王妃の記憶
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青い時間
もし幸せというものが人生の中の頂点だとするならば、自らの身の破滅を科すこと以外に幸せを得られない私は一体どのあたりにいるのだろう。
前世のなまえは疲れ果てていた。部屋は荒れ、服や身体のどこにでも入り込むテーベの砂さえも彼女は気にすることはない。彼女は王家に生まれた時点で、人間が形成する社会に限れば「栄華を極めていた」と言えるだろう。だが、それは幸せという定規での頂点ではない。……前世のなまえは、自分が幸せを掴むことが出来なかったと認めざるを得なかった。
太陽が沈んだ直後の僅かな青い時間は、前世のなまえに人生を振り返らせた。そして何度も同じ色の目をした夫のことを考えては、この青に包まれているうちに眠りにつく。こうして無為な時間を消費するしか、自分自身を慰める術はない。
前世のなまえはセトとの約束を破ってしまった。セトから見て、それが裏切りと言っても過言ではないほどに。もちろん理由もなしに最愛の夫を裏切ったわけではない。人間社会の頂点に立たされた時点で、私たちに選択の余地はなかったのだ。
セトと前世のなまえに授かった三人の子供のうち、二人の王子は早逝してしまった。何度か流産や死産の辛い時を乗り越えたあと、三人目に王女をなんとか産めた。だがそれを最後に、前世のなまえはセトに子供を産んでやることが出来なくなった。
セトは王にしては、立場が弱かった。正統な王族だと証明できなかったからだ。前世のなまえを正妃に迎えたとは言え、内政は次第に神官団や元老院の発言力を抑えきれなくなり、そして……男子の後継者が絶えた事で母胎としての価値を失った前世のなまえは、正統な王族の血筋であるにも関わらず内政から見限られた。
セトも最後には国を取った。正確には、前世のなまえが取らせた。セトが王妃の寝室に来る日を選んで、元老の娘を神聖な寝台に寝かせておくなど…王妃である前世のなまえにしかできない。
───あんな大喧嘩をしたのは初めてだったけれど、仲直りできなかったのも初めてだった。次第に寝室からセトの足が遠のき、日中も会う事が減り、言葉を交わさなくなり……セトは第二王妃を受け入れた。
望んだ通り王子が生まれ、満足したはずだった。役割を果たしたと安心できると思ってた。
セトは、前世のなまえとすれ違っても挨拶ひとつ…それどころか顔を見ることさえしなくなった。
王子が生まれてすぐ、セトは遥か遠く逆さに流れる 川まで無闇に隣国を攻めて進軍するようになり、さらにはカルケミシュの地に石を並べて境界線を作り上げるなどしたと聞いた。
益々前世のなまえはセトと対立が続くようになり、ケンカをしたまま…別れて、こんな辺鄙な所へ来てしまった。今思えば、本当に些細な事で言い合いができたらまだ良い方で、最後に顔を見たのがいつだったかさえ思い出せない。
この一年、テーベの地で全てから隔絶されて過ごしていた。ぼんやりと空だけを見つめ、セトや子供たちを失って乾き続ける身体だけを抱いて眠る日々。今は父王や早逝した二人の息子……そしてこの身を過ぎ去っていった懐かしい人達が待つアアルの野の事だけを空想するしか心の安らぎは保たれない。もしドゥアトの門を通ることができたなら、その葦の原野に立ち、ホルアクティの約束が果たされる日を待つのも悪くない。
「王妃」
驚いて見ると、一番長く仕えているマナが素焼きの壺を抱えて立っていた。
「久しぶりですね、前世のなまえさま……あの、アタシ、香油を捧げに来ました。」
マナがそう言うなり、部屋に仕いの女官や従者が入ってきて灯りを焚き、部屋の掃除を始める。
前世のなまえは顔を顰めるものの、来てしまった以上は大人しくマナがやりたいようにさせてやるしかない。
「今日は王女様が、……セト二世王子と王宮で婚礼を挙げたんです。これはお母様である前世のなまえ様に、せめてものお祝いにって、アタシに香油を預けてくれて───」
前世のなまえは遠くを見たまま、ただ吹き込む風にため息の行方を任せるだけだった。自分の産んだ娘が、自分を不幸にした“王位継承権”で同じ道を歩んでいるのだと知って、どうしてため息をつかないで居られるだろう。
「王女はまだ14……王子も10歳になったばかりじゃない。セトはどうして……」
「セト二世王子は───……その、やっぱり正当な王子じゃないって言う人がいて……結局、前世のなまえ様と同じになっちゃいましたね。でもでも、セト様は前世のなまえ様がお産みになった王女がとっても大事で、それで、……王女の将来のための婚礼だから、きっと前世のなまえ王妃もわかってくれるだろうって。」
それっきり前世のなまえは口をきかなかった。マナは構わず近況などを話し続け、───前世のなまえを哀れんでいるのか、それとも王女を哀れんでいるのか───寂しそうな陰を隠せないまま笑ってみせる。
「前世のなまえ様はずっと王宮から離れてるからご存知ないですよね。…王女は本当に前世のなまえ様にそっくりで、目も、髪の色も王妃と同じだから、セト様も……たまに王女のこと、前世のなまえって、呼び間違えたりするんですよ?……」
あぁ、いまのはセト様の真似をしただけで、王妃のことを呼び捨てにしたわけじゃないんです!
