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32
『何でばあちゃんと僕は名前が違うの?』
いつだったか…小さな私はそう聞いた。家族なのに名前が違うなんて変だと友達に言われたからだった。
「それはお前のお父さんの家系の名だよ、クロア」
『お父さんなんて知らない。ウィルソンなんていらないもん』
「それは困ったねぇ‥」
暫く考え込んだ祖母はニッコリと微笑んだ。
「クロンティア・ウィルソン、小さな私の姫様に名をやろう」
『ほんと?!』
「家名はウィルソンを名乗る事‥それが決まりだよ、クロンティア」
『はい、御祖母様』
祖母がクロンティアと呼ぶから、私も澄ましてそう応えた。
「お前の名は…」
=心葉=
僕は浮き島で産まれた。
否、はっきりとは証明出来無いので“生まれた”の方が正しいだろう。
両親には会った事が無く、育ての親であり母方のばあちゃんの“一羽 ・アーク”は僕が物心つく頃に二人は死んだと教えた。
実際に死んでいるのか生きているのか分からないけど、一羽ばあちゃんが“死んだ”と言うなら、何が本当でも一羽ばあちゃんの言う“それ”が事実になるのだろう。
一羽ばあちゃんは小さい頃から僕に何故か剣術を習わせた。
周りの女友達は皆、ピアノやダンスや塾とか女の子らしいものを習っている中、一羽ばあちゃんは知り合いのお爺に頼んで僕をお爺の弟子にした。
そして剣術の稽古の所為で女の子の割には筋肉がついて引き締まった幼い僕を見て、少しでも女らしくなる様にと髪を長く伸ばさせた。
髪なんかどうでも良かった。幼なじみの暁達と遊ぶのには長い髪は酷く邪魔だったから。
一度だけピアノをとお願いしてみたが、一羽ばあちゃんは許してくれなかった。
そんな時間があるならと稽古の時間を増やされた。
毎日毎日、増えていく筋トレと変わらない基礎の繰り返しで正直つまらなかったし辛かった。
こっそり稽古をサボろうとして何度も一羽ばあちゃんに怒られた。
「心葉、名を取り上げるよ」
そう脅されて嫌々通い続けた。
折角一羽ばあちゃんから与えられた名を無くしたくは無かった。
でも数ヶ月経った頃に基礎から抜け出してからは剣術も悪くないと思いだした。
勝てはしなかったがお爺の動きを読むのは面白かったし、小さい頃から暁達と鬼ごっことかで遊ぶと必ず負けてた僕はその頃にはもう暁達に負ける事は無かった。
お爺に追いついていくのが手に取る様に分かって楽しくなってきた頃、一羽ばあちゃんは僕に剣術と平行して護身術を習わせた。
これがまた面倒臭かった。
拳法とかいうやつで、動きがいまいちはっきりしなくて動き辛く、中々上手く出来無い。
それにお爺とは違い、拳法の先生が浮き島に住んでいなかった為、わざわざネオ・ヴェネツィアに降りて…更に街外れまで歩かなくてはいけなかった。
そして何より…水先案内人 が目に入ってしまうのが僕は嫌だった。
可愛い制服を身に纏い、水路を優雅に進む彼女達はネオ・ヴェネツィアの女性の象徴の様に見えて…そんな彼女達の脇を通る稽古着の入った鞄を持ったTシャツにGパン姿の自分が酷くみっともなく見えたし、自分とはかけ離れ過ぎた彼女達水先案内人 に憧れを抱いてる事に自分で気付いているのも嫌だった。
僕は水先案内人 に会わない様に、毎日こそこそと水先案内人 があまり使わない裏路地を通って稽古場に通った。
だから‥
「何…してるの‥?」
そう声を掛けられた時は内心酷くびっくりした。
『さぼってるの』
そう平静を装ってそう返してみたが、実際は腰掛けた橋の手摺りから落ちそうになっていたし、さぼってるというのも嘘だった。
声を掛けてきた女は柔らかい微笑みをうかベたまま僕に話し掛け続けた。
彼女が何を考えているか僕には全然分からなかったが、何となく会話に付き合って、彼女に誘われた“散歩”にも付き合った。
途中で本当に時間が過ぎてしまっていたのに気付き、僕は心の中で一羽ばあちゃんに手を合わせた。
今日だけ…
御免、ばあちゃん…
——心葉…
僕は彼女が漕ぐ舟 の微かな揺れに身を任せた。
『僕はなりたいものが無いんだ……何にも心が動かない‥』
街に溢れる様々な職業も‥
空を飛び交う彼等にも…
火星 を支える浮き島と地底に生きる彼等にも…
職的に何にも心が動かない。
『でもお姉さんは素敵だと思った…舟 で水上を進むのも素敵だと思った‥』
——心葉…‥
ゆっくりと流れる時間が心地好い…
だから‥
『僕、水先案内人 になりたい……かもしれない』
言った瞬間に自分が何を口走ったかに気付いて、慌てて“かもしれない”と付け足した。
『でも良く分からないんだ…こんな事初めてだから……だから今だけの感情かもしれない』
