サンジ過去編
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定期市二日目。ときおり真横からパフォーマンスを眺め、カタリにプレッシャーをかけておく。そうすれば必ず夜に文句を言われ、機嫌を悪くする。そこで、売らずに取っておいた商品をチラつかせれば、けろりと対応を変えてくる。すぐに食らいついた。わかりやすい。本当に読みやすくなった。店の待機列をさばくなか、となりの悲鳴くらいは我慢しよう。自分なりの、定期市の楽しみ方を見いだす。
定期市三日間は何事もなく終了した。海軍の警備がよほど強固だったのだろう。最終日は自分が夕めしをつくることに。午後五時。食材を買ってからアパートへ向かう。部屋に入った瞬間、あざやかな色彩に目がくらむ。花束、花束、花束。テーブルだけでなく、キッチン、玄関先にも。壁にもつるしてある。説明を求めるため、ナマエと目を合わせた。
「主催が企画していたんだよ。『百花のマジシャンへ直接花をプレゼントしよう』ってやつ。ショーは今日だけ三回だっただろ? 最後の一回はメインステージでこの企画をやっていた」
だから最後はとなりが空だったのか。メインステージは自分たちから一番遠い場所にある。たしかに向こう側が騒がしかった気もする。
「人数が多いと受け取る時間もかかるから、あらかじめ前日に三十人が選ばれた。だから花も三十束」
あらためて部屋を見まわす。花束は多種多様。ラッピングも凝っている。唯一共通するのは、必ずラベルが付いていること。名前が記されている。メッセージではなく、名前。
「おまえに渡す花束はルールがあるのか」
「まさか。ただ、言葉は花に込めているのだと思う」
意味がわからず、じっと顔を見つめる。ナマエはざっくりと椅子に座った。
「その辺は、あとでゆっくり説明しようか。サンジ、おなかすいた」
ぐっと腹に力を入れてしまう。努めて顔を引き締める。ヘラリとした笑顔を横目にキッチンへ向かった。
ひととおり腹に収めたあと、ようやくナマエが語りだす。花言葉。それぞれの花に象徴的な意味を持たせる文化。主に「恋人の賞賛」や「恋の駆け引き」に使われる。とりあえず浮かんだ疑問を口にした。
「その花言葉は世界共通なのか? みんな、どこで花言葉を覚えるんだ」
指を鳴らし、ナマエが戸棚から一冊取り出す。
「グリーナウェイは偉大だ。かなり古い本だが、これを超える花言葉辞典はいまだ出てこない」
ざっとページをめくってみる。花の名前と花言葉が対となり、一覧化されている。挿絵も可愛らしい。
「みんな、この辞典を参考に花束をつくってくれたんだよ」
ナマエが後方を指差す。うしろを振り返れば花束がひとつ。
「あれはカーネーション。色でも花言葉は変わる。ピンクのカーネーションはあなたを忘れない。となりはチューリップ。これもピンクだから誠実な愛」
ひとつずつ花言葉を説明される。
「さて。問題だ。ここで一番多い花は何かわかるか」
それくらいは。
「バラだろ」
「大正解。バラは本数でも色でも意味が変わる」
立ち上がり、ベッドサイドテーブルの花束を持ってくる。
「これは赤を三本。せっかくだ。その辞典で意味を調べてみろ」
バラのページを開く。たしかに項目が多い。そのまま読み上げていく。
「赤いバラは愛情、美、情熱、ロマンチックな愛。三本のバラはアイ・ラヴ・ユー」
「熱いだろ?」
まぶしい笑顔。妙にうれしそうで、つい自分もうなずいてしまう。
「赤いバラは、たった一本でもしびれるメッセージになる。ワン・ダース──十二本もプロポーズにはもってこいだ」
目の前の花束を手にとる。たった三本でも赤いバラは強烈に感覚を刺激する。深い色合い。どこまでも吸い寄せられ、まばたきすらも忘れる。
「職業柄、たいていの花は手にするし、扱い慣れてきたが、やっぱり赤バラは別格だ。いつまでたっても見慣れる気がしない。香りも病みつきになる」
鼻を近づけてみる。ふう、と気分が落ち着き、体の力が抜ける。やわらかい。さらに近づける。一気に香りが強くなった。くらりと酔いそうになる。視界が赤で埋めつくされるなか、無心で口を動かした。
「おまえの一番は、これなのか」
「花に一番も二番もない。すべてを愛し、すべてを手にしたい。それくらい強欲に生きていくつもりだが、まあ、そうだな」
花束を奪われる。そっと目を閉じ、三本に顔を埋めた。長い沈黙。顔を離し、ぽつりとつぶやく。
“I love you.”
