第1章 ノアの少女
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11
「本当に大丈夫か」
ユエの一言に、レイは困った様に溜め息を吐いた。
『大丈夫だってば〜』
「だが…」
もう直ぐ出発する汽車を背に何を言っているのだろうか。
これに乗るというのに…
『別行動は良くある事じゃない』
「長くて半日だ。それ以上はいつもは神田やラビが代わりにいる」
『烏くんが居るでしょ』
レイの肩に止まった烏が一鳴きしたが、ユエは眉を寄せるだけだ。
「そいつはまだ未熟だ」
『もぅ…夕方にはシャールが着くから心配しなくても大丈夫だってば』
「やはり夜に飛んで行った方が…」
『ダーメ!もし飛んでるのを見られたらどうするの?それこそ一人じゃ危ないでしょ』
もしチィに繋がる者に見付かってしまったら何があるか分からない。
飛ぶなら最悪逃げる方法を持っている私と一緒じゃなきゃ駄目だ。
『ほらほら、合流するのはティエドール班だから害はないだろうし…兎に角、チィとアクマに気を付けてね!』
汽笛が鳴る中、レイはユエを汽車へと押し込むように突き放した。
『いい?もしチィに捕まっても“力を使って逃げられた”って言うのよ!』
「ぁ、あぁ…」
『じゃあね、ユエ!また本部で!』
=少女の舞=
「お兄さん、一杯ちょ~だい」
仄かに雨の香りのする服を纏い、頭を掻きながらバーテンにそう一言だけ告げると、瓶底の様な分厚い眼鏡にクルクルと跳ねた黒髪の男はカウンターの席に腰かけた。
「静かな店だな…」
店内は、笛と鈴の音が鳴り響いているだけで、飲み屋だとは思えない程静かだった。そして客は皆、ある一点を見つめている。
客が見ている方をクルクルの髪を掻き上げながら目で追った男は、視線の先を見ると目を見開いた。
「……お嬢さん…?」
何となく酒が飲みたくなって偶然入った小さな店の小さなステージに、雨の日に出会ったお嬢さんが居た。
「危ね…ッ」
口に加えていた煙草が床にぽとりと落ち、慌てて拾う。
「…お客様」
「悪い…焦げたりとかしてねぇから」
昔、どこかで見た事のある様な…お嬢さんは鬘であろう長い黒髪が良く栄える綺麗な着物を着て踊っていた。
汚れなど無い様に綺麗に…綺麗に…
『お兄さん!』
声を掛けられて始めて目の前に先程までステージで踊っていた少女が居た事に気付いた男は、慌てて口を開いた。
「あぁ、久しぶりだな」
「お知り合いですか?」
『そうなの、マスター!この間、雨の日に会ってね!一緒に宿に行ったの』
「うぉおおおおぃ!!!!」
言い方!!言い方がよろしく無い!!!
「雨宿り!雨宿り!何もしてねぇから!!」
「はぁ…そうなんですか?」
『うふふ〜そうなの、マスター!お兄さんはお酒飲みに来たの?』
「あぁ」
『じゃあ、ちょっと待ってて!直ぐ着替えてくるから!!』
そう言うや否や、少女は腰に巻いた帯を解きながら店の奥に走って行った。
せめて向こうに着いてから脱ぎに掛かってほしいものだ。あの少女はこの場に男がいる事をきちんと認識しているんだろうか?