慌てて訂正するマナに、前世のなまえはやっと口の端を上げた。
「…! 王妃、……もしかして、今…笑って下さいましたか?」
マナが小首を傾げるので、前世のなまえは照れたように目を背ける。マナはどこか満足そうに息を吐くだけで、それからは沈黙が続いた。
「それじゃあ、前世のなまえさま……アタシ、帰りますね。」
すっかり夜も更けて、星と月の明かりだけが遠くの砂漠を照らしている。前世のなまえの眠りのために篝火が消されると、暗闇に砂の峰々が青白く浮かび上がった。その上を帰路につくマナたちの陰が点々と進み…次第にひと塊りになり、やがては砂丘の向こうへ消えて行く。
また独りでこんな所へ残される。だけど、王宮へ帰ることもできない。この居場所があるだけマシで、本当なら打ち捨てられて、砂漠の砂になっていてもおかしくはないのだ。国のためだと言って、手酷くセトの愛を裏切った自分にまだ情けを掛けてくれるだけ……私はまだ幸せな人間なのだ。
ぼんやりとマナの言葉を振り返ったが、マナはちっとも第二王妃の事を話してくれないし、娘が第二王妃の息子と結婚するし、マナのおべっかでないなら…セトは意外と私を覚えているようだし───……
強い夜風に当たって、やっと体が震えた。……本当ならもっと前から震えたかったくらいだ。
頭上では澄み切った空気が、今にも落ちてきそうな星空をより一層広げている。南の空にはソプデト神が輝き、前世のなまえを見下ろしている。きっとあそこからなら、王宮に居るセトや、娘王女も見渡せるに違いない。せめてソプデト神とおしゃべりできたら、この不安な心も幾分は落ち着かせられるのに。
あと何日、私はここに居るのだろう。それともこのまま死ぬ事も帰ることも出来ないで、永遠にこの地でこうしていなくてはいけないのだろうか。
思わず寝返りでもうって背中を丸めたいところだが、やはり疲れ切っていて身体が言う事を聞く気配はない。
「セト───……」
ザリ…とサンダルで砂を踏む音が響いた。驚きのあまり硬直するが、足音の主は簡易的な石の衝立の向こう側に居るようで、その姿は見えない。
「マナ……?」
衛兵や奴隷以外、この王妃の仮の宿に居る者はいない。ましてや履き物を履ける身分の者でこんな所へ来るのは、マナくらいしかいない。
だが、相手がマナではない事だけは察知していた。
石の衝立の向こうではもう1人分──おそらく付き添いの者だろう──裸足で歩く気配がしている。松明を手に持っているのだろう、衝立の淵から漏れる明かりが揺らめいて、その陰が前世のなまえの身体に落ちている。
「……前世のなまえ」
「……ッ セ、…セト」
もう一年以上も聞いていないのに、すぐにセトの声だとわかった。前世のなまえは慌てふためくだけでどうする事もできない。日に焼けたし、砂だらけだし、年もとったしで、セトが愛した美しい姿を保てているとは言い難い。こんな姿を見られるくらいなら、二度と顔を合わせない方がマシだ。
「何しに来たの、それもこんな時間に……と、言うか…王がこんな所に来てしまうなんて! 王女の結婚の宴じゃなかったの?」
「前世のなまえ、聞いてくれ。私は……貴女にひどい事をしてしまった。…貴女が私に産んでくれた王女にも。私には、愛する女性を守る力が足りなかった。」
掠れた声に前世のなまえはゆっくりと衝立の側まで寄る。風が吹くたびに、揺らめく松明の明かりが衝立のふちをなぞっていた。セトはこの衝立の向こう側で、おそらく縋るように石肌へ手をついているのだろう。前世のなまえも衝立越しにその手を合わせようと手を伸ばしかけるが、石にも、セトにも触れるのを恐れてやり場を失う。
