第二十九話 雪国の一日
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* * *
「貴女が向いていないと思うのならば、軍など辞めてしまえば良いではありませんか」
見渡す限り真っ白な、床と天井しか無い空間。
私はそこにぽつんと立っていた。
ああ、また夢か、と思いながら私は声を辿って視線を上げる。
すると天井に腰を下ろしてこちらを見ているネレの姿が目に入った。
夢なので何でもアリなのは致し方ないが、こうも清々しく重力を無視されると変な気分がする。
本当に何も無いから、実際にはどちらが天井でどちらが地面なのか分からないのだけど。
――向いてないなんて言ったっけ?
と私は首を捻ったが、言われてみるとそんな事をぼやいたような気もする。
「第一、貴女の目的は既に達成されたわけですし、もうこの場所に留まる理由も無いのではありませんか?」
そう言って、彼女は逆さに笑った。
言われてみると、確かにそれも事実だ。
私情抜きで語るなら、ネレの言葉に異を唱える理由も必要も無い。
……しかし、
『…………でも、私、此処に居たいんだよね』
軍に入った目的は既に達成されていたけれど、辞めようなんていう考えは不思議と全く思い浮かばなかった。
入る前は、私の尋ね人さえ見つかればあんな面倒そうな所はさっさと辞めてやろうと思っていたはずなのに。
『いつの間にか、そんなふうに思うようになっちゃったみたいでさ…』
仕事はハードだけど、私はこのブラックホークという場所が、この場所に居る皆さんが、好きになってしまったのかも知れない。
きっと、この場所に居ることが私の幸せで。
ふと、つい先日のハルセさんのことを思い出す。
あの光景を思い出すとすごく辛いけれど、それによって私が今の日々を失うことをどれだけ怖れているか、今の日々がどれだけ大切か、改めて気付かされたような気がするのだ。
「軍というものがどのような場所か、貴女も理解しているはずです。貴女が在りたいと願う場所は、決して生易しい場所ではありませんよ」
崩さぬ笑顔で、ネレは語る。
「再び傷付くかも知れません。再び苦しむかも知れません。再び悲しむかも知れません。それでも貴女はそれを望むのですか?」
その言葉に、私は暫し考え込んだ。
確かに苦しんだり悲しんだりするのは嫌だ。自分から進んで苦しみたいなんていう奇特な思考は残念ながら持ち合わせていないし。
だけど。
――それでも私は、此処に居たいから。
――だから、今度こそは、最後まで私の幸せを守りきるから。
私はしっかりと彼女を見据え、彼女の問いに静かに頷いた。
「貴女の傍に死神が居たとしても、ですか?」
『そんなのは……前世なんて、関係無いよ。アヤナミ様はアヤナミ様で…………、私の、大切な人だから』
きっとこれが、今の私の本心だ。
「……今のルフィアなら、そう答えると思っていました」
その瞬間、怖さすら感じるような彼女の笑顔は消えて、普段の穏やかな声と微笑みが戻ってきた。
彼女はその場で立ち上がると、ふわりとこちらへ向かって跳んだ後、くるりと宙で回転して私の前に降り立つ。
すうっと伸ばされた手が、私の頬に温かく触れた。
「貴女は揺らいではなりません。きっと、貴女が信じた道の先に、貴女の幸せがあるのですから」
『……ありがとう、ネレ』
彼女につられて、私もその言葉と共に彼女に笑顔を見せた。
そろそろ時間が来たのだろう。意識が浮上していく感覚がする。
この夢ももう終わる。
私は、そっと目を閉じた。
* * *
朝目覚めてみると、肌に触れる空気がものすごく冷たかった。
