短編つめあわせ
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罪 sin
ナマエはひとり森を駆けていた。息が切れ、肩が弾む。汗が肌を伝う感覚。それでも足は止めない。なぜ自分は走っているのか、なぜ日が暮れても家に戻ろうとしないのか。今のナマエにはそのようなことを考える余裕はなかった。ただ、自分の言うことを親に聞いてもらえなかった。町の皆にお願いしても断られてしまった。そして聞きまわったあと、走りだした自分を誰も止めなかった。だから己の思うがままに足を動かしているのだ。五つにも満たない少女は、目の前の草木をかき分け、木の根に足を引っかけないよう、いかに滞りなく前へ前へ突き進めるかを考えるだけで精一杯であった。
頭上の木々がなくなり、赤い夕空が広がった。ツンと辛い、潮の匂い。くり返し打ちよせる波音。海岸へ抜けたのだ。きゅっと鳴る砂を踏みしめ、波打ち際まで来たところでようやく足を止めた。目を閉じ、海風や波音を全身に浴びながら呼吸を落ち着かせる。ここはどこなのか。どうやって家に帰ればいいのか。そんな疑問すら今のナマエには思いつかなかった。
どこからか笛の音が聞こえてくる。先ほど夢中だった波音、潮風、砂音などすっかり忘れ去り、新たな音色に耳を傾ける。音に釣られ海岸沿いを歩くと人影が見えてきた。髪が顔の半分を覆い隠していたので確信できないが、ナマエの知らない者のようだ。ただわかるのは、自分とそれほど変わらぬ身の丈であることと、背中に何かが付いていること。その者へ歩みよるに従って、背中のものが翼をかたどっていると気づいた。夕日を浴びたその羽色はくすんでいる。
数歩離れたところで立ちどまる。ナマエは目の前の翼へ熱心に視線を送りつづけた。新たな興味が生まれると周りの一切が見えなくなる。だから、その者が演奏を止めナマエをじろりと睨みつけていることなど気づくはずもなかった。
「なに」
その声でようやくナマエは周囲の情景を認め、視界を広げた。声を発した者の背丈から、自分同様子供だと認識し声をかける。こういうときは名前を教えあうものだ。
「わたし、ナマエ。あなたは?」
顔を背け軽く息を吐いた子供は気だるげに言葉を返す。
「エネル。それで、ナマエはなんでここに来たの」
ここ? そういえば、ここはどこなのだろう。
ぐるりと体を回転させ周囲を見わたす。少なくとも自分の知っている海岸ではない。港は何度も歩きまわったが、こんな場所はなかった。声に出しながら、なぜここに来たのかを思いかえしていく。
「えっと。ママに『お外に遊びに行きたい』って言って、みんなに『お馬さんに乗せて』って言って、『ダメだ』って言われたから、ひとりで見にいこうと思って」
「集落からひとりでここまで来たの? 一時間はかかる距離だろうに」
あ、太陽が海へ沈んでいく。
「ねえ。本当は違うだろ」
反対の空に、ちょっとかじられた月が見えてきた。
「そうやって、きみも僕のことを見にきたんだろ?」
彼と目を合わせる。
「どういう意味?」
エネルの言うことがわからない。
「『町の反対に位置する海岸へは近づくな』と言われてないの?」
ゆっくりと空へ視線を戻したナマエはぼんやりと頭を動かす。そういえば、以前そんなことを聞いたような。今のいままですっかり忘れていた。
ナマエは、あたかも最初から覚えていたかのように自信たっぷりと腰へ手を当ててみせる。ついでに当初の目的を話すことにした。
「知ってるよ、そんなこと。でも、お星さまが見たかったから」
「星?」
目に見えて空が暗くなっていく。
「パパもママも、夜におうちを出ちゃいけないって」
ナマエは目の前のエネルと会話するよりも、星を、月を眺めていたかった。
「町から出て、森へ入った方がお星さまがきれいに見えるの」
