石切丸
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色もなき 君が心を 染めしより (下)
歌仙君が部屋に居るのは気配で分かっていた。それがどんな状況であるかも。歌仙君は主に夢中で、部屋の前まで来た私にまだ気付いていない。…盗み聞く悪趣味などない。恋人を喪った主が、誰とどう添おうと、私にはもう…関係がない。それが例え、もう一人の私、石切丸だったとしても。
踵を返して去ろうとした瞬間、主の口から耳に心地の良い言葉が私の心を攫って行った。
行く末の しるべも無しと しるものを
恋ひて踏み入る 我ならなくに
障子の向こうで聞こえた和歌が、前の私の詠んだものだと、不思議と直感した。
「…僕を、受け入れてくれるんだね?」
歌仙君は、そのままの意味で捉えて主に手を伸ばした。
──違う。主は、私のものだ。
開け放った障子から私を見る主の顔が、目に見えて気落ちしていくのがわかった。
主の向こうに座って此方を恨めしそうに睨み付ける歌仙を思うと、今まで良くしてくれた事を思い出して居た堪れなくなる。…それでも、私は主をこのまま手放して明け渡す事が出来なかった。
「…石切、丸。」
さっき、障子の向こうで私の名前を呼んだ声色とは随分と違うもので、主は今の私を呼んだ。その目は夢から醒めた、哀しい色をしていた。
「…すまない。どこか聞き覚えある和歌が、どうしても私の口を開かせてしまったようだね。…邪魔をしたかな?」
主は自分のお姿を思い出したようで、袖だけ通して襦袢が露わになった着物の前を閉じて、足元に巻き付いたまま落ちた帯から足を抜いて座った。
「少し無粋ではないか?」
歌仙が低い声で口を挟んで来た。…明らかに苛立っている。
「…すまないとは思っているよ。でも、主に乱暴を働くのは良くない。」
あくまで穏やかに、だが言葉の端は牽制を持って歌仙に答えた。主は青い顔でどちらからも目を逸らしている。…君は何も心痛を感じる事などない。そう口に出す前に、歌主の口が開いた。
「歌仙。…下がりなさい。」
主は歌仙の顔を見ないで、そう言った。顔を見なくて正解だと思う。心優しい主がこんな歌仙の顔を見てしまったら、きっと訂正しただろう。
歌仙はひどく気落ちして頭を下げると、主と私の横を通って出て行ってしまった。
私は障子の敷居をまたいで主の部屋へ入り、障子の締めた。そして狩衣の袖が皺になるのも忘れて、主の震える手を取り、もう片方の手で抱き寄せた。
「…どうして、その、返しを知っていたの?」
主の顔は私の胸の中にあって見ることは出来なかった。それでも熱く震える吐息が、私の心を掴んで揺さぶるには充分すぎる。
「前の私が遺した、君の文を読んだ。…全て君からの和歌だ。前の僕が、君に何て詠み掛けたのかはわからない。…それでも、今のを聞いてすぐに、どれが君の返したものか分かったんだ。不思議とね。」
主は、やっと顔を上げて私に見せてくれた。この本丸に顕現されて以来、ずっと見せてくれなかったその顔を見て、私は胸に熱いものがこみ上げて来た。
「…私に、また君へ和歌を贈らせてほしい。君にとってどんなに辛い事かは分かっている。それでも私は、…貴女に恋をしたい。」
もう一度、ね。そう言いかけて、自分の中に眠る小さなものの存在に気が付いた。だがその砂鉄ほどの小さな破片の感情など、私には関係無い。
私は、君が好きだ。
主は僕の目の向こうに、自分が愛した男を見ている。どうかその目を、いつか私自身に向けてほしいと願う。だけど今はこれでいい。主を誰にも渡さない為なら、私は…
***
私は、喪った石切丸は、もう帰って来ないのだと、やっと理解が追い付いて来ていた。涙一つ出て来ないのは、今目の前に、姿形が全く同じ石切丸が在るからではない。
