短編つめあわせ
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今日の日に背いて
午前九時三十分。店の奥から椅子をふたつ引っ張りだし、レジ台をテーブル代わりにする。奥のガスコンロで湯を沸かしはじめる。そろそろ彼が来る時間。開店三十分前に一度だけ入り口の扉が開く。仲間の朝食を用意し、昼食の下準備を終えた彼が短期アルバイトのためにここを訪れるのだ。
「おはよう、ナマエちゃん」
彼は用意した椅子に腰を落ち着ける。
「おはようございます、サンジさん」
いつもの挨拶。ポットにお湯を入れて数分後、二人分の紅茶をレジ台へ運ぶ。
「今日のは」
サンジはなかを覗きこんだあと、香りを確かめるようにティーカップを鼻に近づける。開店前のティータイムは彼のテイスティングから始まる。この時間に自分が飲んでいると知った彼が、はやく出勤するようになったのだ。元々の習慣だったので、紅茶を淹れる量が増え、話し相手ができただけ。自分にとって朝のティータイムは何気ない日常だった。
「もう、わかるのでしょう?」
アルバイトを始めて一週間。彼はすっかり店の商品を把握していた。
「多分、セイロンかな」
一口含んだあと、彼が呟く。
「もうひと押し、おねがいします」
うちの商品にセイロンと付くものはふたつある。新米アルバイターには少々難しいかもしれないが、紅茶好きな彼のことだ。きっとわかるはず。
「オレンジペコの方で」
やっぱり。思わず笑みをもらしてしまう。
「大正解」
「よし!」
小さくガッツポーズをつくり、彼は無邪気に笑った。さて。一週間連続で正解したのだから約束だ。
「約束のご褒美、何がいいですか?」
「サンジさん、今日はもう上がってください」
はい、と日当を手渡す。彼は海賊らしいが、どうも所属する一味の財政状況が良くないらしく。一味の財務大臣(という名の女神)から出稼ぎするよう全員に指令が下されたらしい。彼自身はその一味のコックであり、こうして毎日得られる収入から翌日の食費を捻出しているのだとか。夕方、日当を手に彼は商店街へ食料を調達しにいく。この島の記録は一ヶ月。せめて一ヶ月だけでも仲間がストレスなく食べられるよう、彼は今日も働く。ここで貯めたお金で鍵付き冷蔵庫を買うのさ、と語る彼は目を輝かせ生き生きとしていた。
「いつもありがとう、ナマエちゃん」
日当を両手で受けとったサンジはくるりと体を反転させドアノブに手をかける。
「こちらこそ。気をつけて」
「じゃあ、また明日!」
サンジがにかっと笑う。
「また明日」
ナマエは店を出ていく彼に手を振る。サンジもそれに応える。彼はこうして一日の最後にめいっぱい手を振りナマエへ別れを告げる。いつもそうだった。
彼が働きはじめて二週間。一週間連続でテイスティングを正解させた彼は、朝のティータイムは自ら紅茶を淹れたいとナマエに申し出た。淹れ方を教授してほしい、という。
三週間が経った。この島の記録が溜まるまで残り一週間と少し。毎日テイスティングを外さない彼がナマエに願い出た内容は、意外なものだった。
ついに彼が島を離れる日が来た。朝九時三十分。いつものように店の扉が開く。汲みたての水道水をやかんに入れ、コンロで湯を沸かす。今日は彼が教えてくれたクッキーも一緒だ。ナマエはクッキーを皿に盛り、いつものレジ台に置く。しばらくするとサンジが紅茶を運んできた。
「今日で最後だから、聞いていいか」
ティーカップを片手に持った彼の表情は少し強張っていた。
「何でしょう?」
何度か咳払いしたあと、サンジはゆっくりと言葉を紡ぎだしていく。
「あのブレンダーチョイス、ナマエちゃんがブレンドしたやつだろう?」
ナマエは大きく目を見開き、思わず彼を注視する。
「なぜわかったのですか」
そんな。父さんにも、おじいちゃんにも内緒にしていたのに。
「実は、ブレンダーチョイスを他で飲んだことがあるんだ。テラコッタさんというひとに薦められて。どこで手に入れたのか聞いたら、ちょうど針路上の島──この秋島の店で売られている、って」
テラコッタさん。彼が店で働きたいと申し出てきた際に一度だけ聞いた名前。自分だけで経営している店ではないので、彼を雇用していいか祖父に電伝虫で確認したところ、「テラコッタさんの紹介なら」と、ふたつ返事で了承を得られたのだ。祖父と面識あるひとが自分のブレンドを薦めてくれたという事実を知り、恥ずかしさと嬉しさで勝手に頬に熱が集まってしまう。
「この一ヶ月、毎朝紅茶を飲んで気づいた。他の商品はいつ飲んでも同じ味だが、ブレンダーチョイスは飲むたび、わずかに風味が変わる」
「ごめんなさい! 私のブレンド技術が未熟なせいで」
