海馬瀬人
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24/7,
「オレに渡す物は無いのか」
「無い」
それより早くしないと遅刻するんですけど。
しかし部屋を出ようにも、目の前のこの男に出入り口を塞がれて通り抜ける事ができない。後ろでは朝食を済ませたダイニングを給仕達が片付けている。
時計は8時を過ぎていた。ここから童実野高校まで車で15分。朝の出席確認は25分くらいから。そろそろヤバい。
「どいて欲しいんだけど」
「その手に持っているものは何だ」
「何って、皆んなに渡すバレンタインのチョコレートだけど?」
さも当然の事を言うな。紙袋にだって「happy Valentine Day」って書いてある。字が読めないのか? それとも横文字認識できないの? まあバラ撒き用だけどね。
そんな小馬鹿にしたような、呆れ顔のなまえに海馬の頬は引き攣るばかりだった。海馬を挟んで開け放ったドアの向こうで、手持ち無沙汰にされた車の運転手が気まずそうに立っている。
勿論分かっている。「オレの分は?」と言う事だろう。だが今そう簡単に渡す訳にはいかない。
「あのう……」
「黙って待っていろ。」
声を出した運転手に見向きもしないでそう言い放つと、可哀想に彼は「申し訳ございません」と萎縮した。
車に乗せる相手を待っている運転手は、なにも1人じゃない。……いま声を掛けたのは、海馬を待つ運転手。私が学校に遅れる分にはそう大した叱責はない。(まぁ私にはあるけど。)だけど海馬がこれ以上遅れれば、海馬コーポレーションは飛行機の管制塔をまたしっちゃかめっちゃかにするだろう。
「明後日には帰ってくると言っただろう」
「絶対に嫌」
そう、海馬が我儘を言っているのではない。……私が引き留めているようなものなのだ。
ムスッと顰めた顔を背ければ、海馬のため息が左の耳によく聞こえる。
バレンタインデーの1日やそこら大した損害ではないのかもしれない。だけど、私達には高校生活最後のバレンタイン。あと1ヶ月もしないうちに卒業式だ。だからこの日は一緒に学校へ行って、屋上でランチを食べて、放課後にチョコレートの箱を開ける……なんて事をしたいって、約束までしていた。
時計の針は8時5分を過ぎている。いつもなら物分かりの良い彼女を演じて、朝のうちにチョコレートをあげて「いってらっしゃい」のキスもする。
でも今日はダメ。
「仕事だ」
「仕事で金髪美女の秘書をお迎えするの? へぇ、瀬人もイイ御身分になったわね」
「いい加減にしろ」
なまえがねちっこく詰め寄る理由は、その仕事の内容。ニューヨークの支社で美人なタレントが1日秘書としてくっ付く《リアリティ番組》の撮影。それもバレンタインデーに。
アメリカでバレンタインはそんなに重要じゃないから仕方ないんだろうけど、仕事内容と日取りを大して確認もせず許可した海馬と、テレビ局とやり取りをした磯野に、それはもう「これでもか」と言うくらいキレ散らかしたし、まだ怒りは収まっていない。
海馬にプライベートなんてものは無い。分かってますとも。交際相手が居ようと、セレブタレントや女優なんかと比べたら私なんて平々凡々な高校生に変わりはないのだから、そりゃあ海馬を誑 かして掠め取ろうなんて女はいくらでも居る。
今日はまさに、掠め取られた気分。それも海馬や磯野の不手際やら何やらが原因で。
「……もういい。」
折れたのは海馬だった。顔を背けたまま少しも向き合おうとはしないなまえに痺れを切らしたのか、海馬は組んでいた腕を下ろして道を開ける。
海馬から折れるなんて事は珍しい。なまえの方の怒りがどれだけ根深いのか、海馬が理解していることの証左でもある。
「……」
だけど、海馬が早々に折れた分、なまえは怒りの矛先を向ける場を失ってしまった。気不味い目をチラリと向ければ、海馬は腕を組んだまま「好きにしろ」とでも言うように見下ろしている。ただでさえ冷たい青い目が、尚更冷ややかになまえを見つめていた。
