カタクリが天使と出会い、愛を育む・女主
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秘密のキス
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翌朝。彼女を連れて森に入る。しかし、すぐに違和感に気づいた。おぼつかない足取りの彼女へ近づき、顔をのぞきこむ。
「飛ばないのか」
いつもの服に着替えて羽も背中から出していた。それでも飛ばない。靴を履き、地上を進もうとしている。不慣れな歩行で速度は遅い。昨夜のこともあり、いまここで原因を突き止めておきたかった。
「それが、あの。今日は、うまく飛べなくて」
思わず目を細めてしまう。彼女も気まずそうに顔をそらした。身を引こうとするので、すかさず抱え上げる。黙々と森を進んでいった。
「ありがとう」
彼女がよく口にする言葉。一番多く聞いているのではないか。回数を経たからこそ、声のゆらぎ、イントネーション、表情から「ありがとう」を識別できるようになった。いつものぎこちない笑顔もない。やわらかい音。こちらの首へ腕をまわし、身を預けてくる。もちろん重くはない。なぜか昨夜より軽くなっていた。原因を探る。たどり着いたのは、彼女が最初から身につけていた布。すそを手にとってみる。なめらかな肌ざわり。持ち上げた実感がないほど、重みがわからない。
「この服はどこで手に入れた」
歩きながら、気晴らしの話題転換を装う。
「どこ、というより、はじめから一緒だった。私にとっては体の一部」
ちょうど湖についた。彼女を下ろす。問いに答えが返ってきたというのに、ろくな相づちも打てない。彼女が中央の巨木へ向かったので、会話は終了したとみなす。体の一部、か。たしか二週間前に服を修繕したときは、自身の羽根を使っていた。それでも全貌が見えてこない。自分はもっと根本的なことを聞きたいはずだ。それなのに話題を避けてしまう。なぜか。なぜ彼女自身について聞き込めないのか。
「今日も三時まで?」
巨木に乗った彼女が顔を上げる。おやつの時間の時刻を教えた覚えはない。だが、この半年間、同じタイミングで湖をはなれ、直近の二週間では自宅に住まわせた。こちらの習慣に気づいてもおかしくはない。
「おまえは時間を気にしなくていい」
彼女の頬がゆるむ。巨木のうえで横たわり体を丸める。瞳を閉じた。半年間見ていた景色が広がる。あとは己の修行を始めるのみ。
自宅の庭は緑が多い方だと認識しているが、この湖に比べれば人工物のかたまりでしかない。だからこそ庭ではなく、この湖まで足を運ぶ。水辺で腰を下ろし、視界を封印。両手を地面に下ろし、小さな命をたどる。最初は暗闇が続いたが、しだいに糸が現れる。手もとに絡まる糸。湖岸に沿って広がる糸。巨木の表面には無数の糸が巻きつき、大きな覇気となって巨木にまとわりつく。そこには彼女もいるはず。いま、目を閉じた状態で彼女を探れるか。さらに範囲を広げ、覇気の糸をかき集める。もっと小さな命を。もっと細い糸を。一本たりとも逃さない。息さえも止めてしまう。そのとき、小さな点を見つけた。
思わず立ち上がる。近づくにつれ、点は直線にのびて糸となる。もう一本見えた。二本、三本と増えていく。目を閉じたまま、巨木のうえへ手をのばす。わずかな糸をたぐりよせ、包みこむ。密度は少ないが、目の前の糸は、たしかに彼女をかたどっていた。
「ナマエ」
まだ目を開けたくない。もう少しで覇気の流れもつかめるのではないか。覇気の流れは未来を示す。この肌につたう糸一本一本がどう動くか。試したい。
「なんでもいい。おまえから動いてみろ。おれはここに座る」
依然視界をふさいだまま、巨木のそばに腰を下ろす。彼女はなにも答えない。だが、覇気の糸は動いていた。抱えていた腕からはなれ、真正面から向かい合う。まずはこちらの手をとる。この未来は見逃した。そのまま腕をのぼり、肩へ手を滑らせる。これも読めていない。
「私もあなたにお願いしたいことがある。ひとつ、聞いていい?」
思ったよりも声が近い。やはりまだ彼女の行動は読めない。だが着実に見聞色は向上している。あとすこし。もうひと押し。
「どうした」
こちらのひざに乗り、顔が近づいてくる。バランスを崩したので、体を支えてやる。手をのばし、さらに目線を上げようとしていた。
「もっとよく、あなたの顔を見せて。それから話したい」
身長差があるため、普段から目線の高さが合うことはない。彼女の行動を促したいので、素直に応じる。腰から抱き上げ、しっかりと頭の位置を合わせた。まだ視界を広げるべきではない。未来を読む機会をうかがう。
「二週間前、あなたが来たとき、本当に音が乱れていた。あんなにゆれたのは初めて。あなたの音はいつも澄んでいた。とってもきれいで、繊細で。そんな音を聴くのが好きだった。だから知りたいの。何があなたを乱したのか」
