王女の記憶
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私はあと何度後悔したら、間違いを犯さなくなるのだろう。
あと
それでもなお誰かを愛そうとするのは、きっとその誰かのためなんかじゃない。……私は私のために誰かを愛してるんだわ。
寂しいから。母が死んだとき、私は父に失望した。父を見て、私を愛してくれる人はもうこの世界に居ないのだと知ったから。
だから私は、代わりに私を愛してくれる人を求めていた。理想を押し付けて、思い通りのものが返ってくるのを、口を開けて待っているだけ。そんなの愛なんかじゃない。
こんなの、ただの傲慢。
神の妻(3)
「前世のなまえ、これは……」
窓辺に並べられた鳥かご。だが王女が可愛がっていた小鳥は一羽も居ない。扉の全てが開け放たれたかごに近寄って見下ろせば、かごの主であったろう色とりどりの小鳥が庭の木陰を行き交っていた。
アテムは呆れたように振り返る。素知らぬ顔で長椅子に肘をつく前世のなまえは、悪びれる様子もなく足を組み直した。
「先に逃したのはアテムじゃない」
「だからって全部逃すことは……」
「どうせ庭からは出ないわ。城壁の外は鷲がいるもの」
「好きで飼ってたわけじゃないし」と呟く前世のなまえの隣に腰掛けると、アテムも足を組んで肘をつく。
「父上から賜わったんじゃなかったのか」
「……」
唇を噤む前世のなまえを横目に、ぼんやりと窓辺から外を眺めた。夏の盛りを過ぎたと言えど日中の暑さは言わずもがな、石床には陽炎が揺らめき、召使いは王子と王女に付きっきりで、汗を流しながら団扇を煽いでいる。
『なぜ父上に会えないの』
足首が覗くほど握り締められたドレスの裾は、紫色に染まっていた。召替えすらせず、ただ王宮の一室に留め置かれた王女の心情は察するに余るが、セトはいくら王女と言えど今は逆らわざるをえない。
『
『なぜアテムにはお会いして、私はダメなの』
『王女、どうか気をお静めください。幸い
ずっと扉の前でこんな問答を続けている。
セトに詰め寄ったところで何にもならない事くらい、前世のなまえにも分かっていた。しかしシモンもアクナディンも、兄アテムにすら会えない状態では、伝令役になっているセト以外に苛立ちをぶつけられる相手はいない。
『(また、アテム。……アテム、アテム! 私の事など一度もお考えくださらない。今だって……!)』
呪いにも似た言葉が舌を転がりそうになるたびに、前世のなまえは必死に飲み込んできた。やり切れない、ひどく寂しい気持ちが前世のなまえの膝を折る。
どんな形であれ目の前で膝をついた前世のなまえに、セトも慌てて跪いた。
『前世のなまえ様、さぁ、せめて椅子に…… 私がお連れします』
『……』
差し出された手をチラリと見はしたものの、前世のなまえがその手を重ねることはない。蹌踉めきながら立ち上がると、ノロノロとした足取りで部屋のテーブルに手をつき、椅子へと腰を下ろす。
人間らしい振る舞いをして、困惑するのは女官や召使いたち。どんな事があろうと平然としていなければ、王家の者として下の者に示しがつかない。
『(そうか。私がいつまでも人間でいるから、父王は私を愛して下さらないんだわ。……人間でもない、神でもない、何もかも不完全で醜いから)』
王が倒れたと聞いて駆けつけても、アクナムカノン王は頑なに前世のなまえにだけは会わなかった。あれからもうひと月が過ぎようとしている。謁見や儀式はアテムが代わり、アクナムカノン王は床に伏せったまま。
元からそんなに言葉を交わす人ではなかった。毎日の謁見に同席して、そこで横顔を少し見る程度。しかしそうであっても、病に伏せっているのを見舞うくらい許してほしかった。
たとえ愛していなかったのだとしても。
「前世のなまえ?」
顔を上げればアテムが真っ直ぐにこちらを見ていた。
