歌仙兼定
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
側にいれたら(前田藤四郎の告白)
雨上がりの匂い立つ庭を、主君は殊の外愛していらっしゃいました。
雨に叩かれた大杉苔が存分に水を吸い込んで精一杯に背を伸ばし、庭一面を覆うところ。主君の私室がある裏書院の縁側に沿って雨が小川を作り、燕子花が活き活きとその頭をお上げになるところ。絶妙な距離で借景している山々が雨で洗われて、新緑の峰が庭に向かって迫り来るところ。燦々と煌めく青紅葉の中に項垂れる羽根付きの種が、まるで一足先に紅葉したような真紅色をしていて、梅雨前だというのに秋の記憶がひとつ、またひとつと胸に落ちるところ。
それら全てが太陽の光で反射して、障子の白い紙の窓を其々に翡翠色へ染め上げるところ。
「涼しやと、はえて久しく 青紅葉。羽の紅きに あきなかりける」
「……秋無し、とは。文屋康秀公の物好きなお題ですね。」
前田は主の詠んだ和歌に筆を走らせ書き留めながら、古今和歌集の一片の和歌を思い出して口角が緩んだ。
「“飽き”無し、ともね。」
主が袖で口元を隠しながらクスクス笑うので前田も吊られて笑ってしまい、筆が逸れて文字が歪む。しまったと言った顔をすれば、主がそれを覗き込んで来てまたクスクスと笑って頭を撫でやる。
すぐ横にまで近付けられた主のお顔に前田は平静を装いながらも、眉間に甘痒ゆさを感じ 鼻の奥に主の芳香が入り込んでくれば、もうその胸の高鳴りを意識して抑え込む事は出来なくなってしまう。
七百近い年月を重ねたいち刀剣として、こういう時…この幼い外見が恨めしく思う。しかし最も信頼されて側近くに仕える事を許されたのは、初期刀の次に初めて鍛刀顕現して下さった短刀のこの身ゆえとも思えば、誰よりも彼女を独占できている幸せに勝るものなど無い。
しかしこの幸せも、主君を独占出来てこそ。そして最も側近くに仕えるのも、他の刀剣に彼女を奪われるのをじっと黙って見ていなくてはならないという事。
「おやおや、風流だねぇ。」
歌仙さんは主君と良く趣味が合われる。主君が和歌を詠んでいると見るや否や、こうして彼女の隣に腰を下ろされるのだ。
前田はまた墨が入り用になるだろうと、硯に水差しを傾ける。髪の隙間から横目で覗き見れば、歌仙さんと主君が何やら庭を差して笑い合っておられた。
歌仙さんは主君の初期刀だ。主君は最初の刀となった歌仙さんと僕を特別扱いして慈しんで下さるが、歌仙さんとは特に気が合われたようで…… 刀剣が増えて一人一人に割く時間が短くなられた今でも、毎日こうしてゆっくりお話しされる。
いや、主君のご寵愛だけではない。歌仙の努力の賜物なのだと、前田は思い改めた。
歌仙はまだギリギリ練度が制限一杯にはなっていない。毎日の出陣に加えて炊事当番や畑仕事などの忙しい合間を縫って、こうして主の元へ涼しい顔して参内しているのだ。
それもこれも、歌仙が主を一人の女性として慕い、愛しておられるから。
前田にとって歌仙の胸中など簡単に見え透いていた。それはきっと、同じ気持ちだからこそ目に留まったのだろう。しかし主君を愛して狙っているお方は、なにも彼だけではない。
表書院から続く廊下の板間を軋ませる重い足音が渡って来て近付いてきた。最早前田にはそれが誰か検討が付いている。
「おや、邪魔をしてしまったかな?」
三日月宗近だ。今日は、いつもよりは早めに顔を出したなぁ と前田が少し遠い目で眺める。三日月さんはこの本丸にいる刀剣の中でも、歌仙と肩を並べる程に主君を愛し、狙っておられる御仁だ。
前はもっと主君を手にしたいと狙う刀剣が居た。でも其々に諦めたり、密かに想い続けるだけで側に仕えるのに満足したりして…… だいぶ篩に掛けられたと思う。実際、前田藤四郎自身は後者であった。