――何だこれ、めっちゃ寒い。
思わず自分が包まっている布団を握り締めて引き寄せる。
光源の極端に少ない暗い部屋をぼんやり見つめていると、そういえば今はアントヴォルトに居るんだった、と思い出した。
第一区からかなり北に行った所にあるのだから寒くて当たり前だ。
出たくない……でも出なければ……、と温かなベッドの中で葛藤すること数分、なんとか腹を括って私はそこから這い出した。
照明を点け、顔を洗ったり食料を口にしたり軍服に着替えたりして身支度を調える。
『……そういえば、どうすればいいんだろう?』
普段と同じ時間に起きたはいいけれど、今日の行動について何も指示されていなかった。
――とりあえず、誰かブラックホークの人を探そっか。
そう思い、私はひとまず部屋を抜け出した。
『居ない……』
このリビドザイルの操舵室へ来てみたものの、目的の人物達は見当たらなかった。
ここに居るのは数人の操縦士だけのようだ。
肩を落として踵を返そうとした時、
「あ、あの!」
『?』
一人の若い軍人さんに声を掛けられた。
ピシッ、と敬礼をしてから彼が言う。
「どなたかをお探しでありますか?」
『は、はい。ブラックホークの方を…』
「そうでしたか。おそらく、アヤナミ参謀長官殿は王宮殿の方にいらっしゃると思います。他の方々も先程リビドザイルの外へ出て行かれました」
『そうですか。ご親切にありがとうございます』
――良い人だ…!
心の内で感謝しながら、私はリビドザイルの出口へ向かった。
…………その一方で、
「なあ!見たか?!俺、ルフィアちゃんと話しちまった!」
「ズルいぞ抜け駆けなんて!」
「そうだそうだ!」
「でも可愛いよなぁ……ルフィアさん…!」
「だよな。ありゃあ軍でも一、二を争う可愛さだと思うぜ」
「あれで黒法術師でさえなければソッコー告ってるんだけどなあ…」
「それもあるけど、あのおっかない参謀のお気に入りっていうのもあるからな…。下手に手を出したら殺されそうだ」
「……なぁ、やっぱりルフィアちゃんも黒法術師なのか?」
「そりゃあ、ブラックホークに入ってんだからそうなんだろ」
「でも昨日から来たあのバ……元帥の息子さんは黒法術師じゃないんだろ?」
「あれはコネとゴリ押しって聞いたが」
「あんなバ……元帥の息子さんとルフィアさんを一緒にすんなよ!!」
「わ、悪ィ……」
「それにしてもルフィアちゃんは可愛いよなぁ~…」
「だよな…」
そんな会話があったとか無かったとか…。
* * *
防寒着を着込んで、出入口からひょこっと顔を出してみる。
真っ先に目に入ったのは、完璧な投球フォームで豪速球を投げるコナツさんとその直撃を受けたヒュウガ少佐だった。
そんな少佐に追い討ちをかけるように雪玉を投げつけるのはクロユリ君だ。
彼等の輪の中には、さりげなく昨日会った双子達も混ざっている。
「あ、ルフィアだ!」
早くも私の存在に気付いたらしく、こちらに振り向いたクロユリ君が声を上げた。
それに続いて他の方々も一斉に私の方を見る。
『…………なんとなく予想はつきますけど……皆さんは何をしてるんですか?』
「雪合戦!!」
『…………何してるんですか……』
予想通りの答えが元気良く返ってきて、私は頭を抱えた。
見渡してみると、皆さんの表情は部屋に閉じ篭って書類と向き合っている時に比べて随分生き生きとしているし、それは確かに良いことではあると思うのだが…………軍人としてそれはどうなのだろうか……。
「ルフィアも一緒にやろうよ!」
クロユリ君が大きな瞳で私を見つめながら言う。
……そんな“もちろん一緒にやるよね"という期待のこもった目を向けないで…!
