B.J / 短編
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Lucia
「あの、……そこの方。すみませんがF市民病院へはどう行ったら良いでしょう。」
彼女との出会いは、そんな呼び止めの声からだった。
ブラック・ジャックが振り返ると、サングラスに唾広帽子、エレガントなブルーのワンピース……まるでロマンチックな映画女優のお忍び姿のような女が立っていた。海風に翻るブルネットの髪がビロードのように煌き、頭上ではカモメがしきりに鳴いている。波の割れる音がひどくけたたましい中にあっても、彼女の声は澄んでブラック・ジャックの耳に心地良かった。
「この道では少し遠い。……近くに車を停めてあります。宜しければ、私が送りましょうか。」
海沿いで見渡す限り崖と砂浜しかない道を徒歩で進む女に、ブラック・ジャックは穏やかな声でそう提案した。そんな場所で独りの女に気を遣うなど、本来なら絶対にしない事だ。もちろん、女が美しいという理由でブラック・ジャックが親切心を出すような事はしない。
だがこの女は、彼に親切にしなくてはと思わせた。
「ありがとうございます。もしお時間頂けたら、とても助かります。」
「いえ、私もちょうど同じ方向に向かっていたので。」
ブラック・ジャックはゆっくり近付くと、軽く肩に触れてから女の半歩前くらいに並び立つ。女は軽く会釈をしてから手を伸ばし、ブラック・ジャックの差し出した腕を見つけて組んだ。
一歩踏み出すと、女はブラック・ジャックとは反対側に白杖の先を伸ばす。コンクリートを撫でるサリサリという音と、ブラック・ジャックの革靴、そして女のローヒールが、波とカモメの声に合わせておかしなカルテットを刻んだ。
「もしよろしければ、お名前を」
「……間 黒男と、言います。」
「間さん、」
「黒男で結構です。」
ブラック・ジャックは本名を名乗った。この女は間違いなく何かしらの患者だ。“ブラック・ジャック”を知っていたらと思うと……彼女の目が見えていないのを良いことに、まるで身分でも隠すように、そう名乗った。
「私はみょうじ なまえと申します。私のことも、どうぞなまえと……わざわざ助けて頂き、本当にありがとうございます。」
道路を渡り、反対側の車線に停めたロールスロイスに彼女をエスコートする。助手席のドアを開け、なまえが頭をぶつけないようにして載せてやると、ブラック・ジャックも反対側に回って運転席に乗り込んだ。
***
「しかし、なんでまたあんな所を歩いてたんだ。」
車を走らせてすぐ、ブラック・ジャックはそう尋ねた。なまえも少し困ったような、小さなため息をつく。
「駅でそう教えてもらったんです。若い方が一緒にバスへ乗ってくれて、このバス停で降りて、左に進むと病院に着けると……」
「そりゃ随分悪質なイタズラだ。」
「そうでしたか……」
帽子の唾に隠れて、なまえは顔の汗を指で拭った。サングラスを外す様子もなく、頑なに顔を隠すなまえに、ブラック・ジャックは横目で観察を続ける。
「窓、開けましょうか? それか、冷房が平気なら強めても。」
「まあ、お気遣い頂いて…… じゃあ、先生が良いと思う方を。」
ギッと一瞬ハンドル操作を誤った。顔をしかめてなまえに目をやり、なぜブラック・ジャックだと知っているのかと尋ねそうになる。
「ふふ、やっぱりお医者さまね。私、目が見えない代わりに、鼻や耳はいいんですよ。」
顔の半分、口元だけで微笑むなまえに、ブラック・ジャックは安堵の息をついた。どうやら、自分がブラック・ジャックだとまでは気付かれていないようだ。
「フム……一応聞いておきましょうか。なぜ私が医者だと? やっぱり匂いで?」
「ええ、色々な匂いがしましたわ。……でも、実は当てずっぽうでしたの。あんな風に腕を貸してくださる方なんて、看護婦でもあまり居ませんから。」
「じゃあ私が先に白状してしまったわけですか。」
マイッタな、と口を曲げるブラック・ジャックのその声色に、なまえはクスクスと笑った。彼女が笑うのに、ブラック・ジャックも悪い気はしない。とくに、ついさっきまで、炎天下の中ひとりでフラフラ歩いていたのを見た後ならなおさら。
ブラック・ジャックは冷房のスイッチを回した。冷たい風になまえもリラックスしたようで、やっと背中をシートに預ける。
「病院には、やはり診察で?」
「いいえ。F病院で医大生のための献体説明会がありまして、そちらに。」
