石切丸
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色もなき 君が心を 染めしより (上)
「石切丸殿」
祈祷場に篭ってじっと座るだけの石切丸に、歌仙が声を掛けた。歌仙は石切丸にとって、和かに接してくれる数少ない刀剣だった。特に細やかに心配りをしてくれるこの歌仙の存在は大きい。
石切丸と対峙して座ると、歌仙は頭を深く下げる。
「その、…先ほどの加州の事…」
石切丸の顔がピシリと止まる。じんわりと痛む胸を堪えて、石切丸は優しく微笑んだ。
「いや、原因は私にあるんだ。…いつも気遣ってもらって申し訳ない。」
──石切丸は、まだ慣れない本丸の間取りに自室を見失ってしまった。仕方なく『自室にはそろそろ自分の神力が染み付きはじめたであろう』と予測して、自分の気配を辿って脚を進めた。
そうして辿り着いた部屋の襖に、何の躊躇いもなく手を掛けた。
そこへ加州清光が全力で駆け寄ってきて、僅かに開いた襖を強引に閉め石切丸の前に立ち塞がる。
「ここはアンタが入っていいところじゃない。」
加州は早く失せろと言いたげな目で睨み、石切丸は謝って立ち去ると、祈祷場を見つけてここに篭ったのだった。
───
「僕からきつく言っておいた。本当にすまない、…加州は主の初期刀でね。些か主に執着するところがある。その、驚かせてしまって申し訳ない…」
歌仙が目を伏せるのを、石切丸にはそれが何かしら本心を言い淀んでいるように見えた。
歌仙も、自分の歳の倍も年月を重ねた、御神刀という純粋な神に区分される石切丸にこれ以上の隠し事は出来ないと踏んで、ぽつりと溢した。
「…もう気付いているかもしれないが、この本丸に…主にとって、石切丸殿は “二振り目” だ。」
小さく心臓が跳ねるような気がした。実際、頭に血液が回ってコメカミのあたりがドクドクと脈打って、冷や汗が流れるのを感じた。
歌仙はまだ何かを隠して、その口を開くのを憚る。
「…石切丸殿が入ろうとしたのは、…前の石切丸の部屋だ。…すまないが、僕にはこれ以上言う事は出来ない。主が今の石切丸殿とお話し出来るようになるまで、どうか待ってやっては貰えないだろうか。」
この通りだと頭を深く下げる歌仙の、前髪を束ねる朱色の端切れが揺れるのだけを、ボンヤリと見ていた。
──私がこの本丸へ顕現された時の事は、今でも鮮明に覚えている。
「石切丸という。病気治癒がお望みかな?…おや?参拝者ではないのか。」
顕現してくれた主となる審神者に向けた、感謝の意を込めた挨拶は、主の側に仕えて居たこの刀剣男士の耳にしか届かなかった。
主は挨拶にも応えずお顔も見せず、さっさと鍛冶場から出て行かれてしまった。側に仕える歌仙君が、申し訳なさそうに気遣ってくれたのがせめてもの救いだった。
歌仙君に連れられて、僕は他の刀剣男士達への挨拶に回った。皆んなそれぞれに自己紹介や挨拶を交わしてくれたが、何人かはどこか余所余所しさを隠しきれていないのが嫌でも目に付く。
最初から私の胸には違和感が黒い染みとなって広がり、それは焦げ付いて落とすことのできないものとなっていった。
だが、主や他の者達から避けられる理由がやっと腑に落ちるその理由を知れて、幾分か胸のつかえが取れた。
***
石切丸が折れてしまった。
宗三が袖に包んで持って帰ってきた、鞘も拵えすらも喪った石切丸の真っ二つになった刀身。粉々に砕けるでもなく、なんとも潔いほどに真ん中で折れた石切丸と、ほんの僅かな砂鉄ほどの破片。
近侍の歌仙が止めるのも構わないで、私は素手で受け取った。刃は鈍で切れ味も落ちたはずなのに、石切丸はスパッと私の左手の薬指を一筋切ってしまった。…まるで、これが最期と私にその存在を残していくように。
私はこの首に刃が触れて落としてしまっても構わないくらいに、その刀身を抱き締めた。どうして折れてしまったの。