困らせてばかりだ。きっと今だって、父と妹の板挟みにされて疲れているはずなのに、アテムは父の部屋へ行った時間と同じくらい前世のなまえの部屋を訪れるようにしてくれている。
それが嬉しくて、少し辛かった。
「そういえば、マナは隣の部屋? たまにはお話ししたいわ」
話題を変えようと前世のなまえは組んでいた足を下ろし、居住まいを正した。プライベートな時間は、本当に少人数の召使いを残して側に仕える者は大体隣の部屋に控えさせる。セトやマナも例外ではない。
水差しの横に控えていた女が「お呼び致しましょうか」と声を掛けるが、アテムはそれを手で遮った。
「マナはいま別の用事で出ている。今日の護官は、最近オレの部屋に出仕を始めたシャダという男だ」
「そう、……」
視界の端で水差し係の召使いが頭を下げて少し退る。顔に垂れる汗を指の背で拭い、ため息を漏らした。
「……前世のなまえ、その、……言い難いんだが、」
ぱち、と目が合うとアテムはそこで言葉を詰まらせ、顔を逸らした。それだけで“言い難いこと”の内容が自分に関するものだと分かる。父上か、私たちの結婚か、もしくは、マハードのこと。
「セトをどう思う」
「は?」
予想して構えていたことの何にでも無かった問いかけに肩透かしを喰らい、ただ開けた口を閉じるしかできない。それでも真剣な眼差しのアテムに、前世のなまえは一度口を噤んで、その目に真意を探った。
「どうしてセトが出てくるの?」
「……」
押し黙るアテムに、思い当たる事はただひとつ。
「アクナディンから何か言われたのね?」
「は?」
「……え?」
さらに予想外の反応を得て、今度こそ思考が停止した。アテムもアクナディンの名前が出て来るとは思っていなかったようで、急に深刻そうな顔で顎に手をやって考え始める。
「……この話しは、今はやめよう」
「な、……わかったわ」
なんで、そう言い掛けたところでアテムの視線が周りを取り囲む召使い達にスッと流れた。2人きりで話す必要がある、そういう意味だ。
「今夜また来る」
「え、ええ……」
アテムは早々に立ち上がってマントを翻した。前世のなまえも立ち上がって部屋を後にするアテムを見送る。その中で、出入口の向こうで隣室から出てアテムについて行く神官達の流れに逆らい、ひとり部屋に戻ってきた男にすぐ目を向けた。
「前世のなまえ様、王子とのご歓談はもう宜しいのですか? いつもより、些か短かったようですが」
頭を下げられてもまだ見上げる必要のあるセトの顔。アテムが何を言いたかったのか、その答えが当のセトの顔に書いてあるわけもなし、しかしただジッと見つめてしまう前世のなまえに、セトが首を傾げる。
「前世のなまえ様?」
「……いいえ、アテムも忙しいのでしょう。今夜またいらっしゃるそうです。支度をさせておきなさい」
「は、」
「マハード」
声を掛けてすぐ、マハードは振り返るなり跪いた。
「王子が後宮にいらっしゃっていると聞き及び、ここでお待ちしておりました」
「そうか」
後宮と王宮を繋ぐ唯一の柱廊の、それも王宮側の端も端。そんな場所で待ち構えるあたりがマハードらしいとアテムはため息をつく。
あれ以来、マハードは一歩たりとも後宮へ足を踏み入れることはなかった。それが彼なりのけじめであり、元来の生真面目さの現れだと、共に育った友として、アテムには分かっている。
「オレに何か用か?」
「……」
唇を噤んで少し悩んだあと、意を決してからマハードは顔を上げた。その顔にアテムは少し目を細め、背後につくシャダや召使い達に目配せをして退がらせる。
「ご配慮痛み入ります」
「それで、要件は何だ」
以前より随分と増えた取り巻きから解放されて、アテムはやっと気を許したように腰に手をついて体を楽にした。
前世のなまえとマハードにイザコザがあったとは言え、マハードはアテムにとっても幼い頃を共にした数少ない心許せる相手に変わりはなかった。マハードの性格を鑑みるに、今のところは現状を不問にしている。