思わず息を飲んだ。それからチラリとなまえを見るが、彼女の口元は微笑んだままだった。ブラック・ジャックはしばらく黙って運転に集中するが、1分と保たず口を開ける。
「なぜ献体を? 貴女は見たところまだ若い。それとも……そんなに悪い病気なのか。」
顔を少し俯かせたなまえにブラック・ジャックも少したじろぐ。
「あ、いや…… ズケズケと申し訳ない。なにぶん私も医者の端くれなもんでね。」
「いいんです、お気になさらないで。」
なまえは探るように手を自分の頭に伸ばし、ゆっくりと帽子を脱いだ。そしてまた手探りにサングラスを外すと、決してブラック・ジャックには向けなかったがその横顔の一端を見せた。
「目は、……たまたま事故で失ってしまいました。顔の傷はその時のものです。」
頬の上から額までを覆ったケロイドに、不自然な凹凸。鼻筋が上手く残ってはいるが、義眼を嵌め込む眼孔さえ残っていない傷跡が彼女の凄まじい経験を物語っている。
「運転中に驚かせてしまってごめんなさい。」
「いえ、本当なら人に見せるのも辛いでしょう。ありがとうございます、私を信用して頂いたようで。」
なまえは口元で少し驚きを見せたあと、また笑ってサングラスを掛けた。
「事故の後遺症と言うべきでしょうか、私は脳内血管の至る所に血腫を抱えているんです。ほんの砂粒くらいの…… だから、いつ死んでもおかしくなくて。」
「それで献体を?」
「……ええ。脳死の確率も高いのでドナー登録もしました。」
事故による顔の損傷に、時限爆弾付きの後遺症…… ブラック・ジャックでさえ彼女を助ける手立ては思い浮かばなかった。投薬で凝固した血液をある程度融解させることはできるが、腕の点滴痕を見る限りなまえの主治医も同じ事を考えて彼女に施しているだろう。
「(……なぜそんな事を考える。彼女は私の患者じゃない。)」
ブラック・ジャックは一度冷静になって運転に集中した。緩やかにカーブが続く海岸沿いを、カモメの綿雲を追い越しながら走り抜けていく。岬の向こうには目的地であるF市民病院が見えていた。それを知ってか知らずかなまえは唾広帽のリボンの位置を手探りで確認しながら、また顔を隠すように頭に被せる。
「先生はどちらの病院にお勤めですか」
「ウーム…… 私は……マァ開業医みたいなものです。」
「あら、優秀なドクターなんですね」
嘘はついていない。だがブラック・ジャックの心に罪悪感は募る。
死期を悟った人間にしては、なまえはあまりにも落ち着いているように見えた。解剖献体やドナー登録までしているとなると、恐らく身辺整理も済ませているだろう。
自分の死に粛々と向き合うほどの精神力が彼女にあるということか…… そのあまりにも聖女然とした彼女の態度に、どこか浮世離れした雰囲気すら感じられる。
「サァ、もうじきに着きますよ。」
ブラック・ジャックが横目でなまえを見ると、彼女は急に俯いて帽子をさらに深く被る。その手は震えていた。
「はい、ありがとうございます。」
「どうした、気分が悪いのか?」
「……いえ、……いいえ。なんでもないんです。」
ゆっくりとブレーキを踏んで脇道に車を止める。ハザードランプに合わせて車内にカチカチと一定のリズムが刻まれる中で、ブラック・ジャックはゆっくりと彼女の手を取った。
「……すこし脈が早いようだ。どこか痛むところは?」
「違うんです先生、……どうか笑ってください。急に、怖くなってしまって。」
手首を掴んでいたブラック・ジャックの手を逆に掴み返すと、なまえは不安げな口元を噤む。ブラック・ジャックはそれをどう慰めるべきか分からず、ただ黙って彼女の肩を抱き寄せてやった。
「私は───
「何も仰らないで、……」
私なら貴女を生かしてやれるかもしれない、そう伝えようとした言葉を遮った彼女を尊重して、ブラック・ジャックは身を引いた。
「ごめんなさい、初めて会った方に、こんな……」
「いいんです。私も医者ですから。」
ハザードランプを切ると、サイドブレーキのレバーを降ろした。またハンドルを回して道に戻り、もうすぐそこまで迫った病院に向かう。
彼女は聖女然とした仮面をつけて自分を奮い立たせているだけなのだと、ブラック・ジャックは自分の心を咎めた。死を前にして恐れない人間が居るはずないのだ。……死を恐れて病気と戦う患者が居るように、なまえというこの女性は、恐れる心という病気と必死に戦っている。