この道一筋のブレンダーである祖父や、茶園を飛びまわり茶葉の状態を知りつくすバイヤーの父に比べれば、自分はただの素人。だからこそ値段を安く設定し、目立たぬようこっそり商品棚の隅に置いていたのだ。
「そんなブレンダーチョイスを飲む朝は、ナマエちゃん、すっげェ嬉しそうなんだ。気づいていたか? ブレンダーチョイスを飲むとき、必ず口の端が少し上がる」
思わず両手で口を隠す。自分のブレンドに酔いしれているみたいで恥ずかしいではないか。
「それだけでも予想できたが、決定打になったのは」
恥ずかしいあまり次の言葉を聞きたくない。それでも目だけは彼の横顔を追いかけてしまう。
「ナマエちゃんの話を聞いて、おじいさんやお父さんを尊敬しているのがよくわかった。そんなふたりがブレンドした紅茶は全部大好きだって話してただろう? だからおれがテイスティングするとき、得意げに答えを待っているが」
彼が目を伏せる。困ったような笑みを浮かべた。
「ブレンダーチョイスの時だけ、少し不安そうな顔をするんだ。尊敬する祖父や父のブレンドを飲ませる時に心配なんて必要ないだろ? だからブレンダーチョイスだけは、そんなふたりが作った紅茶じゃねェだろうと思ったわけさ」
ああ。このひとはすべてお見通しなのだ。
「おっしゃるとおりです。自分の紅茶って、他のひとが飲んだらどう感じるのか、聞いたことないから、不安で」
彼がくしゃりと顔をほころばせた。
「おれはこのブレンダーチョイスが──好きだ。毎回風味が変わるのに飲みやすい。それでいて飽きねェ。こんな紅茶なら毎日飲みたい」
いま膝を抱えて緩みきった顔を伏せたい気持ちでいっぱいだ。初めてブレンドしたものを、一度もテイスティングを外さない彼に評価してもらえた。飛び上がりたいほど嬉しい。
「サンジさん。最後に教えてくださり、ありがとうございます。これで明日からも私、頑張れます」
彼が一度唇を噛む。すぐにやわらかい笑みを浮かべた。
「ああ、それならよかった」
彼が最後の一口を飲み干し「ごちそうさま」とナマエに笑いかける。ゆっくりと立ち上がり扉へ向かった。出航準備は済ませてきたと言っていたので、すぐにでも出発するのだろう。これでお別れだ。
「サンジさん、お元気で」
「ナマエちゃんも。一流ブレンダーになって、おれの元にもナマエちゃんの紅茶が届くように。期待してる」
「もう。そんなにハードルを上げないでください。でも、頑張るので。サンジさんも絶対にオールブルーを見つけてくださいね」
今日一番まぶしい笑顔があふれた。
「ああ、もちろん!」
店を出た彼は大きく手を振り、笑顔でこちらを振り返りながら遠ざかっていく。そう。ここまではいつもどおりだ。彼はもうこの商店街で翌日の食料を調達することはない。明日の朝、この店に来ることもない。ただ、この一ヶ月が特別だったのだ。明日からまたひとりで店を切り盛りする生活に戻るだけ。
彼の姿が見えなくなったあと、残ったティーカップと皿を片付ける。午前九時五十分。さあ、気持ちを切り替えて開店しよう。
店先の通りを誰かが駆けている。よほど急いでいるのだろう。その足音は段々と近づいてきた。急に店の扉が乱暴に押し開けられ、とっさに振り返る。彼が息を切らしながら店内に入ってきた。大股でナマエへ近づく。
「サンジさん! どうしたのですか? なにか忘れも──」
扉の開閉音と遠ざかる足音で我に返る。止まっていた息を吐きだした。酸素を取りこもうと浅く呼吸をくり返す。体が震える。視界がぼやけうまく焦点が合わない。そばの椅子に身を預け、じんじんと痺れる頭を抱えこむ。
いま何が起きた
たったいま目の前にいたのは
煙草の匂いが鼻をくすぐった
金色の髪が目の前で揺れていた
耳元で荒い呼吸音と熱い吐息が
肩も両腕も じんじんと痺れ
背中に腰に 彼の手が
ああ なぜこんなにも体が震えているの
なぜ呼吸が乱れているの
なぜ頭も耳も 肩や腕さえも こんなに痺れているの
なぜこんなにも心臓が脈打っているの
なぜ体が熱いの
なぜ涙が止まらないの
喉がひくついて嗚咽が止まらない
彼の紡ぐ言葉も、仕草も、ティーカップを持つ指先も、さらりと揺れる前髪も、そこから覗く横顔も、大きな背中も。なにもかもすべて彼で侵食されていく。
彼が、あふれだす。
「ナマエちゃんは海に出たいと思ったことねェのか」
「この海のどこかにオールブルーがある。おれはそこへ行く」
「とびきりの紅茶には、とびきりのお菓子が合う」
「このブレンダーチョイスに合うよう考えてみたんだ」
「作り方を教える。だから、これからも一緒に。このブレンダーチョイスと食べてほしい」
ああ そんな
苦しい こんなにも苦しいなんて
彼のことを 彼と過ごした時間を
思い出すだけでこんなに苦しいのに
止められない
ああ
こんなにも──
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