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30
『ばっちゃん、ばっちゃん!』
庭の芝生や花、噴水の水の匂いが好きだった。
「コラ、ジョン!おばあ様って呼びなさい!」
『はぁい、姉さん』
昼下がりに姉さんと庭で遊ぶのが好きだった。
「あらあら“ばっちゃん”でも良いのよ、ジョン」
「あら駄目よ、おばあ様!」
『姉さんのケチ~』
「何ですって?!」
「こらこら、お止めなさい」
ばっちゃんの匂いが‥
ばっちゃんの声が‥
ばっちゃんが…大好きだった。
だからばっちゃんが死んだ事を直ぐに受け入れられ無かった。
殴られた様に頭がクラクラして…
弁護士が遺言状を読み上げた後の皆の反応の理由が直ぐに分からなかった。
姉さんの歪んだ表情が、もう二度と僕の前で笑顔に戻る事が無い事に…
気付く筈も無かった…
=昔、昔…=
旅行に行こうと言い出したのは父さんだった。
忙しい父さんがそんな事を言い出した理由は、僕がふさぎ込んでいたからだと思う。きっと母さんに“ジョンをどうにかして”とでも言われたんだろう。
ばっちゃんが死んでからというもの、僕は部屋に閉じこもった。
僕の世界はばっちゃんが中心で回っていたから、ばっちゃんが死んでしまってからは何もしたい事が無かったし、正直何をしたら良いかさえ分から無かったし、誰にも会いたく無かった。違う“誰にも”じゃない……
姉さんに会いたく無かった。
ばっちゃんが死んだ事も受け入れられ無かったが、それよりもばっちゃんが死んで態度が急変した姉さんを僕は受け入れられ無かった。
勝ち気で少し男勝りだけど、可愛くて優しい姉さんが僕は自慢だった。
だけどばっちゃんが死んだ後は、そんな姉さんは見る影も無かった。
基本は無視。嘲笑う様に最低限の言葉を紡ぎ、冷めた目で僕の後ろを見据える。
元々仕事尽くしだった父さんと母さんには滅多に会わなかったし、わざわざ僕から会いに行ったり、向こうが僕の部屋を訪ねて来る事も無かった。
以上の理由もあり、いつもは誰も立ち入らない僕の部屋に小さなノック音が響いた時は何事かと思った。
「ジョン、明日火星 に行くから準備しろ」
驚き続きだった。突然父さんが部屋を訪ねてきたと思ったら、いきなりそう急な事を言ってとっとと出て行ってしまったのだ。
断る隙も無かったし、元々断る術も無かった僕は大人しく最低限の物を詰めた鞄を用意した。
そして翌朝、両親と姉と共に火星 へと向かった。
初めての火星 …
初めての旅行だった。
宇宙船の中は息苦しかった…指定席が姉さんと隣り合わせなのが原因なのは分かりきった事だったので、ひたすら寝たふりをし続けた。
でも堪えられなくて、火星 に着いてからそっと家族から離れた。
泊まる所は分かってるし、夜に帰れば良いだろう…そう思っての行動だった。
何となく有名な観光スポットには行かずに細い路地をぶらぶら歩いた。
唯ボーっと歩き続け、疲れに気付いて時計を見れば、時刻は昼過ぎになっていた。疲れる筈だ…
水路に足を投げ出す様に橋の手摺りに腰掛けると、辺りを見回した。
休める店‥レストランや喫茶店は見当たらなかった。
『入り過ぎたか‥』
戻るのも面倒だし、暫くここで休むか…そう思った瞬間‥
『そこに座ってたら危ないわよ』
そう綺麗な声が響いた。
女性にしてはちょっと低めな筋のある綺麗な声だった。
『聞いてんの?』
怒られた。
『…俺ですか?』
声が下のは自分が座っている橋の下の水路だった。
自分かどうか確認しながら下を見た瞬間、僕は声の主に目を奪われた。
長い銀髪を二つに結った蒼色の瞳の綺麗な女が、オールを片手に舟 の上から自分を見上げていたのだ。
『俺ですかって…他に誰がいるのよ?』
女は意地悪く笑うとそう言った。
意地悪だけど…姉さんみたいなねちっこさは無く、少し可愛いとさえ思える笑い顔だった。
『大丈夫だよ』
『大丈夫なんて保証、どこにもないわ』
確かにその通りだった。
“大丈夫”なんて誰かが決められる物じゃない。
『…じゃあ、降ります。ご心配ありがとうございました』
そう言って橋の上に降りると、鞄を片手にあても無く歩き出した。
