歌仙兼定
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君をおきて
何も知らない、まだあどけない主に全てを教えたのは歌仙だった。
まだ外で人の子と遊んでいたい盛りだったろうに、主は様々な理由でたった独り、この本丸を立ち上げた。──初期刀は歌仙兼定。まだ教養も暮らし向きの事もわからない、真っ白な状態の主に、歌仙は何年もの歳月をかけて様々な事を教えていった。
主には、歌仙が求める雅さの素養があった。
手先が器用で覚えが早いし、元々の感覚や感性も良かったのだろう。歌仙は利発な人の子であった主に夢中になっていった。
今思えば、この時の歌仙は過保護でもあったかもしれない。主がものの分別がつくまで、初期刀である歌仙本人と、初鍛刀の前田藤四郎を加えても片手で数えるに足る程のごく僅かな刀剣だけで、それ以上誰か人手を増やそうとは歌仙がさせなかった。
主が十八になる生れ月までのおおよそ三年間は、戦争中の本丸拠点という立場としては長く苦しい時間だった。それでも歌仙は主の代わりに上手く出陣や遠征、内当番を、太刀一振り居ないこの少数精鋭で回しつつ、熱心に主の教育係も勤め上げた。正直当時の人使いの荒さにはほとほと参ったが、それでも歌仙が居なければ、今のこの本丸は成り立っていなかっただろう。
教養を身に付け十八歳になった主に、歌仙が次に教えたものは “恋” だった。
歌仙は主に、人の子としての在るべき姿を全うして欲しいと願っていた。だから必要以上に刀剣男士達に肩入れする事を厳しく戒めていたし、自身を含む本丸の刀剣達への牽制も忘れなかった。
歌仙は最初から様々な本や絵巻を主に読ませて、主には(歌仙が)理想とする恋愛の“手順”を刷り込んでいた。それが次第に現実的なものにすり替わっていっただけだ。
演練と称して主を連れ出して、何人もの どこぞの男の審神者を、その目に見せるようになった。今だから言える事だが、その時の歌仙の顔を思い出せば、身を切る思いでそうして居たんだと思う。良い殿御があれば、主に文や和歌を詠みかけるよう勧めたりもしていた。
それらが切っ掛けとなったんだろう。次第に、主は歌仙を遠去けるようになっていった。…歌仙はあの時、少しでも自分の行いを悔いただろうか。…ただ言える事は、意外にも歌仙はすぐに身を引いた。しっかりと考えた上で自身の意見主張を通せるまでになった主の、最初の意思表示を汲んでの事だった。
主が歌仙を遠去けたばかりの頃は、本当に危うい場面が多発した。それこそ折りはしなかったものの、初めて瀕死の重傷を負わせ何日も目覚めない奴だって出した。いきなり刀剣が立て続けに増えて、仲間同士の諍いが起きた事もあった。それでも歌仙が主を宥めたり、時には水面下で手を回して収めたりと奔走し、また主自身も不甲斐ない自分と無くてはならない歌仙という存在を再認識した。
そうやって成長していって、主は一人前になっていった。
主が二十の年頃を迎えるまでのさらに二年を、歌仙はあくまでいち刀剣男士として仕えた。主のよき理解者として、主の一番の味方として。
だけど、主がそれをついに破ってしまう事があった。
──歌仙は元より、主の教育を受け負っていた頃から、手習いの一環として主と和歌の贈答をしていた。日々の移ろいや季節毎の情景に留まらず、その大半は恋歌や、詠みかけられた恋歌に対しての返歌など様々な課題を与え、経験を積ませていた。
それは歌仙が知る限りの恋愛ステータスを身に付けさせる物だった。
それも十八の頃から二十までの歳の頃には、主が歌仙と距離を置いた事もあって、手習いの範疇での恋歌の贈答は行われていなかった。
それをある時突然、主が歌仙にひとつ寄越したのだ。主の庭にほころびはじめた金木犀の枝を手折り、その和歌を結びつけて。
垂髪の みだれもしらず うちふせば
まづかきやりし 君ぞ恋しき
──髪が乱れるのも忘れて横になると
まずかきわけてくれた、あの頃の貴方がとても恋しい。
歌仙はそれに和歌を返さなかった。代わりに樒の葉に「夢」とだけ書いて、突き返した。
“夢と思って、お忘れなさい”、と。
金木犀の甘い香りを添えた“初恋”。主が初めて見せたその本心を、歌仙は握りつぶした。…主からのこの和歌が、決して前のようなゴッコ遊びの和歌ではないと、歌仙は知っていたから。そして歌仙も、自分の本心をわかっていたから。
決して刀剣と審神者との恋が不毛な物だとか、あってはならないなんて事は無かった。それこそ政府へ打診すれば、刀剣男士と審神者が婚姻を契るための申請書なんて簡単に発布されるくらいに普通の事だった。それは歌仙も主も知っていた。
それでも歌仙は、手塩に掛けて“何処に出しても恥ずかしくない美しい審神者”へと育て上げた主に、人の子として生きていて欲しいと願い続けていた。
たとえ審神者というものが、人の子としては既に片足を踏み外した存在であると分かっていても。
正直を言うと、皆んな主と歌仙にはいっそのことくっ付いて幸せになって欲しいと思っていた。…人の子の時間は、朝露が輝ける時間と同じくらい短い。主が歌仙といて幸せならば、どうかその主の人生を、全て幸せにしてやって欲しいと。