マハードもそれを有り難く受け止め、殊更真摯に仕えていた。一度出来てしまった腫れ物の扱いという点で、共に育ってきたアテムとマハードの関係あってこそ、ダメージコントロールの呼吸が合っているのかもしれない。
「斯様な時にマナへ暇を出して頂き、王子には何とお礼を申すべきか。お陰様で、とても助かっております」
深く
「お前“たち”も大変な時だ。気にするな。……それで、いつごろ産まれるんだ?」
「……、はい、あと
「そうか」
やはりどこか後ろめたそうに答えるマハードの伏せられた目に、アテムは後宮の方へ顔を上げた。ここから歩いても10分と掛からず、前世のなまえの居る場所へ行く事ができる。たったその10分の歩みすら、もうマハードと前世のなまえに砂漠を越えるよりも遠い。
誰も恨む事はできない。自分よりも父王に権力があった。それだけだ。
「マハード、もう過ぎたことだ。オレやアイツに申し訳ないと思うのはやめてくれ」
「……!」
小さく揺らいだ肩に手を差し伸べて、アテムは軽く叩いた。
「お前には父親という役目がある。妻を娶り子が生まれるのを、オレや王女に恥じるのが父親の姿なのか? 前世のなまえと再会する時が来ても、胸を張って妻と子を連れて立つんだ。お前を男として認め、愛したことを、前世のなまえに後悔させるな」
「王子……」
フッと笑うアテムの顔に、前世のなまえの面影が重なる。
「子が生まれ、大きくなったら、昔のお前のように
マハードの返事を待たずして、アテムはスッと背を伸ばすなり離れて待っていたシャダに向き直って去って行った。その背中に深々と平伏し、王宮へと吸い込まれていくアテムやそれに続く召使い達の足を視界の端に見届ける。
人の気配が過ぎ去ってようやく顔を上げたマハードは、意を決したように後宮を見上げた。
前世のなまえを思って後宮を見上げるのは、これが最後。
「(人の世にこの肉体ある限り、私は務めを果たさねばなりません。しかし次に貴女へお仕いするとき、……その時こそ、私は命を賭して貴女と王子をお護りします。貴女を敬愛するひとりの神官として)」
「
部屋を出たところで待ち構えていたのはシモンだった。アクナディンは召使いに王の寝室を仕切る布を降ろさせると、伏せた顔を横に振る。
「日に日に弱っておられる。このままでは夏の終わりを迎えるのは難しい」
「なんと……」
それきり言葉を失い、シモンは青い顔で仕切り布の向こうを見た。僅かに透けて見える、寝台の上で横たわるアクナムカノン王の影だけが、シモンの心を不安に色付ける。
「先王、王太后、そして2人の王妃と、……これまで神官として王墓の門戸を封印してきた。だが今回ばかりは、その役目を負いたいとは思えぬ」
「アクナディン殿……」
「シモンよ、今は
「うむ。頼みましたぞ、アクナディン殿」
───この男は、完全に私を信頼している。
目を細めたアクナディンの真意など、いったい誰が知ろう。シモンはそのまま軽く会釈をして背を向けた。
年老いて、小さくなった背中を見送るたびに、アクナディンは昔を思い出す。シモンもまた、少年期より
……信頼していた友はみな、あの忌まわしい儀式で死んでいった。
アクナムカノン王がエジプトの地を統一してからというもの、アクナディンの目から見た王宮はまさに平和を享受し、堕落していた。
王子も王女も戦争を知らず、国境へ向かう遠征軍の背中を見送る事しかしない。民は平和をもたらした王家にただただ平伏すばかりで、王家への反対勢力も乏しい。
王座争いに名乗り出る者がアクナディンの犠牲によって摘まれたという事実を、セトという己の息子、己の分身───本当の血統すら知らずに、アテムは与えられるがまま次の
与えられる事しか知らないアクナムカノン王の2人の子ども。必ずや何もかもを奪い、セトに与えようと、……逆境を跳ね除け、王宮に上がった息子の姿を見たとき、アクナディンは固く心に誓った。