「……ッ、フン」
私は謝らない。別れたっていい、こんな酷い男。
感情に任せたって碌な事にはならないと知っているし、何度も痛い目を見てきた。でも今はそうでもしないとやってられない。
なまえはそっぽ向いたまま海馬を横切り、ズカズカとダイニングを後にした。「行ってきます」も「行ってらっしゃい」もナシ。もちろん「気をつけてね」も「愛してるわ」もナシ。
約束を破ったのは海馬。それに怒って罰を与えて何が悪い。
八つ当たりでもするように、いつもより何倍も乱暴にドアを閉めた。
***
「遅くなりました」
「みょうじか、まぁ席に着け」
教壇に立つ担任の教師が眼鏡の蔓を持ち上げてなまえを見るなり、間の抜けた声でとくに咎めるでもなく出席簿にボールペンをはしらせる。
なまえはなるべく穏やかにドアを閉め、クラスメイトの何人かがチラチラ見てるのも気にしないようにして席に鞄を下ろした。
「(遅かったね)」
コソッと小声で声を掛けてくる男子がいる。顔を向ければ、左隣の席の御伽が肘をついて微笑んだ。
なまえはため息混じりに鞄から必要なものだけ取り出して、後は机のサイドフックに掛けてから答えた。
「(道が混んでたのよ)」
「(へぇ、じゃあ海馬くん家から朝帰りなん───
「御伽〜、みょうじ〜」
「「ハイ、スミマセン」」
一斉にクスクスといった笑い声が教室に上がる。「怒られちゃったじゃない」と目で訴えれば、「ゴメン」と御伽が手を合わせた。で、こうして間延びした声で注意されるのまでがいつものやり取り。
ふと右方向へ目を向ければ、城之内や杏子、本田も茶化すように笑っている。遊戯も眉端を下げてこちらに振り返っていた。
***
「ハイ、アンタ達有り難く思いなさいよ?」
昼休みの非常階段。今日のランチの場所はイレギュラーだった。本当は屋上で……なんて思ったけど、バレンタインの今日の屋上は雰囲気がどこか浮か浮かしていて居づらくなったからだ。
日当たりの良い非常階段にみんな思い思いに腰掛けてお弁当や購買のパンを広げていたが、そこへ杏子が可愛い紙袋を広げる。
「うをッ?! チョコじゃねぇか! いいのか杏子」
「あ、城之内! 卒業挟んでホワイトデー踏み倒すんじゃないわよ?」
「ハハ…… 倍返しだったね。でもありがとう、杏子」
杏子の手作りのトリュフチョコレートが2つに、可愛いビニールのラッピング。それが城之内と本田、獏良に御伽に遊戯へと行き渡るのをなまえが眺めていれば、なまえの前にもチョコレートが差し出された。
「へっ?!」
「友チョコなんだからなまえにもあるわよ」
「え、あ……うん。ありがとう」
余りにも素っ頓狂な驚き方をするので、杏子が首を傾げた。なまえもいざあからさまな紙袋を膝に乗せて中を見るが、やっぱり海馬に1番に渡すべきだったと後悔が募り始めている。
「なまえ?」
「ッ! な、なんでもない」
怪訝な顔で覗く遊戯に、なまえは素っ気ない振りをして足を組み直した。不安に渇く口の中を手っ取り早く潤そうと、紙パックの野菜ジュースのストローを咥える。
「なんだか杏子のと比べたら、全然可愛くないから気後れしちゃう」
紙袋から取り出したのは、……なんか適当にレシピ本に載っていたチョコレートとマシュマロのシリアルスティック。杏子ほど飾り気も拘りもない。
それをなまえの手から取り上げたのは御伽だった。
「なまえちゃんの手作りなら僕は何でも歓迎だよ」
あ、もちろん杏子ちゃんのもね!と付け加える御伽に続いて、遊戯や城之内、本田と獏良にも行き渡る。最後に杏子にも差し出すと、彼女もニコッと笑って受け取った。
みんな察してくれているのか海馬の名前が出てこない。なまえもどこかホッとして、ラッピングを開けて杏子のトリュフチョコレートをひとつ口に放り込んだ。
***
「じゃあ月曜日」
間の抜けた担任教師の声を合図に号令が掛かってみんな一斉に頭を下げる。次には放課後の開放感に全員が騒ぎ出した。
「じゃあ僕、じいちゃんのお店の手伝いあるから」