もし治せるなら、彼女の事も助けたかった。
ブラック・ジャックの車は病院に入っていった。
「あの、……そこの方。すみませんがF市民病院へはどう行ったら良いでしょう。」
彼女との出会いは、そんな呼び止めの声からだった。
ブラック・ジャックが振り返ると、サングラスに唾広帽子、エレガントなブルーのワンピース……まるでロマンチックな映画女優のお忍び姿のような女が立っていた。海風に翻るブルネットの髪がビロードのように煌き、頭上ではカモメがしきりに鳴いている。波の割れる音がひどくけたたましい中にあっても、彼女の声は澄んでブラック・ジャックの耳に心地良かった。
「この道では少し遠い。……近くに車を停めてあります。宜しければ、私が送りましょうか。」
海沿いで見渡す限り崖と砂浜しかない道を徒歩で進む女に、ブラック・ジャックは穏やかな声でそう提案した。そんな場所で独りの女に気を遣うなど、本来なら絶対にしない事だ。もちろん、女が美しいという理由でブラック・ジャックが親切心を出すような事はしない。
だがこの女は、彼に親切にしなくてはと思わせた。
「ありがとうございます。もしお時間頂けたら、とても助かります。」
「いえ、私もちょうど同じ方向に向かっていたので。」
ブラック・ジャックはゆっくり近付くと、軽く肩に触れてから女の半歩前くらいに並び立つ。女は軽く会釈をしてから手を伸ばし、ブラック・ジャックの差し出した腕を見つけて組んだ。
一歩踏み出すと、女はブラック・ジャックとは反対側に白杖の先を伸ばす。コンクリートを撫でるサリサリという音と、ブラック・ジャックの革靴、そして女のローヒールが、波とカモメの声に合わせておかしなカルテットを刻んだ。
「もしよろしければ、お名前を」
「……間 黒男と、言います。」
「間さん、」
「黒男で結構です。」
ブラック・ジャックは本名を名乗った。この女は間違いなく何かしらの患者だ。“ブラック・ジャック”を知っていたらと思うと……彼女の目が見えていないのを良いことに、まるで身分でも隠すように、そう名乗った。
「私はみょうじ なまえと申します。私のことも、どうぞなまえと……わざわざ助けて頂き、本当にありがとうございます。」
道路を渡り、反対側の車線に停めたロールスロイスに彼女をエスコートする。助手席のドアを開け、なまえが頭をぶつけないようにして載せてやると、ブラック・ジャックも反対側に回って運転席に乗り込んだ。
***
「しかし、なんでまたあんな所を歩いてたんだ。」
車を走らせてすぐ、ブラック・ジャックはそう尋ねた。なまえも少し困ったような、小さなため息をつく。
「駅でそう教えてもらったんです。若い方が一緒にバスへ乗ってくれて、このバス停で降りて、左に進むと病院に着けると……」
「そりゃ随分悪質なイタズラだ。」
「そうでしたか……」
帽子の唾に隠れて、なまえは顔の汗を指で拭った。サングラスを外す様子もなく、頑なに顔を隠すなまえに、ブラック・ジャックは横目で観察を続ける。
「窓、開けましょうか? それか、冷房が平気なら強めても。」
「まあ、お気遣い頂いて…… じゃあ、先生が良いと思う方を。」
ギッと一瞬ハンドル操作を誤った。顔をしかめてなまえに目をやり、なぜブラック・ジャックだと知っているのかと尋ねそうになる。
「ふふ、やっぱりお医者さまね。私、目が見えない代わりに、鼻や耳はいいんですよ。」
顔の半分、口元だけで微笑むなまえに、ブラック・ジャックは安堵の息をついた。どうやら、自分がブラック・ジャックだとまでは気付かれていないようだ。
「フム……一応聞いておきましょうか。なぜ私が医者だと? やっぱり匂いで?」
「ええ、色々な匂いがしましたわ。……でも、実は当てずっぽうでしたの。あんな風に腕を貸してくださる方なんて、看護婦でもあまり居ませんから。」
「じゃあ私が先に白状してしまったわけですか。」
マイッタな、と口を曲げるブラック・ジャックのその声色に、なまえはクスクスと笑った。彼女が笑うのに、ブラック・ジャックも悪い気はしない。とくに、ついさっきまで、炎天下の中ひとりでフラフラ歩いていたのを見た後ならなおさら。
ブラック・ジャックは冷房のスイッチを回した。冷たい風になまえもリラックスしたようで、やっと背中をシートに預ける。
「病院には、やはり診察で?」
「いいえ。F病院で医大生のための献体説明会がありまして、そちらに。」