——心葉。
水先案内人 は許さないよ…
厳しい声が頭に響いた…
駄目だ。
——心葉‥
駄目だよ…水先案内人 は駄目だ。
そう思ってはいても駄目だと思えば思うほど、憧れがどんどん溢れ出していく…
今日だけ‥少し…遊んでも良いかな‥
そう思って…
『いつか‥いつか貴女のいる会社を訪ねるかも‥しれない…』
僕はそう言ってはいけない事を口にした。
叶わないと分かっていても、夢を見たくなった。
彼女の笑顔に‥人柄に…
何だか甘えてみたくなった‥
「待ってるわ」
彼女の声は酷く優しい。
何ともいえない罪悪感の中、僕は彼女の優しい笑顔に唯笑い返した。
「どういう事だい、心葉」
その日は当然、家に帰った瞬間にばあちゃんに怒られた。
何時間も説教されたが、不思議と“心葉”が取り上げられる事は無かった。
ベッドに入って眠りにつくまで、耳にキンキンとばあちゃんの声が響いていた。
それが僕が彼女と出逢った日だった。
後日、本屋で立ち読みした雑誌に彼女が載っていた。
有名な水先案内人 だったらしい…勤めていた姫屋を辞め、新しい会社を開業したと書いてあった。
『凄い‥な…』
彼女は緩やかにどんどん前に進んでいく‥
おっとりしててぽけっとしてそうなのに…行動力あるんだな。
——待ってるわ…‥
『……』
待ってて‥くれるのかな…
名前も知らない僕の事を‥
『行っても良いのかな…』
涙が溢れそうになったのは、きっと彼女の声が今もずっと耳に響いてるからだ…
——待ってるわ…‥
僕は剣術も護身術も、苦手な勉強や料理も頑張った。一羽ばあちゃんは勿論喜んでくれた。
暁は僕が勉強してるのを見て青ざめて、熱があるんじゃないかと酷く心配し、ウッディーはちょこちょこ現れて料理の毒味をしてくれた。
そしてアルは、いつもの笑顔で何も言わず見守っていてくれた。
我武者羅に頑張ってみたけど、納得行くまでに一年以上掛かってしまった。
「話ってなんだい、心葉」
御免…ばあちゃん‥
『僕、水先案内人 になりたい』
一羽ばあちゃんの顔は見る見るうちに青くなっていった。
「前にも‥駄目だと言ったろ…け、警察とかになさい。それならお前の力も活かせるしそれに水先案内人 は‥」
『また“収入が安定しない”とか“舟 を漕ぐだけの仕事だ”とかいうの?』
「心葉‥ッ」
『僕は水先案内人 に』
「水先案内人 は駄目だ!!」
ばあちゃんが怒鳴るのを初めて見た。
こんな青ざめた顔で慌てて…
『…理由は』
「どうしても駄目なの‥心葉」
理由を言わないばあちゃんに腹が立って家を飛び出した。あても無く走り続けた。
止まりたくなかったが、途中で暁達に鉢合わせしそうになったからネオ・ヴェネツィアに下りた。
大通りを駆け抜け、裏路地に入ると少し走るスピードを落とす。
息を整えつつ咳込みそうな程乾いた喉に唾を送り込みながら辺りを見回すと、見覚えのある橋まで来ている事に気付いた。
疲労でカタカタと笑い出した足を引き摺り、いつの日かそうした様に橋の手摺に水路に足を投げ出す様にして腰掛けた。
あぁ…モヤモヤする…‥
『一羽ばあちゃんの馬鹿…』
そう呟いたクロアは、グッと拳を握り締めた。
昔からやりたい事は大抵一羽ばあちゃんに反対されて諦めて生きてきた。
でも私には一羽ばあちゃんが唯一だったからずっと逆らおうともしなかった。
だって私には父さんも母さんも兄弟も…‥誰も居ない。
私には一羽ばあちゃんしか家族が居なかったから‥
そんな私がこの時、何故一羽ばあちゃんに逆らおうと思ったのか……私は今でも分からない。
「すわっ!そんな漕ぎじゃ立派なプリマにはなれんぞ、アリシア!もっとこう…スイ〜スバッと!」
「あらあら」
ふとそう声がして橋の下の水路を見ると、黒髪の少女と金髪の少女が乗った舟 が橋の下から出て来る所だった。
金髪の少女が着ている制服に見覚えがあった。
「ウフフ‥晃ちゃん、スイ〜スバッ…じゃ分からないわ」
「すわっ、察しろ!」
「あらあら」
彼女達が何を考えて漕いでいるかが気になった‥
そして…僕が何を考えているかも。
『ねぇ、それ楽しい?』
そう声を掛けると、舟 を漕いでいた金髪の少女が漕ぐ手を止めて顔を上げた。
「あぁ、何だ?」
「あ‥晃ちゃん、あの子が」
舟 が止まった事を不審に思った黒髪の少女が声を漏らし、金髪の少女の目線を追った。
『楽しい?』
「た‥楽しいよ」
そう応えた金髪の少女には動揺が見て取れた。
当然といえば当然だろう。
見知らぬ子に急にこんな質問をされて‥
『お客さん運ぶだけなのに?』
「客だけじゃ無い。頼まれれば荷物も運ぶ‥それに私達水先案内人 は案内人なんだネオ・ヴェネツィアの案内をするんだ、唯送り届けるだけじゃない」
