。最後に会ったあの日から、彼女は何を思いどんな日々を送っていたのだろう。幸村に会いたいと思ったことは一度も無いのだろうか。


「幸村に会ってくれないか?…アイツは、お前に会いたがっている」


 あの日、彼女が立海に来ていたことを幸村に言伝えた。仁王に絡まれていたこと、幸村の消息を気にしていたこと、全てを話した。


『そっか。心配してくれてたんだね』


 そう言って嬉しそうに微笑んだ幸村の顔は今でも鮮明に思い出せる。手塚優里という少女は、神の子と呼ばれるこの男にとって掛け替えのない存在なのだと、あの時改めて思ったのだ。


「お前が来てくれれば…」
「 行かないよ」 
「…何故だ?」
「私の出る幕じゃないもの。…貴方たちが支えてあげて」
「っ…!!それができないからっ…」 
「できるでしょ。てか、貴方たちにしかできないから」


 はっきりとした口調は昔から変わっていない。あの時は生意気な奴だと思っていたが、今はそんな感情が一つも湧いてこないのだから不思議なものだ。凛とした瞳があまりにも眩しくて、とても言い返す気にはなれない。昔よりもずっと女性らしくなった彼女の顔を見つめることしかできない。


「冷静になりなよ。…弦ちゃんなら分かるはずだわ。彼が本当に必要としているのは私じゃない」
「…お前は何も分かってない。アイツがどれほどお前のことを想っているか」
「貴方だって、私がどれほど精ちゃんのこと想ってるか知らないでしょ?」


 その時、彼女は一瞬だけ微笑んだ。しかしそれは決して明るい表情ではなく、むしろ泣き笑いに近い表情だった。


「精ちゃんに伝えて。…“早く会いに来て”って」


 彼女の瞳が閉じられる。長いまつ毛が濡れて見えるのは汗のせいだろうか。それとも、彼女が一人の男を想って流した涙のせいだろうか。


「…分かった。必ず伝えよう」


 いつの間にか小さくなってしまった優里の頭に手を置く。昔はほぼ変わらなかった背丈が今はこんなにも違っていることに僅かな戸惑いを感じながらも、ずっと有耶無耶になっていた関係を少しだけ修復できたことに安堵した。




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