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34
初めて会った男。
それも犯罪者の疑いのある男。
そんなエルリックの差し出す手を私は取った。
疑わなかった訳ではないが、信じてみようと思った。
私を護り、護らせてくれると言ったこの男を——…
=大事なもの=
「お客さんは帰ったの?」
『はい』
エルリックが帰ってから暫くして、秋乃さんが部屋へとやってきた。
淡々と答える私を見た秋乃さんは、眉を寄せて困った様に小さく笑った。
「本当に‥笑わなくなってしまったのね」
秋乃さんを困らせている事も、悲しませている事も分かっていたが、私にはどうする事も出来無かった。
「もう前へ進みなさい」
『前へは進んでます』
後ろを見ているつもりも、止まっているつもりも無かった。私は着実に進んでいる。
『唯、私は迷わずに真っ直ぐには進めなかった』
迷って踏み外して騙されて落ちて回り道をして…真っ直ぐには進めなかった。
『そして私はまた、新しい道を見付けた』
「…相変わらず‥難儀な子ね」
分かってる。
でも‥でも…‥
『御免なさい、秋乃さん』
「一週間後…水曜に昇格試験をしましょう」
『でも私はもう秋乃さんの弟子じゃ‥』
「何言ってるの。貴女は死んでも私の弟子よ」
一週間後の水曜日、私はプリマに昇格した。
“星屑の幻想 ”と通り名を貰った私は、家に住み着いた手足が短く胴が長い火星猫に“ハヤト”と名前を付け、エルリックと共に“颯 ”を立ち上げた。
エルリックの言う通り、護衛を兼ねた客にはハドルトソンの関係者が沢山来た。
全て計画通りだった。
颯 を初めて一年が経った頃、漸く大元になる“信頼”が出来上がった。
そんな矢先の事だった。
警察に居た時の先輩が事故で急死した。
“舟 に乗りたかった”と言ってくれたあの先輩だった。
私の身を案じて私をクビにした先輩だった。
優しい先輩だった…
私は一つに結っていた髪を結び目から鋏でバッサリと切ると、それを柩に入れた。
旅立つ先輩を私が護れる様に‥
そう願いを込めて…
葬儀から帰ってきたクロアは、リビングの床に崩れ落ちて背の低いテーブルに伏せた。
留守番をしていたハヤトがそっと寄り添い、頭を伏せているクロアの頭に擦りつけた。
『…ハヤト…‥』
「ニィ」
『凄く気持ちが悪いの……ドロドロした何かに呑まれそうで…気持ち悪いの‥ハヤト』
「……ニィ」
右目が痛い。体が痛い。
胸が‥痛い…‥
『舟 …乗せられなかった。先輩、電話で“休みが取れない”何て嘆いてたけど…無理にでも呼べば良かった。夜中に待ち伏せでもして、疲れきって帰宅する先輩を送ってやれば良かった』
出来る事は、きっと沢山あった筈なのに‥
私はやらなかった。
『今更馬鹿みたいね…ハヤト』
私は何一つ出来無かった。
そして後悔ばかりする。
今更後悔したって‥
どうやっても遅いのに…‥
本当に馬鹿みたい…
そう思った瞬間、静かな室内にハヤトの唸り声が響いた。
私は手を添えてそれを止めさせると、伏せていた顔を上げた。
そこに立っていたのは、薄茶の髪を一つに結った、青い瞳の中性的な子供だった。
『貴方…誰?』
少し驚いた顔をした子供は、優しく微笑んだ。
『約束通り来たよ、クロア』
そう言って子供…少年が襟元から引っ張り出したネックレスを見た瞬間、今度は私が驚いてしまった。
あれは…私のネックレスだ。
今それを持っている筈なのは‥
『ジョン…』
『そう、ジョンだよ』
ジョン・ハドルトソン…仇の息子。
何も知らない…
私のいとこ——‥
『クロア、約束通り来たよ…』
『……』
『“クロアさん”もう一度約束をしましょう』
片膝を付いたジョンは、床に座る私と視線を合わせると、そっと私の手を取った。
『僕と一緒に‥未来 へ進んで下さい』
利用出来ると思った。
だからケイトという名前を与えて女として入社させ……与る事にした。あの日の約束通りに‥