石切丸を愛していた。石切丸も、私を愛してくれた。昔、歌仙が詠ませてくれた歌集の中に、『貴女が愛してくれた私の身体が形見』だと歌った、哀しい和歌があった。私もそうだ。…私は分かっていた。私がこのまま死んでしまえば、石切丸の記憶は無くなる。石切丸を知るこの本丸全ての刀剣も喪われ、誰の記憶の中にも、私の石切丸は居なくなってしまう。
私に、石切丸を二度殺す事など出来なかった。
歌仙に抱かれても良いと思った。子を成せば、これ以上誰も喪わず、そして私が年老いていずれ死んでしまっても、この本丸に在る愛おしい刀剣達の記憶の中で私を愛してくれた石切丸が生きていてくれる。
石切丸の声が私の返した和歌を詠んだとき、私は自分の愚かさを思い出した。
私の我が儘で、歌仙を傷付けて良いわけがないのだ。真っ新な二振り目の石切丸に一言も詫びないで、目を背け続けて良いわけがないのだ。
私は自然と石切丸の胸の中に身を預けた。懐かしいような、それでも少し違う石切丸の匂い。
「…どうして、その、返しを知っていたの?」
声が震えてしまう。期待してしまうから。私の石切丸の記憶を引き継いで欲しくて、私はあの時、この石切丸に真っ二つになってしまった最愛の人を練結した。それが何の意味もない事も、今在るこの石切丸をどれだけ傷付ける事になるかも知っていて、その手を私は止める事が出来なかった。
「前の私が遺した、君の文を読んだ。…全て君からの和歌だ。前の僕が、君に何て詠み掛けたのかはわからない。…それでも、今のを聞いてすぐに、どれが君の返したものか分かったんだ。不思議とね。」
あぁ、やはり、私の石切丸は、もう帰って来ない。その事実が、逃げ惑う私をやっと捕まえて、今目の前にある現実へ引き戻した。
私は顔を上げて石切丸の顔を見た。ずいぶんと長い事、彼の顔を良く見ていなかった事を実感した。石切丸も、きっと私の顔をハッキリと見たのはこれが初めてだろう。
私の顔を、石切丸はどう見ているのだろう。…あまり容姿に自信のある方ではない。
「…私に、また君へ和歌を贈らせてほしい。君にとってどんなに辛い事かは分かっている。それでも私は、…貴女に恋をしたい。」
息が止まるかと思った。知っていて紡いだ言葉なら、なんと残酷な事だろう。…でも、目の前の石切丸は、きっと無意識でそう口にしたのだと分かっていた。
『───君に恋い歌を贈らせて欲しい。君が応えてくれるかなんて私にはわからない。それでも私は、…貴女に恋をしたい。』
許してほしいなんて、言えたものではない。貴方を喪って、歯止めのきかなくなった私は、たくさんの刀剣達を傷付けた。貴方を傷付けた。
それなのに、前の石切丸が私に気持ちを伝えてくれた最初の言葉と同じ事を、目の前の石切丸は確かに言った。
やっと、私の目が涙をこぼしてくれた。
まるで石切丸の色に染まっていた私を洗い流すかのように。…石切丸が折れる前日、彼が最後に私に詠んだ和歌が、呪いのように私を苦しめていた。それを、この二振り目の石切丸は、狩衣の袖で私のまなじりを拭ってくれた。
***
「石切丸。これはちょっと…」
私は隣の部屋に入って、石切丸に詰め寄った。
樒の枝を片手に、それに結わいてあった文の真意を、石切丸に聞きに行った。
あの時、石切丸はどんな顔をしていたっけ…
「そのままの意味だよ。私はそれ程、君を自分のものにできた事が嬉しかったんだ。」
前の石切丸は、確かにそう言った。
そしてその次の朝、私は返しの歌がまとまらないで、石切丸の出陣を見送った。
あれからこの和歌は、私へ向けた辞世の歌となって私を捕らえて離さなかった。
色もなき 君が心を 染めしより
我が身にをしき いのちこそなし
──まだ誰にも染まった事のない君を私で染めてしまってから、僕はもう、身体も命も、惜しいものなどありはしない。
恋い慕う事への脅しのように、自分の命も惜しくはないと詠む事は、あまり関心しないと、石切丸本人がそう言っていた。
そう言った筈の石切丸の口が、私にそんな事を詠んで寄越したのは初めての事だった。
なぜ折れてしまったの?
なぜ、あんな事を詠んだの?