『いや……ほら、仕事しないとダメじゃないですか…』
「それがねぇ、その仕事が無いんだよー」
『え?』
割り込んできた少佐の発言に、私は今度は目を丸くした。
「今回我々は戦闘要員としてここへ来たわけですから、制圧が終わればもうやる事は無いんですよ。なので、寒い雪国で体が鈍らないよう運動も兼ねて雪合戦をしているんです」
ホーブルグ要塞に戻ったらまた大量の書類が待っているんでしょうけどね、と付け足して苦笑するコナツさん。
なるほど…。
コナツさんまでもが遊んでるなんておかしいとは思っていたが、そういうことだったのか。
「まあ、アヤたんは色々とやることがあって忙しいみたいだけどねー」
――なんですと…!
雪合戦に心が傾きかけていたが、やることがあるならベグライターとして手伝わないわけにはいかない。
『アヤナミ様って今は王宮にいらっしゃるんですよね?』
「ええ、多分そうだと思いますけど…」
『私、行ってきます!』
そう言うと皆さんからは残念そうな声が上がったけれど、私はそんなことは気にせずに王宮へ向かって走り出した。
* * *
王宮の中は閑散としていた。
王宮と言うだけあって、控えめではあるが意匠の凝らされた上品な装飾が至る所になされている。
しかし、所々に見張りと思われる帝国兵が居る以外に人は見当たらなかった。
カツカツと響く自分のブーツの音だけを聞きながら、戦闘の傷跡の残るやたらと長い廊下を歩く。
途中、廊下に面している扉を幾つか開けて部屋を覗いたりもしてみたが、アヤナミ様の姿は見当たらない。
あまり景観の変わらない中を一人でずっと歩いていると、だんだん迷子になったのではないかという不安が心の中に芽生えてきた。
『……詳しい居場所とか聞かずに来たのは失敗だったかな…』
“王宮って言ったら王を守る最後の砦みたいなもんだし、そりゃあ迷子になりそうな構造しててもおかしくはないだろうな"
『だよねぇ……ホーブルグ要塞だって、慣れれば平気だけど結構迷路みたいな所とかあったし……』
ハァ、と溜め息を吐きつつもひたすら歩き続ける。
階段を上ったりもしながら王宮内を彷徨っていると、ひときわ豪華な扉が目の前に現れた。
自分の身長の二倍以上はありそうなくらいに大きく重厚そうな木製の扉には、美しい模様を生み出す金属の細工が施されている。
しかし、ここにもザイフォンが当たったと思われる痕跡があった。
これは……なんだか怪しそうだ。ただの勘ではあるが。
氷のように冷たい扉に手を添えて、ゆっくりとそれを押してみる。
見た目通り重くはあったが、私の力でも十分動かすことは可能だったようで、ギィィと低い音を鳴らしながら扉は開いた。
少し中を見渡してみてから、部屋に足を踏み入れる。
最初に目に入ったのは、天幕の奥にある、割られた大きな角柱型のガラスだった。
下部には高級そうな台座があり、おそらく何か高価なものか大切なものを見えるように飾っておくための容れ物だったのだろう。
実際、そこには何やら大きな黒い物体が鎮座していた。
乱雑に拭き取られた跡のある掠れた血溜まりを踏み越えて、台座に近付く。
それは、上面に十字架を浮き彫りにした棺桶だった。
大人が入るには少し窮屈そうだが、私くらいならすっぽり入りそうな大きさだ。
これは、いつかの前世で見たことがある。
かの有名な、フェアローレンの躯が封じられているという“パンドラの箱"だ。
しかし、封はされていないらしく、蓋は開きかかっている。
私はそれに右手を触れた。
“おい、やめとけルフィア"
ルークの声が聞こえる。
ごくり、と固唾を飲む。心臓の鼓動が五月蝿いほど鳴り響く。じわりと嫌な汗が滲む。
私はぐいと蓋を押し上げた。
中身は空っぽだった。
そこにあったのは、黒々とした棺の底板だけ。
……でも、これは偽物じゃない。
とても薄いけれど、確かに闇の気配を感じる。
“……そういや、パンドラの箱は数年おきに中身を別の箱に移し替えるんだよな"
――それは私も聞いたことがある。
容れ物の老朽化を防ぐため、だっただろうか。
きっとこれは中身を移し替えられた後の“本物だった"ものなのだろう。
しかし、何でそれがこんな所にあるのだろうか…。
“パンドラには強大な力を秘めた死神が入ってるんだ。欲しがる奴は沢山居るんだろ"
そうか……。
本物だと思って手に入れてきたけれど、中身は無かった、と。
でも、そんな物をこんな所に大事に飾っておくだろうか?