会社の時期総代を運命付けられた少年。
そんなジョン…ケイトが自ら私の手中に収まる何て、好都合だった。
最初はハドルトソンの罠かとも思ったが、ケイトは本当に何も知らなかった。
それはもう愚かしい程に…いつかの私の様に‥それはもまた好都合だった。
だけどケイトと暮らしていく中で私に異変が起きた。
本当に何も知らずに、純粋に私を頼って来たケイトを…
利用しようと‥両親を潰そうと企んでいる相手である私に何も知らずに尽くしているケイトを…
私を“好きだ”というケイトを…
『私には出来ません、ロード』
《情がわいてしまったか…あの子供は敵の息子だぞ》
『でも敵では‥』
《君は優し過ぎる、クロンティア》
『…‥御免なさい‥』
そう口にしてそっと受話器を置くと、背凭れへ寄り掛かった。
『どちら様かしら』
そう声を掛ければ、柱の影から女が姿を現した。書類上で見知った顔だった。
「応答が無かったんで勝手に上がらせてもらったわ」
『それは失礼、丁度電話中だったのよ…で、どちら様かしら』
「アンです。アンジェリカ・一羽・ハドルトソン…出来損ないのジョンの姉です」
『一…羽‥』
「えぇ、一羽」
アンジェリカ・K・ハドルトソンのKは一羽だったのか…頭にくる。
奴等はどの面下げて娘に“一羽”と名付けたんだろうか…
『そう…良い名前ね』
「そうかしら?アンジェリカ・ハドルトソンで十分。一羽何てお下がり不必要よ」
この姉がどういう風に優しかったのかケイトに聞きたくなった。
『颯 には“優秀で優しいジョン”しか居ないわ。もしその子で良かったらそこで黙ってもう少し待ちなさい、買い物に行かせてるから』
「用があるのは貴女によ。天空の戦士 、星屑の幻想 …天才“クロンティア・K・ヴァータジアーク”」
『…良く御存知ね』
「ヴァータジアークって名前が気に食わないけど…アンタ、有名じゃない。まぁ私からしてみれば、唯の“片目の気取った、惨めな落ちぶれた女”だけどね」
馬鹿にした様に笑う女は見るからに悪役で、見ていてある意味すっきりした。
『気取ってるつもりは無いけど“惨めな落ちぶれた女”には私も賛成するわ』
そう言ってやれば、女は苦虫を噛み潰した様な顔をした。
『で…用って何かしら?』
「ジョンを返してちょうだい」
『あらあら、調子の良い子』
「何ですって」
『聞こえなかった?調子の良い子って言ったのよ。否定はしないけど…散々罵った相手に返してだなんて良く言えたわね、常識知らずの調子の良いお嬢さん』
「ッ、うるさい!!アンタがジョンを誑かしたんでしょ?!!調べは付いてるの、火星 に旅行に来た時、あの子に接触したのはアンタだけよ!!」
『あぁ…一見貴女が悪役 に見えるけど、貴女からすればジョンをとった私が、何か企んでる悪役 ってわけね。
あの子は自分で選んだのよ。自分でここに来た、帰りたいなら勝手に帰る筈よ』
「あの子はあれでも一応うちの跡取りなのよ!こんな見すぼらしい舟屋で油売ってる暇は無いの」
『貴女がここへ来る事を、御両親は了承しているのかしら』
「関係無いでしょ!」
『貴女が私にそう話す事を、御両親は了承してるのかしら』
「ッ、だから関係無いって言」
『私に命を預けている顧客達は殆どがおたくの会社の御得意様なの』
「ぇ…」
女の顔が一瞬にして青ざめた。あの日の事だけ調べて、私の事は何も調べずに来るだなんて愚かな子…
『大目玉ね、出来たお姉さん。大丈夫…惨めな落ちぶれた私がフォローしておいてあげるわ』
嫌みったらしくそう言ってやれば、女は怒りで顔を真っ赤にして颯 を出て行った。
あんな挑発して大人気ない…
馬鹿みたい、私——…‥
『ロード、ちょっと付き合って欲しい所があるんですけど‥』
受話器越しに響くロードの声が、楽しそうに弾んだ。
生温さに呆れた様な声も出したが、やっと復讐をするという事が楽しかったんだろう。
私達は直ぐに行動に移した。
週末、私はケイトに嘘を吐いてロードと…エルリックと共に地球 へと飛び立った。
