歌仙兼定
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あなたが朽ちて果てるとき
雪見障子のガラスから、大粒の雨が降りしきるのを見ていた。昨日まで純白の世界を誇っていた雪の庭が溶かされていく。最後まで私は、美しいものが壊れるのていくのを見せつけられるのだ。
「主、もう身体に障る…御簾を下ろさせてもらうよ。」
歌仙が立ち上がる。
ゆっくりと首を動かして、袖が捲れるのも気に留めず御簾の留紐を解く腕を見た。
こんな身体になって、そう長くはない。ある日突然ダメになった。霊力が足りなくて、自分が知らないうちに自らの寿命と生命力を使っていた。
ある日突然歯が抜けて、それから髪の色が落ちてきて、体重が減り、肌は割れて、乳房がしぼんだ。これでもまだ二十余年しか生きていない。だけど、たった数日で鏡に映る私は、死ぬ前の祖母と同じ色の顔をしていた。
青柳が風に撫でられた時と同じ音がして目を向ければ、御簾を下ろした歌仙がまた私の側に座ってくれる。慈愛に満ちた目。6月の苔庭を水晶に閉じ込めたような目。その目が私を映すたび、歌仙は須弥山から突き落とされたような顔をする。
「なむ…かん、ぜ…お…」
思うような声が出ない。痩けて眼孔に沿った瞼だけが金剛山となり、私の乾ききった眼球の大地を溢さないように踏み止まる。
「南無観世音菩薩」
優しい声が私の代わりに呟いてくれる。いつ死んでも大丈夫なように握りしめた翡翠の念珠ごと、歌仙がこの手を包んだ。
「“そっちの”神様は、主を救えるのかい?」
上弦の張った口元がそう息を洩らす。きっと小馬鹿にしているのだろう。なんたって、本当の神様の部類である彼ですら、私を救えないのだから。
だけど歌仙はわかっていない。私の前に現れた観世音菩薩様こそ、あなただという事を。
「愛してるわ」
死を予見したあの日、私は自由に言葉を話せるうちに、歌仙にそう伝えた。
「だめだよ」
歌仙は優しくそう笑った。私は知っている、歌仙は私に応えない。彼は“人間のうちにある”私を愛しているのだから。
「僕はもう五百年以上生きている。きっとこの先も千年、千五百年とあり続ける事だって出来るだろう。…君とは生きる時間が違う。僕は人間の輪の中に入れないし、君は僕たち付喪神の輪の中に入れない。」
あの時歌仙はずっと背を向けていて、一度たりとも私の顔を見てもくれなかった。
「それでもきっとこの先、僕があり続ける中で…人間の輪廻の中に“刀剣”としての僕は存在し続ける事はできる。だから、君の魂とは、また会える。」
嘘だよ、輪廻の先で“あなた”とは会えない。
すっかり暗くなった部屋で、歌仙が炊く火鉢だけが、その温もりには似合わない木炭の澄んだ音を立てていた。南部鉄器の風鈴のような音がチラチラと響く。それ以外はときたま火箸が灰をかく音がするだけで、歌仙も審神者も身動ぎ一つしない。
まだ歌仙に話したい事はたくさんあった。御簾と障子の向こうではまだ雨が降っている。不思議と雨音はしない、きっと霧雨なのだろう。その慈しみの心が美しい雲となり、大きく私を包み込み、智慧の雨がこの煩悩の業火を消してくれる。だから音を立てないで降りしきっている。あの雨を降らせているのは、刀剣男士という三十三応身で現れた観世音菩薩。私にとって、そう思う事だけが、この死のふちにあって唯一の癒しだった。
成仏なんかするつもりはない。輪廻の果てで解脱に至る幸せなんか、私には必要ない。
私は塵になる。
「歌仙、私の魂はここで終わりだよ。」
そう笑うと、歌仙はやっと私を抱きしめてくれた。震えていて、怒っているのだとすぐにわかった。まだ布団から起き上がれる頃の事だった。
「そんな事を言ってはだめだ…!僕は、僕は君が、たとえどんな姿に生まれ変わっても、必ず見つけ会えると信じたいんだ!今の僕がいつかただの鉄の塊に戻ってしまっても、この世に在り続けなければいけない物である限り…君の魂とまた出会えると、信じさせてくれなければ…僕は、…!」
