B.J / 短編
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Savina
ひどい雨だった。そう始まるお話しがロクな結末を迎える事が無いことも、まして話しとして面白くない方が多いことも知っている。それでも、ブラック・ジャックはあの女の事を思い出すたびに、「あれはひどい雨の日だった」と繰り返し枕詞に付けてしまった。
「───…… 、」
「気がついたかい」
目を開けた女を覗き込む。ずぶ濡れの髪の下にタオルを重ね、部屋を温めるためストーブを2つも焚いている。
「痛い……」
「少し我慢しなさい。これ以上鎮痛剤は打てない」
第一声に「痛い」と伝えてきた女にブラック・ジャックはため息をついた。「ここはどこ?」とか「あなたはだれ?」とも言わず、ただ「痛い」と。落ち着いているのか弱り切っているのか…… 女は全身に及ぶ打撲や擦り傷に呻いた。
「君の名前は?」
「……雨女」
落ち着くのを待ってから、ブラック・ジャックはカルテにペンを走らせる。だが名前を聞いて返された言葉に、顰めた顔を上げて女を見た。
「あのねぇ、」
「……本当よ。すごい雨女なの……」
空虚を見つめてまたそう呟く。まあそれでもいいかとブラック・ジャックがペンを走らせようとしたとき、女は小さく笑った。
「みょうじ……みょうじ なまえ。」
「素直に教えてくれて感謝するよ。…みょうじ なまえね。」
とりあえず字は聞かない。カタカナで書き込むと生年月日や、念のため自認識している血液型なども聞く。
「───わかった。じゃあ、この辺の住まいかい?」
なまえはぼんやりとブラック・ジャックを見上げる。ブラック・ジャックもその空虚な目には覚えがあった。だからすぐに分かってしまった。
彼女は死を望む人間なのだと。
県境を超えたS県、H市。ブラック・ジャックは社会福祉法人が経営するS病院でのオペを済ませた帰路にあった。
季節外れの連日の雨で通行止めになった高速を下りて、ブラック・ジャックは峠と山の峰を3つも越える下道を走る。別段急いでいたわけではないが、ピノコからの癇癪めいた電話攻撃にせっつかれての事だ。そうでなければ、苔生して濡れた山道を走りたいとは思わない。
まだ14時だというのに日が沈んでいるように暗い。小石でも当たっているのかというほどの雨音が車の天井越しにブラック・ジャックの頭を叩く。せめて郊外の街まで出なければという焦りの中でカーブした道を抜けた時、軽トラックが停車しているのを見て急ブレーキを踏んだ。
「危ないじゃないですか、どうしたんです」
軽トラックの運転手だろうか、農協の帽子を被った地元民らしき老人がブラック・ジャックの車に駆け寄る。雨が振り込まない程度に窓を少し下ろしてそう尋ねれば、老人は酷く焦燥した様子で窓に飛びついた。
「ア、あぁ、娘っこ! 娘っこン飛び出しよって轢ィちまったでや!!! アンタ電話持っとらんけ?! ここいらァ住んどる集 らアおらんでの!」
「! ちょっと見せてください」
ハザードランプを点け車を降りる。途端に全身を叩きつける雨と一緒に爺さんと駆け出し、軽トラックを横切って比較的雨が当たらない山側の脇道に行けば、打ちつけのコンクリートに背を預けた女がひとり、そこにいた。
「俺ン力じゃ持ち上げてやれねくて、すまんこって……」
爺さんが泣きそうな顔で、もう伸ばせなくなった指で必死に手を合わせる。女の体に掛けてやってある古い上着がこの老人のものだろうと察したが、ブラック・ジャックは一先ず女を抱き上げると自分の車の後部座席に乗せた。
トランクから医療鞄を持ち出し、応急処置を施していく。
「あれなんでぇ、お医者さんけ」