初めての地球 だった。
故郷といえど一羽ばあちゃんとここを飛び出したのは赤ん坊の時だったから懐かしいという感覚は無かった。
エルリックの運転する車に揺られて連れて行かれた先にあったのは大層な豪邸だった。
「君の本来の家だ、クロンティア」
『私の…家‥』
巨大な門を潜り抜け、綺麗に手入れされた庭を抜けた先の立派な建物の入り口には六人の侍女が待っていた。
車から降りたクロアは、自らの腕を絡めていたエルリックの腕を抱き締める様にして顔を伏せ、そのまま侍女達が開けてくれた扉を潜り抜ける。
「御久しぶりです、ミラージュ殿」
「いらっしゃいませ。御無沙汰してます、ミラージュ様」
これが…
叔父と叔母の声‥
「御久しぶりです、元気そうで何よりですよローランド、ジェシカ」
「そちらの方は誰かね?」
「あら、ぴったりとくっついてしまって可愛らしい」
「私の婚約者です」
「まぁ、婚約なさったのね」
「実に目出度いな、ジェシカ」
「えぇ、そうねローランド」
こいつ等のうのうと‥
あぁ…気持ち悪い…‥
「紹介しましょう…私の婚約者で、御社元七代目総代であり」
エルリックの口角が嫌らしく上がったのが微かに見えた。
楽しくて仕方無いのだろう。
「貴方方の姪でもある“クロンティア・心葉・ヴァータジアーク”です」
私も…
『初めまして‥ローランド叔父様、ジェシカ叔母様』
楽しくて仕方無い。
使用人達がざわつく中、伏せていた顔を上げれば、私の顔を見た二人の顔が一瞬にして青ざめた。
『御存知だと思いますが…颯 にて息子さんをあずからせて頂いています。優しい息子さんですね』
“貴方方と違って”と付け足せば、二人は青い顔で不機嫌そうに眉を寄せた。
「ッ……これは‥どういうつもりですか、ミラージュ殿」
「クロンティアに一目惚れしてしまいましてね…‥あれこれ調べていたら貴方方が出て来まして」
エルリックはクロアの腰に手を回すとニッコリと微笑んだ。
「六代目とその奥方…そして五代目とその奥方までを手に掛けた貴方方が、クロンティアをも狙っているのが気に食わなくて…‥クロンティアの身の安全も兼ねて復讐を持ち掛けましてね」
『プロポーズ共々御受けしました。良い提案でしたからね‥案の定、貴方方は私に手出しが出来無くなったし』
エルリックの御陰で、本当に助かっている。体に負担が掛からない程度に情報を集められる仕事が出来る上、身も護れる。何て素敵だろう。
『でも心配事があったんで、今日こうやってエルリックに付き添って貰って御訪ねしました』
優しく微笑んだエルリックを見た私は、事の成り行きを見ていた使用人達に向けて声を上げた。
『皆、良く聞きなさい!貴方方が‥過去と未来の大事な証人です』
言いたくない…
言いたくないけど‥
私は言うしかない。
望み通りにする為には…
もうこれしか方法が無い。
『ローランド・ハドルトソン…六代目総代、ヴィンセント・アイル・ヴァータジアークの娘たる私、元七代目総代クロンティア・心葉・ヴァータジアークは、八代目を正式に貴方に差し上げます』
「……は?」
私の言葉に叔父はそう間抜けな声を漏らした。
『私は地位も名誉も金も屋敷も…何一つ要りません。貴方方に全て差し上げます』
“その代わり”と続けたクロアは、一瞬で二人の目の前へと出ると、二人の首を絞める様に手を掛けた。
「ひ…ッ」
『私の知人達に手を出したら殺します』
「わ…わ、分かった‥」
『不幸な目に遭わせても、ジョンを無理矢理連れ戻そうとしても‥』
「ッ、分かった、分かってる!!」
手を離すと、二人はその場に崩れた。
叔父は私を見ていたが、叔母は下を向いてガタガタ震えたまま全く動かなかった。
『まぁ、叔母様。叔父様のネクタイと御揃いの紫のドレス…青い顔に良く御似合いですよ』
「ッ‥!!」
「あはははは!君にしては言うねぇ、クロンティア」
『だって、こんなに震えて…馬鹿みたい、私は何を恐れていたんだか』
