三日月宗近
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振る手を見れば いさ帰らましを
「どうしても行ってしまうんだね。」
真夏の青い光が差し込む執務室で、入道雲を背負う山々を背にした歌仙が、真っ直ぐな瞳で審神者を射抜いていた。夏の盛りを迎えようとする木々の葉と同じ色が塗り込められたその目は、逆光にあってもなお煌々として怪しく輝いている。
「…えぇ。先日合わせましたが、彼女がこの本丸の後任だと決まりました。今更反故になど…」
「僕は反対だ。」
歌仙は毅然とした態度を崩さない。ジットリとした熱を孕んだ風が簾の隙間から入ってくるたびに、肌に食い込む帯や袴紐が汗を吸い込んで尚気分を害してくる。…ああ、早く逃げたい。こんな物分かりの悪い初期刀では無かったはずなのに。
「君がこの本丸を棄てる必要は無い筈だ。仮に現世に戻ろうと、通信機だけで此処を維持管理する事だって出来るじゃないか。どうしてそれを…」
「煩いわね」
「…!」
歌仙の顔が、見たこともないような色をして歪んだ。彼は存外に短気だ。…何年共に居たと思っているんだ。私にとって、彼より制御しやすい刀なんていない。
「下がりなさい。広間で、他の刀剣達にせっつかれて初期刀の貴方が来たのでしょう?…もう何と説得しても無駄だと、皆んなに伝えて来なさい。」
そう、審神者には分かっていた。
今朝方この本丸の主人である彼女が現世に帰り、後任が当てがわれると全員に伝えられた。先日審神者見習いの少女をこの本丸に招き入れてから、勘の鋭い何人かはそれを危惧していた。…それが現実になったのだ。
それを踏み止まらせようと、初期刀であり主に一番近しい歌仙が、こうして部屋に来た。だがそれで簡単に説得されるほど、審神者の覚悟や決心も柔なものではない。
…いや、一番近しい刀剣は、正確には歌仙では無かった。
「…やはり僕では、役不足と言うわけだ。君が、…いや、君達がこんなにも強情で愚かだとは思わなかったよ。…残念だ。」
今頃たった一人部屋に引き篭もる彼の事を言っているのだろう。それでも歌仙が名前すら口にしないあたり、余程腹に据え兼ねて居るのだろうと察するに余る。
歌仙はため息だけ残して立ち上がると、審神者を横切って部屋を出て行った。
***
「…結婚?…はて、俺となまえが?」
三日月をその目に宿す最も美しい刀と私は、ずっと恋仲だった。それももう三年目になり、政府からの催促もあって私は思い切って彼に求婚した。
それを、この三日月宗近は変わらない笑顔で、拒んだ。
「…え?」
「俺はもうなまえを好いて“こうしている”ではないか。これ以上何を求める。」
「だって、交際しているだけじゃない。私は貴方のものになって、子供が欲し…」
「それはお前の、上の人間から言われたからではないのか?」
ピタリと静止した顔は、その美しさ故か殊の外恐ろしさを秘めて背筋を震わせた。だがそれよりも、愛し合っていた筈の三日月からの言葉に手が震える。
「どう、して…?」
「俺はなまえにこうして人の身を与えられてはいるが、所詮は刀だ。子孫を残すという概念は持ち合わせてはいない。なまえも、俺からすれば命の短い慰み者に過ぎん。…それも分からず、俺と楽しんだのか?」
おかしいと思っていた。何度も身体を重ねて、それも避妊の一つもしていないのに子供が授からないなんて…
それは、三日月という神は…私を慰み者と認識していたから。神が本当に愛して抱けば一夜にして孕むはずなのに、私は───
全てが崩れ去った気がした。もう三日月が、あの時どんな顔をしていたかすら覚えていない。
「でも私、子を成す事が義務で、その相手は、刀剣男士から選んでもいいって、…」
「ならば歌仙などはどうだ?あれは酷くお前に懸想している。いや、若輩の刀剣ならば皆喜んで夜伽を───」