腕がゆるみそうになる。すぐに抱えなおした。まさか、二週間もまえのことを今さら聞かれるとは。正直に吐くか、ごまかすか。これは、彼女の反応を先読みする絶好の機会なのでは。包み隠さず話そう。二週間前、なぜ彼女へ八つ当たりしたのか。
「おれには八十三人の弟と妹がいる。三週間前、ここにくる直前にパーティへ行ってきた。兄弟全員が参加するイベントだ。最近は年に一度行っている」
目を合わせる気分ではない。こんな話を彼女はどんな顔で聞いているのか。知らなくていい。知るとしても覇気伝いでいい。自分はこのまま瞳を封じる。
「パーティには部門ごとの表彰式がある。兄弟全員の投票で決まった兄、姉、妹、弟を称えるイベントだ」
ベストお兄ーティスト、ベストお姉ーティスト、ベスト弟ーティスト、ベスト妹ーティスト。そんな賞を決めようと誰が言いだしたのか。覚えていない。いつのまにか盛大なイベントへふくれあがっていた。
「おれは表彰式によく呼ばれた。兄弟が好意で選んでくれるのは嬉しく思う。選ばれるデメリットもない。ただ、表彰がらみで起きる揉め事に手を焼いていた」
毎年受賞していた兄弟が今年だけ外れた。僅差の得票で受賞した。そんな結果に対し、不正を疑う者がでてくる。ファンクラブ同士が衝突することもあった。
「今回、おれを殿堂入りさせるかどうか議論になった。おれはどちらでもよかった。ただ、そんなくだらないことで兄弟が揉めるのは見たくない。そのときためこんだストレスを、ここに来るまで引きずっていた。情けねェ話だ」
これで話は区切られた。すべてをさらす必要はない。
「それで、あんなにも乱れてしまうなんて」
彼女の覇気は狂わない。乱れない。ゆるやかに一定の速度で肌のうえを滑っていた。やはり先を読めない。なぜだ。なぜ彼女の未来は見えないのだ。知りたい。読みたい。探りたい。もうひと押し、最後のあがきを。
「原因は他にもあった。複数の要因が重なり、あそこまで悪化した。そんな状態でおまえと会うべきではなかった」
言うか、隠すか。彼女の肌を包む糸はいっさい乱れない。乱したい。崩したい。
「パーティは家から一番遠い島で行われた。だから今回はうちのコックではなく、現地の者におやつの時間を用意させた」
今なら引き返せる。話題転換できる。それでも己の感情をさらけだした。
「メリエンダの中身は申し分なかった。だが、メリエンダの途中でコックのひとりが社に侵入してきた。そいつは直前の指示を破りやがった。興味本位でメリエンダするおれの姿を見たんだ」
覚悟を決める。ようやく視界を広げた。今までで一番近い位置で彼女と目が合う。やはり覇気は乱れない。だが、これで変わるはず。
「コックはもちろん、兄弟もおれの本当の顔を知らない。メリエンダを至福のひとときに仕上げるためにも、社の侵入を許すわけにはいかなかった。他人の視線があっては、思う存分ドーナツを食えねェ」
片手で彼女を抱えたまま、慎重に首元のストールを外す。隠していた口もとをさらけだした。あとは彼女の覇気が乱れる瞬間をとらえるのみ。
「この裂けた口と牙を見れば、誰もおれを『最高の兄』として称えねェだろうな。そうすれば、このあいだの表彰式で気をもむこともなかった。毎日午後三時に社にこもり、大好きなドーナツを食うこともなかった」
見せたからにはすべて語り尽くしたくなる。もう恐れるものはない。彼女の反応を先読みし、瞬時に対応すればいい。
「好きにしろ。おまえも笑えばいい。逃げだしたくなったか?」
ストールを外して以降、ずっと固まっていた彼女が動きだした。こちらへ手をのばし、首に腕を巻きつける。顔が近づき、頬同士がこすれあう。きつくきつく抱きしめられた。いつ彼女の覇気が乱れたのだ。いや、乱れなど一瞬たりとも気づけなかった。こんな未来は読めていない。こんな、こんなことが。
「こうやって近づくといいって。肌から肌でしかわからないこともある、って」
なにを言っているのか。なぜふれあう意味が。
「あなたにはきれいな音がある。少しでも長く聴いていたい。だから」
彼女が顔をはなす。こちらの頬に唇を寄せて。吐息が。きらめく。
「はなれたくない。あなたのそばで、できることを」
吐息を注がれた頬を中心に熱が広がる。その衝動に耐えようと必死に彼女を抱えこんだ。昨夜も彼女のベッドで同じ感覚におちいった。だから今回はとっさに口がまわる。
「その息は何だ。おれに、なにをした」
吐息が終わり、全身の熱も下がってくる。いまこそ彼女の表情を確かめたい。抱える腕を伸ばし、彼女とのあいだに空間をつくる。
「ただの吐息よ。私たちはこれを祝福のキスと呼ぶ」
祝福。キス。いや、待て。「私たち」だと?