数々の人の身の懐を宿りにしてその生涯を見守り続けてきたからこそ、今のことにも満足して主君を見守っていた。辛い事と分かっていても、人の身の脆さや儚さを知る前田に彼女を物にする事など出来なかったのだ。
前田からしたら、歌仙はまだ若年の身。人の摂理に手を出す無謀さを持っていても仕方ないと考えていた。それを踏まえれば、まさか千年以上も年を重ねた三日月までもが主君に懸想するとは思っていなかった。
しかし永い年月を経た刀剣だからこそ、己の神力や神格から来る傲慢さがあるのだろう。
墨をすり終わって顔を上げれば、自分と主君の間に片膝を差し込んでつく三日月に瞼が重くなる。聞こえない程度にため息を漏らして文机をずらして三日月の割り込める場所を開けてやれば、三日月がチラリと此方を見て微笑み軽く略拝するが、腰を下ろすなりすぐに主君へ顔を向けてしまった。
前田が見る限り、主君は自分に夢中な二振りの刀剣に気付いていない訳でもない。それでも知らない素振りを見せて二振りの気持ちから目をそらすのだから、主君自身、選び兼ねているのだろう。……美しい神に取り合われて選び兼ねていると言えば、女として何とも贅沢な悩みかとも取れる。だが主君は何方かと言えば、人間をやめて神の物になる事に悩んでいるようだった。
人の世に霊力を持って産まれる人の子の数などごく僅かだ。その少数の子らに審神者を勤めさせたところで、普通の人間と子を成して霊力を受け継がない子が産まれてしまえば結局はその数が減るだけ。……女だからというだけで、刀剣男士という人の身を依り代にした神々の中に放り込まれて、“後継者を増やせ”と義務付けられているのだ。審神者というものは、謂わば神々への “供物” も同然だと哀れにすら思う。事実、他の本丸のうち半数ほどが神に嫁入りしている。
其々が其々に、神にとられた人間がどうなるかという葛藤の末に選んだのだろうと想像に容易い。神に嫁入りしなかった残りの半数というのは、政府から充てがわれた霊力ある人間の男と子を成さなければならない。そんな辛苦を味わうと知りながらも、愛し合った刀剣男士から“人の摂理”から外される事を諭されて踏み止まった数を見るに、やはり人の域を超えると言う事を天秤に掛ければ、人の身のままの辛苦を選ぶ程に…… それがどんなに残酷な事なのかと思い知らされる。
果たして、いま目の前に座る主君たる審神者は、どうするのだろうか。主君はじきに二十の歳になられる。歌仙さんも三日月さんも、どこか焦りがあるように見えた。自分のものにして主君を人ならざる物にするならば、若ければ若い内が主君の“ため”になる。
前田がぼんやりしていると、主君からのお声掛けにハッとして振り向いた。三人とも前田を見て微笑んでいた。
「考え事ですか?」
「あ、いえ。……お茶をと思ったのですが、厨に何か菓子などがあったかを思い出しておりました。」
前田も微笑み返して誤魔化す。永く生きれば、咄嗟に口に何を出せば怪しまれず済むか自然と身に着くらしい。
「ほうほう、やはり前田は気がきくな。あぁいや、……気を使わせてすまんな。」
「昨日作った葛切りが冷やしてあるよ。どれ、僕も手伝おう。」
歌仙は三日月を目に留めながらも、膝を立てようとする。しかし前田がすぐにそれを辞退した。
「いえ、場所は存じております。歌仙さんも、どうぞ主君のお相手を。」
歌仙は「いつもすまないね」と眉の端を下げて微笑んで座り直した。前田は立ち上がって主に頭を軽く下げると、その場を後にした。
夜の帳色の髪に浮かぶ二つの三日月を瞳に入れた平安の刀、最も美しいという言葉でしか言い表す事が出来ないほど完成された美と、優雅でありながらも三条の名に恥じない威厳を持つ三日月。
春色の、どの花よりも美しい色の髪を惜しげも無く風に遊ばせ、大杉苔と青紅葉の庭をそのまま水晶に閉じ込めたような瞳を緩やかに細める、その名に劣らない美しさを持った歌仙兼定。