もっとしっかりと、あの夜のうちに石切丸へ聞いておけば良かった。
私も、もう石切丸がいればこの命なんていらないと詠み返していたら、今頃は私も死ぬ事が出来ていただろうか。そう返していたら、石切丸は、それ幸いと私の枕元に出て、私を石切丸の世界へ攫ってくれたのだろうか。
***
「主と付き合うって本当?」
加州君は、部屋の引越し作業をしている私のところへ来るなり、開口一番にそんな事を問い詰めて来た。
「まぁ、…そうみたいだねぇ。」
言いしえぬ罪悪感がこみ上げてきて、どこか他人事のような返事をしてしまった。だがその返事に、突然加州君の後ろの障子や縁側に隠れたらしい他の刀剣達が、声を上げて悔しがった。皆んな聞いていたのか…!少し心臓に悪かった。
内の何人かは部屋に入ってきて私に詰め寄るし、何人かはその場に膝をついて嘆いているし、…今までどこか余所余所しい壁を感じていたのが嘘のように、皆んなの輪の中に私がいる事を実感した。
「主と付き合うならまず練度を上げろ!折れたら承知しねぇからな!」
「よくもあの時僕の邪魔をしてくれたな。その上横取りかい?…首を差し出せ。」
「清光が初期刀だってコト、忘れないでよね?定期的に僕たちへ主を譲りますって約束しないなら、僕は認めないからね!」
「あぁ!大将の懐は僕の場所だよ!」
「主ィィイ!またもこの長谷部を差し置いて…!」
「戦うという事はこういう事です。」
「ハハハ…本気になるか。」
「伽羅ちゃん!やめなさい!格好悪いでしょ!」
其々が其々に、普段あの子へ言えない気持ちを私にぶつけてくる。歌仙は危ない。既に僕の首に刀身が当たっている。大倶利伽羅君も無言で刀身を首に当てるのはよしてくれ。こんな鋏ではひとたまりもない。燭台切くんも駄目駄目と言いながら鯉口を切っているだろう。私はまだ折れるわけには…
でも、あの子がこんなにも愛されていると分かって、口の端が緩んでしまった。
そこへ、真紅の爪紅をした手が何かを差し出してきた。
「…これ、お守り。主が、初期刀の俺と、前の石切丸にだけ持たせてくれたやっだよ。…もう、俺の一個だけになったけど。俺は古株だから練度も上限イッパイだし、それに比べて今の石切丸はまだ練度が低いからな〜。しょーがないから、特別に今だけ貸してあげる。」
加州君の手から、金色のお守りを受け取った。所々擦り傷があり、布の質にしては手触りもかなり柔らかくなっているこのお守りからは、ずっと長い事身に付けていた事が伺える。
「あ、いや…」
とても大切な物だとすぐに分かって加州君に返そうと手を差し出した所で、加州君は僕の手を取ってお守りを握らせた。
「…頼むから、もう折れないで。悔しいけど、主にはやっぱり…アンタしか居ないんだ。…此処にいる皆んなの誰もが欠けちゃいけない。」
「加州君…」
歌仙君も大倶利伽羅君も、気が付けば刀身を納めて私を見て居た。…いや、全員が私を見ている。
「もしまた折れたら、二度と主を渡さないから。」
加州が、少し寂しそうに笑った。
「すまない、ありがとう。」
***
石切丸は、私の部屋の隣に移った。
前の、石切丸の部屋に。
「主、ちょっといいかい。」
襖一枚挟んだ向こうにいる石切丸に声を掛けられて、なぜか心臓が跳ねた。…初めて石切丸が隣の部屋へ来た時を思い出した。
「どうしました?」
声は上擦っていない。石切丸も気付いていないはずだ。
石切丸は襖をあけて部屋に入って来た。後ろにまだ少し雑多な荷物が見えたが、石切丸は少し恥ずかしそうにすぐ襖を締めた。
「実は、この前聞いた事だけど…」
背中に衝撃があったような気がした。ずっと胸に収めていた、あの、前の石切丸が最後に詠んだ和歌。
「…私なりに、考えた事を話しておきたい。」
優雅に腰を下ろし、両腕を動かして狩衣の袖を直す癖は、前の石切丸のままだ。向かい合って座した石切丸の真剣な目が、私を捕らえて離さなかった。
「…これを。」
私の手を取って、小さな袋を手渡してくれた。それは、…石切丸にあげた、お守り袋。
