短編つめあわせ
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女の子はよくばりなのです
ドレスローザに到着した美しき海賊団。船長である白馬のキャベンディッシュは火拳ポートガス・D・エースの形見であるメラメラの実を手に入れるため、コロシアムへ参加しにきた。出場戦士が偉大なる航路中から集まり次第、コロシアム開催日が正式に決まるのだという。それまではこの島で待機だ。ナマエは町へ出かける仕度を始めた。
美しき海賊団船員であるナマエは船長補佐をしていた。肩書きはたいそうな響きだが、仕事内容はただの雑用だ。田舎町の小さなカフェで働いていたところ、船長のキャベンディッシュに誘拐されたのである。当の本人に言わせれば「ナマエが勝手についてきたんだ」らしいが、自宅で眠りについたはずなのに、翌朝目を覚ましたら船の上だったのだ。すでに自分の島を離れ海上であったので戻るに戻れず。これを誘拐と言わずして何と言うのだろう。
「なぜおまえがこの船にいる」と、はじめは文句を垂れていたキャベンディッシュだが、クルーたちに丸めこまれ、渋々ナマエを美しき海賊団へ迎え入れた。どうやらクルーたちは「ナマエ誘拐事件」の真相を知っているようだ。ナマエに対し「船を降りないでください」と頼みこむ者もいる始末。最初は不思議に思っていたナマエだが、「もうひとりのキャベンディッシュ」と会うようになってから、彼らの苦労が理解できるようになり、自然と船上生活を受け入れるようになった。元々独り身であったのだ。住んでいた島に心残りはない。航海を続けるうちに、夢を語り、それに向かって突き進むキャベンディッシュに憧れを抱くようになる。いつしか彼の背中を追いかけていた。
そして。そんな彼に息が止まるほどきつく抱きしめられたのは、つい最近のこと。具体的な言葉を交わしたわけではないが、少なくともナマエはキャベンディッシュに対し「上司と部下」の関係以上を望んでいた。
「ナマエ、そろそろ行くぞ」
扉の向こうからキャベンディッシュの声がする。ナマエの自室には小さな鏡と最低限の化粧品、シンプルな服がいくつか置かれている。所持金は持ち合わせていなかったので、すべてキャベンディッシュが買い揃えたのだ。買ってもらえるだけありがたいのだが、本当に最小限しかないので、おめかしはできない。それでも新しい町へ彼と出かけるのだ。少しでも女の子らしい格好をしようと努力する。膝丈、丸襟の水色ワンピースに茶色の細いベルト。くるぶし丈のソックスに茶色のストラップ靴を。髪型はどうしよう。
「遅い、ナマエ」
待ちくたびれたのか、キャベンディッシュがナマエの部屋に入ってきた。髪を梳いていたブラシを取り上げる。ナマエ同様、彼も鏡を覗きこんだ。
「なんだ、もう終わっているじゃないか」
「髪型が、まだ決められなくて」
彼がナマエの髪を指で梳く。何度かくり返したあと、扉へ向かった。
「そのままでいい。行くぞ」
「あの方は貴公子よ」
「ああ、なんてお美しいのかしら」
町通りをキャベンディッシュが闊歩すれば、そばの女たちが倒れていく。ナマエは十歩以上距離をあけて彼についていく。どの島でも同じような現象に出くわすが、今回は特に効果抜群だ。「愛と情熱とオモチャの国」と言われている場所である。彼の色気がより刺激的に女たちを惑わすのだろう。
そんな熱い視線を浴びながらも、キャベンディッシュは酒場や食事処へ足を運び、聴きこみ調査をする。この島での目的はメラメラの実であるが、どこへ上陸しても聴きこみは行っている。「最悪の世代」と呼ばれる後輩のルーキーたちを探しているのだ。彼らを見つけ次第、八つ裂きにするらしい。注目を浴びていた自分は過去のものとして忘れ去られ、後輩たちが話題をかっさらったのだ。彼の憎しみはピークに達していた。
キャベンディッシュはクルーたちと共に店を出入りする。ナマエは彼と町へ出かけたとしても、なかなか一緒に行動できない。今回のように十歩以上後ろを歩き、聴きこみ調査に参加せず、外で待機する。自分は必要物資を調達する時しか言葉を交わさない。どれもキャベンディッシュの命令なのだ。はじめは彼のすぐ後ろを歩いていたが、男同然の格好をさせられていた。さすがに我慢できなかったので、今のようなシンプルなレディース服に落ち着いたところ「十歩うしろを歩け」と言われてしまったのだ。そばにいたいが、町なかを歩く時くらい女らしい服を着たいものである。ナマエは渋々それを受け入れることにした。