その美しい顔を叩こうと手を振りかざしたが、私はその顔に掌を下ろす事が出来なかった。
あぁそうだ、この刀は美しい。私なんかが手にする事など、最初から出来るわけがなかったんだ。それをどうして結婚してくれると思っていたんだろう。
交際していると思っていた事すら、私の思い上がりだったんだ。
あの夜から、私は三日月と顔も合わせていない。それでも何を気にするでもなく、三日月はチラリとも顔色を変えなかった。
私は三日月を自分のものに出来ていると思い上がっていた。嘘だ。三日月が、私という小娘を…手のひらで転がしていたに過ぎなかったんだ。
千年も生きた彼からしたら、その身の上をほんの僅かな時過ぎ去る、人の子の一つに過ぎなかった。
私は政府からの打診で、縁談を受けた。
とある神社の神主が、子を成さず妻を早くに亡くしたらしいので、その後妻に入れと。普通なら受け付けなかっただろうが、私は二つ返事で了承した。
そしてある条件を出した。
…審神者を、辞めたいと。
***
「初めまして、政府よりご紹介頂きました審神者見習いです。一カ月の研修をお受け下さり誠にありがとうございます!何卒よろしくお願い致します!」
なんとも初々しい、活発そうな少女だった。私に無いキラキラしたものを全部持っている、そう思った。
思い返せば、私は大学卒業後に勤めた会社から転職して此処へ来た。審神者としてはかなり遅咲きだ。それもあっという間で早三年、気がつけば女の曲がり角が見える年齢…
政府から早く子供を増やせとせっつかれるのも当然だ。それも、未婚の女に持ってくる縁談には相応しく無いような…ハズレ籤も同然のものを引かされて。
正直言って、自暴自棄だった。
見習いちゃんは眩しいくらいに笑顔が似合っていて、刀剣男士達からも好かれている。きっと、私の代わりには勿体ないくらいだ。
…何より、この子も三日月に恋をしている。同じ気持ちだからこそ、すぐに分かってしまった。それに、三日月本人もこの子を気に入ったのだろう…目に見えて、彼女の側に仕えていた。
ああ、清々した。これでいい。何も思い残す事はない。
他の刀剣男士を愛していないわけではなかった。それでもやはり、新しく来た見習いの彼女に刺激を受けて、人間らしく気持ちが移り気になる様を見れば踏ん切りも着く。なんて事はない、あんな風に気持ちを移ろわせる人間味は私が与えたものだ。そう、私は良くやったと…誰か褒めてくれてもいいくらいだろう…?ねぇ、三日月。
政府からのメールに、私は後任を彼女に任せたい旨を返した。
***
「結婚?…は?主が、現世の人間と?」
唐突な主からの言葉に、歌仙は戸惑っていた。それでもこの審神者は、顔色ひとつ変えずに淡々としている。
「…ど、どうしてそんな、急に…」
「先月、見習いの審神者が来たでしょう?彼女を後任として、私は現世に帰ります。」
「待ってくれ、主はこの本丸の主人すら辞めるつもりかい?君は三日月殿の恋人では…」
「刀と人が交わる事は出来ないのです。あんな情の戯れを…本気にするお前では無いでしょうに。」
ピタリと静止した顔は、恐ろしさを秘めて歌仙の背筋を震わせる。だがそれよりも、あんなに互いを愛し合っていた筈の片割れから出る言葉に手が震えた。
「何故だい…?一体何が…」
「私はお前達にこうして人の身を与えた審神者ではありますが、所詮は人間です。私はいずれ子を成さねばなりませんし、子孫を残すという義務があります。歌仙も三日月も、私からすればこの戦を戦い抜くための一兵に過ぎません。…それも分からず、人の身を享受していたのですか?」
わざと三日月が言った言葉を返すような言葉を選んだ。歌仙に八つ当たりしているだけだと分かっていても、最も長く共にいた彼にだからこそ甘えて、そして…酷い事を口にしてしまう。