主が二十一度目の生まれ月を迎えた頃だった。
──歌仙はついに主に手を伸ばした。
どんな心境の変化があったのかは、暫くの間見当が付かなかった。歌仙は人が変わったように主を慈しんで愛した。でもきっとこれが、歌仙が長年抑え込んできた本心だったんだろう。
主も歌仙も、本当に幸せそうだった。
主に全てを教えてきた歌仙は、ついに自身が最後の “男” までも教えた。
演練で顔を合わせる他の審神者や刀剣達の間でも、少女期から全てを教え込んでから結ばれたという事が噂になり、“若紫本丸”とまで呼ばれるようになっていたが、当の歌仙もこれには心底不愉快そうにしていた。
それが原因かは知らないが、いらない憶測の飛び交う演練場に主を連れ出す事が無くなった。
夏に差し掛かる頃か、主は食が細くなった。医者を呼ばせて診せてからというもの、歌仙が手ずから厨に立って、主にどうにかしてでも食べさせるようになった。主が少しでも歩くだけで歌仙が青い顔で付き添うようになった。皆んなは、たぶん赤子が出来たんだろうと思って手放しに喜ぶ者だっていた。
夏の真っ盛りも過ぎて多少なりとも風が涼やかに感じられる頃、主はすっかり寝たきりになってしまった。
秋も過ぎて虫の声も日増しに小さく感じ、冬支度に尻を叩かれる頃、内臓の破片なんじゃないかと思うほどの大きな血の塊が主の口から溢れた。
…歌仙も主も、黙ってたんだ。
主が、演練場で人間の誰かから病を感染されたこと。
もうそんなに長くないこと。
だから、歌仙が主と婚姻したこと。
俺たちは歌仙に何度も頼み込んだんだ。
主を、神隠ししてくれって。
神域へ落としてしまえば、主は死ななくてもいい。主はもう、苦しまなくてもいい。
例え歌仙だけのものになって、歌仙にしか見えない存在になってしまったって構わない。
どうか俺たちの主を殺さないで。
主の体力をこれ以上奪わないために、歌仙と、初鍛刀の前田以外の刀剣は、身を切る思いで四、五人ずつのグループになって当番を決めて、…顕現を解かれた。
火が消えたように静まりかえった本丸に追い打ちをかけるように、冬の寒さも日増しに厳しくなっていく頃、主は二十二の生まれ月を過ごした。
その頃には歌仙も主も悟っていたんだと思う。
ある時から年明けに全員顕現をすると告げて、当番がちょうど一周した頃に、その年明けがやって来た。
…でも俺は知っている。
俺がいたグループは、その一周するちょうど最後のグループだった。日付けは師走月の二十九日。そして一度顕現を解くと言われた時、前田もその顕現を解かれた。…前田も分かっていて身を引いたんだと思う。次に全員が揃ったのは、師走月三十一日の深夜。きっと、最初で最後の二人きりの時間を過ごしたんだと察した。
…たぶん歌仙は、自分の神域へ主を招くつもりはない。
それから如月の頃まで主は持ってくれた。それだけ皆んな精一杯主に尽くした。
石切丸や太郎なんかは、一体何度加持祈祷をしたんだろう。にっかりや次郎までそれに駆り出されていた。
燭台切はどれくらいの時間を厨で過ごしたんだろう。本当は、主が食べる姿をもっと見て居たかっただろうに。
倶利伽羅や鶴丸も、柄になく厨に立っていたっけな。食事の支度が出来なくなった歌仙の代わりを、本当に二人はよく勤めたと思う。
一期は弟達を連れて、毎日山へ薬草を探しに出掛けていたな。弟達が騒いで、主や歌仙の障りにならないよう気を遣ったんだろう。弟達の気持ちを一番よくわかっている一期が、そんな役割を買って出て、…本当は痛いほど主の側に使えたかったのに。
藤四郎の中でも、薬研だけはずっと部屋や書物庫に篭って、ずっと薬を作ったり調べたりしていた。何日徹夜した日が続いたかもわからない。
長谷部は極力歌仙のサポートをしていた。毎日毎日、歌仙は一目たりとも主から目を離そうとしない。それでも限界が来る頃に、長谷部は歌仙に代わって主から目を離さなかった。
江雪が宗三と小夜を連れて、医者を訪ね歩いていたのは後から知った事だった。宗三だって体力がそんなに有るわけじゃないのに、フラフラになっても江雪と小夜の共をしていたらしい。
三条の中で一番諦めが早かったのは今剣だった。“やはり ひとのこは しんでしまうのですね”と。岩融が、前の主を失ってから自己防衛をしているのだと弁明してたけど、大丈夫だよ。…みんな、わかっているよ。
山伏と同田貫が、滝に打たれに山へ篭って帰ってこない事が増えて来た。…あの二人が、泣いているところを誰かに見せた事なんてただの一度もないんだ。
山姥切が、自分が本物の山姥切であれば主の病を切れていたかもしれないのにと塞ぎ込んでいたのを、大典太が諌めていた。…大典太だって、主の病を切れるなら切りたかったんだ。
蜂須賀と陸奥守が、なるべく多く主の写真を撮ろうとしていたけれど、主も歌仙も、今の衰えた姿を遺したくないと言ってとても申し訳なさそうに詫びていた。お願いだからそんなふうに謝らないでよ。
三日月と小狐丸が、笑顔を崩さないまま主と歌仙との婚姻の契約書状に爪を立てていたのを見てしまった。とても恨めしそうに。この書状がある限り、歌仙以外の刀剣が主を神隠ししてしまう事が出来ないから。