「──シンプルな三つの単語。シンプルで強烈。その三つを三本で表現。こういうのは奥の手にとっておきたい。だから『一番好きな花束』とは答えられない、かな」
もったいぶりやがって。ひねくれている。素直ではない。それでも十分ヒントになる。
「言っておくが、おれが先だ。真似するなよ」
この、上から目線が鼻につく。
「知るか。同じ相手に贈るわけじゃねェだろ。ガキみてェなこと言いやがって」
「おまえは最初からコレで飛ばしそうだからな。ちゃんと順序よく、気持ちを汲んだうえで、最後の決め手に使え」
「わかったわかった。普段はやめとけばいいんだろ」
そもそもバラティエで生花の常備は厳しい。いつそんなイベントが訪れるのか。
「この辞典、気になるか」
思わずナマエと花言葉辞典を交互に見やる。言葉に迷っていると、気味悪いほど歯を見せてきた。
「遠慮するな。持ってけ」
「いや、おれは」
ぐいぐい押し付けられ、仕方なく手にとる。
「これがないと、おまえが困るんじゃねェのか」
「大丈夫。全部頭に入っている」
たしかに使い込まれている。最初からページをめくっていけば、ナマエの解説が始まった。質問を投げれば、さらに声がはずむ。本当にこいつは花が好きなんだな。
「悪い。喋りすぎた」
壁時計を見たナマエがにがい顔をする。時刻は午後十時。キッチンを片付けながら話を聞いていたので、やり残したことはない。おもむろにベッドを見る。あれだけ広ければ、ふたりでもストレスなく眠れる。宿に戻るのも面倒になってきた。
「そうだな。延々と聞かされて宿に帰る気力もねェ」
案の定ナマエはいい顔をしない。
「ごめん」
「言葉だけで済むと思っているのか?」
冗談っぽく、わざとらしく。固まったので、もうひと押ししてみる。ネクタイを外し、靴を脱ぐ。ベッドに倒れ込んだ。
「もう、このまま寝ちまいそうだ」
「おい、サンジ」
腕をとられ、ベッドから起こされそうになる。逆にナマエの手をつかみ、力いっぱい引き込んだ。体のバランスを崩し、自分のうえに倒れこむ。耳元で怒鳴られた。
「何やってんだ!」
「おまえが無理やり起こそうとするからだろ。眠いんだ。静かにしてくれ」
「ここはおれのベッドだ。なんでおまえに──」
「靴は脱げ」
体を丸め、ナマエの足に手を伸ばす。抵抗されるが、どうにか両足を脱がした。すぐにとなりへ転がり、逃げられる。自分は仰向けに、ナマエはうつ伏せに。お互い、顔を横へ向けて目を合わせる。
「本当に、帰れねェのか」
声のトーンが下がる。これは真剣に答えねば。
「三日間全力でやりきった。列をさばくのも体力勝負だからな。全部終わって気が抜けた。すっげェ眠い」
「明日はいつもどおりか」
「朝市で買い出しだ」
「四時に起きるんだな?」
「ああ」
ナマエが目を伏せる。手元のシーツをギュッと握りしめた。これは、なにかを迷っている。
「わかった。今日かぎりだ。好きにしろ」
押し切った。今までかたくなに拒否されていたのに。
「四時に戻る」
言葉を理解するのに数秒を要した。靴を履き、ベッドから立ち上がるのでとっさに引き止める。
「どこへ行く」
「おまえの部屋だ」
ニヤリと歯を見せ、宿の鍵をチラつかせる。また抜かれていた。
「なんでおまえが宿に」
「別にいいだろ。気分転換だ」
玄関に向かうので、どうにか腕をつかむ。
「おい、待て」
こちらを振り返った。宿とは別の鍵を見せてくる。
「ここの鍵も持っていく。おまえは朝四時までここを出られない。よく休め」