たとえ今は空っぽでも前はフェアローレンが入っていたのだから大事にしていたということなのか、もしくは最近まで空だと知らなかったのか。
空箱でも“本物だった"のだからミカエルの瞳が無いと開くことは出来ない。
箱もそうだが、ミカエルの瞳もそう簡単に持って来れるものではないだろう。
今それを持っているのは――…
『…………アヤナミ、様……?』
アヤナミ様が、ここにあったパンドラの箱を開けた…?
ここにパンドラがあることを知っていた?そのためにミカエルを?
彼は、もしかして躯を……――
…………いや、そうとは限らない。
先程ルークも言っていた通り、フェアローレンでなくとも箱を欲しがる人は居るだろう。
第一、フェアローレンの魂はラファエルに封じられているはずだから彼自身にフェアローレンであるという自覚はあるはずもない。
パンドラの箱がここにあったのもたまたま。ミカエルを手に入れたのもたまたまだ。
そうに決まっている。
これは、気にするほどのことではない。
少し目を閉じて、深呼吸をした。
目を開けると、相変わらずそこにある黒々とした箱。
誘われるように、私はすぅ…とその箱の底を指先で撫でた。
禍々しく、それでいて甘美な闇が手袋越しの肌に絡み付いて、酷く心地好い。
そうしていると、少しずつ頭がぼうっとしていく。
もっと、もっとこれを感じていたい。
私はそっとその棺に顔を近付けて……――
『――っ!?』
我に返り、バッとそこから飛び退く。
――何……今の……。
飲まれかけていた…?
こんな感覚を味わったのは初めてだ。
周りを見回してみたが、幸い誰かに今の様子を見られたりはしていないようだ。
――こんな所、さっさと離れよう。
棺の蓋を元通りに閉じて、くるりと体を反転する。
私はそのまま足早にその部屋を出た。
* * *
その後、私はまた王宮内の色々な所を探し回った。
そして、
『いた…!』
ようやく目的の人物を見つけ出すことができた。
王宮の奥まった所にある、会議室のような広い部屋。
室内の大部分を占める大きな四角い机の上には所狭しと書類や本や地図が広げられていて、その向こう側にアヤナミ様の姿があった。
失礼します、と声を掛けてから、彼の許に駆け寄る。
「……どうかしたのか?ルフィア」
書類に落とされていた彼の視線が私に向けられた。
『あの……何かアヤナミ様のお手伝いをしたいと思いまして……』
「ふむ、ならば丁度良い。そことそこの資料はもう使わぬから片付けてくれ」
『はいっ!』
彼が示したのは、今居る所から少し離れた場所に積み重ねられた書類たち。
私はすぐさまそれらがある場所へ向かい、アヤナミ様に指示された作業を開始した。
散乱している書類を大まかな種類ごとに集め、トントンと机の面でそれらを綺麗に揃えて重ねていく。
作業を進めていると、何やら慌ただしい様子で軍人さんが部屋に入ってきた。
彼は資料に目を通していたアヤナミ様の所へ行き、何かを報告すると、アヤナミ様に何かの指示を受けて部屋から出て行った。
その人が出て行くと、入れ替わるようにしてまた別の軍人さんが入ってきて同じようにアヤナミ様に報告をしていく。
――……なんだか本当に忙しそうだな…。
そんなことをふと思ったが、考えてみれば仕方のないことだろう。