突然居なくなってしまった石切丸という最愛の存在が大きすぎて、何の実感も湧かない。さっき私の指を切ったくせに、それで満足したかのようにもう私の髪の一本すら切り落とせなくなった刀身を抱いたまま、周りの誰の声も聞かずにただ青い顔で呆然とそこへ座り込むだけだった。
あの時、私が何を考え着いたのかは、もう思い出せなかった。
ただ、私は石切丸の刀身を持ったその足で鍛冶場へ向かい、安置場に溜め込んで放置していた大量の刀剣の中から、一本の石切丸の真っ新な刀身を引っ張り出した。歌仙が酷い顔で私を見ている。私は何かに取り憑かれたように、その顕現前の刀身へ折れた石切丸を練結させた。
それを見た歌仙が何か口にしようと息を吸ったところで、私は耳を塞ぐようにその石切丸を顕現させた。
「石切丸という。病気治癒がお望みかな?おや?…参拝者じゃないのか。」
桜の花が舞い踊る中で、私は今度こそ本当に絶望した。
何もかもを知らない、目の前の石切丸に耐えられなくなって、私は鍛冶場から走って逃げた。鍛冶場の外で耳をそばだてていた刀剣達や、廊下を歩く刀剣達とすれ違うたび、彼らは酷く狼狽えたり、驚いたりした顔で私を見た。
見ないで、誰も私をみないで。
…石切丸を折った事を責められているようで。
…折った瞬間に別の石切丸を顕現させた事を、一体何を期待したんだと責められているようで。
私室に飛び込んで後ろ手に襖を締める。
人生でこんなに走った事なんて、おそらく初めてだ。酷く呼吸が苦しく、口でいくら空気を吸っても、酸素は少しも肺まで届かない。自分の目で見ても胸が震える程に心臓が大きく跳ねている。
ズルズルと腰を落としてへたり込んでしまった。
襖を一枚挟んだ向こうの部屋に残った石切丸の匂いが、私を捕らえて離さない。
驚くほどに涙が出ない。
さっき、石切丸の真っ二つに折れた刀身をこの身で抱いたばかりだというのに、私はまだ信じられずにいる。
「主」
背後の襖を開けて、初期刀の加州が飛び込んできた。そして私を力一杯抱き締めて、頭を撫でてくれる。加州の匂いをいっぱいに吸い込んで、苦しかった呼吸も少し楽になった。
加州は優しい。私が傷付くといつも慰めてくれた。…私が石切丸のものになる前までは。
昔のようについ甘えてしまう自分が、どれほど心の弱い人間なのだろうと思う。それでも今は、愚かな事ばかりをしてしまった延長線だと言い訳して、加州の慰さめに心の癒しを求めた。
***
私がこの本丸に顕現されてから、一月が経とうとしていた。主はぽつぽつとではあるが、私に挨拶して下さるようにはなった。
加州君とも和解して、私は彼から、前の私が遺した物を受け取った。思えば、きっとこれで『察してくれ』という事だったんだろう。
まず見付けたものは、大量の文だった。
小さく畳まれて結び跡が付いた紙が多い。中には爪草の三つ葉や、スミレ、紅葉の押し花も入っていた。…おそらく花や紅葉の枝に結び贈ったものだとすぐに分かった。
そんな贈り方をする文がどういうものなのか。その心当たりは一つしかない。
思う事はあったが、まず一枚目と広げたその紙一枚で、主が私を避ける理由を知ってしまった。
茶も花も すすむ一筋 道なれば
わけて踏み入る 恋ふ路もあれ
───茶も花も、一つの事を思い続ければ道になるのだから、
(私を思ってくださるのも)それは恋という道になるのではないでしょうか。
主からの、何かしらの返歌だとすぐに分かった。…文箱いっぱいに入れられた文は、全て主からのものだ。
私は数え切れないほどの主との恋い歌を広げていった。
前の私も几帳面だったのだろう。束になった文はほとんど時系列のまま残していた。そして、その束とは別にした、何枚かの文。折り目が擦り切れているのを見るに、きっと嬉しくて何度も読み返したのだと考えが至るに容易かった。
同じ石切丸の事なのに、私はこれを知らない。
