第二章

◇◇◇ 第二章 ◇◇◇




 ドイツでの日々は充実していた。日本人学校に通いながらドイツ人と共にテニスの練習をする日々は忙しくて、出発前はあんなにも邪念で満ちていた心がいつの間にか澄んでいた。やはり忘れるためには多忙な日々が一番だ。日本の友達のことも兄のことも、全て忘れてひたすら目の前の練習だけをこなしていた。


「ユウリっていつも凄い集中力だよね」
「別に普通だよ」
「でもあまり楽しそうじゃないなぁ」


 練習が終わって宿舎に帰る途中、こちらで比較的仲良くしている女の子がポツリと呟いた。金髪に澄んだ青色の瞳が綺麗な彼女の名前は“メイディーナ・ジークフリート“──私と同い年のドイツ人だ。


「楽しくないのは当たり前でしょ。強くなるための特訓に楽しさを求めるなんておかしな話じゃない」
「ええ〜‼︎ユウリってそういう考え方なの⁉︎」
「皆そうでしょ」


 一体この子は何を言っているんだろう。このスクールに通う子は皆将来プロになる素質の子ばかりで、彼女ももれなくそのうちの一人だ。それどころか、彼女はドイツのjrトーナメント戦でNo.1の実力を誇る素晴らしい選手のはず。それ相応の厳しい練習はしてきただろうに、楽しいとか楽しくないとかそんな不毛なこと言うなんてどういうこと?


「あのねぇユウリ…。練習も試合も、楽しくなかったら意味ないよ」
「…それは勝ち組の台詞だね」


 なるほど分かった。この子はきっと、挫折を味わったことが無いんだ。努力すれば必ず報われて、周りもその努力と成果を認めてくれる──そんな恵まれた世界で育ってきたんだ。


「私みたいな落ちこぼれは、そんな贅沢なこと言ってられないんだよ」
「ユウリのどこが落ちこぼれなの?」
「全部」


 怪訝そうに眉をひそめる彼女を横目に、私は小さなため息をついた。彼女に自分のことを分かって欲しいなんて思いは微塵もないけど、せっかく忘れていた苦い感情が蘇ってきて気分が悪い。


「なんでそんなに悲観的なの?」
「悲観的とかじゃない、事実なの」
「落ちこぼれだったら日本からドイツに留学なんてあり得ないよ。…しかもその歳で」
「一番認めて欲しい人に認めて貰えなきゃ意味が無い。…追いつきたい人に追いつけないと、どこにいても何をしても意味ないのよ」


 言ってしまってから思わず自分の口を押さえた。私は何を言っているのだろう。せっかくドイツに来させて貰ったのに、なんて恩知らずで無責任なことを言っているのだろう。思うだけでも駄目なのに、声に出すなんてもっての外だ。しかも本気でプロを目指している人の前で…。


「ユウリはテニス、好き?」
「え?」


 思わず間抜けな声が出てしまった。さすがに気を悪くさせたかと思っていたのに、大して気にする様子を見せず脈略のない質問を繰り出してきた彼女に戸惑いを隠せない。


「どうなの?好き?」


 青い瞳が真っ直ぐに私を見つめる。そこに映る私は明らかに動揺していて、その瞳は彼女の物とは正反対に黒く澱んでいる。


「…分からない」


 咄嗟に彼女から目を逸らした。彼女の質問に良い返答ができない自分が、滑稽で醜い自分が、嫌で嫌で仕方ない。


「そっかぁ…」


 少し悲しそうな声でそう言うと、彼女も私から目を逸らして同じ方向を向く。彼女がどんな顔をしているのか確かめたいけど、恐ろしくて目を向けることができない。日本人である私を唯一気にかけてくれる優しい彼女に不快な思いをさせた、その事実に罪悪感が止まらない。


「私はね、テニスだーい好き!」
「は?」


 また変な声が出てしまった。私の予想を尽く裏切って訳の分からない発言を繰り返す彼女に目が回る。一体彼女は何が言いたいんだ?


「小さい頃からずっと好き!お兄ちゃんを真似て始めたんだけど、始める前からずっと好きだったの!」
「はぁ…」
「ユウリもそうだったんじゃないの?」


 ドクンと心臓が大きく波打つ。彼女の青い瞳に映るのは醜い私のはずなのに、何故かその奥に小さな女の子の姿が見える。あれは昔の私だ──そう思った時、彼女の両手が私の肩を優しく掴んだ。


「私ね、ユウリに一目惚れしたの」
「は?」
「動きに一つも無駄がない、技も必ず決める。そんな貴方の綺麗なテニスに一目惚れした」
「…」
「でもそれと同時に惜しいなと思ったの。真剣にプレイするのは良いことなんだけど、貴方全然楽しそうじゃなかったから」


 そりゃそうでしょ。だって私、必死だったんだから。とにかくここで成果を残さないと意味が無いって、ただそれしか考えてなかったんだから。


「だからね、私がこの子の足りない部分を補ってあげようと思ったの!」


 思わず目を見張る。彼女の思惑が理解できなくて、彼女の無駄な明るさについていけなくて、ニ三歩後ろに下がってしまう。でも彼女はそんな私に構うことなく距離を詰めてくる。テレビにも出れてしまいそうなほど整った顔が間近に迫ってきてパニックになった私は、何故か咄嗟に目を瞑ってしまった。


「私が絶対、テニスの楽しさを思い出させてあげる」


 先ほどまでの明るさが嘘のように静かな声が聞こえたかと思えば、唇に何か生暖かい感触を覚えて勢いよく目を開いた。


「…あんた、今何した?」
「え?誓いのキスだけど?」
「…なんで?」
「ユウリが目を閉じたから、良いのかなと思って」
「良いわけないだろうが‼︎」


 叫びと共に彼女の頬を引っ叩いた私は、全速力で宿舎に向かった。ファーストキスなんてそんな洒落たこと気にしとこともないけど、嫌だとか気持ち悪いとか微塵も思わない自分が気持ち悪くて仕方ない。変な意味は無いにしても、あの子に好意を向けられていたことに喜びを感じている自分が心底気持ち悪い。


「…最低」


 本当に私って救いようの無い人間ね。一番認めて欲しい人なんて、本当は最初からいないんじゃない。精ちゃんたちの時もそうだけど、結局私は認めてくれるなら誰でも良かったんだわ。私を兄と比べない、私を私として見てくれる人がいればそれで良かったんだわ。




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