アントヴォルト全土の制圧は既に完了し武力衝突は終結したが、そこで全てが終わるわけではない。
暫定的な統治機構の樹立から制度改革、治安維持、国民の大半の奴隷としての売却等の占領統治や同化政策を敷くことも必要だ。
そのうち本国からそういったことに長けた人々が来るだろうからアヤナミ様の出番は彼等にこの仕事を引き継ぐまでの間だけだろうが……。
ホーブルグ要塞でもいつも多くの仕事をこなしていたが、彼は疲れてしまわないのだろうか…。
「ルフィア」
『はいっ』
ちょうど作業が終わる頃、まるでタイミングを見計らったかのように声が掛かる。
最後の書類の束を収納用の箱に入れてアヤナミ様の所へ向かうと、
「これをイブキ大尉に届けてこい。すぐ上の階に居るはずだ」
私は渡された封筒を受け取り、すぐさまそれを届けるべく部屋を出た。
* * *
その後も、一つ仕事が終わると休む間も無くまた次の仕事が言い渡されるということが続き、私はひたすら王宮周辺を駆けずり回った。
アヤナミ様は鬼だ。鬼畜だ。
お陰様で今日もこんな夜遅くまで働くはめになってしまった。これでは要塞での残業漬けの日々とそう変わらないではないか…。
手伝いになんて行かなければよかった、と思う反面、アヤナミ様がこれだけ忙しいのにサボっていたら後ろめたさや心苦しさを感じていただろうから結局こうするしかなかったのだろうとも思う。
全く、我ながら随分と他人思いな人間になったものだ。
数年前の私なら誰が何をしていようと何とも思わなかっただろうに。
『…………それにしても、今日は疲れた……』
そんなことを呟きながら向かうのは、王宮の大浴場。
昨日は諸事情により使えなかったが、今日からは使えるようになったらしいのだ。
脱衣所に着くと、着替え用の衣服と今まで着ていた軍服や下着を籠に入れてから、タオルを片手に浴室への扉を開く。
『おお…!広い…!』
思わずそんな言葉が漏れたように、浴室も湯船もかなり広く、そして綺麗だった。さすが王宮。
しかしここには先客がいたらしく、湯船に浸かっていた数人の女性達に何やらじとっとした視線を向けられてしまった。
……貧乏庶民的な発言をしてしまったのは間違いだったのだろうか。
落ち着かない気持ちになりつつも、彼女達のことはスルーして空いているシャワーの前に行く。
そこで髪や身体を洗っていると、彼女達が私を避けるようにして出て行くのが視界の端に見えて。
洗い終わる頃には、この大浴場に居るのは私一人だけになっていた。
『なんか……露骨に避けられてない…?』
長い髪を上の方で適当に纏めながら、少々寂しくなった浴場を見渡してぽつりと呟く。
“そりゃそうだろ、ブラックホークなんだからさ"
……確かに、要塞でもそういった理由で冷ややかな目を向けられることは幾度となくあった。
最近は執務室に篭ってばかりだったり、書類の提出先の部署の方々とは会話はほぼ無くても顔見知りのような間柄になっていてそれほど敵対心を抱かれなくなってきていたり、入院させられてほとんど誰とも会わずに過ごしていたりしたからあまり気にならなくなっていたけれど。
『でも、これって貸し切りみたいでテンション上がるね!』
“あっそ"
『人目を気にせず泳げるよ!』
“お前は子供か"
――こんな時こそポジティブシンキングさ!
