外国名の方が話の都合上良いかと思います。
タンザナイトの見る先
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ついに、卒業してしまった。
手元にある一枚の写真を見てそう一人心の中で呟いた。
写真の中では青色に白のストライプが入ったネクタイを締めた学生達が、揃いも揃ってにこにこと呑気に笑いながら手を振っている。
だがその中の一人、ヴィル・アダムズという女生徒だけはその集団の左端に座り、ぴんと背筋を伸ばしたまま微動だにせず真顔で前をじっと見つめていた。
そのさまが自分と同じ純血、彼等が毛嫌いしているマグルの撮った写真のようで、ヴィルは我ながら気味が悪いと鼻で笑った。
七年間。ここホグワーツ魔法魔術学校で真面目で模範的な生徒としてヴィルは過ごした。
友人の一人も作らず、魔法の研究と実践に明け暮れる日々。
いや、そこまでいってしまえば真面目で模範的な学者として、と言った方が正しいのかもしれない。
テストは一年生のときからいつだって一番で、教師達からは期待され、生徒達からは羨望と畏怖の視線を送られる、唯一無二とさえ言えるほどに才能に溢れたギフテッド。
それがヴィル・アダムズという少女だった。
新たな魔法構造の仮説を説いては魔法界の常識を覆し、数多の論理を変えるような魔法を作り出し、高難易度な魔法薬のより簡易的で有効的な作製方法を論文にし公表すれば、ありとあらゆる学者たちが彼女を自身の研究室に引き入れようと躍起になった。
その頭脳と研究への姿勢はまさしくレイブンクロー生。
ヴィルはその才をもってして、将来はこの魔法界を作り変え、変革し、マーリンやファウストと並んで歴史に名を残すだろう大魔術師になるに違いない存在であった。
———アダムズ家にさえ産まれていなければ。
「あの、ヴィル・アダムズさん!」
「...なあに」
「あの、その、いっ、一緒に写真を撮ってもらってもよろしいでしょうか?!」
「...ええ、勿論」
顔を赤くした後輩だろう男子生徒にそう頼まれ、ヴィルは僅かに口角を上げながら了承した。
その男子生徒の肩に寄り添うように近づけば、彼の身体が緊張したように少しばかり強張っているのがわかる。
向けられたレンズに向かって微笑みながらヴィルは、この男の子はなんて可哀想なんだろう、と思った。
あなたが憧れて、恋慕すら抱いてるかもしれないこのヴィル・アダムズという女は、今日で死んでしまうのですよ。
死んで、そしてこの世の醜悪ばかりを煮詰めたような男の慰み者として、ただただ優秀な子どもを産むためだけに生きる母体となるのです。
ああ、なんて可哀想なの。あなたは畜生にすら劣る女に恋をしていたのよ。
ヴィルと共に写真を撮れた喜びからだろうか。
興奮に赤くした顔をそのままに走り去って行く彼の背中にゆらり、と手を振る。
そう、ヴィルは今日死んでしまう。
いや、死ぬというよりは、アダムズ家という家に殺されるのだ。
今日に至るまでの十八年間。
それを知りながら、ヴィルは生きてきた。
世界を変えるような発明をし、優しく愛想を振りまきながらも、結局自分は卒業と同時に死んでしまうのだと、そう理解しながら誰よりも優秀に生きてきた。
魔法界の希望だなんて大層な呼び名も、別に自分の存在を残そうとして作り上げたものではなく、ヴィルなりに死ぬまで自由に生きようと行動していたら結果に付随しただけのもの。
悲劇のヒロインになる前に終わってしまうだけの人生。
そんな人生でも、ヴィルは一度だって自分を悲観することは無かった。
「だって、仕方ないものね」