有り難そうに手を合わせる老人を落ち着かせ、ブラック・ジャックは事故が起きた時間や、時速何キロで走っていたかなどを聞いた。女は体温34.7度、血圧はギリギリ正常の範囲内。触診や視診から、大した怪我や致命傷になりそうなものはない。だが全身に及ぶ大小様々な打撲や擦り傷は、時速40キロも出していない車と衝突したくらいでこんなに付くものでは無かった。
「すみませんが、ここから一番近い診療所などはありますか」
なまえという女はここから30キロほど離れたバス停で降り、ただフラフラと歩いてここまで来てしまったと語った。それも、この診療所がある集落からさらに山を2つ越えたところに標高300メートルほどの山があり、その山の一番陽の当たる場所にあった祖母の家を目指していたと言う。
「なんでェ、アンタT村ンとこのみょうじの孫か。“どれ”の孫だァ」
薪ストーブを見ていた爺さんが驚いて立ち上がると、帽子を脱いで畏る。その反応に違和感を覚えたブラック・ジャックの横でなまえは起き上がり、その顔を爺さんに向けた。
「……ヨシコが私の祖母です。一番上の、……みょうじの家があった場所、ご存知なんですね?」
体を起こしたなまえの肩に手をやり、ブラック・ジャックは顔をしかめる。
「もう少し横になっていなさい。雨が止むまではどのみち出られないんだ」
「……」
山間を這うように広がる集落。僅かな平地には棚田が続き、それを囲うように民家が並んでいる。山そのものを御神体とした神社から川を挟んだ麓、樹齢600年ほどの大銀杏からほど近いところに小さな公民館と並んでその診療所はあった。
設備といえば大きな体重計や身体測定器に、電球の切れたシャウカステン。医療用品も薬品も、とてもじゃないが整っているとは言えない所だ。爺さんによれば、週に一度だけ郊外の医者がやって来るのだと言う。
「T村というのは」
「ア、エエ…… こっから西ィ山ン登ったとこで、ハァ住んでる集 らなんておらんだに、わざわざねぇ……」
半開きにしたドアの向こうで眠るなまえをその老人は繁々と見つめた。
「もともとァこの村と“くに”が違ってな。T村ァ平安時代からあるけぇが、S村は450年くらい前に出来たとこでコッチのが新しい方だわ。昔っからアッチがMの国、コッチがT国。それが明治っから県が一緒になり、群が一緒になり、住所じゃァ村ン名前も一緒になり。たまたまコッチの村ン方が市街地に近いけぇ、T村ァ廃れてったのよ。」
薪ストーブの灰を掻き出しながら、ただその炎を見ていた。老人は火箸で灰掻き蓋を閉めて手を擦り合わせる。長年の厳しい農作業によるものだろう、伸ばせなくなった指を重ねる姿がその苦労を伺わせた。
「お医者サン、タバコ一服いいかいね」
「……」
「へへ、ハァ年 だで生い先短いもんだ。やめろってバアさんにも言われてたけえが、他に楽しみァ無いだもんでからに」
そう言って短い煙管を取り出すとその先に普通の紙巻きタバコを差し込む。いつもなら顔を顰めるところだが、ブラック・ジャックは黙って老人がマッチを擦る音を聞いた。
プふ───と煙を吐き出してから、老人はポツポツとまた口を開く。
「……T村にゃァ昔な、高貴なお家柄の若様がお立ち寄りンなって、観音堂にお笛を納めなさった。ホラ、国営放送の大河ドラマでそれをやってね、一時期は観光地でも盛り上がったことだってあった。
みょうじの本家サンはな、年に一度その観音堂でやる舞踊の奉納で“トリ”を受け持つ家だった。ハァこの村で知らんヤツァおらんよ、あの娘ンからしたら大叔父だな。俺 ン代の頃あの家ン後継だった“コーイチ”さん が、観光で来てたヨソの若い娘とデキちまってから……アン家 ァ“運”が尽きたのさ」