いったんキャベンディッシュたちと別れたあと、ナマエはひとりのクルーを引き連れて物資調達へ向かう。すべて揃えた際、抽選券を手に入れた。このスーパーでは現在くじを行っているらしい。店員に強く勧められたので抽選会場へ向かう。一回目、二回目は外れたが、三回目で鐘が鳴った。
「これ、どうしよう」
一万ベリー分の商品券を手に入れる。もちろんこの島でしか使えない。すでに必要物資は揃えてしまった。ため息をもらすと、荷物持ちに付いてきてくれたクルーに提案される。
「ナマエさんの好きなものを買うのはどうですか。このお金はナマエさんが手に入れたのですから。いつも『服が欲しい』と言っていたじゃないですか。この辺の商店街は治安が良さそうだし。おれ、この荷物をいったん船へ持ち帰ります。そのあいだにお店へ入っていてください。ナマエさんをひとりにすると船長に怒られますが、ほら、あそこの綺麗なお店ならきっと安全です」
クルーが指差した先には、今どきのレディース服がショーウインドウに並んでいた。この商品券を手に入れたのも何かの縁に違いない。ナマエは彼の提案を受け入れることにした。
「これでトータルコーディネートできますか」
さっそく店員に話しかける。商品券を見せれば、すぐに試着室へ引きずりこまれた。次から次へと服が手渡される。いくつか袖を通し、全身の雰囲気を確かめる。こんなにも服で迷うのは久しぶりだ。気になる服は何着か見つけた。だが、それを買うのになかなか踏みきれない。自分ではなく、彼──キャベンディッシュが好きな服を着たいのだ。彼の好みは知らない。だからといって、今ここに彼を呼んでも服を買わせてくれないだろう。理由はよくわからないが、彼は自分がめかしこむのを嫌う。でも、彼に異性だと意識してもらいたい。女に見られたい。一着くらい、とびきりおしゃれな服を持ちたい。
ふいに目を引いたワンピースへ手を伸ばす。誰かの手と重なった。とっさに手を引っ込める。となりにはくるりとした目の可愛らしい女の子が立っていた。ゴーグル付キャスケットを被り、フリルたっぷりのミニスカートからは、すらりと長い脚が伸びている。思わずスタイル抜群の彼女を注視した。
「ごめんなさい。ちょっと気になっただけだから。どうぞ」
女の子は笑顔でワンピースを差しだす。
「私もなんとなくさわっただけなので、気にしないでください」
「でも、あれだけたくさん試着して迷ったうえで、気になったのでしょう? 着てみたら?」
カッと頬に熱が集まる。先ほどの試着を彼女に見られていたらしい。
「でも、本当に欲しいものとは違うんです」
「そうなの? ふうん。あ、わかった! 恋人の好みに合わせたいとか?」
びくり。反射的に体が跳ねてしまう。恋人ではないが、異性の彼を意識しているのは図星だ。
「恋人じゃないです!」
「『じゃない』ってことは、やっぱり特定の誰かが気になるんだよね?」
少し悪い顔をして彼女が歯を見せた。さらに熱が上がってしまう。
「もう、そういうことにしておきます」
「ねえ。そのひとについて知りたいな。ざっくり性格がわかれば、服の好みがわかるかも」
とっさに彼女の腕を掴んでしまう。
「それ、本当ですか」
「まっかせなさーい!」
彼女は胸を張ってナマエに答えた。
「なるほど。ナマエちゃんには女の子らしい服を着させない。そのひと、相当──あ、何でもない! 気にしないで? じゃあ、こんな感じでどうかな」
コアラがてきぱきと服を選んでいく。ウエストに切り返しの入ったワンピース。手持ちのシンプルなものとは違い、ふわりと広がるフレアスカートだ。チュチュまで付いている。五分丈袖で、デコルテはほとんど隠れている。露出は少ないが、肩が見え、リボンで前身頃と後ろ身頃が結ばれていた。カチューシャは控えめな大きさのリボン付き。パンプスはころんと丸みがある。どれも、自分なら絶対に選ばないものばかり。
さっそく試着する。チュチュや肩口のリボンに悪戦苦闘しながらも数分後、やっと着替えが完了した。店内のコアラを探す。彼女のとなりにはハットを被った青年が立っていた。
「うん。すっごく似合ってる。かわいい!」
コアラに抱きつかれる。反応に困り、ついとなりの青年と目を合わせた。
「おい、彼女困ってるだろ。ああ、こりゃ大事になりそうだ。悪いな。こいつ、一度決めたらぜってェ譲らねェから」
キャベンディッシュと同じブロンド。彼の言葉が理解できず首を傾げていると、コアラに顔を覗きこまれる。
「ナマエちゃん、このひとがさっき言ってたサボくんね。ちょっと手伝ってもらおうと思って」
手伝う?
