2021




今でもたまに考えてしまう。
あの日、ぼくが窓を開けなかったら…って。

窓を開けなかったら。きみを匿わなかったら。通報していたら。

その時には気付かなかったけれど、全ての選択がこの幸せな未来に続いていたんだ。







―2021年9月7日―



「8年前のあのとき、きみは女の子みたいだったのに」
「のに、とは何だ、紫苑」
「今じゃぼくよりも背が高い」



ちいさくむくれて見せる紫苑に、ネズミは苦笑を漏らす。



「あんたが部屋に籠ってばかりだからだろう。おれと違って」
「そんなことないはずなんだけどなあ…」



ゆれる小さなランプの光の中。
ふたりは、懐かしい地下室にいた。

外は、いつかと同じような嵐だった。



「冬だと大変だよね」
「だから、春になったらって前から言ってるだろ」
「ぼくは春まで待てない」
「我慢しろよ、それくらい。すぐなんだから」



ワインを片手に肩を寄せ合い、淡い光の中に溶け込むシルエット。
ゆっくりとふたりの間に流れる時間はとても穏やかで、あたたかくて。
過去にこの辺りで起きた惨劇の面影は微塵もない。



「二十歳だよ、ぼく。早いと思わないか」
「あんたが二十歳なら、おれも二十歳だ」
「そうだね」
「よく、生きてこられたな。あんたも、おれも」
「…うん」



目の前に置かれたボトルはもうすぐ空になりそうだ。
4年前のいつか、同じ場所でワインを空けたとき、紫苑はボトル半分で泥酔だったのに。
多少は酒に強くなったのか、まだ意識もはっきりしているようだ。



「あー…ちょっと、酔ってきた」
「飲みすぎるなよ。潰れたあんたを、ここからあんたの家まで運ぶなんて嫌だ」
「だいじょうぶ」



チチッ、と3匹の子ネズミたちが鳴く。
ふとした瞬間に、まるで昔に戻ったような錯覚に陥る。

とても幸せだ。今も、昔も。

きっと、これからも。

まだ見えぬ未来を少しだけ想像して、紫苑は小さく笑った。



「幸せだ、とても」



ネズミの肩に頭を預ける紫苑。
もたれかかってきた白い髪に手を埋めた。
相変わらず触り心地が良い紫苑の白髪がお気に入りなのも、昔と変わらない。
こうしている時間が幸せだという紫苑の気持ちが、よく分かった。



「この部屋、よく見るとけっこう埃が積もってるな。掃除しなくちゃいけないね」
「まあ、4年も放置してたらこうなるだろ」



ネズミは、ボトルに残っていたワインをそのまま口に含み、紫苑の顔をこちらに向かせた。



「…ん、っ」



そのまま口づければ、芳醇なワインがお互いの咥内を行き来して。



「……早く、春になればいいのに」
「あっという間さ。それまであんたの家に世話になるのは申し訳ないけれど」
「今からでもここに引っ越せそうなのに。家具もそのまま残ってるし」
「今日は泊まるだろ?」
「もちろん。あ、でもベッドは少し掃除する必要があるな」
「ああ、確かに」



春になったらあの場所で暮らそう。あの、地下室で。――…ふたりで。

そう告げたのは、どちらだったっけ。



「紫苑」
「ん?」



やわらかな白髪に絡めていた指をほどき、ネズミが立ち上がる。



「こちらへどうぞ、陛下」
「ふふ、どうしたの急に?」



紫苑は、差し出された手をとった。
ネズミはその手を引き、部屋の外へと連れ出す。
吹き荒れる風が地下室へ続く道を駆けて、時折、ひゅうと鳴った。



「どこへ行くの、ネズミ?外は嵐だ」
「だいじょうぶ。ほら紫苑、叫んで。あの日みたいに」
「あはは、なにそれ。いいよ、叫ぶよ。きみを呼ぶために」



強い雨粒が身体に打ち付ける。
あっという間にびしょ濡れになってしまった。
そして、紫苑は叫んだ。
あの日のように、精一杯。
何か、得体のしれない衝動に突き動かされて。
その大声も、風の声に打ち消される。



「紫苑」



突然、ネズミが後ろから紫苑を抱きしめた。



「おれ、本当にあんたに感謝してる。あんたがあの時窓を開けてくれなかったら、通報していたら、おれは…おれは、死んでいた。確実に。あんたのおかげで、おれは今、あんたの傍にいられる」
「それは、こちらこそだ。あのとき、きみを助けていなければ……もちろん大変なこともたくさんだったけど、なにより、こんなに幸せな日が来ると思わなかった。きみが生き延びてくれて、本当によかった」



地面を打つ雨音と吹きつける風の音の中でも、不思議と互いの声はしっかり聞こえた。

紫苑はネズミの腕の中で体をよじり、彼を正面から抱きしめる。
そのまま見上げた深い灰色の瞳はふちが赤く潤んでいて、彼の頬を濡らすのは雨粒だけでないと知る。



「きみと春からここで暮らせるなんて、夢みたいだ」
「ああ。早く春になればいいのにな」



まだ9月だというのに、ぼくたちは遠い春の話をしている。
そんな平穏な日々が来るなんて、かつてのぼくらには想像すらできなかった。



「…そろそろ入ろう、ネズミ」
「ああ。さすがに冷えるな、風呂に入りたい」



外から戻った地下室の暖かさに春のぬくもりを重ね、ぼくたちはまた春に思いを馳せた。





End.
→あとがき
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