なぜここにあるの?石切丸が折れたという事は、これを一度使ったはずでなければ辻褄が合わない。
「荷物を整理していたら見つけたんだ。加州君から同じものを貰っていたから、不思議に思った。…中を見て欲しい。」
震える手で、本来中身を見る事が出来ないはずのそれの口を開く。その中からは、小さく折りたたまれた、見覚えのある紙だけが出て来た。
「どうやら前の私は、身代わりの式神が入ったそのお守り袋を誤って開き、効果が無くなってしまった事を君に黙っていたようなんだ。…どうか、許してほしい。」
そんな…
何を言っているんだ、…そう思いながら、小さく畳まれた紙をゆっくりと開いていく。
私は中のものを詠んで、息をするのも忘れて涙を落とした。
「…それは、君が前の私に初めて詠んだ和歌だね?」
この石切丸は、どうして前の石切丸の事を知っているように、そう色々と言い当てるのか。頭を小さく縦に振るのが精一杯の私を、石切丸は優しく肩を抱いてくれる。
「前の私は、君のその和歌を見て、命を易く懸けたものは好ましくないと言ったんだろう。…でもね、聞いてくれ。私ならば、それは…本当に嬉しかったからこその言葉だと思うんだ。君が命も惜しくないと綴ってくれた事がどれほど嬉しかった事だろうか。…だからこそ、私はこの和歌をお守り袋に入れていた。そして、…あの和歌を詠んだ。」
───我が身にをしき、いのちこそなし。
そのままの意味だよ、そう笑うあの人を想って、張り裂けそうな痛みに耐えながら石切丸を見る。
「前の私がどれほど愚かだったか、どれほど君を傷付けてしまったかわからない。だから、どうか今の私に、約束させてくれ。」
石切丸が私の左手をとると、前の石切丸の折れた刀身で切った薬指の腹へ口付けした。
「私は決して君を置いて、折れたりはしない。だから、安心して私のものになっておくれ。」
優しく微笑む石切丸に、もう前の石切丸は見えなかった。私は目の前の彼に染め直された。思い出の内側から解放されて、この二振り目の石切丸の腕に包まれた。
「愛しているよ、主。」
歌仙君が部屋に居るのは気配で分かっていた。それがどんな状況であるかも。歌仙君は主に夢中で、部屋の前まで来た私にまだ気付いていない。…盗み聞く悪趣味などない。恋人を喪った主が、誰とどう添おうと、私にはもう…関係がない。それが例え、もう一人の私、石切丸だったとしても。
踵を返して去ろうとした瞬間、主の口から耳に心地の良い言葉が私の心を攫って行った。
行く末の しるべも無しと しるものを
恋ひて踏み入る 我ならなくに
障子の向こうで聞こえた和歌が、前の私の詠んだものだと、不思議と直感した。
「…僕を、受け入れてくれるんだね?」
歌仙君は、そのままの意味で捉えて主に手を伸ばした。
──違う。主は、私のものだ。
開け放った障子から私を見る主の顔が、目に見えて気落ちしていくのがわかった。
主の向こうに座って此方を恨めしそうに睨み付ける歌仙を思うと、今まで良くしてくれた事を思い出して居た堪れなくなる。…それでも、私は主をこのまま手放して明け渡す事が出来なかった。
「…石切、丸。」
さっき、障子の向こうで私の名前を呼んだ声色とは随分と違うもので、主は今の私を呼んだ。その目は夢から醒めた、哀しい色をしていた。
「…すまない。どこか聞き覚えある和歌が、どうしても私の口を開かせてしまったようだね。…邪魔をしたかな?」
主は自分のお姿を思い出したようで、袖だけ通して襦袢が露わになった着物の前を閉じて、足元に巻き付いたまま落ちた帯から足を抜いて座った。
「少し無粋ではないか?」
歌仙が低い声で口を挟んで来た。…明らかに苛立っている。
「…すまないとは思っているよ。でも、主に乱暴を働くのは良くない。」
あくまで穏やかに、だが言葉の端は牽制を持って歌仙に答えた。主は青い顔でどちらからも目を逸らしている。…君は何も心痛を感じる事などない。そう口に出す前に、歌主の口が開いた。
「歌仙。…下がりなさい。」