…俺だって誰も見ていない間に、何度その紙切れ一枚に自分の刀身を突き立てたかわからない。──そんな事で傷ひとつつくようなものではないと知っていても。だけどそれは俺だけじゃない。みんな、同じことをしていた。
皆んなが皆んな、日に日に生気を失っていく主を助けて欲しいと願っていた。それが出来るのは歌仙だけだ。たとえどんな形であっても、主がどこかで、その姿で生きてさえいてくれたならそれでいいから。
歌仙、頼むから、主の手を放さないで。
俺が主から呼ばれたのは、この冬で最後から二番目に降った雪が積もった朝の事だった。部屋を訪ねたら、主は歌仙に席を外させた。ちょっとびっくりしたけど、俺はそれが嬉しかった。
…前田のあと、三番目にこの本丸に顕現されたのは俺だった。主は、「初期刀は私が歌仙を選んだけれど、きっとお前は私を選んで此処へ来てくれたんだね」って、いつも俺を撫でてくれてた。
主は歌仙も前田も、そして俺も、隔たりなく愛してくれていた。俺だって、歌仙に負けないくらい、主を愛していた。歌仙の事を心底恨んだ時だってあった。…だけど、主を幸せにするのは歌仙にしか出来ない事だったって、この時主の顔を見てわかったんだ。
…手が震えた。心臓を誰かに鷲掴みされて揺さぶられているような痛さが胸に込み上げてきて、もうどうしようもなくて、主の胸にすがった。今までのどんな戦闘でも味わった事がない痛みが、全身を揉みくちゃにしてくる。
人の身体がどんなものか、主がこの時教えてくれたんだと思う。
***
最後に降った雪が半分も解けた頃、主は歌仙と前田と俺だけに看取られてこの世を去った。
化粧は、俺と乱と次郎の手でしてあげた。俺は震える手を堪えて、俺とお揃いの、真紅の爪紅を主にしてあげた。はみ出してしまって、何度も塗り直した。
供養は石切丸と江雪がした。前田は、自分の本体を守り刀にと主のその胸へ置いた。もうこのまま自分ごと一緒に燃やしてくれと泣いていたのを、一期一振が諌めていた。
この本丸のある結界の中に、主は充分過ぎるほどの霊力を置いて行ってくれた。おかげで結界から出なければ、俺達は顕現から解かれる事はない。…まるで、閉じ込められたような気さえする。
本丸から少し離れた山の中腹。太郎太刀と三日月、小狐丸、鳴狐、山伏と同田貫の手で、主を荼毘に付した。
歌仙は主の部屋の前の縁側で、遠くに見える細い煙をぼんやりと見ていた。それを見ているだけで、黒いもやもやとしたものが胸の中を支配していくのを、抑える事が出来なくなってしまった。
***
「なぁ歌仙。どうして主を攫ってあげなかったわけ?…歌仙は、これで良かったの?…主が死んでもよかったの?!」
「清光!!!」
安定が腕を取って諌めるのも構わず、加州は歌仙の胸倉を掴んで引き寄せた。伏して逸らされた歌仙の顔は、美しいほど均整を保ったままで、その胸中を推し量る事はできない。
「…僕を折って、心が休まるならそうしてくれ。」
歌仙は、ぴくりとも動かず静かにそう言った。本当に叩き折ってやりたい、最初からこんな奴に主をくれてやるんじゃなかったと、次から次へと感情が込み上げてくる。
「歌仙を離してあげて。」
「…っ」
そこへ、小夜の小さな身体が割って入って来た。もの悲しげでありつつも、いつもと何ら変わらない平素な顔の小夜の目と、涙をボロボロ流す加州がしばらく見つめ合う。
なんでこいつらは、そんなに平静でいられるのか。そう思ってもその目の奥にある悲しみが自分と同じものなんだと分かっている。
急に力が抜けて、加州はそこに膝を折った。それでも歌仙の襟を握り締めた手だけが離せず、そのまま歌仙の肩に顔を押しやって泣いた。
「歌仙、俺は…主をこんな事にさせるためにお前にやったんじゃない。」
加州の口から恨み言が次から次へとこぼれていく。安定も諌めようと手を伸ばそうとはするものの、宙を少し動かすだけであった。
「…僕には主を、あの子を…人の理りから外す事が出来なかった。人にはそれぞれ分というものがある。…過去を変えてはいけないように、あの子の魂の未来も変えてはいけないんだ。主がこんなに早く逝ってしまったのも、定めだったんだ。…だからあの子の魂が巡り巡って、いつか安らかに解脱する事を祈る事が、僕らの取るべき道だと堪えて選んだんだ。…僕だって、ずっと迷っていた。主を喪う事が怖かった。それでも僕は、主を人の子としたまま、逝かせてあげたかった…!たとえ、…たとえ二度と逢えなくなっても、僕は、…僕は主を、輪廻の内に置いておいてあげたかった…!」
歌仙の吐露する胸中を、加州と小夜、安定、そしていつしか周りに集まった刀剣達が黙って聞いていた。主の苦しむ姿に、誰もが早く神域へ落としまえばいいと思っていた。人の域を出す事が、その魂にとってどんなに残酷な事なのかも、自分たち神がどれだけ傲慢だったのかも忘れて。
その最後の一歩を歌仙はついに踏み止まった。最愛の人と、人並みに輪廻の先で再会する約束も出来ないで、歌仙は人の世の潰えるまでの此れから何千年あるかも分からない時間を、独り悲しみを抱いて過ごす事を選んだ。