思わず息を飲んだ。それからチラリとなまえを見るが、彼女の口元は微笑んだままだった。ブラック・ジャックはしばらく黙って運転に集中するが、1分と保たず口を開ける。
「なぜ献体を? 貴女は見たところまだ若い。それとも……そんなに悪い病気なのか。」
顔を少し俯かせたなまえにブラック・ジャックも少したじろぐ。
「あ、いや…… ズケズケと申し訳ない。なにぶん私も医者の端くれなもんでね。」
「いいんです、お気になさらないで。」
なまえは探るように手を自分の頭に伸ばし、ゆっくりと帽子を脱いだ。そしてまた手探りにサングラスを外すと、決してブラック・ジャックには向けなかったがその横顔の一端を見せた。
「目は、……たまたま事故で失ってしまいました。顔の傷はその時のものです。」
頬の上から額までを覆ったケロイドに、不自然な凹凸。鼻筋が上手く残ってはいるが、義眼を嵌め込む眼孔さえ残っていない傷跡が彼女の凄まじい経験を物語っている。
「運転中に驚かせてしまってごめんなさい。」
「いえ、本当なら人に見せるのも辛いでしょう。ありがとうございます、私を信用して頂いたようで。」
なまえは口元で少し驚きを見せたあと、また笑ってサングラスを掛けた。
「事故の後遺症と言うべきでしょうか、私は脳内血管の至る所に血腫を抱えているんです。ほんの砂粒くらいの…… だから、いつ死んでもおかしくなくて。」
「それで献体を?」
「……ええ。脳死の確率も高いのでドナー登録もしました。」
事故による顔の損傷に、時限爆弾付きの後遺症…… ブラック・ジャックでさえ彼女を助ける手立ては思い浮かばなかった。投薬で凝固した血液をある程度融解させることはできるが、腕の点滴痕を見る限りなまえの主治医も同じ事を考えて彼女に施しているだろう。
「(……なぜそんな事を考える。彼女は私の患者じゃない。)」
ブラック・ジャックは一度冷静になって運転に集中した。緩やかにカーブが続く海岸沿いを、カモメの綿雲を追い越しながら走り抜けていく。岬の向こうには目的地であるF市民病院が見えていた。それを知ってか知らずかなまえは唾広帽のリボンの位置を手探りで確認しながら、また顔を隠すように頭に被せる。
「先生はどちらの病院にお勤めですか」
「ウーム…… 私は……マァ開業医みたいなものです。」
「あら、優秀なドクターなんですね」
嘘はついていない。だがブラック・ジャックの心に罪悪感は募る。
死期を悟った人間にしては、なまえはあまりにも落ち着いているように見えた。解剖献体やドナー登録までしているとなると、恐らく身辺整理も済ませているだろう。
自分の死に粛々と向き合うほどの精神力が彼女にあるということか…… そのあまりにも聖女然とした彼女の態度に、どこか浮世離れした雰囲気すら感じられる。
「サァ、もうじきに着きますよ。」
ブラック・ジャックが横目でなまえを見ると、彼女は急に俯いて帽子をさらに深く被る。その手は震えていた。
「はい、ありがとうございます。」
「どうした、気分が悪いのか?」
「……いえ、……いいえ。なんでもないんです。」
ゆっくりとブレーキを踏んで脇道に車を止める。ハザードランプに合わせて車内にカチカチと一定のリズムが刻まれる中で、ブラック・ジャックはゆっくりと彼女の手を取った。
「……すこし脈が早いようだ。どこか痛むところは?」
「違うんです先生、……どうか笑ってください。急に、怖くなってしまって。」
手首を掴んでいたブラック・ジャックの手を逆に掴み返すと、なまえは不安げな口元を噤む。ブラック・ジャックはそれをどう慰めるべきか分からず、ただ黙って彼女の肩を抱き寄せてやった。
「私は───
「何も仰らないで、……」
私なら貴女を生かしてやれるかもしれない、そう伝えようとした言葉を遮った彼女を尊重して、ブラック・ジャックは身を引いた。
「ごめんなさい、初めて会った方に、こんな……」
「いいんです。私も医者ですから。」
ハザードランプを切ると、サイドブレーキのレバーを降ろした。またハンドルを回して道に戻り、もうすぐそこまで迫った病院に向かう。
彼女は聖女然とした仮面をつけて自分を奮い立たせているだけなのだと、ブラック・ジャックは自分の心を咎めた。死を前にして恐れない人間が居るはずないのだ。……死を恐れて病気と戦う患者が居るように、なまえというこの女性は、恐れる心という病気と必死に戦っている。
もし治せるなら、彼女の事も助けたかった。
ブラック・ジャックの車は病院に入っていった。