ここから脱ぎに掛るなら襲われても文句は言え無い。
問題は他にもある。
正直、ステージで踊るお嬢さんに見惚れていた。
まさか近付いて来た事に気付か無い何て…
「相当やられてるな…俺」
これはマズイ。
あんなまだ幼さの残る少女に…
ステージから雨の日に出会った男が見えた。
踊り終わって直ぐに男の元に向かい、待つ様に言うと店の奥に着替えに向かった。
また会えた…それが凄く嬉しかった。
『お待たせ、お兄さん!』
「あぁ、早いな」
お兄さんはお酒を飲みながら待っていてくれた。
レイはカウンターの席に座った男の隣の席に飛び乗る様に腰掛けた。
『私ね、お兄さんに聞きたい事があって』
「聞きたい事…?」
男が不思議そうに首を傾げ、レイはそれを見てニッコリ笑った。
『名前!お兄さんの名前教えて!!』
「名前は…」
名を名乗ろうとした男は、名前を言う前に黙り込み、意地悪く微笑むと口を開いた。
「お嬢さんが名前教えてくれたら教える」
私の名前…
『お兄さんが決めて』
「は?」
男が困惑した様にそう声を洩らした。いきなり名前を付けろと言われたら無理も無い。
『私、名前好きじゃないの』
「好きじゃないのって…」
『お兄さんが新しいの決めて』
「新しいの…」
『お願い』
「…ラゼル」
『ラゼル…?』
「あぁ、ラゼル」
男が優しく微笑み、頬を赤く染めたレイは嬉しそうに微笑み返した。
『うん…ありがとぉ、お兄さん』
ラゼル…私の名前。お兄さんが決めた、お兄さんといる時だけの大切な名前。
「どういたしまして、その代わり俺の名前はラゼルが決めろよ?」
『…え』
「さて、俺の名前はなんですかな、ラゼル?」
『あ……えっと…』
いきなり言われても困る…けど私が先に仕掛けた事だ。答え無いわけにもいかない。
『……き、キラ…』
「ん、聞こえ無いなぁ?」
男がまた意地悪く笑い、顔を近付けてくる。
今のは絶対に聞こえていた筈だ。意地悪な人だな…
『……キラ』
もう一度告げると、男…キラは嬉しそうにニッコリ微笑んだ。
「了解、今日から俺は“キラ”だな」
『うぁ…ッ!!』
キラはレイ…ラゼルを抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。視界が少しだけ高くなった。
「お客様、うちの踊り子に手を出さないでください」
「えぇー、いいじゃん抱っこくらい」
『抱っこって…子供じゃないんだからぁ』
「時にラゼル。ラゼルは日本人なのか?」
『え?違うけど…何で?』
「さっきのアレは日本のダンスだろ?」
『あぁ、あれは月に教えて貰ったのよ。時々バイトであっちこっちで踊らせてもらってるの』
「月…?」
『私の友達…家族かな?長い銀髪に緋色の瞳の美人さんなんだけど…まぁ、それは兎に角。名前、教えてくれないんだよねぇ…ただ“ディーヴァ”とか“シャントゥール”って呼ばれてた事はあるって言ってたけど』
「じゃあ何で“月”って呼んでるんだ?」
『月は胸の所に月の…タトゥーみたいなのがあるの』
「なるほど…」
ラゼルはカウンターに右手で頬杖を付き微笑んだ。
『会ってみたい?』
キラはラゼルと向き合う様に左手で頬杖を付くと微笑み返した。顔が近過ぎて少し恥ずかしい。
「会わせてくれんの?」
ラゼルはクスクス笑うとキラの膝を飛び降りた。
『どうしよっかなぁ~』
キラが不満そうにカウンターの入口に立ったラゼルを見据える。
「気になるじゃん…というか帰るのか、ラゼル」
『これからデートなの』
「デートぉ?」
キラが不機嫌そうに眉を寄せ、ラゼルはそれを見て笑った。
『友達の所に行かなきゃいけないの…何か嫌な予感がするんだ』
「予感?」
『当たるのよ、私の勘』
ラゼルはマスターから紙袋を受け取ると中から苺を一粒取り出して口に放り込んだ。