「あなたを祝福したい。力になりたい。きれいな音を奏でてほしい」
また抱きつこうとするので制してしまう。とにかく今は表情をよく見ておきたい。くもりない瞳。嘘をつく顔ではない。それでも一向に彼女の未来は読めない。
「おまえはなぜ音がわかる。それは覇気の一種なのか」
ようやくこの問いをひねり出せた。彼女が一瞬、さびしげに笑う。
「私に聞きたいことがたくさんあるのは知ってる。あえて聞いてこないあなたに甘えていた。ごめんなさい。もう少し、もう少しだけ待って」
勢いよく抱きつかれる。頭がうまくまわらないため、素直に受け入れてしまう。
「私のなかでケジメをつけたら全部おわるから。今度こそあなたに寄り添いたい」
言葉すべては理解できないが、彼女は前向きな覚悟を決めたようだ。その思いを無下にはしない。しっかりと抱きかえす。
「わかった。おまえを待つ」
おやつの時間で湖をはなれるまで。ストールを外したことさえも忘れ、無心で彼女の覇気をたどりつづけた。
諸々を考慮し、寝るあいだはナマエをそばに置くことにした。自宅の寝屋に彼女のベッドを運び、船も同室で過ごす。過度な干渉は避けたいが、つい姿を探してしまう。湖で素顔をさらして以降、彼女の生活は様変わりした。食事をすべて絶ち、もとの服にこだわり、庭の池で水浴びする。羽で移動し、靴も履かなくなった。日中の大半を樹の下で寝て過ごす。
問題は夜の過ごし方。こちらから指示したため、深夜に寝屋を飛びだすことはないが、自身のベッドへ近づく素振りすらない。窓辺に座り、じっと夜空をながめる。そんな様子を放っておけなかった。
「ナマエ」
ベッドに入ってから彼女に声をかける。反応は悪くない。羽を広げ、すぐに飛んでくる。ベッドに腰をかけて、こちらを見下ろす。
「なぜ寝ない。眠くないのか」
最近、彼女へ問いかけないようにしていた。どんな答えが返ってくるか想像できないからだ。だが今回は我慢できなかった。誠実な言葉がもらえるよう、彼女の手をにぎる。
「もともと、睡眠を夜に固定しないから。好きなときに寝て、好きなときに起きる」
そっと握りかえされる。もっと問いつめていいのか。迷う。
「好きなように寝起きするなら、週に一度くらいは夜に眠るだろう」
勝手な言いがかり。会話を維持したい一心で適当な単語をさがす。
「たしかに、そうかもしれない。月がきれいなときは、月光を浴びて眠りたいときもある、かな」
窓の外を見る。木々に影がつくほど、今夜の月は大きく照らされていた。にぎった手をさらに引き寄せる。嫌がられないことを確かめたうえで、腰に手をまわす。そっと体を持ち上げた。腹のうえに彼女をのせる。
「今夜はいい月だ」
はじめて素顔を見せてから十日が経とうとしていた。つまり、彼女が断食を始めて十日目。わずかに増えていた体重はゼロにもどっていた。たったいま、持ち上げた実感すらわかない。
「うん。今日なら眠れるかも」
彼女が羽を広げて飛びたつ。いとも簡単に自分の腕からすり抜けた。窓辺にもどり、体を丸める。やはりベッドで寝るつもりはないらしい。このまま窓辺の彼女を見守りながら自分は眠るのか。感情の整理はつかない。先に体が動いた。窓に近づき、彼女を抱えあげる。代わりに自分がその場で腰を下ろした。ひざの上に彼女をのせる。まだ聞きたりない。
「最近、新しく生えたのか」
翼にふれながら、小さな音を空気へとかす。
「うん」
ひざのうえで横を向く。彼女の左頬が胸もとにすり寄る。思わず肩を抱き寄せた。
「ゆっくり、時間がかかるけれど。ちゃんと前に進んでいるから」
半月前、獣に襲われて大半の羽根を失ったが、目に見えて再生してきた。それも断食を始めてからだ。核心が見えそうで見えない。いや、気づかぬよう必死に目をそらしていた。その虚無感を埋め合わせようと、彼女と距離をつめる。彼女は拒絶しない。かならず自分を受け入れる。強引に抱きこんでも、こちらに身を預け、ひたりと頬が肌に吸いつく。
「ナマエ」