「ただ、お客様を運ぶだけが水先案内人 じゃないの‥」
一羽ばあちゃん…やっぱりそうなんだよ。
水先案内人 は唯客を運ぶだけじゃない。
『そこまで言えるって事は凄く楽しいんだね?』
「凄く楽しいよ」
迷いのないその答えに、思わず頬が緩んだ。
一羽ばあちゃん‥
御免‥御免ね…‥
『ありがと、決心がついた』
「決心?」
そう言った黒髪の少女の…三日後に“晃”という名だと分かる彼女の不機嫌そうな顔は今でも忘れない。
僕は直ぐに駆け出した。
ARIAカンパニーを探してネオ・ヴェネツィアを走り回った。誰かに聞けば良かったのに‥
ARIAカンパニーに辿り着くと“あの人”がカウンターに居た。
僕を見付けると、彼女の動きはピタリと止まった。
果たすつもりも無かった…忘れられているかもしれない。
そんな約束を僕は果たしに来た。
ねぇ‥
どうか僕を‥僕を…‥
『私、ネオ・ヴェネツィアを運びたい』
僕を拾って…
『僕に‥僕に力を貸して』
僕を見て、目を見開いて少し驚いた顔をしていた彼女は、ふと優しく微笑んだ。
「待ってたわ、私の星屑」
その夜、僕は一羽ばあちゃんに気付かれ無い様にこっそりと家に帰ると、静かに部屋を片付け…明け方、少しの荷物を持って家を出た。
机の上には書き置きを置いておいた。
淡い空色の地に黒いインクで“行ってきます”と唯一言書かれた小さなメモ用紙だけを残して、僕は秋乃さんに導かれる様にしてARIAカンパニーに入社したのだ。
酷い裏切りだったと思う‥
一人で僕を育ててくれた一羽ばあちゃんを置いて行った挙げ句、何も言わずに出て行くなんて…
最低だ。
でも僕は進みたかった。
早くプリマになって、稼ぐんだ。
そして一羽ばあちゃんに…
「アリシア…新人のクロンティア・K・ウィルソンよ」
「貴女、昨日の‥」
『宜しく“アリシア先輩”』
必死だった。
一羽ばあちゃんに認めてもらう為に唯ひたすらに…だから周りの目に気付いたのは随分経ってからだった。
入社して三日でシングルに昇級した事が広まった為に向けられる好奇の眼差し……でも、僕‥
“私”には関係無かった。
私はアリシアと晃とアテナの三人との合同練習という、楽しくて有益に勉強が出来る場所があれば十分だった。
三人と秋乃さんが居る。現状はそれだけで十分で…後はひたすらに一羽ばあちゃんの許しが欲しかった。
早くプリマになれる様にと‥
早く一羽ばあちゃんの耳に私の業績が届く様にと頑張った。
そんなある日…
自主練習の時に、あの橋に…いつかの私の様に座った少年を見付けた。
『そこに座ってたら危ないわよ』
そう声を掛けたが、返事は無かった。
それどころかはんのうのひとつも無い。
『聞いてんの?』
『…俺ですか?』
そう、まだ変声期を迎えていない気怠そうな声が聞こえると共に、どこかまだ幼い少年の顔が見えた。
『俺ですかって…他に誰がいるのよ?』
丁度辺りには誰も居なかった。
少し可笑しくなって笑いが漏れる。
『大丈夫だよ』
『大丈夫なんて保証、どこにもないわ』
“大丈夫”なんて決められる物じゃない。
不完全な私達生き物にとって、大丈夫と言いきれるもの等無いのだから‥
『…じゃあ、降ります。ご心配ありがとうございました』
そう言って橋の上に降りると、鞄を片手に少年は歩き出した。
『ねぇ!』
そう後ろから再度声を掛けた私は、少年を散歩に誘った。半ば強制的に自分の舟 に乗せ、水路を進む。
何だか放っておけなかった…
地球から観光で来たという少年が、酷く寂しそうで‥
『私は“クロンティア・K・ウィルソン”クロアって呼んで…‥君の名前は?』
『ジョン…ハドルトソン』
『ジョン・ハドルトソンね。そういえば‥君誰と来たの?』
『家族』
『誘っといてなんだけど‥単独行動で良いの?』
『逃げてきたから良いんだ』
『“逃げてきたから”ねぇ…』
やっぱり訳ありの様だった。
水路を挟む様に植えられたら木々のおかげで出来る木漏れ日が心地好いらしく、少年は空を仰ぐ様に上を向くと目を閉じた。
『仲の良い姉弟だったんだ』
それは唐突に始まった。
何故少年…ジョンが私に話そうと思ってくれたのか、私には分からなかった。
ジョンとその姉は仲が良かった…しかしそれは一年前の祖母の死去で一変する。
それがジョンの終わりであり‥同時に“始まり”でもあった。
『うちは結構大きな会社を経営していて、代々男であろうと女であろうと、兄弟の中で一番上の子が跡目を継ぐと決まっていた』
仕来りの様な暗黙の了解と‥
『ばっちゃんの遺言には俺が跡目を継ぐ様にと書いてあった』
祖母の遺言がジョンを苦しめる事となる。