どこから見ても絵になる、まさしく隙のない美しさを持った二振りに挟まれる主君だって劣らずなんともお美しい。前田の贔屓目もあっただろうが、どちらと並んでも大変古風で見目麗しい組み合わせだと思った。
ふと顔だけ向けて三人の後ろ姿を見れば、主君は歌仙さんにばかりお顔を向けていらっしゃった。三日月さんが少しばかり面白くなさそうな目をしている。
前田は主のお心に既に気付いていた。……あのお二人から添われる方を選ぶだろうと言う事を。それも、そのどちらになさるであろうかも。
主は五月だと言うのに袿の襲色目を“捩り紅葉”に重ねているが、それをさらに二の衣を“若緑に中紅”へ差し替えてお召しだ。“淡青の裏中紅”が本来の“捩り紅葉”の重ねになる。それを敢えて若緑にするあたり、主のお心が密やかに表れていると前田には感じられた。思い出せば、最近になって鋏と銅の鏡を磨ぎに出された。おそらくあれは、鬢を削がれる決心の表れだったのだろう。
「また歌仙と三日月?」
厨にたまたま居合わせた加州さんは、よくやるねぇとため息をつき、面白くなさそうにヤカンを火にかけた。まな板の上には塩摺り中のきゅうりが転がり、カゴにも新鮮なきゅうりが山盛りになっている。
「加州さんは、厨当番……でしたっけ?」
「違うよ。畑のきゅうりが育ちまくっててさ、これ以上デカくなる前にって収穫してきたの。漬物にしとけば日持ちするでしょ?」
この本丸の初期刀、加州清光。前田と同じ───主を慕いながらも、その幸せを願って身を引いた刀剣の一振り。貧しくて余裕が無い最初期の頃の苦労を共に乗り越えてきただけに、こういった“生活の中での気くばり”に長けている。
「お茶を運んだら、僕も手伝います。」
前田が冷蔵庫から葛切りをだすと、加州は丁度良いサイズのガラス皿を高棚から下ろしてやった。
「大丈夫。それより前田は、あの二人のお目付け役。そのうち主の前で喧嘩でもされたらたまったモンじゃないからさ。」
シュンシュン…とヤカンからすすり泣くような沸騰音が立ち始める。加州はなんとなしに勝手口から外に出ると、すぐに南天の葉を手折って戻ってきた。丁寧に水洗いして丁度良い大きさに切りそろえると、葛切りの上に飾ってやる。
「この赤い葉が付いてるヤツが主のね!どう?俺と同じ色でしょ?」
負け惜しみと言われても加州は笑って吹き飛ばすだろう。加州の目と同じ色の南天の枝葉の一皿と、深緑の枝葉の乗った二皿。前田も「分かりやすくていいですね」と笑いながら、そこに黒蜜を回しかける。
ヤカンの湯が沸騰し切る前に火を止め、茶碗に湯をまわし入れてから急須にお湯を戻すと、盆にまとめて載せた。
「一人で運べる?」
「慣れてますから。」
大丈夫ですよ、と続けると、加州はヒラヒラと手を振って胡瓜の塩ずりを再開し始めた。前田も盆を持って厨を出ると、審神者と二人の“厄介者”がいる裏書院へと足を進める。
「今朝はどの単衣になさいますか?」
次の朝、前田はいつも通り審神者の着替えを手伝っていた。何色もある薄い絹の五衣に、表着、唐衣、打衣───暑さが苦手な主君を気遣って、前田は唐衣を箪笥から出さないで夏の装いを進める。
「あ、あるじさま、僕…… 以前あるじさまがお召しになっていた、藤色の重ねが、また見たい……です。」
審神者の髪を梳いていた五虎退がおずおずと主を覗き込む。
「藤…かぁ、そうね、それにしましょう。」
藤、とは言っても、藤色のような紫、という意味で取ったらしい。主君は“楝”の重ねのところ青を淡萌黄に変えられて、淡紅の表衣をお選びになった。こんなにあからさまな“歌仙重ね”をされて、今日はさぞかし月に雲が掛かる事だろうと想像するに易い。
主君は最初から歌仙さんを選んでいた。
……いつだって歌仙さんを選んでいた。歌仙さんだけが主君が自ら選んで手に取った刀剣で、2番目は結局2番目に過ぎない。あの鍛冶場の炎の中にどれだけの玉鋼を投げ入れてどんな刀剣が宿るのか、主君は選べないのだから。
