“雪の降る街”
目の前には、地平線までも続く真っさらな銀世界。
昨日の夜から降り続いた雪は、旧西ブロックだけでなく、旧NO.6にも積もっている。
壁がなくなったかつての境界を、ぼくは一人で越えて行った。
ぼく以外、他に人はいない。
また降り出した粉雪に彼の存在を覚えて、まだ誰も踏んでいない新雪に足跡を付けながら ぼくは《あの場所》へ向かった。
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かつて2人で暮らした地下室。
この場所の鍵は、まだネズミも持っているはずだ。
彼との思い出を風化させたくなくて、紫苑はたまに地下室を訪れていた。
家具や本棚に薄く積もった埃を払い落とし、ネズミと二人でここを出たときと同じ状態にする。
本当に、なにひとつ変わらない。
改めて部屋を見回してそう思った。
あの頃と違うのは、彼が傍に居ないという事実だけ。
ぼくに残されたのは「何かが足りない」という虚無感。なのに、主人を失くした部屋はあの頃と何も変わらない…。
ふと気を緩めた瞬間に涙が零れそうになって、ぼくは慌てて外に出た。
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きみが突然ぼくの生活に入り込んできたのは12歳になったあの日だった。
それからの4年、心の中にはずっと きみの存在が居座り続けていて――16歳になって、きみの助けによってきみと共に西ブロックへ逃げた。
人生を変えたのは12歳になったあの日だったかもしれないけれど、きみとの生活がぼくを大きく変えたんだ。
西ブロックで一緒に生きるうちに、きみの存在は ぼくにとって「当たり前」になっていった。いつもきみが傍に居てくれるって甘えてたんだ、きっと。
一緒に生きていたときから、きみのことはとても大切に思ってた、けど。
きみが何処かへ行ってしまってから、その存在の大きさに改めて驚かされた。きみがぼくの傍に居ないってことが、こんな大きな虚無になるとは思ってもみなかった――傍に居るのを「当たり前」と感じていたぼくの浅ましさが原因なのだろう。
遮るものが殆どない旧西ブロックを、北風が鋭い音をたてて駆け抜ける。
頭上の重たい灰色の空はきみの瞳を映した。
…いや、きみの瞳はもっと綺麗な色だったけど。
「…おん、…紫苑…」
名を、呼ばれた。
――確かに、きみの声だった。
だが、周りを見回しても誰も居ないし、真っ白な雪原にはぼくの足跡しかない。
「…隠れてるのか、ネズミ?何処にいる?お願いだから…、出てきて、ぼくに姿を見せてくれよ、ネズミ…!」
悲痛な叫びは雪に吸い込まれ、辺りには再び静寂と――冷たい風の音だけが残った。
――また、空耳だ。
何度目だろうか。
ここに来たときだけでなく、街を歩いているときでも、部屋で休んでいるときでも 幾度となくきみの呼ぶ声が聞こえた。
でも、全てぼくの勘違いだった。空耳だった。
そんな自分に呆れ、ため息をついた。吐き出した息は瞬時に白く染まり、すぐに消えてしまう。
「…会いたいよ、ネズミ」
冬の次には、また春がくる。
西ブロックで過ごしたときの思い出は冬の色が強すぎて、冬が来るたび思い出に捕われてしまう。
いつになったらぼくは、春を迎えられるのだろう…。
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