全てが崩れ去った気がした。歌仙はただ押し黙って目眩のする視界を膝のあたりに落としていた。
***
荒々しい足音が襖の向こうからやって来て、断りもなしにその音の主が襖を開け広げた。
襖のパンという乾いた音に興味すら示さない三日月がゆっくりと振り返れば、息を荒げた歌仙が恐ろしいまでに冴えた目で、雅だと褒め讃えていた筈のその天下五剣の一人を見下ろしている。
「主に、一体何をした。」
鞘を握りしめる手が震えている。応えようによっては、歌仙は三日月の首を跳ねる気でいるのだろう。それでも三日月は気にするでもなく、両の手で包む湯のみを煽った。
「やはり若いな。お前には分からんよ。」
「なんだと…ッ!」
歌仙が刀身を抜き鞘を投げ捨てた所で、騒ぎを聞きつけた何振りかが集まってくる。
「なに…あれに結婚を迫られただけだ。あれ自身が俺たち付喪神への慰み者とも知らずにな。…哀れな小娘だ。」
「…は、なに、を、───貴様、主に…」
胸がひどく高鳴って、歌仙の刀を握る手が目に見えて震えている。怒りで目眩すら覚え、唇がうまく動かない。
「貴様もういっぺん…言ってみろ!!!」
「やめなさいよちょっと!」
刀を振り上げたところで次郎太刀が羽交い締めにすれば、やっと歌仙の体格に勝つ自信の無い他の刀剣も次郎に加勢した。
「離せ!!!くそ!三日月宗近!貴様三十七人目の首にしてやる!!!お前ら離せ!!!」
それを三日月は、涼しい顔で姿勢を崩さないまま横目に眺めていた。──美しい顔というのは損だと思う。まるで意に介していないように見えるからだ。端正過ぎる顔に目が奪われて、誰しもがその目に宿る月の欠けるさまに気が付かない。騒ぎを聞きつけた石切丸と小狐丸だけが、そう思った。
「三日月殿、わざと歌仙に斬らせようとしましたね。」
歌仙は主の元へ連れて行かれ、部屋には三日月と石切丸、小狐丸だけが残った。話しを聞いていた何人かの刀剣も、ひどく三日月を見損なったような顔をしていた。遠征に行っていたから良かったものの、もしあそこに長谷部やら加州やらが居れば、刀を抜いたのは歌仙だけでは済まなかっただろう。
小狐丸の問いにも表情一つ変えない三日月に、石切丸はため息を漏らした。
「私達は縁戚の由みだ。何かあれば言って欲しい。」
「…あいすまなぬな。心配をかけた。」
フッと唇の端を上げるが、視線は落としたまま二人に向けようとはしなかった。
***
歌仙は再び審神者の前に座っていた。本体である刀自体は、審神者の手中にある。
「本丸内での抜刀は禁じていた筈です。まさか、それを初期刀であるお前が破るなんて」
「あれは君を慰み者呼ばわりした。主を弄んだ者を手打ちにして、一体何の罪になると言うんだい?」
審神者の言葉が詰まった。触れて欲しくない、放っておいて欲しい…そう言う言葉だけが喉元に迫り来る。
「まさか彼からそう言われたから、この本丸を去るなど愚かな事を選んだわけではないのかい?…あれに結婚を断られたから、君は何処ぞの馬の骨とも知れん男に嫁ぐと?」
伏せていた目の視界に、明るい灰色の袴が入った。顔を上げるが早いか手首を掴まれ、歌仙に抱き寄せられる。
「──誰とも知らぬ男に渡すくらいなら、僕は君を…今ここで僕のものにしたっていいんだ…!君も、僕の胸中を知らないほど鈍い子ではないだろう。…それとも、最初から僕に こう させるつもりだったのかい?」
「──あっ…!」
首元に顔を押入られ耳元で囁かれる。竦んだ身を抱き締められ、瞳いっぱいに髪の菫色が広がった。
「───ッ」
自分でも何が起きたか、その一瞬の記憶は飛んでいた。
ただジンジンと痛む右の手の平をぶら下げて、今…歌仙を見下ろしている。落ちた前髪で歌仙の顔などは分からないが、ただ彼の頬を引っ叩いた事だけは理解した。