主がどれほどお辛いかと思うと、せめて分霊体は一人一人違う容姿をしていたら、少しは楽だったであろうにと口惜しくも感じる。
前の私が、主より贈られた多くの恋い歌。…私は、前の自分が、主に何て詠み掛けたのかを知りたいと思ってしまった。本体を同じとする自分の事とは言え、霊魂を分け其々に自我のあるもう一人の石切丸の感情や記憶までは知り得ることが出来ない。
もしこの主との恋が、石切丸から始めたものだったとしたら───
今の自分とは違う石切丸とて、主になんと惨い事をしてしまった事かと悔やまれ、またこの身すら恨めしく思う。
***
「は?…いま、何て言ったんだい?」
近侍に仕える歌仙が詰め寄ってくる。地の底から這うようなお腹に響く恐ろしく低い声が、私の心臓を掴んでいるような気さえした。
それでもこんな程度で怯んでは、刀剣達の主としては失格だ。そう自分を叱咤して、最早ニコリとも愛想の一つ見せない歌仙に、もう一度口を開いた。
「髪を下ろしたい。…形式だけよ。ちゃんと、審神者は続けるから…」
腰まである髪を肩の辺りで切り落としたい。落飾する事で、私はもう二度と刀剣と恋仲になる事はしないと心に決めたいと思った。それだけである。
それを、目の前の歌仙は明らかに不服そうに、何も口に出さずとも目が「反対だ」と言っている。
「なぜそんな事をするんだい?…主はまだ若い。それにまだ一人の子も成していない。…辛い気持ちはわかるが、君は僕達刀剣のどれかか、他の審神者と子を成して次代に継がせる義務がある。」
心の中で、お願いだからそれ以上言わないでと言い淀む。──審神者になる時に与えられた絶対義務。強い霊力や神力を持つ人間を、絶やさないこと。私は石切丸を選んで、子を孕むのを待っていた。
それでも、孕む前に石切丸を喪ってしまった。…いまさら他の男に抱かれて、他の男の種で子を孕めと言うのか。
「主には、生まれ持った血筋の因果と諦めてもらうしかない。僕だって出来ることなら君にそんな辛い想いをさせたくはない。…でも、主には僕たち刀剣を顕現させた責務がある。…わかるね?」
そう。私が顕現させた愛する刀剣たち。私が子も成さずに死ねば、今目の前にある彼らは石切丸のように喪われてしまう。私の霊力と血を引く誰かに引き継がなければ、彼らの肉体は顕現を保つことが出来なくなる。彼らが過ごすこの時間の記憶も、苦労して練度を上げた事も、全て喪われてしまう。
時間遡行軍との闘いは、決して終わる事のない戦なのだ。熟練の刀剣も、審神者を失えばまた戦力外からスタートしなければならない。だから、今私が始めたこの本丸も、私の血を引く子に継がせなければならない。…だから、私は美しい男達に囲われているんだ。石切丸さえ居ればよかった私にとって無用の長物だ。
「尼の姿で子を孕むつもりかい?」
気がつくと、歌仙は私のすぐ目の前に居た。驚いて見上げれば、煌々と妖しく光る瞳が私を捕らえて笑う。
身体を横に引き倒されて歌仙が私に多い被さった。歌仙は横倒しにした私の背中に手をやると、あっという間に腹の締め付けが無くなって着物の帯を解かれた事がわかった。
「かせ、…ん?」
帯を解き終えた歌仙が私の浮いた方の肩を押しやって仰向けにする。恐ろしい事をしていると言うのに、歌仙は今まで見た事もないような、嬉しそうな顔で笑っていた。喉の突起が上下してから、フフ、とまた笑う。
「…主、僕は存外に嫉妬深くて気が短いんだ。石切丸ほど、雅びではないな…。それでも、いつまでも君を孕ませられなかった石切丸より、僕ならすぐに子を成せる。…君を愛しているんだから。」
不思議と、恐怖は感じなかった。身体もそんなに震えたりはしないものだ。歌仙が私の唇の、ギリギリ外したところへ口付けした。──歌仙は優しい。こんな状態にしておいて、私に拒む時間を与えてくれる。
「安心して。僕は、…君をおいて折れたりしない。」
甘い言葉に、心が解かれていく。歌仙のまなじりに引かれた紅の化粧を、石切丸もしていたなぁとぼんやり思う。