「僕は、あの子が…心置き無く、僕のもとを去って逝ってくれたら、それで良かったんだ。…すまない、…すまない。」
加州の手が離れる。身体が震えているのに、歌仙の目からはもう一滴の涙こそ流れなかった。ただ青白い顔で、灰と骨になるのを待つ最愛の人の肉体を燃やし尽くし続ける煙を見ているだけだった。
「あの…、これを、主から預かっていました。」
前田が懐から、一通の文を出しながら歩み出て歌仙の横に立った。しかし目もくれない歌仙を見て、諦めたように前田が封を切って中を見る。だがすぐに前田は息をひとつ飲んで堪えていた涙を零すのを、加州や安定が目で中身を問う。
前田は歌仙に向けて言うように、ゆっくりと震える唇を動かした。
「き、…きみをおきて、…くさばの、かげに…しのぶるも…、おしき いもせの、…すえぞ、ゆかしき…」
歌仙が振り向いて前田を見ると、その手から文を受け取って、自分の目で主のしたためた墨書を追った。
君をおきて 草葉の陰に しのぶるも
をしき妹背の 末ぞゆかしき
──貴方を置いて死ぬことの、なんと心残りな事でしょうか。私は草葉の陰に隠れてでも、愛おしい貴方の行く末を見ていたい。
それしか書いていなかった。
主は、予め一振り一振りに会って話していたから、きっと元から、それ以外の文を残すつもりなんてなかったんだ。ただ一言、歌仙への想いだけを遺したかったから。
主の本心なんてもう分からない。
でも主は、本当は歌仙に攫って欲しかったんだと思わせるような和歌を遺して去って逝った。…自分の魂の行方など、どうだって良いと。ただ最愛の貴方の事が心残りだから、貴方を何処かからか見ていたい、と。それがどんなに残酷な事か、わかっていた筈なのに。
歌仙が初めて声を荒げた。振り絞っても涙一つ出すことすらできないほど、絶望で震えていた。
──もう君は帰ってこない。僕が逝かせてしまったから。僕が手放してしまったから。何が正しい道だったかなんて分かるはずがなかったんだ。それでも僕は、君が逝った瞬間、顕現の保たれる筈のないこの身体が崩れなかったあの瞬間、本当は君が、どう思っていたかを悟り、…絶望したんだ。
攫ってしまえば良かった。恋が傲慢でないわけが、なかったのだから。
そして主からのこの文も、歌仙に対する最後の傲慢な呪いのようだった。主の霊力が満ちるこの隔絶された空間は、まるで主の “神域” のようにここに遺る。最愛の歌仙を、愛した刀剣達を攫って、閉じ込めたまま。
歌仙はこれから、この空間に満ちる彼女の霊力が尽きるその時まで、独り自問して生きていかなくてはならない。──彼女を生きた内に、自分から攫っていたならば、二人で今この時を過ごせたものを、と。
歌仙は天を仰いで、未練よといつまでも細く続く荼毘の煙を張り裂けそうな胸の痛みに耐えながら目で追う事しかできなかった。
主からの最後の手紙は、紙の半分が空白になっている。もうその胸に届く筈のない返しを、主は今もその草葉の陰で待っている。
「…ッ!」
声にならない悲鳴が喉の奥を塞いで、うまく言葉が紡げない。それでも詠まなくては。もうあの時のように、主の初恋の和歌を夢だと突き返す事しか出来なかった、素直に自分の思いの丈を詠んで返せなかった自分ではない。
そこへ、主の肉体を燃やす火の番をしていた内の一人、三日月が戻ってくる。そこにいた刀剣達は全員、この次に三日月から発せられる言葉を知っていて、それでもどうか、…どうかこの痛みに塩を塗らないでくれと心の中で乞うた。
「みな、支度をしてくれ。…主の骨を拾ってやろう。」
歌仙の耳に、周りの者の嘆きなどもう入っては来なかった。視界の端で加州と安定が抱き合って泣いている。
「歌仙」
小夜が、歌仙の背中を撫でる。そして歌仙の手を取ると、筆を握らせた。後ろでは目を赤くした宗三が、自分の涙が溶け入るのも構わずに、主の硯に墨をすっている。
「…歌仙は、詠まなくては。主が、彼岸のふちにあるうちに。」
目を見開いて、小夜のその小さな瞳を見つめる。不思議と、筆を手にした途端にその震えは止まった。…主の遺したこの筆も硯も、これを最後にもう使われる事はないだろう。
あすしらぬ 草葉の宿りに 君をおきて
あはれいづれのひまで歎かむ
──草葉の陰に君を置いてしまった僕も、もう明日をも知れないだろう。一体いつの日まで、君を想って嘆いていたら良いと言うんだ。
三日月が寄ってきて、歌仙の肩を抱いた。
「お主の選んだ道は、間違ってなどおらんかったぞ。そう思わなければ、尚の事主の魂をこの世に留め置いてしまう事となろう。…主の霊魂は、歌仙の良心がなければ解脱できなかったのだ。…歌仙。よく仕え、…よく耐えたな。」
歌仙のしたためたばかりの墨に、涙が落ちて滲んでいく。三日月は、もうぼんやりとした煙を歌仙と同じ目線で眺め、草葉の陰に主がいるならば、と、少し背筋を伸ばした。
人の身の 何ぞは露の あだものよ
かたみの雲に 雨とのみふる
──人の身はなんと露ほどに儚いものか。
(火葬された君が)形見に残していった雲だけが、涙を雨のように降らせている。
***
主、まだ俺たちを何所かで見ているの?それとも、もう未練はなくなった?