祖母が死んだ事を悲しんでいる間も無く告げられたら事実…跡取りとして育てられたジョンの姉の態度は急変した。完璧にやってきたと思った人生……どこで期待に応えられなかった分からない自分を後目に、跡取りに選ばれたジョンが姉は憎かったんだろう。
自分の障害にはならないと思っていたジョンに足元を掬われれ、ジョンを今まで気に掛けていなかった両親がジョンを見る様になった事で自分が見離された様で…
役目を失った自分の立ち位置が分からなくて‥
今までの人生を…
全て否定された様で…‥
『あんなに優しかったのに、今じゃ俺を蔑んで見てる』
姉の精神は、ジョンに当たる事でしか少しでも救われる道を見付ける事が出来無かったんだろう。でもジョンは…
『それだけでこっちはパニックだってぇのに、見当たらないばっちゃんの遺産の場所を…異例の継承者なんだから俺が知ってる筈だと親族が勘違いを始めた。親は俺の中の幻想の財産を見…姉さんの瞳に僕は映らない』
ジョンは…
『俺は何なんだ』
気付いてやれない…
突然自分にのし掛かった物の重大さを分かってるから、目の前の大事な物が‥少しでも救われるかもしれない道を見逃す。
そして自らも閉じ籠もる——…
『情けない』
そう口にしたクロアは、舟 を漕いでいた手を止めて、振り向く様に自分を見上げているジョンを真っ直ぐ見据えた。
『今の話じゃアンタ何もして無いじゃないの』
『な…ッ』
『アンタがくよくよして部屋に閉じこもっても世界は回り続けるし、誰も死ぬ程困ったりはしないのよ』
クロアは持っていたオールを舟 に預ける様にして置くと、ジョンの正面へと回り込んだ。
自然とクロアを見ていたジョンの体が正面を向く。
『辛くて苦しいんだったら目一杯抵抗しなさい』
『抵抗‥』
『足掻いて苦しんで…自分に出来る事を全てやりきったら』
“その時は”と続けたクロアは、少し怒った様な表情から一変して楽しそうに歯を見せて笑った。
『新しい幸せを見付けなさい』
最悪だと思える現状に唯沈んで行くのではなく、出来る事をし尽くせば良い。
そして、自分の全てを出し切ってしまったら…今度は前に進めば良い。
宥める様にジョンの頭を撫でると、ジョンは自然に目を瞑った。
『あらあら、猫みたい。顔以外にも可愛らしいとこがあるのね』
『か、可愛いってなんだよ!』
『褒めてんのよ~受け取っときなさい、ジョン』
楽しそうに笑ったクロアは、被っていた制服の帽子をジョンに深々と被せると元居た位置に戻ってオールを手にした。
せめて今だけは…
見付からない様に——…‥
私はジョンにこっそり舟 を漕がせてみたり、カフェに寄り道をしたりしながらネオ・ヴェネツィアを回った。でも楽しい時間は直ぐ終わる…
時間が経つのは早いもので、気付けば辺りは茜色に染まっていた。
引き留めるわけにもいかず、夕闇が迫るサン・マルコ広場にジョンを送り届けた。
『サン・マルコ広場に到着よ』
『…ありがと』
ジョンの手を取って舟から降ろした。
早く帰らないと…秋乃さんとアリシアが帰りを待っている。
『クロア!』
そう声を掛けられ、私はオールを手にジョンを振り返った。
『…なぁに』
『俺‥水先案内人 になりたい!』
『水先案内人 は女限定よ』
思わぬジョンの言葉に間髪入れずに思わずそう切り捨ててしまった。
目に見えて沈むジョン見て“でも”と続けたクロアは、楽しそうに笑った。
『そんな決まりを打ち砕くのも何だか凄く楽しそうね』
『え…?』
『堂々と家を出れる様になったら、私を訪ねてらっしゃい』
この子はこれから成長する。身体的にも精神的にも…だから私が必ず分かる様に、付けていたネックレスをジョンの首に掛けた。
『ありがとう』
そう言って嬉しそうに笑うジョンに手を振って別れると、私はARIAカンパニーに向けて舟 を漕ぎ出した。
『待ってるわ…私の——‥』
風に乗せた小さな言葉を知っている人は誰もいない…
誰にも言う気は無かったし、言う時間も無かった。
「クロアちゃーん、電話おねがーい」
『はいはーい』
その電話も、また予約の電話だと思ってた。
『お電話ありがとうございます。ARIAカンパニー、クロア・K・ウィルソ…』
《心葉》
『………ぇ‥』
聞き間違いかと思った。
でもこの声は…
『一羽‥ばあちゃん…?』
《心葉‥》
一羽ばあちゃんだった。
待ち焦がれた人だった…
《頑張ってるみたいね、心葉》
『出来るっつったでしょ』
《でも月刊ウンディーネには載らない様になさい》
『見たの?』
「えぇ、だから連絡したのよ」
月刊ウンディーネに載らない様に‥どういう事だろ?
「大事な話があります。心葉、次の休みに来なさい」
心臓が高鳴った。
許してもらえたんだろうか‥?