『ねぇ!』
『…何?』
呼び止められた事にはさほど驚かなかった。
しかし‥
『私達と散歩しない?』
その言葉にビックリした。見ず知らずの奴を散歩に誘うだなんて…
“私達?”と返すと、女の足元でやたらとデカイ猫が可愛らしく鳴いて答えた。
猫…もカウントするのか。
『私の舟 でネオ・ヴェネツィアを散歩しましょ』
『……』
『君、ネオ・ヴェネツィアの子じゃ無いでしょ?』
『地球 から観光で来た』
『水先案内人 の舟 に乗った事ある?』
『……無い』
『じゃあ丁度良いじゃない。私、まだシングルだからお客乗せられないんだけど、君は私の友達って事でタダで乗せてあげるわ』
強引な人だな…
『命の保証はありますか?』
『ネオ・ヴェネツィアに沈めるわよ』
冗談は通じなかった。
女に手招きをされて舟 に乗り込むと、あのデカイ猫が“ぷいにゃ!”と可愛らしい声を上げて膝に飛び乗ってきた。少し重かった。
『その子はうちの会社“ARIAカンパニー”のアリア社長よ』
『社長?』
『青い瞳の猫を店の守神として社長にするのが習わしなのよ』
猫が社長ね…
ゆっくりと舟 が進み出す中、アリア社長と呼ばれた猫のプニプニとしたお腹をつつくと、アリアは笑って頬を抑えて‥頬を赤らめた。
……喜んでるのか?
『私は“クロンティア・K・ウィルソン”クロアって呼んで…‥君の名前は?』
『ジョン…ハドルトソン』
『ジョン・ハドルトソンね。そういえば‥君誰と来たの?』
『家族』
『誘っといてなんだけど‥単独行動で良いの?』
『逃げてきたから良いんだ』
『“逃げてきたから”ねぇ…』
水路を挟む様に植えられたら木々のおかげで、程良い木漏れ日が心地好かった。
空を仰いで風を感じる。
『仲の良い姉弟だったんだ』
そう…仲の良い姉弟だった。
喧嘩もしたけど、お互いを嫌う様な喧嘩じゃ無かった。
『俺は祖母ちゃん子だったから、いつも三人で庭で遊んでた』
年々ばっちゃんは見てるだけという事が多くなったが、居てくれるだけで楽しかった。
『一年前ばっちゃんが死んだ』
それが終わりであり、始まりでもあった。
『うちは結構大きな会社を経営していて、代々男であろうと女であろうと、兄弟の中で一番上の子が跡目を継ぐと決まっていた』
何があろうと、それがずっと続いていた儀式の様なものだった。
でも‥
『ばっちゃんの遺言には俺が跡目を継ぐ様にと書いてあった』
意味が分からなかった。
ばっちゃんが居なくなった悲しみでいっぱいいっぱいなのに、弁護士に聞かされた事実…
『姉さんの態度は急変した。あんなに優しかったのに、今じゃ俺を蔑んで見てる』
大好きだった笑顔が見れなくなった。
話掛ける事も出来無くなった。
『それだけでこっちはパニックだってぇのに、見当たらないばっちゃんの遺産の場所を…異例の継承者なんだから俺が知ってる筈だと親族が勘違いを始めた』
もう止めて欲しかった。
何でこんな目にあうんだろう…そう運命を呪いもした。僕はただ、昼下がりに庭で三人で笑えてさえいれば良かったのに‥
『親は俺の中の幻想の財産を見…姉さんの瞳に僕は映らない』
親は…不器用な父は無理だったが母親は僕に優しくし、継承者として育てられた姉さんは“親の期待を裏切った”というプレッシャーの中で僕を憎み蔑みながら僕越しに両親を見た。
『俺は何なんだ』
ばっちゃんが居なくなって悲しかったのもあるけど、何より自分の存在理由が分からなくなって部屋に閉じこもった。
僕は何て…何て‥
『情けない』
思わず空を仰いでいた顔を下ろして女‥クロアを振り返った。
会ったばかりの彼女に“情けない”だなんて言われると思って無かった。
クロアは舟 を漕いでいた手を止めると、ジョンを真っ直ぐ見据えた。
『今の話じゃアンタ何もして無いじゃないの』
『な…ッ』
『アンタがくよくよして部屋に閉じこもっても世界は回り続けるし、誰も死ぬ程困ったりはしないのよ』
クロアは持っていたオールを舟に預ける様にして置くと、ジョンの正面へと回り込んだ。
自然とクロアを見ていたジョンの体が正面を向く。
『辛くて苦しいんだったら目一杯抵抗しなさい』
『抵抗‥』
