角を曲がればきみ



珍しく、寝坊をした。




いつも30分は早く学校に着いて、まだ殆ど誰も来ていない 静かな教室で勉強をする。
それが生活のリズムになっていた、のに。






「やばいやばいやばい…!」






普段は自転車登校のぼく。
が、今日に限って、自転車のタイヤはパンクしていて。
昨日は膨らんでいた黒いゴムがぺちゃんこになっているのを見て、絶望した。



――走るしかない。



幸いにも、自宅から かなり近い高校に通っている。
ただ、全速力で走っても、ぎりぎり遅刻かもしれない。
というか、ぼくの体力では、間に合わないだろう。
ああ、せっかくの無遅刻無欠席が……








普段なら、爽やかな朝の空気を裂いて自転車で走る 住宅街の裏道を、重たい鞄を抱えて 自らの足で駆ける。

これだけ必死で走っていても、そんなぼくを後ろから次々と追い抜いていく自転車が憎い。







「はっ…は…っ、」






気が付けば、周りには人の姿がなくなっている。
腕時計を見たら、ちょうど一限が始まる五分前であった。
朝のSTには間に合わなかったけれど、一限には何とか間に合うかもしれない。








(この角を曲がれば、あと少し…!)









勢いはそのままに、角を曲がった。








「ッ!」
「うわ!」









どん、と鈍い衝撃のあと、背中を地面に打ち付けたのが分かる。









「おい、大丈夫か」
「痛ッ…」








痛みにくらくらしていると、目の前に 優雅な動作で手が差し出された。


――何だろう。握手、とか?



差し出された手を握り、握手のように上下に揺らした。








「…なに、してんの」
「え?…握手?」
「……ぷっ」





堪えきれなくなった笑いを、目の前の彼が爆発させた。

愉快そうに笑う、目の前のその人物。

歳は同じくらい、だろうか。
少し癖のある黒髪。
顔立ちはすごく整っていて、男のぼくでも見とれてしまう…いかにも女子が好きそうな顔だ。
背は――尻餅をつき、見上げている状態ではイマイチ分からないが――多分、ぼくより少し高いのだと思う。
きちっとブレザーを着込んだぼくに対し、彼は学ランを着崩している。だらし無いはずなのに、何故かそうは思えない気品に似たものが彼からは漂っていた。

そんなことよりも…この辺りで学ランの高校といえば――思い当たるのは ただひとつ、あの超名門校。
偏差値は70を超えるとかいう。
あの高校に、こんな…こんなやつが、居るのか。






「はっ、くく…、あー笑った。あんた、面白いね」
「え」





目尻に涙を浮かべ、大笑いしていた彼がぼくを見た。
目が合った瞬間、ぴりっと電流が流れた、気がした。



――灰色の、瞳…?


こんな綺麗な色、初めて見た…







瞳の色に見とれてぼんやりしていると、再び手が差し出される。





「ほら、早く握れ。起こしてやるから」
「あ…ありが、とう」





ぐい、と腕を引かれて立ち上がるのを手伝ってもらう。
スラックスについた砂利を払い落としながら、改めて ぶつかったことを彼に謝り、礼を言った。






「ところで、どうしてあんなに急いでたんだ」
「あっ!遅刻しかけて…っ!」





急いで腕時計を確認したその瞬間、遠くで始業のチャイムが鳴るのが聞こえた。




「…遅刻、か」
「あ…ぁあ…」
「休んじゃえば?一日くらい」
「う…」




もう間に合わないと分かり、何だか気が抜けてしまった。
あれだけ必死に走ったことはさておき、確かに彼の言う通りかもしれない。

――いま考えれば、なぜそう思ったのか、よく分からない。
普段の自分なら、何分遅刻しようと構わず学校に向かっていただろうに…





「きみこそ、こんな時間に何を…」
「逃げてた」
「…へ?」
「おれのファンから」
「ファン…」





一体何者なんだ、この男は。
まさか、芸能人?





「…あー、ファンって、学校の女の子たちがね。ほら、おれ、整った顔だから」





…一体、何のつもりなのか。
自分で言うかな、普通…





「ね、あんたさ、おれのこと匿(かくま)ってくれない?昼まででいい」
「な…ッ」





突然何を言うんだよ、無理だそんなの、第一ぼくは今から学校に―――





「あ…ぁ、うん…」
「感謝する」





…ぼくは今、何と言ったのか。
イエス、と答えたのか。

言うべき言葉と真逆の返答をしてしまったことに戸惑ったのは一瞬で、不思議と後悔はしなかった。

彼と並んで、ぼくの家へと向かう。







「あんた、名前は?」
「紫苑。きみは?」





「ネズミだ。以後お見知り置きを」








くす、と悪戯に笑ったその瞳の色を、ぼくはその後一生、忘れることはなかった―――灰色の、しかし鼠色なんかではなく…夜が朝に平伏す直前のような、その色を。







彼のせいでぼくの人生は180度変わることになるのだが、それはまた、別のお話――。








End.
→あとがき
1/2ページ
スキ