短編つめあわせ
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遠い海の向こうへ願う
完全にやけ酒だった。アルコールの力であの人との思い出を記憶から消していく。一時間後。カウンター越しのマスターに酒を止められかけたところで、となりに誰かが座った。
「どうしたの。ひとり?」
煙草のにおい。長い前髪の合間から薄いブルーの瞳が。
「実は、さっきからきみを見ていた。気持ちよく飲んでるようには見えなかったから、心配で」
しん、ぱい。
「おれで良ければ話を聞く。今日はヒマしてんだ」
嫌味のない笑顔。なんで私なんかに声をかけたの。
「ああ、失礼。おれはサンジ。コックだ」
さんじ。こっく。
「きみの名を聞かせてほしい」
最初は聞かれたことだけに答えていた。恋人に浮気されたこと。喧嘩別れしたこと。彼、サンジはすべてに耳を傾けてくれた。しだいに自分のほうから言葉があふれてくる。
「もう、いや。全部いやになってきた」
「いまは無理しなくていい。自分の体を労うことだけ考えよう。うまいもんでも食って、ゆっくり風呂に浸かる。好きなだけ寝て、昼までベッドでのんびりする」
くすぐったいまなざし。表情もコロコロ変わる。最初は煙草のにおいがキツいと思ったが、いまはすっかり慣れた。やさしいひと。
「でも、おなか空いてない」
「まあ、こんだけ飲めばな。それなら次は風呂だ。体をあたためれば、いい具合にリラックスできる」
お風呂かあ。悪くないかも。
「そういや、バスルームが広くて評判のホテルがあるな。ここから遠くない」
へえ。どんなバスルームだろう。
「場所も知ってる。案内しようか」
いつのまにか彼が会計を済ませていた。自分の分も。払うと言ったのに、まるで聞いてくれない。そんな後ろめたさもあったせいだろう。気づけば彼とともに店を出ていた。
バスルームの扉を開ける。広さに圧倒されて、気の抜けた声がもれてしまう。ジャグジーだ。足をのばしてもたっぷり余裕がある。五人は同時に入れそう。
「すぐお湯を張るから」
すべて彼が準備してくれた。待っているあいだにお茶を淹れてくれる。カフェインレスのハーブティーに少し氷を入れて。熱すぎず、冷たすぎず。ごくごくと飲み干してしまう。
「そろそろ酔いも覚めてくる時間だ。いちおう脱水症状には気をつけねェとな」
水分補給を済ませ、お風呂も沸いた。どう動けばいいかわからず、手をこまねいていると、彼にやんわりと背を押される。そのままバスルームへ。
「ゆっくり浸かって。おれのことは気にしなくていい。さっきも言ったが、飲んだばかりだから気をつけて。ぬるめの温度にしといた」
扉が閉まり、脱衣所にひとり残される。わたし、何を期待していたのだろう。頭を左右に振り、気を取りなおす。湯船でじんわりと体をあたためた。
四十分後。髪も乾かした。バスローブのほかにワンピースの寝巻きを見つけたので、それを着る。おそるおそる扉を開ければ、窓辺にいた彼がこちらを振り向いた。窓を開けて煙草を吸っている。
「ゆっくりできたか?」
窓辺へ近づき、こくりとうなずく。彼の頬がそうっとゆるんだ。
「さっき淹れたから、ちょうどいいぬるさになっているはずだ」
椅子へ誘われる。またハーブティーを用意してくれた。きちんと礼を述べて、ちびちびと口をつける。扉が閉まる音。彼がバスルームへ入ったのだ。ずっと図りかねていたが、ようやく確信する。彼も今日、ここに泊まるのだ。部屋のベッドはひとつだけ。
歯をみがき、肌の手入れもした。どうにも落ち着かず、部屋のなかを歩きまわってしまう。扉の向こうからドライヤー音が。あわててベッドへもぐりこむ。バスルームから出てきた彼と目が合わないよう、体を横へ向ける。十分、二十分。ベッドがきしむ音。シーツが肌のうえを滑り、一気に鼓動がはやくなる。