最近は言葉も選べなくなっていた。聞きたいことは山ほどある。だが、彼女は「待って」と言った。自分も「おまえを待つ」と答えた。もう無理強いはできない。これ以上押すこともできない。だから名をくり返すしかない。
「ナマエ」
頭をなで、髪に指をとおす。首から肩へ。背中へ滑らせ、翼の羽根をなで上げる。彼女の反応はわかりにくい。わかりにくいはずだった。だが今日はちがう。翼の根もとへ指を滑らせた瞬間、ビクリと肩が跳ねた。丸めた目でこちらを見上げる。
「どうした」
とぼけたふりをする。もう一度指を。背肌と翼の境界線をじっくりたどる。
「なん、で。どう、して」
抵抗しない。拒絶しない。静かに指を受け入れる。しだいに下唇をかみ、うっすら涙さえも浮かべた。即中断する。
「なぜ嫌がらない。そんな風になるまで、なぜ我慢した」
目をそらすので、顔を固定する。一瞬、見たこともないほど顔をゆがめた。
「ちがう。いやじゃ、ない、の。ただ、あなたがそうする理由がわからない。なんでベッドを下りたの。なんでここまで来たの。なんでひざに乗せたの。なんで羽をさわるの。わからない。わからない」
彼女がこんなにも感情を乱すとは。この未来を一瞬たりとも予見できなかった。もう彼女の肌に覇気はない。体重がゼロになると同時に一糸たりとも見えなくなった。なぜか。彼女に問いたいのに実行できない。いま、こんなにも苦しんでいるのに近づけない。
「ナマエのそばにいたい。ただそれだけだ」
他の言葉はすべて切り捨てた。押し殺した感情の代わりに腕をまわす。もう一度抱き寄せた。羽の境界線を攻めるような際どい行為ではなく、熱を共有するためだけに肌を重ねる。彼女の呼吸が落ち着くまで、やわらかく肩をなでる。そのまま窓辺で夜を明かした。
隔週の修行は継続していた。彼女の生活は変わらない。断食も続き、体重も一向に増えない。日を重ねるごとに羽根が再生していく。自宅へ連れてきて三ヶ月。はじめて出会ってから九ヶ月目にして、ようやくすべての羽根が生えそろった。心なしか彼女の足取りも軽い。
次の修行が三日後に控えた昼下り。側近が書斎に顔をだした。
「カタクリさま、よろしいでしょうか」
信頼のおける戦闘員。はるか昔に騎士の称号を与えられた男。そんな彼がいま、渋い顔で拳をにぎり、改まっている。
「ママへの、サプライズプレゼントの件ですが」
ナマエのことだ。感情をおもてに出さぬよう、顔を引きしめる。
「いつごろお贈りする予定でしょうか。もし日取りがお決まりでしたら、こちらも準備を進めたく」
部下たちに「サプライズプレゼント」と宣言してから三ヶ月。そのあいだにお茶会は六回も開催された。お茶会主催者であるママへプレゼントするには遅すぎる。どう説明するか。
「もしかすると、ママの誕生日プレゼントでしょうか。それならば来月ですね」
ここで断言すれば取り返しのつかないことになる。三ヶ月前の自分は、彼女をママへプレゼントしたいと一瞬でも思ったのか。わからない。少なくとも時間稼ぎとしては最良の言い訳だった。事実、この三ヶ月で彼女の情報をもらした者は誰もいない。だが、心の底で疑う部下は増えている。だからいま、こうして側近の彼が確認をとりにきたのだ。
「最近、ようやく翼の羽根が生えそろったところだ。最良の状態まで様子を見たい」
「プレゼント」「贈る」「時期」などの単語はすべて避ける。そもそもナマエを手放す選択肢はあるのか。修行における最良のパートナーだというのに。
「かしこまりました。では、完治後に改めて日取りをうかがいます」
彼の声がわずかに上ずる。間髪入れず部屋をあとにした。頭が重い。今回はうまくはぐらかせたが、二度目は通用しないだろう。これから彼女をどう扱っていくか。いくら考えても最善の案は浮かばない。彼女をどこへ向かわせたいか。どう歩みたいか。一寸先は闇。せめて、覇気で彼女の未来を探れるのならば。