遊戯が早々にカバンを背負って振り返る。なまえはいつの間にか横に立っていた杏子を肘で小突いた。
どうせ昼休みの友チョコばら撒きはフェイクだったんでしょ? そんなアイコンタクトを送れば杏子は少し照れたようにカバンを後ろ手にして隠す。
「?」
首を傾げる遊戯を押し除けて杏子の方に突き飛ばした人物がいた。
「うわっ」
「遊戯!」
咄嗟に杏子が手を伸ばす。「ナイス」と思って突き飛ばした本人に目を向けてみれば、ただ隣の席の御伽に群がった女子陣の圧力だったと知って前言を撤回した。
「御伽君〜! 受け取って♡」
「御伽先輩〜!」
キャイキャイ騒ぐ女子に「ヤレヤレ」と前髪を弄る御伽。気付かないうちに、教室の端では獏良も女の子達に囲まれていた。
「獏良くんコレ……!」
「獏良君〜♡」
方々で上がる黄色い声。杏子も遊戯と一緒に帰る方向でまとまったみたいだし、邪魔するほどなまえも野暮ではない。御伽や獏良のように群がってくれる女の子が居ない城之内が悔しがって喚いている。
「アンタにはもう史上最高峰の金髪美女が居るでしょうが」とドツきたくなる衝動を抑えて、なまえはカバンを肩に担ぐと、反対の手は腰に当ててため息を漏らしながら教室を見渡した。
どこもかしこもキャッキャして、高校生らしい恋愛に輝いている。それを思うと、どうして海馬とはこんなに上手くいかないのかと自分を呪った。
騒々しい教室の中で響いた引き戸の音。雑音の一つに過ぎないそれに、閉めたのか開けたのかなんて気にもしない。だが様子がおかしいと感じたのは、オバケにでも遭遇したかのような青い顔の城之内がなまえの背後を指差した時だった。
「お、オイなまえ、う、うしろ……」
「は?」
ポス、と肩に担いでた鞄の端に何かが当たる。振り返るより先に、静まり返ってこっちを見てる杏や遊戯、御伽や本田の顔にもうそれが誰だか答えが書かれていた。
キリキリキリと回りの悪いゼンマイのように顔を後ろに向く。
案の定、それはもうこれ以上ないほどになまえを見下ろした海馬が、学ラン姿で立っていた。
「瀬───ンぶッ」
名前を呼ぼうとしたなまえの顔にバサバサっと何かが振り下ろされる。
「いきなり何すん───ッ、の、よ……?」
想像以上に大きい、白色にビニールの手触りのそれを退けてみれば、なまえの髪よりも明るい紅色の、それはもう盛大なバラの花束が目の前にあった。
「ていうか重っ」
「なんだと」
これでもかと言うほど機嫌悪そうに眉間にしわを寄せていた海馬がさらに顔をしかめる。一体何本あるのか数える気にもならない花束を、なまえは両手でなんとか抱えた。海馬が片手で持てる物がなまえにも片手で扱えると思ったら大間違いだ。本当、なんでそういう所には気が回らないかな。
海馬が舌打ちをしてなまえからカバンを毟り取る。花束は自分で持てってことですか。
「ちょっと、仕事は?!」
「仕事中だが」
それはもう忌々しそうに目配せをすれば、教室の外で海外メディアの腕章をつけた男がカメラを回している。普通に教室のど真ん中で派手な花束を渡されて、気付けば周りのキャーキャー言う騒ぎはこちらを注目して上げられていたものになっていた。
なまえがバッと顔を赤くしてワナワナと震える。
「海馬コーポレーションのジェット機で取材スタッフを日本に輸送した。“秘書”は置いてきたがな。……これで文句はないだろう」
「別の問題が発生してるの分かってる?」
「そうだな。それと同じ花束があと2つ車に積んである」
「何に使うのよ! 今朝の仕返しのつもり?」
今朝の続き。その言葉に海馬は目を細めると、組んでいた腕を下ろして鼻で笑う。
「オレに渡すものは無いのか?」
「〜〜〜なッ なんでも好きなものあげるわよ!!!」
紅色のバラを両手で抱えたなまえの顔を両手で掴むなり、頭突きとセットで海馬のキスが落ちてきた。
学校で、それも教室のど真ん中。もうどうでもいいや、周りなんて気にしない。あとで先生に呼び出されるのも怖く無い。バレンタインで盛り上がっちゃいました、それでいいでしょ?