「…すまない。僕は、君に乱暴をするつもりじゃなかったんだ。…僕は君が好きだ。僕だけじゃない。君がその手で顕現した この本丸にいる刀剣は皆、心から君を愛している。どうか…分かってくれ。棄てないで…くれ。」
「…ッ、わ、私だって、ううん。…もう決めた事、…だから。歌仙、…三日月を憎まないで。…私が決めた事なの。だから私を憎んで、心から恨んで、恨み続けてね。そしたら歌仙は、…私を忘れないよね?」
歌仙が顔を上げると、審神者はもう後ろを向いていた。その背中で見えずとも、彼女は歌仙兼定の本体を抱き締めていると感じる。
そして本体に落ちるものが、何であるかも。
***
別れの日というのはすぐにやって来た。その日まで辿り着くまでは、それはもう散々な日々だった。
あれから歌仙とも、ついに業務連絡以外の事で言葉を交わす事はなかった。
長谷部や加州の事も避けた。
短刀達がくれた手作りの品々ばかりが段ボール箱を増やすだけで、当の本人達とは簡単な別れの言葉しか言ってやっていない。
政府の人間が、白無垢を着て本丸を出るように…なんて洒落にもならない事を言って寄越したせいで、私は今まさにその白い着物に袖を通して、鶴丸もびっくりな真っ白い姿で本丸の玄関に立っている。
仰々しく見送る全ての刀剣達に顔を向ける事無く、こんのすけを先頭に迎えに来た役人達の元へ足を進めた。
「…ッ主さま!」
たった一人、呼び止める声がした。…こんのすけの指導の元で初めて鍛刀した、乱藤四郎だ。
打掛の裾を握る手を乱に取られ、名残を惜しむようにその顔の横へ抱かれる。
「主さまのお嫁入りの守り刀を、僕が勤め…られなかったのが、心残り、だなぁ。」
そんな目で見られて、つい視界がボヤけてしまった。目頭が熱く、鼻の奥が痛む。
乱の手が離れると、立葵の花の首が添えられた、小さく畳まれた和紙が握らされていた。…もう、それがなんなのか分かっている。
背後に立つ役人に促されるまま足を進めゲートの入り口まで来て、やっと後悔する気がして、立ち止まってその文を広げた。
あはれにも のべやまかぜに さらされて
なお君をたち あふひ待つらむ
(もの寂しく 野辺で山風に晒されてまで、なお立ちつくし、君と会える日をあの立葵(たちあふひ)は待っているのだろう。)
三日月宗近の引く、穏やかな墨の筋が、私は大好きだった。
…分かっていた。三日月は、決して誰かを傷付けるような口を開く者ではないと。私と契るのを拒んだのは、──人の身である私を、愛してくれていたから。人ではなくなった審神者がどうなるか知っていて、だから、私を拒んだのだと。
見送りの中にあって、なお輝かんばかりに美しいあの刀は、確かに私を愛していた。知っていた。ずっと。ただ、他に嫁へ行くと言った私を、ただ一言…三日月から諌めて欲しいだけだった。
私が馬鹿だった。全て失って、現世に還る。全てを置き去りにして。
歌仙も長谷部も加州も、そして三日月も、そんな愚かな私を理解していた。
それでも引き留めないのは、三日月の考えを、優しさを理解したから。
この一歩を踏めば、私はもう二度と歴史改変の戦争とは関わらなくなる。そして彼らとも。
きっと政府から、今この記憶ですら消されてしまうだろう。
横目に今を盛りとなお背を伸ばす立葵がある。生垣代わりに美しいからと、私と三日月が植えたものだ。
現世にこの花を見ても、きっとこの最後の和歌すら思い出せないのだろう───
審神者は帯に差す小太刀を抜くと、指を切って懐紙に返事を書き、立葵に結わう。
そして一目も振り返る事なく、ゲートに足を踏み入れていった。ついに一度も、三日月の顔を見ることもなく。
たちつくし ちぐさの背を越す あが背をの
ふる手を見れば いさ帰らましを
───野辺にまぎれてしまおうと、(たちあふい(ひ)のように)草木よりも背の高い、愛おしい貴方が手を振るのを見れば、私はすぐにでも…貴方のもとへ帰ったでしょうに。(なぜ、あの時引き留めてくれなかったの。)