そんな言葉を彼にうそぶいて、私は誰も居ない湯船に意気揚々と飛び込んだ。
* * *
『牛乳が無い……だと…!?』
お風呂はとても気持ち良かった。
今日溜まった疲れが溶けて消えてしまったような気さえする。
シャワーも嫌いではないけれど、やはりお風呂は良いものだ。
飛び込んだことに関しては、ルークにネチネチと文句を言われたけど。
そして、風呂上がり。
大きめのタオルを巻いて脱衣所近辺を探し回った私は愕然としていた。
“無いものは無いんだ、仕方ないだろ"
『でもでも、風呂上がりの牛乳は私の日課だし…!ちゃんと牛乳飲まないと身長伸びないし…!』
“諦めろ馬鹿"
『うう……ここにはあると思ったのに……』
およよ、と泣き真似をしながら無念さをアピールしてみたが、彼に鬱陶しそうに溜息を吐かれたのでそれはやめることにした。
『……というか、ドライヤーも無いし…』
“それは……残念だな"
同じく探し回ったのに見つからなかったものが、ドライヤー。
これは少々困った事態だ。
寝泊まりはリビドザイルで行っているし、そこへ帰ればドライヤーもあるのだが、だからといってリビドザイルまで行くわけにもいかなかった。
そこへ辿り着くまでには少し屋外を歩かなければならないのだが、濡れた髪で外へ出て行って水分が凍って固まったりしたらシャレにならない……と思われる。北国は恐ろしい場所だ。
仕方がないので出来る限りタオルで拭いてからリビドザイルへ帰ろう。
あらかじめ持って来ていた着替えを身に付け、先程まで着ていた軍服を持って脱衣所を出る。
脱衣所の前の廊下には、風呂上がりに談笑するためなのか幾つかの長椅子が置いてある一角があり、私はそこに腰掛けて髪を拭くことにした。
軽く拭いただけではすぐにまた髪から水が滴ってきてしまうし、そのまま髪を垂らしておいたら床や背中までびしょ濡れになってしまうので、素早く、かつ丁寧に水気を拭き取っていかなくてはならない。
静かな廊下をぼんやり眺めながらひたすらタオルを髪に押し当てて水気を取っていく。
少しの間そうしていると、遠くから足音が聞こえてきた。
顔を上げて音のする方を見る。
すると、ちょうど廊下の角を曲がってくるアヤナミ様が見えた。
私が手伝いから開放された後も彼はまだ少しやることがあると言っていたが、もしかしてつい今し方まで仕事をしていたのだろうか…。
『お疲れ様です。アヤナミ様はこれからお風呂ですか?』
「ああ」
こちらへ歩いて来たということからある程度予想はついていたが、どうやら彼も大浴場へ来たらしい。
そのまま男湯の方へ行くのかと思ったが、彼は何故か私の近くで足を止めるとこちらを凝視してきた。
「……何をしている」
視線はそのままに、アヤナミ様が口を開く。
『えっと、髪を拭いているんです。ドライヤーをリビドザイルに置いてきてしまって…』
「そうか」
私の返答に、彼は短くそう返す。
これでこのやり取りは終わりだろうと思い、止めていた手を再び動かし始めると、
「手伝おう」
ひょいとタオルを取り上げられ、
『え…………!』
そのタオルを頭に被せられて、わしゃわしゃと髪を掻き乱すように拭かれ始めた。
いくらなんでもそれは恐れ多いし気恥ずかしいので、自分で出来るから大丈夫だと彼の手を押し返してタオルを取り戻そうとする。
しかし、
「大人しくしていろ」
そう有無を言わせぬ威圧感と共に言われてしまったので、私のささやかな抵抗はそこで終了した。
こんな所で威圧感の無駄遣いしなくてもいいのに…。
なんて命知らずなことは言えないけれど。
不慣れなのか少々不器用な手付きでわしゃわしゃとタオルが動かされるのを感じる。
…………何なんだ、この状況は。
「……体調はどうだ」
暫しの間成す術もなくこの状況に甘んじていると、不意にそう声が掛けられた。
この状況でその質問をする意図は不明だが、
『普通、です』
ひとまずそう返答する。
「そうか。…………すまないな、まだ安静にしているべき時だというのにこんな所へ無理に連れ出して」
すまないと思ってるなら突然拉致りに来ないでくださ――……え?
今、すまないって言った……よね…?