遠くで幸せそうに未来を語り合うカップルに、本当に呑気なものだわ、とひとりごちた。
彼等を見つめるヴィルの瞳は光に反射しているわけでもないのに自らきらきらと輝いている。
そう、仕方ないのだ。
この世に、アダムズ家に、産まれ落ちたその日。
圧倒的な魔力によって、夕闇と星空の混ざり合ったタンザナイトのような瞳を揺らめかし、自分の母親の嫌悪に塗れた表情をその視界に写したその時から。
ヴィル・アダムズは成人を待たずして死ぬ、と。
そう運命づけられているのだ。
こつり。
軽やかな足音に気づき背後を振り返れば、漆黒を切り取ったような女が腕を組みながら立っていた。
肌を殆ど露出せず、指先の一本に至るまでが滑らかな黒地のドレスに包まれている。
肌が見えるのはその美しいかんばせからのみで、その肌が雪のように白いものだから、ヴィルはこの人の前に立つといつだって一人で満月を見上げる寂しい夜を過ごすような気持ちになった。
伏しがちの目を縁取る長い睫毛の間から黒曜石のような瞳がヴィルを射抜く。
「おかあさま」
そう一言呼べば、彫刻のように微動だにしなかった女の顔が不快の色に歪んだ。
そして如何にも不愉快であるといった風に、苦々しく口を開く。
「ヴィル、荷物は纏めたのかしら」
「はい。お忙しいのにわざわざ私のために来てくださりありがとうございます」
「勘違いしないで。あなたのためじゃないわ、私のためよ」
「...はい。申し訳ありません」
赤く彩られた麗しい口から発せられた冷たい声色に、腹の奥が重くなる。
若い頃セレーネーと称され社交界の頂点に立ったその美貌は、二十年近く経った今でも昔と寸分違わず美しい。
黒のシルクに包まれた、布越しでも分かる形の良い指先を空中でくるりと回す。
「ウィジー」
母の冷たい声に応えるようにその指先から放たれた光の粒子が一箇所に集まり、そうして散ったかと思えば、その名残から現れたのはアダムズ家に仕えるしもべ妖精のウィジーだった。
着ている衣服は清潔で綺麗に保たれてはいるが、ただの無地の麻だけで作られたそれは母の隣に立つととても薄汚く見える。
骨と皮だけの身体を縮こまらせ、大きな耳を垂らしてぷるぷると震えている様子は罰に怯える小さな子供みたいだ。
その様子と同じく彼女の顔はいつだって何かに怯えているような恐怖の色に染まっていて、ウィジーの水晶玉のように大きな瞳が涙で濡れていないところを、ヴィルは生まれてこの方見たことが無かった。
「な、なんでございましょうか」
「いちいち吃らないでくれるかしら。不愉快よ」
「も、申し訳ありません。ウィジーは、ウィジーは悪い子でございます」
「そんな事は聞いていないわ。私はもう帰りますからヴィルの荷物とやらを持ってきておやりなさい」
「わ、わかりました」
それだけを言い捨てて母はこちらを一瞥もせずに姿現しをして消え去ってしまった。
そうして残されたのはヴィルとウィジーの二人だけ。
二人が立つのはホグワーツの重苦しい校舎の中にぽっかりと空いた、中庭へと続く石造りの小道。
あれだけ騒がしかったはずなのに、いつの間にか周囲に人は一人も居らず、大きな柱から伸びる影が一層静寂を色濃くさせている。
中庭の芝生は青々と輝いて、時折のぞく名も知らぬ小さな花が軽風に微かに揺れていた。
夏の最中にいるはずなのに、鼻の奥がつんと痛むような冬の寂しさが胸を満たして、ヴィルは目の前に居る哀れなしもべ妖精の頼りない身体を突き飛ばしてから、うんと優しく抱きしめてやりたくなった。
「あの、ヴィルお嬢様...」
「...なに」