セトからあるべき未来を奪った父として、そして、与えるべきものを与えられなかった親として。
「アクナディン様」
呼び掛けられた声に、跪く召使いのひとりに振り返ると、アクナディンは僅かに首を動かしてあたりを見回した。誰の目もない事を確認すると、静かに頷く。
水瓶と黄金の杯を持ったその者をアクナムカノン王の寝室へ入れ、アクナディンは暫し入口を見張るようにその場で佇んだ。さして時間も掛けずその召使いが部屋から出てくれば、その手には同じ水瓶と、銀の杯が握られている。
「早く行くのだ」
男は頭を下げて、そそくさとその場をあとにした。
これから少しずつ、王子と王女から全てを奪う。どんな事をしようと、例え自らの兄を手に掛けることになろうとも。セトのために、アクナディンはもう悪魔に魂を売ったのだから。
「(セトが一番最初に奪われたもの、───それを全ての始まりにしてくれようぞ。アテム、そして前世のなまえ。アクナムカノン王の子に生まれた事を恨むがいい)」
「セト様、
前世のなまえが沐浴に部屋を出ると、部屋の召使い達がセトに跪く。言葉の意味を理解出来ず眉をひそめたが、すぐに気が付いてセトは一瞬だけ目を泳がせた。
「お、王女と王子はまだご兄妹の身! 下劣なことを……!」
「し、失礼致しました! どうかお許しを!」
烈火の如く怒りを露わにしたセトに、召使い達が平伏して震えながら床に頭を擦り付けた。やり場のない感情に息を吐くと、セトは乱暴にマントを振り払って部屋を出て行く。
怪訝そうに顔を上げて見合う召使い達が、その背中を見送った。
「(アテム王子が、夜……王女の部屋に)」
召使い達に言われて初めて胸に悶々としたものを抱えた。前世のなまえの部屋からバルコニーへ出ると、泉の真ん中で髪に指を絡める王女の姿が見える。
初めてお会いしたときから王女は随分と成長した。その背丈や体付きに見合うだけの内面の成長までをも間近く眺める事ができたのには、ただ天命に感謝するほかない。……だがこのまま王家に仕えていれば、彼女が本当の意味で大人になるまで眺めることとなるだろう。
「(アクナディン様…… 私は、───)」
太陽の光に照らされて輝く、泉の中の前世のなまえに目を細める。
セトはこれまで彼女に囚われていた。だがそれは王女1人に集約できるものではない。……アナトと名乗った女と、王女である前世のなまえ。
王女の側にあって、セトは薄々感じていた。女神と同じ名を名乗った女、それこそ運命をも予感させる神話のような出会い。……自分が愛していたのはその思い出の中の彼女であって、目の前の王女ではないのかもしれないと。
王女の唇に触れてあの思い出を手離したいま、精算しきれなかった蟠りだけが残る。自分の心を真に捕らえているもの─── 女官達に囲まれて退室を急かされた、王女のあの目。神の化身と信じていた
「(私は、王女を本当に愛していると言えるのか?)」
たとえば捕われた小鳥を空に返したいと思う心と何が違う?
───『貴様もいずれ摂理に逆らえず、私と同じ苦しみを味わうだろう。心から愛する女に出会えたとしても、この世でその人と結ばれるとは限らない絶望をな。人の世から望まれる限り、人は役目を果たさなくてはならない。そうするしか、本当の意味で誰かをお護りする事さえできないのだ』
セトは鼻で笑う。恵まれた環境に於いても努力を怠らない性格や、自分にないものを持っているという点において、セトはマハードを尊敬していた。自分とは正反対の男だが、その信念の根底にあるものは同じだと感じ、また妬っかんでもいた。
しかしやはり最後は、根底を同じくしても、見上げて腕を伸ばす方向は結局正反対だったというわけだ。
「(マハードは王女を愛するが故に王家に服従し、王女を裏切った。……私はどうする?)」
なぜ己にそんな事を問いかける。心は、決まっていたのではないのか?
