B.J / 短編
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「それはまた、難しい依頼ですねぇ。」
死神そのものを体現したような風貌に、片目を眼帯で隠した男がクスクスと笑っている。テーブルに出されたワインに口をつけてから一息おいて、「まあいいでしょう」とワイングラスに息を吹きかけた。
「ありがとうございます、先生。」
まるで神に縋るような面持ちの女は、小切手の束を取り出すと早速ペンを走らせた。
15万ドル。この女の命を吹き消す仕事に、ドクター・キリコは15万ドルを小切手で受け取る。そしてこの女…なまえにとっても、自らの命を絶つ事に15万ドルを費やす事など贅沢だとは思わない。
「どうしても、どうしても脳死でなければいけないんです。」
なまえは小切手をテーブルに滑らせてキリコの前に差し出すと、そのまま両の手を口元に組んだ。まるで祈るように。その目は薄暗い中で煌々とする燭台の炎に照らされ、水晶玉のようにキラキラとしている。キリコはもう一度ワイングラスを煽ると、上等な芳香を鼻腔に感じながら、勝手にボトルを取って自分のグラスに注ぐ。
「あんたが脳死状態なら、弟さんにドナーとして臓器提供ができる…か。よくもまァ、やるもんですよ。」
ギュ…ッと音を立ててコルクを締めると、キリコはボトルをテーブルに置いた。その手でカルテを拾い上げて顔の前にやると、やたらギョロギョロと動く残された方の目で、どこか懐かしくも感じるその筆跡を追う。
「弟さんの主治医が、まさかブラック・ジャック先生だとはね、…きょうだい揃ってヤミ医者に面倒を見てもらうなんてのは、たぶんあんた方くらいでしょうね…」
カルテからなまえに目をやると、肘をつき椅子の背もたれに身を任せて笑う。豪華な家具に広い部屋、上等なワイン。財産を持っているというのに、なぜ目の前の女はこうも不幸な雰囲気を纏っているのか。
キリコはまた「フフ…」と笑うと、小切手を拾い上げて懐に仕舞った。
「先生、もうひとつお願い事があるんです。」
なまえは静かに顔を上げる。キリコはこの女が何を切り出すかとその目をじっと見つめたが、その深淵にあるものはこの死神にすら読み解けなかった。
「私、処女なんです。」
若い女の死を手伝う仕事の場で、こういう事はそれなりにある。この女も、そのうちの1人に過ぎないのだろう。キリコはフッと笑ってまたワインをひと口飲んでから脚を組み直した。
「…いけませんねぇ、そういうのは。私がお手伝いするのは…貴女を“女にする事”じゃありませんよ。」
それに、よくもまァこんな醜い男に抱かれようなどと思うものだ…そう下卑た言葉を言いそうになるのを、ワインと一緒に飲み込む。チラリとなまえの方を見れば、気落ちした顔でテーブルに目を落としていた。…無理もないかと憐れむ反面、死を目前にしておいて生にしがみ付くこの女に矛盾を感じる。しかし、その死が自らではなく“他人のため”に選んだ死なのだから、それも仕方がないのかともキリコは思った。
「ひどいわ…先生。少しくらい、お情けをくださってもいいじゃない。」
なまえはやっと口を開いて、渇いた唇にワインを流し込んだ。空いたグラスにキリコがボトルへ手をやると、なまえはそれを目線だけで断る。
「先生、私ね…本当は、…ブラック・ジャック先生のことが好きなの。とても…そう、愛してしまったわ。手負いの獣のようにいつも何かを背負いこんで、それでいて瞳の奥はとても情熱的で…そして、とても優しい人。弟のためにブラック・ジャック先生を呼んだけど、きっとこれは運命だったんだわ。」
女という生き物は、よく運命という言葉を惜しげもなく口にする。この女もその一種の狂気に冒されているのだろう。キリコは骨ばった鼻筋を撫でて小さく溜息を吐いた。
その溜息になまえは小さく笑うと、「やっぱり戴くわ」と言ってワイングラスをキリコに向けるので、彼はボトルを傾けた。
「死ぬ前に男の人を知ってみたかったけど…仕方がないわ。」
「ブラック・ジャック先生には、お願いしないのですか?」
一瞬キョトンとした顔を見せたあと、なまえはケラケラと笑う。
「まさか!ブラック・ジャック先生には、打ち明けずに死ぬつもりよ。それでいいの…私は脳死状態になる。そしてこの身体に、先生がメスを入れて下さる…!それはどんな性行為よりも濃密な、私と先生だけの出来事になる…先生が私の心臓に直接触れて、私の熱い心を…あの指先で感じて下さる…!ふふ、あははは…」
堪え切れない笑いと狂気に満ちた眼光。それを隠すようにワインを一口で煽ると、グラスが割れそうな勢いでテーブルに腕を下ろした。