今日は雲ひとつない。最高の「てんたいかんそくびより」だ。
「だから、なるべく町からはなれたとこまで歩いて、夜まで待とうって」
そう。もうすぐまっくらになる。
「星、か」
エネルはとなりへ視線を投げかけ反応を待っているが、やはりナマエは気づかず空を見上げたままだ。手元の横笛をくるくると回転させながら、立ち尽くす少女を観察するかのごとく上から下へと目を動かす。それなりに時間が経過したあと、片手を振り上げ彼女の首元へ突きつけるも、肌へ触れる直前でピタリと動きを止めてしまう。ナマエはいまだ空を見上げている。ゆっくりと手を戻したエネルは軽く肩をすくめ、彼女同様天を仰いだ。
「ねえ。本当に僕を見にきたんじゃないの?」
「うん。お星さまを見たかったの」
なんとも呑気な声。エネルは乾いた笑い声をもらしたあと、そっと彼女の手を引いた。
「ついておいで。いい場所知ってるから」
エネルは賢いと思う。いくつなのかはわからないけれど、たぶん年上。自分より背が高いし、難しい言葉をたくさん知っているのだから。今日だって、分厚い本を片手にぶつぶつ呟いている。町の図書館から「借りてきた」という。
彼が町の人々から距離を置かれていることは、最近になってようやくわかってきた。皆、あえて彼のことは口にしないのだ。そして誰もこの海岸に近づかない。図書館から本が何冊消えようが、商店からいくら食べものが消えようが、誰も騒がない。
そんな彼と定期的に会っている自分も、皆から距離を置かれている気がする。家でパパとママは普通に接してくれる。教会のシスターも笑顔で声をかけてくれる。ただ、どこへ行っても同い年の女の子や男の子はいないのだ。教会で勉強するときは見かけるのに。なぜだろう。
「ねえ。この町に子供ってどのくらいいるのかな。教会では見るのに、他の場所では会ったことないの」
汗のしたたる蒸し暑い日でも深々と雪が降り積もる日でも。燦々と照りつける太陽の下でも土砂降りの雨のなかでも。いつだって彼はこの海岸にいる。エネルと初めて会ってから五年。気づけばこうして足を運んでしまう自分がいる。まったく星が見えない天気が悪い日でもだ。はじめは星を見るために訪れていたはずなのに、なぜだろう。ここに来れば必ず彼が迎えてくれるから? 自分の知り得ない不思議なお伽話を聞かせてくれるから? 不意に長い前髪から覗く鋭い瞳を見た瞬間、心臓がはね上がるから? 灰色の混じる彼の翼に心を奪われてしまうから?
ちがう。きっと彼が一緒に星を眺めてくれるからだ。
「子供がいない? それって──いや、何でもない」
はぐらかされたのにも関わらずナマエはじっと次の言葉を待った。いつだってエネルはどんな質問にも答えてくれる。彼は何でも知っているのだ。
「その答え、知りたい?」
根気負けしたと言わんばかりにエネルは長い長いため息をつく。予想どおりの反応を示してくれた。ナマエは前のめりになり首を縦に振る。そんな姿を横目に、彼は再び手元の本へ視線を落とす。淡々と言葉を続けた。
「僕と星を見たくなくなったら、もう一度聞いて」
「星を、見たくなくなったら?」
彼の、本をめくる音。
「うん。それまでは教えてあげない」
予想だにしていなかった条件にナマエは思わず顔をしかめた。
「エネルと星を見るのをやめないといけないの?」
「そう」
胸がざわつく。無意識のうちに声のトーンを落としてしまう。
「それは、やだ」
「へえ。なんで?」
なぜと聞かれても。いやなものはいやなのだ。それでも懸命に理由を探した。
「ひとりで星を見るのは、きっと。さびしいから」
「寂しい、か」
ページをめくる彼の手が止まった。顔を上げ、海へと視線を向ける。ナマエもつられて同じ方角へ上体をひねった。いつも見ている穏やかな波。日が傾き、空に橙色が差してきた。星が見えるようになるまであと数時間。
