海馬瀬人
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コットン・キャンディ
車内は最悪だった。
社交辞令的な付き合いで渋々参加したパーティで、リアリティ番組タレントの下品な女にドレスの裾をわざと踏まれて転びそうになった挙句、その一瞬のブサイクな顔をパパラッチされたら誰だって機嫌は悪くなる。
でもあの女が私のドレスを踏んだのは、逆ナンした海馬からコケにされたのがそもそもの原因で、その応報が同伴の私に降ってきたというわけだ。
海馬があの時もう少し大人でスマートな対応を見せればだいぶ結果は違ってたのに。
……それはそれでムカつくけど。
イライラがおさまらずにアクセルをさらに踏み抜く。運転手も側近もSPも、海馬ごとパーティ会場に置いて、愛車のレンジローバーで夜の街を抜けてハイウェイを飛ばしていた。
いっそ事故ってもいいくらいの気持ちで制限速度のラインを行ったり来たりしていれば、当たり前のようにパトカーが追いかけてきた。
***
制限速度を守ったレンジローバーが、ニューヨークの街並みに溶けていた。運転席では海馬が一言も喋らずにハンドルを握っている。なまえはウィンドウに肘をつき、不貞腐れた顔で外を見ていた。
手首がヒリヒリする。車に3丁のハンドガンを載せていたし、パーティでほんの一杯シャンパンも飲んでた。拘留は免れたものの、アメリカでのライセンスは停止になるし罰金の切符は切られるし、トドメは磯野を呼んだのに海馬がひとりで迎えに来た。
ため息をこぼすと、視界の左側で海馬がこちらに顔を向ける。
「貴様もいい加減淑女 というのを身に付けたらどうだ。」
瀬人にだけは言われたくない。喉元にまでその言葉が込み上げてくるが、なまえはグッと飲み込んで海馬に顔を向けた。
海馬は相変わらず平然とした顔で正面を向いているが、時折なまえの方へチラリと目だけやったりする。
「悪いけど年々我慢がきかなくなってるみたい。」
やられたらやり返す。それを信条にして来たというのに、海馬の立場を考えればあの場でビッチのケツを蹴り飛ばすなんて事はできない。あの場に限らず……なまえは海馬と結婚してからというもの、精神的に不自由な生活を粛々と受け入れて来た。
デュエリストである事こそストレスの唯一の捌け口だったが、ゲームのパワーバランスや環境が著しく変化し始めてからは、ブランドイメージのため海馬と共に“伝説のデュエリスト”という立場に留まる事を余儀なくされた。
以来、なまえは意味もなく物を壊したり、家政婦に当たり散らしたり、射撃場に籠ったりしたと思えば、突然内戦をしている国に飛んで慈善活動に没頭したり、救済団体のパトロンになったり、熱心な動物愛護や環境保護団体員を演じたり…… かなり参っていたのかもしれない。アルコールやドラッグに溺れないだけ健全だと褒めるべきだろう。
今年で結婚して5年目。やっと23歳過ぎたくらいだが、人生はまだ1/4も費やしていない。そう思うだけで、この先どんな苦悩が待っているのかと思うと……その不安を壊したくて、どうしようもなくなった。
海馬も悪い。そう思うようになってしまった自分が憎たらしい。こんなに愛していて、愛されていて、……高校を出てすぐ結婚して、自分はなんて幸せな女だろうと思っていたのに。海馬は相変わらず仕事ばかりで、強引で、精神的な話しを聞いてくれるタイプでもない。
幸せになるためにはお互いの努力が必要なはずなのに、海馬は海馬自身の努力だけでなまえを幸せにしようとした。たった5年で、そのすれ違いは確実に亀裂へと変化している。