「どうしても行ってしまうんだね。」
真夏の青い光が差し込む執務室で、入道雲を背負う山々を背にした歌仙が、真っ直ぐな瞳で審神者を射抜いていた。夏の盛りを迎えようとする木々の葉と同じ色が塗り込められたその目は、逆光にあってもなお煌々として怪しく輝いている。
「…えぇ。先日合わせましたが、彼女がこの本丸の後任だと決まりました。今更反故になど…」
「僕は反対だ。」
歌仙は毅然とした態度を崩さない。ジットリとした熱を孕んだ風が簾の隙間から入ってくるたびに、肌に食い込む帯や袴紐が汗を吸い込んで尚気分を害してくる。…ああ、早く逃げたい。こんな物分かりの悪い初期刀では無かったはずなのに。
「君がこの本丸を棄てる必要は無い筈だ。仮に現世に戻ろうと、通信機だけで此処を維持管理する事だって出来るじゃないか。どうしてそれを…」
「煩いわね」
「…!」
歌仙の顔が、見たこともないような色をして歪んだ。彼は存外に短気だ。…何年共に居たと思っているんだ。私にとって、彼より制御しやすい刀なんていない。
「下がりなさい。広間で、他の刀剣達にせっつかれて初期刀の貴方が来たのでしょう?…もう何と説得しても無駄だと、皆んなに伝えて来なさい。」
そう、審神者には分かっていた。
今朝方この本丸の主人である彼女が現世に帰り、後任が当てがわれると全員に伝えられた。先日審神者見習いの少女をこの本丸に招き入れてから、勘の鋭い何人かはそれを危惧していた。…それが現実になったのだ。
それを踏み止まらせようと、初期刀であり主に一番近しい歌仙が、こうして部屋に来た。だがそれで簡単に説得されるほど、審神者の覚悟や決心も柔なものではない。
…いや、一番近しい刀剣は、正確には歌仙では無かった。
「…やはり僕では、役不足と言うわけだ。君が、…いや、君達がこんなにも強情で愚かだとは思わなかったよ。…残念だ。」
今頃たった一人部屋に引き篭もる彼の事を言っているのだろう。それでも歌仙が名前すら口にしないあたり、余程腹に据え兼ねて居るのだろうと察するに余る。
歌仙はため息だけ残して立ち上がると、審神者を横切って部屋を出て行った。
***
「…結婚?…はて、俺となまえが?」
三日月をその目に宿す最も美しい刀と私は、ずっと恋仲だった。それももう三年目になり、政府からの催促もあって私は思い切って彼に求婚した。
それを、この三日月宗近は変わらない笑顔で、拒んだ。
「…え?」
「俺はもうなまえを好いて“こうしている”ではないか。これ以上何を求める。」
「だって、交際しているだけじゃない。私は貴方のものになって、子供が欲し…」
「それはお前の、上の人間から言われたからではないのか?」
ピタリと静止した顔は、その美しさ故か殊の外恐ろしさを秘めて背筋を震わせた。だがそれよりも、愛し合っていた筈の三日月からの言葉に手が震える。
「どう、して…?」
「俺はなまえにこうして人の身を与えられてはいるが、所詮は刀だ。子孫を残すという概念は持ち合わせてはいない。なまえも、俺からすれば命の短い慰み者に過ぎん。…それも分からず、俺と楽しんだのか?」
おかしいと思っていた。何度も身体を重ねて、それも避妊の一つもしていないのに子供が授からないなんて…
それは、三日月という神は…私を慰み者と認識していたから。神が本当に愛して抱けば一夜にして孕むはずなのに、私は───
全てが崩れ去った気がした。もう三日月が、あの時どんな顔をしていたかすら覚えていない。
「でも私、子を成す事が義務で、その相手は、刀剣男士から選んでもいいって、…」
「ならば歌仙などはどうだ?あれは酷くお前に懸想している。いや、若輩の刀剣ならば皆喜んで夜伽を───」
その美しい顔を叩こうと手を振りかざしたが、私はその顔に掌を下ろす事が出来なかった。