羽根が生えそろってから初めて湖を訪れる。もうナマエは地に足をつけない。すべてを翼で移動する。今日もまっさきに中央の巨木へ向かう。しかし木の上に乗るのではなく、足を水に浸す。ついには服を脱ぎ、体ごと湖に飛びこんだ。日ごろ庭の池でするように羽を手入れする。干渉するつもりはないので、自分はいつもどおり湖岸に腰を下ろす。だが、あんな姿の彼女を直視する気にはなれない。しっかりと湖に背を向ける。瞳を閉じ、精神統一。地面に両手を置き、小さな命をたどりつづけた。
「邪魔してごめんなさい」
音が近い。いつのまに来ていたのか。また彼女の覇気を探れなかった。
「どうした」
視界を封じたまま、声がした方向へ手をのばす。互いの指が絡み合い、彼女の手が腕へと滑り、こちらの首へまわりこむ。抱きついてきた体をすかさず支えた。
「もっとあなたの顔をよく見せて」
両手で頬を包みこまれる。すでに口もとのストールはめくれていた。もうためらわない。ストールを外し、ようやく視界を広げる。
「ナマエ」
目を細め、そっと頬をゆるませる。もうぎこちない笑顔は消えた。
「うん。いつも、本当に」
頭の位置をそろえていたが、彼女が羽を広げてわずかに上昇する。今度は自分が見上げる形になった。まだ彼女の両手は頬からはなれない。
「あなたの音をたくさん聴けた。あんなにきれいな音を聴けてよかった」
言葉尻に違和感。だが原因はわからない。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
吐息まじりの音。震えてさえいる。無性に抱き寄せたくなり、彼女の腰へ手をのばす。しかしつかめない。それほど彼女の体は高く浮いていた。
「こんなにやさしいひと、はじめて」
また深い吐息。こんなにも互いの顔は近いのに、どうしても手が届かない。うつ伏せに見えるほど水平に体を傾けている。
「どうした。何がしたい」
思わず問いかける。抱きこめない分、言葉で彼女をつなぎとめようとしていた。
「今日は言葉にしたいから。あなたにちゃんと伝えたい」
視界の端がきらめく。彼女へ意識を向けるあまり、己の変化を見落としていた。ようやく祝福のキスをされていると気づく。
「わかっている。無理するな。今さらだろう。おまえのことは、もう、とっくに」
声が途切れてしまう。このまま何を言うつもりだったのか。いったい、自分は、
「そこの水中をのぞいてみて。きれいな花を見つけたの」
頬から手がはなれていく。変わらず浮遊したまま、自分の真後ろを指差す。いまだ強く違和感が残るが、とりあえず体を反転させて水中へ目を凝らす。黄色の小花が群生している。水草の一種か。いや、あれは、
こいつは誰だ。
水面は空を反射する。そして水中をのぞく自分さえも映してみせた。服装、体のシルエット、髪型もなじみがある。ただ、どうしても理解できないパーツが。ありえない。夢でも見ているのか。なぜだ。なぜ牙がない。裂けた口はどこへいった。水面越しに口もとをさわってみる。歯は短く引っこみ、口の輪郭はなめらかにつながる。何度も指でたどる。何度も口を開閉する。舌で歯をなぞりもした。彼女の言葉を思い出す。水中の花を見てほしい、と。とにかく反応しなければ。
「たしかに花が咲いて──」
ふりかえった先に見えたのは、無数に舞う羽根。さきほど浮かんでいた彼女の姿はない。とっさに視線を下げる。
「ナマエ!」
地に伏した彼女を抱き起こす。外傷はない。熱があるわけでもなく、汗が伝うでもなく、ただ静かに呼吸する。覇気がないため体が弱っているかさえもわからない。それでも点と点が結びつく。がむしゃらに声を荒らげた。
「おまえがおれの口を変えたのか」
責めるつもりはない。そんなことはしたくなかった。だが気持ちが先走り、よからぬ未来が頭をよぎる。
「なぜこんなことをした」
ぐっとのどに力を入れて声量をおさえる。怒鳴りたくない。それなのに、いまも目の前で羽根は散りつづける。自宅へ連れ帰った三ヶ月前よりもひどく抜けて落ちていた。
「ずっと、さがしてた。あなたの、ほしいものを」
力ない声。やわらかく微笑んでみせる。まだそんなことにこだわっていたのか。
「わたしができる、さいだいげん。めいっぱい、あげたかった」
最大限。力を発揮するために羽根をすべて再生させたのか。なぜこんなことを。