『足掻いて苦しんで…自分に出来る事を全てやりきったら』
“その時は”と続けたクロアは、少し怒った様な表情から一変して楽しそうに歯を見せて笑った。
『新しい幸せを見付けなさい』
叩かれて無いけど…頬を平手で叩かれた様に一瞬で頭がスッキリした。
ニッコリと微笑んだクロアに頭を撫でられ、思わず目を瞑った。
『あらあら、猫みたい。顔以外にも可愛らしいとこがあるのね』
『か、可愛いってなんだよ!』
『褒めてんのよ~受け取っときなさい、ジョン』
絶対褒めて無い…そうは思ったけど口にはしなかった。
何だか凄く心地好かったから…
楽しそうに笑ったクロアは、被っていた制服の帽子をジョンに深々と被せると元居た位置に戻ってオールを手にした。
『ちょ、これ…』
『被ってなさい。見付かりたく無いんでしょ』
『……ん‥』
クロアが後ろに居て良かった‥
熱い…きっと顔が…‥
「ぷぃにゃ」
…アリアに見られた。
目をキラキラと輝かせて自分を見るアリアにケイトは顔を青く染めた。
バッチリ見られた‥
『ねぇ‥それ楽しい?』
“それ?”と不思議そうに返すクロアに、僕は淡々と舟 の事だと答えた。
『楽しいわよ』
『舟 漕いでるだけなのに?』
『ジョンには水先案内人 は舟 を漕いでるだけに見えるの?困った事とかもあるけど、それが醍醐味よ…困り事が無きゃ楽しさが半減する。それに御客様もいるからもっと楽しいわ』
クロアは自分の道を見付けているんだ…そう思った瞬間、後ろから歌が降り注いだ。
クロアが歌っているのだろう。透き通る様な声の綺麗な歌だった。
『何ていう歌‥?』
『私がつくった歌よ、名前は無い』
自分で‥天才とかいうやつかな。
『苦手なもんとか無いの?』
クロアは何でも出来そうな気がした。だから気になって聞いてみた。
けど…
『料理が苦手だ』
そう返ってきたから少し驚いた。
『勉強も苦手だ。特に数学が駄目』
文武平等、才色兼備なイメージが強かったから、苦手なものがあると返事が返ってきて驚いた。
『何で苦手なもの何か聞いたんだ?』
『何でも出来そうだったから‥操縦の腕も半人前だと思えないくらい上手いし』
『あら、嬉しい事言ってくれるじゃないの』
ニコッと笑ったクロアは“そうだ‥”と洩らすと再度ジョンの正面へと回り、オールを水から上げてジョンに差し出した。
『漕いでみな』
『は‥?』
言われている意味が一瞬分からなかった。
『さっき私に楽しいかどうか聞いたでしょ?実際自分で体験してみなさい』
『触ったこと無いんだから無理だって!』
『無理って決めつけてちゃ何も出来無いわよ』
さっきまでクロアが立っていた所に無理矢理立たされて“ほら”と言ってオールを手渡された。
『男だから力で進めるでしょ‥難しい事は言わないわ、感覚で舟 がどう進むか覚えなさい』
十分難しい事を言っている事にクロアは気付いているんだろうか?感覚って…
ぎこちなく漕ぎ出すと、クロアが小さくクスクスと笑い出した。
『笑うなよ…』
『あぁ、御免なさい。素直に漕ぎ出すからつい‥』
『うっさいな、もう…』
『にしても‥ジョン、貴方筋が良いと思うわ』
『…ありがと』
『あら、やっと少し笑ったわね』
何だか少し恥ずかしくてクロアから目を逸らした。
笑ったのなんか何時ぶりだろう‥
こんなに楽しいのは‥一体いつぶりだろう。
いろんな場所を回って‥
抜け道を通ってクロアオススメのお店に行ったり、秘密の場所も教えて貰ったりしているうちに、すっかり辺りは夕闇に染まっていた。こんなに時間が経つのが早いなんて…
『サン・マルコ広場に到着よ』
『…ありがと』
クロアに手を貸してもらって舟 を降りた。こんなに足が重いなんて…
クロアの手が僕の手から離れたのが何だか寂しかった。
『さぁ、アリア社長帰りましょう。秋乃さんとアリシアと‥美味しい夕食が待ってるわ』
「ぷいにゃ!」
嬉しそうな顔をしたアリアがクロアに抱き付き、クロアはそれを抱き留めると同じ様に笑った。
『クロア!』
『…なぁに』
クロアはアリアを下ろしながら、そう返した。
長い銀髪が夕日を浴びてオレンジに輝いてた。
『俺‥水先案内人 になりたい!』
『水先案内人 は女限定よ』