***
「なんにも良くない」
なまえは頭を抱えていた。海馬と一緒に謹慎2日。卒業前だから大目に見てもらえたのが幸い。もう二度と衝動で動かない。
ベッドでうずくまるなまえに、シャワールームから戻ってきた海馬も横になって抱き寄せる。ベッドサイドには家中の花瓶を集めたのかってくらいの花瓶と紅色バラの花。意外とこじんまりとして見えるのは、たぶん部屋が広いせい。
「……で、いったい何本用意したのよ」
「自分で数えたらどうだ」
テーブルには1/6片無くなったダークチョコレートのホールケーキ。甘いものなんて口にしない海馬にしてはよく食べてくれたと思う。
「(花束1個で100本くらいだったとして……300本? 瀬人が中途半端な数なんか選ぶかな)」
黙り込んで考えるなまえの髪を海馬が撫でつけた。
まあ海馬が謹慎なんか食らったところで、元から学校になんて在籍だけして来てなんかいない。なまえも大学へ進むわけではないから「お休みができた」くらいにしか捉えていなかった。……もちろん反省はしているけれど。
「まあ全部お風呂に入れちゃうし、お湯に浸かりながらゆっくり数えるわ」
海馬の腕から抜け出してベッドから足を下ろす。花瓶のひとつからバラを引き抜いて眺めれば、ベルベッドの花弁と芳香が楽しませてくれる。
「おい、……あまり、その、意味を調べたりするな」
「は?」
珍しく口籠った海馬に怪訝な顔をひねれば、それが「照れている」のだとすぐに直感した。優位に立ったと悟った途端に、なまえは意地悪そうにニコーっと笑う。
「衝動で何かとんでもない意味付けしちゃった?」
「うるさいぞ」
お互いに素直じゃないし、なかなか難のある性格をしていると思う。よく付き合ってられるよね、私たち。
感情に任せたって碌な事にはならないと知っている。何度も痛い目を見てきた。でもだからこそ、そうでもしないとやってられなかったのだ。私も、瀬人も。私たちの“交際”ってそんなもの。
きっと家族になれるまでの成長痛。
なまえはそっぽ向いてバラの花を手にしたまま寝室を後にした。
365本の紅色のバラ。その意味を調べるのは、また衝動に駆られたあとのこと。
I think about you all the time 24/7, 3-6-5
「オレに渡す物は無いのか」
「無い」
それより早くしないと遅刻するんですけど。
しかし部屋を出ようにも、目の前のこの男に出入り口を塞がれて通り抜ける事ができない。後ろでは朝食を済ませたダイニングを給仕達が片付けている。
時計は8時を過ぎていた。ここから童実野高校まで車で15分。朝の出席確認は25分くらいから。そろそろヤバい。
「どいて欲しいんだけど」
「その手に持っているものは何だ」
「何って、皆んなに渡すバレンタインのチョコレートだけど?」
さも当然の事を言うな。紙袋にだって「happy Valentine Day」って書いてある。字が読めないのか? それとも横文字認識できないの? まあバラ撒き用だけどね。
そんな小馬鹿にしたような、呆れ顔のなまえに海馬の頬は引き攣るばかりだった。海馬を挟んで開け放ったドアの向こうで、手持ち無沙汰にされた車の運転手が気まずそうに立っている。
勿論分かっている。「オレの分は?」と言う事だろう。だが今そう簡単に渡す訳にはいかない。
「あのう……」
「黙って待っていろ。」
声を出した運転手に見向きもしないでそう言い放つと、可哀想に彼は「申し訳ございません」と萎縮した。
車に乗せる相手を待っている運転手は、なにも1人じゃない。……いま声を掛けたのは、海馬を待つ運転手。私が学校に遅れる分にはそう大した叱責はない。(まぁ私にはあるけど。)だけど海馬がこれ以上遅れれば、海馬コーポレーションは飛行機の管制塔をまたしっちゃかめっちゃかにするだろう。
「明後日には帰ってくると言っただろう」
「絶対に嫌」
そう、海馬が我儘を言っているのではない。……私が引き留めているようなものなのだ。
ムスッと顰めた顔を背ければ、海馬のため息が左の耳によく聞こえる。
