王女の記憶
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
我の呼び醒し時まで
自分の出自が恵まれない境遇だったからといって、自分の住む世界までもが低俗になるとは限らない。全ては勝ち取ることが出来る。己を信じる限り、どんなものでも手に入れることが出来るのだ。
まだ夜明け間もない、薄暗い王宮の回廊をセトが歩いていた。
毎夜観測される星の位置から、次の日の占いが行われる。その結果を朝の拝謁に間に合うよう上位神官に伝える……という役目が、平民からのし上がり続けた今の下位神官 だ。
当然のように、まさかこんな地位で納得する男ではない。いずれは上位神官、ひいては王に直近で仕える六神官に選ばれてみせる。幸いにもこの王国は家柄や財力よりも実力で認められる社会。セトにとってこの王宮での地位向上など、野山で獲物を打つ狩場のようなものだった。
城壁に囲まれた庭園を眼下に過ぎようとしたとき、朝露に煌く孔雀石 色の草木の中で佇む大輪の花がその足を止めさせた。チラチラと震えて光る露が、セトにあの煌く砂埃と朝焼けを閉じ込めた色の瞳を思い出させる。
だが誰もいない庭園でひとり立ち尽くす前世のなまえ王女を、セトはこうして遠目に眺めることしかできなかった。
間近く触れ合った思い出を手にしていたとしても、それはこの庭園へ足を踏み入れるための“鍵”にはなり得ない。例え彼女が寒さに震えていようと、例え雨に打たれていようと…… この手を伸ばして触れることはおろか、声をお掛けることすらセトには赦されていないのだ。
前世のなまえ王女にそれが出来るのは、次期王となられるアテム王子だけ。
セトは遠目にお姿を見れただけでも幸運だったとため息をこぼしつつ、名残惜しいばかりに視線を前世のなまえに向けたまま回廊を進みだす。
だがその歩みはすぐに止められた。
同じ下位神官の装束の男が王女に近寄ると、まるで恐れを見せることなくその腕に王女を迎え入れたのだ。
信じられない光景にセトは息を飲む。
セトに渦巻いた感情に名前なんてものはない。羨みか妬み、嫉妬か、恐れか、怒りか。額からは血の気が引き、心臓は熱く高鳴り、眩暈で抱き合った2人の映像は揺れ、力任せに握り締めた拳はそれでも足りないとばかりに震えた。
あの男を私は知っている。あの男は───
城壁を越えた太陽が真っ直ぐにセトを射抜いた。
思わず腕で顔を覆えば、煮えたぎった感情が少しだけ落ち着きを取り戻す。もう一度眼下に視線を向けてみるが、黄金色のベールが青と緑に反射する陰に取り残された2人を包み隠してしまっていた。そのほんのひと瞬き、太陽の光が城壁から身を乗り出してやっと陰を取り払ったとき、セトの目に顔同士を密着させた2人の姿が飛び込む。
まさか口付けという愛情表現を知らないセトではない。───あの時、そう、先に前世のなまえへ口付けをしようとしたのはセトだったのだから。
セトは呆然とパピルスの文書に向かうだけで、その目は文字を追うでもなくただ空虚を見つめていた。
あのあと自分がどうやって上位神官にくだらない占いの結果を伝え、どうやって部屋に戻り、またどうやって仕事に出てきたのかは全く思い出せない。ただ目に焼き付いて離れないのは、同じ下位神官の装束を纏った男の背中 ……そう、あの男は間違いなくマハードだった。
官位も同じ、等級も身分も同じ。それでいて唯一ヤツと違っていることは何だ。
セトは認めざるを得なかった。マハードには“出自”という点で劣っているということを。
マハードは生まれてからその才能の片鱗を見せるまで、ずっと上位神官達の目に止まる環境で育った。早くから王宮に仕え、幼い王子の側近くに抜擢された。……対して自分はどうだ。記憶に残らないほど早くに父を亡くし、母親を亡くすまでは辺境の村で育った。苦労して読み書きを覚え、やっとの思いで王宮に仕え、ついに平民から下位の神官にまで昇格した。
「(違う!!!)」
そんな事を考えているのではない。そんな事で今更過去を振り返りたいのではない。
なぜマハードが前世のなまえ王女と逢瀬をしているのか。
心の何処かで期待していた。あの書簡庫での出会いを…… 前世のなまえ王女が私を覚えてくれているのではないかと。あれからずっと密やかに彼女を想っていた。決して王家への忠誠によるものではない。私は前世のなまえという1人の女を愛していた、あの女が私の心を呼び醒ましたのだから。
あの時彼女の目は確かに私を受け入れるために閉じられた。彼女が王女だと知った時は自分の行いに心から恐れたが、罰せられないことを知ったとき…私は彼女の慈悲によるものだと思っていた。
「(それが……! 今までのこの想いは何だったのだ。とんだ哀れな男ではないか。)」
マハードもマハードだ。従順で蒸留水のような清らかな心しか持っていないような顔をして、陰では直接の主人であるアテム王子を裏切り、王家を弄んでいたとは。
思えばマハードに女の影は感じていた。昨夜も彩りある女物らしい化粧の粉や、艶かしい移香を漂わせていたのを覚えている。……なによりあの移香に、記憶の中の前世のなまえ王女が呼び起こされたのは偶然ではなかった。
「(いつからだ、一体いつから───)」
「セト」
突然の呼び掛けに振り向けば、アイシスがそこに立っていた。下位神官 とほぼ同じ地位にある女性神官 のアイシスとは、セトの役割上夜明け前ごとに顔を合わせている。だがその女が日中にセトを訪ねるなど珍しい事だった。
「こんな所に何の用だ。」
なるべく平素に振る舞う。ほぼ同じ地位だとは言え彼女は名家の出身。上位神官達とも縁戚が多く、あからさまにセトの立場の方が弱い。それを知ってか知らずか、アイシスは部屋をひと回しに見渡してから気軽に続けた。
「マハードがどこにいるかご存知ありませんか。」
セトの肩がほんの僅かに揺れた。しかし今一番聞きたくない名前を浴びせられても瞬時に耐えたセトの精神力は計り知れない。
「……知らんな。」
さっさと背を向けて机の上のパピルスに視線を落とす。アイシスはほんの少し考えたあと、机を挟んでセトの前に腰を下ろした。
長居をするつもりらしいアイシスにセトは内心舌打ちをする。マハードを探しているなら早く出て行って、どこか他の部屋を当たればいい。