主君と歌仙さん、それをほんのわずかに遅れてこの本丸にやって来た自分が、ずっと眺めて来た。ジリ貧で怪我を治してやれなくて泣き腫らしていらした夜も、主君が自分の着物や家財を少しずつ売り払っては本丸維持のための資金に充てていた時期も、刀剣が増えはじめてお米が足りなくなったときも─── 主君は歌仙さんと支え合って、最後は笑っていた。
どんなに貴重な刀剣が手に入っても、どんなに忠実な刀剣が側に仕えても、そして近侍を誰に選ばれようとも。主君が歌仙さんを立てないなんて時は一度もなかった。
主君を慕ってその横に居たいと願った刀剣が次々に脱落したのは歌仙さんがいたからだ。皆、どんなに頑張っても破れないガラスの天井に当たり、そして身を引いた。
「前田」
食後休みをされていた主君の部屋を通りかかり「おいでおいで」と手招きされるまま部屋に足を踏み入れる。行儀良く座って「いかがなさいましたか」と訪ねる前田に、審神者は微笑んだ。
「こっちいらっしゃい」
そう言って膝をポンポンとするので、前田は思いがけず顔を赤くしてあたりを見回した。
「寝癖かしら? ここだけ跳ねちゃって」
主君の膝の上に座り、後ろの髪を柘植櫛で梳いてもらう。とても嬉しい反面、やはり主君の目に僕は小さな子供の一人として映っているのだろうと思えて寂しくもある。
「前田にだけは、先に言っておこうと思って」
胸が大きく跳ねた。主君の声色に何を言おうとしているのかすぐに察しがつく。
「実はね、歌仙───
「あ───!!! ズルいズルい! 僕もあるじさんに髪梳いてもらいたいのに!」
突然の大声に前田の方が跳ねる。振り向けば開け放っていた障子から乱が顔を覗かせていた。
「み、乱兄さん……!」
乱の声がよほど響いたのだろう。秋田や五虎退、平野、はては信濃から今剣から加州までドヤドヤと縁側を走って集まる。
ぬけがけ!僕も僕も!なんでオレじゃないの?!俺泣いちゃいそう!と口々に騒げば、さらにそれを聞きつけて骨喰を引きずって来た鯰尾やら小夜を引きずって来た博多やら厚が飛んできて、前田は慌てて審神者の膝から立ち上がる。
「加州さんまで! ぼ、……僕は抜け駆けなんか!」
真っ赤な顔であたふたする前田に審神者も笑う。
「わかったわかった。順番ですよ? みんないらっしゃい」
一斉に周りを囲まれてしまえば、加州と乱が審神者を挟んで「僕が先だよ!」「一番は俺って決まってんの」と小競り合いを始める。そのまわりで入り難そうにおずおずと眺める小夜を見て審神者が「小夜、こっちいらっしゃい」と手招きすれば、「ホラ小夜助からだってさ」「行きんしゃい行きんしゃい」と厚と博多が背を押した。
主君は歌仙さんの名前を言いかけた。本当は何て続けるつもりだったのだろう。……なんとなく察してはいたが、前田は小さなため息とともに一度忘れようとした。
主君は兄弟や他の刀剣たちに囲まれて、さっきまで前田を乗せていた膝に小夜を乗せて髪を結い直してやっている。主君の部屋で騒いでいれば、石切丸さんや蜻蛉切さん、青江さんや源氏の御二方も部屋をのぞいて笑っていた。
「にっかりさんも混ざりましょうよ、僕や加州さんもいるから大丈夫ですって」
鯰尾が部屋を覗いていた青江の手を引く。
「いや、僕はいいよ…… 楽しんでおいで」
「じゃあ僕がお呼ばれしようかな〜」
「兄者!?」
もう少しだけ、せめてこの間だけ。まだ歌仙さんのものではない主君をこうして囲んで笑っていたい。
「前田もこっち…」「はやくはやく」と手招きする骨喰と信濃に笑顔を返すと、前田は兄弟の中へ戻って行った。
職務室に戻ってこない審神者を探しに来た長谷部が皆んなに雷を落としたあと結局主君に根負けして、膝に乗せられ真っ赤な顔を覆うのを加州に写真を撮られるまで、その団欒は続いた。この写真は審神者の降嫁の婚儀で張り出されるに至るのだが、この時の前田はそんな事思いもしない。