『またね、キラ』
「またな、ラゼル」
店の扉の前まで行ったラゼルは、ピタリと動きを止めると、ゆっくりとキラを振り返った。
『夜、月がキラの所に行くって』
「は…?」
抜けた声を洩らしたキラは、飲んでいた酒のグラスをカウンターに置いた。
『会いたいんでしょ?』
“月が私も会いたいわって”と言うラゼルの表情はどこか妖艶だった。
「いつ…って言うか俺の所って、月は俺が」
『分かってるよ』
「分かってる‥?」
『月は全てを見ているし、知っているの。それを私に教えてはくれないけどね』
「全て…」
『月って名前の意味の1つだよ…あの人は私達には届かない所から私達を見ているの』
ラゼルはそれだけ告げると、紙袋を片手に店から出ていった。
残されたキラは夜までちまちまと酒を飲み続けた。浴びる様に飲みたいが、持ち合わせが無いので出来無い。夜までいたのに、結局三杯しか飲めなかった。酔えずにはっきりとした頭でとっておいた安宿に帰る。
「“夜”か…」
キラは眼鏡を外し、煙草に火をつけると暗い部屋のたった一つの窓の窓枠に腰掛けた。
「にしてもボロい部屋だな…次はもっと正面な宿にするか」
安宿なのだから仕方無いといえば仕方無いのだが、これは少し酷い。
──あの人は私達には届かない所から私達を見ているの…
煙草の煙を吐き出したキラは、ふとラゼルの言葉を思い出した。
「“月は全てを見ているし、知っているの”か…どういう意味だ?」
『こういう意味だな』
自分以外誰もいない筈の部屋に響いた声…
驚いたキラは声のした方へ振り返ると、目を見開いた。
銀の長い髪、血の様に深い緋色の瞳。
羽織る様に緩く着た黒い着物。
首に固定された石の黒いチョーカー…
二本のネックレスと両手両足に何本も絡まる金と銀のブレスレット。
胸元の月のタトゥー…
今まで見た事の無い…信じられ無いくらいの美女がそこに立っていた。
「月…?」
ラゼル専用の仮名を呼ばれた月はニッコリと美しく…そして可愛らしく微笑むと、口を開いた。
『今晩は、ティキ・ミック卿』
「……何で…」
名前を当てられたのもあるが、黒い俺を知っている奴しか俺の名前に“卿”なんて付け無い。
キラ改めティキは思わず身構え、月は楽しそうにクスクス笑った。
『何故だろうな?』
──あの人は私達には届かない所から私達を見ているの…
「“月は全てを見ているし、知っている”」
ティキが答えると月は嬉しそうに微笑んだ。
『正解だ』
「何者だ?」
『私は時の調律者。あらゆるモノを操り、そして世界を見届ける者…陰陽師であり歌い手であり魔女であり錬金術師でもあり死神でもある』
月の表情が一瞬だけ…ほんの一瞬だけ曇ったのは気の所為では無いと思う。
「時の調律者、陰陽師、歌手、魔女、錬金術に死神?」
与えられた信じられ無い情報を繰り返す事で記憶する。俺が今出来るのはそれだけだった。
月はゆっくりとベッドに腰掛け、ティキは窓枠に座ったまま月に向き合った。
「歌手…だから“ディーヴァ”と“シャントゥール”か」
『そうだ。私の声には魔力があるから歌うのに最適なんだ』
“客はディーヴァと…仲間はシャントゥールと名付けた”そう話す月は少し嬉しそうだった。
「色んな力…凄いな」
ティキは無邪気に月に笑い掛けるが、月の表情は曇るだけだった。
『別に…凄く無いよ』
「何でも出来るじゃないか」
『操る物に自我がある限り力は万能では無い。永遠にな……だから…』
鮮血の様に緋い月の瞳が自分を映していない事がここからだと良く分かる。
『過度な力は求めぬ事だ』
月は哀しいんだ。
それにきっと、寂しいんだ…
『力を望む者は全てを奪うか護ろうとする。奪う者は犠牲を問わず。護る者も…また犠牲を問わない』
「どういう事だ」