あぁそうだ、この刀は美しい。私なんかが手にする事など、最初から出来るわけがなかったんだ。それをどうして結婚してくれると思っていたんだろう。
交際していると思っていた事すら、私の思い上がりだったんだ。
あの夜から、私は三日月と顔も合わせていない。それでも何を気にするでもなく、三日月はチラリとも顔色を変えなかった。
私は三日月を自分のものに出来ていると思い上がっていた。嘘だ。三日月が、私という小娘を…手のひらで転がしていたに過ぎなかったんだ。
千年も生きた彼からしたら、その身の上をほんの僅かな時過ぎ去る、人の子の一つに過ぎなかった。
私は政府からの打診で、縁談を受けた。
とある神社の神主が、子を成さず妻を早くに亡くしたらしいので、その後妻に入れと。普通なら受け付けなかっただろうが、私は二つ返事で了承した。
そしてある条件を出した。
…審神者を、辞めたいと。
***
「初めまして、政府よりご紹介頂きました審神者見習いです。一カ月の研修をお受け下さり誠にありがとうございます!何卒よろしくお願い致します!」
なんとも初々しい、活発そうな少女だった。私に無いキラキラしたものを全部持っている、そう思った。
思い返せば、私は大学卒業後に勤めた会社から転職して此処へ来た。審神者としてはかなり遅咲きだ。それもあっという間で早三年、気がつけば女の曲がり角が見える年齢…
政府から早く子供を増やせとせっつかれるのも当然だ。それも、未婚の女に持ってくる縁談には相応しく無いような…ハズレ籤も同然のものを引かされて。
正直言って、自暴自棄だった。
見習いちゃんは眩しいくらいに笑顔が似合っていて、刀剣男士達からも好かれている。きっと、私の代わりには勿体ないくらいだ。
…何より、この子も三日月に恋をしている。同じ気持ちだからこそ、すぐに分かってしまった。それに、三日月本人もこの子を気に入ったのだろう…目に見えて、彼女の側に仕えていた。
ああ、清々した。これでいい。何も思い残す事はない。
他の刀剣男士を愛していないわけではなかった。それでもやはり、新しく来た見習いの彼女に刺激を受けて、人間らしく気持ちが移り気になる様を見れば踏ん切りも着く。なんて事はない、あんな風に気持ちを移ろわせる人間味は私が与えたものだ。そう、私は良くやったと…誰か褒めてくれてもいいくらいだろう…?ねぇ、三日月。
政府からのメールに、私は後任を彼女に任せたい旨を返した。
***
「結婚?…は?主が、現世の人間と?」
唐突な主からの言葉に、歌仙は戸惑っていた。それでもこの審神者は、顔色ひとつ変えずに淡々としている。
「…ど、どうしてそんな、急に…」
「先月、見習いの審神者が来たでしょう?彼女を後任として、私は現世に帰ります。」
「待ってくれ、主はこの本丸の主人すら辞めるつもりかい?君は三日月殿の恋人では…」
「刀と人が交わる事は出来ないのです。あんな情の戯れを…本気にするお前では無いでしょうに。」
ピタリと静止した顔は、恐ろしさを秘めて歌仙の背筋を震わせる。だがそれよりも、あんなに互いを愛し合っていた筈の片割れから出る言葉に手が震えた。
「何故だい…?一体何が…」
「私はお前達にこうして人の身を与えた審神者ではありますが、所詮は人間です。私はいずれ子を成さねばなりませんし、子孫を残すという義務があります。歌仙も三日月も、私からすればこの戦を戦い抜くための一兵に過ぎません。…それも分からず、人の身を享受していたのですか?」
わざと三日月が言った言葉を返すような言葉を選んだ。歌仙に八つ当たりしているだけだと分かっていても、最も長く共にいた彼にだからこそ甘えて、そして…酷い事を口にしてしまう。
全てが崩れ去った気がした。歌仙はただ押し黙って目眩のする視界を膝のあたりに落としていた。
***
荒々しい足音が襖の向こうからやって来て、断りもなしにその音の主が襖を開け広げた。