沈黙。煙草のにおいはしない。ルームランプはすべて消されていた。なにも考えられない。なにも考えたくない。でも、となりに。手をのばす勇気はないので、小さく声に出してみる。彼が寝たならそれでいい。聞こえないなら、それで、
「サンジ」
「どうした」
息がとまる。すぐに返ってきた。起きていたのだ。あわてて次の言葉をさがす。
「眠れそう?」
「おれのことは気にするな」
声が近い。意を決して寝返りを打つ。暗がりのなか、金髪のシルエットは見えた。だんだん目が慣れてくる。ちかい。すごく近い。最初からこちらを向いていたのだ。
「あのね。私は」
緊張のあまり、喉が渇く。もう後戻りできない。
「眠れそうにない」
すぐに言葉をつないだ。
「ベッドに入ってから、ずっとドキドキしてる」
おそるおそる手をのばす。彼の胸もとへ。寝間着のボタンをさわり、反応を待つ。
「それは、おれのせい?」
ボタンをさわる手に彼の手が重なる。手を広げれば、指が絡み合う。
「うん。サンジのせい」
絡み合っていた手をさらにのばし、彼の顔へ。頬、耳、首筋を指でなでていく。まったく抵抗されない。されないどころか、腰から引き寄せられた。もうふたりのあいだに空間はない。たがいの息がかかるほど顔も近づいていた。
「こまったな。どうすればナマエの熱を下げられる?」
鼻先がふれあう。彼が口を開けているのがわかった。ブルーの瞳に見つめられ、だんだん視界もぼやけてくる。
「熱があふれて困っているから、一気に逃がさないと」
彼の首へ腕をまわす。こちらの腰もさらに抱き込まれた。あつい。熱い。
「逃がす方法をひとつ知っているが、汗をかくぞ。いいのか」
口を開けたまま、ぜんぜん近づいてこない。焦らされている。もう完全に抱き合っているのに。
「いい。サンジなら」
ちゃんと伝えよう。いまの気持ちを。
「おねがい。サンジの手で、私の熱を逃がして」
ふたり同時に顔を近づける。最初はふれあうだけ。それでも熱い。くちびるが痺れて、とけて、とけて。互いのボタンを外していく。頬、耳、首筋、肩へ、彼の舌が滑っていく。あつい。あつい。何度も名を呼んだ。何度も名を呼ばれた。弱いところを突かれて、我慢せずに声をもらす。きれいだ。きれいだ。かわいい。かわいい。甘ったるい砂糖菓子のような、耳がとけてしまう言葉をたくさん注いでくれる。とろとろに甘やかされ、無我夢中で腰を振った。ひざもガクガクで、力が入らない。声がかれても、手足がしびれてきても、彼を求めてしまう。手をのばせば、指先にキスしてくれる。「ちょうだい」とおねだりすれば、とろとろになるまで口のなかを食べてくれる。ぎゅっとしがみつく。彼の動きに合わせて恥ずかしい声がたくさん出てしまう。でもぜんぶ「かわいい」と言ってくれる。いっぱい注いでくれる。意識が続くかぎり、延々と同じ言葉をくりかえした。
「すき、すき。だいすき。さんじ、だいすき」
シーツをつかみ、頬をすりよせる。意識がまどろむなか、目だけを動かして室内をながめる。ここはホテル。昨日はお酒を飲んで。広いジャグジーで足をのばして。ブロンドの髪。ブルーの瞳。さらさらとした肌に指を何度も滑らせて。音を立ててキスされた。舌づかいで乱されて、なにも考えられなくなった。何度も何度もおねだりした。全部、ぜんぶ叶えてくれた。音が耳にこびりついて消えない。いまも体中を彼の手が滑っているようで、ぎゅっと包み込まれているようで。最後なんかずっとキスしていた。いつ意識が落ちたかもわからない。
だから、いつ彼が部屋を出ていったかもわからない。テーブルにあった懐中時計も煙草も、ライターもない。ベッド横の革靴だって。となりの枕は頭の形に沿って少しくぼんでいた。室内にほんのり残る、煙草のにおい。そして静けさ。しあわせな時間だったのに、いまはきゅっと胸がくるしくなる。