「これで、あなたに、よりそえる。ぜんぶ、おわることが」
ケジメをつけたら全部おわる。今度こそ寄り添いたい。そう聞かされた。それが今この瞬間だというのか。
「なにを終わらせる気だ」
答えを急いでいた。羽根の落下が激しい。おそらく彼女の生命は羽。三ヶ月かけて回復したものが、この一瞬で失われようとしている。
「ナマエ」
彼女は笑うだけ。口も閉じてしまった。
「ナマエ、答えろ。答えてくれ」
直視したくない。この現実を解釈するひとつの未来へ手をのばすわけにはいかなかった。
「生きろ、生きるんだ。勝手に終わらせるな」
空中を舞う羽根は増えていく。どれだけ強く強く抱きこんでも、重みのない体は彼女の生を実感できない。
「こんな、ことのために、命をつかうな」
感情があふれるあまり、息がつまる。精神と肉体が伴わない。それでも必死に口を動かした。
「おれの欲しかったものは、欲しかった未来はこんなものじゃねェぞ」
ちがう。もどせ。もどせ。もどすんだ。
「かえせ! おれの牙を! 裂けた口を!」
かえせ、ナマエを。
「欲しいのはおまえだ!」
目がわずかに、まるくなり、
「おまえじゃなきゃ意味ねェ。生きたおまえが、そばにいねェと」
こちらを見上げる。もっとおれを見ろ。求めろ。求めてほしかった。彼女から寄り添ってくるまで待っていた。こちらから押すつもりは。そんな強引に仕向けるなど。だがもう時間がない。胸の内をがむしゃらにこじ開けた。
「愛している」
こんなにも。
「ナマエが欲しい。欲しい。おれと生きろ」
伝われ。伝わってくれ。
「おまえを失いたくない」
下ろしていた手がこちらへのびてくる。頬へ添えて顔も近づく。まだ答えてくれない。せめて未来が見えれば。ナマエの未来が。
「ナマエ、愛している」
また目を開かせた。瞳がゆれて、一筋こぼれる。口を開いた。何を言うか。何をするか。祝福のキスなどさせない。もう命を燃やす行為など。させるものか。そのくちびるにかぶりつく。息を吐く暇など与えない。すべてをむさぼり尽くした。はじめて彼女の頬に赤みがさす。まだ足りない。もっと伝えねば。
「欲しい。おまえが欲しい。愛している。あいしている」
言葉の合間に吸いつく。彼女の息が上がり、わずかに汗も見えてきた。首筋に舌をはわせる。塩辛い。彼女の体温は確実に上昇している。今までの選択は合っている。さらに、さらに強く。
「もっとおまえがほしい。おまえの未来を全部。おれに預けろ」
死ぬ未来など拾うものか。全力でたぐりよせる。生きる道を、希望を。
「カタクリ」
耳がしびれる。熱い吐息にまぎれて響いたのは。
「わたし、わたし」
はじめて呼ばれた。名を認識されていた。
「はなれたくない。あなたのママじゃなくて、カタクリがいいの」
ああ。まさか。知っていたのか。
「プレゼントにされるくらいなら、あなたのために死にたい」
時間稼ぎの一時的な言い訳が、こんなにも彼女を追い詰めていたとは。なんて浅はかなことをしてしまったのだ。
「ちがう。おまえを手放すつもりはない。あれは部下を口止めする言い訳だ」
まだ羽根は落下している。もう十数本しか残っていない。
「おまえの存在を知られたくなかった。ずっと自分と向き合うのを避けていた。今ならわかる。今なら言える。二度と手放さない。誰のプレゼントにもしない。ナマエ。ナマエ。そばにいてくれ」
ようやく自分と向き合えた。ようやく伝えられる。彼女の存在を確かめるかのようにきつくきつく抱きこんだ。ここで気づく。吐息ではなく、全身があわい光に包まれていた。視界の隅に影が。まるで気配を感じなかった。あのとき、三ヶ月前に彼女を負傷させた獣たちがこちらを見据えていた。四方からじりじりと近づいてくる。背後は湖。完全に退路を断たれてしまった。覇王色で威嚇するも、びくともしない。よく見ると、獣たちも光の粒子に包まれていた。彼女と同じ色合い。解が見えそうで見えない。そうこうするうちに獣が彼女に頭をすりつける。羽根の落下がとまった。
いきろ