主は歌仙の顔を見ないで、そう言った。顔を見なくて正解だと思う。心優しい主がこんな歌仙の顔を見てしまったら、きっと訂正しただろう。
歌仙はひどく気落ちして頭を下げると、主と私の横を通って出て行ってしまった。
私は障子の敷居をまたいで主の部屋へ入り、障子の締めた。そして狩衣の袖が皺になるのも忘れて、主の震える手を取り、もう片方の手で抱き寄せた。
「…どうして、その、返しを知っていたの?」
主の顔は私の胸の中にあって見ることは出来なかった。それでも熱く震える吐息が、私の心を掴んで揺さぶるには充分すぎる。
「前の私が遺した、君の文を読んだ。…全て君からの和歌だ。前の僕が、君に何て詠み掛けたのかはわからない。…それでも、今のを聞いてすぐに、どれが君の返したものか分かったんだ。不思議とね。」
主は、やっと顔を上げて私に見せてくれた。この本丸に顕現されて以来、ずっと見せてくれなかったその顔を見て、私は胸に熱いものがこみ上げて来た。
「…私に、また君へ和歌を贈らせてほしい。君にとってどんなに辛い事かは分かっている。それでも私は、…貴女に恋をしたい。」
もう一度、ね。そう言いかけて、自分の中に眠る小さなものの存在に気が付いた。だがその砂鉄ほどの小さな破片の感情など、私には関係無い。
私は、君が好きだ。
主は僕の目の向こうに、自分が愛した男を見ている。どうかその目を、いつか私自身に向けてほしいと願う。だけど今はこれでいい。主を誰にも渡さない為なら、私は…
***
私は、喪った石切丸は、もう帰って来ないのだと、やっと理解が追い付いて来ていた。涙一つ出て来ないのは、今目の前に、姿形が全く同じ石切丸が在るからではない。
石切丸を愛していた。石切丸も、私を愛してくれた。昔、歌仙が詠ませてくれた歌集の中に、『貴女が愛してくれた私の身体が形見』だと歌った、哀しい和歌があった。私もそうだ。…私は分かっていた。私がこのまま死んでしまえば、石切丸の記憶は無くなる。石切丸を知るこの本丸全ての刀剣も喪われ、誰の記憶の中にも、私の石切丸は居なくなってしまう。
私に、石切丸を二度殺す事など出来なかった。
歌仙に抱かれても良いと思った。子を成せば、これ以上誰も喪わず、そして私が年老いていずれ死んでしまっても、この本丸に在る愛おしい刀剣達の記憶の中で私を愛してくれた石切丸が生きていてくれる。
石切丸の声が私の返した和歌を詠んだとき、私は自分の愚かさを思い出した。
私の我が儘で、歌仙を傷付けて良いわけがないのだ。真っ新な二振り目の石切丸に一言も詫びないで、目を背け続けて良いわけがないのだ。
私は自然と石切丸の胸の中に身を預けた。懐かしいような、それでも少し違う石切丸の匂い。
「…どうして、その、返しを知っていたの?」
声が震えてしまう。期待してしまうから。私の石切丸の記憶を引き継いで欲しくて、私はあの時、この石切丸に真っ二つになってしまった最愛の人を練結した。それが何の意味もない事も、今在るこの石切丸をどれだけ傷付ける事になるかも知っていて、その手を私は止める事が出来なかった。
「前の私が遺した、君の文を読んだ。…全て君からの和歌だ。前の僕が、君に何て詠み掛けたのかはわからない。…それでも、今のを聞いてすぐに、どれが君の返したものか分かったんだ。不思議とね。」
あぁ、やはり、私の石切丸は、もう帰って来ない。その事実が、逃げ惑う私をやっと捕まえて、今目の前にある現実へ引き戻した。
私は顔を上げて石切丸の顔を見た。ずいぶんと長い事、彼の顔を良く見ていなかった事を実感した。石切丸も、きっと私の顔をハッキリと見たのはこれが初めてだろう。
私の顔を、石切丸はどう見ているのだろう。…あまり容姿に自信のある方ではない。
「…私に、また君へ和歌を贈らせてほしい。君にとってどんなに辛い事かは分かっている。それでも私は、…貴女に恋をしたい。」
息が止まるかと思った。知っていて紡いだ言葉なら、なんと残酷な事だろう。…でも、目の前の石切丸は、きっと無意識でそう口にしたのだと分かっていた。