その言葉にがっかりした。
誰がそんな決まり…
少し俯いたジョンを見たクロアは“でも”と続けると、楽しそうに笑った。
『そんな決まりを打ち砕くのも何だか凄く楽しそうね』
『え…?』
『堂々と家を出れる様になったら、私を訪ねてらっしゃい』
そう言ってクロアは、僕の首に青色の石の付いたネックレスを掛けた。
会いにきて良いんだ‥
一緒に頑張ってくれるんだ…
そう思ったら涙が溢れそうになった。
『ありがとう』
そうやって僕等は出逢い‥僕は自分の夢を見付けた。
僕もクロアの様に誰かを元気に出来る水先案内人 に…何よりクロアと一緒に居たかった。
そう思って取り敢えずさぼっていた勉強を再開した。
家に居なくちゃやれない事をやりきった頃にはクロアと会って三回目の春を迎えていた。
僕は家を飛び出した。
親を説得出来無い事は…二人が説得されないのは分かっていたし、説得する気も無かった。
最小限の荷物を片手に僕は火星 へと降り立ち、直ぐにARIAカンパニーへと向かった。
『あの‥クロンティアさんいらっしゃいますか?』
「クロアちゃんは“颯 ”にいるわ」
社員の長い金髪のお姉さんは“今日は休日だと思うから居るとおもうわ”と言うと、丁寧に地図を書いてくれた。
僕は走った。やっとクロアに会えると思ったら胸が高鳴った。
颯 はARIAカンパニーとは正反対の場所にあった。
乱れた息を深呼吸をして整えると、チャイムを押した。反応は無かった。反応は無かったけど、人が居る気配がしたので、悪いとは思ったがそっと店内に入った。
リビングらしき部屋に手足の短い火星猫と女が居た。
ジョンに気付いた火星猫が毛を逆立てて唸り、女はそれを手を添えて止めさせると、顔を上げた。
瞬間、僕は息をする事を忘れた。
『貴方…誰?』
女は確かにクロアだった。
だから驚いたといった方が正しいかもしれない。
長かった美しい銀髪は短く切られ、蒼色の瞳は右側が黒い眼帯で塞がれていた。
以前は大きく感じた瞳も、そこまで大きくは開かれていなく、コロコロと変わっていた表情も今は何一つ動かない。
三年前明るく人の良さそうな印象だったクロアは、冷たい印象の女になっていた。
三年の間に何があったんだ…
そう思ったが決心は変わっていなかった。
『約束通り来たよ、クロア』
そう言って首に掛かっているネックレスを見せると、クロアは目を見開いた。
『ジョン…』
『そう、ジョンだよ』
この三年の間にクロアを変える何かがあったのは確かだった。
僕は大事な時に何も出来無かった‥
でも戻る事は出来無い。
『“クロアさん”約束をしましょう』
だったら僕は…
『僕と一緒に‥』
これからの彼女を護るだけだ…
『そうして僕は颯 に入った』
そう言ってケイトさんは手にしていたクロアさんの手を握りなおした。
『入ったといっても僕はクロアさんに“ケイト”という名前を貰い、女として水先案内人 に登録した。
プリマの実力を付けてから男として全てを始める為に』
それが‥ジョン・ハドルトソンの偽りの始まり。それが…
ケイト・ハドルトソンの始まり…‥
『三年の間に何があったのか…クロアさんがそれを僕に教えてくれたのは、暫く経ってからだった』
クロアさんに何があったのか私は知らない。
ケイト先輩に聞く気も無かった‥
だってそれはきっと‥
クロアさんの信頼の証だから…
『色んなものが変わった』
ケイト先輩の手が、そっとクロアさんの頭を優しく撫でた。
銀髪を指が滑る。
『クロアさんも僕も‥出逢った頃とは全然違うし、何があったのか聞いて僕のクロアさんの見方も変わった』
ふと“でも”と続けたケイト先輩の手が止まった。
『出逢ったあの日から‥何一つ変わらないモノもある』
ケイト先輩はクロアさんの指輪の光る左手に手を重ねると、その唇に自分の唇を重ねた。
ステンドグラスから差し込む光を受けた二人がとても綺麗で‥
まるで…結婚式を見ている様だった。
『今も昔も‥この未来 も』
我慢していた様に、ケイト先輩の頬を伝う沢山の涙。
それを止める術を当然の様に私は持っていない。
その術を持っているのは…
『愛してる‥心葉』
クロアさん唯一人なんだ——…‥
.