「息子たちの事は、私も正しい判断が出来る状態ではなかった。…だがもし自分の妻まで失うと分かっていたなら、私はこうして自分自身を呪うような状態にはしなかった。貴女を避けてしまったのは、───またつまらない言い争いをして、関係を悪化させたくなかったからだ。」
「……なら、どうして今さら───」
「…私は長く生きた。王女を結婚させたのも……私の命が、あとどれだけ持つのか自信が無かったからだ。やり残した事が無いようにしたい。……だから、王女を結婚させた今夜、…王妃、貴女に逢いに来た。」
前世のなまえはサッと衝立から離れた。背中を向け、落ち着かない様子で部屋をウロウロとする。
「ダメよ、会えないわ。早く帰って!」
「わかっている。貴女は私が思っている以上に誇り高い。きっと嫌がるだろうとは思っていた。」
「ひどい事をしたって言って、まだ私に残酷な事をするのね……! どうして分かっていてそんな事を───」
「貴女に直接会って謝りたいだけなんだ! 前世のなまえ、分かってくれ、……そして私を許してほしい。」
「許さないわ! いやよ、だめ───」
セトが松明を受け取ったのか、明かりが一度大きく揺れたあと、石の衝立をよけて石段を上がってくる、懐かしい───愛おしい人が見えた。
前世のなまえはそこに立ち竦んでセトを見ていたが、石段を登りきった彼が目の前に立ったとき、咄嗟に手を伸ばして駆け寄った。
「ダメ……───!」
無情にも、その手がセトを押したところで彼の愛に満ちた目の色が変わる事はない。セトの懐かしい手が伸ばされて前世のなまえの朽ちた肉体に触れるのを、セトの身体をすり抜けるしかできない前世のなまえの魂が引き留めることなど出来ないのだ。
「お願い、見ないで……」
「前世のなまえ、貴女の、あの目の色が懐かしい。何もかも。……私のせいで変わってしまった───」
「違う、違うよ、……セト、私があなたを苦しめた。私があなたを置いて死んだのは、私のせい。───だからお願い、見ないで…」
「──今はもう…貴女はマハードやアクナムカノン王や、貴女の兄王に迎え入れられて……葦の原野で笑っているだろう。」
「やめて、私はまだ何処にも行かないわ。セト、ずっとここに居たいのよ、だって……
あなたを愛している。」
「貴女を愛している、
……だからこそ、貴女をまだ王墓へ埋葬する事ができない。前世のなまえ、私は貴女と…もっと時を過ごしたかった。」
前世のなまえは石台の上に横たわる自分の亡骸に寄り添う、セトの背中を見ている事しかできなかった。それでもゆっくりとセトの側に行き、朽ちた前世のなまえの、もう顔も分からなくなっている頭を撫でるセトを恐る恐る覗き込む。
「前世のなまえ、…もしまた命を与えられた時が来たら───…その時は、例え選ばれようとも、また千年宝物を手にしたいとは思わない。貴女の兄王や、貴女の本当の幸せを奪った物など。…前世のなまえ、もし来世を共にできたなら、その時こそ私は誓う。誰であれ、他人の作った物や、力や、権威には頼らないと! ……千年宝物と、生み出された闇の力がある限り、平和は脅かされ続けるだろう。若かったとは言え、己が千年錫杖に選ばれ、傲慢に満ちた顔でそれを使っていた事が、今となっては恥ずかしい…! もし時を戻せるなら、私は私の力で貴女を奪い、貴女を守り、貴女を愛したかった! 前世のなまえ、…もし私のこの思いを聞かせてやれていたなら、貴女は、───今ごろ、私を一番に愛してくれていたか…!?」
