第五章
* * *
あれからどうやって地元に帰ってきたのだろう。いつの間にか最寄り駅に着いていて、予報でも言っていなかったはずの雨が容赦なく降り注いでいた。
『倒れたのだ、先月』
霧のかかっていた脳内で彼の声がこだまする。嫌だ嫌だ信じたくない。そんな酷いこと信じない。あの神様みたいな人が、神から愛された人が、そんな仕打ち受けるわけない。きっと私、悪い夢を見ていたんだわ。
「…そんなわけない。弦ちゃんが、嘘つくわけないもの」
そう、彼は絶対嘘がつけない。例え真実が残酷なものだとしても、絶対に隠そうとしない。真田弦一郎という男は、私なんかと違ってどこまでも真っ直ぐで強い人なのだから。
私は大きく深呼吸すると、ようやく駅の改札をくぐって外に出た。まるで私の心を代弁するかのように降り続く雨は、私の涙を綺麗に洗い流してくれるから有り難い。その調子で、あの人の病気も洗い流してくれたら良いのに──。
「…助けてよ、神様」
いつの間にか馴染みの神社に足を運んでいた私は、祠の前に跪くと手を合わせた。
「助けて下さい、お願いします…」
私じゃ何もできないから、貴方が何とかしてよ。対価が必要と言うのなら、私の全てを差し出すから。命すらも差し出すから。
「幸村精市は、こんなところで終わっちゃ駄目なんです…。未来のある人なんです…」
彼の未来を奪わないで。何も悪いことしていない、あの人の明るい未来を奪わないで。
「お願いします…」
耐えられなくたった私は、そのまま地面にうずくまると声を上げて泣いた。雨が私の声をかき消してくれるのもあって、今までに無いくらい大きな声で泣いた。
「何をっ…何を差し出せば良いの?…大好きだったテニスも捨てた、メイディの側にいることも諦めた。…これ以上をと言うのなら、命を差し出せば良いの?」
メイディのことは諦めてない。でも、己の欲望は全て捨てたことに変わりはない。私は今後もテニスはしないし、大人になるまでメイディにも会えない。
「…希望を持ってるから、駄目なの?」
いつかメイディを迎えに行くと、そう思うことが駄目だったの?私みたいな愚か者が未来を思い描くなと、そういうことだったの?
「なら、捨ててやるこんな命!」
いらない、いらない。私の未来なんて、命なんてどうでも良い。それを対価に願いが叶うのなら、迷いなく切り捨ててやる。
「…だからお願い、精ちゃんを助けて」
誰か一人をというのなら、私はきっと彼を選ぶ。わがまま言って良いのなら、兄もメイディも助けて欲しい。でも、そんなに神様優しくないでしょう?だったらお願い、私の命と引き換えに精ちゃんを助けて。彼は私の特別なの。きっと死んでも忘れない、世界で一番大事な人なの。
「さようなら、世界」
神社の敷地内、寂しい高台から見下ろす景色は綺麗なものだ。昔、兄さんとここに来たっけ。まだ私たち、仲が良かった頃だよね。
「ごめんね兄さん…」
貴方は優しいから、きっと悲しんでくれるでしょう。でも、悲しむことなんて無いのよ?だって私、悪い子だったじゃない。貴方に嫉妬してばかりの、救いようのないクズだったじゃない。
「早く、こうすれば良かった…」
私は目を閉じると、ゆっくり前へと歩を進める。きっとあと一歩で落ちていける、そう思った時、私の耳を劈くような男の声が響き渡った。
「やめろ優里!!」
「…兄さん」
「やめてくれ!!」
私が下に落ちるのと、兄が私の腕を掴んだのはほぼ同時だった。ただほんの少しだけ、兄の方が早かった。だから私は彼に引き戻される。恐怖なんて何も無いのに、いつの間にか兄の腕の中に収まっていた。
「優里…。やめてくれ、こんなこと」
「…だって、精ちゃんが」
「こんなことしても何も変わらない!」
「…そうかもしれないけど、願掛けにはなるでしょう?」
「そんな願掛けが何になる!!」
兄の腕に力がこもる。兄はこんなに力が強かったのかと、はっきりしない感覚の中で思っていた。
「幸村は、必ず戻ってくる」
「…なら、兄さんの怪我はいつ治る?」
「必ず、治してみせる」
「…いつなの?」
頭が痛い。もはや自分が何を言っているのかも分からない。自分が誰を思っているのかも分からない。ただ、私の大切な人が次から次へと消えていく、そんな世界が恐ろしくて仕方なかった。
「どうして…、どうして私の大切な人はいつも不幸になるの?」
私が悪い子だからなの?私が兄を妬むような悪い子だったから、神様は私に罰を与えたの?でも、だったら私の命を取れば良かった。関係ない人を巻き込む必要なんてなかったはず。
「 …兄さんや精ちゃんだけじゃない。私のことひたすらに想ってくれていた親友も、未来を奪われたの」
ベッドで身動きを取らないメイディの姿が脳裏をかすめる。あんなに真っ直ぐで良い子だったのに、私のせいで目を覚まさない。こんなの、偶然で起こるような事象じゃないでしょう?