「実はセトにも聞いてもらいたいのです。」
「なんだ。」
明らかに機嫌の悪い声で返してしまった。すぐに咳払いをして、取り繕うようにパピルスを横に退ける。
「……実はシモン様からの言伝が。次の官位任命で、私たちは上級補佐神官 になると内定されました。」
「……、そうか。」
大して驚かないセトにアイシスは眉をひそめる。さも当然とばかりに頷いた目の前の若き神官に、アイシスはむしろ言葉の意味が伝わっていないのではないかとすら思う。
「マハードもか。」
「え、ええ。」
やはり意味は通じていたらしい。だとすれば、目の前のこの男は相当な自信家なのか? それとも…… 若年にして計り知れないセトの実体に、アイシスは戸惑いすら覚える。
「話しはそれだけか。」
「ええ」とだけ短く返す他ない。本当は相談したい事もあったのだが、セトは想像以上に冷淡だった。アイシスは渋々といった様子で立ち上がり、まるでこっちが仕事の邪魔をしてしまった気を抱えたままセトの横を過ぎ去った。
「では、まあ明日」
そう言い残してアイシスは部屋を出て行った。ため息ともまた違う息をつき、セトはパピルスを手に取る。それを少し眺めたまま、頭では全く別の事を考えていた。
「上級補佐……」
思わず手にした筆の枝を握り折った。上級補佐、そんなものでは足りない。前世のなまえ王女に公式拝謁できるのは上級神官より上。一体あと何年待ち続ければ彼女に再会できるというのだろう。
書簡庫での出会いから1年、あの出会いをきっかけにセトは驚異的なスピードで出世した。それが前世のなまえ王女のお口添えか自らの努力かはわからない。しかし一歩ずつ着実に走り抜けてきたつもりだ。
何もかも、あの女と再会したいがために。
1年……たったそれだけの時間ですら今では遥か遠くの昔に感じられた。王女の存在がどれだけ遠いものなのか、皮肉にも王宮に仕えることで思い知らされた。高嶺の花どころの騒ぎではない。彼女は雲の上、神話の世界に生きる女神そのものの扱いを受けている。
セトにとっても、前世のなまえとの出会いの思い出すら神話の中のお話の一部となって神格化されていた。あの場にいた自分が自分ではないような気さえ起こる事だってある。───ウガリットのバアル神と、アナト女神との出会い。もしあの口付けが成されていたら、2人は本当に神話へと足を踏み入れただろう。
それだけ王女の愛はこの国にとっても重い。前世のなまえの愛を勝ち獲るということは、太陽神 への───……
セトは自らの考えにゾッとして思わず立ち上がる。
自分の出自が恵まれない境遇だったからといって、自分の住む世界までもが低俗になるとは限らない。己を信じる限り、どんなものでも手に入れることが出来る…… 全ては勝ち取ることが出来る。そう信じてきたセトにとって、打ち破ることのできないガラスの天井はいま僅かな亀裂を見せた。
「私は……なにを」
雷に撃たれこの身を焼き尽くされても仕方が無いほどの事を考えてしまった。
しかし身体中を駆け巡ったこの衝撃を、その考えをセトは捨て去ることができない。震える体を抑え込むと、唇を噛んだままもう一度椅子に腰を落とす。
マハードはそれを分かっているのか。あの男は、ファラオという絶対権力を手に入れるチャンスを前にしてなお従順に王家の血に平伏すのか。
流れる汗を拭うことなく、セトはただ呆然と遠くを眺めていた。
「私が、上級補佐……?」
セトとは正反対の反応を見せるマハードに、アイシスは顔を綻ばせた。信じられないといった口元に手をやるマハードは、アイシスの瞳の奥で彼女の気持ちを擽る。
「貴方の働きはシモン様や、何より王がお認めになられているのです。誇りに思いましょう。」
「あぁ。王がお決めになられたのであれば… 私も王の期待に応えるべく、さらに励まなくてはならんな。」
マハードはすぐにでも前世のなまえに会いたくなった。こうして少しずつ地位を上げていけば、何れは彼女のすぐ傍に仕える事だってできる。王子との約束も果たせるのだ。
「マハード」
つい後宮の方を見ていたマハードがアイシスに向き直ると、彼女は少し畏まって、そして真剣な目でマハードを見つめていた。何事かとマハードも背筋を正せば、アイシスは眉端を下げてはにかむ。
「いえ、……やはり、何でもありません。」
「?」
「それでは」と断りを入れてアイシスは背を向けた。女祭神の神殿の方へ立ち去るその背中をマハードは少しも気にするでもなく、マハードも仕事場へと戻って行った。
濃紺の帳が下された空を大きな光の河が縦に割っていた。時折り篝火の松明が割れる音が立てば、石柱に反響してそこら中に響き渡る。
なんとも気まずい静けさだった。マハードもセトも互いをチラリとも見ようとしない。水と油ほど気性の違うこの2人は、一体なんの巡り合わせか石盤 の神殿の周辺警固に借り出されていた。
先ほどから一言も交わさず、それどころかセトはマハードの事を視界にも入れず…… 耐えかねて先に沈黙を破ったのはマハードだった。
「セト」
足を止めたセトがやっと振り返る。その顔はあまりにも冷淡で、珍しい真青な瞳は手にした松明の橙色に照らされ尚更その青が際立っていた。別段何か話題を用意していたわけでもなかったマハードは、セトのその視線に言葉が詰まる。
「なんだ。」
「あぁ、いや……」
セトは鼻で笑うとまた先を進んで行ってしまった。マハードも彼とはそういう仲だと半ば諦めそのあとを追う。
「昨日の事だが」
追いついて横に並んだところで、意外にもセトから口を開いた。マハードは驚きながらも昨夜のことを思い返す。 ───王女との逢瀬の帰りにセトと出会し、服に化粧や移香があると指摘された。そして、「お前だけは潔白な男だと思っていた」と詰 るセトの言葉が記憶に蘇る。
「あれは、……すまなかった。」
マハードの口からは咄嗟に謝罪の言葉がこぼれた。拭きれない罪悪感がその陰に潜んでいる。
「何を謝ることがある。」
「いや、私に失望したのかと……」
セトは淡々と足を進めているように見えた。だが実際はマハードが思った以上にすまなそうな顔をするので、胸の中はふつふつとどうしようもない感情が込み上げている。