なまえがまたひとつこぼしたため息に、海馬は急ブレーキを踏んだ。
突然の事になまえも受け身を取りきれず、シートベルトに肩口を押さえ込まれて咳き込む。
文句を言おうと海馬の方へ振り向けば、彼はもうリバースギアを入れて助手席に手を掛けていた。
さっき警察のお世話になったばかりだと言うのに、信号やらバイクやら対向車やらを無視して、海馬は強引に横道へ入るとスピードを出して別のルートを進み始める。邸宅も入っているKCビルはさっきの道の先だし、パーティ会場なんてさらに反対側だ。
「どこ行くの?」と聞いても無駄な事は知っている。
海馬はいつだって強引だ。自分が正しいと思った事を貫き通し、必ずそれを証明してみせてきた。……きっと今だって、私に対して何か思い付いたからこんな事をしているのだろう。
なまえは足を組み直して、また外の景色へと目を向けた。
***
「食え。」
「は?」
周りから向けられた目が痛い。海馬を知る人なんか携帯のカメラを向けている。そもそも、こんなところでレッドカーペットを踏むような衣装を着ていたら目立つに決まっていた。
車を止めたと思えば、ショーケースが並ぶありきたりなアイスクリームショップに連れ込まれた。閉店間際で客のいない小さな店内に、学生時代よく行っていたアイス屋を思い出す。
窓際のチープな椅子に座らされて待っていれば、海馬はパープルとピンクのマーブルカラーが毒々しいほど鮮やかなアイスクリームを差し出してきた。
怪訝な顔で……一応は素直に受け取る。このアイスクリームチェーン店で、なまえが一番好きなフレーバーだ。
「パイント単位で食べたいわ。」
「トレーナーには内緒にしてやろう。」
「もうバレてると思うけど?」
首を竦めて目線で合図をすれば、海馬も窓の外で携帯カメラを向ける一般人を見た。言わずもがな、もうSNSに出回ってるだろうし、明日になればパーティでの騒動とセットでゴシップ誌に叩かれるのが関の山。
それを海馬は1ミリたりとも意に介さないで、はやく食べろと言うような目でなまえに顎で指図する。
なまえがピンクのプラスチックスプーンでアイスを口に運ぼうとしたとき、海馬の携帯が鳴り響いた。
手を止めて口を閉じ、「出たら?」と肩を竦める。海馬は鬱陶しそうにため息をつくと携帯を取り出し、番号だけの表示に顔をしかめた。
「登録してない番号ならオレが出る必要はない。」
海馬は迷わずDecline をタップしてテーブルに置く。
それを目で追ったあと、再びアイスを口にしようとしたとき、邪魔をするようにまた着信音がその手を止めた。
カップの端に沿って溶け始めたアイスをテーブルに置き、海馬がまた[拒否]を押してしまう前になまえは携帯を取り上げた。
海馬の手が追い掛けてくるより先になまえは人差し指を立てて通行止めをした。もう片方の手は無言のままAnswer をタップして耳にやる。
すると、さっきのパーティで裾を踏んでくれた女の声が耳を舐めまわした。彼女のセクシーな声とデートのお誘いを終始無言で聞き流していると、返事のない電話に彼女から「Mr.Kaiba ?」と不安げな声が掛けられる。
「That perfume smells even over the phone.
Would I re-develop? 」
電話の向こうで騒ぎ出した女の声は海馬にまで聞こえた。なまえが目を細めて海馬の顔に注視するので、海馬も心底不服そうな顔で応酬する。
「You mistake phone call to Mrs. Kaiba.