コーイッサの先代ァ“アサオ”さん言うてな、戦争終わって男ン居ない時代に、そりゃア身分が違うっちゅうほどンイイ家から若い嫁サン貰って、コッチの村までそのウワサ話しが聞こえてくるほどだった。
ただ気性の荒い人でな、女は黙って言うこと聞かにゃならん時代に育ってんだ。嫁さんにも娘サンらにもよぉけ乱暴してたよ。可哀想にナァ、舞踊の奉納は男しか立っちゃいかんモンで、 8人も子供産んだって女しか出てこんって、嫁さんは特によぉけいびられとった。
俺 ンまだ小学校上がる前だ、一番上のヨッコチャンが4番目の子守りしながら学校通っとったよ。山ァ越えて、峠を2つも降りちゃあ晩メシの手伝いに間に合うよォにまた山ァ登ってくんだわ。1歳の子ォ毎日おぶさって、2番目3番目の妹らが駄々こねりゃ鞄持ってやって、妹が増えりゃァ増えた分だけご飯の取り分減って、妹らがひもじい思いせんようにってアケビやらヤマモモやら取りながら、毎日毎日、山ぁ降りちゃあまた登ってったよ。
ほんでも可哀想になァ、4番目の子ァ3つになる前にちょっとした風邪で取られちまって、2番目の子ァ雪の日にアサオさんから折檻されたンがきいちまって、肺炎起こして……あっけなかったよ。8番目に生まれたんがまた女の子だでってスグ嫁さん実家 ェ養子に出されて、ソッチでどうなったか、なんて名前つけられたかもハァちっとも知らされなかったそうだ。
嫁さんもそりゃあ頑張って9人目産んでな、やっと男の子だ。コーイッサァだけはよぉけ可愛がられてたよ。ヨッコチャンは中学には行かしてもらえんでな、あン頃ァそこの大銀杏までバスが通っとって、毎朝また妹らおぶさって学校送って、バスで町ィ出てあくせく働いて、男ン生まれてあとは放っぽり出すだけんなった妹らの食いブチ、みーんなヨッコちぉんが稼いで帰って来て、……そいでもお給金はアサオさんのものだ。女は文句言っちゃいけねぇって、2番目の子死んでよーくわかってっから。薄い粥だ、芋の炊いたヤツだ、そんなのしか妹らに食べさせてやれん。悔しかったろうなァ、辛かったろうなァ、でも村ン衆もヨソに口は出せんで、俺ン親も黙って見てたよ。
下の子らはドンドン大きくなったけど、ヨッコチャンはいつまでも背ン伸びンかったなぁ。……きょうだいで一番小さかったよ。家ン中まじゃあ知らんが、自分の分まで下の子らに食わしとったんだろう。下の妹らはみんなしてヨッコチャンに頭が上がらんて、最後にきょうだいが揃ったのは─── ハァ10年も前か、アサオさんの葬式だったなァ。そりゃあ5人姉妹、仲良さそうにみんなしてヨッコチャンの手、引いてたよ。自分らが昔ヨッコチャンにしてもらったの、やっとしてやれるってね。
ヨッコチャンは17で嫁ェ出されてね。苦労してきただけに、最後はいい人紹介してもらえて村ァ出て行ったよ。そんでも心残りだったろうねぇ、一番下のハナチャンは14も離れてるもんで、ヨッコチャン、バス乗るまでずっとおんぶしてあげて。ほんとヨォできたお姉さんだった。
煙管から吸い終わったタバコを抜き取り、薪ストーブの中へ放り込む。
「それがねぇ、あのヨッコチャンの孫かい。まさか車でぶつけちまうたァ……」
悔いるように口元を覆い撫でる老人をブラック・ジャックは視界の端に捉えるだけで、ただドアの隙間で横になっているなまえを眺めた。
「その家はどうなったんです」
老人は「あ、ああ……」と言い淀んでから目を伏せる。その仕草からロクな結末でないことだけは察することができた。
「……もぅ無いよ。村ごと廃れっちまった。女を蔑ろにした報いだろうって囁くヤツもいたね」
ストーブの中の火がタバコの吸殻を包み、薪の上でフィルターを巻いていた紙がオレンジ色のフチを広げては消えていく。燃え残ったフィルターだけが燃えず、ただ黒く焦げるだけだ。