「なにをずっと見ているの」
ぼんやりとしすぎていたのか、気が付けばワナワナと震える前世のなまえがセトの前に立っていた。ドレスからは水が滴り、泉から一直線に歩いた跡が伸びる。
「……ッ、前世のなまえ様、」
サッと跪いて見上げれば、体に張り付いたドレス越しに前世のなまえの肉体の隅々までが透けて見えた。王女の目から視線を下に向けてしまったところで、前世のなまえの膝が僅かに内股へ折られる。
「すけべ」
「は?」
一瞬のことで顔を見ることは出来なかった。予想外の罵りに固まったセトの言い訳も待たず、前世のなまえは元来た水の跡をズカズカと戻って泉に入っていく。
振り向き様に前世のなまえの首や耳の端が赤く染まっていたのは、日焼けのせいだけだろうか。
ホケッと口を開けたままその背中を見送る。太陽に焼けた石床に跪いた膝が痛い。泉の中で待たされていた女官たちが王女と何か話しているのを遠目に見ながら、セトは頭を整理した。
ごく薄いドレス越しに高貴な肌を見せるのは、王家や身分の高い者にとってはありふれた普通のこと。しかし前世のなまえは髪を片側に下ろし、もう片方の乳房も少し腕で隠すようにしていた。
「(恥ずかし、がった? 前世のなまえ様が?)」
女官に頼める伝言でもないから自ら赴いたのだろうが、それにしても「スケベ」は言い過ぎじゃないかと顔を顰めた。第一、普段から裸に近い姿を見てきたセトには、前世のなまえがなぜ突然そんな事を言い出すのか見当もつかない。
それでも「あんまり見ないで」という意味合いであった事は間違い無いだろう。セトは王女が振り返る前に、不可解に傾げられた頭をもたげたまま足早に部屋へと戻っていった。
振り返ると、ちょうどセトのマントが部屋へと吸い込まれていくのが目に入った。大きく息をついて、前世のなまえはやっと水の中でドレスを剥ぎ取る。
肌を見せることに抵抗を感じた事などなかった。今も女官だけでなく、泉の周りには男の召使だっている。セトにも今まで何度も沐浴や着替を見せてきた。
それがなぜ、今になってこんなにもセトの目を気にしてしまうというのか、自分でも…… いいえ、分かっている。分からないフリをしているだけ。
「王女様?」
「……、なんでもないわ」
あまりにもため息の数が多かったのだろう。王女のご機嫌を伺う女官たちの顔から目を逸らし、いつものようにされるがままに体や髪を洗われる。
……あれは、本当に夢だったのだろうか。記憶が曖昧で、ただぼんやりとセトの鼓動だけが頬に残るのみ。たったそれだけで“新しい男”に目移りするのは、きっと、砕けた心を元に戻そうと必死にもがいているから。
夢だったとしたら、さっきはちょっと言い過ぎたかもしれない。
「(あとで謝らなきゃ)」
───なんで王女の私がセトに許しを乞うの?
またハッとして頭を横に振る。何かがおかしい。前世のなまえの挙動に女官たちも顔を見合って、心配そうにまた前世のなまえの顔を覗き込んだ。
「今日のお勤めはいかがでしたか?」
家に戻るなりアイシスはマハードの肩当てからマントを引き抜いて畳もうとする。それをマハードがアイシスの手から取り上げてテーブルに放ると、そのまま肩を抱いて側にあった椅子へと誘導した。
「私がやるから、座っていなさい」
「ま。ふふ、」
お腹を大きくしたアイシスは王宮での勤めから一時休暇を与えられている。……アクナムカノン王が病に伏せっていることは、王宮内だけの秘密。もちろんアイシスも知らない。
なにより、大事な時期に心を痛めるようなことを伝えたくはなかった。もちろん王子に仕えるマナや、千年タウクの所持者であるアイシスの叔母は知っているが、3人は結託して口を閉ざしていた。
「マナはどうした?」
「ちょうどマハードと入れ違いに。叔母様も毎日、神殿の支度や浄化の儀式をして下さっています」
不安の影に目を伏せたアイシスにマハードは敏感に反応し、跪いてアイシスの手をとる。
「案じるな、叔母上やマナが付いている。私も肉体が神殿の外にあっても、無事を祈る魂はアイシスと共にある」
「マハード……」
アイシスが握り返した手を、マハードは両手で包み、撫でた。どんな身分であれ、またどんな女であれ、産褥には死が付き纏う。母親になること、大人になることについていくら覚悟を決めたところで、その影に怯えてしまうのは人間の本質なのかもしれない。だけど、……
「ありがとう、マハード。ですが、