You're really clever girl. 」
それだけ言い捨てると、なまえは海馬の目を見たまま電話を切った。
海馬の携帯をテーブルに置くと、半分ほど溶けたアイスクリームのカップを取り上げて黙々と食べ始める。スープでも掬って飲むかのような作業に、なまえは足を組み直して椅子の背もたれに体を預けた。
「また電話が来たら、今度は賢くなる方法を彼女に教えなきゃ。」
「フン、デュエル・アカデミアにでも入学させるか?」
「まさか!」
なまえはプラのスプーンを噛み、離すと、「髪を赤く染めろって言ってやるのよ」と返した。海馬は流石に眉を顰めて腕を組む。
「excuse me 」
海馬がなまえに目を向けたまま、カウンターの店員に声をかける。店員の返事でやっと顔だけ向け、海馬はため息まじりに言った。
「Cotton candy flavor ice cream,half gallon takeout. 」
「……Please は?」
なまえは店員にウインクして海馬の非礼を詫びた。
***
KCで雇ったスタイリストが、なまえのオートクチュールドレスのバックファスナーを下ろす。なまえは髪をかきやって右肩に流し、腕を組んで、重たいビーズ刺繍のドレスから解放されるのを待った。
目の下のクマをファンデーションで隠すようになった大人が、目の前の鏡に映っている。誰しもが憧れるような暮らしを海馬から提供されているというのに、どうしようもない恐れや不安が常に自分を捉えていた。交際当時の自信に溢れたデュエリストの姿も…今では“派手な演出”なしに、誰かへ誇示することさえ出来ない。
ファスナーを全て下されたところでスタイリストが仕切のカーテンの外へ出るので、なまえは慎重にオーガンジーの袖から腕を抜き、シルクの裏地に任せて体から滑り落とした。
かなりの重量があるドレスを脱ぐと、カーテンの隙間からスタイリストに渡す。鏡に映る今の自分を、記憶にある学生時代の若い身体と比べて落ち込む。着物よりも重いドレスから解放されると、まずは肩をほぐした。
いつもの気楽な格好で部屋を出てリビングに戻るが、そこに海馬の姿はない。彼は“ゆっくりと休む”というのを知ってはいるが、人に取らせるだけで自分には不必要だと思っている節があった。事実、海馬は着替えるなりさっさと自室に戻ってパソコンを見ている。
きっと一生この生活が続く。仕事一辺倒な夫に、不自由のない暮らしが与えられるだけ。子供を作るためのものではないセックスの相手をして、たまに今日のようなパーティで夫の付属品という見せ物を勤める。世間は海馬のスキャンダルを探していて、不倫相手に立候補する馬鹿な女に感情を振り回される毎日。
大人になれていないだけだと分かっていた。今日のアイスクリームだって、昔好きだったものでなまえの気持ちが落ち着くのを、海馬が知っていたから連れて行ってくれたのだ。全て見透かされている。だけど、この不安な気持ちの原因だけは見破ってはくれない。
キッチンへ向かうと、ケトルに水を注いでスイッチを入れる。家政婦がすっ飛んできて「私がやります」と申し出てきたが、なまえは首を横に振った。
「いいのよ、すこし動いて気を紛らわせたいの。」
マグカップをふたつ。片方にはお気に入りのレモングラスのティーバッグ、もう片方にはインスタント・コーヒー。何年も淹れてやっているが、コーヒーだけはいまだに分量がよく分からない。今日も適当に粉を入れて、沸騰したお湯を流し込んだ。
***
「これは何だ。」
案の定、海馬はパソコンから顔を上げてなまえを見た。吐き出さずに飲み込んだのは、少なくとも“なまえが淹れてくれたコーヒー”だからだと知っている。それでも海馬は疲れた顔を一層顰めて、マグカップを覗き込んだ。
「コーヒーだと思う。」
「いつになったらコーヒーの一杯マトモに淹れられるようになるんだ。」
「ティーバッグのコーヒーを開発したら私でも作れるようになるわ。」
「ドリップパックのコーヒーはどうした。」
「“クチ ”が小さくてすぐ溢れるじゃない。」
レモングラスティーの入ったマグカップを片手に、なまえが口を曲げる。海馬はあれだけ貶しておいて、なまえの目を見たままコーヒーをもうひと口飲んだ。
「明日の朝食は私が作るわ。」
「いきなりどういう風の吹きまわしだ。」
「べつに。」
なまえは顔を背けると、デスク前のソファに座りこんでテーブルにマグカップを置いた。海馬は一度パソコンに目を向けて軽くマウスを触ると、社長椅子から立ち上がってなまえの対面のソファに腰を下ろした。
「今日のことなら……」
「私が悪かったわ。」
テーブルにコーヒーマグを置こうとした海馬の手が止まる。なまえの顔をチラリと見たあと、やはりマグカップをテーブルに置いて海馬は膝に肘をついて前傾姿勢のまま息をついた。
「私だけ、ずっと高校生のままね。……考え方や、ストレスの解消法とかの話しよ?