「キリコ先生、わたし…弟の為だけに死ねないの…聖女でもなんでもない、こうでも思わないと、怖くて、…死ねないわ。ほら、みて先生、私、さっきから膝が震えるの。おかしいでしょ?座っているだけなのに、足先からどんどん冷たくなって、…きっと、先生が連れていらっしゃる死神様が、もう私の足を…このテーブルの下の陰で、私の足を掴んでいるんだわ。」
キリコは立ち上がると、なまえの不安げな瞳がそれを追う。そしてテーブルを回って彼女に寄り添うように立てば、気怠く放り出された足の膝あたりを触ってやった。
「あぁ、そうみたいですねぇ…さあ、もっと怖くならないうちに、ベッドへ戻りましょう。」
そう言って頭を撫でてやれば、幼子のようになまえの腕がキリコにまとわりつく。
黒い陰が女を抱き上げて部屋を出て行く。外は鴉のいろ一色で、なんの明かりもない。
あの先生のコートと同じ色をしている、この色に抱かれて、私は世界からさようならをするんだわ。
「なぜお前がここにいる。」
黒い医者とよばれる男が、もう1人の黒い医者とよばれる男に電話で呼び出され、屋敷の門の前で対面していた。
「あんたが今見ているDCM患者のお姉さん、…たったいま“事故”に遭われて、悪いが救急車を呼んで病院へ運んでもらったけどね…ダメだったよ。」
「なに?!」
ブラック・ジャックは踵を返して車に乗り込もうとするが、それをキリコは一度制止した。
「残念だが脳内細胞まで完全に破壊されている。いくらアンタでも蘇生は無理だ。完全な脳死状態だよ。…もしかしたら、心臓ドナーにはまだ“使える”んじゃ、ないですか?」
言い終わると同時に、襟を掴んで引き寄せられる。だが飛んで来るべき拳は、ブルブルと震えるだけで一向にその鞭を振るわない。
「お前は健常者の自殺には手を貸さない主義じゃなかったのか…?!」
どこか侮蔑の色を孕んだブラック・ジャックの目に、キリコは鼻で笑った。
「病気でしたよ…彼女は。心に大きな病気を抱えていた、あれは助からなかった。…もしかしたら、ブラック・ジャック先生になら、治せたかもしれませんが」
「…彼女の、意思か?」
「サァ…、私のような人間に、聖女の心なんて、分かりませんよ。」
ブラック・ジャックはキリコの襟を放すと車に乗り込み、そして病院へ走らせた。
死神そのものを体現したような風貌に、片目を眼帯で隠した男がクスクスと笑っている。テーブルに出されたワインに口をつけてから一息おいて、「まあいいでしょう」とワイングラスに息を吹きかけた。
「ありがとうございます、先生。」
まるで神に縋るような面持ちの女は、小切手の束を取り出すと早速ペンを走らせた。
15万ドル。この女の命を吹き消す仕事に、ドクター・キリコは15万ドルを小切手で受け取る。そしてこの女…なまえにとっても、自らの命を絶つ事に15万ドルを費やす事など贅沢だとは思わない。
「どうしても、どうしても脳死でなければいけないんです。」
なまえは小切手をテーブルに滑らせてキリコの前に差し出すと、そのまま両の手を口元に組んだ。まるで祈るように。その目は薄暗い中で煌々とする燭台の炎に照らされ、水晶玉のようにキラキラとしている。キリコはもう一度ワイングラスを煽ると、上等な芳香を鼻腔に感じながら、勝手にボトルを取って自分のグラスに注ぐ。
「あんたが脳死状態なら、弟さんにドナーとして臓器提供ができる…か。よくもまァ、やるもんですよ。」
ギュ…ッと音を立ててコルクを締めると、キリコはボトルをテーブルに置いた。その手でカルテを拾い上げて顔の前にやると、やたらギョロギョロと動く残された方の目で、どこか懐かしくも感じるその筆跡を追う。
「弟さんの主治医が、まさかブラック・ジャック先生だとはね、…きょうだい揃ってヤミ医者に面倒を見てもらうなんてのは、たぶんあんた方くらいでしょうね…」
カルテからなまえに目をやると、肘をつき椅子の背もたれに身を任せて笑う。豪華な家具に広い部屋、上等なワイン。財産を持っているというのに、なぜ目の前の女はこうも不幸な雰囲気を纏っているのか。
キリコはまた「フフ…」と笑うと、小切手を拾い上げて懐に仕舞った。
「先生、もうひとつお願い事があるんです。」
なまえは静かに顔を上げる。キリコはこの女が何を切り出すかとその目をじっと見つめたが、その深淵にあるものはこの死神にすら読み解けなかった。
「私、処女なんです。」
若い女の死を手伝う仕事の場で、こういう事はそれなりにある。この女も、そのうちの1人に過ぎないのだろう。キリコはフッと笑ってまたワインをひと口飲んでから脚を組み直した。
