雨の日のお楽しみ。



梅雨入り宣言がなされた次の日。
朝起きたとき、髪の毛のうねりに雨の気配を感じた。






「いってきます母さん」
「あ、紫苑、今日は雨が降るらしいから、ちゃんと傘を持っていきなさいよ」
「だいじょうぶ!」



せっかく雨が降るのに、傘を持っていくわけがないじゃないか。
こんな日は絶好の――デート日和なのだから。








「ねえ紫苑、今日一緒に帰らない?」
「あー…ごめん沙布、今日はちょっと…用事があって」
「それなら、その用事に付き合うわ。あなた今日、傘持ってないでしょう」
「大丈夫だよ、遅くなっちゃうし。ありがとう」



教室の窓を叩く雨音。
午後から降り出した雨は徐々に強さを増し、風にあおられた雨粒は斜めの線を描き出す。

そう?と少し不満そうな沙布を見送り、ひとり残された教室で外を眺める。









「紫苑」



止みませんように……と雨を眺め続けて、どのくらいの時間が経ったのだろう。
声を掛けられて反射的に時計を見れば、校舎施錠の時間が迫っていた。
教室の戸口に見えるのは、いとしいきみの姿。



「ネズミ」
「待たせて悪かったな。そもそも、梅雨入りしたってのに、どうして傘を忘れるんだ」
「ごめん。急いでたんだ、朝」



生徒会長を務める彼は、授業後にも様々な仕事があるらしく、いつもこのくらいの時間になってしまうと言っていた。
別に、傘がなくとも、帰ろうと思えば帰ることはできる。
だけど、施錠ぎりぎりの遅い時間まで彼を待つことが、苦痛でない理由がぼくにはある。


ぼくは、ネズミのことが好きだ。


生物学的には何の利益もない同性愛だが、好きになってしまったものは仕方ない。
それくらい、彼は魅力的で――、ぼくの一目惚れだった。
だけど、その同性愛が社会的にまだまだ認められない立場なのは分かっているし、彼に告白だとか、そんなことは考えたりしない。
こうしていられる関係を壊したくない。そんな気持ちが勝っているから。



「帰るぞ、紫苑」
「あ、うん、待って」



幸いにも彼とぼくの家は方向が同じで、それを口実にぼくは彼にメールしたのだった。



『ネズミ、傘忘れちゃった。一緒に帰らない?』
『おれの傘に入れろってことか?』
『うん。頼む。何時になっても構わないから』
『…仕方ないな。待たせるだろうけど、教室で待ってろよ。待ちくたびれて帰っても構わないから』



仕方ない、という文面と共に、彼の舌打ちとため息が聞こえてきそうだった。
そんな言い方をしながらも傘に入れてくれるというネズミの優しさが、どうしてもぼくを惹きつけるのだ。





「うわ……ひどいな」



授業が終わった直後よりも、確実に強くなっている雨脚。
大粒の水が、薄暗くなりつつある目の前を白く濁していく。



「ほら、紫苑」
「ありがとう。ごめんね、お邪魔します」



ばさり、と広げられた大きな黒い傘の左側に入れてもらう。
大きな傘とはいえ、さすがに男子高校生ふたりを雨から守るには少し窮屈だ。



「行くぞ」
「うん」



一歩、外へ踏み出すと同時に、空から零れ落ちる水が傘を激しく叩く。
互いの声を聞き取るのも難しいほどの雨音に包まれた。



「そっち、濡れてない?大丈夫か、ネズミ」
「平気。あんたこそあんまり離れると濡れるぞ、もっとこっち寄れ」



言われた通り、すこしだけ、彼に身を寄せる。
時折、ふと彼に触れる右腕が、あつい。

こんなにも彼に近寄ることができるのは、きっと、雨の日の傘の中だけだ。
どくどくと脈打つ心音が雨にかき消されることをひたすら祈りながら、遠くて近い家路を辿る。




大切な時間ほどあっという間にすぎるもので、気が付けばもうぼくの家の前だった。
いつもは長く感じる道のりが、こんな土砂降りにも関わらず、今日は半分にも感じない。



「はあ、助かったよネズミ。ありがとう」
「どういたしまして。悪いけどここから玄関までは走ってくれ」
「うん、大丈夫。ありがとう。……じゃあ、また、明日」
「ああ」



名残惜しさを必死に隠して、道路に面する小さな門から玄関までの数メートルを駆ける。
傘に入れてもらっていたおかげでほとんど濡れていなかった制服が、少しだけ色を変えた。

ドア前の屋根でなんとか雨を防ぎながら門を振り返ると、ネズミはまだそこに立っていて。


――…その右肩は、びっしょりと雨に濡れて、白いシャツに彼の肌色が透けていた。


その光景に申し訳なさと嬉しさの混じるなか、お礼を言おうと彼に目を合わせると。



「紫苑。次の雨の日も、傘、忘れてこいよ」
「……え」



にやりと笑いながら彼が放った一言。

その表情と言葉で、ぼくの気持ちなど、彼はとっくに知っていたのだと気が付いた。



「じゃあな」
「あっ、うん、ありがとう…っ」



――そして、きっと彼は、ぼくの気持ちに気付いていただけじゃなくて、同じ気持ちでいてくれるということも。

















大好きな季節の、ちいさなお楽しみ。

……この季節が終わっても、きみのそばにいられますように。

そう、遠くに覗く青空に願った。












End.
→あとがき
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