三日月宗近
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なお君を 立ち、あふひ待つらむ
「なぜあるじさまを さらってしまわないのですか?」
ぼくはかまいませんよ、と続ける今剣に、三日月はぼんやりとその赤い瞳を見ていた。紅葉色の湖面にも似た今剣の瞳は上弦の月を映して寸分も動かされず、真っ直ぐその月を見据えている。
「はは、いきなり何を言い出すかと思えば。…あれを奪って困るのは、お主だけではあるまいに。」
口元に笑みは蓄えつつ、三日月のその目は冷ややかだった。縁戚の中でも恐らく一番に手強い者こそ、今目の前に仁王立ちする今剣だと心得ている。恐らく口先だけは敵わない彼こそが元大太刀だと言われても、三日月は特に疑問を感じない。それほどに、腹の座った今剣は、今の弱り切った三日月には恐ろしかった。
「なさけない…三条のなおれですよ。あるじさまから もらってくれといわれたあげく、あんなものいいをして こわしてしまうなんて」
「今はやめてくれぬか。」
フッと目が細められると、今剣の口も横一文字に結ばれる。赤い瞳を瞼で半分にしてため息をつくと、もう何も言わずに踵を返してしまった。
***
「三日月…あのね、その…私も、人の若い齢としてはギリギリだし、…そろそろ、三日月の、ものに、なりたいな…なんて」
口をモゴモゴさせながら、恋仲にあった主がそう言い出したのは昨晩の事。想いを確かめ合ってから三年ほど経とうとしていた頃だった。
───たった三年だ。三日月にとっての長い刀生の中にあった、たった三年。刀剣として自覚しているだけでも、ひとつ瞼を閉ざして幾らか瞬きをしたくらいの時間にしか感じなかったはずだった。その三年という響きが、…人の身を得て初めて、少し長いと感じた。
今までで一番満たされた時間だった。
人の身を与えられ、自分の足で動き、自分の手で触れて、そして心がある。面白おかしく笑ったり、酷く打ちのめされて悲しんだり、人を好きになり、愛して、それを言葉にして伝える口と声まである。
人の身というのがこんなにも、何処かしら忙しなく動いているものだとは思わなかった。永らく人に寄り添っていた分知っていたとしても、実際にこの身に起きて経験するのでは訳が違う。
三日月は自らを顕現した、この本丸の主人を愛した。
美しい女性だった。いや、言ってしまえば、見目形など関係ない。清々しいまでに人間くさい、欲望も嫉妬も孕んだ、人間らしい人間の女。それを三日月は美しいと評し、愛さずにはいられなかった。
それは三日月だけではなかった。
三日月が顕現される前からいた刀剣、そして三日月の後に顕現された刀剣。彼女の手によって人の身を与えた刀剣は皆、彼女を愛していた。その中で彼女の一番でありたいと欲を出す奴もいれば、ただ彼女の幸せを願って側に寄り添う事を美徳と心得る奴もいる。
…あの、歌仙兼定という初期刀は前者で、前田藤四郎という二番目の古株は後者だった。そして主の心が三日月に傾けば、歌仙も後者になった。
「…結婚?…はて、俺とお前が?」
三日月は、いつかはこの時が来ると覚悟していた。ただ、刀剣であった三日月にとって、主が我慢をできる時間は余りにも短かった。…そう、ずっと言おう、言おうと思っていた。神嫁に入ろうなどと、考えてはくれるなと。三日月はその言葉を先延ばしにしすぎた。こうなった今、三日月に出来る事は彼女を遠ざける事だけ。
ああ、そんな顔で困惑して…俺は今、いつも通りに微笑んでいるだろうか。人の身を得てなお強靭な精神が、今自分にあると言えるだろうか。
「俺はもうお前を好いて“こうしている”ではないか。これ以上何を求める。」
「だって、交際しているだけじゃない。私は貴方のものになって、子供が欲し…」
「それはお前の、上の人間から言われたからではないのか?」
審神者の義務というものは知っている。霊力の備わる子を成して、次の世代へ継いで行くこと。三日月からしたら彼女はまだ若い…が、人からしたら、散る間際の花の盛りと言ったところなのだろう。主が焦っている事も知っていた。