『ばっちゃん、ばっちゃん!』
庭の芝生や花、噴水の水の匂いが好きだった。
「コラ、ジョン!おばあ様って呼びなさい!」
『はぁい、姉さん』
昼下がりに姉さんと庭で遊ぶのが好きだった。
「あらあら“ばっちゃん”でも良いのよ、ジョン」
「あら駄目よ、おばあ様!」
『姉さんのケチ~』
「何ですって?!」
「こらこら、お止めなさい」
ばっちゃんの匂いが‥
ばっちゃんの声が‥
ばっちゃんが…大好きだった。
だからばっちゃんが死んだ事を直ぐに受け入れられ無かった。
殴られた様に頭がクラクラして…
弁護士が遺言状を読み上げた後の皆の反応の理由が直ぐに分からなかった。
姉さんの歪んだ表情が、もう二度と僕の前で笑顔に戻る事が無い事に…
気付く筈も無かった…
=昔、昔…=
旅行に行こうと言い出したのは父さんだった。
忙しい父さんがそんな事を言い出した理由は、僕がふさぎ込んでいたからだと思う。きっと母さんに“ジョンをどうにかして”とでも言われたんだろう。
ばっちゃんが死んでからというもの、僕は部屋に閉じこもった。
僕の世界はばっちゃんが中心で回っていたから、ばっちゃんが死んでしまってからは何もしたい事が無かったし、正直何をしたら良いかさえ分から無かったし、誰にも会いたく無かった。違う“誰にも”じゃない……
姉さんに会いたく無かった。
ばっちゃんが死んだ事も受け入れられ無かったが、それよりもばっちゃんが死んで態度が急変した姉さんを僕は受け入れられ無かった。
勝ち気で少し男勝りだけど、可愛くて優しい姉さんが僕は自慢だった。
だけどばっちゃんが死んだ後は、そんな姉さんは見る影も無かった。
基本は無視。嘲笑う様に最低限の言葉を紡ぎ、冷めた目で僕の後ろを見据える。
元々仕事尽くしだった父さんと母さんには滅多に会わなかったし、わざわざ僕から会いに行ったり、向こうが僕の部屋を訪ねて来る事も無かった。
以上の理由もあり、いつもは誰も立ち入らない僕の部屋に小さなノック音が響いた時は何事かと思った。
「ジョン、明日
驚き続きだった。突然父さんが部屋を訪ねてきたと思ったら、いきなりそう急な事を言ってとっとと出て行ってしまったのだ。
断る隙も無かったし、元々断る術も無かった僕は大人しく最低限の物を詰めた鞄を用意した。
そして翌朝、両親と姉と共に
初めての
初めての旅行だった。
宇宙船の中は息苦しかった…指定席が姉さんと隣り合わせなのが原因なのは分かりきった事だったので、ひたすら寝たふりをし続けた。
でも堪えられなくて、
泊まる所は分かってるし、夜に帰れば良いだろう…そう思っての行動だった。
何となく有名な観光スポットには行かずに細い路地をぶらぶら歩いた。
唯ボーっと歩き続け、疲れに気付いて時計を見れば、時刻は昼過ぎになっていた。疲れる筈だ…
水路に足を投げ出す様に橋の手摺りに腰掛けると、辺りを見回した。
休める店‥レストランや喫茶店は見当たらなかった。
『入り過ぎたか‥』
戻るのも面倒だし、暫くここで休むか…そう思った瞬間‥
『そこに座ってたら危ないわよ』
そう綺麗な声が響いた。
女性にしてはちょっと低めな筋のある綺麗な声だった。
『聞いてんの?』
怒られた。
『…俺ですか?』
声が下のは自分が座っている橋の下の水路だった。
自分かどうか確認しながら下を見た瞬間、僕は声の主に目を奪われた。
長い銀髪を二つに結った蒼色の瞳の綺麗な女が、オールを片手に
『俺ですかって…他に誰がいるのよ?』
女は意地悪く笑うとそう言った。
意地悪だけど…姉さんみたいなねちっこさは無く、少し可愛いとさえ思える笑い顔だった。
『大丈夫だよ』
『大丈夫なんて保証、どこにもないわ』
確かにその通りだった。
“大丈夫”なんて誰かが決められる物じゃない。
『…じゃあ、降ります。ご心配ありがとうございました』