瀬人と結婚した事が人生のゴールみたいに感じて、とても幸せだったけど、周りから社会人として求められる自分のイメージと、本当の自分自身がひどく乖離していて……
何て言うか、今の私は瀬人に不釣り合いな人間になってしまった気がして、ね。……不安なのよ。」
それだけ絞り出すと、震える手を誤魔化すようにマグカップを取り、両手で包み込む。口で不安だと言ったばかりだが、寒いフリをして取り繕おうとした。
それを静かに目で追っていた海馬は、やっとソファに背を預けて足を組んだ。いつものような、偉そうな態度。癖として染み付いているのだから仕方ないが、ひどく不安定な側からすると、その態度あってこそ海馬の言葉に正当性や自信を感じる事ができるのだろう。
「オレは貴様のどんな部分でも受け入れられると思ったから、結婚をしたんだ。なまえ自身が自分をどう思おうと、オレに相応しいだの釣り合ってるだの……今更わかりきった事で悩むな。」
「コーヒーひとつ淹れられなくても?」
「オレの妻であるという事以外、お前に必要なものは何もない。」
鼻で笑う海馬に、なまえは目をそらしてマグカップに口をつけた。目を閉じてお茶を含み、暖かいスチームが鼻先に当たることで、自分の鼻先が冷たいことを知る。
こみ上げる不安をお茶と共に飲み込むと、左手の指輪がカップに当たる音に目を開けた。
ため息とは違う、安堵の息をゆっくりと吐いて、なまえはマグカップをテーブルに下ろした。
「来い。」
海馬が片手をなまえに伸ばす。その手を取り、なまえはゆっくりと立ち上がって、そして溶けるように海馬の隣へ腰を下ろした。
車内は最悪だった。
社交辞令的な付き合いで渋々参加したパーティで、リアリティ番組タレントの下品な女にドレスの裾をわざと踏まれて転びそうになった挙句、その一瞬のブサイクな顔をパパラッチされたら誰だって機嫌は悪くなる。
でもあの女が私のドレスを踏んだのは、逆ナンした海馬からコケにされたのがそもそもの原因で、その応報が同伴の私に降ってきたというわけだ。
海馬があの時もう少し大人でスマートな対応を見せればだいぶ結果は違ってたのに。
……それはそれでムカつくけど。
イライラがおさまらずにアクセルをさらに踏み抜く。運転手も側近もSPも、海馬ごとパーティ会場に置いて、愛車のレンジローバーで夜の街を抜けてハイウェイを飛ばしていた。
いっそ事故ってもいいくらいの気持ちで制限速度のラインを行ったり来たりしていれば、当たり前のようにパトカーが追いかけてきた。
***
制限速度を守ったレンジローバーが、ニューヨークの街並みに溶けていた。運転席では海馬が一言も喋らずにハンドルを握っている。なまえはウィンドウに肘をつき、不貞腐れた顔で外を見ていた。
手首がヒリヒリする。車に3丁のハンドガンを載せていたし、パーティでほんの一杯シャンパンも飲んでた。拘留は免れたものの、アメリカでのライセンスは停止になるし罰金の切符は切られるし、トドメは磯野を呼んだのに海馬がひとりで迎えに来た。
ため息をこぼすと、視界の左側で海馬がこちらに顔を向ける。
「貴様もいい加減
瀬人にだけは言われたくない。喉元にまでその言葉が込み上げてくるが、なまえはグッと飲み込んで海馬に顔を向けた。
海馬は相変わらず平然とした顔で正面を向いているが、時折なまえの方へチラリと目だけやったりする。
「悪いけど年々我慢がきかなくなってるみたい。」
やられたらやり返す。それを信条にして来たというのに、海馬の立場を考えればあの場でビッチのケツを蹴り飛ばすなんて事はできない。あの場に限らず……なまえは海馬と結婚してからというもの、精神的に不自由な生活を粛々と受け入れて来た。