「君の事がずっと欲しかった。…和歌を教えた事を悔やんだ時もあったが、もう僕にしか歌わなくていい。」
──そうだった。私は、和歌を歌仙から教えてもらった。そして、石切丸へ贈っていた。…歌仙が、そんな風に思っていたなんて知らなかった。
どの花よりも美しい色をした歌仙の髪が私の顔を撫でるたびに、石切丸との思い出がポツリポツリと涙になって目から溢れてくる。
歌仙が、突然困ったような顔をして、…水仕事で少し荒れてしまったその指で、私の瞼を優しく撫でてくれた。
「──行く末の、しるべも無しと しるものを。恋ひて踏み入る 我ならなくに。」
───どうなってしまうかも分からず、みちしるべすら無い(知る場もなく、去る人もあるという)この恋路の行く末を知っていて、脚を踏み入れるような私では、なかったはずなのに…
「…!」
石切丸が私に詠んでくれた和歌が、自然と私の口から溢れる。
「…僕を、受け入れてくれるんだね?」
歌仙はうっとりと私の顔を撫でた。彼は、この和歌を石切丸が詠んだものだなんて知らない。ゆっくりと目を閉じて、石切丸の色に染まった私の唇を歌仙が奪っていくのを待った。
「──茶も花も すすむ一筋 道なれば
わけて踏み入る 恋ふ路もあれ」
ハッと目を開けてまず目に入ったのは、自分の刀身に手をやって障子の向こうを睨む歌仙。…ゆるゆるとその視線の先に目を向ければ、障子の向こうで座る影が、すぐに私の心を引き戻した。
「───石切丸」
口から愛おしいあの人の名前が自然に出てくる。石切丸の詠んだ和歌に返した、私の返歌。
私を愛してくれるならば、それも一つの路になるはずだと、私は石切丸に返した。
…その歌が今私に返せるのは、私の石切丸だけ。
歌仙は少し苛立った顔で、それでもどこか悲しそうな顔で、私の上から身を引いてくれた。枷の無くなった自由な身体を、歌仙に着物を剥がれて襦袢の見える乱れた姿であるのも構わないで、その障子を開け放った。
「石切丸殿」
祈祷場に篭ってじっと座るだけの石切丸に、歌仙が声を掛けた。歌仙は石切丸にとって、和かに接してくれる数少ない刀剣だった。特に細やかに心配りをしてくれるこの歌仙の存在は大きい。
石切丸と対峙して座ると、歌仙は頭を深く下げる。
「その、…先ほどの加州の事…」
石切丸の顔がピシリと止まる。じんわりと痛む胸を堪えて、石切丸は優しく微笑んだ。
「いや、原因は私にあるんだ。…いつも気遣ってもらって申し訳ない。」
──石切丸は、まだ慣れない本丸の間取りに自室を見失ってしまった。仕方なく『自室にはそろそろ自分の神力が染み付きはじめたであろう』と予測して、自分の気配を辿って脚を進めた。
そうして辿り着いた部屋の襖に、何の躊躇いもなく手を掛けた。
そこへ加州清光が全力で駆け寄ってきて、僅かに開いた襖を強引に閉め石切丸の前に立ち塞がる。
「ここはアンタが入っていいところじゃない。」
加州は早く失せろと言いたげな目で睨み、石切丸は謝って立ち去ると、祈祷場を見つけてここに篭ったのだった。
───
「僕からきつく言っておいた。本当にすまない、…加州は主の初期刀でね。些か主に執着するところがある。その、驚かせてしまって申し訳ない…」
歌仙が目を伏せるのを、石切丸にはそれが何かしら本心を言い淀んでいるように見えた。
歌仙も、自分の歳の倍も年月を重ねた、御神刀という純粋な神に区分される石切丸にこれ以上の隠し事は出来ないと踏んで、ぽつりと溢した。
「…もう気付いているかもしれないが、この本丸に…主にとって、石切丸殿は “二振り目” だ。」
小さく心臓が跳ねるような気がした。実際、頭に血液が回ってコメカミのあたりがドクドクと脈打って、冷や汗が流れるのを感じた。
歌仙はまだ何かを隠して、その口を開くのを憚る。
「…石切丸殿が入ろうとしたのは、…前の石切丸の部屋だ。…すまないが、僕にはこれ以上言う事は出来ない。主が今の石切丸殿とお話し出来るようになるまで、どうか待ってやっては貰えないだろうか。」