急に寄ってくるので思わず後ずさりする。また近づく。さらに後退。胸元を押され、背中からベッドに倒れ込んでしまう。
「宿の主人とは顔見知りだから平気。おやすみ」
背を向けて歩きだす。施錠音。本当に出ていってしまった。
「なんで、あいつが気を遣うんだよ」
寝返りを打つ。宿のベッドよりずっといい。すぐにまぶたが重くなる。どうにか照明を落とし、服を脱ぎ捨てる。おぼれるように意識が沈み込んでいった。
「サンジ、朝だ」
ナマエの声。ぐいと手を伸ばし、腕時計をつかむ。四時すぎ。アラームを忘れていた。どうにか上体を起こす。
「荷物は全部持ってきた」
テーブルに置かれる。バッグのなかから着替えとカミソリを探し、洗面室へ。シャワーを浴び、ようやく目が開いてきた。髭を剃り、髪を乾かす。部屋に戻るがナマエの姿は見当たらない。ベッドがふくらんでいる。寝たのか。とりあえず支度を済ませる。また朝めしづくりに戻ってくるとして、家の鍵はどうしようか。ベッドに乗り、ナマエに近づく。耳元で声をだした。
「いってくる。鍵はどうすればいい」
うっすら目を開き、こちらを見上げる。ベッドサイドテーブルへ手を伸ばした。だが届きそうにない。代わりに鍵をとってやる。渡したはずが、逆に押し付けられた。
「これ、つかって」
掠れた声。半分寝ているのだろう。念のため確認する。
「おれが鍵を持っていっていいんだな?」
目を閉じたまま、こくりとうなずく。
「わかった。七時には戻る」
頭をなでてみる。体を丸め、シーツをかぶってしまった。苦笑しながらベッドを離れる。玄関を施錠し、鍵を内ポケットにしまいこんだ。
六時半。予定より早い。静かに部屋へ上がった。そろり、そろりと歩き、ベッドを確認。まだ寝ている。今から調理すれば起こしてしまうのではないか。下準備のみを済ませ、ベランダに出る。しばらくは朝の街を眺めながら煙草を吹かせた。
「サンジ。戻ってたんだ」
ナマエがベランダに顔を出す。目をこすり、あくびを何度ももらした。こちらに歩いてくるが、肩を押し、ベッドに座らせる。自分もベッドに乗り、ゆっくりと押し倒した。
「できたら起こしてやる。寝とけ」
シーツもかけてやれば、ナマエの目が細くなる。まばたきをくり返し、最後には完全に閉じた。さっそく調理開始。皿に盛ったあと、またベッドに乗り、ナマエの横に腰を下ろす。
「朝めし。できたぞ」
耳元でささやいてみた。声がもれる。掠れた音。吐息まじりに喉を鳴らす。
「今日は用事あるのか」
もう一度耳元で。ようやく目が合った。重いまぶた。枕に顔をこすりつけたあと、両腕を上げ、背をそらし、伸びをする。大きなあくび。
「夕方に、ちょっとだけ」
なるほど。オフなのか。こんなに起き渋る姿は初めて見た。無理に食わせる必要もない。
「いま食えねェなら冷蔵庫に入れておく。どうする」
「だめ。たべる」
伸びをしながら上体を起こした。まだ目は半分閉じている。
「無理するな」
「してない。おなかすいた」
すねた声。スリッパを履き、とてとてと歩き、席につく。
「いただきます」
口に含んだ瞬間、へにゃりと頬がゆるんだ。食が進むにつれ、動きもハキハキしてくる。
「うまいか」
普段はこんな風に聞かない。相手が自然につぶやく感想が一番なのだ。
「うん。おいしい」
やはり朝の反応は桁違い。毎食このくらい気をゆるめればいいのだが。
「昼めしもつくってやろうか。夕方から出るんだろ」
ピタリと固まった。
「でも、時間」