そう期待が込み上げた。
「クロア、電話は済んだの?」
『ぁ…はい、秋乃さん』
「ねぇ、来週の水曜日‥貴女が入社した日よ、覚えてる?」
『はい、勿論です』
「来週の水曜日‥昇格試験をしましょう」
『え…?』
「貴女ならもう一人で進めるわ」
嬉しい事が続いた。その事の意味に私は気付いていなかった。
一羽ばあちゃんの教えを私は忘れていたのだ。
『ただいま~、ばあちゃん』
週末に一年振りに家に帰った。
一年前に飛び出した生まれ育った家は酷く懐かしかった。
『私の…‥僕の物…取っといてくれたんだ』
私はこんなに変わってしまったのに、この家は何一つ変わっていなかった‥
『ばあちゃん!…一羽ばあちゃ~ん?』
一羽ばあちゃんに抱き付きたくなって声を張り上げた。
しかし一羽ばあちゃんは一向に姿を現さず、返事をする事も無かった。
『……一羽ばあちゃん?』
有り得ない‥一羽ばあちゃんはどの部屋に居ても呼べば“うるさいよ”と私を注意してくるくらい耳が良い。こんなに呼んでも反応が無いだなんて…
『ッ、一羽ばあちゃん!!』
そう何度も叫びながら部屋を順番に回った。
そして書斎の扉を開けた瞬間、私は高々と声を上げて笑った。
何で笑ったのか…
何で笑い続けているのか…
自分でも‥全く意味が分からなかった。
自分の狂った様な笑い声が響き渡る‥深紅に染まった書斎で私はきっと、全てを忘れ様とした。
止めどなく流れ続ける涙に、深紅の世界が歪んだ事は今でもはっきりと覚えている。
ジョンに出逢った半月後。
僕のばあちゃんは殺された…‥
『何でばあちゃんと僕は名前が違うの?』
いつだったか…小さな私はそう聞いた。家族なのに名前が違うなんて変だと友達に言われたからだった。
「それはお前のお父さんの家系の名だよ、クロア」
『お父さんなんて知らない。ウィルソンなんていらないもん』
「それは困ったねぇ‥」
暫く考え込んだ祖母はニッコリと微笑んだ。
「クロンティア・ウィルソン、小さな私の姫様に名をやろう」
『ほんと?!』
「家名はウィルソンを名乗る事‥それが決まりだよ、クロンティア」
『はい、御祖母様』
祖母がクロンティアと呼ぶから、私も澄ましてそう応えた。
「お前の名は…」
=心葉=
僕は浮き島で産まれた。
否、はっきりとは証明出来無いので“生まれた”の方が正しいだろう。
両親には会った事が無く、育ての親であり母方のばあちゃんの“
実際に死んでいるのか生きているのか分からないけど、一羽ばあちゃんが“死んだ”と言うなら、何が本当でも一羽ばあちゃんの言う“それ”が事実になるのだろう。
一羽ばあちゃんは小さい頃から僕に何故か剣術を習わせた。
周りの女友達は皆、ピアノやダンスや塾とか女の子らしいものを習っている中、一羽ばあちゃんは知り合いのお爺に頼んで僕をお爺の弟子にした。
そして剣術の稽古の所為で女の子の割には筋肉がついて引き締まった幼い僕を見て、少しでも女らしくなる様にと髪を長く伸ばさせた。
髪なんかどうでも良かった。幼なじみの暁達と遊ぶのには長い髪は酷く邪魔だったから。
一度だけピアノをとお願いしてみたが、一羽ばあちゃんは許してくれなかった。
そんな時間があるならと稽古の時間を増やされた。
毎日毎日、増えていく筋トレと変わらない基礎の繰り返しで正直つまらなかったし辛かった。
こっそり稽古をサボろうとして何度も一羽ばあちゃんに怒られた。
「心葉、名を取り上げるよ」
そう脅されて嫌々通い続けた。
折角一羽ばあちゃんから与えられた名を無くしたくは無かった。
でも数ヶ月経った頃に基礎から抜け出してからは剣術も悪くないと思いだした。
勝てはしなかったがお爺の動きを読むのは面白かったし、小さい頃から暁達と鬼ごっことかで遊ぶと必ず負けてた僕はその頃にはもう暁達に負ける事は無かった。
お爺に追いついていくのが手に取る様に分かって楽しくなってきた頃、一羽ばあちゃんは僕に剣術と平行して護身術を習わせた。
これがまた面倒臭かった。
拳法とかいうやつで、動きがいまいちはっきりしなくて動き辛く、中々上手く出来無い。
それにお爺とは違い、拳法の先生が浮き島に住んでいなかった為、わざわざネオ・ヴェネツィアに降りて…更に街外れまで歩かなくてはいけなかった。
そして何より…
可愛い制服を身に纏い、水路を優雅に進む彼女達はネオ・ヴェネツィアの女性の象徴の様に見えて…そんな彼女達の脇を通る稽古着の入った鞄を持ったTシャツにGパン姿の自分が酷くみっともなく見えたし、自分とはかけ離れ過ぎた彼女達
僕は
だから‥
「何…してるの‥?」
そう声を掛けられた時は内心酷くびっくりした。
『さぼってるの』
そう平静を装ってそう返してみたが、実際は腰掛けた橋の手摺りから落ちそうになっていたし、さぼってるというのも嘘だった。
声を掛けてきた女は柔らかい微笑みをうかベたまま僕に話し掛け続けた。
彼女が何を考えているか僕には全然分からなかったが、何となく会話に付き合って、彼女に誘われた“散歩”にも付き合った。