「ひとりでなければ、寂しくないんだよね」
「うん、そうだと思う」
「そうか」
夜中に意識が浮上する。頬がひやりと冷たい。髪がわずかに揺れている。風が吹いているのだろう。寝る前に窓は閉めたはずなのに。
まばたきをくり返す。今夜は月明かりがまぶしく、室内はうっすら照らしだされていた。壁に黒い塊が映りこんでいる。ぼやけていた視界がはっきりとしてきて初めて、ナマエはようやく黒い塊──影が人の形をしていると認識した。
窓辺に誰かがいる。
夢中ではね起き、一目散に扉へ駆けた。ドアノブをひねるも扉は開かない。混乱する頭を懸命に動かし、内側から施錠していたことを思い出すも、解錠することは叶わなかった。
突如うしろから腕を引っ張られ、背中から倒れこむ。いや、倒れていない。自分はしっかりと両足で立っている。ただ、腕に肩に、背中が温かいのだ。自分は誰かに抱えこまれている。
刃物を突きつけられている感覚はない。殺されるような物騒な雰囲気でもない。体が自由に動かぬなか、必死にもがき首をひねり、背後を見上げる。そこには、共に夜空を見上げている見慣れた顔があった。
「どうして部屋を出ようとしたの」
耳元でささやかれる。まちがいない、彼の声だ。緊張のあまり渇ききってしまった喉を震わせるため、深く息を吸いこんだ。
「しらない、ひとが、入ってきたと、思ったから」
彼が肩をわずかに震わせている。先ほどよりも機嫌のいい音。
「まさか。ナマエの部屋に、そんなことするような奴がいるわけないだろう」
ひととおり笑い終えたあと、彼はゆっくりと言葉を続けた。
「一緒にいようと思って」
思わず彼を見上げる。逆光のため表情は見えないが、しっかりと視線が交差しているのはわかった。
「一緒に?」
「ああ。そうするといいんだろ? さっき、ナマエが教えてくれたじゃないか」
先ほど夕方に会った時のことだろうか。そういえば、子供がいない理由を尋ねた際に「一緒」と答えた気がする。星を一緒に見られないと寂しい、と。今の話題と関係あるのかわからない。眠っていた頭で考えようにもうまくまとまるはずがないのだ。
「一緒にって言っても、私は寝るよ?」
あくびをもらす。先ほどまで感じていた緊張、恐怖、焦り、不安はすっかり抜け落ちていた。
「ああ。だから僕も一緒に寝る」
ようやく体が解放される。改めて彼の反応を確かめようと向かい合う。あの海岸で会う時と同じ。いつもの表情だ。
重たいまぶたをこする。ベッドに横たわりシーツにくるまると、彼もベッドに潜りこんできた。枕はひとつしかない。
「枕いる? ソファのクッションを取ってこようか」
「いや、いい。いつも使っていないから」
そういえば、彼はどこで寝起きしているのだろう。
「エネルのおうちって、どこにあるの」
「なぜ?」
「一度もおうちに行ったことないから」
「僕だって、ナマエの家に来たのは今日が初めてだ」
たしかにそうだ。それなら、なぜ彼は自分の家を知っていたのだろう。考えたい気もするが、今は体もまぶたも重い。
「もう、ねむいから。おやすみ」
うつらうつらしているなか、彼の目が丸くなった気がした。
「ああ、おやすみ」
あたたかい。寝返りを打てないほどきつく拘束されている感覚。目の前には腕らしきものが見える。エネルに抱かれているのか。彼の顔を確かめようと首を動かすが、やはり振り向けない。
「まま……」
彼の声。寝言だろうか。そういえば、彼の家族はどこにいるのだろう。
エネルが夜中に部屋を訪れるようになってから五年。彼の身体はベッドからはみ出んばかりに成長していた。思案した結果、両親に「ベッドが狭いから新しいのが欲しい」と頼んでみることに。もちろんエネルのことは伏せた。夜更けに訪れ、夜明けとともに部屋を去る彼の姿を両親は一度も目撃していない。はじめは怪訝な表情を浮かべたが、普段からおねだりをしない娘だからだろう。「ナマエがモノを欲しがるなんて珍しい」と、あっさりベッドを新調してくれた。