『───君に恋い歌を贈らせて欲しい。君が応えてくれるかなんて私にはわからない。それでも私は、…貴女に恋をしたい。』
許してほしいなんて、言えたものではない。貴方を喪って、歯止めのきかなくなった私は、たくさんの刀剣達を傷付けた。貴方を傷付けた。
それなのに、前の石切丸が私に気持ちを伝えてくれた最初の言葉と同じ事を、目の前の石切丸は確かに言った。
やっと、私の目が涙をこぼしてくれた。
まるで石切丸の色に染まっていた私を洗い流すかのように。…石切丸が折れる前日、彼が最後に私に詠んだ和歌が、呪いのように私を苦しめていた。それを、この二振り目の石切丸は、狩衣の袖で私のまなじりを拭ってくれた。
***
「石切丸。これはちょっと…」
私は隣の部屋に入って、石切丸に詰め寄った。
樒の枝を片手に、それに結わいてあった文の真意を、石切丸に聞きに行った。
あの時、石切丸はどんな顔をしていたっけ…
「そのままの意味だよ。私はそれ程、君を自分のものにできた事が嬉しかったんだ。」
前の石切丸は、確かにそう言った。
そしてその次の朝、私は返しの歌がまとまらないで、石切丸の出陣を見送った。
あれからこの和歌は、私へ向けた辞世の歌となって私を捕らえて離さなかった。
色もなき 君が心を 染めしより
我が身にをしき いのちこそなし
──まだ誰にも染まった事のない君を私で染めてしまってから、僕はもう、身体も命も、惜しいものなどありはしない。
恋い慕う事への脅しのように、自分の命も惜しくはないと詠む事は、あまり関心しないと、石切丸本人がそう言っていた。
そう言った筈の石切丸の口が、私にそんな事を詠んで寄越したのは初めての事だった。
なぜ折れてしまったの?
なぜ、あんな事を詠んだの?
もっとしっかりと、あの夜のうちに石切丸へ聞いておけば良かった。
私も、もう石切丸がいればこの命なんていらないと詠み返していたら、今頃は私も死ぬ事が出来ていただろうか。そう返していたら、石切丸は、それ幸いと私の枕元に出て、私を石切丸の世界へ攫ってくれたのだろうか。
***
「主と付き合うって本当?」
加州君は、部屋の引越し作業をしている私のところへ来るなり、開口一番にそんな事を問い詰めて来た。
「まぁ、…そうみたいだねぇ。」
言いしえぬ罪悪感がこみ上げてきて、どこか他人事のような返事をしてしまった。だがその返事に、突然加州君の後ろの障子や縁側に隠れたらしい他の刀剣達が、声を上げて悔しがった。皆んな聞いていたのか…!少し心臓に悪かった。
内の何人かは部屋に入ってきて私に詰め寄るし、何人かはその場に膝をついて嘆いているし、…今までどこか余所余所しい壁を感じていたのが嘘のように、皆んなの輪の中に私がいる事を実感した。
「主と付き合うならまず練度を上げろ!折れたら承知しねぇからな!」
「よくもあの時僕の邪魔をしてくれたな。その上横取りかい?…首を差し出せ。」
「清光が初期刀だってコト、忘れないでよね?定期的に僕たちへ主を譲りますって約束しないなら、僕は認めないからね!」
「あぁ!大将の懐は僕の場所だよ!」
「主ィィイ!またもこの長谷部を差し置いて…!」
「戦うという事はこういう事です。」
「ハハハ…本気になるか。」
「伽羅ちゃん!やめなさい!格好悪いでしょ!」
其々が其々に、普段あの子へ言えない気持ちを私にぶつけてくる。歌仙は危ない。既に僕の首に刀身が当たっている。大倶利伽羅君も無言で刀身を首に当てるのはよしてくれ。こんな鋏ではひとたまりもない。燭台切くんも駄目駄目と言いながら鯉口を切っているだろう。私はまだ折れるわけには…
でも、あの子がこんなにも愛されていると分かって、口の端が緩んでしまった。
そこへ、真紅の爪紅をした手が何かを差し出してきた。
「…これ、お守り。主が、初期刀の俺と、前の石切丸にだけ持たせてくれたやっだよ。…もう、俺の一個だけになったけど。俺は古株だから練度も上限イッパイだし、それに比べて今の石切丸はまだ練度が低いからな〜。しょーがないから、特別に今だけ貸してあげる。」