「サンジ」
呼んでも来てくれない。そこの扉が開いて顔を出すこともない。うしろから抱きしめてくれることもない。時計の針が半周したところで体を起こす。きのうの寝間着は。ぐるりと首をまわし、自分側のサイドテーブル上で見つける。きれいにたたまれていた。そのうえに一枚の紙が。
おはよう 朝まで一緒にいられなくてごめん
店の買い出しにいってくる
最高の時間をありがとう
よければ今度うちの店においで 歓迎する
海上レストランバラティエ サンジ
店の買い出し。そうだ。彼はコックと言っていた。海上レストラン、バラティエ。記憶をたどるも、バラティエという単語は出てこない。目線を下げていけば、紙の隅に小さな文字を見つける。
内線九番を押して どうか おだやかな朝を
九番ならフロントにつながるはず。寝巻きのあったテーブルにちょうど電伝虫を見つけた。かけてみる。しばらくすると扉がノックされた。
「ルームサービスです。朝食をお持ちしました」
ワゴンが入ってくる。香ばしいパンにコーヒー。サラダ。フルーツも。
「すべて、お連れ様からです」
スタッフが出ていったあと、ベッド上でひざを抱えて寝転がる。手紙を見ながら、彼が起きたときの様子を想像する。支度して、自分の寝間着をたたんでテーブルへ。電伝虫もセットして、手紙を添える。フロントで朝食のルームサービスを注文。ため息をついてしまう。どうにか体を起こし、ワゴンからトレイを持ってくる。あたたかいうちに食べよう。彼の気づかいがくすぐったい。おだやかな朝。体の芯まであたたまった夜。すべて彼がくれたプレゼントだった。
帰宅後。じっとしていられず、情報集めを始める。海上レストラン、バラティエ。買いあさった観光雑誌の一ページでようやく見つけた。知る人ぞ知る名店。東の海では唯一の海上レストラン。雑誌のライターは「夢のような店」と評価していた。
問題は交通アクセス。海のど真ん中に位置し、船でしかたどり着けない。船など持っていないため、唯一の頼みは定期船となる。二つの島をつなぐ定期船の経由地点がバラティエだった。クレイトとローグタウン。ローグタウンなら直通便があったはず。数字と格闘すること十五分。この島からバラティエまでの往復で──
「二十万ベリー!?」
声が裏返ってしまう。ローグタウンからバラティエをつなぐ定期船は一日四本以上出ているが、自分の住む島からローグタウンへの便は週に一本しかない。つまり、時間調整のためにローグタウンで多めに宿泊しなければならない。もちろん二十万ベリーだけでは足りない。食費や旅行用品の準備も合わせると。頭が痛い。
「たしか、サンジは『店の買い出し』って」
彼の手紙を見直す。地図上でバラティエとこの島を直線で結べば、そう遠くない。彼は自分の船でこの島に来たのだ。距離なら本当に近いのに。自分の島が田舎なことを、こんなにも後悔する日が来るとは。
よければ今度うちの店においで 歓迎する
流れるような字。走り書きといえば走り書きだが、自分にとっては魔法の呪文のように見えた。何度も目を通し、ため息がでる。
「二十万の買い物すらしたことないのに」
自分の月給を指で数える。生活できる最低限を残し、全部貯金するなら。大旅行をケチりたくない。ローグタウンすら初めてなのだ。思いきって観光しよう。のんびり充実した一人旅を。
半年後。余計な荷物はすべてローグタウンの宿に置いてきた。旅行用の歩きやすい靴ではなく、すこし高めのヒールを履いて定期船に乗りこむ。着こなしは一番悩んだ。ローグタウンで見つけた流行服に、半年前と同じ髪型とメイクを。たとえ半年ぶりでも、彼が自分を思い出してくれるように。船に揺られて三時間。午前十一時のちょうどお昼どき。大勢の客がバラティエで降りる。二時間後にローグタウン行きの定期船が来るので、それまではフリータイムだ。いよいよ店内に入る。ひとりで来ている客は少ないが、そんなことは気にしていられない。おそるおそる席に着く。
