外国名の方が話の都合上良いかと思います。
タンザナイトの見る先
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生臭い。ざらざらする。
爽やかさとは程遠いべたついた風が頬をくすぐる感覚に目が覚めた。
酷い頭痛と吐き気がする。体に力が入らない。
瞬きを力強く何度かすれば、ぼやけた視界が段々と輪郭を持っていく。
「...海」
ヴィルが倒れていたのは、青黒い大海原が近くに迫っている、ごみが少し散乱した浜辺だった。
釣り上げられそのままにされたのか腐乱しかけた生魚に、人の手で壊されたように見える木造の船。
周囲を見渡せば、あるのは剥き出しの岩肌とそこにべったりとついた血痕だけ。
服は海水でびっしょりと濡れていて、どうやらヴィルはどこかの海岸に流されたようだった。
口の中に海水が入って塩辛い。鼻も目もつんと痛くて痛くてたまらない。
「うぅ、ふ、ぅ...」
胸の奥も痛くて、ヴィルはもう全部がぐしゃぐしゃになってしまって、一人で泣いた。
生まれて初めて泣いたものだから、息継ぎの仕方も整え方も嗚咽の出し方も何一つ分からなくて、しゃっくりで骨が軋んで身体が折れそうだった。
こんな時、彼女なら。ヴィルがこんなにも哀れに泣いているのを見れば、その背中を温かいブランケットで包んで、そして世界が終わるかのように、一緒に大袈裟に泣いてみせただろう。
でも、そうしてくれる者は誰もいない。ヴィルの幸せの代わりにいなくなってしまった。
だからヴィルは一人で泣くしかない。
痛くて、冷たくて、寂しいこの浜辺で、いつか触れたかもしれない暖かさを探して泣くしかないのだ。
しばらくして、ヴィルはようやく立ち上がった。
泣きすぎて脱水症状を起こしているのか頭がくらくらするし、鼻も詰まって息がしづらい。
それでもこれからはこの世界で一人生きていかなければならないのだから、こんなことで弱音なんて吐いている暇なんて、立ち止まっている時間なんてない。
ヴィルは深呼吸をして背筋を伸ばした。足元を見れば先程は気づかなかったが、向こうに置いてきてしまったと思っていたサッチェルバッグと旅行かばんが転がっている。
それにほっと安心したようにヴィルは息を漏らした。
なにせこの二つにはヴィルが七年間築き上げたものが全て詰め込まれているのだ。
その二つを空間にしまって、ヴィルは歩き出した。
まずはこのびしょびしょのローブを着替えるための場所を探さなくては。
そうして探索して分かったことだが、ヴィルが流れ着いたのは小さな島で、それも賊にでも襲われたのかどこもかしこも荒れ果てている。
集落があっただろう場所にはかろうじて家と分かる程度に形を保った荒屋がいくつか残されていて、ヴィルはその中でもまだ綺麗な家に入った。
「しつれいいたします」
誰もいないことは分かっているけれど、癖と言えるほどに身についてしまった礼儀作法はそう簡単には消えず、ノックしてから声がけをして入室してしまった。
入った部屋は元は寝室だったようで、引き出しが全て無くなったチェストに枠組みだけが残されたベッドが置いてある。
「スコージファイ」
杖を振るって部屋を綺麗にした後、ベッドの上に荷物を置いた。
念には念を入れて目眩し術を家全体にかけ、全身を乾かしてから衣服を脱いでいく。
乾かしたといっても水分を無くしただけで、海水によるべたついた感覚は残ったままだった。
下着すらも濡れてしまっていたものだから、ヴィルは面倒くさくなって裸になった。
サッチェルバッグの中からシルクのハンカチを取り出し、魔法で出した温水でそれを濡らす。
そして、ぬるく肌心地の良いそれを自分の肌に滑らした。
誰もいない孤島の荒屋で、穏やかな陽の光に照らされながらうつくしい少女が身を清めるさまは、信仰深い修道僧が見ればそのあまりの神性に涙を流したことだろう。
白磁のきめ細やかな肌が自然光でより一層輝き、その上を漆のように艶やかで黒い髪が被さる。
乾き切らなかった髪から水が滴り、その一滴がヴィルの豊かな乳房の上に落ちて、まろくなだらかな曲線を流れていった。
その光景は常ならばいかなる人間をも魅了するような艶美さに溢れていたのだろうが、ヴィルが泣き腫らした顔をそのままに、涙で重くなった睫毛を伏せているからか、その光景は廃退的で入相のような美しさだった。
身を清めた後、ヴィルは旅行かばんの鍵が取り付けられた部分に一つキスを落とした。
