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堕天使の戒壇
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「Ⅸ」
背後に迫る軽い足音にⅨと呼ばれた女は振り返りもせず、直上にさんざめく太陽に照らされる街を見下ろしていた。その手に、1枚の写真が風ではためく。
「Ⅸ、彼が恋しくなったのかい?」
「いいえ」
ゆっくりと振り向いた先でトロンが笑う。その後ろにⅤ、Ⅳ、Ⅲの3人がⅨを待っているのも見える。鉄仮面で覆った顔の半分でトロンはⅨの手の中の写真を見つめた。それはⅤやⅢも。Ⅳだけは、真っ直ぐにⅨを見ている。
「ゴミ箱を探してたんです。ポイ捨てはいけないかなって」
目を細めて笑うⅨは、両の手で写真を細かくなるまで破った。風に攫われて飛び散っていく紙切れに、トロンは満足そうな顔で笑い返す。
「でもいいですよね。これからもっと悪いことをするんだから」
散り散りになった思い出。細切れの愛。4人のもとへ戻るⅨの向こうで、飛び散っていく写真の破片がハートランドに降り注ぐのを、Ⅴだけが物思いに耽った目で眺めていた。
堕天使の戒壇
優しくそよぐ木々の梢枝に目を開ければ、群青色の空が天井を取り払い、綿雲を運ぶ風はちいさな花弁をハルトに振り撒いていた。弟の目が覚めるのを見計らっていたように、兄の大きな手がマグカップを差し出す。
「さぁ、お前の大好きなホットチョコレートだ」
溶けたマシュマロクリームに花弁がひとつ落ちるのを目で追うものは誰もいない。湯気越しに滲んだその顔を見るでもなく、ハルトは呆然と空を見つめた。
「ここは、どこ……?」
「覚えてないか? ……俺たちは小さい頃、この別荘で過ごしていた」
大きな木に守られるように立った、赤い屋根の小さな家。石造りの煙突に、ささやかなステンドグラス。森に囲まれた草原には花が咲き綻び、手作りのブランコが遊び主を待ち構え、風に揺れる。
「あの頃のお前は、よく笑っていた。よく喋り、よく冗談を言っていた」
そのなにもかもがハルトの目には映ってすらいなかった。
「そう、……」
まるで何も覚えていない、とでも言うようなハルトの生返事に、カイトは唇を噤む。ゆっくりとカイトとは反対の方向へ目を向け、ハルトは何かを探すように何度か瞬きをした。
「姉さんは、どこ?」
「……!」
ちゃぷ、とゆれたマグカップの中身。同時に電子音を立ててARビジョンが解除されていく。ハルトには最初から本質が見えていた。見飽きた子供部屋の天井。嫌になるくらい大きな展望窓。有象無象しかいないハートランドの街並み。
「ハルト、……ッ お前を、そんなにしたのは───」
「お邪魔だったかな?」
魔法が解ければ現実が待っている。ARビジョンが解除されたところで歩み寄っていたMr.ハートランドは、カイトの返事を待つでもなくハルトに手を差し伸べた。
「さぁハルト、仕事の時間だよ」
「Mr.ハートランド」
案の定出しゃばってきたカイトにも、予想通りだと言わんばかりにハートランドは張り付けた笑みを崩さない。
「ハルトは力を使い過ぎて倒れた。これ以上ハルトの力を使うのは───」
「カイト。……これはDr.フェイカー様の命令なのだよ」
フェイカーの名に一瞬カイトが怯んだのを、ハートランドは見逃さなかった。
「しかし……!!!」
「きらい」
え、と言葉を飲み込んだカイトが見下ろせば、ハルトは自らベッドから起き上がって、足を床に下ろした。
「みんなのことを考えない兄さんは、きらいだ」
「ハルト」
喉の奥で震えた声に、ハルトはカイトに振り返る。
「僕は構わない。僕のこの力が、世界のためになるのなら」
下瞼を暗く染めるクマは、とてもじゃないが幼いハルトの顔に似合うものでは無い。それでもハルトはカイトへ気遣いでもするように微笑んだ。
「僕の心配なんて必要ないよ」
「ハルト、……」
「カイト、君もハルトのことを本当に治したいのなら、1日でも早く全ての