「コーイッサァも酒飲みで、女運が無かった。1人目ァ離婚されちまって、跡取り息子も持ってかれて。アサオさんがよぉけ怒ってたけどなァ、もう時代が変わってたよ。結局そのあと3人嫁さんもらって、どれも長続きしなかった。
息子もいたけど東京出ちまって、アサオさんの葬式にだって帰って来ンかったよ。ある嫁さんには家財具みんな持って逃げられて、ある嫁さんにゃ連れ子の面倒だけ押し付けられて、ついに体壊しちまって、お堂への奉納舞踊ができなかった年だってあった。それからだわ、あの家が傾き出したのは。
アサオさんが脳卒中 っちまってな、ハァボケてずっと入院して、よぉけ苦しんで死んでったよ。そいでも立派な葬式あげてもらって、ウン十年ぶりにきょうだい揃って。良かったよ、5人の姉妹が旦那さん連れて心置きなく遊びに来るようになって、アサオの嫁さんも孫だひ孫だに囲まれて。アサオさんが死んだちょうど1年後くらいに、病気しないでポックリ逝っちまったんだ。
アサオさん居なくなって、ハァ肩の荷が下りてたんだろうねェ。ヨッコちゃんが娘と孫連れて来た時ァ、可愛い可愛いって曲がった腰でひ孫のあと追って歩き回ってたよ。
そうかァ、あん時ンひ孫かァ。今ン子供っちゃあ背ェ伸びるんが早いわ。今ごろアサオの嫁さんが、墓ン中で俺ン事に怒ってるだろぅナァ」
雨音が弱まり出していた。時刻は17時近く。山地の日没は早い。
「汚ェトコだが、バアさんのメシと風呂ぐれぇはあるで、今日は俺ン家 へ泊まったらいい。ちょっと公民館行って、公衆電話借りて来るで」
「話せるかい」
老人が出て行ったのを見送ったあと、ブラック・ジャックはベッド代わりの処置台へ寝かせたなまえを覗き込んだ。スッと目を開けた彼女に、ずっと起きていたのだろうとため息を漏らす。
「どうしてこんな所へ来たのか、教えてくれるね」
なるべく優しい声色で静かにそう言うと、遠い過去を眺めているようななまえの目がやっとブラック・ジャックに向けられた。
「私に、もう家族は居ないんです」
押し殺していた感情を吹き出すように顔をグシャリと歪め、堪えていただろう涙を溢す。ブラック・ジャックはゆっくりとその頭を撫でた。
「車の事故でした。私は東京に出て働いていていて─── 突然、全て無くしてしまいました。なにもメモとかしてなくて、祖母のきょうだいも、祖父の実家も聞いてなくて、母も私も一人っ子で。父は幼い頃に亡くしてて…… 私が覚えていたのは、この山の景色と、山の上にあった祖母の実家の事だけでした。記憶にある限り振り絞って、地図でこの村を見つけたんです。バスで来られるだけ来て、……歩いてきました。」
「その怪我は?」
「……道に迷って。私、ひどい雨女で。バスを降りた途端雨が降ってきて…… 転んだり、滑り落ちたりして、気がついたら車道に飛び出してました。
───死にに来たんです、私。山の上に崖でも見つけて飛び降りたいって思って。だけど今は後悔しています。祖母のこと、聞けて良かった。いつもニコニコして、元気な姿しか知らなかったから。幾つになっても足腰が丈夫で…… そんな苦労があったからだったんですね」
診療所のドアを開けて老人が戻ってきた。
「先生! バアさんが風呂沸かして布団出しときますってんでェ」
診察室に顔を出した老人は、なまえを見るなり笑顔で駆け寄った。
「アレ! もう起きれるだか! どっか痛くねぇか?」
「えっ…… ええ。ごめんなさい、私……」
「すまんかったな、俺ンも前ちゃんと見とらんかったで。ちゃんと保険屋サンに電話するでね」
「いえ! そ、そんな」
ブラック・ジャックは医療鞄を片付けると、カルテを老人に渡した。