『奪ってでも望む者は、他者の犠牲を良しとする。護る為に望む者は、自己犠牲を良しとする』
「お前は護る側だろ」
『…何故、そう思う』
「ん~…勘かな」
『……そう』
「お前はどうなった、護る者」
『……歩むにつれ、若さ故の過ちだったと気付いた。護るだけでは自己満足なんだとな』
「自己満足?」
『何があっても“自分は死んでも良い”等と愚かしい事を考えない事だ、ティキ・ミック卿…何れ解る時がくるよ』
月は立ち上がると着物の裾を叩く様にして直した。
『さて、帰らせてもらうかな』
「もうか?」
『あぁ、喋り過ぎた』
「‥そうか」
『あぁ…今日は家族の所に帰るよ』
「そうか…」
月は微笑むと、一瞬にしてティキの目の前から姿を消した。
月は…
力を持ち過ぎた寂しそうな女だった──…‥
「本当に大丈夫か」
ユエの一言に、レイは困った様に溜め息を吐いた。
『大丈夫だってば〜』
「だが…」
もう直ぐ出発する汽車を背に何を言っているのだろうか。
これに乗るというのに…
『別行動は良くある事じゃない』
「長くて半日だ。それ以上はいつもは神田やラビが代わりにいる」
『烏くんが居るでしょ』
レイの肩に止まった烏が一鳴きしたが、ユエは眉を寄せるだけだ。
「そいつはまだ未熟だ」
『もぅ…夕方にはシャールが着くから心配しなくても大丈夫だってば』
「やはり夜に飛んで行った方が…」
『ダーメ!もし飛んでるのを見られたらどうするの?それこそ一人じゃ危ないでしょ』
もしチィに繋がる者に見付かってしまったら何があるか分からない。
飛ぶなら最悪逃げる方法を持っている私と一緒じゃなきゃ駄目だ。
『ほらほら、合流するのはティエドール班だから害はないだろうし…兎に角、チィとアクマに気を付けてね!』
汽笛が鳴る中、レイはユエを汽車へと押し込むように突き放した。
『いい?もしチィに捕まっても“力を使って逃げられた”って言うのよ!』
「ぁ、あぁ…」
『じゃあね、ユエ!また本部で!』
=少女の舞=
「お兄さん、一杯ちょ~だい」
仄かに雨の香りのする服を纏い、頭を掻きながらバーテンにそう一言だけ告げると、瓶底の様な分厚い眼鏡にクルクルと跳ねた黒髪の男はカウンターの席に腰かけた。
「静かな店だな…」
店内は、笛と鈴の音が鳴り響いているだけで、飲み屋だとは思えない程静かだった。そして客は皆、ある一点を見つめている。
客が見ている方をクルクルの髪を掻き上げながら目で追った男は、視線の先を見ると目を見開いた。
「……お嬢さん…?」
何となく酒が飲みたくなって偶然入った小さな店の小さなステージに、雨の日に出会ったお嬢さんが居た。
「危ね…ッ」
口に加えていた煙草が床にぽとりと落ち、慌てて拾う。
「…お客様」
「悪い…焦げたりとかしてねぇから」
昔、どこかで見た事のある様な…お嬢さんは鬘であろう長い黒髪が良く栄える綺麗な着物を着て踊っていた。
汚れなど無い様に綺麗に…綺麗に…
『お兄さん!』
声を掛けられて始めて目の前に先程までステージで踊っていた少女が居た事に気付いた男は、慌てて口を開いた。
「あぁ、久しぶりだな」
「お知り合いですか?」
『そうなの、マスター!この間、雨の日に会ってね!一緒に宿に行ったの』
「うぉおおおおぃ!!!!」
言い方!!言い方がよろしく無い!!!
「雨宿り!雨宿り!何もしてねぇから!!」
「はぁ…そうなんですか?」
『うふふ〜そうなの、マスター!お兄さんはお酒飲みに来たの?』
「あぁ」
『じゃあ、ちょっと待ってて!直ぐ着替えてくるから!!』
そう言うや否や、少女は腰に巻いた帯を解きながら店の奥に走って行った。
せめて向こうに着いてから脱ぎに掛かってほしいものだ。あの少女はこの場に男がいる事をきちんと認識しているんだろうか?