「どう、して…?」
まさか断られないと思っていたのだろう。目に見えて青ざめる主に心を震わせながら、わざと突き放す言葉だけを選んでいく。
「俺はお前にこうして人の身を与えられてはいるが、所詮は刀だ。子孫を残すという概念は持ち合わせてはいない。主も、俺からすれば命の短い慰み者に過ぎん。…それも分からず、俺と楽しんだのか?」
「でも私、子を成す事が義務で、その相手は、刀剣男士から選んでもいいって、…」
そう、本当に愛していたからこそ、子が出来ないようにしていた。孕ませてしまえば彼女は人でなくなってしまう。それを知っていて当てがってくる政府こそ、人ではないだろうに。
「ならば歌仙などはどうだ?あれは酷くお前に懸想している。いや、若輩の刀剣ならば皆喜んで夜伽を───」
あれの名前を出した途端、主は手を振り上げた。しかし、待てどもも一向にそれをこの顔に振り下ろす気配がない。
主は手のやり場もなく、涙を流して震えていた。…もうそれを抱きしめてやる事もできない。抱きしめてしまえば、この胸に深く根差した欲望のままに、この人の子を攫ってしまうだろう。
こんなにも愛おしいお前に、神嫁に入ってくれと…もう何度、この喉元まで迫り来たかわからない。舌の上までその言葉が転がり出るたび、俺はこの口を閉ざして耐えてきた。主は人の子だ。相容れようとすればどうなるか、人の子が神嫁に入ればどうなるか、…この子は知らない。知らなくていい。俺が、俺から、この人の子から嫌われてしまえば済む事なのだから。
それから主は、目に見えて三日月を避けた。三日月もまた彼女を避けていた。この手が勝手に彼女の腕を掴んでしまえば、その結果は───…
それからの時間は余りにも短かった。心を閉ざして瞬きだけをする。刀剣の身だった頃と同じ感覚だ。幸いにも刀剣というのは、元から苦界をやり過ごすのに慣れきっているのだ。
「あの!は、初めまして、三日月宗近さま」
その眠りを覚ましたのは、審神者の見習いとか言う小娘だった。
教育実習研修と称して、主以外の人の子がこの本丸に転がり込んできた。なんとも明朗快活で、まだ物の善し悪しの分別もいかない、主よりも十ばかり若い娘…
この娘はよく俺の側にあった。人の子とはなんとも面白い。人間ゴッコをしていた刀剣よりも、本物の、それも同性の若い人間を前にした主の顔は初めて見るものばかりであった。
それもなお愛おしいと眺めているだけでも、この苦界というものは様相を変えてしまう。そうだ、歌仙や前田と同じ…俺は、人の側にある事だけでも、こんなにも幸せだったではないか。
それを、人の子に手を伸ばしてしまった事の咎よ…
「あるじさまは だれともしらない にんげんのおとこの よめにくだるそうですよ。」
今剣が断りもなく襖を開けたと思えば、そんな一言だけを発した。
「いま、あるじさまが かせんとはなしているのを ぬすみきいてしまいました。…まだまにあいますよ。」
今剣に向けていた顔を両手に包んだ湯のみに戻した。口を開く気にも、なにか返事をする気にもならなかった。それを理解したのだろう、今剣はもう何も言わず襖を閉めてしまった。
主が、他の男のものになる。
縁談か、それとも政略結婚か、人の子の、それも女というのは、どの時代にあっても不自由なものなのかと哀れにすら思う。
…この手で手放しておいて。
ドスドスという荒れた足音が襖の向こうからやって来るなり、件の歌仙が風流な名に相応しくない形相で襖を開け放った。
「主に、一体何をした。」
見ずとも鞘を握りしめる手が震えているのが分かる。応えようによっては、歌仙は自分の首を跳ねる気だろう。いっそそうしてくれたら、なんと楽な事か…。
三日月は両の手で包む湯のみを煽った。
「やはり若いな。…お前には分からんよ。」
「なんだと…ッ!」
歌仙が刀身を抜き鞘を投げ捨てた所で、騒ぎを聞きつけた何振りかが集まってくる。頭に血が上った歌仙は、そう簡単に抑えられるものではない。例え斬られようと、抵抗する気もない。
「なに…あれに結婚を迫られただけだ。あれ自身が俺たち付喪神への慰み者とも知らずにな。…哀れな小娘だ。」
