静謐



「…暑い」
「うん」
「……暑い」
「…うん」
「………だぁあっ!くそ、何なんだよっ!」
「怒るなよ、ネズミ。暑いのはぼくだって一緒なんだから」
「…疲れた」
「カリカリするからだよ。それに、この地下室は外より涼しいじゃない」








ネズミを宥(なだ)めながらも、パタパタと団扇を扇ぐ手は止められない。

いつもは涼し気なネズミも、さすがにこの暑さにはお手上げらしく、上半身裸で床に四肢を投げ出している。



涼しかった朝の空気とは一変した 午後の重たい空気が、隙間から地下にまで流れ込んでいる気がする。
――とは言え、外は この状況と比べものにならないくらい暑いに違いないのだけれど。










「…氷、なかったっけ」
「氷?そんなもん、あるわけないだろ」
「…だよね」






いくら何でも、真夏に氷を保管しておける場所は此処には ない。
どうしたらこの暑さから抜けられるかと思考を巡らす。が、そう簡単に良案は浮かんでくれない。








「…喉渇いた。紫苑、水」
「それくらい自分でやれよ」
「もうだめ、動けない」
「きみを甘やかすつもりはないよ」
「…ちっ。けち」
「ぼくだって暑いのは一緒なんだから」






文句を言いながら、彼は起き上がって水の入ったポットを手にし、中身を一気に飲み干した。






「…温い」
「いちいち文句言うなよ」
「ねぇ、紫苑、汲んできてよ」
「…そうか、泉!」
「そう、泉。……え?」
「泉だよ、泉!どうして思い付かなかったんだろう…!」
「いや、え、あの、紫苑…?」
「ネズミも行こう!」







Tシャツを脱ぎ捨て、ネズミと同じ上半身裸になる。そして頭にクエスチョンを浮かべたままの彼の手を引き、無理矢理 外に連れ出した。


外に出た途端、湿気と熱気を帯びた空気が体に纏わり付いて、息苦しさのようなものを覚える。






「うわっ暑…どういうつもりだ、紫苑」
「ネズミ、水浴びしよう!」
「…なにその笑顔。やだ、おれ、部屋に戻る」
「泉の水、冷たいから、絶対気持ちいいよ」








ネズミをその場に取り残し、泉に足をつける。
予想通り、透き通った水はひんやりとして気持ちが良い。

そのまま、ばしゃばしゃと飛沫(しぶき)を上げながら、服が濡れるのも構わず腰が浸かるくらいの深さまで進む。
土から離れ、周りに人の存在がない静謐の中に身を置くと、ひんやりとした空気に包まれる。つめたい水に冷やされた涼しい風が、身体の傍を吹き抜けていく。


そんな涼しさで火照った体を冷やしていると、後ろで静かな水音がした。





「…冷たい」
「それが気持ちいいじゃない」
「そうだな」





ネズミは近くまで寄って来ると、突然 大きな水音と飛沫をたてて全身を水の中に沈めた。






「…っぷは、気持ちいい」





ザバッと勢いよく水中から上半身を出し、水によって張り付いた前髪を掻き上げるネズミ。

適度についた しなやかな筋肉や、髪と身体に残された水滴、僅かに仰け反らせた喉。
掻き上げる仕草に伴う全てが、何だか酷く妖艶で――意図せずとも、ごくりと生唾を飲んでしまう。






「…くす。なに、紫苑、まさかとは思うけど勃っちゃったのか」
「うるさい」






照れ隠しと火照った身体を冷やすために、ネズミの真似をして水の中に潜り、少しだけ泳いでみる。
澄んだ水はどこまでも綺麗で、息が続く限り この世界を眺めていたいと思った。





「…っは、」
「しおーん」
「なに……っぶ!」





ネズミの甘い声に振り返ると、顔面を目掛けて勢いよく水が飛んできた。









「何するんだよ!」
「ほらほら、油断してると」





再び水が飛んでくる。
なんとかその水を避け、ネズミを見ると、彼は器用に手を使って水を飛ばしていた。






「なにそれ、どうやるの?」
「ん?こうして手を組み合わせて、手の平で水を掬って…小指側から押し出すんだ」





器用な手の平から押し出された水は、綺麗な孤を描いて一直線に飛んでいった。






「こう?」
「あ、ばか、そうすると」
「んっ!」







小指側から押し出されるはずだった水は、親指側の隙間から ぼくを目掛けて飛んできた。
予期せぬ攻撃に、鼻にまで水が入ってしまい、鼻の奥がつんとする。





「親指側は締めとくんだよ」
「うぅ……こう、かな」




ネズミほど勢いは無かったものの、小指側から押し出された水は太めの線を描き、水面に模様を作り出した。








「ま、せいぜい頑張りな」






にやりと笑ったネズミが、再び水を飛ばしてくる。
同じ方法で応戦したかったが、ネズミのところまでは届きそうにない。
どうしようかと一瞬だけ逡巡したのち、手の平で水を掬い上げ、そのままネズミに打っ掛けた。


いきなり大量の水を掛けられたネズミは呆気にとられている。
その顔を見ていい気味だと思ったのも束の間、すぐに にやりと笑ったネズミが掛けてきた大量の水を、思いっきり全身に浴びてしまった。





「…やってくれたな、ネズミ!」
「うわっ、おい、ばか…ッ!」






犬がじゃれあうように、ネズミに飛び付いて水の中に押し倒す。


何が可笑しいわけじゃない。

ただ、なんとなく、こうして平和な時間を二人で過ごせることに「幸せ」を感じて、笑いが体の中から溢れてくる。
同じように笑うネズミも、きっと似たことを感じているのだろう。











暑い暑い、夏の日。

静かな空気に笑い声を響かせながら、そうして暫くじゃれあったのだった。






End.
→あとがき
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