主から愛される事を喪った俺たちは、主との大切な記憶だけを抱いて、主が遺したこの“神域”で、いつか消滅するその日まで…歌仙と一緒に主を想って、此処で待っているよ。
何も知らない、まだあどけない主に全てを教えたのは歌仙だった。
まだ外で人の子と遊んでいたい盛りだったろうに、主は様々な理由でたった独り、この本丸を立ち上げた。──初期刀は歌仙兼定。まだ教養も暮らし向きの事もわからない、真っ白な状態の主に、歌仙は何年もの歳月をかけて様々な事を教えていった。
主には、歌仙が求める雅さの素養があった。
手先が器用で覚えが早いし、元々の感覚や感性も良かったのだろう。歌仙は利発な人の子であった主に夢中になっていった。
今思えば、この時の歌仙は過保護でもあったかもしれない。主がものの分別がつくまで、初期刀である歌仙本人と、初鍛刀の前田藤四郎を加えても片手で数えるに足る程のごく僅かな刀剣だけで、それ以上誰か人手を増やそうとは歌仙がさせなかった。
主が十八になる生れ月までのおおよそ三年間は、戦争中の本丸拠点という立場としては長く苦しい時間だった。それでも歌仙は主の代わりに上手く出陣や遠征、内当番を、太刀一振り居ないこの少数精鋭で回しつつ、熱心に主の教育係も勤め上げた。正直当時の人使いの荒さにはほとほと参ったが、それでも歌仙が居なければ、今のこの本丸は成り立っていなかっただろう。
教養を身に付け十八歳になった主に、歌仙が次に教えたものは “恋” だった。
歌仙は主に、人の子としての在るべき姿を全うして欲しいと願っていた。だから必要以上に刀剣男士達に肩入れする事を厳しく戒めていたし、自身を含む本丸の刀剣達への牽制も忘れなかった。
歌仙は最初から様々な本や絵巻を主に読ませて、主には(歌仙が)理想とする恋愛の“手順”を刷り込んでいた。それが次第に現実的なものにすり替わっていっただけだ。
演練と称して主を連れ出して、何人もの どこぞの男の審神者を、その目に見せるようになった。今だから言える事だが、その時の歌仙の顔を思い出せば、身を切る思いでそうして居たんだと思う。良い殿御があれば、主に文や和歌を詠みかけるよう勧めたりもしていた。
それらが切っ掛けとなったんだろう。次第に、主は歌仙を遠去けるようになっていった。…歌仙はあの時、少しでも自分の行いを悔いただろうか。…ただ言える事は、意外にも歌仙はすぐに身を引いた。しっかりと考えた上で自身の意見主張を通せるまでになった主の、最初の意思表示を汲んでの事だった。
主が歌仙を遠去けたばかりの頃は、本当に危うい場面が多発した。それこそ折りはしなかったものの、初めて瀕死の重傷を負わせ何日も目覚めない奴だって出した。いきなり刀剣が立て続けに増えて、仲間同士の諍いが起きた事もあった。それでも歌仙が主を宥めたり、時には水面下で手を回して収めたりと奔走し、また主自身も不甲斐ない自分と無くてはならない歌仙という存在を再認識した。
そうやって成長していって、主は一人前になっていった。
主が二十の年頃を迎えるまでのさらに二年を、歌仙はあくまでいち刀剣男士として仕えた。主のよき理解者として、主の一番の味方として。
だけど、主がそれをついに破ってしまう事があった。
──歌仙は元より、主の教育を受け負っていた頃から、手習いの一環として主と和歌の贈答をしていた。日々の移ろいや季節毎の情景に留まらず、その大半は恋歌や、詠みかけられた恋歌に対しての返歌など様々な課題を与え、経験を積ませていた。
それは歌仙が知る限りの恋愛ステータスを身に付けさせる物だった。
それも十八の頃から二十までの歳の頃には、主が歌仙と距離を置いた事もあって、手習いの範疇での恋歌の贈答は行われていなかった。
それをある時突然、主が歌仙にひとつ寄越したのだ。主の庭にほころびはじめた金木犀の枝を手折り、その和歌を結びつけて。
垂髪の みだれもしらず うちふせば
まづかきやりし 君ぞ恋しき
──髪が乱れるのも忘れて横になると
まずかきわけてくれた、あの頃の貴方がとても恋しい。
歌仙はそれに和歌を返さなかった。代わりに樒の葉に「夢」とだけ書いて、突き返した。
“夢と思って、お忘れなさい”、と。
金木犀の甘い香りを添えた“初恋”。主が初めて見せたその本心を、歌仙は握りつぶした。…主からのこの和歌が、決して前のようなゴッコ遊びの和歌ではないと、歌仙は知っていたから。そして歌仙も、自分の本心をわかっていたから。
決して刀剣と審神者との恋が不毛な物だとか、あってはならないなんて事は無かった。それこそ政府へ打診すれば、刀剣男士と審神者が婚姻を契るための申請書なんて簡単に発布されるくらいに普通の事だった。それは歌仙も主も知っていた。
それでも歌仙は、手塩に掛けて“何処に出しても恥ずかしくない美しい審神者”へと育て上げた主に、人の子として生きていて欲しいと願い続けていた。
たとえ審神者というものが、人の子としては既に片足を踏み外した存在であると分かっていても。
正直を言うと、皆んな主と歌仙にはいっそのことくっ付いて幸せになって欲しいと思っていた。…人の子の時間は、朝露が輝ける時間と同じくらい短い。主が歌仙といて幸せならば、どうかその主の人生を、全て幸せにしてやって欲しいと。