バレンタインデーの1日やそこら大した損害ではないのかもしれない。だけど、私達には高校生活最後のバレンタイン。あと1ヶ月もしないうちに卒業式だ。だからこの日は一緒に学校へ行って、屋上でランチを食べて、放課後にチョコレートの箱を開ける……なんて事をしたいって、約束までしていた。
時計の針は8時5分を過ぎている。いつもなら物分かりの良い彼女を演じて、朝のうちにチョコレートをあげて「いってらっしゃい」のキスもする。
でも今日はダメ。
「仕事だ」
「仕事で金髪美女の秘書をお迎えするの? へぇ、瀬人もイイ御身分になったわね」
「いい加減にしろ」
なまえがねちっこく詰め寄る理由は、その仕事の内容。ニューヨークの支社で美人なタレントが1日秘書としてくっ付く《リアリティ番組》の撮影。それもバレンタインデーに。
アメリカでバレンタインはそんなに重要じゃないから仕方ないんだろうけど、仕事内容と日取りを大して確認もせず許可した海馬と、テレビ局とやり取りをした磯野に、それはもう「これでもか」と言うくらいキレ散らかしたし、まだ怒りは収まっていない。
海馬にプライベートなんてものは無い。分かってますとも。交際相手が居ようと、セレブタレントや女優なんかと比べたら私なんて平々凡々な高校生に変わりはないのだから、そりゃあ海馬を
今日はまさに、掠め取られた気分。それも海馬や磯野の不手際やら何やらが原因で。
「……もういい。」
折れたのは海馬だった。顔を背けたまま少しも向き合おうとはしないなまえに痺れを切らしたのか、海馬は組んでいた腕を下ろして道を開ける。
海馬から折れるなんて事は珍しい。なまえの方の怒りがどれだけ根深いのか、海馬が理解していることの証左でもある。
「……」
だけど、海馬が早々に折れた分、なまえは怒りの矛先を向ける場を失ってしまった。気不味い目をチラリと向ければ、海馬は腕を組んだまま「好きにしろ」とでも言うように見下ろしている。ただでさえ冷たい青い目が、尚更冷ややかになまえを見つめていた。
「……ッ、フン」
私は謝らない。別れたっていい、こんな酷い男。
感情に任せたって碌な事にはならないと知っているし、何度も痛い目を見てきた。でも今はそうでもしないとやってられない。
なまえはそっぽ向いたまま海馬を横切り、ズカズカとダイニングを後にした。「行ってきます」も「行ってらっしゃい」もナシ。もちろん「気をつけてね」も「愛してるわ」もナシ。
約束を破ったのは海馬。それに怒って罰を与えて何が悪い。
八つ当たりでもするように、いつもより何倍も乱暴にドアを閉めた。
***
「遅くなりました」
「みょうじか、まぁ席に着け」
教壇に立つ担任の教師が眼鏡の蔓を持ち上げてなまえを見るなり、間の抜けた声でとくに咎めるでもなく出席簿にボールペンをはしらせる。
なまえはなるべく穏やかにドアを閉め、クラスメイトの何人かがチラチラ見てるのも気にしないようにして席に鞄を下ろした。
「(遅かったね)」
コソッと小声で声を掛けてくる男子がいる。顔を向ければ、左隣の席の御伽が肘をついて微笑んだ。
なまえはため息混じりに鞄から必要なものだけ取り出して、後は机のサイドフックに掛けてから答えた。
「(道が混んでたのよ)」
「(へぇ、じゃあ海馬くん家から朝帰りなん───
「御伽〜、みょうじ〜」
「「ハイ、スミマセン」」
一斉にクスクスといった笑い声が教室に上がる。「怒られちゃったじゃない」と目で訴えれば、「ゴメン」と御伽が手を合わせた。で、こうして間延びした声で注意されるのまでがいつものやり取り。
ふと右方向へ目を向ければ、城之内や杏子、本田も茶化すように笑っている。遊戯も眉端を下げてこちらに振り返っていた。
***
「ハイ、アンタ達有り難く思いなさいよ?」
昼休みの非常階段。今日のランチの場所はイレギュラーだった。本当は屋上で……なんて思ったけど、バレンタインの今日の屋上は雰囲気がどこか浮か浮かしていて居づらくなったからだ。
日当たりの良い非常階段にみんな思い思いに腰掛けてお弁当や購買のパンを広げていたが、そこへ杏子が可愛い紙袋を広げる。
「うをッ?! チョコじゃねぇか! いいのか杏子」