「輪廻の先で、今のあなたとは会えない…だから塵になりましょう。」
背骨が折れるくらい力強く締められても、痛みなど感じない。庭の南天の枝のような節ばった醜い腕を、歌仙の背中に回してやる事しか私にはできない。
「私はこの地に撒かれた灰になって、あなたを待っている。あなたが朽ちて果てたとき、私はあなたを抱きしめる。私たちはこの星に積もる土となり、やっと一緒になれるのよ。」
主は信心深いひとだった。
主は僕たちを観世音菩薩様だと言った。その菩薩様は美しく輝いていて、偉大で、優しく包み込んでくれて、敵をうち払う。お声は清らかで美しく、心に染み渡り落ち着かせてくれて、無垢で、この世の全ての苦しみや悲しみを癒すのだそうだ。
「観世音菩薩様は、その人を救うために、その人に合わせたお姿で現れてくださるのよ。」
だから初めて僕を顕現させたとき、観世音菩薩様が現れたと思ったのだと言っていた。現代社会を経て審神者になったはずの、それも年若い彼女が、どうしてそんなに仏に信心深い人間へと形成されたのかは知るつもりもないけれどね、…僕はそんな彼女を愛してしまった。
その菩薩様の特徴は、僕からして見れば、彼女そのものだったのだから。
だけど彼女を愛してしまったのは、僕に限ったことじゃない。彼女の清廉な魂を、きっとその菩薩も気に入ってしまったのだろう。
主との約束通り、僕は彼女を荼毘に付した。僕やほかの刀剣が生まれた鍛刀場で、骨も残らないよう火を焚べた。───他の刀剣は、既に僕以外全員解刀していた。主の肉体を放り込んだ炉の中で、主の願うとおり、主を愛した刀剣達が溶けあって、主と共にこの地に沈んでいく。
歌仙は僅かに残った骨が、焔の中でパチパチと割れていくのを見てから、美しい拵えを纏ったままの自らの“本体”をその中へ放り投げた。
自らの刀身が焼身になるのを感じながら、彼女に与えられた人の身が尽きるのを感じる。歌仙が倒れて散っていくとき、彼は確かに、主が腕を伸ばしてその土に迎え入れてくれるのを見ていた。
雪見障子のガラスから、大粒の雨が降りしきるのを見ていた。昨日まで純白の世界を誇っていた雪の庭が溶かされていく。最後まで私は、美しいものが壊れるのていくのを見せつけられるのだ。
「主、もう身体に障る…御簾を下ろさせてもらうよ。」
歌仙が立ち上がる。
ゆっくりと首を動かして、袖が捲れるのも気に留めず御簾の留紐を解く腕を見た。
こんな身体になって、そう長くはない。ある日突然ダメになった。霊力が足りなくて、自分が知らないうちに自らの寿命と生命力を使っていた。
ある日突然歯が抜けて、それから髪の色が落ちてきて、体重が減り、肌は割れて、乳房がしぼんだ。これでもまだ二十余年しか生きていない。だけど、たった数日で鏡に映る私は、死ぬ前の祖母と同じ色の顔をしていた。
青柳が風に撫でられた時と同じ音がして目を向ければ、御簾を下ろした歌仙がまた私の側に座ってくれる。慈愛に満ちた目。6月の苔庭を水晶に閉じ込めたような目。その目が私を映すたび、歌仙は須弥山から突き落とされたような顔をする。
「なむ…かん、ぜ…お…」
思うような声が出ない。痩けて眼孔に沿った瞼だけが金剛山となり、私の乾ききった眼球の大地を溢さないように踏み止まる。
「南無観世音菩薩」
優しい声が私の代わりに呟いてくれる。いつ死んでも大丈夫なように握りしめた翡翠の念珠ごと、歌仙がこの手を包んだ。
「“そっちの”神様は、主を救えるのかい?」
上弦の張った口元がそう息を洩らす。きっと小馬鹿にしているのだろう。なんたって、本当の神様の部類である彼ですら、私を救えないのだから。
だけど歌仙はわかっていない。私の前に現れた観世音菩薩様こそ、あなただという事を。
「愛してるわ」
死を予見したあの日、私は自由に言葉を話せるうちに、歌仙にそう伝えた。
「だめだよ」
歌仙は優しくそう笑った。私は知っている、歌仙は私に応えない。彼は“人間のうちにある”私を愛しているのだから。