新しいベッドに横たわる彼は今までと変わらない。変わらず自分を腕のなかに収め、目を閉じようとしている。
「ベッドが広くなったから、もっとゆったり寝てもいいんだよ?」
背中に翼があるので、横向きに寝るしかないのは理解している。ただ、せっかくなので悠々と寝転がってもいいのではないか。素朴な疑問だ。
「ナマエは、こうして寝るのは嫌なのか」
「ううん」
即答する。
「なら、これでいい。おやすみ」
うやむやにされてしまったが、ついナマエは反応してしまう。
「うん。おやすみ」
すぐに規則正しい寝息が聞こえる。もう出会って十年になるが、いまだに彼の考えは読みとれない。彼は本当に何でも知っている。そして尋ねればすべて答えてくれる。もちろん質問する前に自力で考え、答えを模索する。それでもわからなければ彼に聞いてみるのだ。少なくとも彼は問いかけを嫌がっていない。むしろ笑みを浮かべ楽しそうに教えてくれる。素直に感情が表に出る彼だから、機嫌がいい時はすぐにわかった。
だからこそ、苛立たせてしまう言動は自然と控えてしまう。年齢や、あの海岸を訪れる経緯や翼について問うと黙りこんでしまう。下手をすれば機嫌を損ねてしまうのだ。
ナマエはそういった些細なことを考えるのはやめた。無理に知る必要はない。彼が自分に会うのを嫌がり、一緒に星を眺めてくれる相手を失う方が恐ろしかった。
そう、考えることをやめた。だからエネルと出会って以来、自分と直接会話する人間は両親と教会のシスターのみであることに違和感を覚えなかったのだ。
ある日の朝食後、ナマエは両親に呼びだされた。どこか思いつめたような、暗い表情の母。額に汗をにじませ、たどたどしく言葉を続けていく父。ふたりの話を聞くうちにナマエの顔はみるみる青ざめていった。
「ナマエ!」
両親の叫びを背に浴び、ナマエは森へと駆けていった。行き先は町の反対に位置する海岸。もう自分の居場所はどこにもない。町にも居られない。そう思いこむと余計に走る速度が上がっていった。初めて森を抜けた五歳の時は一時間はかかっていただろう距離。もうすぐ十六になるナマエは三十分もかからずして海岸へたどり着いた。
「エネル!」
砂浜でなりふり構わず彼の名を叫ぶ。こちらへ向かってきていた彼の姿が一瞬で目の前に現れた。彼を視界に入れるや否やナマエは焦燥しきった声色で訴えかける。
「さっき父さまと母さまに言われた! 十六になれば大人の仲間入りだから、この島を出られるって。今までつらい思いをさせて悪かったって。子供だったから島から連れだせなかったけれど、もう自由だって。父さまも母さまも、私は人質として、生贄として悪魔に捧げられていたって。それしか方法がなかったから今までずっと。でも、町長さんがやっと決心してくれて。海軍へ連絡をとったから解放されるって。私が十六になって島を出る時に、海軍が悪魔を捕まえてくれるって!」
先ほどの話をすべてエネルへ打ち明ける。そう。両親は「悪魔」と言っただけ。「エネル」とは一度も聞かされていない。それでも悪魔が誰を指すのか否応なく理解してしまったのだ。とにかくエネルが悪魔呼ばわりされていること、海軍がエネルを狙っていることを伝えるので精一杯。
もう立つ気力もない。その場に崩れ落ち、震える己の体を抱えこむ。こぼれ落ちるものを止めようと、思いきり瞳を閉じた。
「ナマエは、いつ十六になるの」
そっと頭を撫でられる。ああ、なんてやさしい声なのだろう。
「えと、あと、にしゅうかん」
嗚咽まじりに声をもらす。もう何も考えられない。行き場のない不安を涙へ変えていく。
「ナマエは、僕のことをどう思っている」
いま、なんて、
「ナマエにとって僕は悪魔なの?」