こんな事ならもっと早くこうしていれば良かった…
「まあ、そう言うな。馬鹿共に代償が無くてスッキリはしないが、君の友人達の安全の保障にはなった」
『まぁ、確かに』
「あ、そうそう…クロンティアに手を出したら」
『エルリック、何を』
「“Mirage”が許しませんよ」
『…エルリックの方が何か恐いな』
チラリと見えた目が笑っていなかったから尚恐かった。
「クロンティアと違って私は優しく無いからな。分かりましたか、ローランド?」
「わ、分かった!」
叔父の声は震えていた。恐怖を感じてくれているのは嬉しかった。
でも…エルリックの言った通り、スッキリはしなかった。
「全く馬鹿ですね“天空の戦士 ”と“毒蛇の蜃気楼 ”を敵に回すとは」
『毒蛇ね…』
初めて聞いたその言葉を、叔父は知っている様だった。
「…き…聞きたい事がある」
『何?』
「何故警察に証拠を渡さない…何故直ぐに私達を殺さない?」
最初はそうするつもりだった。
地獄の底まで落として殺してやろうかと…
でも殺すのは“同じ”になるのが嫌で止めた。
だから証拠を集めるだけ集めて警察につき出そうとした。
でもそれじゃ…
『何も知らないアンジェリカとジョンが可哀想ですから』
ある日急に両親が警察に連行されたら…
ある日急に“殺人犯”の子供にされたら‥
二人が可哀想だし、何より…
『ジョンが壊れてしまう』
それは避けたかった。
あの子は純粋に私を慕ってくれている。何も知らずに…
そんな子を私は壊せない。
だから…
『だから黙っています』
“それに”と続けながら、クロアはエルリックに向かってゆっくりと歩き出した。
『私が生まれた場所、育つべき筈だった場所、家庭のあたたかさ、両親のあたたかさ、身体的強さ等一切気にしなくて良い環境、平穏な優しい日々…』
ずっと、ずっと‥
欲しかった沢山のもの…
『全部忘れてあげます。これから私の夫であるエルリックが与えてくれると信じて』
そう言った私の額に、嬉しそうに微笑んだエルリックのキスが落ちてきてあたたかかった…
『でも…ヴィンセント・アイル・ヴィンセント、クロンティア・ヴァータジアーク、ジャクリーヌ・一羽・ヴァータジアークの三人を殺害した事は…』
大切な人達を奪った事は…
その事だけは‥
『死んでも忘れません』
そう残して…
私はもう二度と来る事は無いであろう実家を出た。
「やはりあれでは生温いと思うぞ、クロンティア」
『あれが最善策…他に良い方法は無いわ』
失った未来を嘆いて壊れるより、手に入る未来を護るしかないと思った。
「心葉御嬢様!」
そう声を掛けられて振り向くと、屋敷から二人の侍女が走ってきていた。
「ま、間に合った‥」
「御引き留めして…す、済みません、御嬢様」
私達の元へ辿り着いた二人は、息も切れ切れそう口にした。
『どうしたの?』
「あの‥あの夜、最後の瞬間にクロンティア奥様から預かったものです」
そう言って差し出されたのは、二つのリングだった。
『これ…』
「奥様達のペアリングです」
シルバーのシンプルなリングだった。
「ミラージュ様…御嬢様を宜しく御願い致します」
「勿論だよ。結婚した暁には、二人共是非うちの侍女になってくれ」
エルリックがそう言えば、二人は嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ、勿論!是非引き抜いてくださいな」
「楽しみにしてます」
二人は“怒られてしまうから”と直ぐに屋敷へと走って帰って行った。
『あの人達が…私とばあちゃんを逃がしてくれたのかな‥』
「そうかもな」
『……有難いな』
「そうだな」
『嬉しいな…』
「そうだな」
命を掛けて逃がしてくれて嬉しかった。会えて嬉しかった。
でも‥
『…悔しい‥な…‥』
「…‥そうだな‥」
せっかく護ってくれた一羽ばあちゃんを私は護れ無かった。
「帰ろう、クロンティア」
エルリックが…
いつだって支えてくれた——…
.