「お荷物は、ど、どちらにありますでしょうか。ウィジーめがお運びになります」
ウィジーの目を見るとどうしたって虐めてやりたくなるから、ヴィルは顔をそちらへ向けないまま杖を振って空間魔法を展開した。
くるくると空気が歪んで、その境目からサッチェルバッグと少し大きめな旅行かばんが一つ出てくる。
それを見たウィジーはただでさえ大きいその両目を零れ落ちんばかりに見開いて大袈裟に、風船から空気が抜けるような音を喉から出す。
そんなウィジーの様子を見てヴィルは、流石アダムズ家に長年仕えているだけあって察しがいいな、と思った。
空間魔法。それ自体は魔法学校に通った者ならば練習すればできるくらいには身近で比較的簡単な魔法である。
だが、今ヴィルが行使したのはただの空間魔法ではない。
空間魔法だけで何もないところから物を取り出すなど、空間魔法のみでなし得ることなど論理的にも実践的にも不可能なのだ。
魔法は極めてしまえば、ニコラス・フラメルのようにただの石を金に変え、永遠の命を手にする術すらも作り出してしまう。
そんな夢物語も実現してしまう魔法も、無から有は生み出せない。
そう、ヴィルが今使った魔法は、空間魔法に姿現し術、そして固定魔法を組み合わせたこの世でヴィルただ一人が使える、無から有を生み出す魔法であった。
空間の中に己で定義した領域を作り上げ、それを物として。
そして空間を鞄として定義し、その二つを空間魔法で繋げ、姿現し術の応用で空間から物を取りだしたのだった。
理論的には可能であったが、所詮は机上でのみ成り立つ空想であるはずだった超高度魔法をヴィルは十八という年齢で成し遂げてしまっているのである。
ウィジーがこちらへ向ける視線に力強い感情が混ざり、その頬が紅潮し、尊敬の念で瞳が濡れていく。
それをヴィルは感じ取って、鬱陶しげに口を開いた。
「...所詮は、今日死ぬ女の使う魔法よ。そう興奮するようなことは何もないわ」
その言葉に、ウィジーの顔は一瞬で青く変わった。
両手を祈るように組んで、眉を歪めて縋るように、そして何かを期待するようにこちらを見つめてくる。
ウィジーが何を期待しているのか分かった上で、ヴィルは今まで人前で一度も外したことのない手袋を取り、左手の甲を見せつけるように前へかざした。
ああ、ああ。ウィジーの、ウィジーの大切で誇りのヴィルお嬢様。
ウィジーめはヴィルお嬢様が生まれた時よりずっとおそばで仕えてきたのです。
今でもウィジーは覚えております。ええ、ええ、覚えておりますとも!
雲ひとつ無いのに荒れ狂う嵐の夜。青白い満月の光が窓から差し込んで、雨粒でゆらゆらとその光筋を揺らしては、真白いシーツに広がる奥様の艶やかな黒髪を照らしておりました。
それをウィジーはいけないことだとご存知でした。それでも、その晩お産まれになる赤ん坊が一目見たくて、天井より覗いていたのです。
その時。そう、一際大きな雷鳴が轟いたあの時。
ヴィルお嬢様はお産まれになったのです。弱々しい産声とともに。
奥様は美しいお顔を疲労に歪ませて、肩を大きく揺らしておいででした。
そうして初めて、ヴィルお嬢様をご覧になられたのでございます。
奥様の額から真珠のごとき汗が一粒流れ、ヴィルお嬢様の胎盤と羊水で赤く染まった頬に落ちたのです。
ウィジーめはあの時初めてヴィルお嬢様の瞳を見たのです。
青白い月明かりに照らされて、星空のように煌めいたタンザナイト。
ウィジーめは、ヴィルお嬢様のあの煌めきを見てから今日までずっと。
ずっと、ヴィルお嬢様をお守りすると決めていたのです。
「そ、れは...」
「やっぱり、知らなかったのね」