空気をふるわせた息吹。どこから聞こえたのか。あたりを見まわすも声の主は見当たらない。ふたたび腕のなかの彼女へ視線をもどす。光が消えた。囲まれていた獣もいない。唖然とするも、とにかく彼女へ呼びかける。目を閉じた彼女を起こそうと必死にゆさぶった。
「ナマエ」
ぬくもりがある。肌には汗が伝い、息づかいも聞きとれる。何度も呼んだ。何度も何度も。思い立ち、湖に手を浸して冷やす。彼女の頬にそっとふれた。わずかに身をよじる。一瞬、息がどもる。眉間にしわを寄せた。そして、瞳が。大きく見開いたあと、ゆるりと細く。やわらかく頬をゆるめた。
一ヶ月後。先日、ママの誕生パーティが開かれた。もちろん別のプレゼントを用意。ひとまず難は逃れた。今日も湖を訪れる。隔週の修行は続いていた。
「ここでいい?」
中央の巨木によじのぼった彼女が声を張る。
「ああ」
応答すれば、すぐ眠りについた。自分は湖岸で腰を下ろし、微細な覇気をたどる。一定時間過ぎたので、目を閉じたまま立ち上がる。彼女の居場所を探った。巨木のうえにたたずむ覇気のかたまりを慎重につかみとる。こうして視界を閉じてもよく見える。大きな流れが。
「へいき。歩けるから。下ろして?」
その願いを右から左へ聞きながし、足を進める。ほどよく生い茂った草地へ。抱えたまま背中から寝転がる。きっと、今ごろ顔をしかめているだろう。わかっていた。
「カタクリ。おろして」
鋭い音。ようやく目を開ける。
「重くない。むしろ軽すぎる。もっと食え」
ここで顔を赤らめるのも見えていた。手足をバタつかせるので、さらに抱えこむ。
「やめて。言わないで。こんなに重くなるの、初めてなの」
食事を再開して一ヶ月。一日三食へ増えた。食後の睡眠も減り、日に日に体重が増えていく。同じタイミングで覇気も見えるようになったのだ。いまは覇気に流れが生まれ、未来を示す。ようやく彼女の行動を読めるようになった。
「どう言おうがはなさない。下ろさない。今くらいは好きにさせろ」
結局、まだ彼女の存在は機密扱い。一ヶ月前、羽根のほとんどが抜けてしまったため、部下たちは「生えそろうまで彼女を自宅に置く」と都合よく解釈してくれたようだ。これからどうするのか。いずれ兄弟にも話さなくては。考えることは山ほどある。
「最近のカタクリ、すっごくわがまま」
頬をふくらませる彼女をさらに引き寄せる。互いの鼻先を重ねれば、ふくらんだ頬はしぼみ、耳まで赤みが伝染し、瞳をゆらす。昔はこんなに感情豊かではなかった。ここまで頻繁に顔を赤らめるようになるとは。
「怒りやすくなった奴もいるな」
体重が増えるたびに悲鳴を上げて肩を落とす。羽根が抜けたことで飛べないとわかったときは、一日中寝込んだ日もあった。
「怒ってない。気持ちを隠さなくなっただけ。──いつも、そんな風に見えているの?」
すかさず頬へくちづけを。わずかに肩が跳ねて、さらに顔を赤らめる。
「冗談だ。この赤い顔を見たかっただけだ」
自分に対して隠してほしくない。あんなすれ違いは、二度と。
「あのね。言おうか迷っていたんだけれど」
急に声を落とすので、上体を起こす。彼女を抱えなおし、しっかりと目を合わせた。
「だんだん、音が小さくなってる。最近は聞こえないときもあるの。あなたのきれいな音」
それは、つまり。
「私の覇気、もう見えるのでしょう? 自分でもわかるの。音の代わりに糸がチラつくようになった。きっとこれが、あなたの探している覇気だろうなぁって」
体重が生まれ、感情を見せるようになった。地べたを歩き、覇気をまとう。
「だからだと思う。怒りっぽく見えるのも、私がイライラしていたから。ごめんなさい。言いにくくてずっと悩んでいた。今までできたことができなくなると、こんなに落ち込むなんて」