初めて会った男。
それも犯罪者の疑いのある男。
そんなエルリックの差し出す手を私は取った。
疑わなかった訳ではないが、信じてみようと思った。
私を護り、護らせてくれると言ったこの男を——…
=大事なもの=
「お客さんは帰ったの?」
『はい』
エルリックが帰ってから暫くして、秋乃さんが部屋へとやってきた。
淡々と答える私を見た秋乃さんは、眉を寄せて困った様に小さく笑った。
「本当に‥笑わなくなってしまったのね」
秋乃さんを困らせている事も、悲しませている事も分かっていたが、私にはどうする事も出来無かった。
「もう前へ進みなさい」
『前へは進んでます』
後ろを見ているつもりも、止まっているつもりも無かった。私は着実に進んでいる。
『唯、私は迷わずに真っ直ぐには進めなかった』
迷って踏み外して騙されて落ちて回り道をして…真っ直ぐには進めなかった。
『そして私はまた、新しい道を見付けた』
「…相変わらず‥難儀な子ね」
分かってる。
でも‥でも…‥
『御免なさい、秋乃さん』
「一週間後…水曜に昇格試験をしましょう」
『でも私はもう秋乃さんの弟子じゃ‥』
「何言ってるの。貴女は死んでも私の弟子よ」
一週間後の水曜日、私はプリマに昇格した。
“
エルリックの言う通り、護衛を兼ねた客にはハドルトソンの関係者が沢山来た。
全て計画通りだった。
そんな矢先の事だった。
警察に居た時の先輩が事故で急死した。
“
私の身を案じて私をクビにした先輩だった。
優しい先輩だった…
私は一つに結っていた髪を結び目から鋏でバッサリと切ると、それを柩に入れた。
旅立つ先輩を私が護れる様に‥
そう願いを込めて…
葬儀から帰ってきたクロアは、リビングの床に崩れ落ちて背の低いテーブルに伏せた。
留守番をしていたハヤトがそっと寄り添い、頭を伏せているクロアの頭に擦りつけた。
『…ハヤト…‥』
「ニィ」
『凄く気持ちが悪いの……ドロドロした何かに呑まれそうで…気持ち悪いの‥ハヤト』
「……ニィ」
右目が痛い。体が痛い。
胸が‥痛い…‥
『
出来る事は、きっと沢山あった筈なのに‥
私はやらなかった。
『今更馬鹿みたいね…ハヤト』
私は何一つ出来無かった。
そして後悔ばかりする。
今更後悔したって‥
どうやっても遅いのに…‥
本当に馬鹿みたい…
そう思った瞬間、静かな室内にハヤトの唸り声が響いた。
私は手を添えてそれを止めさせると、伏せていた顔を上げた。
そこに立っていたのは、薄茶の髪を一つに結った、青い瞳の中性的な子供だった。
『貴方…誰?』
少し驚いた顔をした子供は、優しく微笑んだ。
『約束通り来たよ、クロア』
そう言って子供…少年が襟元から引っ張り出したネックレスを見た瞬間、今度は私が驚いてしまった。
あれは…私のネックレスだ。
今それを持っている筈なのは‥
『ジョン…』
『そう、ジョンだよ』
ジョン・ハドルトソン…仇の息子。
何も知らない…
私のいとこ——‥
『クロア、約束通り来たよ…』
『……』
『“クロアさん”もう一度約束をしましょう』
片膝を付いたジョンは、床に座る私と視線を合わせると、そっと私の手を取った。
『僕と一緒に‥
利用出来ると思った。
だからケイトという名前を与えて女として入社させ……与る事にした。あの日の約束通りに‥
会社の時期総代を運命付けられた少年。
そんなジョン…ケイトが自ら私の手中に収まる何て、好都合だった。
最初はハドルトソンの罠かとも思ったが、ケイトは本当に何も知らなかった。
それはもう愚かしい程に…いつかの私の様に‥それはもまた好都合だった。
だけどケイトと暮らしていく中で私に異変が起きた。