「…こんな世界、耐えられない」
大好きな人たちが消えていく世界で生きていたくない。私一人、例えどんなに優れていようとも意味がない。愛する人がいない世界に意味なんてない。
「…優里。お前がいてくれるだけで、俺の世界に色が付く。お前は俺の生きる希望だ」
兄の声が聞こえる。あんなに酷い態度を取ったのに、彼はどこまでも優しい人だ。謝っても許されるようなことじゃないのに、私の全てを受け止めてくれる。
「だから、諦めないでくれ。…俺のことも幸村のことも、ドイツの親友のことも諦めないでくれ」
私を抱きしめる腕の力が更に強まる。正気だったら痛くて抵抗してるであろう力加減だけど、色々麻痺した今の状態ではひたすら温かいだけだった。
「…助けて下さい、お願いします」
きっとこれが、最初で最後の神頼み。私の大切な人たち、全員を助けて下さい。兄さんも精ちゃんもメイディも、皆みんな助けて下さい。
あれからどうやって地元に帰ってきたのだろう。いつの間にか最寄り駅に着いていて、予報でも言っていなかったはずの雨が容赦なく降り注いでいた。
『倒れたのだ、先月』
霧のかかっていた脳内で彼の声がこだまする。嫌だ嫌だ信じたくない。そんな酷いこと信じない。あの神様みたいな人が、神から愛された人が、そんな仕打ち受けるわけない。きっと私、悪い夢を見ていたんだわ。
「…そんなわけない。弦ちゃんが、嘘つくわけないもの」
そう、彼は絶対嘘がつけない。例え真実が残酷なものだとしても、絶対に隠そうとしない。真田弦一郎という男は、私なんかと違ってどこまでも真っ直ぐで強い人なのだから。
私は大きく深呼吸すると、ようやく駅の改札をくぐって外に出た。まるで私の心を代弁するかのように降り続く雨は、私の涙を綺麗に洗い流してくれるから有り難い。その調子で、あの人の病気も洗い流してくれたら良いのに──。
「…助けてよ、神様」
いつの間にか馴染みの神社に足を運んでいた私は、祠の前に跪くと手を合わせた。
「助けて下さい、お願いします…」
私じゃ何もできないから、貴方が何とかしてよ。対価が必要と言うのなら、私の全てを差し出すから。命すらも差し出すから。
「幸村精市は、こんなところで終わっちゃ駄目なんです…。未来のある人なんです…」
彼の未来を奪わないで。何も悪いことしていない、あの人の明るい未来を奪わないで。
「お願いします…」
耐えられなくたった私は、そのまま地面にうずくまると声を上げて泣いた。雨が私の声をかき消してくれるのもあって、今までに無いくらい大きな声で泣いた。
「何をっ…何を差し出せば良いの?…大好きだったテニスも捨てた、メイディの側にいることも諦めた。…これ以上をと言うのなら、命を差し出せば良いの?」
メイディのことは諦めてない。でも、己の欲望は全て捨てたことに変わりはない。私は今後もテニスはしないし、大人になるまでメイディにも会えない。
「…希望を持ってるから、駄目なの?」
いつかメイディを迎えに行くと、そう思うことが駄目だったの?私みたいな愚か者が未来を思い描くなと、そういうことだったの?