ふとその目が合ったような気がした。だが本当に気のせいで、セトに前世のなまえの魂は見えていない。セトは返ってくるはずのない応えを待ち、耳を澄ましていた。本当は見るのも辛い前世のなまえの作りかけのミイラを前に、震える手を握りしめて唇を噛む。
風の音だけが谷を駆け抜け、天を仰いだところで星々を美しいとも思えない。
セトが求めているのは自分が持っていない色─── 前世のなまえの赤み掛かった紫色の瞳に、赤い髪。それが今どこを見渡しても見つからない。
セトは苦しい胸の内を払いのけるようにマントを翻して前世のなまえに背を向けた。その愛する女の魂を横切ったとも知らないで、セトは元来た石段を降りていく。
風に撫でられるはずもない前世のなまえの髪がその顔を覆っていた。セトの足音はすぐに遠くなり、その背を見送ることも、ましてや追いかけることもできないで、ただじっと石台の上の、自分のものだった肉体を見ていた。
───セト、私はどこで道を間違えてしまったのかしら。
王族に生まれなければよかったと何度も思っていたけれど、この結末が自分の選んだ道の果てだった事に変わりはないの。
私はマハードを愛した時のような熱意を忘れて…王妃という枠の中で、いつしか王家と国の事だけのために生きていた。
あなたを愛するという、本当に大切な事を見失っていたの。
…だからセト、また生を受けて葦の原野に立つ時がきたら、私は必ずあなたと再会する。今度は───自分のために、あなたを愛するためだけに生きるって約束するわ。
《───セト》
谷を抜ける風の音に混じって、前世のなまえの声を聞いた気がした。セトは思わず振り返り、どうかもう一度だけ聞かせてくれと心の中で乞う。
だが所詮は風の音。すぐに諦めて馬に跨ると、体中が痛むのを堪えて、来た道を戻って行った。
王宮へ着く前に、セトの目の前に広がる砂漠は深い青色の空気に包まれ始める。
太陽が昇り来るこの僅かな青い時間は、セトに人生を振り返らせた。そしてだんだんと青白く変わっていく白い砂丘と同じ色の目をした忘れられない女性の事を考えては、白い光に包まれる眩しさに目を細める。こういう無為な時間をあとどれだけやり過ごせば、自分自身を赦せる時が来るのだろうか。
ゆっくりと目をあけた先で、セトは思いがけず涙を零す。
赤み掛かった紫色の朝焼けが、いまセトの見ている世界に広がっていた。
もし幸せというものが人生の中の頂点だとするならば、自らの身の破滅を科すこと以外に幸せを得られない私は一体どのあたりにいるのだろう。
前世のなまえは疲れ果てていた。部屋は荒れ、服や身体のどこにでも入り込むテーベの砂さえも彼女は気にすることはない。彼女は王家に生まれた時点で、人間が形成する社会に限れば「栄華を極めていた」と言えるだろう。だが、それは幸せという定規での頂点ではない。……前世のなまえは、自分が幸せを掴むことが出来なかったと認めざるを得なかった。
太陽が沈んだ直後の僅かな青い時間は、前世のなまえに人生を振り返らせた。そして何度も同じ色の目をした夫のことを考えては、この青に包まれているうちに眠りにつく。こうして無為な時間を消費するしか、自分自身を慰める術はない。
前世のなまえはセトとの約束を破ってしまった。セトから見て、それが裏切りと言っても過言ではないほどに。もちろん理由もなしに最愛の夫を裏切ったわけではない。人間社会の頂点に立たされた時点で、私たちに選択の余地はなかったのだ。
セトと前世のなまえに授かった三人の子供のうち、二人の王子は早逝してしまった。何度か流産や死産の辛い時を乗り越えたあと、三人目に王女をなんとか産めた。だがそれを最後に、前世のなまえはセトに子供を産んでやることが出来なくなった。