「大丈夫。ナマエちゃんは何もしなくていいから。商品券の残り、化粧品に使ってもいい? せっかくだから、この服に合わせたらどうかな」
彼女はすでに「この服を着て帰る」と店員に話をつけていた。元々降ってきたお金だ。すべてコアラに任せることにした。
店内の化粧品コーナーへ足を運ぶ。ビューラー、マスカラ、チーク、リップグロスを買い、その場でコアラが化粧を施してくれる。数分後、鏡を覗くと別人が映っていた。
リップ、チークはほんのり色づく程度。それでも顔全体が明るくなったので服の色合いと馴染んでいる。
「コアラさん、ありがとうございます。こんな服を着たのは初めてです」
「ナマエちゃんはもっとこういうのを着るといいよ。じゃあ、その船長さんの元へ行きましょう?」
「今から、この格好で会うんですか!?」
思わず鏡を見直してしまう。
「外で待機しているひとにも事情を話しておいたから」
店を出たコアラが、船から戻ってきたクルーに声をかける。ナマエは彼に弁明した。
「あの、彼女に服を選んでもらえました。船長に怒られるかもしれないけれど、その、どうしても着てみたかったんです」
クルーは頭をかきながら一瞬目をそらしたが、笑顔で答えた。
「ナマエさんが着ていた服は、おれが船に持ち帰っておきます。それと」
彼に耳打ちされる。
「彼女、というよりとなりのハット野郎、そこそこ有名人なので。気をつけてください」
「え?」
「船長、有名人は嫌いでしょう? 念のため注意しておいてください」
じゃ、船長によろしく伝えてください。そう言い、彼は手を振った。
キャベンディッシュと別行動になってから二時間は経過している。昼食の時間なのでレストランにでも入っているだろう。そうなれば彼の居場所はわかりやすい。必ずテラス席を選ぶからだ。彼の食事姿を見て、道行く女性たちが倒れていくのは最早見慣れた光景である。
レストラン前に人だかりができていた。女性たちが倒れている。間違いない。キャベンディッシュだ。船長から離れた席にはクルーたちも見える。普段ナマエが座るのは当然彼らの席だ。キャベンディッシュはいつも船外ではひとりで食事をとる。
「へえ。あのひとが白馬のキャベンディッシュね。サボくん、よろしく」
コアラの声は弾んでいた。気だるそうにサボが応答する。
「ったく。どうなっても知らねェぞ」
「でも反応は気になるでしょう?」
「まあ、否定しねェが。貴公子っていうからには楽しめるかもな」
目を合わせ、拳をつきあわせる。ニッと歯を見せる笑い方はふたりともよく似ていた。
「ナマエ。おれのことはサボでいい。とりあえず練習するか」
じっと見つめられる。ようやく自分の言葉を待っているのだと気づいた。
「サ、ボ……?」
「もっと適当に、気楽に呼べばいい。もう一度」
笑顔が少しこわい。何度か指先をやわらかく撫でられる。こうなれば勢いで口走るしかない。
「サボ」
「もう少しだ。肩の力も抜いて」
露出する肩へ彼の手が置かれる。急に距離が詰まり、余計に体が強張ってしまう。目も閉じてしまった。直後、彼のうめき声が響く。
「やりすぎ、あそびすぎ」
コアラが彼の頬をつねっていた。彼女に背を押され、ふたりしてレストランへ駆けだす。
サボは堂々とキャベンディッシュとなりのテーブルへ座った。人だかりができているので周囲のテーブルはがら空きなのだが、あえてそこを選んだのだ。ナマエはキャベンディッシュに背を向けて座ったので、そう簡単に気づかれないだろう。それでも真後ろに彼がいるのは、なんとも居心地が悪かった。対するサボは、そつなくメニュー表を広げてくれる。
「どれにする? せっかくだから食事は楽しまねェとな」
声で気づかれるかもしれない。声量を抑えてサボに応えた。
「これで」
サボと他愛もないやりとりをする。ハットを脱ぎ、グローブを外した彼は思った以上に若かった。ころころと表情が変わるので、つい頬を緩めてしまう。常に自分の反応を確かめている姿は新鮮に映った。キャベンディッシュ相手ではこんな会話にはならない。