襖のパンという乾いた音に興味すら示さない三日月がゆっくりと振り返れば、息を荒げた歌仙が恐ろしいまでに冴えた目で、雅だと褒め讃えていた筈のその天下五剣の一人を見下ろしている。
「主に、一体何をした。」
鞘を握りしめる手が震えている。応えようによっては、歌仙は三日月の首を跳ねる気でいるのだろう。それでも三日月は気にするでもなく、両の手で包む湯のみを煽った。
「やはり若いな。お前には分からんよ。」
「なんだと…ッ!」
歌仙が刀身を抜き鞘を投げ捨てた所で、騒ぎを聞きつけた何振りかが集まってくる。
「なに…あれに結婚を迫られただけだ。あれ自身が俺たち付喪神への慰み者とも知らずにな。…哀れな小娘だ。」
「…は、なに、を、───貴様、主に…」
胸がひどく高鳴って、歌仙の刀を握る手が目に見えて震えている。怒りで目眩すら覚え、唇がうまく動かない。
「貴様もういっぺん…言ってみろ!!!」
「やめなさいよちょっと!」
刀を振り上げたところで次郎太刀が羽交い締めにすれば、やっと歌仙の体格に勝つ自信の無い他の刀剣も次郎に加勢した。
「離せ!!!くそ!三日月宗近!貴様三十七人目の首にしてやる!!!お前ら離せ!!!」
それを三日月は、涼しい顔で姿勢を崩さないまま横目に眺めていた。──美しい顔というのは損だと思う。まるで意に介していないように見えるからだ。端正過ぎる顔に目が奪われて、誰しもがその目に宿る月の欠けるさまに気が付かない。騒ぎを聞きつけた石切丸と小狐丸だけが、そう思った。
「三日月殿、わざと歌仙に斬らせようとしましたね。」
歌仙は主の元へ連れて行かれ、部屋には三日月と石切丸、小狐丸だけが残った。話しを聞いていた何人かの刀剣も、ひどく三日月を見損なったような顔をしていた。遠征に行っていたから良かったものの、もしあそこに長谷部やら加州やらが居れば、刀を抜いたのは歌仙だけでは済まなかっただろう。
小狐丸の問いにも表情一つ変えない三日月に、石切丸はため息を漏らした。
「私達は縁戚の由みだ。何かあれば言って欲しい。」
「…あいすまなぬな。心配をかけた。」
フッと唇の端を上げるが、視線は落としたまま二人に向けようとはしなかった。
***
歌仙は再び審神者の前に座っていた。本体である刀自体は、審神者の手中にある。
「本丸内での抜刀は禁じていた筈です。まさか、それを初期刀であるお前が破るなんて」
「あれは君を慰み者呼ばわりした。主を弄んだ者を手打ちにして、一体何の罪になると言うんだい?」
審神者の言葉が詰まった。触れて欲しくない、放っておいて欲しい…そう言う言葉だけが喉元に迫り来る。
「まさか彼からそう言われたから、この本丸を去るなど愚かな事を選んだわけではないのかい?…あれに結婚を断られたから、君は何処ぞの馬の骨とも知れん男に嫁ぐと?」
伏せていた目の視界に、明るい灰色の袴が入った。顔を上げるが早いか手首を掴まれ、歌仙に抱き寄せられる。
「──誰とも知らぬ男に渡すくらいなら、僕は君を…今ここで僕のものにしたっていいんだ…!君も、僕の胸中を知らないほど鈍い子ではないだろう。…それとも、最初から僕に こう させるつもりだったのかい?」
「──あっ…!」
首元に顔を押入られ耳元で囁かれる。竦んだ身を抱き締められ、瞳いっぱいに髪の菫色が広がった。
「───ッ」
自分でも何が起きたか、その一瞬の記憶は飛んでいた。
ただジンジンと痛む右の手の平をぶら下げて、今…歌仙を見下ろしている。落ちた前髪で歌仙の顔などは分からないが、ただ彼の頬を引っ叩いた事だけは理解した。
「…すまない。僕は、君に乱暴をするつもりじゃなかったんだ。…僕は君が好きだ。僕だけじゃない。君がその手で顕現した この本丸にいる刀剣は皆、心から君を愛している。どうか…分かってくれ。棄てないで…くれ。」