本当に何も知らずに、純粋に私を頼って来たケイトを…
利用しようと‥両親を潰そうと企んでいる相手である私に何も知らずに尽くしているケイトを…
私を“好きだ”というケイトを…
『私には出来ません、ロード』
《情がわいてしまったか…あの子供は敵の息子だぞ》
『でも敵では‥』
《君は優し過ぎる、クロンティア》
『…‥御免なさい‥』
そう口にしてそっと受話器を置くと、背凭れへ寄り掛かった。
『どちら様かしら』
そう声を掛ければ、柱の影から女が姿を現した。書類上で見知った顔だった。
「応答が無かったんで勝手に上がらせてもらったわ」
『それは失礼、丁度電話中だったのよ…で、どちら様かしら』
「アンです。アンジェリカ・一羽・ハドルトソン…出来損ないのジョンの姉です」
『一…羽‥』
「えぇ、一羽」
アンジェリカ・K・ハドルトソンのKは一羽だったのか…頭にくる。
奴等はどの面下げて娘に“一羽”と名付けたんだろうか…
『そう…良い名前ね』
「そうかしら?アンジェリカ・ハドルトソンで十分。一羽何てお下がり不必要よ」
この姉がどういう風に優しかったのかケイトに聞きたくなった。
『
「用があるのは貴女によ。
『…良く御存知ね』
「ヴァータジアークって名前が気に食わないけど…アンタ、有名じゃない。まぁ私からしてみれば、唯の“片目の気取った、惨めな落ちぶれた女”だけどね」
馬鹿にした様に笑う女は見るからに悪役で、見ていてある意味すっきりした。
『気取ってるつもりは無いけど“惨めな落ちぶれた女”には私も賛成するわ』
そう言ってやれば、女は苦虫を噛み潰した様な顔をした。
『で…用って何かしら?』
「ジョンを返してちょうだい」
『あらあら、調子の良い子』
「何ですって」
『聞こえなかった?調子の良い子って言ったのよ。否定はしないけど…散々罵った相手に返してだなんて良く言えたわね、常識知らずの調子の良いお嬢さん』
「ッ、うるさい!!アンタがジョンを誑かしたんでしょ?!!調べは付いてるの、
『あぁ…一見貴女が
あの子は自分で選んだのよ。自分でここに来た、帰りたいなら勝手に帰る筈よ』
「あの子はあれでも一応うちの跡取りなのよ!こんな見すぼらしい舟屋で油売ってる暇は無いの」
『貴女がここへ来る事を、御両親は了承しているのかしら』
「関係無いでしょ!」
『貴女が私にそう話す事を、御両親は了承してるのかしら』
「ッ、だから関係無いって言」
『私に命を預けている顧客達は殆どがおたくの会社の御得意様なの』
「ぇ…」
女の顔が一瞬にして青ざめた。あの日の事だけ調べて、私の事は何も調べずに来るだなんて愚かな子…
『大目玉ね、出来たお姉さん。大丈夫…惨めな落ちぶれた私がフォローしておいてあげるわ』
嫌みったらしくそう言ってやれば、女は怒りで顔を真っ赤にして
あんな挑発して大人気ない…
馬鹿みたい、私——…‥
『ロード、ちょっと付き合って欲しい所があるんですけど‥』
受話器越しに響くロードの声が、楽しそうに弾んだ。
生温さに呆れた様な声も出したが、やっと復讐をするという事が楽しかったんだろう。
私達は直ぐに行動に移した。
週末、私はケイトに嘘を吐いてロードと…エルリックと共に
初めての
故郷といえど一羽ばあちゃんとここを飛び出したのは赤ん坊の時だったから懐かしいという感覚は無かった。
エルリックの運転する車に揺られて連れて行かれた先にあったのは大層な豪邸だった。
「君の本来の家だ、クロンティア」
『私の…家‥』
巨大な門を潜り抜け、綺麗に手入れされた庭を抜けた先の立派な建物の入り口には六人の侍女が待っていた。
車から降りたクロアは、自らの腕を絡めていたエルリックの腕を抱き締める様にして顔を伏せ、そのまま侍女達が開けてくれた扉を潜り抜ける。