うまく焦点の合わない目を力なくエネルへ向ける。彼は、砂浜で座りこむ自分と同じように腰を下ろしていた。
エネルが悪魔? そんなわけない。だって、あなたは、
「エネルは、わたしにとって、大切な、たったひとりの。えねるは、わたし、の」
彼はすべてを教えてくれる。彼は私のすべて。不意にシスターの言葉を思い出す。全知全能なる──
「えねる、か、み、さ、ま……」
彼の口角が不自然につり上がる。
「ああ、神だ」
立ち上がり、彼が腕を背中へと伸ばしたかと思えば。羽が落ちた。両翼が砂浜に横たわる。背中から赤色がしたたり、足下の砂をみるみるうちに染め上げていく。
「エネル?」
目の前の情景を理解できない。顔を覗きこもうとナマエは腰を上げた。流れるものを止めるべきではないか。痛くないのか。懸命に彼と目を合わせようとするも叶わなかった。
「なぜもっとはやく気づかなかった。簡単なことだったのに」
くつくつと笑みをもらす。血に染まった片手を額にあてがい、天を仰ぐその姿はナマエの知るエネルではなかった。
「神に不可能はない」
決して彼から目はそらさないが、無意識のうちに後退りしてしまう。すぐに腕を掴まれる。そっと懐へ引き寄せられた。
「用事ができた。出かけてくる」
思わず彼を見上げた。胸騒ぎがする。
「すぐ戻る」
「行くって、どこへ?」
「ここからそう遠くない。なに、一週間もかからない」
「一週間も!? 私たち、そんなに長く離れたことがないのに!」
なぜそんな急に。どうして。置いていかないで。
「ああ。きみは、そんなにも……」
エネルがいないなら、自分はどう過ごせばいいのだ。一日だってあなたを欠かしたことはないのに。
「誰もナマエに手は出さない。一緒に来るより、ここに留まった方が安全だ」
そっと頬を両手で包みこまれる。
「信じている」
額にやわらかい感触。その行為が何を意味するのか、今のナマエには理解できなかった。
「行ってくる」
エネルが姿を消したあと、ひとまず家へ戻り、再度両親から離島計画の詳細を聞く。どうやら町長が計画の立案者であり、エネルと接触したこともあるらしい。ナマエは町長へ会いにいくことに。
町のはずれへと赴いたナマエは勢いよく扉を開ける。窓辺の揺り椅子に腰を落ち着け外を眺めていた町長と目が合う。彼は口元にわずかな笑みを浮かべてみせた。
「もう、話は聞いたのだな」
名乗ることも挨拶も忘れ、ナマエはさっそく本題へ移る。
「町長はエネルの何を知っているのですか。私が人質呼ばわりされているのはなぜですか。なぜ、海軍へ連絡したのですか」
窓へと視線を戻した彼は、ゆっくり、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あれは十三年前のことだ。当時の町長だった私の父は、あの海岸で幼子と、それに寄り添う天使を見つけた。天使は父に、こう話したという。『訳あって自分の元で育てることができない』『この海でも難しいかもしれないが、それでも生き抜いてほしい』『どうかこの子の力になってほしい』と。父は天使の願いを聞きいれ、この島で幼子を匿うことにした」
町長は大きなため息をつく。
「だが、そううまくはいかなかった。その子供には、天使とは対極に位置するであろう証し──黒い翼が生えていたのだ。町の者は口を揃えてこう叫んだ。『悪魔が現れた』と」
町の皆は昔からずっとエネルを悪魔だと思っていたなんて。
「父は幼子を町へ迎え入れることを断念した。その代わり町から一番遠く離れた、あの海岸沿いに幼子を隠した。たとえ悪魔でも幼子なら影響を及ぼさないと思ったのだろう。幼子が姿を消してからは、誰も話題に出さなくなった」
「ある日、幼いきみを抱えた彼が町へ現れた。夜も更けて間もない時間だったから、その光景を目撃した者が多かったのだ。その後は、きみが知ったとおり。私も詳しくはわからないが、父と彼は何らかの約束を交わしたはず。いわゆる人質ではあるが、きみが普通の生活を送れるよう、町の決まりがつくられたのだ」