そう言って橋の上に降りると、鞄を片手にあても無く歩き出した。
『ねぇ!』
『…何?』
呼び止められた事にはさほど驚かなかった。
しかし‥
『私達と散歩しない?』
その言葉にビックリした。見ず知らずの奴を散歩に誘うだなんて…
“私達?”と返すと、女の足元でやたらとデカイ猫が可愛らしく鳴いて答えた。
猫…もカウントするのか。
『私の
『……』
『君、ネオ・ヴェネツィアの子じゃ無いでしょ?』
『
『
『……無い』
『じゃあ丁度良いじゃない。私、まだシングルだからお客乗せられないんだけど、君は私の友達って事でタダで乗せてあげるわ』
強引な人だな…
『命の保証はありますか?』
『ネオ・ヴェネツィアに沈めるわよ』
冗談は通じなかった。
女に手招きをされて
『その子はうちの会社“ARIAカンパニー”のアリア社長よ』
『社長?』
『青い瞳の猫を店の守神として社長にするのが習わしなのよ』
猫が社長ね…
ゆっくりと
……喜んでるのか?
『私は“クロンティア・K・ウィルソン”クロアって呼んで…‥君の名前は?』
『ジョン…ハドルトソン』
『ジョン・ハドルトソンね。そういえば‥君誰と来たの?』
『家族』
『誘っといてなんだけど‥単独行動で良いの?』
『逃げてきたから良いんだ』
『“逃げてきたから”ねぇ…』
水路を挟む様に植えられたら木々のおかげで、程良い木漏れ日が心地好かった。
空を仰いで風を感じる。
『仲の良い姉弟だったんだ』
そう…仲の良い姉弟だった。
喧嘩もしたけど、お互いを嫌う様な喧嘩じゃ無かった。
『俺は祖母ちゃん子だったから、いつも三人で庭で遊んでた』
年々ばっちゃんは見てるだけという事が多くなったが、居てくれるだけで楽しかった。
『一年前ばっちゃんが死んだ』
それが終わりであり、始まりでもあった。
『うちは結構大きな会社を経営していて、代々男であろうと女であろうと、兄弟の中で一番上の子が跡目を継ぐと決まっていた』
何があろうと、それがずっと続いていた儀式の様なものだった。
でも‥
『ばっちゃんの遺言には俺が跡目を継ぐ様にと書いてあった』
意味が分からなかった。
ばっちゃんが居なくなった悲しみでいっぱいいっぱいなのに、弁護士に聞かされた事実…
『姉さんの態度は急変した。あんなに優しかったのに、今じゃ俺を蔑んで見てる』
大好きだった笑顔が見れなくなった。
話掛ける事も出来無くなった。
『それだけでこっちはパニックだってぇのに、見当たらないばっちゃんの遺産の場所を…異例の継承者なんだから俺が知ってる筈だと親族が勘違いを始めた』
もう止めて欲しかった。
何でこんな目にあうんだろう…そう運命を呪いもした。僕はただ、昼下がりに庭で三人で笑えてさえいれば良かったのに‥
『親は俺の中の幻想の財産を見…姉さんの瞳に僕は映らない』
親は…不器用な父は無理だったが母親は僕に優しくし、継承者として育てられた姉さんは“親の期待を裏切った”というプレッシャーの中で僕を憎み蔑みながら僕越しに両親を見た。
『俺は何なんだ』
ばっちゃんが居なくなって悲しかったのもあるけど、何より自分の存在理由が分からなくなって部屋に閉じこもった。
僕は何て…何て‥
『情けない』
思わず空を仰いでいた顔を下ろして女‥クロアを振り返った。
会ったばかりの彼女に“情けない”だなんて言われると思って無かった。
クロアは
『今の話じゃアンタ何もして無いじゃないの』
『な…ッ』
『アンタがくよくよして部屋に閉じこもっても世界は回り続けるし、誰も死ぬ程困ったりはしないのよ』
クロアは持っていたオールを舟に預ける様にして置くと、ジョンの正面へと回り込んだ。
自然とクロアを見ていたジョンの体が正面を向く。
『辛くて苦しいんだったら目一杯抵抗しなさい』
『抵抗‥』
『足掻いて苦しんで…自分に出来る事を全てやりきったら』