デュエリストである事こそストレスの唯一の捌け口だったが、ゲームのパワーバランスや環境が著しく変化し始めてからは、ブランドイメージのため海馬と共に“伝説のデュエリスト”という立場に留まる事を余儀なくされた。
以来、なまえは意味もなく物を壊したり、家政婦に当たり散らしたり、射撃場に籠ったりしたと思えば、突然内戦をしている国に飛んで慈善活動に没頭したり、救済団体のパトロンになったり、熱心な動物愛護や環境保護団体員を演じたり…… かなり参っていたのかもしれない。アルコールやドラッグに溺れないだけ健全だと褒めるべきだろう。
今年で結婚して5年目。やっと23歳過ぎたくらいだが、人生はまだ1/4も費やしていない。そう思うだけで、この先どんな苦悩が待っているのかと思うと……その不安を壊したくて、どうしようもなくなった。
海馬も悪い。そう思うようになってしまった自分が憎たらしい。こんなに愛していて、愛されていて、……高校を出てすぐ結婚して、自分はなんて幸せな女だろうと思っていたのに。海馬は相変わらず仕事ばかりで、強引で、精神的な話しを聞いてくれるタイプでもない。
幸せになるためにはお互いの努力が必要なはずなのに、海馬は海馬自身の努力だけでなまえを幸せにしようとした。たった5年で、そのすれ違いは確実に亀裂へと変化している。
なまえがまたひとつこぼしたため息に、海馬は急ブレーキを踏んだ。
突然の事になまえも受け身を取りきれず、シートベルトに肩口を押さえ込まれて咳き込む。
文句を言おうと海馬の方へ振り向けば、彼はもうリバースギアを入れて助手席に手を掛けていた。
さっき警察のお世話になったばかりだと言うのに、信号やらバイクやら対向車やらを無視して、海馬は強引に横道へ入るとスピードを出して別のルートを進み始める。邸宅も入っているKCビルはさっきの道の先だし、パーティ会場なんてさらに反対側だ。
「どこ行くの?」と聞いても無駄な事は知っている。
海馬はいつだって強引だ。自分が正しいと思った事を貫き通し、必ずそれを証明してみせてきた。……きっと今だって、私に対して何か思い付いたからこんな事をしているのだろう。
なまえは足を組み直して、また外の景色へと目を向けた。
***
「食え。」
「は?」
周りから向けられた目が痛い。海馬を知る人なんか携帯のカメラを向けている。そもそも、こんなところでレッドカーペットを踏むような衣装を着ていたら目立つに決まっていた。
車を止めたと思えば、ショーケースが並ぶありきたりなアイスクリームショップに連れ込まれた。閉店間際で客のいない小さな店内に、学生時代よく行っていたアイス屋を思い出す。
窓際のチープな椅子に座らされて待っていれば、海馬はパープルとピンクのマーブルカラーが毒々しいほど鮮やかなアイスクリームを差し出してきた。
怪訝な顔で……一応は素直に受け取る。このアイスクリームチェーン店で、なまえが一番好きなフレーバーだ。
「パイント単位で食べたいわ。」
「トレーナーには内緒にしてやろう。」
「もうバレてると思うけど?」
首を竦めて目線で合図をすれば、海馬も窓の外で携帯カメラを向ける一般人を見た。言わずもがな、もうSNSに出回ってるだろうし、明日になればパーティでの騒動とセットでゴシップ誌に叩かれるのが関の山。
それを海馬は1ミリたりとも意に介さないで、はやく食べろと言うような目でなまえに顎で指図する。
なまえがピンクのプラスチックスプーンでアイスを口に運ぼうとしたとき、海馬の携帯が鳴り響いた。