奥様と同じで形の良い左手の薬指。ぐるりと囲むようにして、黒く美しい紋様が指輪のように刻まれている。
ウィジーはそれを、その魔法、いや、呪いを知っていた。
「歳を一つ重ねるたびに、より黒く、そしてより美しく、完全なものになっていく呪い」
アダムズ家にのみ伝わる秘術。
その血を引く黒い髪に黒い瞳を持つ乙女しか使えない、ヴィルで途絶えてしまった、古くから受け継がれた呪い。
呪いをかけられた相手をアダムズ家から逃さないための楔。
逃げてしまえば最後、その紋様から放たれる猛毒が全身を犯して殺す。
「私が、家に帰った後どうなるか、あなたは知ってる?」
「...男がいるのを、ウィジーは知っています。いやな男が待っています」
「ふふ。いやな男、ね。そのね、いやな男に、私は今日穢されるのよ」
−−−記憶も、自我も、心も、全部消されて。
「ただのきれいなお人形さんになって、あのいやな男と生きるの」
「う、うう、う、ぁ、あああ...」
お嬢様。お嬢様。美しくて、優しくて、いつだって気高い、ウィジーの自慢のヴィルお嬢様。
世界すらも変えてしまうほどに才能のあるお嬢様が、そんな呪い一つすぐに解けてしまうことをウィジーは知っています。
それでも、ヴィルお嬢様は。
ヴィルお嬢様を愛さない奥様のために、奥様に褒めてもらうためだけに、その呪いを受け入れていることをウィジーは知っています。
それを奥様が知っていて、何も言わないことも、褒め言葉ひとつお与えにならずにあの男に穢させるのをウィジーは知っています。
ヴィルお嬢様はお望みになられない。ウィジーはそれを知っています。
でも、ウィジーめはヴィルお嬢様が望まれるものも一つだけ知っているのです。
ウィジーがいつもは震える指先をしっかりと動かして、空に何かを描く。
しわがれたきいきい声もはっきりと大きくして呪文を発する。
ふわりと風が周囲に舞い、光り輝く魔法陣がヴィルの足元に現れた。
その魔法陣と、聞こえてくる呪文の二つをその優秀な頭の中で組み合わせて、ヴィルはウィジーが何をしようとしているのか理解して、そして絶望した。
「やめて。やめてウィジー」
「大好きな大好きなヴィルお嬢様」
「やめてったら。ウィジー、これは命令よ。やめて」
「誰よりも美しくて、誰よりも聡明なヴィルお嬢様」
「やめて!ウィジー、あなた自分が何をしようとしているのか分かっているの?!」
「ウィジーは、ウィジーめは、お嬢様が大好きです」
「ねえ、お願いよ。こんな、こんなことって」
「ヴィルお嬢様の瞳を見たその時から、誰よりも大好きです」
魔法陣が一際大きく輝いて、風がより一層強くヴィルを取り囲むようにして吹き荒れる。
そうして取り囲んだその先からヴィルの体が透き通り始めた。
「どうか、ヴィルお嬢様の行く末に、ヴィルお嬢様を一番に愛す方が現れますよう」
「そんな、そんなことを言わないで。ウィジー。ねえウィジー」
ヴィルの身体は消え失せて、もはや肩より上からしか存在していない。
ウィジーは、ヴィルの身体が消えていくにつれて、自分の内臓のひとつひとつが潰れていくのを感じていた。
喉のすぐそこまで血が逆流してきていることは分かっていたが、ヴィルが見る最後の自分がいつもの可哀想なしもべ妖精であるのは嫌だったから、嗚咽も痛みも我慢してにっこりと微笑んだ。
「ウィジーは、誰よりも愛するヴィルお嬢様の幸せを、誰よりも願っています」
ヴィルが、自分が生まれ落ちた世界で、涙に濡れたタンザナイトの瞳で。
さいごに見たのは、ヴィルの知る誰よりも頼りなくて、誰よりも臆病で。