「御久しぶりです、ミラージュ殿」
「いらっしゃいませ。御無沙汰してます、ミラージュ様」
これが…
叔父と叔母の声‥
「御久しぶりです、元気そうで何よりですよローランド、ジェシカ」
「そちらの方は誰かね?」
「あら、ぴったりとくっついてしまって可愛らしい」
「私の婚約者です」
「まぁ、婚約なさったのね」
「実に目出度いな、ジェシカ」
「えぇ、そうねローランド」
こいつ等のうのうと‥
あぁ…気持ち悪い…‥
「紹介しましょう…私の婚約者で、御社元七代目総代であり」
エルリックの口角が嫌らしく上がったのが微かに見えた。
楽しくて仕方無いのだろう。
「貴方方の姪でもある“クロンティア・心葉・ヴァータジアーク”です」
私も…
『初めまして‥ローランド叔父様、ジェシカ叔母様』
楽しくて仕方無い。
使用人達がざわつく中、伏せていた顔を上げれば、私の顔を見た二人の顔が一瞬にして青ざめた。
『御存知だと思いますが…
“貴方方と違って”と付け足せば、二人は青い顔で不機嫌そうに眉を寄せた。
「ッ……これは‥どういうつもりですか、ミラージュ殿」
「クロンティアに一目惚れしてしまいましてね…‥あれこれ調べていたら貴方方が出て来まして」
エルリックはクロアの腰に手を回すとニッコリと微笑んだ。
「六代目とその奥方…そして五代目とその奥方までを手に掛けた貴方方が、クロンティアをも狙っているのが気に食わなくて…‥クロンティアの身の安全も兼ねて復讐を持ち掛けましてね」
『プロポーズ共々御受けしました。良い提案でしたからね‥案の定、貴方方は私に手出しが出来無くなったし』
エルリックの御陰で、本当に助かっている。体に負担が掛からない程度に情報を集められる仕事が出来る上、身も護れる。何て素敵だろう。
『でも心配事があったんで、今日こうやってエルリックに付き添って貰って御訪ねしました』
優しく微笑んだエルリックを見た私は、事の成り行きを見ていた使用人達に向けて声を上げた。
『皆、良く聞きなさい!貴方方が‥過去と未来の大事な証人です』
言いたくない…
言いたくないけど‥
私は言うしかない。
望み通りにする為には…
もうこれしか方法が無い。
『ローランド・ハドルトソン…六代目総代、ヴィンセント・アイル・ヴァータジアークの娘たる私、元七代目総代クロンティア・心葉・ヴァータジアークは、八代目を正式に貴方に差し上げます』
「……は?」
私の言葉に叔父はそう間抜けな声を漏らした。
『私は地位も名誉も金も屋敷も…何一つ要りません。貴方方に全て差し上げます』
“その代わり”と続けたクロアは、一瞬で二人の目の前へと出ると、二人の首を絞める様に手を掛けた。
「ひ…ッ」
『私の知人達に手を出したら殺します』
「わ…わ、分かった‥」
『不幸な目に遭わせても、ジョンを無理矢理連れ戻そうとしても‥』
「ッ、分かった、分かってる!!」
手を離すと、二人はその場に崩れた。
叔父は私を見ていたが、叔母は下を向いてガタガタ震えたまま全く動かなかった。
『まぁ、叔母様。叔父様のネクタイと御揃いの紫のドレス…青い顔に良く御似合いですよ』
「ッ‥!!」
「あはははは!君にしては言うねぇ、クロンティア」
『だって、こんなに震えて…馬鹿みたい、私は何を恐れていたんだか』
こんな事ならもっと早くこうしていれば良かった…
「まあ、そう言うな。馬鹿共に代償が無くてスッキリはしないが、君の友人達の安全の保障にはなった」
『まぁ、確かに』
「あ、そうそう…クロンティアに手を出したら」
『エルリック、何を』
「“Mirage”が許しませんよ」
『…エルリックの方が何か恐いな』