途中で本当に時間が過ぎてしまっていたのに気付き、僕は心の中で一羽ばあちゃんに手を合わせた。
今日だけ…
御免、ばあちゃん…
——心葉…
僕は彼女が漕ぐ
『僕はなりたいものが無いんだ……何にも心が動かない‥』
街に溢れる様々な職業も‥
空を飛び交う彼等にも…
職的に何にも心が動かない。
『でもお姉さんは素敵だと思った…
——心葉…‥
ゆっくりと流れる時間が心地好い…
だから‥
『僕、
言った瞬間に自分が何を口走ったかに気付いて、慌てて“かもしれない”と付け足した。
『でも良く分からないんだ…こんな事初めてだから……だから今だけの感情かもしれない』
——心葉。
厳しい声が頭に響いた…
駄目だ。
——心葉‥
駄目だよ…
そう思ってはいても駄目だと思えば思うほど、憧れがどんどん溢れ出していく…
今日だけ‥少し…遊んでも良いかな‥
そう思って…
『いつか‥いつか貴女のいる会社を訪ねるかも‥しれない…』
僕はそう言ってはいけない事を口にした。
叶わないと分かっていても、夢を見たくなった。
彼女の笑顔に‥人柄に…
何だか甘えてみたくなった‥
「待ってるわ」
彼女の声は酷く優しい。
何ともいえない罪悪感の中、僕は彼女の優しい笑顔に唯笑い返した。
「どういう事だい、心葉」
その日は当然、家に帰った瞬間にばあちゃんに怒られた。
何時間も説教されたが、不思議と“心葉”が取り上げられる事は無かった。
ベッドに入って眠りにつくまで、耳にキンキンとばあちゃんの声が響いていた。
それが僕が彼女と出逢った日だった。
後日、本屋で立ち読みした雑誌に彼女が載っていた。
有名な
『凄い‥な…』
彼女は緩やかにどんどん前に進んでいく‥
おっとりしててぽけっとしてそうなのに…行動力あるんだな。
——待ってるわ…‥
『……』
待ってて‥くれるのかな…
名前も知らない僕の事を‥
『行っても良いのかな…』
涙が溢れそうになったのは、きっと彼女の声が今もずっと耳に響いてるからだ…
——待ってるわ…‥
僕は剣術も護身術も、苦手な勉強や料理も頑張った。一羽ばあちゃんは勿論喜んでくれた。
暁は僕が勉強してるのを見て青ざめて、熱があるんじゃないかと酷く心配し、ウッディーはちょこちょこ現れて料理の毒味をしてくれた。
そしてアルは、いつもの笑顔で何も言わず見守っていてくれた。
我武者羅に頑張ってみたけど、納得行くまでに一年以上掛かってしまった。
「話ってなんだい、心葉」
御免…ばあちゃん‥
『僕、
一羽ばあちゃんの顔は見る見るうちに青くなっていった。
「前にも‥駄目だと言ったろ…け、警察とかになさい。それならお前の力も活かせるしそれに
『また“収入が安定しない”とか“
「心葉‥ッ」
『僕は
「
ばあちゃんが怒鳴るのを初めて見た。
こんな青ざめた顔で慌てて…
『…理由は』
「どうしても駄目なの‥心葉」
理由を言わないばあちゃんに腹が立って家を飛び出した。あても無く走り続けた。
止まりたくなかったが、途中で暁達に鉢合わせしそうになったからネオ・ヴェネツィアに下りた。
大通りを駆け抜け、裏路地に入ると少し走るスピードを落とす。
息を整えつつ咳込みそうな程乾いた喉に唾を送り込みながら辺りを見回すと、見覚えのある橋まで来ている事に気付いた。
疲労でカタカタと笑い出した足を引き摺り、いつの日かそうした様に橋の手摺に水路に足を投げ出す様にして腰掛けた。
あぁ…モヤモヤする…‥
『一羽ばあちゃんの馬鹿…』
そう呟いたクロアは、グッと拳を握り締めた。
昔からやりたい事は大抵一羽ばあちゃんに反対されて諦めて生きてきた。
でも私には一羽ばあちゃんが唯一だったからずっと逆らおうともしなかった。
だって私には父さんも母さんも兄弟も…‥誰も居ない。
私には一羽ばあちゃんしか家族が居なかったから‥
そんな私がこの時、何故一羽ばあちゃんに逆らおうと思ったのか……私は今でも分からない。
「すわっ!そんな漕ぎじゃ立派なプリマにはなれんぞ、アリシア!もっとこう…スイ〜スバッと!」
「あらあら」
ふとそう声がして橋の下の水路を見ると、黒髪の少女と金髪の少女が乗った
金髪の少女が着ている制服に見覚えがあった。
「ウフフ‥晃ちゃん、スイ〜スバッ…じゃ分からないわ」
「すわっ、察しろ!」
「あらあら」
彼女達が何を考えて漕いでいるかが気になった‥
そして…僕が何を考えているかも。
『ねぇ、それ楽しい?』
そう声を掛けると、
「あぁ、何だ?」
「あ‥晃ちゃん、あの子が」
『楽しい?』
「た‥楽しいよ」
そう応えた金髪の少女には動揺が見て取れた。
当然といえば当然だろう。
見知らぬ子に急にこんな質問をされて‥
『お客さん運ぶだけなのに?』
「客だけじゃ無い。頼まれれば荷物も運ぶ‥それに私達
「ただ、お客様を運ぶだけが
一羽ばあちゃん…やっぱりそうなんだよ。
『そこまで言えるって事は凄く楽しいんだね?』
「凄く楽しいよ」
迷いのないその答えに、思わず頬が緩んだ。
一羽ばあちゃん‥
御免‥御免ね…‥
『ありがと、決心がついた』
「決心?」