ただ今だけ、彼女が皆んなのものである幸せを噛み締めていた。
雨上がりの匂い立つ庭を、主君は殊の外愛していらっしゃいました。
雨に叩かれた大杉苔が存分に水を吸い込んで精一杯に背を伸ばし、庭一面を覆うところ。主君の私室がある裏書院の縁側に沿って雨が小川を作り、燕子花が活き活きとその頭をお上げになるところ。絶妙な距離で借景している山々が雨で洗われて、新緑の峰が庭に向かって迫り来るところ。燦々と煌めく青紅葉の中に項垂れる羽根付きの種が、まるで一足先に紅葉したような真紅色をしていて、梅雨前だというのに秋の記憶がひとつ、またひとつと胸に落ちるところ。
それら全てが太陽の光で反射して、障子の白い紙の窓を其々に翡翠色へ染め上げるところ。
「涼しやと、はえて久しく 青紅葉。羽の紅きに あきなかりける」
「……秋無し、とは。文屋康秀公の物好きなお題ですね。」
前田は主の詠んだ和歌に筆を走らせ書き留めながら、古今和歌集の一片の和歌を思い出して口角が緩んだ。
「“飽き”無し、ともね。」
主が袖で口元を隠しながらクスクス笑うので前田も吊られて笑ってしまい、筆が逸れて文字が歪む。しまったと言った顔をすれば、主がそれを覗き込んで来てまたクスクスと笑って頭を撫でやる。
すぐ横にまで近付けられた主のお顔に前田は平静を装いながらも、眉間に甘痒ゆさを感じ 鼻の奥に主の芳香が入り込んでくれば、もうその胸の高鳴りを意識して抑え込む事は出来なくなってしまう。
七百近い年月を重ねたいち刀剣として、こういう時…この幼い外見が恨めしく思う。しかし最も信頼されて側近くに仕える事を許されたのは、初期刀の次に初めて鍛刀顕現して下さった短刀のこの身ゆえとも思えば、誰よりも彼女を独占できている幸せに勝るものなど無い。
しかしこの幸せも、主君を独占出来てこそ。そして最も側近くに仕えるのも、他の刀剣に彼女を奪われるのをじっと黙って見ていなくてはならないという事。
「おやおや、風流だねぇ。」
歌仙さんは主君と良く趣味が合われる。主君が和歌を詠んでいると見るや否や、こうして彼女の隣に腰を下ろされるのだ。
前田はまた墨が入り用になるだろうと、硯に水差しを傾ける。髪の隙間から横目で覗き見れば、歌仙さんと主君が何やら庭を差して笑い合っておられた。
歌仙さんは主君の初期刀だ。主君は最初の刀となった歌仙さんと僕を特別扱いして慈しんで下さるが、歌仙さんとは特に気が合われたようで…… 刀剣が増えて一人一人に割く時間が短くなられた今でも、毎日こうしてゆっくりお話しされる。
いや、主君のご寵愛だけではない。歌仙の努力の賜物なのだと、前田は思い改めた。
歌仙はまだギリギリ練度が制限一杯にはなっていない。毎日の出陣に加えて炊事当番や畑仕事などの忙しい合間を縫って、こうして主の元へ涼しい顔して参内しているのだ。
それもこれも、歌仙が主を一人の女性として慕い、愛しておられるから。
前田にとって歌仙の胸中など簡単に見え透いていた。それはきっと、同じ気持ちだからこそ目に留まったのだろう。しかし主君を愛して狙っているお方は、なにも彼だけではない。
表書院から続く廊下の板間を軋ませる重い足音が渡って来て近付いてきた。最早前田にはそれが誰か検討が付いている。
「おや、邪魔をしてしまったかな?」
三日月宗近だ。今日は、いつもよりは早めに顔を出したなぁ と前田が少し遠い目で眺める。三日月さんはこの本丸にいる刀剣の中でも、歌仙と肩を並べる程に主君を愛し、狙っておられる御仁だ。
前はもっと主君を手にしたいと狙う刀剣が居た。でも其々に諦めたり、密かに想い続けるだけで側に仕えるのに満足したりして…… だいぶ篩に掛けられたと思う。実際、前田藤四郎自身は後者であった。
数々の人の身の懐を宿りにしてその生涯を見守り続けてきたからこそ、今のことにも満足して主君を見守っていた。辛い事と分かっていても、人の身の脆さや儚さを知る前田に彼女を物にする事など出来なかったのだ。