「明日、天気が良くなったら彼女をちゃんとした病院に連れて行って下さい。このカルテを渡せば、診断書も出してくれるでしょう。」
「あれ、先生は……」
「私は帰ります。……彼女はいま、帰る家がないんです。もし宜しければ、少しの間だけでも面倒をみてやって貰えませんか。」
驚いて声も出せないなまえを見て、老人はニッコリと笑った。
「なんだい、それくらい大丈夫だで。家 ァ子供が出来んかったもんで、こんな可愛い娘さん来たらバアさんも喜ぶわな」
それにみょうじさん家のひ孫なら大事に持て成さにゃバチ当たらァね、と帽子を被り直す老人に、ブラック・ジャックは「彼女はもう大丈夫だろう」、そう安心して診療所を出る。
雨は上がっていた。あの海沿いの家に、私には私の家族が待っている。
ブラック・ジャックはびしょ濡れのコートを後部座席に放り込むと、車のキーを差してエンジンをふかした。
ひどい雨だった。そう始まるお話しがロクな結末を迎える事が無いことも、まして話しとして面白くない方が多いことも知っている。それでも、ブラック・ジャックはあの女の事を思い出すたびに、「あれはひどい雨の日だった」と繰り返し枕詞に付けてしまった。
「───…… 、」
「気がついたかい」
目を開けた女を覗き込む。ずぶ濡れの髪の下にタオルを重ね、部屋を温めるためストーブを2つも焚いている。
「痛い……」
「少し我慢しなさい。これ以上鎮痛剤は打てない」
第一声に「痛い」と伝えてきた女にブラック・ジャックはため息をついた。「ここはどこ?」とか「あなたはだれ?」とも言わず、ただ「痛い」と。落ち着いているのか弱り切っているのか…… 女は全身に及ぶ打撲や擦り傷に呻いた。
「君の名前は?」
「……雨女」
落ち着くのを待ってから、ブラック・ジャックはカルテにペンを走らせる。だが名前を聞いて返された言葉に、顰めた顔を上げて女を見た。
「あのねぇ、」
「……本当よ。すごい雨女なの……」
空虚を見つめてまたそう呟く。まあそれでもいいかとブラック・ジャックがペンを走らせようとしたとき、女は小さく笑った。
「みょうじ……みょうじ なまえ。」
「素直に教えてくれて感謝するよ。…みょうじ なまえね。」
とりあえず字は聞かない。カタカナで書き込むと生年月日や、念のため自認識している血液型なども聞く。
「───わかった。じゃあ、この辺の住まいかい?」
なまえはぼんやりとブラック・ジャックを見上げる。ブラック・ジャックもその空虚な目には覚えがあった。だからすぐに分かってしまった。
彼女は死を望む人間なのだと。
県境を超えたS県、H市。ブラック・ジャックは社会福祉法人が経営するS病院でのオペを済ませた帰路にあった。
季節外れの連日の雨で通行止めになった高速を下りて、ブラック・ジャックは峠と山の峰を3つも越える下道を走る。別段急いでいたわけではないが、ピノコからの癇癪めいた電話攻撃にせっつかれての事だ。そうでなければ、苔生して濡れた山道を走りたいとは思わない。
まだ14時だというのに日が沈んでいるように暗い。小石でも当たっているのかというほどの雨音が車の天井越しにブラック・ジャックの頭を叩く。せめて郊外の街まで出なければという焦りの中でカーブした道を抜けた時、軽トラックが停車しているのを見て急ブレーキを踏んだ。
「危ないじゃないですか、どうしたんです」
軽トラックの運転手だろうか、農協の帽子を被った地元民らしき老人がブラック・ジャックの車に駆け寄る。雨が振り込まない程度に窓を少し下ろしてそう尋ねれば、老人は酷く焦燥した様子で窓に飛びついた。
「ア、あぁ、娘っこ! 娘っこン飛び出しよって轢ィちまったでや!!! アンタ電話持っとらんけ?! ここいらァ住んどる
「! ちょっと見せてください」