「なら、捨ててやるこんな命!」
いらない、いらない。私の未来なんて、命なんてどうでも良い。それを対価に願いが叶うのなら、迷いなく切り捨ててやる。
「…だからお願い、精ちゃんを助けて」
誰か一人をというのなら、私はきっと彼を選ぶ。わがまま言って良いのなら、兄もメイディも助けて欲しい。でも、そんなに神様優しくないでしょう?だったらお願い、私の命と引き換えに精ちゃんを助けて。彼は私の特別なの。きっと死んでも忘れない、世界で一番大事な人なの。
「さようなら、世界」
神社の敷地内、寂しい高台から見下ろす景色は綺麗なものだ。昔、兄さんとここに来たっけ。まだ私たち、仲が良かった頃だよね。
「ごめんね兄さん…」
貴方は優しいから、きっと悲しんでくれるでしょう。でも、悲しむことなんて無いのよ?だって私、悪い子だったじゃない。貴方に嫉妬してばかりの、救いようのないクズだったじゃない。
「早く、こうすれば良かった…」
私は目を閉じると、ゆっくり前へと歩を進める。きっとあと一歩で落ちていける、そう思った時、私の耳を劈くような男の声が響き渡った。
「やめろ優里!!」
「…兄さん」
「やめてくれ!!」
私が下に落ちるのと、兄が私の腕を掴んだのはほぼ同時だった。ただほんの少しだけ、兄の方が早かった。だから私は彼に引き戻される。恐怖なんて何も無いのに、いつの間にか兄の腕の中に収まっていた。
「優里…。やめてくれ、こんなこと」
「…だって、精ちゃんが」
「こんなことしても何も変わらない!」
「…そうかもしれないけど、願掛けにはなるでしょう?」
「そんな願掛けが何になる!!」
兄の腕に力がこもる。兄はこんなに力が強かったのかと、はっきりしない感覚の中で思っていた。
「幸村は、必ず戻ってくる」
「…なら、兄さんの怪我はいつ治る?」
「必ず、治してみせる」
「…いつなの?」
頭が痛い。もはや自分が何を言っているのかも分からない。自分が誰を思っているのかも分からない。ただ、私の大切な人が次から次へと消えていく、そんな世界が恐ろしくて仕方なかった。
「どうして…、どうして私の大切な人はいつも不幸になるの?」
私が悪い子だからなの?私が兄を妬むような悪い子だったから、神様は私に罰を与えたの?でも、だったら私の命を取れば良かった。関係ない人を巻き込む必要なんてなかったはず。
「 …兄さんや精ちゃんだけじゃない。私のことひたすらに想ってくれていた親友も、未来を奪われたの」
ベッドで身動きを取らないメイディの姿が脳裏をかすめる。あんなに真っ直ぐで良い子だったのに、私のせいで目を覚まさない。こんなの、偶然で起こるような事象じゃないでしょう?
「…こんな世界、耐えられない」
大好きな人たちが消えていく世界で生きていたくない。私一人、例えどんなに優れていようとも意味がない。愛する人がいない世界に意味なんてない。
「…優里。お前がいてくれるだけで、俺の世界に色が付く。お前は俺の生きる希望だ」
兄の声が聞こえる。あんなに酷い態度を取ったのに、彼はどこまでも優しい人だ。謝っても許されるようなことじゃないのに、私の全てを受け止めてくれる。
「だから、諦めないでくれ。…俺のことも幸村のことも、ドイツの親友のことも諦めないでくれ」
私を抱きしめる腕の力が更に強まる。正気だったら痛くて抵抗してるであろう力加減だけど、色々麻痺した今の状態ではひたすら温かいだけだった。
「…助けて下さい、お願いします」
きっとこれが、最初で最後の神頼み。私の大切な人たち、全員を助けて下さい。兄さんも精ちゃんもメイディも、皆みんな助けて下さい。