ここから脱ぎに掛るなら襲われても文句は言え無い。
問題は他にもある。
正直、ステージで踊るお嬢さんに見惚れていた。
まさか近付いて来た事に気付か無い何て…
「相当やられてるな…俺」
これはマズイ。
あんなまだ幼さの残る少女に…
ステージから雨の日に出会った男が見えた。
踊り終わって直ぐに男の元に向かい、待つ様に言うと店の奥に着替えに向かった。
また会えた…それが凄く嬉しかった。
『お待たせ、お兄さん!』
「あぁ、早いな」
お兄さんはお酒を飲みながら待っていてくれた。
レイはカウンターの席に座った男の隣の席に飛び乗る様に腰掛けた。
『私ね、お兄さんに聞きたい事があって』
「聞きたい事…?」
男が不思議そうに首を傾げ、レイはそれを見てニッコリ笑った。
『名前!お兄さんの名前教えて!!』
「名前は…」
名を名乗ろうとした男は、名前を言う前に黙り込み、意地悪く微笑むと口を開いた。
「お嬢さんが名前教えてくれたら教える」
私の名前…
『お兄さんが決めて』
「は?」
男が困惑した様にそう声を洩らした。いきなり名前を付けろと言われたら無理も無い。
『私、名前好きじゃないの』
「好きじゃないのって…」
『お兄さんが新しいの決めて』
「新しいの…」
『お願い』
「…ラゼル」
『ラゼル…?』
「あぁ、ラゼル」
男が優しく微笑み、頬を赤く染めたレイは嬉しそうに微笑み返した。
『うん…ありがとぉ、お兄さん』
ラゼル…私の名前。お兄さんが決めた、お兄さんといる時だけの大切な名前。
「どういたしまして、その代わり俺の名前はラゼルが決めろよ?」
『…え』
「さて、俺の名前はなんですかな、ラゼル?」
『あ……えっと…』
いきなり言われても困る…けど私が先に仕掛けた事だ。答え無いわけにもいかない。
『……き、キラ…』
「ん、聞こえ無いなぁ?」
男がまた意地悪く笑い、顔を近付けてくる。
今のは絶対に聞こえていた筈だ。意地悪な人だな…
『……キラ』
もう一度告げると、男…キラは嬉しそうにニッコリ微笑んだ。
「了解、今日から俺は“キラ”だな」
『うぁ…ッ!!』
キラはレイ…ラゼルを抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。視界が少しだけ高くなった。
「お客様、うちの踊り子に手を出さないでください」
「えぇー、いいじゃん抱っこくらい」
『抱っこって…子供じゃないんだからぁ』
「時にラゼル。ラゼルは日本人なのか?」
『え?違うけど…何で?』
「さっきのアレは日本のダンスだろ?」
『あぁ、あれは月に教えて貰ったのよ。時々バイトであっちこっちで踊らせてもらってるの』
「月…?」
『私の友達…家族かな?長い銀髪に緋色の瞳の美人さんなんだけど…まぁ、それは兎に角。名前、教えてくれないんだよねぇ…ただ“ディーヴァ”とか“シャントゥール”って呼ばれてた事はあるって言ってたけど』
「じゃあ何で“月”って呼んでるんだ?」
『月は胸の所に月の…タトゥーみたいなのがあるの』
「なるほど…」
ラゼルはカウンターに右手で頬杖を付き微笑んだ。
『会ってみたい?』
キラはラゼルと向き合う様に左手で頬杖を付くと微笑み返した。顔が近過ぎて少し恥ずかしい。
「会わせてくれんの?」
ラゼルはクスクス笑うとキラの膝を飛び降りた。
『どうしよっかなぁ~』
キラが不満そうにカウンターの入口に立ったラゼルを見据える。
「気になるじゃん…というか帰るのか、ラゼル」
『これからデートなの』
「デートぉ?」
キラが不機嫌そうに眉を寄せ、ラゼルはそれを見て笑った。
『友達の所に行かなきゃいけないの…何か嫌な予感がするんだ』
「予感?」
『当たるのよ、私の勘』
ラゼルはマスターから紙袋を受け取ると中から苺を一粒取り出して口に放り込んだ。
『またね、キラ』
「またな、ラゼル」
店の扉の前まで行ったラゼルは、ピタリと動きを止めると、ゆっくりとキラを振り返った。
『夜、月がキラの所に行くって』
「は…?」
抜けた声を洩らしたキラは、飲んでいた酒のグラスをカウンターに置いた。
『会いたいんでしょ?』
“月が私も会いたいわって”と言うラゼルの表情はどこか妖艶だった。