今朝、お前と王女の関係を見てしまった。そう面と向かって言ったところで、セトの気持ちは収まらないだろう。セト自身もそれを理解していて、いっそ冷淡に詰ろうと決めた。
「貴様も男だ。罰を怖れず忍んで会いに行くとは…… お目に止まったその女はどうやら余程のものらしい。」
セトの言葉にマハードは顔を強張らせる。まるで自分達より位の低い女を前提とした物言いは、王家を慕うマハードが賛同できるものではなかった。
「待て、私は───…」
そう言いかけて言葉に詰まる。余計な事を言ってしまいそうだったからだ。
自分は一体、何も知らないセトに何て言うつもりだろうか。崇敬する人だから、地位の高い方だからこそ断れないとでも言うつもりか。しかし誤魔化すためという理由で前世のなまえ王女を自分達と同じ位の方だと嘯く事すら恐れ多い。
突然の沈黙にマハードの首から冷や汗が滴る。それをセトは鼻で笑い、立ち止まってマハードに向き直った。
「どうした。まさか女から誘われたら断れないとでも言うつもりか? フン、王子の側仕えだけあって、さぞ多くの女達から言い寄られてるとみえる。」
「貴様……!」
耐え兼ねたマハードが松明を砂の地の上に放りつけた。地に打ち捨てられた松明は持ち手まで炎が覆い、向き合う2人の顔を大きく赤く照らす。
マハードは掴みかかりそうになった手を堪えて握り締めた。怒りに震えるその手を、ただでさえ冷たい色をしたセトの青い目がより冷淡に見つめる。
「どうした。ここなら誰も来ない。」
不適に笑うセトに、マハードはただグッと耐えた。相手を知らないとは言え前世のなまえを下卑した物言いをし、さらにはマハードをも侮辱するセトに、一体なんの謂れがあって喧嘩を売られているのかとすら思う。
「……ッ、貴殿とやりあうつもりはない。だが女性への言葉は訂正しろ。」
「ほう、随分と熱心だ。」
「私は本気だ。それ以上の侮辱は許さん!」
ギッと睨むマハードにセトは小さく笑って顔を背けた。なんと分かりやすい、扱いやすい男だろうか。そうセトは息をつく。
マハードは嘘をつけない性格だ。実直で、真面目一辺倒で、王家に従順。一見なんの面白みもない男。───王女の気紛れの恋にはピッタリな男だ。
「そこまで言えるとは余程地位の高いお方のようだ。マハード、ここまで来たら相手が誰か私に打ち明けてはくれないか。」
マハードの顔に大きな陰がかかった。途端に唇を噤み、真っ白く血の気の引いたマハードの顔を見れば、セトの鬱憤もほんの少しだけ晴らせることができる。
だが足りない。なにか決定的な打撃を与えたい。それほどまでにセトの憎悪は強大になっていた。
いっそマハードと前世のなまえの仲が壊れてしまえばいい。
「まあ私も…… 実を言うとある高貴な女性と関係を持った事がある。」
同情するような口振りにマハードの肩が少し跳ねた。それを見てセトは手にしていた松明の炎に目を向ける。これから言う事は嘘ではない。だからこそマハードへの投石になればいいと、セトは冷酷にも口を開いた。
「1年ほど前だがな。……私はまだシモン様の庇護下にあった無位の学徒だった。───王宮の書簡庫に入り浸っていたある日、宮中から抜け出して来たある女性に出会った。」
マハードへの投石という邪念を口にしているつもりだった。しかしあの鮮烈な記憶を前に、セトは次第に本心から言葉を溢す。
あの乾燥した空気、高鳴る心臓に揺らめく視界、確かに自分へ向けられた愛に満ちた瞳……
自然とセトの全身から悪意が失せていった。あの手に、あの顔に触れた感触が今でも指先に蘇る。できる事ならもう一度触れたい───!
「セト、まさかその方は……」
「前世のなまえ王女様だ。」
パキリとマハードの放うった松明が割れた。持ち木まで燃やし尽くした炎は次第に小さくなり、煙は白く伸び始めている。
セトはマハードの顔が見れなかった。
急に恐ろしくなった。マハードの秘密を知っているとは言え、セトは自尊心のために先に王女との出来事を打ち明けてしまったのだ。マハードを追い詰めたようで、自ら窮地に立ったのはセトだった。
それだけではない。今更になって罪悪感までもがセトを蝕みはじめていた。ただ一度きりの出会いで王女に執着し、自由と愛の理想だけを彼女に詰め込んでいたと気付いてしまったのだ。……しかしマハードはどうだ。幼い内から王家に仕え、セトの何倍もの長い時間を前世のなまえに捧げ、愛してきただろう。王女と愛し合う事の重大性も、マハードはセトの何倍も承知している。だからこそマハードは王家の血に絶対服従を誓い、将来前世のなまえ王女の夫となるアテム王子に仕えているのだ。
口に出してしまった言葉を拾い集めて消すことなど出来はしない。
マハードへの嫉妬のあまり、セトは本来の冷静な判断を失っていた。それに気付いたときにはもう遅い。マハードは沈黙したままセトを見ていた。
「……今のは聞かなかったことにしよう。」
セトは驚いて顔を上げたが、マハードはもう背を向けて歩き出していた。なにか言い返せるものでもなく、ただ言葉にならない息を吐き捨てると、セトはそのあとを追ってゆっくりと足を進める。
しかしマハードの心に石を投げ付けるという最初の思惑は、セトの知らないところで果たされていた。
前世のなまえからの愛の告白を受けたのは半年前。マハードは血の気の引いたままの顔を後宮へ向けることが出来なかった。愛を受け入れ、また差し出したことで、マハードに植え付けられていた新しい恐れの種はこのとき確かに芽吹いてしまった。
「(私は、───セトの代わりだったのではないか?)」
前世のなまえ王女の愛を失うという恐れは、ゆっくりとマハードを蝕みはじめていた。
元より分不相応の関係だった。アテム王子からの申し出はマハードにとって天恵であり、その信頼に応えるべくさらなる忠誠を誓った。この身が滅びるのも厭わず全てを王家に捧げようと誓った。
なにもかも前世のなまえの愛に、王女ではない1人の人間としての彼女の気持ちに応える…… その一心のために。
一枚の岩よりも堅いと信じていた足下は砂の海へと姿を変えていた。セトに浴びせられた冷や水は乾くことを知らず、足取りは重くなり続ける。
「(私はいったい何を……! 前世のなまえ様のお気持ちを疑うなど!)」