“その時は”と続けたクロアは、少し怒った様な表情から一変して楽しそうに歯を見せて笑った。
『新しい幸せを見付けなさい』
叩かれて無いけど…頬を平手で叩かれた様に一瞬で頭がスッキリした。
ニッコリと微笑んだクロアに頭を撫でられ、思わず目を瞑った。
『あらあら、猫みたい。顔以外にも可愛らしいとこがあるのね』
『か、可愛いってなんだよ!』
『褒めてんのよ~受け取っときなさい、ジョン』
絶対褒めて無い…そうは思ったけど口にはしなかった。
何だか凄く心地好かったから…
楽しそうに笑ったクロアは、被っていた制服の帽子をジョンに深々と被せると元居た位置に戻ってオールを手にした。
『ちょ、これ…』
『被ってなさい。見付かりたく無いんでしょ』
『……ん‥』
クロアが後ろに居て良かった‥
熱い…きっと顔が…‥
「ぷぃにゃ」
…アリアに見られた。
目をキラキラと輝かせて自分を見るアリアにケイトは顔を青く染めた。
バッチリ見られた‥
『ねぇ‥それ楽しい?』
“それ?”と不思議そうに返すクロアに、僕は淡々と
『楽しいわよ』
『
『ジョンには
クロアは自分の道を見付けているんだ…そう思った瞬間、後ろから歌が降り注いだ。
クロアが歌っているのだろう。透き通る様な声の綺麗な歌だった。
『何ていう歌‥?』
『私がつくった歌よ、名前は無い』
自分で‥天才とかいうやつかな。
『苦手なもんとか無いの?』
クロアは何でも出来そうな気がした。だから気になって聞いてみた。
けど…
『料理が苦手だ』
そう返ってきたから少し驚いた。
『勉強も苦手だ。特に数学が駄目』
文武平等、才色兼備なイメージが強かったから、苦手なものがあると返事が返ってきて驚いた。
『何で苦手なもの何か聞いたんだ?』
『何でも出来そうだったから‥操縦の腕も半人前だと思えないくらい上手いし』
『あら、嬉しい事言ってくれるじゃないの』
ニコッと笑ったクロアは“そうだ‥”と洩らすと再度ジョンの正面へと回り、オールを水から上げてジョンに差し出した。
『漕いでみな』
『は‥?』
言われている意味が一瞬分からなかった。
『さっき私に楽しいかどうか聞いたでしょ?実際自分で体験してみなさい』
『触ったこと無いんだから無理だって!』
『無理って決めつけてちゃ何も出来無いわよ』
さっきまでクロアが立っていた所に無理矢理立たされて“ほら”と言ってオールを手渡された。
『男だから力で進めるでしょ‥難しい事は言わないわ、感覚で
十分難しい事を言っている事にクロアは気付いているんだろうか?感覚って…
ぎこちなく漕ぎ出すと、クロアが小さくクスクスと笑い出した。
『笑うなよ…』
『あぁ、御免なさい。素直に漕ぎ出すからつい‥』
『うっさいな、もう…』
『にしても‥ジョン、貴方筋が良いと思うわ』
『…ありがと』
『あら、やっと少し笑ったわね』
何だか少し恥ずかしくてクロアから目を逸らした。
笑ったのなんか何時ぶりだろう‥
こんなに楽しいのは‥一体いつぶりだろう。
いろんな場所を回って‥
抜け道を通ってクロアオススメのお店に行ったり、秘密の場所も教えて貰ったりしているうちに、すっかり辺りは夕闇に染まっていた。こんなに時間が経つのが早いなんて…
『サン・マルコ広場に到着よ』
『…ありがと』
クロアに手を貸してもらって
クロアの手が僕の手から離れたのが何だか寂しかった。
『さぁ、アリア社長帰りましょう。秋乃さんとアリシアと‥美味しい夕食が待ってるわ』
「ぷいにゃ!」
嬉しそうな顔をしたアリアがクロアに抱き付き、クロアはそれを抱き留めると同じ様に笑った。
『クロア!』
『…なぁに』
クロアはアリアを下ろしながら、そう返した。
長い銀髪が夕日を浴びてオレンジに輝いてた。
『俺‥
『
その言葉にがっかりした。
誰がそんな決まり…
少し俯いたジョンを見たクロアは“でも”と続けると、楽しそうに笑った。