そして、誰よりもヴィルを愛してくれたしもべ妖精の、愛情に溢れた死に顔だった。
手元にある一枚の写真を見てそう一人心の中で呟いた。
写真の中では青色に白のストライプが入ったネクタイを締めた学生達が、揃いも揃ってにこにこと呑気に笑いながら手を振っている。
だがその中の一人、ヴィル・アダムズという女生徒だけはその集団の左端に座り、ぴんと背筋を伸ばしたまま微動だにせず真顔で前をじっと見つめていた。
そのさまが自分と同じ純血、彼等が毛嫌いしているマグルの撮った写真のようで、ヴィルは我ながら気味が悪いと鼻で笑った。
七年間。ここホグワーツ魔法魔術学校で真面目で模範的な生徒としてヴィルは過ごした。
友人の一人も作らず、魔法の研究と実践に明け暮れる日々。
いや、そこまでいってしまえば真面目で模範的な学者として、と言った方が正しいのかもしれない。
テストは一年生のときからいつだって一番で、教師達からは期待され、生徒達からは羨望と畏怖の視線を送られる、唯一無二とさえ言えるほどに才能に溢れたギフテッド。
それがヴィル・アダムズという少女だった。
新たな魔法構造の仮説を説いては魔法界の常識を覆し、数多の論理を変えるような魔法を作り出し、高難易度な魔法薬のより簡易的で有効的な作製方法を論文にし公表すれば、ありとあらゆる学者たちが彼女を自身の研究室に引き入れようと躍起になった。
その頭脳と研究への姿勢はまさしくレイブンクロー生。
ヴィルはその才をもってして、将来はこの魔法界を作り変え、変革し、マーリンやファウストと並んで歴史に名を残すだろう大魔術師になるに違いない存在であった。
———アダムズ家にさえ産まれていなければ。
「あの、ヴィル・アダムズさん!」
「...なあに」
「あの、その、いっ、一緒に写真を撮ってもらってもよろしいでしょうか?!」
「...ええ、勿論」
顔を赤くした後輩だろう男子生徒にそう頼まれ、ヴィルは僅かに口角を上げながら了承した。
その男子生徒の肩に寄り添うように近づけば、彼の身体が緊張したように少しばかり強張っているのがわかる。
向けられたレンズに向かって微笑みながらヴィルは、この男の子はなんて可哀想なんだろう、と思った。
あなたが憧れて、恋慕すら抱いてるかもしれないこのヴィル・アダムズという女は、今日で死んでしまうのですよ。
死んで、そしてこの世の醜悪ばかりを煮詰めたような男の慰み者として、ただただ優秀な子どもを産むためだけに生きる母体となるのです。
ああ、なんて可哀想なの。あなたは畜生にすら劣る女に恋をしていたのよ。
ヴィルと共に写真を撮れた喜びからだろうか。
興奮に赤くした顔をそのままに走り去って行く彼の背中にゆらり、と手を振る。
そう、ヴィルは今日死んでしまう。
いや、死ぬというよりは、アダムズ家という家に殺されるのだ。
今日に至るまでの十八年間。
それを知りながら、ヴィルは生きてきた。
世界を変えるような発明をし、優しく愛想を振りまきながらも、結局自分は卒業と同時に死んでしまうのだと、そう理解しながら誰よりも優秀に生きてきた。
魔法界の希望だなんて大層な呼び名も、別に自分の存在を残そうとして作り上げたものではなく、ヴィルなりに死ぬまで自由に生きようと行動していたら結果に付随しただけのもの。
悲劇のヒロインになる前に終わってしまうだけの人生。
そんな人生でも、ヴィルは一度だって自分を悲観することは無かった。
「だって、仕方ないものね」
遠くで幸せそうに未来を語り合うカップルに、本当に呑気なものだわ、とひとりごちた。
彼等を見つめるヴィルの瞳は光に反射しているわけでもないのに自らきらきらと輝いている。