ハザードランプを点け車を降りる。途端に全身を叩きつける雨と一緒に爺さんと駆け出し、軽トラックを横切って比較的雨が当たらない山側の脇道に行けば、打ちつけのコンクリートに背を預けた女がひとり、そこにいた。
「俺ン力じゃ持ち上げてやれねくて、すまんこって……」
爺さんが泣きそうな顔で、もう伸ばせなくなった指で必死に手を合わせる。女の体に掛けてやってある古い上着がこの老人のものだろうと察したが、ブラック・ジャックは一先ず女を抱き上げると自分の車の後部座席に乗せた。
トランクから医療鞄を持ち出し、応急処置を施していく。
「あれなんでぇ、お医者さんけ」
有り難そうに手を合わせる老人を落ち着かせ、ブラック・ジャックは事故が起きた時間や、時速何キロで走っていたかなどを聞いた。女は体温34.7度、血圧はギリギリ正常の範囲内。触診や視診から、大した怪我や致命傷になりそうなものはない。だが全身に及ぶ大小様々な打撲や擦り傷は、時速40キロも出していない車と衝突したくらいでこんなに付くものでは無かった。
「すみませんが、ここから一番近い診療所などはありますか」
なまえという女はここから30キロほど離れたバス停で降り、ただフラフラと歩いてここまで来てしまったと語った。それも、この診療所がある集落からさらに山を2つ越えたところに標高300メートルほどの山があり、その山の一番陽の当たる場所にあった祖母の家を目指していたと言う。
「なんでェ、アンタT村ンとこのみょうじの孫か。“どれ”の孫だァ」
薪ストーブを見ていた爺さんが驚いて立ち上がると、帽子を脱いで畏る。その反応に違和感を覚えたブラック・ジャックの横でなまえは起き上がり、その顔を爺さんに向けた。
「……ヨシコが私の祖母です。一番上の、……みょうじの家があった場所、ご存知なんですね?」
体を起こしたなまえの肩に手をやり、ブラック・ジャックは顔をしかめる。
「もう少し横になっていなさい。雨が止むまではどのみち出られないんだ」
「……」
山間を這うように広がる集落。僅かな平地には棚田が続き、それを囲うように民家が並んでいる。山そのものを御神体とした神社から川を挟んだ麓、樹齢600年ほどの大銀杏からほど近いところに小さな公民館と並んでその診療所はあった。
設備といえば大きな体重計や身体測定器に、電球の切れたシャウカステン。医療用品も薬品も、とてもじゃないが整っているとは言えない所だ。爺さんによれば、週に一度だけ郊外の医者がやって来るのだと言う。
「T村というのは」
「ア、エエ…… こっから西ィ山ン登ったとこで、ハァ住んでる
半開きにしたドアの向こうで眠るなまえをその老人は繁々と見つめた。
「もともとァこの村と“くに”が違ってな。T村ァ平安時代からあるけぇが、S村は450年くらい前に出来たとこでコッチのが新しい方だわ。昔っからアッチがMの国、コッチがT国。それが明治っから県が一緒になり、群が一緒になり、住所じゃァ村ン名前も一緒になり。たまたまコッチの村ン方が市街地に近いけぇ、T村ァ廃れてったのよ。」
薪ストーブの灰を掻き出しながら、ただその炎を見ていた。老人は火箸で灰掻き蓋を閉めて手を擦り合わせる。長年の厳しい農作業によるものだろう、伸ばせなくなった指を重ねる姿がその苦労を伺わせた。
「お医者サン、タバコ一服いいかいね」
「……」
「へへ、ハァ
そう言って短い煙管を取り出すとその先に普通の紙巻きタバコを差し込む。いつもなら顔を顰めるところだが、ブラック・ジャックは黙って老人がマッチを擦る音を聞いた。
プふ───と煙を吐き出してから、老人はポツポツとまた口を開く。
「……T村にゃァ昔な、高貴なお家柄の若様がお立ち寄りンなって、観音堂にお笛を納めなさった。ホラ、国営放送の大河ドラマでそれをやってね、一時期は観光地でも盛り上がったことだってあった。