背後にセトが居るのも構わずマハードは頭を振った。邪念を振り払うようにその歩幅は早くなり、焦りや困惑を引き摺ったまま王宮への帰り道を急ぐ。
たった一本の松明に照らされるところを残して闇に体を溶かすセトが、黄金の灯りに煌く王宮へ吸い込まれていくマハードの背中を見送っていた。
***
「官位が上がるそうですね。」
人目のない早朝の水浴槽のほとりで、前世のなまえはマハードを見つけるなりその首に飛びついた。
最後に会ってから1週間が経ってしまった。その埋め合わせと言わんばかりにひとしきり恋人の体温を懐かしむと、顔を上げた前世のなまえはさっそくマハードの官位の話題を持ち出す。だがその笑顔に向けられたマハードの顔は、どこか憂いの陰を落とした色をしていた。
「……マハード?」
前世のなまえが心待ちにしていた逢瀬は理想と違う様相を呈している。向かい合って両の手を握り合っているというのに、マハードの瞳はあの情熱に輝いてなどいなかった。
マハードはこの1週間、セトが視界に入らずともずっとセトの言った事を考え、苛まれ続けた。前世のなまえと気軽に会えるわけもなく、小さな染みを彼女の笑顔で白く戻すには遅すぎた。もう前世のなまえを前にしてマハードは心から振り絞る黒い淀みを吐き出さざるを得ない。愛を誓ったからこそ、前世のなまえに心を伝えなくては───……
「いえ、なんでもありません。」
マハードは強張った口元でゆっくりと微笑んだ。その顔に前世のなまえは首を傾げ、心配したようにマハードの頬に手をやる。
「疲れているのね、可哀想に。」
再びマハードを引き寄せてその首を抱くと、マハードも前世のなまえの背に両腕を這わせて包み込んだ。前世のなまえの髪に鼻先を埋め、今にも泣きそうになる痛々しい眉間を必死に奮い立たせる。滲みそうになる視界に堪え切れず、マハードはゆっくりと目を閉じた。
不安や恐れに震えて不規則になるマハードの心音に前世のなまえは幼な子をあやすように背中をさすってやる。セトがこの王宮で、それもマハードと同じ官位に居る事など彼女はつゆほども知らない。だが彼が今極めて不安定な立場に置かれていることだけは前世のなまえにも分かっていた。
「あなたが好きよ、マハード。……どうか恐れないで、私を信じて。」
前世のなまえの言葉が真実だとマハードにも分かっている。そしてここに来て、自分の愛が“自分のためのもの”であったことに気が付かされていた。
王家への忠誠と前世のなまえ王女への愛の誓い、それは自分が前世のなまえの愛を手にして喜ぶためのものではない。全ては前世のなまえが幸せに生きるための“自己犠牲”であるべきだったのだ。
「前世のなまえ様、」
「あら、この前の威勢はどうしたの?」
「……前世のなまえ」
風が静かに水面を揺らした。2人に与えられた僅かな時間がどれだけ貴重なものかお互いに理解している。だから無駄なお喋りや挨拶など不要なのだ。ただこうして、会えない時間のために、そしていつか引き裂かれる瞬間のために…… 愛し合った互いを忘れないために抱き合うしかない。
前世のなまえが果たしてセトをどう思っていたのかなど、マハードにはどうでも良くなっていた。
例えこの目をえぐられ、内蔵を引き裂かれ、体を打ち砕かれたとしても、それが前世のなまえ王女のためならば何も躊躇うことなくこの身を差し出せる。そう誓った心にいったいどんな淀みがあったと言うのだろうか。前世のなまえ王女の愛に…… 何よりもアテム王子の赦しに贖えるなら、この血をナイルに流そうとも、この首をテーベのデシュレトに埋めようとも、この王国を護ってみせよう。
「マハード、くるしい」
余りにも強く抱きしめすぎて、前世のなまえは降参した。知らずに力を込めていたマハードが慌てて彼女を解放すると、恐れの余り頭を地に擦り付けるほど平伏す。
それを見て前世のなまえも大慌てでマハードを立たせようとするが、顔を真っ白にして目に涙すら浮かべるマハードは頑なに謝り続けた。
ぱちっと目が合ったとき、どちらともなく笑いが込み上げる。マハードはすぐに口を噤んで自分を正そうとしたが、胸に飛び込んできた前世のなまえにもうその戒めは不要だった。
笑っい合った顔が再び向き合って互いの目を覗いたとき、2人はどちらともなく目をとじる。風がやみ均衡を取り戻した水面には、確かに口付けを交わすマハードと前世のなまえの姿が映し出されていた。
マハードは真面目で、高潔で、なによりも従順な男だった。
少なくともそう評価されていた。でなければ少年期から王宮に仕え、幼い王子と友好を交える事も…むしろお会いすることすらも叶わなかっただろう。
決して有力な家の出というわけでもなかったが、マハードは魔術師としての才能と、無欲で従順であるが故に信頼を勝ち取り、この国のアテム王子の側近くに仕えた。
だからといって、それがすぐ官位に反映されるかと言えば別だった。
「ご推挙頂いたシモン様、そしてこの度私をお選び下さったファラオのご期待に応えるため、……この神官セト、誠心誠意この国に尽くして参ります。」
前世のなまえの目に映ったのは、あの乾季の空よりも青い青。あの書簡庫で煌めく砂埃、太陽神の閉ざした目、その陰に隠れた目醒め。
セトは任命にあたってたった1人、上級神官 へ躍進した。王への公式な拝謁権、王族のすぐ側に仕えられる地位…… 自らの出自を覆してみせたのだ。さらなる野望を心の片隅に抱いたまま。
「ファラオよ、この者は平民の出ながら抜きん出て優れた能力をもち、最年少ながら全ての試験を主席で通過した逸材でございます。ファラオのため、また王子と王女の次の治世の世まで、セトは必ずや心強い腹心になると、恐れながらこのシモン、ご推挙させて頂いた次第でございますじゃ。」
隣に立つ前世のなまえの様子が少し変わった事にアテムは気付いていた。だがアテムは前世のなまえとセトに何が合ったかなど知りもしない。静かに肘で小突いてやると、振り向いた前世のなまえにコソコソと耳打ちする。
「(どうした? 気分でも悪いのか?)」
「(ううん、大丈夫。)」
「王子、王女」
シモンの声に2人は飛び上がる。また怒られるのかと同じ色の瞳を4つも並べてシモンの方を覗き込めば、彼は老人らしい咳払いをしてから背中を伸ばす。