そう、仕方ないのだ。
この世に、アダムズ家に、産まれ落ちたその日。
圧倒的な魔力によって、夕闇と星空の混ざり合ったタンザナイトのような瞳を揺らめかし、自分の母親の嫌悪に塗れた表情をその視界に写したその時から。
ヴィル・アダムズは成人を待たずして死ぬ、と。
そう運命づけられているのだ。
こつり。
軽やかな足音に気づき背後を振り返れば、漆黒を切り取ったような女が腕を組みながら立っていた。
肌を殆ど露出せず、指先の一本に至るまでが滑らかな黒地のドレスに包まれている。
肌が見えるのはその美しいかんばせからのみで、その肌が雪のように白いものだから、ヴィルはこの人の前に立つといつだって一人で満月を見上げる寂しい夜を過ごすような気持ちになった。
伏しがちの目を縁取る長い睫毛の間から黒曜石のような瞳がヴィルを射抜く。
「おかあさま」
そう一言呼べば、彫刻のように微動だにしなかった女の顔が不快の色に歪んだ。
そして如何にも不愉快であるといった風に、苦々しく口を開く。
「ヴィル、荷物は纏めたのかしら」
「はい。お忙しいのにわざわざ私のために来てくださりありがとうございます」
「勘違いしないで。あなたのためじゃないわ、私のためよ」
「...はい。申し訳ありません」
赤く彩られた麗しい口から発せられた冷たい声色に、腹の奥が重くなる。
若い頃セレーネーと称され社交界の頂点に立ったその美貌は、二十年近く経った今でも昔と寸分違わず美しい。
黒のシルクに包まれた、布越しでも分かる形の良い指先を空中でくるりと回す。
「ウィジー」
母の冷たい声に応えるようにその指先から放たれた光の粒子が一箇所に集まり、そうして散ったかと思えば、その名残から現れたのはアダムズ家に仕えるしもべ妖精のウィジーだった。
着ている衣服は清潔で綺麗に保たれてはいるが、ただの無地の麻だけで作られたそれは母の隣に立つととても薄汚く見える。
骨と皮だけの身体を縮こまらせ、大きな耳を垂らしてぷるぷると震えている様子は罰に怯える小さな子供みたいだ。
その様子と同じく彼女の顔はいつだって何かに怯えているような恐怖の色に染まっていて、ウィジーの水晶玉のように大きな瞳が涙で濡れていないところを、ヴィルは生まれてこの方見たことが無かった。
「な、なんでございましょうか」
「いちいち吃らないでくれるかしら。不愉快よ」
「も、申し訳ありません。ウィジーは、ウィジーは悪い子でございます」
「そんな事は聞いていないわ。私はもう帰りますからヴィルの荷物とやらを持ってきておやりなさい」
「わ、わかりました」
それだけを言い捨てて母はこちらを一瞥もせずに姿現しをして消え去ってしまった。
そうして残されたのはヴィルとウィジーの二人だけ。
二人が立つのはホグワーツの重苦しい校舎の中にぽっかりと空いた、中庭へと続く石造りの小道。
あれだけ騒がしかったはずなのに、いつの間にか周囲に人は一人も居らず、大きな柱から伸びる影が一層静寂を色濃くさせている。
中庭の芝生は青々と輝いて、時折のぞく名も知らぬ小さな花が軽風に微かに揺れていた。
夏の最中にいるはずなのに、鼻の奥がつんと痛むような冬の寂しさが胸を満たして、ヴィルは目の前に居る哀れなしもべ妖精の頼りない身体を突き飛ばしてから、うんと優しく抱きしめてやりたくなった。
「あの、ヴィルお嬢様...」
「...なに」
「お荷物は、ど、どちらにありますでしょうか。ウィジーめがお運びになります」
ウィジーの目を見るとどうしたって虐めてやりたくなるから、ヴィルは顔をそちらへ向けないまま杖を振って空間魔法を展開した。