「いつ…って言うか俺の所って、月は俺が」
『分かってるよ』
「分かってる‥?」
『月は全てを見ているし、知っているの。それを私に教えてはくれないけどね』
「全て…」
『月って名前の意味の1つだよ…あの人は私達には届かない所から私達を見ているの』
ラゼルはそれだけ告げると、紙袋を片手に店から出ていった。
残されたキラは夜までちまちまと酒を飲み続けた。浴びる様に飲みたいが、持ち合わせが無いので出来無い。夜までいたのに、結局三杯しか飲めなかった。酔えずにはっきりとした頭でとっておいた安宿に帰る。
「“夜”か…」
キラは眼鏡を外し、煙草に火をつけると暗い部屋のたった一つの窓の窓枠に腰掛けた。
「にしてもボロい部屋だな…次はもっと正面な宿にするか」
安宿なのだから仕方無いといえば仕方無いのだが、これは少し酷い。
──あの人は私達には届かない所から私達を見ているの…
煙草の煙を吐き出したキラは、ふとラゼルの言葉を思い出した。
「“月は全てを見ているし、知っているの”か…どういう意味だ?」
『こういう意味だな』
自分以外誰もいない筈の部屋に響いた声…
驚いたキラは声のした方へ振り返ると、目を見開いた。
銀の長い髪、血の様に深い緋色の瞳。
羽織る様に緩く着た黒い着物。
首に固定された石の黒いチョーカー…
二本のネックレスと両手両足に何本も絡まる金と銀のブレスレット。
胸元の月のタトゥー…
今まで見た事の無い…信じられ無いくらいの美女がそこに立っていた。
「月…?」
ラゼル専用の仮名を呼ばれた月はニッコリと美しく…そして可愛らしく微笑むと、口を開いた。
『今晩は、ティキ・ミック卿』
「……何で…」
名前を当てられたのもあるが、黒い俺を知っている奴しか俺の名前に“卿”なんて付け無い。
キラ改めティキは思わず身構え、月は楽しそうにクスクス笑った。
『何故だろうな?』
──あの人は私達には届かない所から私達を見ているの…
「“月は全てを見ているし、知っている”」
ティキが答えると月は嬉しそうに微笑んだ。
『正解だ』
「何者だ?」
『私は時の調律者。あらゆるモノを操り、そして世界を見届ける者…陰陽師であり歌い手であり魔女であり錬金術師でもあり死神でもある』
月の表情が一瞬だけ…ほんの一瞬だけ曇ったのは気の所為では無いと思う。
「時の調律者、陰陽師、歌手、魔女、錬金術に死神?」
与えられた信じられ無い情報を繰り返す事で記憶する。俺が今出来るのはそれだけだった。
月はゆっくりとベッドに腰掛け、ティキは窓枠に座ったまま月に向き合った。
「歌手…だから“ディーヴァ”と“シャントゥール”か」
『そうだ。私の声には魔力があるから歌うのに最適なんだ』
“客はディーヴァと…仲間はシャントゥールと名付けた”そう話す月は少し嬉しそうだった。
「色んな力…凄いな」
ティキは無邪気に月に笑い掛けるが、月の表情は曇るだけだった。
『別に…凄く無いよ』
「何でも出来るじゃないか」
『操る物に自我がある限り力は万能では無い。永遠にな……だから…』
鮮血の様に緋い月の瞳が自分を映していない事がここからだと良く分かる。
『過度な力は求めぬ事だ』
月は哀しいんだ。
それにきっと、寂しいんだ…
『力を望む者は全てを奪うか護ろうとする。奪う者は犠牲を問わず。護る者も…また犠牲を問わない』
「どういう事だ」
『奪ってでも望む者は、他者の犠牲を良しとする。護る為に望む者は、自己犠牲を良しとする』
「お前は護る側だろ」
『…何故、そう思う』
「ん~…勘かな」
『……そう』
「お前はどうなった、護る者」
『……歩むにつれ、若さ故の過ちだったと気付いた。護るだけでは自己満足なんだとな』
「自己満足?」
『何があっても“自分は死んでも良い”等と愚かしい事を考えない事だ、ティキ・ミック卿…何れ解る時がくるよ』
月は立ち上がると着物の裾を叩く様にして直した。
『さて、帰らせてもらうかな』
「もうか?」
『あぁ、喋り過ぎた』
「‥そうか」
『あぁ…今日は家族の所に帰るよ』
「そうか…」
月は微笑むと、一瞬にしてティキの目の前から姿を消した。
月は…
力を持ち過ぎた寂しそうな女だった──…‥