「…いけませんねぇ、そういうのは。私がお手伝いするのは…貴女を“女にする事”じゃありませんよ。」
それに、よくもまァこんな醜い男に抱かれようなどと思うものだ…そう下卑た言葉を言いそうになるのを、ワインと一緒に飲み込む。チラリとなまえの方を見れば、気落ちした顔でテーブルに目を落としていた。…無理もないかと憐れむ反面、死を目前にしておいて生にしがみ付くこの女に矛盾を感じる。しかし、その死が自らではなく“他人のため”に選んだ死なのだから、それも仕方がないのかともキリコは思った。
「ひどいわ…先生。少しくらい、お情けをくださってもいいじゃない。」
なまえはやっと口を開いて、渇いた唇にワインを流し込んだ。空いたグラスにキリコがボトルへ手をやると、なまえはそれを目線だけで断る。
「先生、私ね…本当は、…ブラック・ジャック先生のことが好きなの。とても…そう、愛してしまったわ。手負いの獣のようにいつも何かを背負いこんで、それでいて瞳の奥はとても情熱的で…そして、とても優しい人。弟のためにブラック・ジャック先生を呼んだけど、きっとこれは運命だったんだわ。」
女という生き物は、よく運命という言葉を惜しげもなく口にする。この女もその一種の狂気に冒されているのだろう。キリコは骨ばった鼻筋を撫でて小さく溜息を吐いた。
その溜息になまえは小さく笑うと、「やっぱり戴くわ」と言ってワイングラスをキリコに向けるので、彼はボトルを傾けた。
「死ぬ前に男の人を知ってみたかったけど…仕方がないわ。」
「ブラック・ジャック先生には、お願いしないのですか?」
一瞬キョトンとした顔を見せたあと、なまえはケラケラと笑う。
「まさか!ブラック・ジャック先生には、打ち明けずに死ぬつもりよ。それでいいの…私は脳死状態になる。そしてこの身体に、先生がメスを入れて下さる…!それはどんな性行為よりも濃密な、私と先生だけの出来事になる…先生が私の心臓に直接触れて、私の熱い心を…あの指先で感じて下さる…!ふふ、あははは…」
堪え切れない笑いと狂気に満ちた眼光。それを隠すようにワインを一口で煽ると、グラスが割れそうな勢いでテーブルに腕を下ろした。
「キリコ先生、わたし…弟の為だけに死ねないの…聖女でもなんでもない、こうでも思わないと、怖くて、…死ねないわ。ほら、みて先生、私、さっきから膝が震えるの。おかしいでしょ?座っているだけなのに、足先からどんどん冷たくなって、…きっと、先生が連れていらっしゃる死神様が、もう私の足を…このテーブルの下の陰で、私の足を掴んでいるんだわ。」
キリコは立ち上がると、なまえの不安げな瞳がそれを追う。そしてテーブルを回って彼女に寄り添うように立てば、気怠く放り出された足の膝あたりを触ってやった。
「あぁ、そうみたいですねぇ…さあ、もっと怖くならないうちに、ベッドへ戻りましょう。」
そう言って頭を撫でてやれば、幼子のようになまえの腕がキリコにまとわりつく。
黒い陰が女を抱き上げて部屋を出て行く。外は鴉のいろ一色で、なんの明かりもない。
あの先生のコートと同じ色をしている、この色に抱かれて、私は世界からさようならをするんだわ。
「なぜお前がここにいる。」
黒い医者とよばれる男が、もう1人の黒い医者とよばれる男に電話で呼び出され、屋敷の門の前で対面していた。
「あんたが今見ているDCM患者のお姉さん、…たったいま“事故”に遭われて、悪いが救急車を呼んで病院へ運んでもらったけどね…ダメだったよ。」
「なに?!」
ブラック・ジャックは踵を返して車に乗り込もうとするが、それをキリコは一度制止した。
「残念だが脳内細胞まで完全に破壊されている。いくらアンタでも蘇生は無理だ。完全な脳死状態だよ。…もしかしたら、心臓ドナーにはまだ“使える”んじゃ、ないですか?」
言い終わると同時に、襟を掴んで引き寄せられる。だが飛んで来るべき拳は、ブルブルと震えるだけで一向にその鞭を振るわない。
「お前は健常者の自殺には手を貸さない主義じゃなかったのか…?!」
どこか侮蔑の色を孕んだブラック・ジャックの目に、キリコは鼻で笑った。
「病気でしたよ…彼女は。心に大きな病気を抱えていた、あれは助からなかった。…もしかしたら、ブラック・ジャック先生になら、治せたかもしれませんが」
「…彼女の、意思か?」
「サァ…、私のような人間に、聖女の心なんて、分かりませんよ。」
ブラック・ジャックはキリコの襟を放すと車に乗り込み、そして病院へ走らせた。
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