第一章

* * *



 それからというもの、私は兄を避け続けた。家でも兄と会わないようにわざと食事の時間をずらしたり、家を出る時間をずらしたりした。兄の後を追って入ったテニススクールも辞めて、別のスクールに移動した。
 最初は何か言いたげだった兄も、私のあまりにも露骨な態度に諦めたのか特に干渉しようとする様子を見せなくなった。安堵と同時にほんの少しの寂しさを感じたが、全て私が望んだ結末だからと声高らかに笑ってみせた。


「あっはははは!!…スッキリした。ざまぁみろ」


 今日はなんて気分が良いの。ずっと身体にのしかかっていた鉛が勢いよく崩れ落ちて、空も飛べてしまいそう。
 でも、今の私はさぞかし歪んだ顔をしているのだろう。どんなにうるさく笑ってみても、兄の物悲しげな背中が脳裏にこびり付いて離れない。私は間違ったことをしたと、分かっているからこそ辛かった。


「あ〜あ…。消えてしまいたいなぁ」
「あれ…?もしかして聞いちゃいけないこと聞いちゃった?」


 突然背後から聞こえてきた声に飛び上がる。実際には飛び上がってなどいないけど、空高く飛んでいきそうなくらいには驚いた。
 聞き慣れないその声は、同い年くらいの女の子のものだろうか。恐る恐る振り返った私の瞳に飛び込んできたのは、優しい雰囲気の男の子と、険しい表情をした男の子の姿だった。


「…誰?」
「人に名前を聞くのなら自分から先に名乗るのが礼儀だ」 
「…は?先に声かけてきたのはそっちでしょ?」
「礼儀のなってないガキだな。たるんどる!!」
「まぁまぁ、やめなよ。彼女の言うとおりだ、僕たちが先に名乗るべきだよ」
「むぅっ…しかし!」
「僕は幸村精市。こっちは幼馴染みの真田弦一郎。僕たち二人とも君と同じクラスだよ。よろしくね」


 幸村精市と名乗った男の子は、人の良い笑みを浮かべると私に手を差し伸べた。握手を求められていることはすぐに分かったが、その手を取る気にはなれない。


「それはどうも。手塚優里てづかゆうりです、よろしくね」


 私はこれでもかと言うくらい早口で言い放つと、足元に置いていたテニスバッグを掴んで彼らの横を通り過ぎた。


「なっ…!おい貴様!!せっかく話しかけてやったのに無礼だぞ!」
「そんなこと誰も頼んでないから!」


 むしろ話しかけてこないでくれ。私はここで誰かと宜しくする気なんて微塵もない。誰と戯れることもなく、己の実力だけを磨いてみせる。


「…そうよ。私はここで、あの人より強くなってやるんだから」


 ようやく兄から離れられたの。両親に頭を下げて許してもらったの。誰も私を知らないこの地で、迷いも甘えも全部捨てて一からやり直してみせるんだ。必ず兄以上のテニスプレイヤーになって、両親に認めてもらうんだから。




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