「新しい神官にご挨拶を。」
「あぁ。」
「……」
シモンの後ろに並ぶ5人の神官団の中で、黄金の目をフードに隠した男─── アクナディンだけがセトをずっと見ていた。その心はうち震え、ただ静かにえも言われぬ感情を噛み締めている。
この出会いがどんな運命を齎らすことになるかも知らずに、ただ今はセトのこの青い瞳に…… 前世のなまえの困惑した顔が映されるだけだった。
自分の出自が恵まれない境遇だったからといって、自分の住む世界までもが低俗になるとは限らない。全ては勝ち取ることが出来る。己を信じる限り、どんなものでも手に入れることが出来るのだ。
まだ夜明け間もない、薄暗い王宮の回廊をセトが歩いていた。
毎夜観測される星の位置から、次の日の占いが行われる。その結果を朝の拝謁に間に合うよう上位神官に伝える……という役目が、平民からのし上がり続けた今の
当然のように、まさかこんな地位で納得する男ではない。いずれは上位神官、ひいては王に直近で仕える六神官に選ばれてみせる。幸いにもこの王国は家柄や財力よりも実力で認められる社会。セトにとってこの王宮での地位向上など、野山で獲物を打つ狩場のようなものだった。
城壁に囲まれた庭園を眼下に過ぎようとしたとき、朝露に煌く
だが誰もいない庭園でひとり立ち尽くす前世のなまえ王女を、セトはこうして遠目に眺めることしかできなかった。
間近く触れ合った思い出を手にしていたとしても、それはこの庭園へ足を踏み入れるための“鍵”にはなり得ない。例え彼女が寒さに震えていようと、例え雨に打たれていようと…… この手を伸ばして触れることはおろか、声をお掛けることすらセトには赦されていないのだ。
前世のなまえ王女にそれが出来るのは、次期王となられるアテム王子だけ。
セトは遠目にお姿を見れただけでも幸運だったとため息をこぼしつつ、名残惜しいばかりに視線を前世のなまえに向けたまま回廊を進みだす。
だがその歩みはすぐに止められた。
同じ下位神官の装束の男が王女に近寄ると、まるで恐れを見せることなくその腕に王女を迎え入れたのだ。
信じられない光景にセトは息を飲む。
セトに渦巻いた感情に名前なんてものはない。羨みか妬み、嫉妬か、恐れか、怒りか。額からは血の気が引き、心臓は熱く高鳴り、眩暈で抱き合った2人の映像は揺れ、力任せに握り締めた拳はそれでも足りないとばかりに震えた。
あの男を私は知っている。あの男は───
城壁を越えた太陽が真っ直ぐにセトを射抜いた。
思わず腕で顔を覆えば、煮えたぎった感情が少しだけ落ち着きを取り戻す。もう一度眼下に視線を向けてみるが、黄金色のベールが青と緑に反射する陰に取り残された2人を包み隠してしまっていた。そのほんのひと瞬き、太陽の光が城壁から身を乗り出してやっと陰を取り払ったとき、セトの目に顔同士を密着させた2人の姿が飛び込む。
まさか口付けという愛情表現を知らないセトではない。───あの時、そう、先に前世のなまえへ口付けをしようとしたのはセトだったのだから。
セトは呆然とパピルスの文書に向かうだけで、その目は文字を追うでもなくただ空虚を見つめていた。
あのあと自分がどうやって上位神官にくだらない占いの結果を伝え、どうやって部屋に戻り、またどうやって仕事に出てきたのかは全く思い出せない。ただ目に焼き付いて離れないのは、同じ下位神官の装束を纏った男の背中 ……そう、あの男は間違いなくマハードだった。
官位も同じ、等級も身分も同じ。それでいて唯一ヤツと違っていることは何だ。
セトは認めざるを得なかった。マハードには“出自”という点で劣っているということを。
マハードは生まれてからその才能の片鱗を見せるまで、ずっと上位神官達の目に止まる環境で育った。早くから王宮に仕え、幼い王子の側近くに抜擢された。……対して自分はどうだ。記憶に残らないほど早くに父を亡くし、母親を亡くすまでは辺境の村で育った。苦労して読み書きを覚え、やっとの思いで王宮に仕え、ついに平民から下位の神官にまで昇格した。
「(違う!!!)」
そんな事を考えているのではない。そんな事で今更過去を振り返りたいのではない。
なぜマハードが前世のなまえ王女と逢瀬をしているのか。
心の何処かで期待していた。あの書簡庫での出会いを…… 前世のなまえ王女が私を覚えてくれているのではないかと。あれからずっと密やかに彼女を想っていた。決して王家への忠誠によるものではない。私は前世のなまえという1人の女を愛していた、あの女が私の心を呼び醒ましたのだから。
あの時彼女の目は確かに私を受け入れるために閉じられた。彼女が王女だと知った時は自分の行いに心から恐れたが、罰せられないことを知ったとき…私は彼女の慈悲によるものだと思っていた。
「(それが……! 今までのこの想いは何だったのだ。とんだ哀れな男ではないか。)」
マハードもマハードだ。従順で蒸留水のような清らかな心しか持っていないような顔をして、陰では直接の主人であるアテム王子を裏切り、王家を弄んでいたとは。
思えばマハードに女の影は感じていた。昨夜も彩りある女物らしい化粧の粉や、艶かしい移香を漂わせていたのを覚えている。……なによりあの移香に、記憶の中の前世のなまえ王女が呼び起こされたのは偶然ではなかった。
「(いつからだ、一体いつから───)」
「セト」
突然の呼び掛けに振り向けば、アイシスがそこに立っていた。
「こんな所に何の用だ。」
なるべく平素に振る舞う。ほぼ同じ地位だとは言え彼女は名家の出身。上位神官達とも縁戚が多く、あからさまにセトの立場の方が弱い。それを知ってか知らずか、アイシスは部屋をひと回しに見渡してから気軽に続けた。
「マハードがどこにいるかご存知ありませんか。」
セトの肩がほんの僅かに揺れた。しかし今一番聞きたくない名前を浴びせられても瞬時に耐えたセトの精神力は計り知れない。
「……知らんな。」
さっさと背を向けて机の上のパピルスに視線を落とす。アイシスはほんの少し考えたあと、机を挟んでセトの前に腰を下ろした。
長居をするつもりらしいアイシスにセトは内心舌打ちをする。マハードを探しているなら早く出て行って、どこか他の部屋を当たればいい。
「実はセトにも聞いてもらいたいのです。」