「でさ、そのときあいつ、なんて言ったかわかるか? ……あ、ついてる」
サボの顔が近づく。頬にやわらかい感触。キャベンディッシュを囲う人だかりから女の悲鳴が重なった。その後ようやくキスされたのだと気づく。ついキャベンディッシュの様子が気になり、顔を動かすも、サボに止められてしまう。
「振り向くな。あいつ、すっげェこっちをみてる」
頭がまっしろになる。まさか、彼が、
「いい線だ。もうひと押しするぞ」
悪い笑みを浮かべたあと、サボが声を張り上げる。
「食い終わったか? そろそろ行こう」
彼がハットを被り立ち上がった。手を差しだされる。名前を呼ぶ練習をしたときと同じ笑顔。おそるおそる手を乗せる。そのまま体を引き寄せられた。やわらかく腕のなかに閉じこめられる。
「おれはもう行く。素敵な時間をありがとう、ナマエ」
がたんと背後の椅子が倒れる。振り返りたいのに、サボの胸元に顔を押しつけられてしまう。
「ナマエ」
肩が震える。キャベンディッシュの声だ。人だかりから複数人の悲鳴も聞こえる。完全に見世物状態だ。不本意であるが、サボのおかげで顔を隠せていることを心から感謝した。
「誰だ、てめェ」
サボが鋭く吐き捨てる。ぞっと背筋が凍った。名前も顔も知らないと同等の意を持つその言葉は、船長のキャベンディッシュにとって最大の禁句だ。向こうのクルーたちもやきもきしているはず。サボは完全にキャベンディッシュを挑発していた。
「ナマエは僕の仲間だ。僕が誰なのか、本当に知らないのか」
まずい。キャベンディッシュの声は最高潮に機嫌が悪い。カチリと鞘から剣を抜く音が聞こえた。このままではサボが危ない。
「ここで闘る気か? まあ腕試しもいいが、ナマエが怪我したら大変だろ?」
そっとサボに肩を押される。体を反転させられ、ごく自然にキャベンディッシュと視線が交差した。彼の目は鋭く光っている。そしてどこか顔色が悪かった。こんなひどい顔の彼など、とても見ていられない。なにか声をかけたいが、背後のサボに肩を叩かれた。キャベンディッシュにも届く声量で耳打ちされる。
「ナマエ、こいつの仲間なのか? こんな奴にナマエはもったいねェな。おれたちと一緒に来いよ。ナマエなら大歓迎だ──」
サボが言い終わらないうちに視界がまわった。剣が何かを弾く音。腕を誰かに引っ張られ抱きこまれる。体が上下し、風景が次々と変わっていく。ようやくキャベンディッシュに抱え上げられていると認識した。
船長室のドアが開閉する。体を降ろされたかと思えば、キャベンディッシュに抱きしめられた。どんなに熾烈な闘いを繰り広げても顔色ひとつ変えない彼が、息を切らし、汗を流し、体を震わせている。以前、息が止まるほど抱擁を受けたが、今はそれを通り越して苦しい。腕の力が強すぎて体が悲鳴を上げそう。肺に空気が入らず声も出せない。苦痛で涙が零れる。酸素不足で意識が朦朧としながらも、彼の背中に手をまわし、何度もやさしく叩いた。
手を動かす気力もなくなりかけた頃、ようやく彼の腕が緩んだ。自力で立てず、その場に崩れ落ちてしまう。彼に抱きとめられる。そのままベッドへ寝かされた。
うまく息継ぎできない。空気を吸おうと肩を上下させ浅く呼吸をくり返す。涙が止まらない。キャベンディッシュはとなりに横たわり、ぼうっと見つめている。こちらの髪をすくいとっては指で梳いた。
「ナマエ」
思わず息を止める。彼の声に体が勝手に反応するのだ。先ほどのレストランで名を呼ばれた際も思考が停止した。彼の声に支配されてしまったかのよう。
「ナマエ」
彼が上体を起こし、見下ろされる。髪を梳く手つきは変わらない。その瞳は、どこか悲しい色を浮かべていた。こんな顔にさせてしまったのは自分だ。それでも。なぜめかしこむ真似をしたのか、本心を伝えておきたい。
「おねがいです、きいてください。私、船長の前で女の子らしい服を着たかったのです」
「僕の前で?」