「…は、なに、を、───貴様、主に…なんて…、貴様!もういっぺん…言ってみろ!!!」
「やめなさいよちょっと!」
歌仙が刀を振り上げたところで次郎太刀が羽交い締めにすれば、やっと歌仙の体格に勝つ自信の無い他の刀剣も次郎に加勢した。
「離せ!!!くそ!三日月宗近!貴様三十七人目の首にしてやる!!!お前ら離せ!!!」
ああ、そうだとも。こんな首、落としてくれて構わない。あれを愛してしまって、あれを傷付けてしまって…こんな愚かな自分など、名だたる名刀歌仙兼定が勿体ない程だ。何が天下五剣か…!刀の付喪神であるというだけで、決してあれを真に幸せにしてやる事など出来ないというのに。
歌仙は引き摺られて主の元へ連れて行かれた。部屋に石切丸と小狐丸が残って励まされたが、笑って謝る事しかできないでいる。
梅雨も中休みの、少し蒸し暑い庭を目でなぞれば、生垣に沿って背を伸ばす立葵の花が目に留まった。…あれは、生垣の代わりに美しいからと、主と俺が植えたものだ。
──立葵はな、梅雨の間に咲くから“梅雨葵”とも言うのだぞ。
太陽に向かって花の背を伸ばしているというのに、雨雲に覆われる間に花の盛りを迎え、そして散ってしまう…
主も、女の盛りを泣いて終わらせてしまわぬよう心せねばな。
そう笑ったのも、つい昨日の事のようだ。
あんな事言わなければよかった。女の盛りを泣かせて、散らせてしまったのが…この俺になってしまったのだから。
あの女が雨雲の間に望むべきはこの月ではなく、何よりも陽の光であったというのに。
あれから歌仙は大人しかった。
主と何を話したか、はたまた俺の兄弟が要らぬ話しをしたかは分からない。ただ、誰を相手にしようと、主は必要最低限の業務連絡程度しか口にしなくなっていた。
ついに別れの言葉もなく、すれ違ったまま主はこの本丸を去って行った。政府の役人とかいういけ好かない人間の男どもが用意した白無垢に袖を通し、この本丸を実家として、今日嫁に出て行く。
これで良かった。俺は主を、人の子として愛していたのだから。輪廻の内にあって魂を磨き、ただ解脱という真の幸福に向かって生と死を繰り返す、その魂を愛していたのだから。
それを理解した今こそ、己が骨の髄まで刀剣である事を思い知った。人の側にあって、その人を愛し、そして何度も見送ってきた。
それが何故、この女だけが特別だったと言うのだ。
「ねえ三日月さん。僕ね、…主様から教えてもらった事があって、ね。」
白無垢の後ろ姿を空色の瞳に映したまま、乱藤四郎が口を開いた。
「立葵の花言葉はね、「単純な愛」、そして、「熱烈な恋」。三日月さんは、何を願ってあの花を植えたの?」
何を言葉として返す気力はなかった。ただ呆然と、人の身としての三日月宗近が、酷い後悔と罪悪感を持って刀剣としての三日月を飲み込んで行く。
あぁ、この花を植えた時から、俺たちは違っていた。なんとも俺たちに相応しい花よ…
「乱よ、足の動かんこの爺いを哀れんで、一つ頼みを聞いてはくれまいか。」
あはれにも のべやまかぜに さらされて
なお君をたち あふひ待つらむ
もし君の輪廻の先に、また俺が居たならば…それを願って、今は君を見送ろう。
この身が尽きるまで、なお立って君を待つ。次に君の魂と再会できたならば、そう、次こそは───…
一目も振り返る事なく、ゲートに足を踏み入れ去って行く主の背を見送った。そこへ、乱が懐紙を文代わりに結んだ立葵のひと枝を差し出してくる。
主の血で、震えた字で書かれた最後の返事。ただゆっくりと、その血の筋をなぞった。
たちつくし ちぐさの背を越す あが背をの
ふる手を見れば いさ帰らましを
───野辺にまぎれてしまおうと、(たちあふい(ひ)のように)草木よりも背の高い、愛おしい貴方が手を振るのを見れば、私はすぐにでも…貴方のもとへ帰ったでしょうに。(なぜ、あの時引き留めてくれなかったの。)
「最後まで、未練がましいものを詠んでくれる…。歌仙、お前の教育か?」
そう微笑んで横を見れば、歌仙は青い顔で静かに涙を落としていた。歌仙だけではない、誰もが絶望を孕んだ顔でいる。