前田からしたら、歌仙はまだ若年の身。人の摂理に手を出す無謀さを持っていても仕方ないと考えていた。それを踏まえれば、まさか千年以上も年を重ねた三日月までもが主君に懸想するとは思っていなかった。
しかし永い年月を経た刀剣だからこそ、己の神力や神格から来る傲慢さがあるのだろう。
墨をすり終わって顔を上げれば、自分と主君の間に片膝を差し込んでつく三日月に瞼が重くなる。聞こえない程度にため息を漏らして文机をずらして三日月の割り込める場所を開けてやれば、三日月がチラリと此方を見て微笑み軽く略拝するが、腰を下ろすなりすぐに主君へ顔を向けてしまった。
前田が見る限り、主君は自分に夢中な二振りの刀剣に気付いていない訳でもない。それでも知らない素振りを見せて二振りの気持ちから目をそらすのだから、主君自身、選び兼ねているのだろう。……美しい神に取り合われて選び兼ねていると言えば、女として何とも贅沢な悩みかとも取れる。だが主君は何方かと言えば、人間をやめて神の物になる事に悩んでいるようだった。
人の世に霊力を持って産まれる人の子の数などごく僅かだ。その少数の子らに審神者を勤めさせたところで、普通の人間と子を成して霊力を受け継がない子が産まれてしまえば結局はその数が減るだけ。……女だからというだけで、刀剣男士という人の身を依り代にした神々の中に放り込まれて、“後継者を増やせ”と義務付けられているのだ。審神者というものは、謂わば神々への “供物” も同然だと哀れにすら思う。事実、他の本丸のうち半数ほどが神に嫁入りしている。
其々が其々に、神にとられた人間がどうなるかという葛藤の末に選んだのだろうと想像に容易い。神に嫁入りしなかった残りの半数というのは、政府から充てがわれた霊力ある人間の男と子を成さなければならない。そんな辛苦を味わうと知りながらも、愛し合った刀剣男士から“人の摂理”から外される事を諭されて踏み止まった数を見るに、やはり人の域を超えると言う事を天秤に掛ければ、人の身のままの辛苦を選ぶ程に…… それがどんなに残酷な事なのかと思い知らされる。
果たして、いま目の前に座る主君たる審神者は、どうするのだろうか。主君はじきに二十の歳になられる。歌仙さんも三日月さんも、どこか焦りがあるように見えた。自分のものにして主君を人ならざる物にするならば、若ければ若い内が主君の“ため”になる。
前田がぼんやりしていると、主君からのお声掛けにハッとして振り向いた。三人とも前田を見て微笑んでいた。
「考え事ですか?」
「あ、いえ。……お茶をと思ったのですが、厨に何か菓子などがあったかを思い出しておりました。」
前田も微笑み返して誤魔化す。永く生きれば、咄嗟に口に何を出せば怪しまれず済むか自然と身に着くらしい。
「ほうほう、やはり前田は気がきくな。あぁいや、……気を使わせてすまんな。」
「昨日作った葛切りが冷やしてあるよ。どれ、僕も手伝おう。」
歌仙は三日月を目に留めながらも、膝を立てようとする。しかし前田がすぐにそれを辞退した。
「いえ、場所は存じております。歌仙さんも、どうぞ主君のお相手を。」
歌仙は「いつもすまないね」と眉の端を下げて微笑んで座り直した。前田は立ち上がって主に頭を軽く下げると、その場を後にした。
夜の帳色の髪に浮かぶ二つの三日月を瞳に入れた平安の刀、最も美しいという言葉でしか言い表す事が出来ないほど完成された美と、優雅でありながらも三条の名に恥じない威厳を持つ三日月。
春色の、どの花よりも美しい色の髪を惜しげも無く風に遊ばせ、大杉苔と青紅葉の庭をそのまま水晶に閉じ込めたような瞳を緩やかに細める、その名に劣らない美しさを持った歌仙兼定。
どこから見ても絵になる、まさしく隙のない美しさを持った二振りに挟まれる主君だって劣らずなんともお美しい。前田の贔屓目もあっただろうが、どちらと並んでも大変古風で見目麗しい組み合わせだと思った。