セトは王にしては、立場が弱かった。正統な王族だと証明できなかったからだ。前世のなまえを正妃に迎えたとは言え、内政は次第に神官団や元老院の発言力を抑えきれなくなり、そして……男子の後継者が絶えた事で母胎としての価値を失った前世のなまえは、正統な王族の血筋であるにも関わらず内政から見限られた。
セトも最後には国を取った。正確には、前世のなまえが取らせた。セトが王妃の寝室に来る日を選んで、元老の娘を神聖な寝台に寝かせておくなど…王妃である前世のなまえにしかできない。
───あんな大喧嘩をしたのは初めてだったけれど、仲直りできなかったのも初めてだった。次第に寝室からセトの足が遠のき、日中も会う事が減り、言葉を交わさなくなり……セトは第二王妃を受け入れた。
望んだ通り王子が生まれ、満足したはずだった。役割を果たしたと安心できると思ってた。
セトは、前世のなまえとすれ違っても挨拶ひとつ…それどころか顔を見ることさえしなくなった。
王子が生まれてすぐ、セトは遥か遠く
益々前世のなまえはセトと対立が続くようになり、ケンカをしたまま…別れて、こんな辺鄙な所へ来てしまった。今思えば、本当に些細な事で言い合いができたらまだ良い方で、最後に顔を見たのがいつだったかさえ思い出せない。
この一年、テーベの地で全てから隔絶されて過ごしていた。ぼんやりと空だけを見つめ、セトや子供たちを失って乾き続ける身体だけを抱いて眠る日々。今は父王や早逝した二人の息子……そしてこの身を過ぎ去っていった懐かしい人達が待つアアルの野の事だけを空想するしか心の安らぎは保たれない。もしドゥアトの門を通ることができたなら、その葦の原野に立ち、ホルアクティの約束が果たされる日を待つのも悪くない。
「王妃」
驚いて見ると、一番長く仕えているマナが素焼きの壺を抱えて立っていた。
「久しぶりですね、前世のなまえさま……あの、アタシ、香油を捧げに来ました。」
マナがそう言うなり、部屋に仕いの女官や従者が入ってきて灯りを焚き、部屋の掃除を始める。
前世のなまえは顔を顰めるものの、来てしまった以上は大人しくマナがやりたいようにさせてやるしかない。
「今日は王女様が、……セト二世王子と王宮で婚礼を挙げたんです。これはお母様である前世のなまえ様に、せめてものお祝いにって、アタシに香油を預けてくれて───」
前世のなまえは遠くを見たまま、ただ吹き込む風にため息の行方を任せるだけだった。自分の産んだ娘が、自分を不幸にした“王位継承権”で同じ道を歩んでいるのだと知って、どうしてため息をつかないで居られるだろう。
「王女はまだ14……王子も10歳になったばかりじゃない。セトはどうして……」
「セト二世王子は───……その、やっぱり正当な王子じゃないって言う人がいて……結局、前世のなまえ様と同じになっちゃいましたね。でもでも、セト様は前世のなまえ様がお産みになった王女がとっても大事で、それで、……王女の将来のための婚礼だから、きっと前世のなまえ王妃もわかってくれるだろうって。」
それっきり前世のなまえは口をきかなかった。マナは構わず近況などを話し続け、───前世のなまえを哀れんでいるのか、それとも王女を哀れんでいるのか───寂しそうな陰を隠せないまま笑ってみせる。
「前世のなまえ様はずっと王宮から離れてるからご存知ないですよね。…王女は本当に前世のなまえ様にそっくりで、目も、髪の色も王妃と同じだから、セト様も……たまに王女のこと、前世のなまえって、呼び間違えたりするんですよ?……」
あぁ、いまのはセト様の真似をしただけで、王妃のことを呼び捨てにしたわけじゃないんです!