女として、妻として、夫や子供のためならば
そう思い浮かんだ言葉を、アイシスは口にしなかった。もし言ってしまったら、自分も、そしてマハードも、王家に命を捧げる神官としての役目に迷いを持ってしまうかもしれない。
神官とは神に仕える人間のこと。その神官が仕える王家こそが神である。神を前にして、妻も夫もないのだ。永く王家に仕えてきた一族だからこそ、アイシスは血の一滴に至るまで従順を課してきた。その永く受け継がれてきた一族の意志に従い、共に歩んでくれる夫がいる。
だから、そんな言葉を伝えられようはずもない。
「さぁ、お食事に致しましょう」
にっこりと微笑めば、マハードもやっと笑い返した。その顔のどこに、「この人を選んで良かった」という言葉を否定できるものがあるというのか。
あなたを選んで良かった。どうか自分もそう思われていてほしいと、アイシスは願った。
仕切り布で覆われた部屋の中、さらに天蓋のリネンに覆われた寝台。アテムの顔を見るのは僅かな灯火だけが頼りだというのに、自分と同じ色をしたふたつの瞳だけは、太陽に照らされたように煌めいている。
「変な気をつかわれたようだな」
「……」
寝台の上で向き合って座っているだけ。「夜、アテムが部屋に来る」と言っただけで、こんな有様。すこし気不味そうにする前世のなまえを横目に、アテムは普段人目のある場では見せない顔で寛ぎ出す。
「まあ気にするな。これなら誰もオレたちの会話を聞いたりはしない」
そう言って寝台に寝転んで体を伸ばしあくびをひとつしたあと、横向きになって肘をついた。前世のなまえもその横にモソモソと這い寄り、うつ伏せになって肘をつき、アテムの顔を覗き込んだ。
「それで、アクナディンからなんと言われたんだ」
アテムの中で前置きは終了したらしい。いきなり本題に入られて前世のなまえは目を細めたが、べつに隠すようなことでもないと素直に口を開いた。
「セトが王の側近になれるよう、アテムに進言してほしいと言われたのよ。断ったけどね。……でも、私は別に、セト自身の後ろ盾になること自体は構わないと思ってる。私の部屋に仕えている神官なのに、平民出身というだけで肩身の狭い思いをさせられるなんておかしいわ」
「そうだな。……マハードもセトも、父上に仕えるシモンやアクナディンのように、いずれはオレの側で力を発揮してくれるだろう。だが最初の数歩は、より親しんだ方に頼っても仕方がないと思っている。確かにマハードは幼い頃から一緒に育った。きっと、時を過ごせばオレもマハードと同じくらいセトを信頼してやれると思っている。お前が信頼している男だからな」
しかし言葉とは裏腹に、アテムは少し目を伏せてなにか考え込むような仕草を見せた。
「だが、実は父上から……セトではなくマハードを重用するように言われたんだ。セトに、なるべく実権を与えないようにとな」
「───え、」
深く、ゆっくりとした瞬きを一度してから、前世のなまえの目が見開かれた。沈黙に焚かれた香の煙が緩やかに伸びるが、それはすぐに揺らいで掻き消える。
「どうして父上がそんなこと、……父上は、わ、……私の部屋の、神官の務めを、見たことがないだけじゃない」
体を起こして唇を震わせる前世のなまえに、アテムも体を起こして腕を撫でやり、窘めた。
「落ち着け、きっと父上にもなにか考えがあるんだ」
「……マハードが、父上の言うことを聞いて結婚までしたから、……だから信頼なさったのね」
「父上はお前とマハードの事を知らない。……それに、マハードの事も考えてやれ」
「……」
前世のなまえは大人しく、もう一度シーツの海に伏した。それを見てアテムも髪を掻き上げて撫でてやる。
「……正直に言うと、父上は、……長くない。そう遠くない未来、オレたちは父に代わってこの国の上に立つことになる。だがそれを恐れているんじゃない。オレは、……父を、亡くしてしまう事の方が、怖いんだ」
「……」
アテムの顔が見れなかった。……自分の顔を見られたくなかったから。
私は父の死を恐れているだろうか。母を失ったときのように、大きな喪失を感じるだろうか。私には分からなかった。それだけ、私とアテムは父から受け取った愛情の大きさが違っている。
羨ましい、そう思った。
前世のなまえがなにを考えているのか、アテムにも感じられていた。髪を指で梳くまま毛先まで解いたあと、また手を前世のなまえの頭にやって撫でる。