五歳で初めてエネルと出会ったときから、町の皆は自分を人質として見ていた。
「そんな父が先日亡くなった。それを期に住民のあいだで『悪魔を追い出そう』という声が大きくなってきてね」
今回の離島計画は皆が発端。皆がエネルを追い出したがっている。
「私が思うに、彼は悪魔と呼べるほど危険ではない。この十三年間、私なりに彼を観察しつづけたが、翼以外はごく普通の青年だ。少々、頭が切れるようだがな」
町長の口から「悪魔ではない」と聞け、肩の力が抜ける。
「きみも普通の少女だ。ふたりともまだ若い。この島での印象はなかなか変えられないが、いくらでも人生はやり直せる。世界は広い。海の向こうなら、きみたちを受け入れてくれる地がきっとあるはずだ」
町長は口を閉じた。こちらへ振り返る気配はない。町長は自分たちを嫌っているわけではない。そして、まだすべての問いに答えてもらっていない。
「なぜ、海軍へ連絡を?」
「この世界には、さまざまな種族が存在するという。なに、天使を信じていないわけではない。すべての海を管轄とする海軍ならば、彼の種族についても知っているだろうと思ってね。支部へ連絡をとり、翼を宿した者が島にいること、その者に適した場所へ護送してほしい旨を伝えたところ、快く了承してもらえた。ふさわしい移住先を知っているのだろう。彼はその地で生きる方がいい。そして、きみは彼と一度距離を置いてみた方がいい」
いま、なにを、
「おそらく、きみには彼しか見えていない。まあ、年頃の男女なのだから、よくある話だが。今まで少し特殊な環境だったのだ。彼から離れて見聞を広げれば新たな道が見つかるはずだ」
「何を言うのですか! エネルと離れるなんて」
「だが実際のところ、いま彼はこの島にいないのだろう?」
なぜ知っている。
「彼がそばにいれば、ここに来ることすら実現しなかった。やはり、見えていないのだね」
「一週間すれば帰ってくるんです。エネルは、戻ってくるの!」
町長の目が大きく見開いた。
「そうか。一週間か。あやつ……」
顎に手をかけ、何やら思慮している。片眉を上げ眼鏡を直したあと、再びナマエと目を合わせた。
「よいかね。これはあくまで私の憶測にすぎないのだが、彼はきみに選択肢を残した」
『信じている』
「一週間もあれば準備を整え、島を出られる。一週間。それがきみの猶予だ」
町長の言葉を理解したくない。
「ここに留まり、海軍に護送される彼へ手を伸ばすか。すべてを捨て、島を抜けだし、新たな人生を切り開くか」
なぜ選ばなければならないの。わからない。わからない。
「二週間後に海軍が来る。私はこれ以上誰に働きかけることもしない、行動もしない。あとはふたり次第だ。よく考え、自分にとって最善の選択肢を探しなさい」
彼がいなくなってからまだ二日しか経っていない。あと五日。一週間が長すぎる。
ナマエは努めて普段どおりの生活を送った。両親と朝食をとる。午前中に教会へ行き、勉学に励む。昼から夕方にかけて両親の仕事を手伝ったあと、あの海岸へ向かう。ここまでは同じ。それでも変化は生まれてしまう。両親は娘の行き先にふさわしい島の情報を取りよせ、熱心に話し合っている。教会で顔を合わせるシスターには「これからもきっと希望という光があなたを照らしつづけるでしょう」と笑顔で声をかけられた。
彼がいないとわかっていても、この海岸へ足を運んでしまう。いったい何度この砂浜に寝転がり、星を、月を眺めただろうか。星の名前を、星座を何度も教えてくれた。「所詮、神話などお伽話にすぎない」なんて言いながらも、情緒たっぷりに物語を耳元でささやいてくれた。彼の声を子守唄のようにして寝ついてしまったことも何度かある。気づけば自室のベッドで抱きこまれていた。そんな彼の体温が狂おしいほど心地よかった。