チラリと見えた目が笑っていなかったから尚恐かった。
「クロンティアと違って私は優しく無いからな。分かりましたか、ローランド?」
「わ、分かった!」
叔父の声は震えていた。恐怖を感じてくれているのは嬉しかった。
でも…エルリックの言った通り、スッキリはしなかった。
「全く馬鹿ですね“
『毒蛇ね…』
初めて聞いたその言葉を、叔父は知っている様だった。
「…き…聞きたい事がある」
『何?』
「何故警察に証拠を渡さない…何故直ぐに私達を殺さない?」
最初はそうするつもりだった。
地獄の底まで落として殺してやろうかと…
でも殺すのは“同じ”になるのが嫌で止めた。
だから証拠を集めるだけ集めて警察につき出そうとした。
でもそれじゃ…
『何も知らないアンジェリカとジョンが可哀想ですから』
ある日急に両親が警察に連行されたら…
ある日急に“殺人犯”の子供にされたら‥
二人が可哀想だし、何より…
『ジョンが壊れてしまう』
それは避けたかった。
あの子は純粋に私を慕ってくれている。何も知らずに…
そんな子を私は壊せない。
だから…
『だから黙っています』
“それに”と続けながら、クロアはエルリックに向かってゆっくりと歩き出した。
『私が生まれた場所、育つべき筈だった場所、家庭のあたたかさ、両親のあたたかさ、身体的強さ等一切気にしなくて良い環境、平穏な優しい日々…』
ずっと、ずっと‥
欲しかった沢山のもの…
『全部忘れてあげます。これから私の夫であるエルリックが与えてくれると信じて』
そう言った私の額に、嬉しそうに微笑んだエルリックのキスが落ちてきてあたたかかった…
『でも…ヴィンセント・アイル・ヴィンセント、クロンティア・ヴァータジアーク、ジャクリーヌ・一羽・ヴァータジアークの三人を殺害した事は…』
大切な人達を奪った事は…
その事だけは‥
『死んでも忘れません』
そう残して…
私はもう二度と来る事は無いであろう実家を出た。
「やはりあれでは生温いと思うぞ、クロンティア」
『あれが最善策…他に良い方法は無いわ』
失った未来を嘆いて壊れるより、手に入る未来を護るしかないと思った。
「心葉御嬢様!」
そう声を掛けられて振り向くと、屋敷から二人の侍女が走ってきていた。
「ま、間に合った‥」
「御引き留めして…す、済みません、御嬢様」
私達の元へ辿り着いた二人は、息も切れ切れそう口にした。
『どうしたの?』
「あの‥あの夜、最後の瞬間にクロンティア奥様から預かったものです」
そう言って差し出されたのは、二つのリングだった。
『これ…』
「奥様達のペアリングです」
シルバーのシンプルなリングだった。
「ミラージュ様…御嬢様を宜しく御願い致します」
「勿論だよ。結婚した暁には、二人共是非うちの侍女になってくれ」
エルリックがそう言えば、二人は嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ、勿論!是非引き抜いてくださいな」
「楽しみにしてます」
二人は“怒られてしまうから”と直ぐに屋敷へと走って帰って行った。
『あの人達が…私とばあちゃんを逃がしてくれたのかな‥』
「そうかもな」
『……有難いな』
「そうだな」
『嬉しいな…』
「そうだな」
命を掛けて逃がしてくれて嬉しかった。会えて嬉しかった。
でも‥
『…悔しい‥な…‥』
「…‥そうだな‥」
せっかく護ってくれた一羽ばあちゃんを私は護れ無かった。
「帰ろう、クロンティア」
エルリックが…
いつだって支えてくれた——…
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