主が二十一度目の生まれ月を迎えた頃だった。
──歌仙はついに主に手を伸ばした。
どんな心境の変化があったのかは、暫くの間見当が付かなかった。歌仙は人が変わったように主を慈しんで愛した。でもきっとこれが、歌仙が長年抑え込んできた本心だったんだろう。
主も歌仙も、本当に幸せそうだった。
主に全てを教えてきた歌仙は、ついに自身が最後の “男” までも教えた。
演練で顔を合わせる他の審神者や刀剣達の間でも、少女期から全てを教え込んでから結ばれたという事が噂になり、“若紫本丸”とまで呼ばれるようになっていたが、当の歌仙もこれには心底不愉快そうにしていた。
それが原因かは知らないが、いらない憶測の飛び交う演練場に主を連れ出す事が無くなった。
夏に差し掛かる頃か、主は食が細くなった。医者を呼ばせて診せてからというもの、歌仙が手ずから厨に立って、主にどうにかしてでも食べさせるようになった。主が少しでも歩くだけで歌仙が青い顔で付き添うようになった。皆んなは、たぶん赤子が出来たんだろうと思って手放しに喜ぶ者だっていた。
夏の真っ盛りも過ぎて多少なりとも風が涼やかに感じられる頃、主はすっかり寝たきりになってしまった。
秋も過ぎて虫の声も日増しに小さく感じ、冬支度に尻を叩かれる頃、内臓の破片なんじゃないかと思うほどの大きな血の塊が主の口から溢れた。
…歌仙も主も、黙ってたんだ。
主が、演練場で人間の誰かから病を感染されたこと。
もうそんなに長くないこと。
だから、歌仙が主と婚姻したこと。
俺たちは歌仙に何度も頼み込んだんだ。
主を、神隠ししてくれって。
神域へ落としてしまえば、主は死ななくてもいい。主はもう、苦しまなくてもいい。
例え歌仙だけのものになって、歌仙にしか見えない存在になってしまったって構わない。
どうか俺たちの主を殺さないで。
主の体力をこれ以上奪わないために、歌仙と、初鍛刀の前田以外の刀剣は、身を切る思いで四、五人ずつのグループになって当番を決めて、…顕現を解かれた。
火が消えたように静まりかえった本丸に追い打ちをかけるように、冬の寒さも日増しに厳しくなっていく頃、主は二十二の生まれ月を過ごした。
その頃には歌仙も主も悟っていたんだと思う。
ある時から年明けに全員顕現をすると告げて、当番がちょうど一周した頃に、その年明けがやって来た。
…でも俺は知っている。
俺がいたグループは、その一周するちょうど最後のグループだった。日付けは師走月の二十九日。そして一度顕現を解くと言われた時、前田もその顕現を解かれた。…前田も分かっていて身を引いたんだと思う。次に全員が揃ったのは、師走月三十一日の深夜。きっと、最初で最後の二人きりの時間を過ごしたんだと察した。
…たぶん歌仙は、自分の神域へ主を招くつもりはない。
それから如月の頃まで主は持ってくれた。それだけ皆んな精一杯主に尽くした。
石切丸や太郎なんかは、一体何度加持祈祷をしたんだろう。にっかりや次郎までそれに駆り出されていた。
燭台切はどれくらいの時間を厨で過ごしたんだろう。本当は、主が食べる姿をもっと見て居たかっただろうに。
倶利伽羅や鶴丸も、柄になく厨に立っていたっけな。食事の支度が出来なくなった歌仙の代わりを、本当に二人はよく勤めたと思う。
一期は弟達を連れて、毎日山へ薬草を探しに出掛けていたな。弟達が騒いで、主や歌仙の障りにならないよう気を遣ったんだろう。弟達の気持ちを一番よくわかっている一期が、そんな役割を買って出て、…本当は痛いほど主の側に使えたかったのに。
藤四郎の中でも、薬研だけはずっと部屋や書物庫に篭って、ずっと薬を作ったり調べたりしていた。何日徹夜した日が続いたかもわからない。
長谷部は極力歌仙のサポートをしていた。毎日毎日、歌仙は一目たりとも主から目を離そうとしない。それでも限界が来る頃に、長谷部は歌仙に代わって主から目を離さなかった。
江雪が宗三と小夜を連れて、医者を訪ね歩いていたのは後から知った事だった。宗三だって体力がそんなに有るわけじゃないのに、フラフラになっても江雪と小夜の共をしていたらしい。
三条の中で一番諦めが早かったのは今剣だった。“やはり ひとのこは しんでしまうのですね”と。岩融が、前の主を失ってから自己防衛をしているのだと弁明してたけど、大丈夫だよ。…みんな、わかっているよ。
山伏と同田貫が、滝に打たれに山へ篭って帰ってこない事が増えて来た。…あの二人が、泣いているところを誰かに見せた事なんてただの一度もないんだ。
山姥切が、自分が本物の山姥切であれば主の病を切れていたかもしれないのにと塞ぎ込んでいたのを、大典太が諌めていた。…大典太だって、主の病を切れるなら切りたかったんだ。
蜂須賀と陸奥守が、なるべく多く主の写真を撮ろうとしていたけれど、主も歌仙も、今の衰えた姿を遺したくないと言ってとても申し訳なさそうに詫びていた。お願いだからそんなふうに謝らないでよ。
三日月と小狐丸が、笑顔を崩さないまま主と歌仙との婚姻の契約書状に爪を立てていたのを見てしまった。とても恨めしそうに。この書状がある限り、歌仙以外の刀剣が主を神隠ししてしまう事が出来ないから。