「僕はもう五百年以上生きている。きっとこの先も千年、千五百年とあり続ける事だって出来るだろう。…君とは生きる時間が違う。僕は人間の輪の中に入れないし、君は僕たち付喪神の輪の中に入れない。」
あの時歌仙はずっと背を向けていて、一度たりとも私の顔を見てもくれなかった。
「それでもきっとこの先、僕があり続ける中で…人間の輪廻の中に“刀剣”としての僕は存在し続ける事はできる。だから、君の魂とは、また会える。」
嘘だよ、輪廻の先で“あなた”とは会えない。
すっかり暗くなった部屋で、歌仙が炊く火鉢だけが、その温もりには似合わない木炭の澄んだ音を立てていた。南部鉄器の風鈴のような音がチラチラと響く。それ以外はときたま火箸が灰をかく音がするだけで、歌仙も審神者も身動ぎ一つしない。
まだ歌仙に話したい事はたくさんあった。御簾と障子の向こうではまだ雨が降っている。不思議と雨音はしない、きっと霧雨なのだろう。その慈しみの心が美しい雲となり、大きく私を包み込み、智慧の雨がこの煩悩の業火を消してくれる。だから音を立てないで降りしきっている。あの雨を降らせているのは、刀剣男士という三十三応身で現れた観世音菩薩。私にとって、そう思う事だけが、この死のふちにあって唯一の癒しだった。
成仏なんかするつもりはない。輪廻の果てで解脱に至る幸せなんか、私には必要ない。
私は塵になる。
「歌仙、私の魂はここで終わりだよ。」
そう笑うと、歌仙はやっと私を抱きしめてくれた。震えていて、怒っているのだとすぐにわかった。まだ布団から起き上がれる頃の事だった。
「そんな事を言ってはだめだ…!僕は、僕は君が、たとえどんな姿に生まれ変わっても、必ず見つけ会えると信じたいんだ!今の僕がいつかただの鉄の塊に戻ってしまっても、この世に在り続けなければいけない物である限り…君の魂とまた出会えると、信じさせてくれなければ…僕は、…!」
「輪廻の先で、今のあなたとは会えない…だから塵になりましょう。」
背骨が折れるくらい力強く締められても、痛みなど感じない。庭の南天の枝のような節ばった醜い腕を、歌仙の背中に回してやる事しか私にはできない。
「私はこの地に撒かれた灰になって、あなたを待っている。あなたが朽ちて果てたとき、私はあなたを抱きしめる。私たちはこの星に積もる土となり、やっと一緒になれるのよ。」
主は信心深いひとだった。
主は僕たちを観世音菩薩様だと言った。その菩薩様は美しく輝いていて、偉大で、優しく包み込んでくれて、敵をうち払う。お声は清らかで美しく、心に染み渡り落ち着かせてくれて、無垢で、この世の全ての苦しみや悲しみを癒すのだそうだ。
「観世音菩薩様は、その人を救うために、その人に合わせたお姿で現れてくださるのよ。」
だから初めて僕を顕現させたとき、観世音菩薩様が現れたと思ったのだと言っていた。現代社会を経て審神者になったはずの、それも年若い彼女が、どうしてそんなに仏に信心深い人間へと形成されたのかは知るつもりもないけれどね、…僕はそんな彼女を愛してしまった。
その菩薩様の特徴は、僕からして見れば、彼女そのものだったのだから。
だけど彼女を愛してしまったのは、僕に限ったことじゃない。彼女の清廉な魂を、きっとその菩薩も気に入ってしまったのだろう。
主との約束通り、僕は彼女を荼毘に付した。僕やほかの刀剣が生まれた鍛刀場で、骨も残らないよう火を焚べた。───他の刀剣は、既に僕以外全員解刀していた。主の肉体を放り込んだ炉の中で、主の願うとおり、主を愛した刀剣達が溶けあって、主と共にこの地に沈んでいく。
歌仙は僅かに残った骨が、焔の中でパチパチと割れていくのを見てから、美しい拵えを纏ったままの自らの“本体”をその中へ放り投げた。
自らの刀身が焼身になるのを感じながら、彼女に与えられた人の身が尽きるのを感じる。歌仙が倒れて散っていくとき、彼は確かに、主が腕を伸ばしてその土に迎え入れてくれるのを見ていた。