手を止めて口を閉じ、「出たら?」と肩を竦める。海馬は鬱陶しそうにため息をつくと携帯を取り出し、番号だけの表示に顔をしかめた。
「登録してない番号ならオレが出る必要はない。」
海馬は迷わず
それを目で追ったあと、再びアイスを口にしようとしたとき、邪魔をするようにまた着信音がその手を止めた。
カップの端に沿って溶け始めたアイスをテーブルに置き、海馬がまた[拒否]を押してしまう前になまえは携帯を取り上げた。
海馬の手が追い掛けてくるより先になまえは人差し指を立てて通行止めをした。もう片方の手は無言のまま
すると、さっきのパーティで裾を踏んでくれた女の声が耳を舐めまわした。彼女のセクシーな声とデートのお誘いを終始無言で聞き流していると、返事のない電話に彼女から「
「
電話の向こうで騒ぎ出した女の声は海馬にまで聞こえた。なまえが目を細めて海馬の顔に注視するので、海馬も心底不服そうな顔で応酬する。
「
それだけ言い捨てると、なまえは海馬の目を見たまま電話を切った。
海馬の携帯をテーブルに置くと、半分ほど溶けたアイスクリームのカップを取り上げて黙々と食べ始める。スープでも掬って飲むかのような作業に、なまえは足を組み直して椅子の背もたれに体を預けた。
「また電話が来たら、今度は賢くなる方法を彼女に教えなきゃ。」
「フン、デュエル・アカデミアにでも入学させるか?」
「まさか!」
なまえはプラのスプーンを噛み、離すと、「髪を赤く染めろって言ってやるのよ」と返した。海馬は流石に眉を顰めて腕を組む。
「
海馬がなまえに目を向けたまま、カウンターの店員に声をかける。店員の返事でやっと顔だけ向け、海馬はため息まじりに言った。
「
「……
なまえは店員にウインクして海馬の非礼を詫びた。
***
KCで雇ったスタイリストが、なまえのオートクチュールドレスのバックファスナーを下ろす。なまえは髪をかきやって右肩に流し、腕を組んで、重たいビーズ刺繍のドレスから解放されるのを待った。
目の下のクマをファンデーションで隠すようになった大人が、目の前の鏡に映っている。誰しもが憧れるような暮らしを海馬から提供されているというのに、どうしようもない恐れや不安が常に自分を捉えていた。交際当時の自信に溢れたデュエリストの姿も…今では“派手な演出”なしに、誰かへ誇示することさえ出来ない。
ファスナーを全て下されたところでスタイリストが仕切のカーテンの外へ出るので、なまえは慎重にオーガンジーの袖から腕を抜き、シルクの裏地に任せて体から滑り落とした。
かなりの重量があるドレスを脱ぐと、カーテンの隙間からスタイリストに渡す。鏡に映る今の自分を、記憶にある学生時代の若い身体と比べて落ち込む。着物よりも重いドレスから解放されると、まずは肩をほぐした。
いつもの気楽な格好で部屋を出てリビングに戻るが、そこに海馬の姿はない。彼は“ゆっくりと休む”というのを知ってはいるが、人に取らせるだけで自分には不必要だと思っている節があった。事実、海馬は着替えるなりさっさと自室に戻ってパソコンを見ている。
きっと一生この生活が続く。仕事一辺倒な夫に、不自由のない暮らしが与えられるだけ。子供を作るためのものではないセックスの相手をして、たまに今日のようなパーティで夫の付属品という見せ物を勤める。世間は海馬のスキャンダルを探していて、不倫相手に立候補する馬鹿な女に感情を振り回される毎日。
大人になれていないだけだと分かっていた。今日のアイスクリームだって、昔好きだったものでなまえの気持ちが落ち着くのを、海馬が知っていたから連れて行ってくれたのだ。全て見透かされている。だけど、この不安な気持ちの原因だけは見破ってはくれない。