…俺だって誰も見ていない間に、何度その紙切れ一枚に自分の刀身を突き立てたかわからない。──そんな事で傷ひとつつくようなものではないと知っていても。だけどそれは俺だけじゃない。みんな、同じことをしていた。
皆んなが皆んな、日に日に生気を失っていく主を助けて欲しいと願っていた。それが出来るのは歌仙だけだ。たとえどんな形であっても、主がどこかで、その姿で生きてさえいてくれたならそれでいいから。
歌仙、頼むから、主の手を放さないで。
俺が主から呼ばれたのは、この冬で最後から二番目に降った雪が積もった朝の事だった。部屋を訪ねたら、主は歌仙に席を外させた。ちょっとびっくりしたけど、俺はそれが嬉しかった。
…前田のあと、三番目にこの本丸に顕現されたのは俺だった。主は、「初期刀は私が歌仙を選んだけれど、きっとお前は私を選んで此処へ来てくれたんだね」って、いつも俺を撫でてくれてた。
主は歌仙も前田も、そして俺も、隔たりなく愛してくれていた。俺だって、歌仙に負けないくらい、主を愛していた。歌仙の事を心底恨んだ時だってあった。…だけど、主を幸せにするのは歌仙にしか出来ない事だったって、この時主の顔を見てわかったんだ。
…手が震えた。心臓を誰かに鷲掴みされて揺さぶられているような痛さが胸に込み上げてきて、もうどうしようもなくて、主の胸にすがった。今までのどんな戦闘でも味わった事がない痛みが、全身を揉みくちゃにしてくる。
人の身体がどんなものか、主がこの時教えてくれたんだと思う。
***
最後に降った雪が半分も解けた頃、主は歌仙と前田と俺だけに看取られてこの世を去った。
化粧は、俺と乱と次郎の手でしてあげた。俺は震える手を堪えて、俺とお揃いの、真紅の爪紅を主にしてあげた。はみ出してしまって、何度も塗り直した。
供養は石切丸と江雪がした。前田は、自分の本体を守り刀にと主のその胸へ置いた。もうこのまま自分ごと一緒に燃やしてくれと泣いていたのを、一期一振が諌めていた。
この本丸のある結界の中に、主は充分過ぎるほどの霊力を置いて行ってくれた。おかげで結界から出なければ、俺達は顕現から解かれる事はない。…まるで、閉じ込められたような気さえする。
本丸から少し離れた山の中腹。太郎太刀と三日月、小狐丸、鳴狐、山伏と同田貫の手で、主を荼毘に付した。
歌仙は主の部屋の前の縁側で、遠くに見える細い煙をぼんやりと見ていた。それを見ているだけで、黒いもやもやとしたものが胸の中を支配していくのを、抑える事が出来なくなってしまった。
***
「なぁ歌仙。どうして主を攫ってあげなかったわけ?…歌仙は、これで良かったの?…主が死んでもよかったの?!」
「清光!!!」
安定が腕を取って諌めるのも構わず、加州は歌仙の胸倉を掴んで引き寄せた。伏して逸らされた歌仙の顔は、美しいほど均整を保ったままで、その胸中を推し量る事はできない。
「…僕を折って、心が休まるならそうしてくれ。」
歌仙は、ぴくりとも動かず静かにそう言った。本当に叩き折ってやりたい、最初からこんな奴に主をくれてやるんじゃなかったと、次から次へと感情が込み上げてくる。
「歌仙を離してあげて。」
「…っ」
そこへ、小夜の小さな身体が割って入って来た。もの悲しげでありつつも、いつもと何ら変わらない平素な顔の小夜の目と、涙をボロボロ流す加州がしばらく見つめ合う。
なんでこいつらは、そんなに平静でいられるのか。そう思ってもその目の奥にある悲しみが自分と同じものなんだと分かっている。
急に力が抜けて、加州はそこに膝を折った。それでも歌仙の襟を握り締めた手だけが離せず、そのまま歌仙の肩に顔を押しやって泣いた。
「歌仙、俺は…主をこんな事にさせるためにお前にやったんじゃない。」
加州の口から恨み言が次から次へとこぼれていく。安定も諌めようと手を伸ばそうとはするものの、宙を少し動かすだけであった。
「…僕には主を、あの子を…人の理りから外す事が出来なかった。人にはそれぞれ分というものがある。…過去を変えてはいけないように、あの子の魂の未来も変えてはいけないんだ。主がこんなに早く逝ってしまったのも、定めだったんだ。…だからあの子の魂が巡り巡って、いつか安らかに解脱する事を祈る事が、僕らの取るべき道だと堪えて選んだんだ。…僕だって、ずっと迷っていた。主を喪う事が怖かった。それでも僕は、主を人の子としたまま、逝かせてあげたかった…!たとえ、…たとえ二度と逢えなくなっても、僕は、…僕は主を、輪廻の内に置いておいてあげたかった…!」
歌仙の吐露する胸中を、加州と小夜、安定、そしていつしか周りに集まった刀剣達が黙って聞いていた。主の苦しむ姿に、誰もが早く神域へ落としまえばいいと思っていた。人の域を出す事が、その魂にとってどんなに残酷な事なのかも、自分たち神がどれだけ傲慢だったのかも忘れて。
その最後の一歩を歌仙はついに踏み止まった。最愛の人と、人並みに輪廻の先で再会する約束も出来ないで、歌仙は人の世の潰えるまでの此れから何千年あるかも分からない時間を、独り悲しみを抱いて過ごす事を選んだ。
「僕は、あの子が…心置き無く、僕のもとを去って逝ってくれたら、それで良かったんだ。…すまない、…すまない。」