それはつまり、多少なりとも私を連れ出したことを悪かったと思っているということだろうか。
意外だ……。当然の如く病院から連れ出されたので連れ出したご本人は何とも思っていないのかと思っていたから、正直に言うと彼の発言には驚いた。
『だ、大丈夫です、ので、お気になさらず……』
「……そうか」
つい口調がぎこちなくなってしまう。
しかも、何故かアヤナミ様の行動を擁護するようなことを言ってしまった。先程までは鬼畜上司だとか突然拉致りに来るなんていい迷惑だとか思っていたのに。
けれども今更訂正するのも彼の機嫌を損ねてしまいそうで言い出すに言い出せず、再び会話は途切れた。
どうにもそわそわとして落ち着かない沈黙が続く。
髪を拭く手は徐々に毛先の方へと下がっていた。今は背中の辺りの髪にその感触を感じる。
「綺麗な髪だな」
長く垂れ下がる髪を梳くようにして拭いていた彼がそう呟いた。
『へっ!?えっ、あ、あの……ありがとうございます……』
……何だ今のは。
何この状況。
一体何なの。
何今の。
綺麗って。綺麗って。
えっ……何なの。
何これ。
どういうことなんですか。
彼の短い一言で、一瞬にして私の頭の中はそんな疑問達で溢れ返った。
ひとまずは返答を返すことができたが、私の脳は完全にテンパっていて正常な動作は期待できそうにない。
幸い背後にいるアヤナミ様には見られはしないだろうが、顔にはカァッと熱が集まっていて、きっと赤くなっていることだろう。
湯船から出てしばらく時間も経ち平常の温度に近付いてきていた体温も再び上昇してしまった気がする。
心臓はバクバクと煩いし、呼吸も浅く速くなっていた。
なんなんだこれは。
そんな思いだけがひたすら頭の中を駆け巡る。
隠しきれているのかも分からないこの動揺は、服の裾をぎゅっと握り締めてどうにか抑え込んだつもりだ。
それからどれだけ時間が経ったのかは分からない。
「このくらいで良いか?」
アヤナミ様の言葉で私は我に返った。
気付いた時には髪の水気は随分少なくなっていた。どうやら彼はきちんと丁寧に拭いてくれたらしい。
『はいっ、大丈夫です!ありがとうございました!で、では、おやすみなさい!』
未だ平常心には戻れていない私は、大仰に頭を下げ、半ばひったくるようにして彼の手からタオルを取り返すと、脱兎の如くその場から逃げ去った。
*
走って走って、ただひたすらリビドザイルの部屋を目指す。
北国の夜ともなれば外気はかなり冷えていたはずだけれど、その時は寒さなどほとんど感じなかった。
部屋に着くと、手に持っていた荷物は近くの椅子に投げ捨てて一目散にベッドに飛び込んだ。
枕に顔を押し付けてみたり、布団に包まってみたり、枕を抱き締めてゴロゴロと転がってみたり、ぼふぼふとベッドに頭を打ち付けてみたり。
傍目に見ればそれはそれは不審な行動であろうが、そうやって体を動かすことで少しでも気を紛らわせて動揺を落ち着かせようと必死だったわけである。
まず、どうして彼があんなことを言ったのか分からない。……もしかしたら本当に、素直に褒めてくれただけなのかも知れないけど。
お世辞だろうか。おだてて何かさせるつもりだったのだろうか。ぐるぐる考えてみるけれど、私は彼の思考を読めるわけではないのだから、いくら頭を悩ませても当然答えは出ないだろう。
そして私が、そんなことでどうしてこんなにも動揺しているのかも分からなかった。
これでは……そう、それではまるで……――
未だ火照ったままの頬をひんやりと冷たい枕に押し付けながら、もうできるだけさっきのことは考えないようにしようと思って、でもそう思うと余計にさっきの出来事を思い出してしまって、そうすると少し落ち着きかけていた心音がまた速さを増してしまって。
そんな悪循環に苛まれながら、先程までのたうち回っていたせいで離れた所へ行ってしまっていた掛け布団を抱き寄せる。
ああ……寝れない…。
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