「なんだ。」
明らかに機嫌の悪い声で返してしまった。すぐに咳払いをして、取り繕うようにパピルスを横に退ける。
「……実はシモン様からの言伝が。次の官位任命で、私たちは
「……、そうか。」
大して驚かないセトにアイシスは眉をひそめる。さも当然とばかりに頷いた目の前の若き神官に、アイシスはむしろ言葉の意味が伝わっていないのではないかとすら思う。
「マハードもか。」
「え、ええ。」
やはり意味は通じていたらしい。だとすれば、目の前のこの男は相当な自信家なのか? それとも…… 若年にして計り知れないセトの実体に、アイシスは戸惑いすら覚える。
「話しはそれだけか。」
「ええ」とだけ短く返す他ない。本当は相談したい事もあったのだが、セトは想像以上に冷淡だった。アイシスは渋々といった様子で立ち上がり、まるでこっちが仕事の邪魔をしてしまった気を抱えたままセトの横を過ぎ去った。
「では、まあ明日」
そう言い残してアイシスは部屋を出て行った。ため息ともまた違う息をつき、セトはパピルスを手に取る。それを少し眺めたまま、頭では全く別の事を考えていた。
「上級補佐……」
思わず手にした筆の枝を握り折った。上級補佐、そんなものでは足りない。前世のなまえ王女に公式拝謁できるのは上級神官より上。一体あと何年待ち続ければ彼女に再会できるというのだろう。
書簡庫での出会いから1年、あの出会いをきっかけにセトは驚異的なスピードで出世した。それが前世のなまえ王女のお口添えか自らの努力かはわからない。しかし一歩ずつ着実に走り抜けてきたつもりだ。
何もかも、あの女と再会したいがために。
1年……たったそれだけの時間ですら今では遥か遠くの昔に感じられた。王女の存在がどれだけ遠いものなのか、皮肉にも王宮に仕えることで思い知らされた。高嶺の花どころの騒ぎではない。彼女は雲の上、神話の世界に生きる女神そのものの扱いを受けている。
セトにとっても、前世のなまえとの出会いの思い出すら神話の中のお話の一部となって神格化されていた。あの場にいた自分が自分ではないような気さえ起こる事だってある。───ウガリットのバアル神と、アナト女神との出会い。もしあの口付けが成されていたら、2人は本当に神話へと足を踏み入れただろう。
それだけ王女の愛はこの国にとっても重い。前世のなまえの愛を勝ち獲るということは、
セトは自らの考えにゾッとして思わず立ち上がる。
自分の出自が恵まれない境遇だったからといって、自分の住む世界までもが低俗になるとは限らない。己を信じる限り、どんなものでも手に入れることが出来る…… 全ては勝ち取ることが出来る。そう信じてきたセトにとって、打ち破ることのできないガラスの天井はいま僅かな亀裂を見せた。
「私は……なにを」
雷に撃たれこの身を焼き尽くされても仕方が無いほどの事を考えてしまった。
しかし身体中を駆け巡ったこの衝撃を、その考えをセトは捨て去ることができない。震える体を抑え込むと、唇を噛んだままもう一度椅子に腰を落とす。
マハードはそれを分かっているのか。あの男は、ファラオという絶対権力を手に入れるチャンスを前にしてなお従順に王家の血に平伏すのか。
流れる汗を拭うことなく、セトはただ呆然と遠くを眺めていた。
「私が、上級補佐……?」
セトとは正反対の反応を見せるマハードに、アイシスは顔を綻ばせた。信じられないといった口元に手をやるマハードは、アイシスの瞳の奥で彼女の気持ちを擽る。
「貴方の働きはシモン様や、何より王がお認めになられているのです。誇りに思いましょう。」
「あぁ。王がお決めになられたのであれば… 私も王の期待に応えるべく、さらに励まなくてはならんな。」
マハードはすぐにでも前世のなまえに会いたくなった。こうして少しずつ地位を上げていけば、何れは彼女のすぐ傍に仕える事だってできる。王子との約束も果たせるのだ。
「マハード」
つい後宮の方を見ていたマハードがアイシスに向き直ると、彼女は少し畏まって、そして真剣な目でマハードを見つめていた。何事かとマハードも背筋を正せば、アイシスは眉端を下げてはにかむ。
「いえ、……やはり、何でもありません。」
「?」
「それでは」と断りを入れてアイシスは背を向けた。女祭神の神殿の方へ立ち去るその背中をマハードは少しも気にするでもなく、マハードも仕事場へと戻って行った。
濃紺の帳が下された空を大きな光の河が縦に割っていた。時折り篝火の松明が割れる音が立てば、石柱に反響してそこら中に響き渡る。
なんとも気まずい静けさだった。マハードもセトも互いをチラリとも見ようとしない。水と油ほど気性の違うこの2人は、一体なんの巡り合わせか
先ほどから一言も交わさず、それどころかセトはマハードの事を視界にも入れず…… 耐えかねて先に沈黙を破ったのはマハードだった。
「セト」
足を止めたセトがやっと振り返る。その顔はあまりにも冷淡で、珍しい真青な瞳は手にした松明の橙色に照らされ尚更その青が際立っていた。別段何か話題を用意していたわけでもなかったマハードは、セトのその視線に言葉が詰まる。
「なんだ。」
「あぁ、いや……」
セトは鼻で笑うとまた先を進んで行ってしまった。マハードも彼とはそういう仲だと半ば諦めそのあとを追う。
「昨日の事だが」
追いついて横に並んだところで、意外にもセトから口を開いた。マハードは驚きながらも昨夜のことを思い返す。 ───王女との逢瀬の帰りにセトと出会し、服に化粧や移香があると指摘された。そして、「お前だけは潔白な男だと思っていた」と
「あれは、……すまなかった。」
マハードの口からは咄嗟に謝罪の言葉がこぼれた。拭きれない罪悪感がその陰に潜んでいる。
「何を謝ることがある。」
「いや、私に失望したのかと……」
セトは淡々と足を進めているように見えた。だが実際はマハードが思った以上にすまなそうな顔をするので、胸の中はふつふつとどうしようもない感情が込み上げている。
今朝、お前と王女の関係を見てしまった。そう面と向かって言ったところで、セトの気持ちは収まらないだろう。セト自身もそれを理解していて、いっそ冷淡に詰ろうと決めた。
「貴様も男だ。罰を怖れず忍んで会いに行くとは…… お目に止まったその女はどうやら余程のものらしい。」