なお君を…たち、あふひ…待つらむ…
「なぜあるじさまを さらってしまわないのですか?」
ぼくはかまいませんよ、と続ける今剣に、三日月はぼんやりとその赤い瞳を見ていた。紅葉色の湖面にも似た今剣の瞳は上弦の月を映して寸分も動かされず、真っ直ぐその月を見据えている。
「はは、いきなり何を言い出すかと思えば。…あれを奪って困るのは、お主だけではあるまいに。」
口元に笑みは蓄えつつ、三日月のその目は冷ややかだった。縁戚の中でも恐らく一番に手強い者こそ、今目の前に仁王立ちする今剣だと心得ている。恐らく口先だけは敵わない彼こそが元大太刀だと言われても、三日月は特に疑問を感じない。それほどに、腹の座った今剣は、今の弱り切った三日月には恐ろしかった。
「なさけない…三条のなおれですよ。あるじさまから もらってくれといわれたあげく、あんなものいいをして こわしてしまうなんて」
「今はやめてくれぬか。」
フッと目が細められると、今剣の口も横一文字に結ばれる。赤い瞳を瞼で半分にしてため息をつくと、もう何も言わずに踵を返してしまった。
***
「三日月…あのね、その…私も、人の若い齢としてはギリギリだし、…そろそろ、三日月の、ものに、なりたいな…なんて」
口をモゴモゴさせながら、恋仲にあった主がそう言い出したのは昨晩の事。想いを確かめ合ってから三年ほど経とうとしていた頃だった。
───たった三年だ。三日月にとっての長い刀生の中にあった、たった三年。刀剣として自覚しているだけでも、ひとつ瞼を閉ざして幾らか瞬きをしたくらいの時間にしか感じなかったはずだった。その三年という響きが、…人の身を得て初めて、少し長いと感じた。
今までで一番満たされた時間だった。
人の身を与えられ、自分の足で動き、自分の手で触れて、そして心がある。面白おかしく笑ったり、酷く打ちのめされて悲しんだり、人を好きになり、愛して、それを言葉にして伝える口と声まである。
人の身というのがこんなにも、何処かしら忙しなく動いているものだとは思わなかった。永らく人に寄り添っていた分知っていたとしても、実際にこの身に起きて経験するのでは訳が違う。
三日月は自らを顕現した、この本丸の主人を愛した。
美しい女性だった。いや、言ってしまえば、見目形など関係ない。清々しいまでに人間くさい、欲望も嫉妬も孕んだ、人間らしい人間の女。それを三日月は美しいと評し、愛さずにはいられなかった。
それは三日月だけではなかった。
三日月が顕現される前からいた刀剣、そして三日月の後に顕現された刀剣。彼女の手によって人の身を与えた刀剣は皆、彼女を愛していた。その中で彼女の一番でありたいと欲を出す奴もいれば、ただ彼女の幸せを願って側に寄り添う事を美徳と心得る奴もいる。
…あの、歌仙兼定という初期刀は前者で、前田藤四郎という二番目の古株は後者だった。そして主の心が三日月に傾けば、歌仙も後者になった。
「…結婚?…はて、俺とお前が?」
三日月は、いつかはこの時が来ると覚悟していた。ただ、刀剣であった三日月にとって、主が我慢をできる時間は余りにも短かった。…そう、ずっと言おう、言おうと思っていた。神嫁に入ろうなどと、考えてはくれるなと。三日月はその言葉を先延ばしにしすぎた。こうなった今、三日月に出来る事は彼女を遠ざける事だけ。
ああ、そんな顔で困惑して…俺は今、いつも通りに微笑んでいるだろうか。人の身を得てなお強靭な精神が、今自分にあると言えるだろうか。
「俺はもうお前を好いて“こうしている”ではないか。これ以上何を求める。」
「だって、交際しているだけじゃない。私は貴方のものになって、子供が欲し…」
「それはお前の、上の人間から言われたからではないのか?」
審神者の義務というものは知っている。霊力の備わる子を成して、次の世代へ継いで行くこと。三日月からしたら彼女はまだ若い…が、人からしたら、散る間際の花の盛りと言ったところなのだろう。主が焦っている事も知っていた。
「どう、して…?」
まさか断られないと思っていたのだろう。目に見えて青ざめる主に心を震わせながら、わざと突き放す言葉だけを選んでいく。