キッチンへ向かうと、ケトルに水を注いでスイッチを入れる。家政婦がすっ飛んできて「私がやります」と申し出てきたが、なまえは首を横に振った。
「いいのよ、すこし動いて気を紛らわせたいの。」
マグカップをふたつ。片方にはお気に入りのレモングラスのティーバッグ、もう片方にはインスタント・コーヒー。何年も淹れてやっているが、コーヒーだけはいまだに分量がよく分からない。今日も適当に粉を入れて、沸騰したお湯を流し込んだ。
***
「これは何だ。」
案の定、海馬はパソコンから顔を上げてなまえを見た。吐き出さずに飲み込んだのは、少なくとも“なまえが淹れてくれたコーヒー”だからだと知っている。それでも海馬は疲れた顔を一層顰めて、マグカップを覗き込んだ。
「コーヒーだと思う。」
「いつになったらコーヒーの一杯マトモに淹れられるようになるんだ。」
「ティーバッグのコーヒーを開発したら私でも作れるようになるわ。」
「ドリップパックのコーヒーはどうした。」
「“クチ ”が小さくてすぐ溢れるじゃない。」
レモングラスティーの入ったマグカップを片手に、なまえが口を曲げる。海馬はあれだけ貶しておいて、なまえの目を見たままコーヒーをもうひと口飲んだ。
「明日の朝食は私が作るわ。」
「いきなりどういう風の吹きまわしだ。」
「べつに。」
なまえは顔を背けると、デスク前のソファに座りこんでテーブルにマグカップを置いた。海馬は一度パソコンに目を向けて軽くマウスを触ると、社長椅子から立ち上がってなまえの対面のソファに腰を下ろした。
「今日のことなら……」
「私が悪かったわ。」
テーブルにコーヒーマグを置こうとした海馬の手が止まる。なまえの顔をチラリと見たあと、やはりマグカップをテーブルに置いて海馬は膝に肘をついて前傾姿勢のまま息をついた。
「私だけ、ずっと高校生のままね。……考え方や、ストレスの解消法とかの話しよ?
瀬人と結婚した事が人生のゴールみたいに感じて、とても幸せだったけど、周りから社会人として求められる自分のイメージと、本当の自分自身がひどく乖離していて……
何て言うか、今の私は瀬人に不釣り合いな人間になってしまった気がして、ね。……不安なのよ。」
それだけ絞り出すと、震える手を誤魔化すようにマグカップを取り、両手で包み込む。口で不安だと言ったばかりだが、寒いフリをして取り繕おうとした。
それを静かに目で追っていた海馬は、やっとソファに背を預けて足を組んだ。いつものような、偉そうな態度。癖として染み付いているのだから仕方ないが、ひどく不安定な側からすると、その態度あってこそ海馬の言葉に正当性や自信を感じる事ができるのだろう。
「オレは貴様のどんな部分でも受け入れられると思ったから、結婚をしたんだ。なまえ自身が自分をどう思おうと、オレに相応しいだの釣り合ってるだの……今更わかりきった事で悩むな。」
「コーヒーひとつ淹れられなくても?」
「オレの妻であるという事以外、お前に必要なものは何もない。」
鼻で笑う海馬に、なまえは目をそらしてマグカップに口をつけた。目を閉じてお茶を含み、暖かいスチームが鼻先に当たることで、自分の鼻先が冷たいことを知る。
こみ上げる不安をお茶と共に飲み込むと、左手の指輪がカップに当たる音に目を開けた。
ため息とは違う、安堵の息をゆっくりと吐いて、なまえはマグカップをテーブルに下ろした。
「来い。」
海馬が片手をなまえに伸ばす。その手を取り、なまえはゆっくりと立ち上がって、そして溶けるように海馬の隣へ腰を下ろした。