セトの言葉にマハードは顔を強張らせる。まるで自分達より位の低い女を前提とした物言いは、王家を慕うマハードが賛同できるものではなかった。
「待て、私は───…」
そう言いかけて言葉に詰まる。余計な事を言ってしまいそうだったからだ。
自分は一体、何も知らないセトに何て言うつもりだろうか。崇敬する人だから、地位の高い方だからこそ断れないとでも言うつもりか。しかし誤魔化すためという理由で前世のなまえ王女を自分達と同じ位の方だと嘯く事すら恐れ多い。
突然の沈黙にマハードの首から冷や汗が滴る。それをセトは鼻で笑い、立ち止まってマハードに向き直った。
「どうした。まさか女から誘われたら断れないとでも言うつもりか? フン、王子の側仕えだけあって、さぞ多くの女達から言い寄られてるとみえる。」
「貴様……!」
耐え兼ねたマハードが松明を砂の地の上に放りつけた。地に打ち捨てられた松明は持ち手まで炎が覆い、向き合う2人の顔を大きく赤く照らす。
マハードは掴みかかりそうになった手を堪えて握り締めた。怒りに震えるその手を、ただでさえ冷たい色をしたセトの青い目がより冷淡に見つめる。
「どうした。ここなら誰も来ない。」
不適に笑うセトに、マハードはただグッと耐えた。相手を知らないとは言え前世のなまえを下卑した物言いをし、さらにはマハードをも侮辱するセトに、一体なんの謂れがあって喧嘩を売られているのかとすら思う。
「……ッ、貴殿とやりあうつもりはない。だが女性への言葉は訂正しろ。」
「ほう、随分と熱心だ。」
「私は本気だ。それ以上の侮辱は許さん!」
ギッと睨むマハードにセトは小さく笑って顔を背けた。なんと分かりやすい、扱いやすい男だろうか。そうセトは息をつく。
マハードは嘘をつけない性格だ。実直で、真面目一辺倒で、王家に従順。一見なんの面白みもない男。───王女の気紛れの恋にはピッタリな男だ。
「そこまで言えるとは余程地位の高いお方のようだ。マハード、ここまで来たら相手が誰か私に打ち明けてはくれないか。」
マハードの顔に大きな陰がかかった。途端に唇を噤み、真っ白く血の気の引いたマハードの顔を見れば、セトの鬱憤もほんの少しだけ晴らせることができる。
だが足りない。なにか決定的な打撃を与えたい。それほどまでにセトの憎悪は強大になっていた。
いっそマハードと前世のなまえの仲が壊れてしまえばいい。
「まあ私も…… 実を言うとある高貴な女性と関係を持った事がある。」
同情するような口振りにマハードの肩が少し跳ねた。それを見てセトは手にしていた松明の炎に目を向ける。これから言う事は嘘ではない。だからこそマハードへの投石になればいいと、セトは冷酷にも口を開いた。
「1年ほど前だがな。……私はまだシモン様の庇護下にあった無位の学徒だった。───王宮の書簡庫に入り浸っていたある日、宮中から抜け出して来たある女性に出会った。」
マハードへの投石という邪念を口にしているつもりだった。しかしあの鮮烈な記憶を前に、セトは次第に本心から言葉を溢す。
あの乾燥した空気、高鳴る心臓に揺らめく視界、確かに自分へ向けられた愛に満ちた瞳……
自然とセトの全身から悪意が失せていった。あの手に、あの顔に触れた感触が今でも指先に蘇る。できる事ならもう一度触れたい───!
「セト、まさかその方は……」
「前世のなまえ王女様だ。」
パキリとマハードの放うった松明が割れた。持ち木まで燃やし尽くした炎は次第に小さくなり、煙は白く伸び始めている。
セトはマハードの顔が見れなかった。
急に恐ろしくなった。マハードの秘密を知っているとは言え、セトは自尊心のために先に王女との出来事を打ち明けてしまったのだ。マハードを追い詰めたようで、自ら窮地に立ったのはセトだった。
それだけではない。今更になって罪悪感までもがセトを蝕みはじめていた。ただ一度きりの出会いで王女に執着し、自由と愛の理想だけを彼女に詰め込んでいたと気付いてしまったのだ。……しかしマハードはどうだ。幼い内から王家に仕え、セトの何倍もの長い時間を前世のなまえに捧げ、愛してきただろう。王女と愛し合う事の重大性も、マハードはセトの何倍も承知している。だからこそマハードは王家の血に絶対服従を誓い、将来前世のなまえ王女の夫となるアテム王子に仕えているのだ。
口に出してしまった言葉を拾い集めて消すことなど出来はしない。
マハードへの嫉妬のあまり、セトは本来の冷静な判断を失っていた。それに気付いたときにはもう遅い。マハードは沈黙したままセトを見ていた。
「……今のは聞かなかったことにしよう。」
セトは驚いて顔を上げたが、マハードはもう背を向けて歩き出していた。なにか言い返せるものでもなく、ただ言葉にならない息を吐き捨てると、セトはそのあとを追ってゆっくりと足を進める。
しかしマハードの心に石を投げ付けるという最初の思惑は、セトの知らないところで果たされていた。
前世のなまえからの愛の告白を受けたのは半年前。マハードは血の気の引いたままの顔を後宮へ向けることが出来なかった。愛を受け入れ、また差し出したことで、マハードに植え付けられていた新しい恐れの種はこのとき確かに芽吹いてしまった。
「(私は、───セトの代わりだったのではないか?)」
前世のなまえ王女の愛を失うという恐れは、ゆっくりとマハードを蝕みはじめていた。
元より分不相応の関係だった。アテム王子からの申し出はマハードにとって天恵であり、その信頼に応えるべくさらなる忠誠を誓った。この身が滅びるのも厭わず全てを王家に捧げようと誓った。
なにもかも前世のなまえの愛に、王女ではない1人の人間としての彼女の気持ちに応える…… その一心のために。
一枚の岩よりも堅いと信じていた足下は砂の海へと姿を変えていた。セトに浴びせられた冷や水は乾くことを知らず、足取りは重くなり続ける。
「(私はいったい何を……! 前世のなまえ様のお気持ちを疑うなど!)」
背後にセトが居るのも構わずマハードは頭を振った。邪念を振り払うようにその歩幅は早くなり、焦りや困惑を引き摺ったまま王宮への帰り道を急ぐ。
たった一本の松明に照らされるところを残して闇に体を溶かすセトが、黄金の灯りに煌く王宮へ吸い込まれていくマハードの背中を見送っていた。