「俺はお前にこうして人の身を与えられてはいるが、所詮は刀だ。子孫を残すという概念は持ち合わせてはいない。主も、俺からすれば命の短い慰み者に過ぎん。…それも分からず、俺と楽しんだのか?」
「でも私、子を成す事が義務で、その相手は、刀剣男士から選んでもいいって、…」
そう、本当に愛していたからこそ、子が出来ないようにしていた。孕ませてしまえば彼女は人でなくなってしまう。それを知っていて当てがってくる政府こそ、人ではないだろうに。
「ならば歌仙などはどうだ?あれは酷くお前に懸想している。いや、若輩の刀剣ならば皆喜んで夜伽を───」
あれの名前を出した途端、主は手を振り上げた。しかし、待てどもも一向にそれをこの顔に振り下ろす気配がない。
主は手のやり場もなく、涙を流して震えていた。…もうそれを抱きしめてやる事もできない。抱きしめてしまえば、この胸に深く根差した欲望のままに、この人の子を攫ってしまうだろう。
こんなにも愛おしいお前に、神嫁に入ってくれと…もう何度、この喉元まで迫り来たかわからない。舌の上までその言葉が転がり出るたび、俺はこの口を閉ざして耐えてきた。主は人の子だ。相容れようとすればどうなるか、人の子が神嫁に入ればどうなるか、…この子は知らない。知らなくていい。俺が、俺から、この人の子から嫌われてしまえば済む事なのだから。
それから主は、目に見えて三日月を避けた。三日月もまた彼女を避けていた。この手が勝手に彼女の腕を掴んでしまえば、その結果は───…
それからの時間は余りにも短かった。心を閉ざして瞬きだけをする。刀剣の身だった頃と同じ感覚だ。幸いにも刀剣というのは、元から苦界をやり過ごすのに慣れきっているのだ。
「あの!は、初めまして、三日月宗近さま」
その眠りを覚ましたのは、審神者の見習いとか言う小娘だった。
教育実習研修と称して、主以外の人の子がこの本丸に転がり込んできた。なんとも明朗快活で、まだ物の善し悪しの分別もいかない、主よりも十ばかり若い娘…
この娘はよく俺の側にあった。人の子とはなんとも面白い。人間ゴッコをしていた刀剣よりも、本物の、それも同性の若い人間を前にした主の顔は初めて見るものばかりであった。
それもなお愛おしいと眺めているだけでも、この苦界というものは様相を変えてしまう。そうだ、歌仙や前田と同じ…俺は、人の側にある事だけでも、こんなにも幸せだったではないか。
それを、人の子に手を伸ばしてしまった事の咎よ…
「あるじさまは だれともしらない にんげんのおとこの よめにくだるそうですよ。」
今剣が断りもなく襖を開けたと思えば、そんな一言だけを発した。
「いま、あるじさまが かせんとはなしているのを ぬすみきいてしまいました。…まだまにあいますよ。」
今剣に向けていた顔を両手に包んだ湯のみに戻した。口を開く気にも、なにか返事をする気にもならなかった。それを理解したのだろう、今剣はもう何も言わず襖を閉めてしまった。
主が、他の男のものになる。
縁談か、それとも政略結婚か、人の子の、それも女というのは、どの時代にあっても不自由なものなのかと哀れにすら思う。
…この手で手放しておいて。
ドスドスという荒れた足音が襖の向こうからやって来るなり、件の歌仙が風流な名に相応しくない形相で襖を開け放った。
「主に、一体何をした。」
見ずとも鞘を握りしめる手が震えているのが分かる。応えようによっては、歌仙は自分の首を跳ねる気だろう。いっそそうしてくれたら、なんと楽な事か…。
三日月は両の手で包む湯のみを煽った。
「やはり若いな。…お前には分からんよ。」
「なんだと…ッ!」
歌仙が刀身を抜き鞘を投げ捨てた所で、騒ぎを聞きつけた何振りかが集まってくる。頭に血が上った歌仙は、そう簡単に抑えられるものではない。例え斬られようと、抵抗する気もない。
「なに…あれに結婚を迫られただけだ。あれ自身が俺たち付喪神への慰み者とも知らずにな。…哀れな小娘だ。」
「…は、なに、を、───貴様、主に…なんて…、貴様!もういっぺん…言ってみろ!!!」
「やめなさいよちょっと!」