「あ、城之内! 卒業挟んでホワイトデー踏み倒すんじゃないわよ?」
「ハハ…… 倍返しだったね。でもありがとう、杏子」
杏子の手作りのトリュフチョコレートが2つに、可愛いビニールのラッピング。それが城之内と本田、獏良に御伽に遊戯へと行き渡るのをなまえが眺めていれば、なまえの前にもチョコレートが差し出された。
「へっ?!」
「友チョコなんだからなまえにもあるわよ」
「え、あ……うん。ありがとう」
余りにも素っ頓狂な驚き方をするので、杏子が首を傾げた。なまえもいざあからさまな紙袋を膝に乗せて中を見るが、やっぱり海馬に1番に渡すべきだったと後悔が募り始めている。
「なまえ?」
「ッ! な、なんでもない」
怪訝な顔で覗く遊戯に、なまえは素っ気ない振りをして足を組み直した。不安に渇く口の中を手っ取り早く潤そうと、紙パックの野菜ジュースのストローを咥える。
「なんだか杏子のと比べたら、全然可愛くないから気後れしちゃう」
紙袋から取り出したのは、……なんか適当にレシピ本に載っていたチョコレートとマシュマロのシリアルスティック。杏子ほど飾り気も拘りもない。
それをなまえの手から取り上げたのは御伽だった。
「なまえちゃんの手作りなら僕は何でも歓迎だよ」
あ、もちろん杏子ちゃんのもね!と付け加える御伽に続いて、遊戯や城之内、本田と獏良にも行き渡る。最後に杏子にも差し出すと、彼女もニコッと笑って受け取った。
みんな察してくれているのか海馬の名前が出てこない。なまえもどこかホッとして、ラッピングを開けて杏子のトリュフチョコレートをひとつ口に放り込んだ。
***
「じゃあ月曜日」
間の抜けた担任教師の声を合図に号令が掛かってみんな一斉に頭を下げる。次には放課後の開放感に全員が騒ぎ出した。
「じゃあ僕、じいちゃんのお店の手伝いあるから」
遊戯が早々にカバンを背負って振り返る。なまえはいつの間にか横に立っていた杏子を肘で小突いた。
どうせ昼休みの友チョコばら撒きはフェイクだったんでしょ? そんなアイコンタクトを送れば杏子は少し照れたようにカバンを後ろ手にして隠す。
「?」
首を傾げる遊戯を押し除けて杏子の方に突き飛ばした人物がいた。
「うわっ」
「遊戯!」
咄嗟に杏子が手を伸ばす。「ナイス」と思って突き飛ばした本人に目を向けてみれば、ただ隣の席の御伽に群がった女子陣の圧力だったと知って前言を撤回した。
「御伽君〜! 受け取って♡」
「御伽先輩〜!」
キャイキャイ騒ぐ女子に「ヤレヤレ」と前髪を弄る御伽。気付かないうちに、教室の端では獏良も女の子達に囲まれていた。
「獏良くんコレ……!」
「獏良君〜♡」
方々で上がる黄色い声。杏子も遊戯と一緒に帰る方向でまとまったみたいだし、邪魔するほどなまえも野暮ではない。御伽や獏良のように群がってくれる女の子が居ない城之内が悔しがって喚いている。
「アンタにはもう史上最高峰の金髪美女が居るでしょうが」とドツきたくなる衝動を抑えて、なまえはカバンを肩に担ぐと、反対の手は腰に当ててため息を漏らしながら教室を見渡した。
どこもかしこもキャッキャして、高校生らしい恋愛に輝いている。それを思うと、どうして海馬とはこんなに上手くいかないのかと自分を呪った。
騒々しい教室の中で響いた引き戸の音。雑音の一つに過ぎないそれに、閉めたのか開けたのかなんて気にもしない。だが様子がおかしいと感じたのは、オバケにでも遭遇したかのような青い顔の城之内がなまえの背後を指差した時だった。
「お、オイなまえ、う、うしろ……」
「は?」
ポス、と肩に担いでた鞄の端に何かが当たる。振り返るより先に、静まり返ってこっちを見てる杏や遊戯、御伽や本田の顔にもうそれが誰だか答えが書かれていた。
キリキリキリと回りの悪いゼンマイのように顔を後ろに向く。
案の定、それはもうこれ以上ないほどになまえを見下ろした海馬が、学ラン姿で立っていた。
「瀬───ンぶッ」
名前を呼ぼうとしたなまえの顔にバサバサっと何かが振り下ろされる。
「いきなり何すん───ッ、の、よ……?」
想像以上に大きい、白色にビニールの手触りのそれを退けてみれば、なまえの髪よりも明るい紅色の、それはもう盛大なバラの花束が目の前にあった。