***
「官位が上がるそうですね。」
人目のない早朝の水浴槽のほとりで、前世のなまえはマハードを見つけるなりその首に飛びついた。
最後に会ってから1週間が経ってしまった。その埋め合わせと言わんばかりにひとしきり恋人の体温を懐かしむと、顔を上げた前世のなまえはさっそくマハードの官位の話題を持ち出す。だがその笑顔に向けられたマハードの顔は、どこか憂いの陰を落とした色をしていた。
「……マハード?」
前世のなまえが心待ちにしていた逢瀬は理想と違う様相を呈している。向かい合って両の手を握り合っているというのに、マハードの瞳はあの情熱に輝いてなどいなかった。
マハードはこの1週間、セトが視界に入らずともずっとセトの言った事を考え、苛まれ続けた。前世のなまえと気軽に会えるわけもなく、小さな染みを彼女の笑顔で白く戻すには遅すぎた。もう前世のなまえを前にしてマハードは心から振り絞る黒い淀みを吐き出さざるを得ない。愛を誓ったからこそ、前世のなまえに心を伝えなくては───……
「いえ、なんでもありません。」
マハードは強張った口元でゆっくりと微笑んだ。その顔に前世のなまえは首を傾げ、心配したようにマハードの頬に手をやる。
「疲れているのね、可哀想に。」
再びマハードを引き寄せてその首を抱くと、マハードも前世のなまえの背に両腕を這わせて包み込んだ。前世のなまえの髪に鼻先を埋め、今にも泣きそうになる痛々しい眉間を必死に奮い立たせる。滲みそうになる視界に堪え切れず、マハードはゆっくりと目を閉じた。
不安や恐れに震えて不規則になるマハードの心音に前世のなまえは幼な子をあやすように背中をさすってやる。セトがこの王宮で、それもマハードと同じ官位に居る事など彼女はつゆほども知らない。だが彼が今極めて不安定な立場に置かれていることだけは前世のなまえにも分かっていた。
「あなたが好きよ、マハード。……どうか恐れないで、私を信じて。」
前世のなまえの言葉が真実だとマハードにも分かっている。そしてここに来て、自分の愛が“自分のためのもの”であったことに気が付かされていた。
王家への忠誠と前世のなまえ王女への愛の誓い、それは自分が前世のなまえの愛を手にして喜ぶためのものではない。全ては前世のなまえが幸せに生きるための“自己犠牲”であるべきだったのだ。
「前世のなまえ様、」
「あら、この前の威勢はどうしたの?」
「……前世のなまえ」
風が静かに水面を揺らした。2人に与えられた僅かな時間がどれだけ貴重なものかお互いに理解している。だから無駄なお喋りや挨拶など不要なのだ。ただこうして、会えない時間のために、そしていつか引き裂かれる瞬間のために…… 愛し合った互いを忘れないために抱き合うしかない。
前世のなまえが果たしてセトをどう思っていたのかなど、マハードにはどうでも良くなっていた。
例えこの目をえぐられ、内蔵を引き裂かれ、体を打ち砕かれたとしても、それが前世のなまえ王女のためならば何も躊躇うことなくこの身を差し出せる。そう誓った心にいったいどんな淀みがあったと言うのだろうか。前世のなまえ王女の愛に…… 何よりもアテム王子の赦しに贖えるなら、この血をナイルに流そうとも、この首をテーベのデシュレトに埋めようとも、この王国を護ってみせよう。
「マハード、くるしい」
余りにも強く抱きしめすぎて、前世のなまえは降参した。知らずに力を込めていたマハードが慌てて彼女を解放すると、恐れの余り頭を地に擦り付けるほど平伏す。
それを見て前世のなまえも大慌てでマハードを立たせようとするが、顔を真っ白にして目に涙すら浮かべるマハードは頑なに謝り続けた。
ぱちっと目が合ったとき、どちらともなく笑いが込み上げる。マハードはすぐに口を噤んで自分を正そうとしたが、胸に飛び込んできた前世のなまえにもうその戒めは不要だった。
笑っい合った顔が再び向き合って互いの目を覗いたとき、2人はどちらともなく目をとじる。風がやみ均衡を取り戻した水面には、確かに口付けを交わすマハードと前世のなまえの姿が映し出されていた。
マハードは真面目で、高潔で、なによりも従順な男だった。
少なくともそう評価されていた。でなければ少年期から王宮に仕え、幼い王子と友好を交える事も…むしろお会いすることすらも叶わなかっただろう。
決して有力な家の出というわけでもなかったが、マハードは魔術師としての才能と、無欲で従順であるが故に信頼を勝ち取り、この国のアテム王子の側近くに仕えた。
だからといって、それがすぐ官位に反映されるかと言えば別だった。
「ご推挙頂いたシモン様、そしてこの度私をお選び下さったファラオのご期待に応えるため、……この神官セト、誠心誠意この国に尽くして参ります。」
前世のなまえの目に映ったのは、あの乾季の空よりも青い青。あの書簡庫で煌めく砂埃、太陽神の閉ざした目、その陰に隠れた目醒め。
セトは任命にあたってたった1人、
「ファラオよ、この者は平民の出ながら抜きん出て優れた能力をもち、最年少ながら全ての試験を主席で通過した逸材でございます。ファラオのため、また王子と王女の次の治世の世まで、セトは必ずや心強い腹心になると、恐れながらこのシモン、ご推挙させて頂いた次第でございますじゃ。」
隣に立つ前世のなまえの様子が少し変わった事にアテムは気付いていた。だがアテムは前世のなまえとセトに何が合ったかなど知りもしない。静かに肘で小突いてやると、振り向いた前世のなまえにコソコソと耳打ちする。
「(どうした? 気分でも悪いのか?)」
「(ううん、大丈夫。)」
「王子、王女」
シモンの声に2人は飛び上がる。また怒られるのかと同じ色の瞳を4つも並べてシモンの方を覗き込めば、彼は老人らしい咳払いをしてから背中を伸ばす。
「新しい神官にご挨拶を。」
「あぁ。」
「……」
シモンの後ろに並ぶ5人の神官団の中で、黄金の目をフードに隠した男─── アクナディンだけがセトをずっと見ていた。その心はうち震え、ただ静かにえも言われぬ感情を噛み締めている。
この出会いがどんな運命を齎らすことになるかも知らずに、ただ今はセトのこの青い瞳に…… 前世のなまえの困惑した顔が映されるだけだった。