『そんな決まりを打ち砕くのも何だか凄く楽しそうね』
『え…?』
『堂々と家を出れる様になったら、私を訪ねてらっしゃい』
そう言ってクロアは、僕の首に青色の石の付いたネックレスを掛けた。
会いにきて良いんだ‥
一緒に頑張ってくれるんだ…
そう思ったら涙が溢れそうになった。
『ありがとう』
そうやって僕等は出逢い‥僕は自分の夢を見付けた。
僕もクロアの様に誰かを元気に出来る
そう思って取り敢えずさぼっていた勉強を再開した。
家に居なくちゃやれない事をやりきった頃にはクロアと会って三回目の春を迎えていた。
僕は家を飛び出した。
親を説得出来無い事は…二人が説得されないのは分かっていたし、説得する気も無かった。
最小限の荷物を片手に僕は
『あの‥クロンティアさんいらっしゃいますか?』
「クロアちゃんは“
社員の長い金髪のお姉さんは“今日は休日だと思うから居るとおもうわ”と言うと、丁寧に地図を書いてくれた。
僕は走った。やっとクロアに会えると思ったら胸が高鳴った。
乱れた息を深呼吸をして整えると、チャイムを押した。反応は無かった。反応は無かったけど、人が居る気配がしたので、悪いとは思ったがそっと店内に入った。
リビングらしき部屋に手足の短い火星猫と女が居た。
ジョンに気付いた火星猫が毛を逆立てて唸り、女はそれを手を添えて止めさせると、顔を上げた。
瞬間、僕は息をする事を忘れた。
『貴方…誰?』
女は確かにクロアだった。
だから驚いたといった方が正しいかもしれない。
長かった美しい銀髪は短く切られ、蒼色の瞳は右側が黒い眼帯で塞がれていた。
以前は大きく感じた瞳も、そこまで大きくは開かれていなく、コロコロと変わっていた表情も今は何一つ動かない。
三年前明るく人の良さそうな印象だったクロアは、冷たい印象の女になっていた。
三年の間に何があったんだ…
そう思ったが決心は変わっていなかった。
『約束通り来たよ、クロア』
そう言って首に掛かっているネックレスを見せると、クロアは目を見開いた。
『ジョン…』
『そう、ジョンだよ』
この三年の間にクロアを変える何かがあったのは確かだった。
僕は大事な時に何も出来無かった‥
でも戻る事は出来無い。
『“クロアさん”約束をしましょう』
だったら僕は…
『僕と一緒に‥』
これからの彼女を護るだけだ…
『そうして僕は
そう言ってケイトさんは手にしていたクロアさんの手を握りなおした。
『入ったといっても僕はクロアさんに“ケイト”という名前を貰い、女として
プリマの実力を付けてから男として全てを始める為に』
それが‥ジョン・ハドルトソンの偽りの始まり。それが…
ケイト・ハドルトソンの始まり…‥
『三年の間に何があったのか…クロアさんがそれを僕に教えてくれたのは、暫く経ってからだった』
クロアさんに何があったのか私は知らない。
ケイト先輩に聞く気も無かった‥
だってそれはきっと‥
クロアさんの信頼の証だから…
『色んなものが変わった』
ケイト先輩の手が、そっとクロアさんの頭を優しく撫でた。
銀髪を指が滑る。
『クロアさんも僕も‥出逢った頃とは全然違うし、何があったのか聞いて僕のクロアさんの見方も変わった』
ふと“でも”と続けたケイト先輩の手が止まった。
『出逢ったあの日から‥何一つ変わらないモノもある』
ケイト先輩はクロアさんの指輪の光る左手に手を重ねると、その唇に自分の唇を重ねた。
ステンドグラスから差し込む光を受けた二人がとても綺麗で‥
まるで…結婚式を見ている様だった。
『今も昔も‥この
我慢していた様に、ケイト先輩の頬を伝う沢山の涙。
それを止める術を当然の様に私は持っていない。
その術を持っているのは…
『愛してる‥心葉』
クロアさん唯一人なんだ——…‥
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