加州君の手から、金色のお守りを受け取った。所々擦り傷があり、布の質にしては手触りもかなり柔らかくなっているこのお守りからは、ずっと長い事身に付けていた事が伺える。
「あ、いや…」
とても大切な物だとすぐに分かって加州君に返そうと手を差し出した所で、加州君は僕の手を取ってお守りを握らせた。
「…頼むから、もう折れないで。悔しいけど、主にはやっぱり…アンタしか居ないんだ。…此処にいる皆んなの誰もが欠けちゃいけない。」
「加州君…」
歌仙君も大倶利伽羅君も、気が付けば刀身を納めて私を見て居た。…いや、全員が私を見ている。
「もしまた折れたら、二度と主を渡さないから。」
加州が、少し寂しそうに笑った。
「すまない、ありがとう。」
***
石切丸は、私の部屋の隣に移った。
前の、石切丸の部屋に。
「主、ちょっといいかい。」
襖一枚挟んだ向こうにいる石切丸に声を掛けられて、なぜか心臓が跳ねた。…初めて石切丸が隣の部屋へ来た時を思い出した。
「どうしました?」
声は上擦っていない。石切丸も気付いていないはずだ。
石切丸は襖をあけて部屋に入って来た。後ろにまだ少し雑多な荷物が見えたが、石切丸は少し恥ずかしそうにすぐ襖を締めた。
「実は、この前聞いた事だけど…」
背中に衝撃があったような気がした。ずっと胸に収めていた、あの、前の石切丸が最後に詠んだ和歌。
「…私なりに、考えた事を話しておきたい。」
優雅に腰を下ろし、両腕を動かして狩衣の袖を直す癖は、前の石切丸のままだ。向かい合って座した石切丸の真剣な目が、私を捕らえて離さなかった。
「…これを。」
私の手を取って、小さな袋を手渡してくれた。それは、…石切丸にあげた、お守り袋。
なぜここにあるの?石切丸が折れたという事は、これを一度使ったはずでなければ辻褄が合わない。
「荷物を整理していたら見つけたんだ。加州君から同じものを貰っていたから、不思議に思った。…中を見て欲しい。」
震える手で、本来中身を見る事が出来ないはずのそれの口を開く。その中からは、小さく折りたたまれた、見覚えのある紙だけが出て来た。
「どうやら前の私は、身代わりの式神が入ったそのお守り袋を誤って開き、効果が無くなってしまった事を君に黙っていたようなんだ。…どうか、許してほしい。」
そんな…
何を言っているんだ、…そう思いながら、小さく畳まれた紙をゆっくりと開いていく。
私は中のものを詠んで、息をするのも忘れて涙を落とした。
「…それは、君が前の私に初めて詠んだ和歌だね?」
この石切丸は、どうして前の石切丸の事を知っているように、そう色々と言い当てるのか。頭を小さく縦に振るのが精一杯の私を、石切丸は優しく肩を抱いてくれる。
「前の私は、君のその和歌を見て、命を易く懸けたものは好ましくないと言ったんだろう。…でもね、聞いてくれ。私ならば、それは…本当に嬉しかったからこその言葉だと思うんだ。君が命も惜しくないと綴ってくれた事がどれほど嬉しかった事だろうか。…だからこそ、私はこの和歌をお守り袋に入れていた。そして、…あの和歌を詠んだ。」
───我が身にをしき、いのちこそなし。
そのままの意味だよ、そう笑うあの人を想って、張り裂けそうな痛みに耐えながら石切丸を見る。
「前の私がどれほど愚かだったか、どれほど君を傷付けてしまったかわからない。だから、どうか今の私に、約束させてくれ。」
石切丸が私の左手をとると、前の石切丸の折れた刀身で切った薬指の腹へ口付けした。
「私は決して君を置いて、折れたりはしない。だから、安心して私のものになっておくれ。」
優しく微笑む石切丸に、もう前の石切丸は見えなかった。私は目の前の彼に染め直された。思い出の内側から解放されて、この二振り目の石切丸の腕に包まれた。
「愛しているよ、主。」
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