みょうじの本家サンはな、年に一度その観音堂でやる舞踊の奉納で“トリ”を受け持つ家だった。ハァこの村で知らんヤツァおらんよ、あの娘ンからしたら大叔父だな。
コーイッサの先代ァ“アサオ”さん言うてな、戦争終わって男ン居ない時代に、そりゃア身分が違うっちゅうほどンイイ家から若い嫁サン貰って、コッチの村までそのウワサ話しが聞こえてくるほどだった。
ただ気性の荒い人でな、女は黙って言うこと聞かにゃならん時代に育ってんだ。嫁さんにも娘サンらにもよぉけ乱暴してたよ。可哀想にナァ、舞踊の奉納は男しか立っちゃいかんモンで、 8人も子供産んだって女しか出てこんって、嫁さんは特によぉけいびられとった。
ほんでも可哀想になァ、4番目の子ァ3つになる前にちょっとした風邪で取られちまって、2番目の子ァ雪の日にアサオさんから折檻されたンがきいちまって、肺炎起こして……あっけなかったよ。8番目に生まれたんがまた女の子だでってスグ嫁さん
嫁さんもそりゃあ頑張って9人目産んでな、やっと男の子だ。コーイッサァだけはよぉけ可愛がられてたよ。ヨッコチャンは中学には行かしてもらえんでな、あン頃ァそこの大銀杏までバスが通っとって、毎朝また妹らおぶさって学校送って、バスで町ィ出てあくせく働いて、男ン生まれてあとは放っぽり出すだけんなった妹らの食いブチ、みーんなヨッコちぉんが稼いで帰って来て、……そいでもお給金はアサオさんのものだ。女は文句言っちゃいけねぇって、2番目の子死んでよーくわかってっから。薄い粥だ、芋の炊いたヤツだ、そんなのしか妹らに食べさせてやれん。悔しかったろうなァ、辛かったろうなァ、でも村ン衆もヨソに口は出せんで、俺ン親も黙って見てたよ。
下の子らはドンドン大きくなったけど、ヨッコチャンはいつまでも背ン伸びンかったなぁ。……きょうだいで一番小さかったよ。家ン中まじゃあ知らんが、自分の分まで下の子らに食わしとったんだろう。下の妹らはみんなしてヨッコチャンに頭が上がらんて、最後にきょうだいが揃ったのは─── ハァ10年も前か、アサオさんの葬式だったなァ。そりゃあ5人姉妹、仲良さそうにみんなしてヨッコチャンの手、引いてたよ。自分らが昔ヨッコチャンにしてもらったの、やっとしてやれるってね。
ヨッコチャンは17で嫁ェ出されてね。苦労してきただけに、最後はいい人紹介してもらえて村ァ出て行ったよ。そんでも心残りだったろうねぇ、一番下のハナチャンは14も離れてるもんで、ヨッコチャン、バス乗るまでずっとおんぶしてあげて。ほんとヨォできたお姉さんだった。
煙管から吸い終わったタバコを抜き取り、薪ストーブの中へ放り込む。
「それがねぇ、あのヨッコチャンの孫かい。まさか車でぶつけちまうたァ……」
悔いるように口元を覆い撫でる老人をブラック・ジャックは視界の端に捉えるだけで、ただドアの隙間で横になっているなまえを眺めた。
「その家はどうなったんです」
老人は「あ、ああ……」と言い淀んでから目を伏せる。その仕草からロクな結末でないことだけは察することができた。
「……もぅ無いよ。村ごと廃れっちまった。女を蔑ろにした報いだろうって囁くヤツもいたね」
ストーブの中の火がタバコの吸殻を包み、薪の上でフィルターを巻いていた紙がオレンジ色のフチを広げては消えていく。燃え残ったフィルターだけが燃えず、ただ黒く焦げるだけだ。
「コーイッサァも酒飲みで、女運が無かった。1人目ァ離婚されちまって、跡取り息子も持ってかれて。アサオさんがよぉけ怒ってたけどなァ、もう時代が変わってたよ。結局そのあと3人嫁さんもらって、どれも長続きしなかった。