くるくると空気が歪んで、その境目からサッチェルバッグと少し大きめな旅行かばんが一つ出てくる。
それを見たウィジーはただでさえ大きいその両目を零れ落ちんばかりに見開いて大袈裟に、風船から空気が抜けるような音を喉から出す。
そんなウィジーの様子を見てヴィルは、流石アダムズ家に長年仕えているだけあって察しがいいな、と思った。
空間魔法。それ自体は魔法学校に通った者ならば練習すればできるくらいには身近で比較的簡単な魔法である。
だが、今ヴィルが行使したのはただの空間魔法ではない。
空間魔法だけで何もないところから物を取り出すなど、空間魔法のみでなし得ることなど論理的にも実践的にも不可能なのだ。
魔法は極めてしまえば、ニコラス・フラメルのようにただの石を金に変え、永遠の命を手にする術すらも作り出してしまう。
そんな夢物語も実現してしまう魔法も、無から有は生み出せない。
そう、ヴィルが今使った魔法は、空間魔法に姿現し術、そして固定魔法を組み合わせたこの世でヴィルただ一人が使える、無から有を生み出す魔法であった。
空間の中に己で定義した領域を作り上げ、それを物として。
そして空間を鞄として定義し、その二つを空間魔法で繋げ、姿現し術の応用で空間から物を取りだしたのだった。
理論的には可能であったが、所詮は机上でのみ成り立つ空想であるはずだった超高度魔法をヴィルは十八という年齢で成し遂げてしまっているのである。
ウィジーがこちらへ向ける視線に力強い感情が混ざり、その頬が紅潮し、尊敬の念で瞳が濡れていく。
それをヴィルは感じ取って、鬱陶しげに口を開いた。
「...所詮は、今日死ぬ女の使う魔法よ。そう興奮するようなことは何もないわ」
その言葉に、ウィジーの顔は一瞬で青く変わった。
両手を祈るように組んで、眉を歪めて縋るように、そして何かを期待するようにこちらを見つめてくる。
ウィジーが何を期待しているのか分かった上で、ヴィルは今まで人前で一度も外したことのない手袋を取り、左手の甲を見せつけるように前へかざした。
ああ、ああ。ウィジーの、ウィジーの大切で誇りのヴィルお嬢様。
ウィジーめはヴィルお嬢様が生まれた時よりずっとおそばで仕えてきたのです。
今でもウィジーは覚えております。ええ、ええ、覚えておりますとも!
雲ひとつ無いのに荒れ狂う嵐の夜。青白い満月の光が窓から差し込んで、雨粒でゆらゆらとその光筋を揺らしては、真白いシーツに広がる奥様の艶やかな黒髪を照らしておりました。
それをウィジーはいけないことだとご存知でした。それでも、その晩お産まれになる赤ん坊が一目見たくて、天井より覗いていたのです。
その時。そう、一際大きな雷鳴が轟いたあの時。
ヴィルお嬢様はお産まれになったのです。弱々しい産声とともに。
奥様は美しいお顔を疲労に歪ませて、肩を大きく揺らしておいででした。
そうして初めて、ヴィルお嬢様をご覧になられたのでございます。
奥様の額から真珠のごとき汗が一粒流れ、ヴィルお嬢様の胎盤と羊水で赤く染まった頬に落ちたのです。
ウィジーめはあの時初めてヴィルお嬢様の瞳を見たのです。
青白い月明かりに照らされて、星空のように煌めいたタンザナイト。
ウィジーめは、ヴィルお嬢様のあの煌めきを見てから今日までずっと。
ずっと、ヴィルお嬢様をお守りすると決めていたのです。
「そ、れは...」
「やっぱり、知らなかったのね」
奥様と同じで形の良い左手の薬指。ぐるりと囲むようにして、黒く美しい紋様が指輪のように刻まれている。
ウィジーはそれを、その魔法、いや、呪いを知っていた。