「…ッ、わ、私だって、ううん。…もう決めた事、…だから。歌仙、…三日月を憎まないで。…私が決めた事なの。だから私を憎んで、心から恨んで、恨み続けてね。そしたら歌仙は、…私を忘れないよね?」
歌仙が顔を上げると、審神者はもう後ろを向いていた。その背中で見えずとも、彼女は歌仙兼定の本体を抱き締めていると感じる。
そして本体に落ちるものが、何であるかも。
***
別れの日というのはすぐにやって来た。その日まで辿り着くまでは、それはもう散々な日々だった。
あれから歌仙とも、ついに業務連絡以外の事で言葉を交わす事はなかった。
長谷部や加州の事も避けた。
短刀達がくれた手作りの品々ばかりが段ボール箱を増やすだけで、当の本人達とは簡単な別れの言葉しか言ってやっていない。
政府の人間が、白無垢を着て本丸を出るように…なんて洒落にもならない事を言って寄越したせいで、私は今まさにその白い着物に袖を通して、鶴丸もびっくりな真っ白い姿で本丸の玄関に立っている。
仰々しく見送る全ての刀剣達に顔を向ける事無く、こんのすけを先頭に迎えに来た役人達の元へ足を進めた。
「…ッ主さま!」
たった一人、呼び止める声がした。…こんのすけの指導の元で初めて鍛刀した、乱藤四郎だ。
打掛の裾を握る手を乱に取られ、名残を惜しむようにその顔の横へ抱かれる。
「主さまのお嫁入りの守り刀を、僕が勤め…られなかったのが、心残り、だなぁ。」
そんな目で見られて、つい視界がボヤけてしまった。目頭が熱く、鼻の奥が痛む。
乱の手が離れると、立葵の花の首が添えられた、小さく畳まれた和紙が握らされていた。…もう、それがなんなのか分かっている。
背後に立つ役人に促されるまま足を進めゲートの入り口まで来て、やっと後悔する気がして、立ち止まってその文を広げた。
あはれにも のべやまかぜに さらされて
なお君をたち あふひ待つらむ
(もの寂しく 野辺で山風に晒されてまで、なお立ちつくし、君と会える日をあの立葵(たちあふひ)は待っているのだろう。)
三日月宗近の引く、穏やかな墨の筋が、私は大好きだった。
…分かっていた。三日月は、決して誰かを傷付けるような口を開く者ではないと。私と契るのを拒んだのは、──人の身である私を、愛してくれていたから。人ではなくなった審神者がどうなるか知っていて、だから、私を拒んだのだと。
見送りの中にあって、なお輝かんばかりに美しいあの刀は、確かに私を愛していた。知っていた。ずっと。ただ、他に嫁へ行くと言った私を、ただ一言…三日月から諌めて欲しいだけだった。
私が馬鹿だった。全て失って、現世に還る。全てを置き去りにして。
歌仙も長谷部も加州も、そして三日月も、そんな愚かな私を理解していた。
それでも引き留めないのは、三日月の考えを、優しさを理解したから。
この一歩を踏めば、私はもう二度と歴史改変の戦争とは関わらなくなる。そして彼らとも。
きっと政府から、今この記憶ですら消されてしまうだろう。
横目に今を盛りとなお背を伸ばす立葵がある。生垣代わりに美しいからと、私と三日月が植えたものだ。
現世にこの花を見ても、きっとこの最後の和歌すら思い出せないのだろう───
審神者は帯に差す小太刀を抜くと、指を切って懐紙に返事を書き、立葵に結わう。
そして一目も振り返る事なく、ゲートに足を踏み入れていった。ついに一度も、三日月の顔を見ることもなく。
たちつくし ちぐさの背を越す あが背をの
ふる手を見れば いさ帰らましを
───野辺にまぎれてしまおうと、(たちあふい(ひ)のように)草木よりも背の高い、愛おしい貴方が手を振るのを見れば、私はすぐにでも…貴方のもとへ帰ったでしょうに。(なぜ、あの時引き留めてくれなかったの。)
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