「私はこの船に乗っていたいです。船長と一緒にいたいです。船長によく見られたい、です」
勝手に口が動く。今はっきりと伝えなければいけない気がした。彼の瞳が揺れる。髪を梳く動きが止まった。肩口のリボンに手が伸びる。
「なら、こんな服は外で着るな」
顔が肩へ近づく。リボンを解く音。突如、突き刺さるような痛みが走り、なにかを吸う音が聞こえた。思わず声にならない悲鳴を上げる。何度か吸われたあと、今度は痺れだす。息を吐き、震えた声がもれてしまう。勝手に体が熱くなる。
彼が顔を離す。痛みが走った肩口を指でやさしく撫であげる。こんな行為は初めてだ。やはり今の格好に対し怒っているのだろう。ごめんなさい。わがままを言わせてください。
「ごめんなさい。でも、船長と一緒にいたいし、おしゃれもしたいのです。両方ともは、欲ばりですか」
彼と目が合う。
「外で着飾るのは、だめだ。ふたりきりの時だけにしてくれ」
「ふたり、きり?」
「そうだ。ナマエは、僕の前だけで。ああ……ナマエ」
抱き起こされ、何度も名を呼ばれる。どう反応すればいいかわからない。ただ彼の抱擁を受け入れた。
コアラとサボに出会って以降、キャベンディッシュは外出の支度をするナマエの部屋を必ず訪れるようになった。手持ちの少ない服から、なんとかコーディネートの組み合わせを増やそうと頭を捻る自分の姿を、椅子に座り眺めている。ようやく服が決まれば、鏡の前に座る自分の元へ歩みよる。ブラシを取り上げられ、彼が髪を整えてくれる。ある日は毛先を巻き、ある日は前髪をピンで留める。凝ったものではないが、少しでも髪型が変わると服の印象も変わるものだ。髪を整えたあと、彼と一緒に鏡を覗きこむ。うしろから抱きしめられ、そっと耳元で、
「ナマエ」
ただ名を呼ばれるだけ。それなのに、いつも頬が赤くなってしまう。毎日呼ばれても赤みが引かない。彼の声は、まるで魔法がかかっているようだ。
もうひとつ変化があった。週に一度の間隔で、彼自身が自分を着飾るようになった。コアラに選んでもらったコーディネート一式を着付け、どこからか持ってきた化粧品でメイクを施す。ふたりきりでディナーをとる日もあれば、一日中その格好で船長補佐の仕事を請け負ったりもする。ただし船長室からは出ない。最後に「服を脱いでこい」と言われる直前、肩口のリボンを解かれる。毎回必ず彼は肩にくちづけを落とす。赤が見えるよう痕を残すので、この服で外出できない。一週間で痕は薄れるが、彼はこの服を着せるたび、薄れた痕にくちづけを重ねる。ナマエはそれを拒否できない。外でおしゃれをすることは許されていないが、髪型を工夫してもらえるし、週に一度は彼とふたりきりになれる。具体的な言葉はなくとも、彼に抱擁され、名を呼ばれるだけで十分幸せだった。
コリーダコロシアム、Dブロック。ナマエはクルーたちと観客席に来ていた。キャベンディッシュが入場する。愛馬ファルルに跨がり、なぜか拡声器を片手に持っていた。
「黙れ貴様ら! 故あって出場したが、僕はこの大会が大嫌いだ! 戦士の命は見せ物じゃない!」
同ブロックの出場戦士、リク王一族のレベッカに対し罵声を浴びせる観客たちへ向けた、彼の怒り、そして信念。観客席からの罵声は、彼に対する声援へと変わった。三年ぶりの熱いキャベンディッシュコールに、本人はご満悦の様子。ナマエはとなりのクルーと顔を合わせ苦笑した。
「よかったですね、船長。あ、ナマエさん、船長がこっち見てますよ」
慌てて前へ向きなおる。キャベンディッシュは両手を上げ、声援に応えていた。ステージと観客席はかなり離れているが、たしかに見られている気がする。自分も彼の姿を捉えつづけた。今日のコーディネートは彼の意見をすべて取りいれた。鏡の前で、ふたりしてああだこうだ言いながら話し合ったのは、つい数時間前。そんな、彼が選んでくれた服をアピールしようと手を振る。
ふと。彼が笑った。
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