「歳を一つ重ねるたびに、より黒く、そしてより美しく、完全なものになっていく呪い」
アダムズ家にのみ伝わる秘術。
その血を引く黒い髪に黒い瞳を持つ乙女しか使えない、ヴィルで途絶えてしまった、古くから受け継がれた呪い。
呪いをかけられた相手をアダムズ家から逃さないための楔。
逃げてしまえば最後、その紋様から放たれる猛毒が全身を犯して殺す。
「私が、家に帰った後どうなるか、あなたは知ってる?」
「...男がいるのを、ウィジーは知っています。いやな男が待っています」
「ふふ。いやな男、ね。そのね、いやな男に、私は今日穢されるのよ」
−−−記憶も、自我も、心も、全部消されて。
「ただのきれいなお人形さんになって、あのいやな男と生きるの」
「う、うう、う、ぁ、あああ...」
お嬢様。お嬢様。美しくて、優しくて、いつだって気高い、ウィジーの自慢のヴィルお嬢様。
世界すらも変えてしまうほどに才能のあるお嬢様が、そんな呪い一つすぐに解けてしまうことをウィジーは知っています。
それでも、ヴィルお嬢様は。
ヴィルお嬢様を愛さない奥様のために、奥様に褒めてもらうためだけに、その呪いを受け入れていることをウィジーは知っています。
それを奥様が知っていて、何も言わないことも、褒め言葉ひとつお与えにならずにあの男に穢させるのをウィジーは知っています。
ヴィルお嬢様はお望みになられない。ウィジーはそれを知っています。
でも、ウィジーめはヴィルお嬢様が望まれるものも一つだけ知っているのです。
ウィジーがいつもは震える指先をしっかりと動かして、空に何かを描く。
しわがれたきいきい声もはっきりと大きくして呪文を発する。
ふわりと風が周囲に舞い、光り輝く魔法陣がヴィルの足元に現れた。
その魔法陣と、聞こえてくる呪文の二つをその優秀な頭の中で組み合わせて、ヴィルはウィジーが何をしようとしているのか理解して、そして絶望した。
「やめて。やめてウィジー」
「大好きな大好きなヴィルお嬢様」
「やめてったら。ウィジー、これは命令よ。やめて」
「誰よりも美しくて、誰よりも聡明なヴィルお嬢様」
「やめて!ウィジー、あなた自分が何をしようとしているのか分かっているの?!」
「ウィジーは、ウィジーめは、お嬢様が大好きです」
「ねえ、お願いよ。こんな、こんなことって」
「ヴィルお嬢様の瞳を見たその時から、誰よりも大好きです」
魔法陣が一際大きく輝いて、風がより一層強くヴィルを取り囲むようにして吹き荒れる。
そうして取り囲んだその先からヴィルの体が透き通り始めた。
「どうか、ヴィルお嬢様の行く末に、ヴィルお嬢様を一番に愛す方が現れますよう」
「そんな、そんなことを言わないで。ウィジー。ねえウィジー」
ヴィルの身体は消え失せて、もはや肩より上からしか存在していない。
ウィジーは、ヴィルの身体が消えていくにつれて、自分の内臓のひとつひとつが潰れていくのを感じていた。
喉のすぐそこまで血が逆流してきていることは分かっていたが、ヴィルが見る最後の自分がいつもの可哀想なしもべ妖精であるのは嫌だったから、嗚咽も痛みも我慢してにっこりと微笑んだ。
「ウィジーは、誰よりも愛するヴィルお嬢様の幸せを、誰よりも願っています」
ヴィルが、自分が生まれ落ちた世界で、涙に濡れたタンザナイトの瞳で。
さいごに見たのは、ヴィルの知る誰よりも頼りなくて、誰よりも臆病で。
そして、誰よりもヴィルを愛してくれたしもべ妖精の、愛情に溢れた死に顔だった。
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