慌てて訂正するマナに、前世のなまえはやっと口の端を上げた。
「…! 王妃、……もしかして、今…笑って下さいましたか?」
マナが小首を傾げるので、前世のなまえは照れたように目を背ける。マナはどこか満足そうに息を吐くだけで、それからは沈黙が続いた。
「それじゃあ、前世のなまえさま……アタシ、帰りますね。」
すっかり夜も更けて、星と月の明かりだけが遠くの砂漠を照らしている。前世のなまえの眠りのために篝火が消されると、暗闇に砂の峰々が青白く浮かび上がった。その上を帰路につくマナたちの陰が点々と進み…次第にひと塊りになり、やがては砂丘の向こうへ消えて行く。
また独りでこんな所へ残される。だけど、王宮へ帰ることもできない。この居場所があるだけマシで、本当なら打ち捨てられて、砂漠の砂になっていてもおかしくはないのだ。国のためだと言って、手酷くセトの愛を裏切った自分にまだ情けを掛けてくれるだけ……私はまだ幸せな人間なのだ。
ぼんやりとマナの言葉を振り返ったが、マナはちっとも第二王妃の事を話してくれないし、娘が第二王妃の息子と結婚するし、マナのおべっかでないなら…セトは意外と私を覚えているようだし───……
強い夜風に当たって、やっと体が震えた。……本当ならもっと前から震えたかったくらいだ。
頭上では澄み切った空気が、今にも落ちてきそうな星空をより一層広げている。南の空にはソプデト神が輝き、前世のなまえを見下ろしている。きっとあそこからなら、王宮に居るセトや、娘王女も見渡せるに違いない。せめてソプデト神とおしゃべりできたら、この不安な心も幾分は落ち着かせられるのに。
あと何日、私はここに居るのだろう。それともこのまま死ぬ事も帰ることも出来ないで、永遠にこの地でこうしていなくてはいけないのだろうか。
思わず寝返りでもうって背中を丸めたいところだが、やはり疲れ切っていて身体が言う事を聞く気配はない。
「セト───……」
ザリ…とサンダルで砂を踏む音が響いた。驚きのあまり硬直するが、足音の主は簡易的な石の衝立の向こう側に居るようで、その姿は見えない。
「マナ……?」
衛兵や奴隷以外、この王妃の仮の宿に居る者はいない。ましてや履き物を履ける身分の者でこんな所へ来るのは、マナくらいしかいない。
だが、相手がマナではない事だけは察知していた。
石の衝立の向こうではもう1人分──おそらく付き添いの者だろう──裸足で歩く気配がしている。松明を手に持っているのだろう、衝立の淵から漏れる明かりが揺らめいて、その陰が前世のなまえの身体に落ちている。
「……前世のなまえ」
「……ッ セ、…セト」
もう一年以上も聞いていないのに、すぐにセトの声だとわかった。前世のなまえは慌てふためくだけでどうする事もできない。日に焼けたし、砂だらけだし、年もとったしで、セトが愛した美しい姿を保てているとは言い難い。こんな姿を見られるくらいなら、二度と顔を合わせない方がマシだ。
「何しに来たの、それもこんな時間に……と、言うか…王がこんな所に来てしまうなんて! 王女の結婚の宴じゃなかったの?」
「前世のなまえ、聞いてくれ。私は……貴女にひどい事をしてしまった。…貴女が私に産んでくれた王女にも。私には、愛する女性を守る力が足りなかった。」
掠れた声に前世のなまえはゆっくりと衝立の側まで寄る。風が吹くたびに、揺らめく松明の明かりが衝立のふちをなぞっていた。セトはこの衝立の向こう側で、おそらく縋るように石肌へ手をついているのだろう。前世のなまえも衝立越しにその手を合わせようと手を伸ばしかけるが、石にも、セトにも触れるのを恐れてやり場を失う。
「息子たちの事は、私も正しい判断が出来る状態ではなかった。…だがもし自分の妻まで失うと分かっていたなら、私はこうして自分自身を呪うような状態にはしなかった。貴女を避けてしまったのは、───またつまらない言い争いをして、関係を悪化させたくなかったからだ。」
「……なら、どうして今さら───」
「…私は長く生きた。王女を結婚させたのも……私の命が、あとどれだけ持つのか自信が無かったからだ。やり残した事が無いようにしたい。……だから、王女を結婚させた今夜、…王妃、貴女に逢いに来た。」
前世のなまえはサッと衝立から離れた。背中を向け、落ち着かない様子で部屋をウロウロとする。
「ダメよ、会えないわ。早く帰って!」
「わかっている。貴女は私が思っている以上に誇り高い。きっと嫌がるだろうとは思っていた。」
「ひどい事をしたって言って、まだ私に残酷な事をするのね……! どうして分かっていてそんな事を───」
「貴女に直接会って謝りたいだけなんだ! 前世のなまえ、分かってくれ、……そして私を許してほしい。」
「許さないわ! いやよ、だめ───」