いつも彼としているように、砂浜で仰向けになる。日が傾き、月が白く浮かび上がってきた。無意識のうちに月へと手を伸ばす。決して届かないが、他のどの星よりも近い。日を追うごとに姿を変える、不思議なもの。なぜあの場所に月があるのだろう。
ねえ、エネル。あそこには何があるの。
さらに五日が過ぎた。いつものように海岸で寝そべっていたナマエは、突如鳴り響いた轟音で勢いよく上体を起こす。雲ひとつない晴天だったのに、どんよりとした雨雲が島の上空を覆っている。天候が急変したのだ。すぐに雨も降りだすはず。雲が光っているので落雷にも気をつけなくては。
近くの洞窟へ逃げこんだナマエは雷が止むのを待った。今までで聞いたこともない、けたたましい落雷音が何度も何度も響きわたる。数えきれないほど島に落雷した。町は大丈夫だろうか。自分の家には落ちていないだろうか。
一時間ほどでピタリと落雷音が止まった。洞窟の外を眺める。雨は降っていない。遥か先の水平線は晴れている。じきに天候は回復するだろう。洞窟を抜けだし、空を見上げる。いまだ島の上空には雨雲がかかっているが、雲は光っていない。雷の心配はいらないだろう。だが町の方角に無数の黒煙を認める。思わず声をもらした。
「火事? 町に落雷した?」
足早に町へ戻る。町──いや、町が存在していた場所に着いた。走ったことで上がった息を整える。目の前の光景が信じられない。
建物はすべて焼け焦げ、崩れ落ちている。炎は見えないが、先ほどまで燃えていたのであろう。鼻がねじ曲がりそうなほど異臭が立ちこめている。うっかり煙を吸ってしまい咳きこむ。おかしい。人の姿が見当たらない。町のみんなは。父さん、母さんは。シスターは。町長さんはどこ?
広場の土は抉られ、中央の噴水はオブジェもろとも砕け散ってしまっている。まるで隕石でも衝突したかのよう。鼓動が速くなる。現状を理解しようと試みるも、うまく頭が働かない。どうして、どうしてこんなことに。
重い足を動かし、港へと向かう。誰かが船へ避難しているかもしれない。港の船着き場には人影が。そばの巨大海王類が海へと姿を消していく瞬間であった。
あの後ろ姿は、もしかして。
彼が振り返る。久しぶりの再会を喜びたいのに、一目散に彼へ駆けよりたいのに、足が動かない。体が震えだす。
エネルがこちらへ歩みよる。たった一週間で彼の風貌はすっかり変わってしまった。正確には翼がないだけなのだが、どこか雰囲気に違和感を覚える。
「大丈夫」
大丈夫?
「もう青海に用はない。さあ、行こう」
どこへ?
「ナマエも、あの限りない大地へ行きたいのだろう?」
彼が指差した先。それは天空であった。
「おいで」
手が差しだされる。体の端々から光のようなものがちらついている。なぜエネルが光っているのだろう。なぜ彼は笑っているのだろう。彼に問いたいが、声が出ない。ごくりと喉を鳴らし深く息を吸いこむも叶わない。何度挑戦しても音にならないのだ。
町長の言葉を思い出す。もしかすると、この差しだされた手も「選択肢」なのだろうか。彼は動かず、違和感を覚える笑みを浮かべている。この青年は本当に彼、エネルなのか一瞬疑いもしたが、間違いなく彼だ。あのような鋭い目を持つ者は、たったひとりしか知らないのだから。
ナマエは考えることをやめた。自分にはもうエネルしかいない。いや、最初からエネルだけだった。そうだ。
腕を伸ばし、震える足を進める。呼吸が浅くなる。彼の手へ指先が触れた瞬間、手首を掴まれ引き寄せられた。彼の胸元へと雪崩れこみ、きつくきつく抱きしめられる。
視界が、暗転した。
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