ハルトを連れて部屋から去るハートランドを見つめるしかできないカイトが、ただ1人部屋に残される。寂然と手の中で冷たくなったマグカップだけが、カイトの心に重くのしかかっていた。
開けっぱなしのドアを見るたびに、妹の目がまだ覚めていないのだと凌牙は悟る。その気持ちを抱えたまま璃緒のベッドを見て、もう一度目覚めていない現実を知ることが、毎日の苦しみでもあった。───はずだった。
「……?」
登校前に病室を訪ねるのが凌牙の日課。だが今日、璃緒の病室のドアは閉ざされていたのだ。
「璃緒?!」
ガラ、と開けた病室。璃緒はベッドに眠ったまま、ただ蛍光色のバイタルモニターだけが生き生きと仕事をしている。
「……?」
歩み寄れば、昨日と変わらない姿。包帯が新しくなったくらいしか見当もつかない。だがその平静も、甘い匂いに視線を奪われるまでしか持たなかった。
「ん?」
サイドテーブルに、色とりどりの花が飾られていた。花に詳しくない凌牙でさえ、それが豪華なものだと一目でわかるほどのもの。とても看護師が気遣いで飾る一輪やそこらの季節の花などではない。
かと言って、天涯孤独の身である凌牙と璃緒にこんなものを贈る人間もいない。
「あの……ッ」
たまたま病室の前を通り掛かった看護師を、凌牙は咄嗟に呼び止めた。「どうしました?」と部屋に入ってくる看護師に何と言うべきか悩んだところで、看護師は飾られた花で納得したように笑った。
「あぁ、ついさっきお見舞いにいらした人がいたのよ」
「璃緒に、見舞い……?」
「お友達? それとも親戚の方?」
「いや、俺たちにそんな奴は…… どんな人か見たのか?」
「えっと、それが顔はハッキリ覚えてなくて…… 花が豪華でそっちばっかり見ちゃって」
ごめんなさいね、と笑う看護師に凌牙が顔を顰めれば、「ナースステーションに行けば覚えてる人がいるかも」と取り繕う。だがすぐに何か思い出したように看護師は指を自分の顔に向けた。
「そう! 顔に傷があったわ。2人とも」
「……2人?」
「時間を見誤ったんじゃない? Ⅳ」
返事の代わりに、Ⅳはズゴゴ、と氷だけになったカップのストローを吸う。病院前の広場を背に、ⅨとⅣはキッチンカーの移動カフェのベンチへ座っていた。反射するキッチンカーの窓越しに、走って来た凌牙が辺りを見回すのをぼんやりと眺めていれば、凌牙はまた何かを探すように走っていく。
やっと2人は体ごとそっちへ振り向き、遠去かる凌牙の背中を見送った。
「病院へ行こうって言い出したのはテメェだろ、Ⅸ」
キッチンカーに向かって左側にⅣ、右側にⅨ。外出先で2人並ぶ時は、決まってこの並びだった。これなら他人の目に、少しでもキレイな方の顔が見せられるから。風が髪を撫でるたび、Ⅳの右の顔に刻まれた十字架がⅨに歪な笑みを見せ、Ⅸの左の顔に染みとなって残った火傷痕はⅣに手を振る。
2人の前を子供達が追いかけ合って走り去っていった。たったそれだけの光景も、歪みきった2人には、首の薄皮の上を切れ味の悪いノコギリで引かれるような嫌悪感を呼び起こさせる。それを何事もなかったかのように振る舞うことにも、すっかり慣れてしまった。
ベンチの背もたれに肘をついて偉そうに脚を組み直すⅣの裾に、氷だけのカップから結露した水が落ちる。それを横目にⅨは食べかけのクレープの包み紙を剥いでかぶりつく。
「しかし朝からよくそんなモンが食えるぜ」
誤魔化すようにそう吐き捨てⅣが立ち上がると、Ⅸはすぐその手を掴んで引き止めた。
「……!」
少し驚いたようなⅣにⅨは無言でクレープを口に押し込んで、包み紙のゴミをその手に握らせる。
「チッ……」
木陰で悠々と肘をつくⅨを背に、ガコン、と音を上げてⅣはゴミ箱の蓋を閉めた。
ハートランド埠頭の第4倉庫、カイトとオービタル7が拠点基地にしているこの場所へ《皇の鍵》を取り返すために乗り込んだ遊馬は、ドアのセキュリティロック解除ができずにキーボードパネルを弄っていた。
「クソッ アストラル……ッ 必ず助け出してやるからな!!!」
バン、と叩いたのが何かに触れたのか、今まで解読すら難しかった画面に1枚の写真が表示される。