この通りだと頭を深く下げる歌仙の、前髪を束ねる朱色の端切れが揺れるのだけを、ボンヤリと見ていた。
──私がこの本丸へ顕現された時の事は、今でも鮮明に覚えている。
「石切丸という。病気治癒がお望みかな?…おや?参拝者ではないのか。」
顕現してくれた主となる審神者に向けた、感謝の意を込めた挨拶は、主の側に仕えて居たこの刀剣男士の耳にしか届かなかった。
主は挨拶にも応えずお顔も見せず、さっさと鍛冶場から出て行かれてしまった。側に仕える歌仙君が、申し訳なさそうに気遣ってくれたのがせめてもの救いだった。
歌仙君に連れられて、僕は他の刀剣男士達への挨拶に回った。皆んなそれぞれに自己紹介や挨拶を交わしてくれたが、何人かはどこか余所余所しさを隠しきれていないのが嫌でも目に付く。
最初から私の胸には違和感が黒い染みとなって広がり、それは焦げ付いて落とすことのできないものとなっていった。
だが、主や他の者達から避けられる理由がやっと腑に落ちるその理由を知れて、幾分か胸のつかえが取れた。
***
石切丸が折れてしまった。
宗三が袖に包んで持って帰ってきた、鞘も拵えすらも喪った石切丸の真っ二つになった刀身。粉々に砕けるでもなく、なんとも潔いほどに真ん中で折れた石切丸と、ほんの僅かな砂鉄ほどの破片。
近侍の歌仙が止めるのも構わないで、私は素手で受け取った。刃は鈍で切れ味も落ちたはずなのに、石切丸はスパッと私の左手の薬指を一筋切ってしまった。…まるで、これが最期と私にその存在を残していくように。
私はこの首に刃が触れて落としてしまっても構わないくらいに、その刀身を抱き締めた。どうして折れてしまったの。
突然居なくなってしまった石切丸という最愛の存在が大きすぎて、何の実感も湧かない。さっき私の指を切ったくせに、それで満足したかのようにもう私の髪の一本すら切り落とせなくなった刀身を抱いたまま、周りの誰の声も聞かずにただ青い顔で呆然とそこへ座り込むだけだった。
あの時、私が何を考え着いたのかは、もう思い出せなかった。
ただ、私は石切丸の刀身を持ったその足で鍛冶場へ向かい、安置場に溜め込んで放置していた大量の刀剣の中から、一本の石切丸の真っ新な刀身を引っ張り出した。歌仙が酷い顔で私を見ている。私は何かに取り憑かれたように、その顕現前の刀身へ折れた石切丸を練結させた。
それを見た歌仙が何か口にしようと息を吸ったところで、私は耳を塞ぐようにその石切丸を顕現させた。
「石切丸という。病気治癒がお望みかな?おや?…参拝者じゃないのか。」
桜の花が舞い踊る中で、私は今度こそ本当に絶望した。
何もかもを知らない、目の前の石切丸に耐えられなくなって、私は鍛冶場から走って逃げた。鍛冶場の外で耳をそばだてていた刀剣達や、廊下を歩く刀剣達とすれ違うたび、彼らは酷く狼狽えたり、驚いたりした顔で私を見た。
見ないで、誰も私をみないで。
…石切丸を折った事を責められているようで。
…折った瞬間に別の石切丸を顕現させた事を、一体何を期待したんだと責められているようで。
私室に飛び込んで後ろ手に襖を締める。
人生でこんなに走った事なんて、おそらく初めてだ。酷く呼吸が苦しく、口でいくら空気を吸っても、酸素は少しも肺まで届かない。自分の目で見ても胸が震える程に心臓が大きく跳ねている。
ズルズルと腰を落としてへたり込んでしまった。
襖を一枚挟んだ向こうの部屋に残った石切丸の匂いが、私を捕らえて離さない。
驚くほどに涙が出ない。
さっき、石切丸の真っ二つに折れた刀身をこの身で抱いたばかりだというのに、私はまだ信じられずにいる。
「主」
背後の襖を開けて、初期刀の加州が飛び込んできた。そして私を力一杯抱き締めて、頭を撫でてくれる。加州の匂いをいっぱいに吸い込んで、苦しかった呼吸も少し楽になった。