ふと顔だけ向けて三人の後ろ姿を見れば、主君は歌仙さんにばかりお顔を向けていらっしゃった。三日月さんが少しばかり面白くなさそうな目をしている。
前田は主のお心に既に気付いていた。……あのお二人から添われる方を選ぶだろうと言う事を。それも、そのどちらになさるであろうかも。
主は五月だと言うのに袿の襲色目を“捩り紅葉”に重ねているが、それをさらに二の衣を“若緑に中紅”へ差し替えてお召しだ。“淡青の裏中紅”が本来の“捩り紅葉”の重ねになる。それを敢えて若緑にするあたり、主のお心が密やかに表れていると前田には感じられた。思い出せば、最近になって鋏と銅の鏡を磨ぎに出された。おそらくあれは、鬢を削がれる決心の表れだったのだろう。
「また歌仙と三日月?」
厨にたまたま居合わせた加州さんは、よくやるねぇとため息をつき、面白くなさそうにヤカンを火にかけた。まな板の上には塩摺り中のきゅうりが転がり、カゴにも新鮮なきゅうりが山盛りになっている。
「加州さんは、厨当番……でしたっけ?」
「違うよ。畑のきゅうりが育ちまくっててさ、これ以上デカくなる前にって収穫してきたの。漬物にしとけば日持ちするでしょ?」
この本丸の初期刀、加州清光。前田と同じ───主を慕いながらも、その幸せを願って身を引いた刀剣の一振り。貧しくて余裕が無い最初期の頃の苦労を共に乗り越えてきただけに、こういった“生活の中での気くばり”に長けている。
「お茶を運んだら、僕も手伝います。」
前田が冷蔵庫から葛切りをだすと、加州は丁度良いサイズのガラス皿を高棚から下ろしてやった。
「大丈夫。それより前田は、あの二人のお目付け役。そのうち主の前で喧嘩でもされたらたまったモンじゃないからさ。」
シュンシュン…とヤカンからすすり泣くような沸騰音が立ち始める。加州はなんとなしに勝手口から外に出ると、すぐに南天の葉を手折って戻ってきた。丁寧に水洗いして丁度良い大きさに切りそろえると、葛切りの上に飾ってやる。
「この赤い葉が付いてるヤツが主のね!どう?俺と同じ色でしょ?」
負け惜しみと言われても加州は笑って吹き飛ばすだろう。加州の目と同じ色の南天の枝葉の一皿と、深緑の枝葉の乗った二皿。前田も「分かりやすくていいですね」と笑いながら、そこに黒蜜を回しかける。
ヤカンの湯が沸騰し切る前に火を止め、茶碗に湯をまわし入れてから急須にお湯を戻すと、盆にまとめて載せた。
「一人で運べる?」
「慣れてますから。」
大丈夫ですよ、と続けると、加州はヒラヒラと手を振って胡瓜の塩ずりを再開し始めた。前田も盆を持って厨を出ると、審神者と二人の“厄介者”がいる裏書院へと足を進める。
「今朝はどの単衣になさいますか?」
次の朝、前田はいつも通り審神者の着替えを手伝っていた。何色もある薄い絹の五衣に、表着、唐衣、打衣───暑さが苦手な主君を気遣って、前田は唐衣を箪笥から出さないで夏の装いを進める。
「あ、あるじさま、僕…… 以前あるじさまがお召しになっていた、藤色の重ねが、また見たい……です。」
審神者の髪を梳いていた五虎退がおずおずと主を覗き込む。
「藤…かぁ、そうね、それにしましょう。」
藤、とは言っても、藤色のような紫、という意味で取ったらしい。主君は“楝”の重ねのところ青を淡萌黄に変えられて、淡紅の表衣をお選びになった。こんなにあからさまな“歌仙重ね”をされて、今日はさぞかし月に雲が掛かる事だろうと想像するに易い。
主君は最初から歌仙さんを選んでいた。
……いつだって歌仙さんを選んでいた。歌仙さんだけが主君が自ら選んで手に取った刀剣で、2番目は結局2番目に過ぎない。あの鍛冶場の炎の中にどれだけの玉鋼を投げ入れてどんな刀剣が宿るのか、主君は選べないのだから。