「いらっしゃいませ」
耳がしびれる。視界の隅に映ったのはスーツ。空のグラスに水が注がれていく。メニュー表が目の前に。
「ご注文が決まりましたら──」
意を決して顔を上げる。彼の声が途切れた。変わらない。髪型も、口に咥えた煙草も。明るい日差しのなか、ブルーの瞳が新鮮に映る。その目がだんだん丸くなっていく。
「ナマエ、ちゃん?」
どうしよう。覚えていてくれた。
「おどろいた。ああ、ひさしぶり。元気にしてたか」
うまく言葉がでない。それでも応えようと、必死に笑顔をつくる。
「あのときは勝手に帰ってごめん」
そんなこと。もうどうでもいいのに。
「本当は手料理を食わせてやりたかった。だからつい、手紙に書いちまったんだ。この店に来てくれ、って」
気まずそうに目をそらされる。
「ああ、本当にすまねェ。帰ってから気づいたんだ。あの島からバラティエまでの船なんか存在しねェってことを」
うん。
「だから、こんな、今日みたいな日がくるとは思わなかった。家からここまで、遠かっただろ」
ようやくこちらを向いてくれたので、しっかりと首を左右にふる。彼の表情がくしゃりとゆがんだ。
「気をつかわせちまったな。でも、うれしい。来てくれてありがとう」
笑顔がまぶしい。ここでどうにか声をふりしぼった。
「私のほうこそ。覚えていてくれてありがとう」
「ナマエちゃんのこと、忘れるわけないだろ」
心臓が跳ねてしまう。きっと顔も赤い。ああ、どうしよう。
「いけね。長話しちまった。なにを食いたい?」
メニューひとつひとつをていねいに説明される。「料理長のAランチ」と「副料理長のBランチ」を熱心に勧められた。ここでようやく彼が副料理長なのだと知る。おどろきのあまり、開いた口がふさがらない。
「そんな風に見えなかったか?」
彼の、意地の悪い目つき。声も低くなる。半年前の夜が鮮明によみがえった。じりじりと頬に熱が集まるが、どうにか冷静をよそおう。
「すごく気づかいのできる、やさしいひとだとは思ってた」
「もちろん。レディにも食材にも、おれはいっさい手を抜かねェ」
背筋をのばし、キュッとネクタイを締める。
「腕前は超一流だ。まかせろ」
注文を終えて料理を待つ。テーブルの向かいには大きな窓があり、海がよく見える。景色を楽しんでいると、女性の声が聞こえてきた。
「ねえ、いつうちに来てくれるの」
「ああ、今度行く」
サンジの声。
「今度って、いつ?」
おそるおそる目線だけを向ける。着席する女性に対し、すこし上体をかたむけて目を合わせていた。
「次の買い出しで」
給仕しながら、笑顔を見せている。彼女のほうも機嫌が良さそう。
「約束よ。待ってるから」
きれいなドレス。細くて、白くて。あんな人が街なかを歩いていたら、絶対にふり返ってしまう。
「わるい。約束はできない。許してくれ」
彼女の手をとり、甲へ、そうっと。急に胸がくるしくなる。
「もう、本当に。気まぐれなコックさんね」
約束を断られたというのに、彼女は笑顔を絶やさない。まるで気にしていないかのような。給仕を終えたサンジはテーブルをはなれた。その姿を目で追いかけてしまう。よく見ると、女性客がそれなりに多い。彼はテーブルひとつひとつをまわり、彼女たちにあいさつしていた。
そうか。そうだったんだ。
姿勢を元にもどして海をながめる。今日ひさしぶりに話した内容を思い返す。半年前に一度会っただけの自分を覚えていたのは、彼の特別ではない。ホテルで甘やかしてくれたのも、彼の特別ではない。「店に来て」という誘い文句も、彼の特別ではない。特別ではない。自分は、彼の特別ではなかったのだ。