加州は優しい。私が傷付くといつも慰めてくれた。…私が石切丸のものになる前までは。
昔のようについ甘えてしまう自分が、どれほど心の弱い人間なのだろうと思う。それでも今は、愚かな事ばかりをしてしまった延長線だと言い訳して、加州の慰さめに心の癒しを求めた。
***
私がこの本丸に顕現されてから、一月が経とうとしていた。主はぽつぽつとではあるが、私に挨拶して下さるようにはなった。
加州君とも和解して、私は彼から、前の私が遺した物を受け取った。思えば、きっとこれで『察してくれ』という事だったんだろう。
まず見付けたものは、大量の文だった。
小さく畳まれて結び跡が付いた紙が多い。中には爪草の三つ葉や、スミレ、紅葉の押し花も入っていた。…おそらく花や紅葉の枝に結び贈ったものだとすぐに分かった。
そんな贈り方をする文がどういうものなのか。その心当たりは一つしかない。
思う事はあったが、まず一枚目と広げたその紙一枚で、主が私を避ける理由を知ってしまった。
茶も花も すすむ一筋 道なれば
わけて踏み入る 恋ふ路もあれ
───茶も花も、一つの事を思い続ければ道になるのだから、
(私を思ってくださるのも)それは恋という道になるのではないでしょうか。
主からの、何かしらの返歌だとすぐに分かった。…文箱いっぱいに入れられた文は、全て主からのものだ。
私は数え切れないほどの主との恋い歌を広げていった。
前の私も几帳面だったのだろう。束になった文はほとんど時系列のまま残していた。そして、その束とは別にした、何枚かの文。折り目が擦り切れているのを見るに、きっと嬉しくて何度も読み返したのだと考えが至るに容易かった。
同じ石切丸の事なのに、私はこれを知らない。
主がどれほどお辛いかと思うと、せめて分霊体は一人一人違う容姿をしていたら、少しは楽だったであろうにと口惜しくも感じる。
前の私が、主より贈られた多くの恋い歌。…私は、前の自分が、主に何て詠み掛けたのかを知りたいと思ってしまった。本体を同じとする自分の事とは言え、霊魂を分け其々に自我のあるもう一人の石切丸の感情や記憶までは知り得ることが出来ない。
もしこの主との恋が、石切丸から始めたものだったとしたら───
今の自分とは違う石切丸とて、主になんと惨い事をしてしまった事かと悔やまれ、またこの身すら恨めしく思う。
***
「は?…いま、何て言ったんだい?」
近侍に仕える歌仙が詰め寄ってくる。地の底から這うようなお腹に響く恐ろしく低い声が、私の心臓を掴んでいるような気さえした。
それでもこんな程度で怯んでは、刀剣達の主としては失格だ。そう自分を叱咤して、最早ニコリとも愛想の一つ見せない歌仙に、もう一度口を開いた。
「髪を下ろしたい。…形式だけよ。ちゃんと、審神者は続けるから…」
腰まである髪を肩の辺りで切り落としたい。落飾する事で、私はもう二度と刀剣と恋仲になる事はしないと心に決めたいと思った。それだけである。
それを、目の前の歌仙は明らかに不服そうに、何も口に出さずとも目が「反対だ」と言っている。
「なぜそんな事をするんだい?…主はまだ若い。それにまだ一人の子も成していない。…辛い気持ちはわかるが、君は僕達刀剣のどれかか、他の審神者と子を成して次代に継がせる義務がある。」
心の中で、お願いだからそれ以上言わないでと言い淀む。──審神者になる時に与えられた絶対義務。強い霊力や神力を持つ人間を、絶やさないこと。私は石切丸を選んで、子を孕むのを待っていた。
それでも、孕む前に石切丸を喪ってしまった。…いまさら他の男に抱かれて、他の男の種で子を孕めと言うのか。
「主には、生まれ持った血筋の因果と諦めてもらうしかない。僕だって出来ることなら君にそんな辛い想いをさせたくはない。…でも、主には僕たち刀剣を顕現させた責務がある。…わかるね?」