主君と歌仙さん、それをほんのわずかに遅れてこの本丸にやって来た自分が、ずっと眺めて来た。ジリ貧で怪我を治してやれなくて泣き腫らしていらした夜も、主君が自分の着物や家財を少しずつ売り払っては本丸維持のための資金に充てていた時期も、刀剣が増えはじめてお米が足りなくなったときも─── 主君は歌仙さんと支え合って、最後は笑っていた。
どんなに貴重な刀剣が手に入っても、どんなに忠実な刀剣が側に仕えても、そして近侍を誰に選ばれようとも。主君が歌仙さんを立てないなんて時は一度もなかった。
主君を慕ってその横に居たいと願った刀剣が次々に脱落したのは歌仙さんがいたからだ。皆、どんなに頑張っても破れないガラスの天井に当たり、そして身を引いた。
「前田」
食後休みをされていた主君の部屋を通りかかり「おいでおいで」と手招きされるまま部屋に足を踏み入れる。行儀良く座って「いかがなさいましたか」と訪ねる前田に、審神者は微笑んだ。
「こっちいらっしゃい」
そう言って膝をポンポンとするので、前田は思いがけず顔を赤くしてあたりを見回した。
「寝癖かしら? ここだけ跳ねちゃって」
主君の膝の上に座り、後ろの髪を柘植櫛で梳いてもらう。とても嬉しい反面、やはり主君の目に僕は小さな子供の一人として映っているのだろうと思えて寂しくもある。
「前田にだけは、先に言っておこうと思って」
胸が大きく跳ねた。主君の声色に何を言おうとしているのかすぐに察しがつく。
「実はね、歌仙───
「あ───!!! ズルいズルい! 僕もあるじさんに髪梳いてもらいたいのに!」
突然の大声に前田の方が跳ねる。振り向けば開け放っていた障子から乱が顔を覗かせていた。
「み、乱兄さん……!」
乱の声がよほど響いたのだろう。秋田や五虎退、平野、はては信濃から今剣から加州までドヤドヤと縁側を走って集まる。
ぬけがけ!僕も僕も!なんでオレじゃないの?!俺泣いちゃいそう!と口々に騒げば、さらにそれを聞きつけて骨喰を引きずって来た鯰尾やら小夜を引きずって来た博多やら厚が飛んできて、前田は慌てて審神者の膝から立ち上がる。
「加州さんまで! ぼ、……僕は抜け駆けなんか!」
真っ赤な顔であたふたする前田に審神者も笑う。
「わかったわかった。順番ですよ? みんないらっしゃい」
一斉に周りを囲まれてしまえば、加州と乱が審神者を挟んで「僕が先だよ!」「一番は俺って決まってんの」と小競り合いを始める。そのまわりで入り難そうにおずおずと眺める小夜を見て審神者が「小夜、こっちいらっしゃい」と手招きすれば、「ホラ小夜助からだってさ」「行きんしゃい行きんしゃい」と厚と博多が背を押した。
主君は歌仙さんの名前を言いかけた。本当は何て続けるつもりだったのだろう。……なんとなく察してはいたが、前田は小さなため息とともに一度忘れようとした。
主君は兄弟や他の刀剣たちに囲まれて、さっきまで前田を乗せていた膝に小夜を乗せて髪を結い直してやっている。主君の部屋で騒いでいれば、石切丸さんや蜻蛉切さん、青江さんや源氏の御二方も部屋をのぞいて笑っていた。
「にっかりさんも混ざりましょうよ、僕や加州さんもいるから大丈夫ですって」
鯰尾が部屋を覗いていた青江の手を引く。
「いや、僕はいいよ…… 楽しんでおいで」
「じゃあ僕がお呼ばれしようかな〜」
「兄者!?」
もう少しだけ、せめてこの間だけ。まだ歌仙さんのものではない主君をこうして囲んで笑っていたい。
「前田もこっち…」「はやくはやく」と手招きする骨喰と信濃に笑顔を返すと、前田は兄弟の中へ戻って行った。
職務室に戻ってこない審神者を探しに来た長谷部が皆んなに雷を落としたあと結局主君に根負けして、膝に乗せられ真っ赤な顔を覆うのを加州に写真を撮られるまで、その団欒は続いた。この写真は審神者の降嫁の婚儀で張り出されるに至るのだが、この時の前田はそんな事思いもしない。
ただ今だけ、彼女が皆んなのものである幸せを噛み締めていた。
4/4ページ