すると、がちゃりと解錠されたような音がして旅行かばんがひとりでに開く。
その中は闇で満たされていて底が見えなかったけれども、ヴィルは躊躇せず汚れた衣服を手にその中へ飛び込んだ。
中にあった、というより存在していたのは大きな森だった。
かばんの中だというのに空が存在し、雲が流れ、穏やかな太陽が優しく照らしている。
清らかな水が流れる小川には魚たちが泳ぎ、その辺にある大木の枝で小鳥たちが歌うように囀って、様々な動物たちがそこで生きていた。
ここはヴィルが7歳の時に作り上げた研究施設である。
7歳の時、ヴィルはかの有名な魔法動物学者であるニュート・スキャマンダー氏が拡大呪文をかけたスーツケースを己の研究施設とし、その中に無数の魔法動物たちを飼育していたということを知った。
その頃のヴィルは今の何倍も知識に貪欲で、家という自由に研究することのできない環境を歯痒く思っていたため、すぐさまこのスーツケースを再現することに飛びかかった。
そして一週間という、わずかな期間で7歳の少女は自分だけの空間を作り上げてしまったのだ。
それから十年近くかけてその空間をここまで拡大させ、様々な魔法を応用してこの美しいヴィルだけの研究施設を作り上げたのだった。
一歩踏み出せば柔らかな芝生が、ヴィルの裸足をくすぐる。
そのくすぐったさに、ふふ、と笑っていれば、突如凄まじい勢いの風が背後から吹く。
振り返れば、美しい毛並みをしたグリフィンがいた。
「ひさしぶり、グリフィン。おでむかえありがとう」
そう言って顎を撫でてやれば、グリフィンは甘えるように額をヴィルの胸元に擦り寄せた。
普段はこんなことをしないのに、もしかしたらヴィルの頬に残る涙の跡を見て心配してくれたのかもしれない。
鷲の羽毛はちょっと硬くて、素肌にちくちくと刺さる。
「グリフィン、わるいのだけど屋敷までおくってくれるかしら。はだしで歩きたくないの」
ヴィルの言葉を理解したようにグリフィンは乗りやすいように低く屈む。
その背中に乗り首元にしっかり抱きつけば、グリフィンはすぐさま立ち上がり空に浮いた。
このグリフィンは、ここの守護番としてヴィルが野生の群れから連れ出した一匹だった。
この個体は幼いときより、他のどの個体よりも強く、そしてうつくしかった。
そのために群れの中で浮いてしまって、いつも独りでいるのを見たヴィルは自分でもよく分からない気まぐれで引き取ったのである。
しばらく飛んでいると、小さく屋敷が見えてきた。
屋敷自体が巨人族が住むことができそうなくらいには大きく、その玄関口へ続く石畳の道の周囲には様々な種類の植物が生えている。
「またあとでここにきて。お礼のジャーキーをよういしとくから」
背中から降りてそう言うと、嬉しそうな鳴き声を一声あげてグリフィンは飛び去ってしまった。
黒檀で作られた重厚な扉を開ける。
屋敷の中は外見と違わずとても広く、綺麗に整えられていた。
あまり煌びやかなものを好まないヴィルの趣向で、家具も内装も白と黒で統一されていてチェス盤のようだ。
黄金比の螺旋階段を上り、二階の特に大きな扉の部屋に入る。
その部屋には大きなクローゼットに本棚、そしてキングサイズのベッドが置いてある。
ここはヴィルの寝室だった。
床には黒の大理石が敷き詰められていて、入って向かいの壁は一面全てがガラス張り。
その向こうは水で満たされていて、魚たちが泳いでいる。
そこから差す光が水面のように揺らいで、床で踊っていた。
このガラス張りの壁は水槽ではなく、この空間に存在する湖の中にこの部屋を転移しているため、どちらかと言えば水槽の中にある部屋といった方が正しい。
水からの光源しかない部屋は少し薄暗かったが、ヴィルが足を踏み入れた瞬間所々に置かれたキャンドルに一斉に火がついて明るくなる。
そのまま慣れたようにクローゼットの扉を開け、少し逡巡してヴィルは白の麻のワンピースを手に取った。
着替えた後、少しばかり屋敷の中を片付けて(といってもあまりに広いのでよく使う部屋だけだが)、ちょうど一時間後に来たグルフィンにジャーキーをやり、そのまま背中に乗ってかばんの中から出る。
元の荒屋の一室に戻るとヴィルはサッチェルバッグと旅行かばんを空間にしまって、外へ出た。
目指すは、ここへ来る道中に見つけた図書館らしき廃墟である。
———まずは、この世界のことをしらなくちゃならないわ。