加州の手が離れる。身体が震えているのに、歌仙の目からはもう一滴の涙こそ流れなかった。ただ青白い顔で、灰と骨になるのを待つ最愛の人の肉体を燃やし尽くし続ける煙を見ているだけだった。
「あの…、これを、主から預かっていました。」
前田が懐から、一通の文を出しながら歩み出て歌仙の横に立った。しかし目もくれない歌仙を見て、諦めたように前田が封を切って中を見る。だがすぐに前田は息をひとつ飲んで堪えていた涙を零すのを、加州や安定が目で中身を問う。
前田は歌仙に向けて言うように、ゆっくりと震える唇を動かした。
「き、…きみをおきて、…くさばの、かげに…しのぶるも…、おしき いもせの、…すえぞ、ゆかしき…」
歌仙が振り向いて前田を見ると、その手から文を受け取って、自分の目で主のしたためた墨書を追った。
君をおきて 草葉の陰に しのぶるも
をしき妹背の 末ぞゆかしき
──貴方を置いて死ぬことの、なんと心残りな事でしょうか。私は草葉の陰に隠れてでも、愛おしい貴方の行く末を見ていたい。
それしか書いていなかった。
主は、予め一振り一振りに会って話していたから、きっと元から、それ以外の文を残すつもりなんてなかったんだ。ただ一言、歌仙への想いだけを遺したかったから。
主の本心なんてもう分からない。
でも主は、本当は歌仙に攫って欲しかったんだと思わせるような和歌を遺して去って逝った。…自分の魂の行方など、どうだって良いと。ただ最愛の貴方の事が心残りだから、貴方を何処かからか見ていたい、と。それがどんなに残酷な事か、わかっていた筈なのに。
歌仙が初めて声を荒げた。振り絞っても涙一つ出すことすらできないほど、絶望で震えていた。
──もう君は帰ってこない。僕が逝かせてしまったから。僕が手放してしまったから。何が正しい道だったかなんて分かるはずがなかったんだ。それでも僕は、君が逝った瞬間、顕現の保たれる筈のないこの身体が崩れなかったあの瞬間、本当は君が、どう思っていたかを悟り、…絶望したんだ。
攫ってしまえば良かった。恋が傲慢でないわけが、なかったのだから。
そして主からのこの文も、歌仙に対する最後の傲慢な呪いのようだった。主の霊力が満ちるこの隔絶された空間は、まるで主の “神域” のようにここに遺る。最愛の歌仙を、愛した刀剣達を攫って、閉じ込めたまま。
歌仙はこれから、この空間に満ちる彼女の霊力が尽きるその時まで、独り自問して生きていかなくてはならない。──彼女を生きた内に、自分から攫っていたならば、二人で今この時を過ごせたものを、と。
歌仙は天を仰いで、未練よといつまでも細く続く荼毘の煙を張り裂けそうな胸の痛みに耐えながら目で追う事しかできなかった。
主からの最後の手紙は、紙の半分が空白になっている。もうその胸に届く筈のない返しを、主は今もその草葉の陰で待っている。
「…ッ!」
声にならない悲鳴が喉の奥を塞いで、うまく言葉が紡げない。それでも詠まなくては。もうあの時のように、主の初恋の和歌を夢だと突き返す事しか出来なかった、素直に自分の思いの丈を詠んで返せなかった自分ではない。
そこへ、主の肉体を燃やす火の番をしていた内の一人、三日月が戻ってくる。そこにいた刀剣達は全員、この次に三日月から発せられる言葉を知っていて、それでもどうか、…どうかこの痛みに塩を塗らないでくれと心の中で乞うた。
「みな、支度をしてくれ。…主の骨を拾ってやろう。」
歌仙の耳に、周りの者の嘆きなどもう入っては来なかった。視界の端で加州と安定が抱き合って泣いている。
「歌仙」
小夜が、歌仙の背中を撫でる。そして歌仙の手を取ると、筆を握らせた。後ろでは目を赤くした宗三が、自分の涙が溶け入るのも構わずに、主の硯に墨をすっている。
「…歌仙は、詠まなくては。主が、彼岸のふちにあるうちに。」
目を見開いて、小夜のその小さな瞳を見つめる。不思議と、筆を手にした途端にその震えは止まった。…主の遺したこの筆も硯も、これを最後にもう使われる事はないだろう。
あすしらぬ 草葉の宿りに 君をおきて
あはれいづれのひまで歎かむ
──草葉の陰に君を置いてしまった僕も、もう明日をも知れないだろう。一体いつの日まで、君を想って嘆いていたら良いと言うんだ。
三日月が寄ってきて、歌仙の肩を抱いた。
「お主の選んだ道は、間違ってなどおらんかったぞ。そう思わなければ、尚の事主の魂をこの世に留め置いてしまう事となろう。…主の霊魂は、歌仙の良心がなければ解脱できなかったのだ。…歌仙。よく仕え、…よく耐えたな。」
歌仙のしたためたばかりの墨に、涙が落ちて滲んでいく。三日月は、もうぼんやりとした煙を歌仙と同じ目線で眺め、草葉の陰に主がいるならば、と、少し背筋を伸ばした。
人の身の 何ぞは露の あだものよ
かたみの雲に 雨とのみふる
──人の身はなんと露ほどに儚いものか。
(火葬された君が)形見に残していった雲だけが、涙を雨のように降らせている。
***
主、まだ俺たちを何所かで見ているの?それとも、もう未練はなくなった?
主から愛される事を喪った俺たちは、主との大切な記憶だけを抱いて、主が遺したこの“神域”で、いつか消滅するその日まで…歌仙と一緒に主を想って、此処で待っているよ。
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