息子もいたけど東京出ちまって、アサオさんの葬式にだって帰って来ンかったよ。ある嫁さんには家財具みんな持って逃げられて、ある嫁さんにゃ連れ子の面倒だけ押し付けられて、ついに体壊しちまって、お堂への奉納舞踊ができなかった年だってあった。それからだわ、あの家が傾き出したのは。
アサオさんが
アサオさん居なくなって、ハァ肩の荷が下りてたんだろうねェ。ヨッコちゃんが娘と孫連れて来た時ァ、可愛い可愛いって曲がった腰でひ孫のあと追って歩き回ってたよ。
そうかァ、あん時ンひ孫かァ。今ン子供っちゃあ背ェ伸びるんが早いわ。今ごろアサオの嫁さんが、墓ン中で俺ン事に怒ってるだろぅナァ」
雨音が弱まり出していた。時刻は17時近く。山地の日没は早い。
「汚ェトコだが、バアさんのメシと風呂ぐれぇはあるで、今日は俺ン
「話せるかい」
老人が出て行ったのを見送ったあと、ブラック・ジャックはベッド代わりの処置台へ寝かせたなまえを覗き込んだ。スッと目を開けた彼女に、ずっと起きていたのだろうとため息を漏らす。
「どうしてこんな所へ来たのか、教えてくれるね」
なるべく優しい声色で静かにそう言うと、遠い過去を眺めているようななまえの目がやっとブラック・ジャックに向けられた。
「私に、もう家族は居ないんです」
押し殺していた感情を吹き出すように顔をグシャリと歪め、堪えていただろう涙を溢す。ブラック・ジャックはゆっくりとその頭を撫でた。
「車の事故でした。私は東京に出て働いていていて─── 突然、全て無くしてしまいました。なにもメモとかしてなくて、祖母のきょうだいも、祖父の実家も聞いてなくて、母も私も一人っ子で。父は幼い頃に亡くしてて…… 私が覚えていたのは、この山の景色と、山の上にあった祖母の実家の事だけでした。記憶にある限り振り絞って、地図でこの村を見つけたんです。バスで来られるだけ来て、……歩いてきました。」
「その怪我は?」
「……道に迷って。私、ひどい雨女で。バスを降りた途端雨が降ってきて…… 転んだり、滑り落ちたりして、気がついたら車道に飛び出してました。
───死にに来たんです、私。山の上に崖でも見つけて飛び降りたいって思って。だけど今は後悔しています。祖母のこと、聞けて良かった。いつもニコニコして、元気な姿しか知らなかったから。幾つになっても足腰が丈夫で…… そんな苦労があったからだったんですね」
診療所のドアを開けて老人が戻ってきた。
「先生! バアさんが風呂沸かして布団出しときますってんでェ」
診察室に顔を出した老人は、なまえを見るなり笑顔で駆け寄った。
「アレ! もう起きれるだか! どっか痛くねぇか?」
「えっ…… ええ。ごめんなさい、私……」
「すまんかったな、俺ンも前ちゃんと見とらんかったで。ちゃんと保険屋サンに電話するでね」
「いえ! そ、そんな」
ブラック・ジャックは医療鞄を片付けると、カルテを老人に渡した。
「明日、天気が良くなったら彼女をちゃんとした病院に連れて行って下さい。このカルテを渡せば、診断書も出してくれるでしょう。」
「あれ、先生は……」
「私は帰ります。……彼女はいま、帰る家がないんです。もし宜しければ、少しの間だけでも面倒をみてやって貰えませんか。」
驚いて声も出せないなまえを見て、老人はニッコリと笑った。
「なんだい、それくらい大丈夫だで。
それにみょうじさん家のひ孫なら大事に持て成さにゃバチ当たらァね、と帽子を被り直す老人に、ブラック・ジャックは「彼女はもう大丈夫だろう」、そう安心して診療所を出る。
雨は上がっていた。あの海沿いの家に、私には私の家族が待っている。
ブラック・ジャックはびしょ濡れのコートを後部座席に放り込むと、車のキーを差してエンジンをふかした。