そう言った黒髪の少女の…三日後に“晃”という名だと分かる彼女の不機嫌そうな顔は今でも忘れない。
僕は直ぐに駆け出した。
ARIAカンパニーを探してネオ・ヴェネツィアを走り回った。誰かに聞けば良かったのに‥
ARIAカンパニーに辿り着くと“あの人”がカウンターに居た。
僕を見付けると、彼女の動きはピタリと止まった。
果たすつもりも無かった…忘れられているかもしれない。
そんな約束を僕は果たしに来た。
ねぇ‥
どうか僕を‥僕を…‥
『私、ネオ・ヴェネツィアを運びたい』
僕を拾って…
『僕に‥僕に力を貸して』
僕を見て、目を見開いて少し驚いた顔をしていた彼女は、ふと優しく微笑んだ。
「待ってたわ、私の星屑」
その夜、僕は一羽ばあちゃんに気付かれ無い様にこっそりと家に帰ると、静かに部屋を片付け…明け方、少しの荷物を持って家を出た。
机の上には書き置きを置いておいた。
淡い空色の地に黒いインクで“行ってきます”と唯一言書かれた小さなメモ用紙だけを残して、僕は秋乃さんに導かれる様にしてARIAカンパニーに入社したのだ。
酷い裏切りだったと思う‥
一人で僕を育ててくれた一羽ばあちゃんを置いて行った挙げ句、何も言わずに出て行くなんて…
最低だ。
でも僕は進みたかった。
早くプリマになって、稼ぐんだ。
そして一羽ばあちゃんに…
「アリシア…新人のクロンティア・K・ウィルソンよ」
「貴女、昨日の‥」
『宜しく“アリシア先輩”』
必死だった。
一羽ばあちゃんに認めてもらう為に唯ひたすらに…だから周りの目に気付いたのは随分経ってからだった。
入社して三日でシングルに昇級した事が広まった為に向けられる好奇の眼差し……でも、僕‥
“私”には関係無かった。
私はアリシアと晃とアテナの三人との合同練習という、楽しくて有益に勉強が出来る場所があれば十分だった。
三人と秋乃さんが居る。現状はそれだけで十分で…後はひたすらに一羽ばあちゃんの許しが欲しかった。
早くプリマになれる様にと‥
早く一羽ばあちゃんの耳に私の業績が届く様にと頑張った。
そんなある日…
自主練習の時に、あの橋に…いつかの私の様に座った少年を見付けた。
『そこに座ってたら危ないわよ』
そう声を掛けたが、返事は無かった。
それどころかはんのうのひとつも無い。
『聞いてんの?』
『…俺ですか?』
そう、まだ変声期を迎えていない気怠そうな声が聞こえると共に、どこかまだ幼い少年の顔が見えた。
『俺ですかって…他に誰がいるのよ?』
丁度辺りには誰も居なかった。
少し可笑しくなって笑いが漏れる。
『大丈夫だよ』
『大丈夫なんて保証、どこにもないわ』
“大丈夫”なんて決められる物じゃない。
不完全な私達生き物にとって、大丈夫と言いきれるもの等無いのだから‥
『…じゃあ、降ります。ご心配ありがとうございました』
そう言って橋の上に降りると、鞄を片手に少年は歩き出した。
『ねぇ!』
そう後ろから再度声を掛けた私は、少年を散歩に誘った。半ば強制的に自分の
何だか放っておけなかった…
地球から観光で来たという少年が、酷く寂しそうで‥
『私は“クロンティア・K・ウィルソン”クロアって呼んで…‥君の名前は?』
『ジョン…ハドルトソン』
『ジョン・ハドルトソンね。そういえば‥君誰と来たの?』
『家族』
『誘っといてなんだけど‥単独行動で良いの?』
『逃げてきたから良いんだ』
『“逃げてきたから”ねぇ…』
やっぱり訳ありの様だった。
水路を挟む様に植えられたら木々のおかげで出来る木漏れ日が心地好いらしく、少年は空を仰ぐ様に上を向くと目を閉じた。
『仲の良い姉弟だったんだ』
それは唐突に始まった。
何故少年…ジョンが私に話そうと思ってくれたのか、私には分からなかった。
ジョンとその姉は仲が良かった…しかしそれは一年前の祖母の死去で一変する。
それがジョンの終わりであり‥同時に“始まり”でもあった。
『うちは結構大きな会社を経営していて、代々男であろうと女であろうと、兄弟の中で一番上の子が跡目を継ぐと決まっていた』
仕来りの様な暗黙の了解と‥
『ばっちゃんの遺言には俺が跡目を継ぐ様にと書いてあった』
祖母の遺言がジョンを苦しめる事となる。
祖母が死んだ事を悲しんでいる間も無く告げられたら事実…跡取りとして育てられたジョンの姉の態度は急変した。完璧にやってきたと思った人生……どこで期待に応えられなかった分からない自分を後目に、跡取りに選ばれたジョンが姉は憎かったんだろう。
自分の障害にはならないと思っていたジョンに足元を掬われれ、ジョンを今まで気に掛けていなかった両親がジョンを見る様になった事で自分が見離された様で…
役目を失った自分の立ち位置が分からなくて‥
今までの人生を…
全て否定された様で…‥
『あんなに優しかったのに、今じゃ俺を蔑んで見てる』
姉の精神は、ジョンに当たる事でしか少しでも救われる道を見付ける事が出来無かったんだろう。でもジョンは…