届いた料理の味もろくに覚えていない。何度か彼が給仕に来たが、感情を隠して笑顔を維持するのに精一杯。食事が終わり、勘定を頼む。やはり彼がテーブルに来てくれた。
「どうだった、料理」
「ごちそうさま。ほんとうに、おいしくて。おいしすぎて何も覚えていないくらい」
思い出と感情が混ざり合い、ひとつひとつの食感と味覚が打ち消されていった。本当に何も思い出せない。
「ああ、よかった。あのランチ、おれの自信作だから」
はにかむような笑顔がまぶしい。あなたのすべてがまぶしい。
「今日は本当に、来てくれてありがとう」
席から立ち上がったので、彼が別れのあいさつを始めた。ここで鞄から一枚のカードを取りだす。
「これ、私の番号」
旅行準備に半年もかかった理由は、この番号。島外の電波もキャッチできる電伝虫は値が張る。「ずっと使えるから買って損はない」と自分を納得させた。サンジへのプレゼントではない。あくまで自分への投資。感情も物も押し付けたくない。ただの数字の羅列。ただの紙切れ。さりげなく、後腐れないように。これが精一杯の行動。
「いいのか! ありがとう」
ごく自然に受け取ってくれた。こんなに喜んでくれた。
「また食べにくるから。サンジも、うちの島に寄ったら教えて」
手をふり、笑顔で店を出る。ちょうど来た定期船に乗り、遠ざかるバラティエを見つめる。つま先が痛い。無理して高めのヒールを履いたから。なぜ無理をしたのだろう。彼の周りには、あんなにきれいな女性ばかりだったのに。
気が乗らなかったが、予約していた観光はすべて巡った。ローグタウンから自宅へ帰ってくる。玄関を開けて、暗い室内に照明を灯す。ベッド上には服が散乱していた。そばには大量の靴箱も。出発するギリギリまで悩んでいたのだ。どんな格好で会えばいいか。どうすれば半年前の自分を思い出してくれるか。
「ほんとうに、バカみたい」
ぷつりと糸が切れたように涙があふれる。旅行先では一滴も流れなかったのに。
「バカだ。自分勝手で、思い上がりで」
服をどかしてベッドに倒れこむ。最初から「サンジに会うためだけの旅行ではない」と何度も自分に言い聞かせていた。だから、手の甲へキスする彼を見たくらいでは動揺するはずがない。半年間貯金したのも、新しいことを始めたかったから。一人旅ってカッコいいし。多くの経験は人生を豊かにしてくれる。そんな、きれいごとばかりで終わりたかった。
旅行から一週間もすれば、生活は日常へもどっていった。ただ、新聞をとるようになり「ローグタウン」や「バラティエ」の文字を探してしまう。理由はわからない。電伝虫の音にも敏感になっていた。理由はわからない。
三週間後。着信音が鳴った。
「はい、もしもし」
「もしもし。ナマエちゃん?」
息がとまる。あやうく電伝虫も落としかけた。
「サンジ?」
「ああ、よかった。つながって」
耳が熱い。流していた音楽をとめて、ソファに座る。見られているわけでもないのに手で髪を整えてしまう。
「どうしたの」
そっけない音になってしまった。
「いま、ちょっと時間いいか? そう長くはならねェが、一応」
「大丈夫。家でゆっくりしていたところ」
心臓が飛びだしそう。体があつい。
「おれ、バラティエをやめて、海へ出ることにした」
いったい、なに、言って、
「ざっくり言うと、海賊になる。海賊船に乗って、海を渡る」
どうしよう。なにか相づちを。
「そうなんだ」
彼が通話越しに笑う。
「こんなこと言われても意味わからねェよな。おれも実は、さっき決めたばかりだ」
「さっき決めた」と言いつつ、声は突き抜けるように明るい。
「おれさ、昔から夢があるんだ。オールブルーって知ってるか?」
おーるぶるー?