セトが松明を受け取ったのか、明かりが一度大きく揺れたあと、石の衝立をよけて石段を上がってくる、懐かしい───愛おしい人が見えた。
前世のなまえはそこに立ち竦んでセトを見ていたが、石段を登りきった彼が目の前に立ったとき、咄嗟に手を伸ばして駆け寄った。
「ダメ……───!」
無情にも、その手がセトを押したところで彼の愛に満ちた目の色が変わる事はない。セトの懐かしい手が伸ばされて前世のなまえの朽ちた肉体に触れるのを、セトの身体をすり抜けるしかできない前世のなまえの魂が引き留めることなど出来ないのだ。
「お願い、見ないで……」
「前世のなまえ、貴女の、あの目の色が懐かしい。何もかも。……私のせいで変わってしまった───」
「違う、違うよ、……セト、私があなたを苦しめた。私があなたを置いて死んだのは、私のせい。───だからお願い、見ないで…」
「──今はもう…貴女はマハードやアクナムカノン王や、貴女の兄王に迎え入れられて……葦の原野で笑っているだろう。」
「やめて、私はまだ何処にも行かないわ。セト、ずっとここに居たいのよ、だって……
あなたを愛している。」
「貴女を愛している、
……だからこそ、貴女をまだ王墓へ埋葬する事ができない。前世のなまえ、私は貴女と…もっと時を過ごしたかった。」
前世のなまえは石台の上に横たわる自分の亡骸に寄り添う、セトの背中を見ている事しかできなかった。それでもゆっくりとセトの側に行き、朽ちた前世のなまえの、もう顔も分からなくなっている頭を撫でるセトを恐る恐る覗き込む。
「前世のなまえ、…もしまた命を与えられた時が来たら───…その時は、例え選ばれようとも、また千年宝物を手にしたいとは思わない。貴女の兄王や、貴女の本当の幸せを奪った物など。…前世のなまえ、もし来世を共にできたなら、その時こそ私は誓う。誰であれ、他人の作った物や、力や、権威には頼らないと! ……千年宝物と、生み出された闇の力がある限り、平和は脅かされ続けるだろう。若かったとは言え、己が千年錫杖に選ばれ、傲慢に満ちた顔でそれを使っていた事が、今となっては恥ずかしい…! もし時を戻せるなら、私は私の力で貴女を奪い、貴女を守り、貴女を愛したかった! 前世のなまえ、…もし私のこの思いを聞かせてやれていたなら、貴女は、───今ごろ、私を一番に愛してくれていたか…!?」
ふとその目が合ったような気がした。だが本当に気のせいで、セトに前世のなまえの魂は見えていない。セトは返ってくるはずのない応えを待ち、耳を澄ましていた。本当は見るのも辛い前世のなまえの作りかけのミイラを前に、震える手を握りしめて唇を噛む。
風の音だけが谷を駆け抜け、天を仰いだところで星々を美しいとも思えない。
セトが求めているのは自分が持っていない色─── 前世のなまえの赤み掛かった紫色の瞳に、赤い髪。それが今どこを見渡しても見つからない。
セトは苦しい胸の内を払いのけるようにマントを翻して前世のなまえに背を向けた。その愛する女の魂を横切ったとも知らないで、セトは元来た石段を降りていく。
風に撫でられるはずもない前世のなまえの髪がその顔を覆っていた。セトの足音はすぐに遠くなり、その背を見送ることも、ましてや追いかけることもできないで、ただじっと石台の上の、自分のものだった肉体を見ていた。
───セト、私はどこで道を間違えてしまったのかしら。
王族に生まれなければよかったと何度も思っていたけれど、この結末が自分の選んだ道の果てだった事に変わりはないの。
私はマハードを愛した時のような熱意を忘れて…王妃という枠の中で、いつしか王家と国の事だけのために生きていた。
あなたを愛するという、本当に大切な事を見失っていたの。
…だからセト、また生を受けて葦の原野に立つ時がきたら、私は必ずあなたと再会する。今度は───自分のために、あなたを愛するためだけに生きるって約束するわ。
《───セト》
谷を抜ける風の音に混じって、前世のなまえの声を聞いた気がした。セトは思わず振り返り、どうかもう一度だけ聞かせてくれと心の中で乞う。
だが所詮は風の音。すぐに諦めて馬に跨ると、体中が痛むのを堪えて、来た道を戻って行った。
王宮へ着く前に、セトの目の前に広がる砂漠は深い青色の空気に包まれ始める。
太陽が昇り来るこの僅かな青い時間は、セトに人生を振り返らせた。そしてだんだんと青白く変わっていく白い砂丘と同じ色の目をした忘れられない女性の事を考えては、白い光に包まれる眩しさに目を細める。こういう無為な時間をあとどれだけやり過ごせば、自分自身を赦せる時が来るのだろうか。
ゆっくりと目をあけた先で、セトは思いがけず涙を零す。
赤み掛かった紫色の朝焼けが、いまセトの見ている世界に広がっていた。
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