『それだけでこっちはパニックだってぇのに、見当たらないばっちゃんの遺産の場所を…異例の継承者なんだから俺が知ってる筈だと親族が勘違いを始めた。親は俺の中の幻想の財産を見…姉さんの瞳に僕は映らない』
ジョンは…
『俺は何なんだ』
気付いてやれない…
突然自分にのし掛かった物の重大さを分かってるから、目の前の大事な物が‥少しでも救われるかもしれない道を見逃す。
そして自らも閉じ籠もる——…
『情けない』
そう口にしたクロアは、
『今の話じゃアンタ何もして無いじゃないの』
『な…ッ』
『アンタがくよくよして部屋に閉じこもっても世界は回り続けるし、誰も死ぬ程困ったりはしないのよ』
クロアは持っていたオールを
自然とクロアを見ていたジョンの体が正面を向く。
『辛くて苦しいんだったら目一杯抵抗しなさい』
『抵抗‥』
『足掻いて苦しんで…自分に出来る事を全てやりきったら』
“その時は”と続けたクロアは、少し怒った様な表情から一変して楽しそうに歯を見せて笑った。
『新しい幸せを見付けなさい』
最悪だと思える現状に唯沈んで行くのではなく、出来る事をし尽くせば良い。
そして、自分の全てを出し切ってしまったら…今度は前に進めば良い。
宥める様にジョンの頭を撫でると、ジョンは自然に目を瞑った。
『あらあら、猫みたい。顔以外にも可愛らしいとこがあるのね』
『か、可愛いってなんだよ!』
『褒めてんのよ~受け取っときなさい、ジョン』
楽しそうに笑ったクロアは、被っていた制服の帽子をジョンに深々と被せると元居た位置に戻ってオールを手にした。
せめて今だけは…
見付からない様に——…‥
私はジョンにこっそり
時間が経つのは早いもので、気付けば辺りは茜色に染まっていた。
引き留めるわけにもいかず、夕闇が迫るサン・マルコ広場にジョンを送り届けた。
『サン・マルコ広場に到着よ』
『…ありがと』
ジョンの手を取って舟から降ろした。
早く帰らないと…秋乃さんとアリシアが帰りを待っている。
『クロア!』
そう声を掛けられ、私はオールを手にジョンを振り返った。
『…なぁに』
『俺‥
『
思わぬジョンの言葉に間髪入れずに思わずそう切り捨ててしまった。
目に見えて沈むジョン見て“でも”と続けたクロアは、楽しそうに笑った。
『そんな決まりを打ち砕くのも何だか凄く楽しそうね』
『え…?』
『堂々と家を出れる様になったら、私を訪ねてらっしゃい』
この子はこれから成長する。身体的にも精神的にも…だから私が必ず分かる様に、付けていたネックレスをジョンの首に掛けた。
『ありがとう』
そう言って嬉しそうに笑うジョンに手を振って別れると、私はARIAカンパニーに向けて
『待ってるわ…私の——‥』
風に乗せた小さな言葉を知っている人は誰もいない…
誰にも言う気は無かったし、言う時間も無かった。
「クロアちゃーん、電話おねがーい」
『はいはーい』
その電話も、また予約の電話だと思ってた。
『お電話ありがとうございます。ARIAカンパニー、クロア・K・ウィルソ…』
《心葉》
『………ぇ‥』
聞き間違いかと思った。
でもこの声は…
『一羽‥ばあちゃん…?』
《心葉‥》
一羽ばあちゃんだった。
待ち焦がれた人だった…
《頑張ってるみたいね、心葉》
『出来るっつったでしょ』
《でも月刊ウンディーネには載らない様になさい》
『見たの?』
「えぇ、だから連絡したのよ」
月刊ウンディーネに載らない様に‥どういう事だろ?
「大事な話があります。心葉、次の休みに来なさい」
心臓が高鳴った。
許してもらえたんだろうか‥?
そう期待が込み上げた。
「クロア、電話は済んだの?」
『ぁ…はい、秋乃さん』
「ねぇ、来週の水曜日‥貴女が入社した日よ、覚えてる?」
『はい、勿論です』
「来週の水曜日‥昇格試験をしましょう」
『え…?』
「貴女ならもう一人で進めるわ」
嬉しい事が続いた。その事の意味に私は気付いていなかった。
一羽ばあちゃんの教えを私は忘れていたのだ。
『ただいま~、ばあちゃん』
週末に一年振りに家に帰った。
一年前に飛び出した生まれ育った家は酷く懐かしかった。
『私の…‥僕の物…取っといてくれたんだ』
私はこんなに変わってしまったのに、この家は何一つ変わっていなかった‥
『ばあちゃん!…一羽ばあちゃ~ん?』
一羽ばあちゃんに抱き付きたくなって声を張り上げた。
しかし一羽ばあちゃんは一向に姿を現さず、返事をする事も無かった。
『……一羽ばあちゃん?』
有り得ない‥一羽ばあちゃんはどの部屋に居ても呼べば“うるさいよ”と私を注意してくるくらい耳が良い。こんなに呼んでも反応が無いだなんて…
『ッ、一羽ばあちゃん!!』
そう何度も叫びながら部屋を順番に回った。
そして書斎の扉を開けた瞬間、私は高々と声を上げて笑った。
何で笑ったのか…
何で笑い続けているのか…
自分でも‥全く意味が分からなかった。
自分の狂った様な笑い声が響き渡る‥深紅に染まった書斎で私はきっと、全てを忘れ様とした。
止めどなく流れ続ける涙に、深紅の世界が歪んだ事は今でもはっきりと覚えている。
ジョンに出逢った半月後。
僕のばあちゃんは殺された…‥