「ていうか重っ」
「なんだと」
これでもかと言うほど機嫌悪そうに眉間にしわを寄せていた海馬がさらに顔をしかめる。一体何本あるのか数える気にもならない花束を、なまえは両手でなんとか抱えた。海馬が片手で持てる物がなまえにも片手で扱えると思ったら大間違いだ。本当、なんでそういう所には気が回らないかな。
海馬が舌打ちをしてなまえからカバンを毟り取る。花束は自分で持てってことですか。
「ちょっと、仕事は?!」
「仕事中だが」
それはもう忌々しそうに目配せをすれば、教室の外で海外メディアの腕章をつけた男がカメラを回している。普通に教室のど真ん中で派手な花束を渡されて、気付けば周りのキャーキャー言う騒ぎはこちらを注目して上げられていたものになっていた。
なまえがバッと顔を赤くしてワナワナと震える。
「海馬コーポレーションのジェット機で取材スタッフを日本に輸送した。“秘書”は置いてきたがな。……これで文句はないだろう」
「別の問題が発生してるの分かってる?」
「そうだな。それと同じ花束があと2つ車に積んである」
「何に使うのよ! 今朝の仕返しのつもり?」
今朝の続き。その言葉に海馬は目を細めると、組んでいた腕を下ろして鼻で笑う。
「オレに渡すものは無いのか?」
「〜〜〜なッ なんでも好きなものあげるわよ!!!」
紅色のバラを両手で抱えたなまえの顔を両手で掴むなり、頭突きとセットで海馬のキスが落ちてきた。
学校で、それも教室のど真ん中。もうどうでもいいや、周りなんて気にしない。あとで先生に呼び出されるのも怖く無い。バレンタインで盛り上がっちゃいました、それでいいでしょ?
***
「なんにも良くない」
なまえは頭を抱えていた。海馬と一緒に謹慎2日。卒業前だから大目に見てもらえたのが幸い。もう二度と衝動で動かない。
ベッドでうずくまるなまえに、シャワールームから戻ってきた海馬も横になって抱き寄せる。ベッドサイドには家中の花瓶を集めたのかってくらいの花瓶と紅色バラの花。意外とこじんまりとして見えるのは、たぶん部屋が広いせい。
「……で、いったい何本用意したのよ」
「自分で数えたらどうだ」
テーブルには1/6片無くなったダークチョコレートのホールケーキ。甘いものなんて口にしない海馬にしてはよく食べてくれたと思う。
「(花束1個で100本くらいだったとして……300本? 瀬人が中途半端な数なんか選ぶかな)」
黙り込んで考えるなまえの髪を海馬が撫でつけた。
まあ海馬が謹慎なんか食らったところで、元から学校になんて在籍だけして来てなんかいない。なまえも大学へ進むわけではないから「お休みができた」くらいにしか捉えていなかった。……もちろん反省はしているけれど。
「まあ全部お風呂に入れちゃうし、お湯に浸かりながらゆっくり数えるわ」
海馬の腕から抜け出してベッドから足を下ろす。花瓶のひとつからバラを引き抜いて眺めれば、ベルベッドの花弁と芳香が楽しませてくれる。
「おい、……あまり、その、意味を調べたりするな」
「は?」
珍しく口籠った海馬に怪訝な顔をひねれば、それが「照れている」のだとすぐに直感した。優位に立ったと悟った途端に、なまえは意地悪そうにニコーっと笑う。
「衝動で何かとんでもない意味付けしちゃった?」
「うるさいぞ」
お互いに素直じゃないし、なかなか難のある性格をしていると思う。よく付き合ってられるよね、私たち。
感情に任せたって碌な事にはならないと知っている。何度も痛い目を見てきた。でもだからこそ、そうでもしないとやってられなかったのだ。私も、瀬人も。私たちの“交際”ってそんなもの。
きっと家族になれるまでの成長痛。
なまえはそっぽ向いてバラの花を手にしたまま寝室を後にした。
365本の紅色のバラ。その意味を調べるのは、また衝動に駆られたあとのこと。
I think about you all the time 24/7, 3-6-5
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