そう。私が顕現させた愛する刀剣たち。私が子も成さずに死ねば、今目の前にある彼らは石切丸のように喪われてしまう。私の霊力と血を引く誰かに引き継がなければ、彼らの肉体は顕現を保つことが出来なくなる。彼らが過ごすこの時間の記憶も、苦労して練度を上げた事も、全て喪われてしまう。
時間遡行軍との闘いは、決して終わる事のない戦なのだ。熟練の刀剣も、審神者を失えばまた戦力外からスタートしなければならない。だから、今私が始めたこの本丸も、私の血を引く子に継がせなければならない。…だから、私は美しい男達に囲われているんだ。石切丸さえ居ればよかった私にとって無用の長物だ。
「尼の姿で子を孕むつもりかい?」
気がつくと、歌仙は私のすぐ目の前に居た。驚いて見上げれば、煌々と妖しく光る瞳が私を捕らえて笑う。
身体を横に引き倒されて歌仙が私に多い被さった。歌仙は横倒しにした私の背中に手をやると、あっという間に腹の締め付けが無くなって着物の帯を解かれた事がわかった。
「かせ、…ん?」
帯を解き終えた歌仙が私の浮いた方の肩を押しやって仰向けにする。恐ろしい事をしていると言うのに、歌仙は今まで見た事もないような、嬉しそうな顔で笑っていた。喉の突起が上下してから、フフ、とまた笑う。
「…主、僕は存外に嫉妬深くて気が短いんだ。石切丸ほど、雅びではないな…。それでも、いつまでも君を孕ませられなかった石切丸より、僕ならすぐに子を成せる。…君を愛しているんだから。」
不思議と、恐怖は感じなかった。身体もそんなに震えたりはしないものだ。歌仙が私の唇の、ギリギリ外したところへ口付けした。──歌仙は優しい。こんな状態にしておいて、私に拒む時間を与えてくれる。
「安心して。僕は、…君をおいて折れたりしない。」
甘い言葉に、心が解かれていく。歌仙のまなじりに引かれた紅の化粧を、石切丸もしていたなぁとぼんやり思う。
「君の事がずっと欲しかった。…和歌を教えた事を悔やんだ時もあったが、もう僕にしか歌わなくていい。」
──そうだった。私は、和歌を歌仙から教えてもらった。そして、石切丸へ贈っていた。…歌仙が、そんな風に思っていたなんて知らなかった。
どの花よりも美しい色をした歌仙の髪が私の顔を撫でるたびに、石切丸との思い出がポツリポツリと涙になって目から溢れてくる。
歌仙が、突然困ったような顔をして、…水仕事で少し荒れてしまったその指で、私の瞼を優しく撫でてくれた。
「──行く末の、しるべも無しと しるものを。恋ひて踏み入る 我ならなくに。」
───どうなってしまうかも分からず、みちしるべすら無い(知る場もなく、去る人もあるという)この恋路の行く末を知っていて、脚を踏み入れるような私では、なかったはずなのに…
「…!」
石切丸が私に詠んでくれた和歌が、自然と私の口から溢れる。
「…僕を、受け入れてくれるんだね?」
歌仙はうっとりと私の顔を撫でた。彼は、この和歌を石切丸が詠んだものだなんて知らない。ゆっくりと目を閉じて、石切丸の色に染まった私の唇を歌仙が奪っていくのを待った。
「──茶も花も すすむ一筋 道なれば
わけて踏み入る 恋ふ路もあれ」
ハッと目を開けてまず目に入ったのは、自分の刀身に手をやって障子の向こうを睨む歌仙。…ゆるゆるとその視線の先に目を向ければ、障子の向こうで座る影が、すぐに私の心を引き戻した。
「───石切丸」
口から愛おしいあの人の名前が自然に出てくる。石切丸の詠んだ和歌に返した、私の返歌。
私を愛してくれるならば、それも一つの路になるはずだと、私は石切丸に返した。
…その歌が今私に返せるのは、私の石切丸だけ。
歌仙は少し苛立った顔で、それでもどこか悲しそうな顔で、私の上から身を引いてくれた。枷の無くなった自由な身体を、歌仙に着物を剥がれて襦袢の見える乱れた姿であるのも構わないで、その障子を開け放った。
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