「ごめん。よくわからない、かも」
「気にしなくていい。知らなくて当然だ。実際にオールブルーを見たやつはほとんどいねェ。だからおれが見つける」
だんだん声色がはっきりと、力強く。目を合わせていないのに、彼の真剣な表情が見えてくるようで。
「東の海、西の海、北の海、南の海。オールブルーには、四つの海にいる全種類の魚がいる。コックにとって夢のような海だ」
「四つの、ぜんぶ? すごい」
「だろ? ナマエちゃんなら、そう言ってくれると思った」
さらに機嫌の良い声になる。彼が喜ぶような反応ができて、自分もうれしくなる。
「オールブルーは偉大なる航路のどこかにある。だから仲間と一緒に偉大なる航路へ行く」
あたまがまっしろになる。偉大なる航路の入り口がローグタウンの近くにあることは知っていた。だが、そんな危険な真似をする者はほとんどいない。死にに行くようなもの。
「そっか。偉大なる航路に」
「大丈夫だ。おれには強い仲間がいる。もちろんおれも強いが」
なんでそんなに自信たっぷりと。信じられない。仲間。海賊という仲間。どんな人たちだろう。
「だから、しばらくバラティエを留守にする」
しばらく留守、だなんて。そもそも偉大なる航路から無事に帰ってくるなど不可能なのに。
「副料理長が抜ける穴はデカいが、あいつらならうまくやれる。長い付き合いだ」
ようやく、この通話が最初で最後なのだと悟る。
「サンジ。ありがとう」
なぜ礼から始めたのか。頭が混乱している。いろんな話を一気に聞かされてパンクしそう。
「私、サンジからいっぱい、大切なものをもらったの」
彼が静かに聞いてくれるのをいいことに、どんどん言葉があふれてくる。
「あなたに会ってから、いろんなことを始めた。新しいことに挑戦した。失敗もあったけれど、全部後悔はしていない」
あの大旅行もいい思い出になった。泣いたのも、帰った直後の一度きり。それなのに。今また涙腺がゆるんできた。
「だから、サンジも新しいことに挑戦するのがうれしい」
言えた。こころよく送り出そう。彼の勇気ある第一歩を。
「気をつけて。いってらっしゃい」
長い吐息が聞こえてくる。ライター音に、煙を吐く音も。沈黙がつづく。
「おれも。ナマエちゃんに礼を言わなきゃならねェ」
彼の声が低くなる。全神経を耳に集中させた。
「ありがとう。きみとの思い出は、かけがえのない、おれの大切な一部だ」
一筋あふれた。まばたきすれば、また、ポロポロと。
「きみは素敵なレディだ。どうかそのまま、まっすぐでいてくれ」
なにも言えない。鼻をすする音を聞かれたと思うが、気にする余裕もない。
「泣かないで、なんて、都合のいいことは言えねェよな。でも、きみを悲しませるために電伝虫したわけじゃねェ。これだけは信じてほしい」
どこまでもやわらかい音。まるで頭をなでられているみたい。しっかりしなくちゃ。涙をふいて、明るい声を。
「ちがうの。悲しくない。うれし泣きだから」
「わかってる。そういうところだ、ナマエの良いところは」
不意打ちの呼び捨て。耳が熱い。どうしよう。どうしよう。
「私も、サンジの、そういうところが」
好き。
「良いと思ってる、から」
伝える勇気はなかった。これは片想い。
「ありがとう」
言葉は続かない。別れのあいさつをしなければ。
「じゃあ、また。いってらっしゃい」
さようなら、私の大好きなひと。
「ああ、いってくる。じゃあな」
通話が切れた。ソファに座ったまま、クッションを抱えて顔をうめる。たいせつな思い出。たった二度しか会っていない、遠い海の向こうにいたコックさん。これからもっと遠くなる。どうか、彼の乗る船が無事にオールブルーへたどり着けますように。
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