歌仙が刀を振り上げたところで次郎太刀が羽交い締めにすれば、やっと歌仙の体格に勝つ自信の無い他の刀剣も次郎に加勢した。
「離せ!!!くそ!三日月宗近!貴様三十七人目の首にしてやる!!!お前ら離せ!!!」
ああ、そうだとも。こんな首、落としてくれて構わない。あれを愛してしまって、あれを傷付けてしまって…こんな愚かな自分など、名だたる名刀歌仙兼定が勿体ない程だ。何が天下五剣か…!刀の付喪神であるというだけで、決してあれを真に幸せにしてやる事など出来ないというのに。
歌仙は引き摺られて主の元へ連れて行かれた。部屋に石切丸と小狐丸が残って励まされたが、笑って謝る事しかできないでいる。
梅雨も中休みの、少し蒸し暑い庭を目でなぞれば、生垣に沿って背を伸ばす立葵の花が目に留まった。…あれは、生垣の代わりに美しいからと、主と俺が植えたものだ。
──立葵はな、梅雨の間に咲くから“梅雨葵”とも言うのだぞ。
太陽に向かって花の背を伸ばしているというのに、雨雲に覆われる間に花の盛りを迎え、そして散ってしまう…
主も、女の盛りを泣いて終わらせてしまわぬよう心せねばな。
そう笑ったのも、つい昨日の事のようだ。
あんな事言わなければよかった。女の盛りを泣かせて、散らせてしまったのが…この俺になってしまったのだから。
あの女が雨雲の間に望むべきはこの月ではなく、何よりも陽の光であったというのに。
あれから歌仙は大人しかった。
主と何を話したか、はたまた俺の兄弟が要らぬ話しをしたかは分からない。ただ、誰を相手にしようと、主は必要最低限の業務連絡程度しか口にしなくなっていた。
ついに別れの言葉もなく、すれ違ったまま主はこの本丸を去って行った。政府の役人とかいういけ好かない人間の男どもが用意した白無垢に袖を通し、この本丸を実家として、今日嫁に出て行く。
これで良かった。俺は主を、人の子として愛していたのだから。輪廻の内にあって魂を磨き、ただ解脱という真の幸福に向かって生と死を繰り返す、その魂を愛していたのだから。
それを理解した今こそ、己が骨の髄まで刀剣である事を思い知った。人の側にあって、その人を愛し、そして何度も見送ってきた。
それが何故、この女だけが特別だったと言うのだ。
「ねえ三日月さん。僕ね、…主様から教えてもらった事があって、ね。」
白無垢の後ろ姿を空色の瞳に映したまま、乱藤四郎が口を開いた。
「立葵の花言葉はね、「単純な愛」、そして、「熱烈な恋」。三日月さんは、何を願ってあの花を植えたの?」
何を言葉として返す気力はなかった。ただ呆然と、人の身としての三日月宗近が、酷い後悔と罪悪感を持って刀剣としての三日月を飲み込んで行く。
あぁ、この花を植えた時から、俺たちは違っていた。なんとも俺たちに相応しい花よ…
「乱よ、足の動かんこの爺いを哀れんで、一つ頼みを聞いてはくれまいか。」
あはれにも のべやまかぜに さらされて
なお君をたち あふひ待つらむ
もし君の輪廻の先に、また俺が居たならば…それを願って、今は君を見送ろう。
この身が尽きるまで、なお立って君を待つ。次に君の魂と再会できたならば、そう、次こそは───…
一目も振り返る事なく、ゲートに足を踏み入れ去って行く主の背を見送った。そこへ、乱が懐紙を文代わりに結んだ立葵のひと枝を差し出してくる。
主の血で、震えた字で書かれた最後の返事。ただゆっくりと、その血の筋をなぞった。
たちつくし ちぐさの背を越す あが背をの
ふる手を見れば いさ帰らましを
───野辺にまぎれてしまおうと、(たちあふい(ひ)のように)草木よりも背の高い、愛おしい貴方が手を振るのを見れば、私はすぐにでも…貴方のもとへ帰ったでしょうに。(なぜ、あの時引き留めてくれなかったの。)
「最後まで、未練がましいものを詠んでくれる…。歌仙、お前の教育か?」
そう微笑んで横を見れば、歌仙は青い顔で静かに涙を落としていた。歌仙だけではない、誰もが絶望を孕んだ顔でいる。
なお君を…たち、あふひ…待つらむ…
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