苦いラテには恋を溶かして



大通りから少し入った、狭い裏道にあるカフェ。


ぼくはそこでバイトをしている。

場所が場所なだけに、客数はあまり多くなく、決まった常連客がたまに来店するくらいだ。

また、カフェの壁一面は、お客さんに自由に読んでもらえるよう、本棚に覆われていて、お客さんが居ないときや注文がないときは自分もそこにある本を片っ端から読んでいた。

その気楽さと、本に囲まれた店の雰囲気が気に入って、ぼくはここで働いている。








たまたま、オーナーが不在の日のことだった。




――チリン




扉についた鈴が小さく鳴る。

ぼくがあまりにも本に熱中していて、お客さんが来たことに気付かないといけないから――と、店のオーナーが取り付けてくれたものだ。



その音につられて顔を上げた。



「いらっしゃいま――」



思わず、息を飲んだ。


黒い髪に、切れ長の瞳。
顔の半分はマフラーによって隠れてしまっているが、端正な顔立ちだとすぐに分かる。
歳は…ぼくと同じくらいか、少しだけ年上のように見えた。



今まで見たことのない客だ。
例え一度でも来店していれば、大概は覚えている。
こんな独特の雰囲気を纏った人物なら、なおさらだ。




彼は、一番端の席に座った。



不思議な興奮を覚え、少しだけ震える手で水と手拭きを用意し、彼の元へ持って行く。



「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」



彼はテーブルに置かれているメニューを悪戯にぱらぱらとめくる。
一礼して立ち去ろうとしたとき、彼が声を発した。



「待って」
「あ…はい、何でしょう」



凛とした、すごく綺麗な声だった。
今までに、こんなに良い声の持ち主に出会ったことはない。



「あんたのお気に入りは?」



そう言って彼はメニューを軽く振る。



「…えっと…カフェラテ…とか…」
「じゃあ、それで。ここの本、読んでいいの?」
「あ、ご自由にどうぞ…っ」



震える足でカウンターに戻る。
心臓がうるさい。
こんなに緊張したのは久しぶりだった。

カフェラテを淹れ、表面にラテアートを描く。

初めてのお客さんには〝welcome〟の文字を描くのが、オーナーのこだわり。
最初は上手く出来なかったラテアートも、回数を重ねるうちに、オーナーに認めてもらえるまで上達した。


震える手でなんとかラテアートを完成させ、ひとかけらのパウンドケーキと共に、彼の元へ持って行く。
日によって種類は違うが、手作りのパウンドケーキはサービスだ。
ちなみに今日のパウンドケーキには、チェリーやベリーが入っている――ぼくのお気に入りのひとつだった。



「お待たせしました」
「ああ…ありがとう」



彼は本に目を落としたまま答える。
何を読んでいるのか気になって本に目を遣ると、それは見覚えのある一冊だった。



「…ハムレット」
「あ、よく分かったね」
「…へ?」
「いや、この本がハムレットだってよく分かったね、って」
「あの、今、ぼく…口に出てましたか?」
「うん。ハムレット、って言った。…え、無意識?」
「すっ、すみません…っ!」
「……ふっ、あっはは」



堪えていたものを爆発させるように、彼は突然 笑い出した。



「あ、え、あの」
「あんた面白いね。天然?」
「違うと思いますけど…」



ふふ、と彼は微笑み、カフェラテを一口飲んだ。



「美味い」
「あ、ありがとうございます…っ、どうぞ、ごゆっくり」
「どーも」



カウンターに戻り、ちらりと彼を見る。
彼は優雅な手つきでページをめくり、コーヒーカップを手にする。
その動きに無駄は一切なく、〝見られる〟ことを指の先まで意識したような――そんな優雅さだった。

ぼくも読みかけの本を手にとり、カウンターに座って文字を追い始める。

微かに聞こえるBGMと、二人の間に流れる柔らかな空気。

――すごく、心地好い。






一時間ほど経った頃、彼はカウンターにやって来て、会計を、と言った。



「美味しかったよ、カフェラテ。ごちそうさま」



そんな言葉と、誰もが虜になるような魅力的な笑みを残して、彼は店を出て行った。








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