ブランコに座った小さな男の子と、それを囲む、2人の人物。
「これって、カイト……?」
遊馬はつい身を乗り出して写真を眺めた。遊馬の知っているカイトよりは幾分か幼いが、膝をついて男の子に目を合わせているのは間違いなくカイトだ。そしてもう1人、ブランコの紐を握る女の子。だが写真は斜めに塗りつぶされ、その姿は不自然にカットされていた。唯一見えるのは、“女の子らしい”と推測できる体のラインと、唯一鮮明に映った片方の手。
その手には、特徴と言うには充分すぎるほど大きな傷跡が刻まれていた。
「あとの2人は、いったい……」
「……チッ 余計なことしやがって」
Ⅳはポケットに手を突っ込んだまま、魂の抜け殻となった神代凌牙を見下ろした。トロンの命令が無ければ、わざわざこんな所へ出向きもしない。バイタルモニター以外の明かりひとつない部屋は、すっかり夕闇に暮れた街明かりの反射だけが頼りとなって薄暗い。そこへドアの閉会音ののち、ミドルヒールが小切れ良くⅣの背後に歩み寄る。
「Ⅳ」
「ここまで誰にも見られてねぇだろうな、Ⅸ」
振り返りながらⅨを目で追えば、ⅨはⅣを通り過ぎて凌牙のベッドのすぐ横にまで歩み寄り、その顔を覗いた。
「Ⅳ、……双子って、本当によく似てるのね」
「Ⅸ」
今その話しか? と悪態をつく瞬間、2人の背後でドアが開けられた。驚いて振り向けば、眼鏡を掛けた男も驚いたような顔をしてⅣとⅨを見渡す。真っ暗い部屋に知らない人間が2人、マズいかと冷や汗が流れたⅣとⅨとは打って変わって、男はヘラっと笑った。
「おや、先客がいましたか」
怪しむ様子のない男に、ⅣとⅨは顔を見合う。
「僕は凌牙君の学校の教師で、北野右京と言います。君たちは凌牙君のお友達? あぁ、もしかして、うちの卒業生とか」
あぁ、コイツは雑魚だ。そう瞬時に判断したⅣとⅨの顔が歪つに笑う。Ⅳが右手を、Ⅸが左手を握って上げると、それぞれの手の甲に紋章が浮かび上がった。
「ねぇⅣ、デュエルで潰すのも面倒だと思わない?」
「あぁ。こんな一般人、俺のファンサービスも理解できそうにねぇ」
「……?!」
カツカツと間合いを詰めたⅨの顔が左手の紋章で照らされ、額から目元、そして首から服の中へと続くケロイド痕が右京の眼鏡に反射した。それを覗き込むⅨの表情も、笑顔と言うにはあまりに歪んだものをしている。
「ちょっと私たちの事は忘れてくれないかな、オジサン」
「Ⅸ、少し眠らせる程度にしとけ。あとが面倒だ」
「き、君たちはいったい」
パキ、と紋章が右京の頭に干渉した。途切れた意識に崩れた体が、ちょうど見舞い者用の椅子に落ちる。
他愛もない、と言いたげに手を撫でるが、その額には脂汗が滲んでいた。もちろんⅣはそれを見逃しはしない。
「Ⅸ」
「大丈夫よ」
髪を直しながら振り返り、ⅨはⅣ越しに凌牙を見下ろした。
「天城カイト、……ふふ。はやく潰すのが待ち遠しい」
「カイト、なんで
皇の鍵の中の異空間で行われた、カイトとアストラル、そして遊馬のデュエル。それは激闘の末ドローに持ち込まれた。ダメージにふらつきながら立ち上がる“ゼアル”の姿を手にした遊馬とアストラル。その問いにカイトも立ち上がり、洗い息を整えながらも答えあぐねた。
「おい、カイト!!!」
短気な遊馬にカイトは背を向けるが、伏せた目は静かにゆらぐ。
「……俺は、弟のために悪魔に魂を売った」
「弟?」
遊馬の脳裏に、あの写真が浮かぶ。
「まさか、あれは…… いったい何があったんだよ、お前に!」
その問いに振り返ったカイトの顔は、もう遊馬が知っているカイトでしかなかった。それが「答えるつもりはない」という返事であるということくらい、遊馬にもわかっている。それでもカイトは誤魔化すでもなく、当初の条件を果たすかのように手を開き、奪っていた魂を解放した。
「コイツは返しておく」
「それは、シャークの魂」
元あるべき体へと飛び去る光を目で追えば、カイトも元の世界への出口へと飛び込んだあとだった。
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