「父上は、ずっとお前のことを愛している。姿を見るのが辛いほどにな。前世のなまえ、人の愛は色々な形があるんだ。目に見える行動だけが答えじゃない」
「……そんなの、私には、……難しいわ」
きゅ、と握られたシーツにシワが走る。アテムは息を吐きながら起き上がると、寝台の端に畳まれた掛け布を広げて前世のなまえにも被せながら寝転んだ。
頭の先まで布に包まれた前世のなまえが、水面から顔を出すように這い出てくる。ムッと唇を曲げたその顔に笑いかけて腕を伸ばしてやれば、前世のなまえもやっと眉の端を下げて仰向けに寝転がり、アテムの肩のあたりに頭を預けた。
とくとくとテンポの良い鼓動が頬を優しく叩き、重くなるまぶたに呼吸も深くなる。
この音が好き。間近く体を寄せて、肌に触れ合わなければ聞くことができない音。この世で、そう何人もの人とは共有できない音。前世のなまえにとって、それはどんな黄金や宝石よりも貴重なものだった。
ふと、寝台を包む
手を伸ばして灯火の皿を取り上げると、前世のなまえの中に浮かんでいた、あのリネン越しに見たセトの影と共に、アテムは息を吹きかけて明かりを消した。
「私は罪を犯した───」
長い長い夏、それももうすぐ終わろうとしていた。頬は痩け、目蓋の深く窪んだ顔を覆う髭は灰色に色褪せ、ぼんやりと寝台を覆う天蓋を眺める瞳から、太陽は沈もうとしている。
「子は生まれたか、マハード」
ゆっくりと溢れそうな眼球を横に向け、アクナムカノン王は寝台の横から身を乗り出しすマハードを見た。マハードは少しだけ躊躇ったあと、一度だけ首を横に振る。
「妻がベスの神殿に入って5日になりますが、まだ報せは届いておりません」
「そうか…… 私も、二度、お前のように子が生まれるのを……外で待っていた。アテムは7日、前世のなまえは20日も待たされた。……この不安な時間を苦しんで、やっと、夫は父親になれる」
「……はい」
子供たちの名前を口にしたアクナムカノン王の目が僅かに揺らめくのを、マハードは確かに見た。
「子を持ったお前なら、……分かるだろう。私の、王位を継ぐ子供たち……だがこの王家の犯した罪まで、あの2人に負わせたくはない。頼むマハード、……あの2人を守ってやってくれ」
「は、……必ず」
アクナムカノン王はマハードのその答えに目を細めた。だがマハードにはその真意を探りようがない。
「……王子を呼んでくれ、マハード」
涼しい風の吹き込む窓辺から、前世のなまえは遠くに見えるナイル川を眺めていた。水量が増え、川幅の広がるこの時期しか、部屋からナイルの水面を眺める事はできない。あれが太陽に照らされているナイルの水面なのか、それとも砂漠の果てに浮かぶ蜃気楼なのかは、この際どうだっていよかった。
ふと、突然大きな影がかかり窓辺は真っ暗になった。見上げた先に黒い雲がかかり、前世のなまえの髪を吸い込むような生温い風が背中を撫でる。
なぜか、無性に嫌な予感がした。
「王女様?!」
なぜ私は走り出したのだろう。なぜ、どうして震えているの。
前世のなまえは引き寄せられるように後宮の柱廊を走った。太陽の陰った暗い中を、ただ意味もわからず駆け抜ける。呼び止める女官の声も、驚いて振り返る臣下達が平伏すのも目に入らない。
震えているのはあとで怒られるのが怖いからじゃない。息が上がっているのは、走っているからじゃない。
「キャッ、───!」
曲がり角で誰かとぶつかり、前世のなまえはその誰かから腕を引かれて倒れずに済んだ。その腕が誰か、前世のなまえには顔を見なくても分かる。何度も触れたのだから───
「お、王女様、……!」
「───! マハード」
大きく震える息を吸ったところで、互いにハッとして体を離す。だがあの頃のように、体を離した理由が、考えていることが重なる事はなかった。
「マハード、父上はどこ?!」
「───、あ……」
青ざめたマハードの顔に、前世のなまえは自分の本能が正しかったと悟った。なにも言葉を発することなく、前世のなまえはマハードを走り去る。
そのあとを追って走ってきたセトがマハードを見つけたが、ほんの僅かに足を止めただけで、挨拶すらしないでセトもマハードを横切った。
前世のなまえの荒い息だけが石の壁に木霊していた。アクナムカノン王の寝室の前で、青ざめたシモンが茫然と肩で息をする王女を見つめる。アクナディンも顔を伏せ、前世のなまえを見ようとはしない。