また瞳がゆれる。さきほど赤らめたタイミングのそれとは違う、胸を引き裂かれるようなまなざし。すぐさま抱きこんだ。ふるえる体を落ち着かせようと、やわらかく頭をなでる。彼女の体は変わろうとしていた。何から何へ変化するのか。そもそも空島の人間か。確かめる方法はある。ホールケーキ城には空島の人間がママのコレクションとして収納されているはずだ。ページを開き、直接その者に問いつめればいい。空島の人間は体重がゼロなのか。羽根の有無で生死が決まるのか。覇気がないのか。祝福のキスをつかえるのか。生物を粒子に分解できるのか。だがそんな真似はしない。知りたくなかった。このまま人間の生活になじめばいい。同じように地を歩き、ともに覇気を探り合う。種族など関係ない。ただ彼女がそばにいてくれればいい。
「変わる自分が怖いのか」
こちらに顔を上げる。
「おねがい。変わったかどうか、もうひとつ確かめたいの。試していい?」
答えるまえに彼女が背をのばす。顔が近づき、口を開ける。そっと息を吐いた。一度口を閉じ、目を合わせてくる。気まずい表情。もう一度吐息をこちらへ注いだ。何も起きない。何も光らない。
「やっぱり。キス、できなくなっちゃった」
泣きそうに表情を崩す。声も上ずった。今度は抱きこむのではなく、示された未来をたどる。
「できるだろう」
頭のうしろへ手をまわし、顔をかたむける。慎重に近づいた。あの日、一瞬だけ消えた牙は彼女の目覚めとともにもどってきた。ふたたび口も裂けて、もとの顔へ。そのため、口を重ねるにはコツがいる。最初は不便な気もしたが、今はもうすっかり慣れた。そっとふれるだけで、わかりやすく彼女が上気する。
「キスならこうして、いくらでもできる」
今度は口を開けた。舌をからませ、くちびるへ吸いつく。急に彼女が身をよじった。なにか声をだしているので、口を解放してやる。
「こんなキス、知らない。これはキスじゃない」
「いまさら何を言う。名称を知らないだけで、行為自体はいくらでもしてきただろ」
また肩が跳ねた。声が裏返り、赤い頬を両手で隠す。すぐにその手をどかした。ふたたび口を重ねる。
「これがキスだ。おまえの知らなかったキスだ」
「キス」と発音するだけで、こんなにも恥ずかしがる。この未来もわかっていた。もう彼女は遠くない。しっかりと手が届き、どこまでも胸のうちへ溶けこむ。まだ足りない。さらに近くへ。距離さえもなくなるほどに。
「しらない、キス。これがあなたの、キス」
声をふるわせながら、ナマエから近づいてきた。そっと、ながく、重なるだけ。はなれる余韻が名残惜しいのに心地よい。
「しらなかった、わたしの、キス。これが、私とあなたの」
わらった。細くなった目から一筋こぼれる。そっと舌ですくいとる。
「祝福しなくていい。このキスでいい。ふたりでできる、このかたちで」
「祝福できないなら、もう私は──じゃない」
すかさず口をふさぎ、言葉をさえぎる。彼女は何を言おうとしたのか。わかったから止めた。聞こえなくていい。もうここまで引きずりおろせたのだから。
「それがどうした。おれには関係ない」
途中で会話を邪魔されたのに、彼女は怒らない。こちらを見つめたあと、困ったように笑い、そっと息をついた。
「そう、ね。そうなのかも。言われるまで気づかなかった。わたし、そんなちっぽけなことでずっと悩んでいたみたい」
打ち明けるかどうか悩んでいた、か。
「もう隠しごとはないか。今のうちに全部吐いておけ」
目をそらし、首をかしげる。しばらくすると、とつぜん目を輝かせた。愉快げに声もはずませる。
「最後にひとつ、あった」
先が読めたが、おとなしく彼女の行動を待つ。また顔が近づいてきた。
「あの、ですね。ずっと言えなかったことが、ありまして」
言葉が続くにつれ、声がしぼんでいく。目も伏せた。さきほどの上機嫌はどこへいったのか。
「あなたはいつも伝えてくれたのに。ずっとお返しできなかった」
はやく聞きたいが、どうにか踏みとどまる。彼女の意志で紡いでほしい。
「好き」
やっとこちらを見上げる。
「あなたに寄り添いたい。そばにいたい」
ふれあい、重なる。ずっと待っていた。
「そばにいさせて」
ようやく、この瞬間を、
「愛しています」
Fin.
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