第四章

* * *



 彼女の香りが鼻をかすめる。昔と少しも変わっていない、甘くて優しい花の蜜のような彼女の香り。


「さよならってどういうこと?」
「そのままだよ。二人とはもう会わない。今日が最後」
「なんで?またどこか遠くに行くのかい?」
「行かないよ」
「なら、また会えるだろう?」
「会う意味がないじゃない」


 その瞬間、頭をバッドで殴り付けられたような衝撃を受けた。本当にこの子にとって、俺たちはその程度の存在だったんだ。


「お前…よくもそんなことが言えるな!しかも本人たちの前で!無礼にも程があるぞ!!」
「なんで怒るの?そんな悪いこと言った?」
「言ったよ」


 真田の大声に怯む様子も見せず無垢な表情で首を傾げた彼女の手首を掴む。時の流れとは残酷なものだ、1年前は俺たちと然程変わらなかったはずの彼女の腕が、今はとても細く小さく弱々しい。


「黙ってドイツに行かれた時も思ったけど…君って本当に人の心が無いよね」
「…そのことは、ごめん」
「そのことって、じゃあ今回のことはどうなんだ?もう俺たちと会う意味がないって、それ本当に思ってるなら最低だね」


 確かに、あの時と状況は変わってるから以前みたいに会うことは無いだろうけど。学校も違うから普通にしてたら会うことは無いだろうけど。でも、共に過ごしたあの2年は君にとって何だったんだ?初めての友達って、そんなに簡単に終わりにできる関係だったのかい?


「君にとって、俺は一時の都合の良い人間だったんだね」
「違う!…なんでそうなるの」
「君が言ってることってそういうことだよ」


 ああ、腹が立つ。俺はこの1年半君のことを忘れたことはなかったのに、君はいとも簡単に忘れてたんだね。きっと今日も、俺たちに会おうと思って来たわけじゃないんだろう?


「なら、言い方を変える。私はもうテニス辞めたから、貴方たちとの繫がりがなくなった。…もう、貴方たちの隣に立つ理由が無いの!!」


 ずっと崩れることのなかった彼女の顔がくしゃりと歪んで、藍色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 突然の涙に驚いた俺は、咄嗟に掴んでいた手の力を緩めてしまった。もう勝手に遠くへは行かせない、そんな思いで強く掴んでいた彼女の手首を離してしまった。


「優里…!!」


 遠ざかっていく彼女の名前を叫ぶ。本気で走れば追いつけるかもしれないけど、金縛りにあったみたいに体が動かない。
 ごめん、ごめん。泣かすつもりはなかったんだ。ただ、会いたかっただけなんだ。今日が最後なんかじゃなくて、次も会えると言って欲しかっただけなんだ。


「幸村…」


 それまで黙っていた真田が俺の名前を呼ぶ。珍しく空気が読めたのか、はたまた何を言って良いのか分からなかったのか、俺と優里の言い合いを彼は静かに見守っていた。


「奴にも色々あったのだろう。…泣くほど辛いことがあったのかもしれん」
「…そうだね」


 テニスを辞めたって言ってたね。理由を言わなかったから、きっと何かあったんだろう。
 思えば彼女は、昔から自分のことを語りたがらない子だった。




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