「父に会わせて」
石壁に木霊する息と足音が前世のなまえの背中に迫った。振り向かずとも、部屋から飛び出した王女を追いかけてきたセトだと分かる。
「シモン様、アクナディン様……申し訳ございません」
「よい、」
アクナディンが視界の端で首を振る。だが前世のなまえは少したりともシモンから目を離さなかった。
「会わせなさい」
娘ではなく、王女として毅然と命じた。それをシモンも感じ取ったのか、召使に頷いて仕切り布を上げさせる。
前世のなまえは震える足で、寝室へと踏み入れた。
セトが如何すべきかとシモンやアクナディンを見やるが、2人とも静かに首を横に振るだけだった。
静かだった。あんなに心が騒めいていたのに、いまはただ鏡のような水面のごとく、何もかもが静かだった。
王が伏せっているというのに召使いひとり寝台についていない。明かりひとつ付けられず、雲の厚いベールに覆われた太陽の僅かな明かりだけが窓辺に差すだけ。
「父上」
寝台の横に立ち、父の顔を覗く。これが父親なのだろうか。こんなに痩せ、窪んだ目蓋をした老人が? しかし血のつながりからか、これが父親なのだと心ではわかっていた。
「……おぉ、迎えに来たのか」
「え、」
見たことのない微笑みを浮かべ、アクナムカノン王は前世のなまえの頬を探すように手を伸ばす。
拒みもせず、前世のなまえはただ父の望むままに、随分と骨張って荒れた指が自分の頬を撫でるのを見ていた。
「お前は美しいままだ……
ぼろりと、自分の眼球が落ちたのかと思うほど大きな滴がひとつだけ、自分の意思と関係なく転がる。たったひとつ、決して前世のなまえの流したものではない。……それは前世のなまえの中にある、自分の母親が流したもの。
ゆっくりとアクナムカノン王の腕を伝い、服に染みて消えた。
「案じるな、私たちの前世のなまえも、お前によく似て美しく育った。……あの娘を見るたび、私はお前を思い出す。王妃よ、前世のなまえに……お前と同じ道を歩ませたことを、どうか私を許してくれ」
なにも言葉を返すことが、ちいさな吐息すら溢すことができなかった。ただ茫然と、細めた目でじっとこちらを見つめる父親の姿に、前世のなまえはどうすることもでず、ただ静かに言葉を聞く。
「お前は、国のため私と結婚してくれた。他国の王女を迎えた時も、王子が産まれた時も、私はお前を苦しめることしかできなかった……それでもお前は、前世のなまえを産んでくれた。その大切な王女を苦しめまいと、私は前世のなまえを遠避け続けてしまった…… お前が生きていたなら、愚かだったと、私を咎めてくれたか?」
前世のなまえは、やっと震える手を父の手に重ねた。父の手など、いったい何年振りに触れただろうか。その場に崩れ落ち、寝台に体をもたれさせる。そこへアクナムカノン王の目が前世のなまえから外され、僥倖にも似た色で見上げられた。
「お前も来てくれたか、
その言葉に振り返ると同時に、温かい手が前世のなまえの肩を抱く。知らぬ間にアテムも部屋に着き、前世のなまえの横に立っていた。
「祖国を、お前の王家を滅ぼした私を、お前は赦し、愛してくれた……アテムもお前と同じ、優しい心を持って生まれてくれた。この国に、お前たちの血を残せたことが、私の救いだ─── さあ、子供達が呼ばれる前に、私を
厚い雲に覆われ、人知れず太陽が沈む。
私はあと何度後悔したら、間違いを犯さなくなるのだろう。あと何人愛して、何人喪い、何人裏切るだろう。
母が死んだとき、私は父に失望した。父を見て、私を愛してくれる人はもうこの世界に居ないのだと思った。なぜ今になって、父を失って初めて、父が私を愛していたと知ってしまったのか。
前世のなまえは立ち上がると、アテムに向き合ってその場に跪いた。
「
その声にシモンやアクナディン、そしてセトまでもが部屋に飛び込んできた。アテムに深く平伏し、衣の裾に口付けをする王女を目にし、シモンはその場に崩れ落ちる。
増水期第3月目の14日。ここにエジプトの統一を果たしたアクナムカノン王は、この日太陽と共に
アクナムカノン王の葬祭に70日、埋葬の儀式に30日。王位継承のためのアテムの浄めの儀式が終われば、婚礼が始まり、アテムは正式に立王する。
そして太陽も月も、
神の不在のこの瞬間、この予言をいったい誰が耳にしただろうか。
私はあなたに寄り添う
どうかあなたの治世に、幸福がありますように。