「冷蔵庫のを使っていいなら、すぐできる」
わずかに顔をゆがませる。断られそうな雰囲気なので言葉をかぶせた。
「おれがつくりたいんだ。おれが食わせたい」
肩が跳ねる。少し身も引いた。押しすぎたか。
「サンジは、今日、よく寝れたのか」
途切れがちに音が紡がれる。
「ああ。一回も起きなかった。このベッド、うちにも欲しいくらいだ」
「よかった」
表情がやわらかくなる。
「あのさ。その。今度」
目を伏せ、唇を噛む。待ち望んだ反応。
「昼もいるときは、最初に言うことにする。そのときは頼んでいいか」
今日はお預け。次の昼めしは一泡吹かせてやる。
「まかせろ」
定期市三日間は何事もなく終了した。海軍の警備がよほど強固だったのだろう。最終日は自分が夕めしをつくることに。午後五時。食材を買ってからアパートへ向かう。部屋に入った瞬間、あざやかな色彩に目がくらむ。花束、花束、花束。テーブルだけでなく、キッチン、玄関先にも。壁にもつるしてある。説明を求めるため、ナマエと目を合わせた。
「主催が企画していたんだよ。『百花のマジシャンへ直接花をプレゼントしよう』ってやつ。ショーは今日だけ三回だっただろ? 最後の一回はメインステージでこの企画をやっていた」
だから最後はとなりが空だったのか。メインステージは自分たちから一番遠い場所にある。たしかに向こう側が騒がしかった気もする。
「人数が多いと受け取る時間もかかるから、あらかじめ前日に三十人が選ばれた。だから花も三十束」
あらためて部屋を見まわす。花束は多種多様。ラッピングも凝っている。唯一共通するのは、必ずラベルが付いていること。名前が記されている。メッセージではなく、名前。
「おまえに渡す花束はルールがあるのか」
「まさか。ただ、言葉は花に込めているのだと思う」
意味がわからず、じっと顔を見つめる。ナマエはざっくりと椅子に座った。
「その辺は、あとでゆっくり説明しようか。サンジ、おなかすいた」
ぐっと腹に力を入れてしまう。努めて顔を引き締める。ヘラリとした笑顔を横目にキッチンへ向かった。
ひととおり腹に収めたあと、ようやくナマエが語りだす。花言葉。それぞれの花に象徴的な意味を持たせる文化。主に「恋人の賞賛」や「恋の駆け引き」に使われる。とりあえず浮かんだ疑問を口にした。
「その花言葉は世界共通なのか? みんな、どこで花言葉を覚えるんだ」
指を鳴らし、ナマエが戸棚から一冊取り出す。
「グリーナウェイは偉大だ。かなり古い本だが、これを超える花言葉辞典はいまだ出てこない」
ざっとページをめくってみる。花の名前と花言葉が対となり、一覧化されている。挿絵も可愛らしい。
「みんな、この辞典を参考に花束をつくってくれたんだよ」
ナマエが後方を指差す。うしろを振り返れば花束がひとつ。
「あれはカーネーション。色でも花言葉は変わる。ピンクのカーネーションはあなたを忘れない。となりはチューリップ。これもピンクだから誠実な愛」
ひとつずつ花言葉を説明される。
「さて。問題だ。ここで一番多い花は何かわかるか」
それくらいは。
「バラだろ」
「大正解。バラは本数でも色でも意味が変わる」
立ち上がり、ベッドサイドテーブルの花束を持ってくる。
「これは赤を三本。せっかくだ。その辞典で意味を調べてみろ」
バラのページを開く。たしかに項目が多い。そのまま読み上げていく。
「赤いバラは愛情、美、情熱、ロマンチックな愛。三本のバラはアイ・ラヴ・ユー」
「熱いだろ?」
まぶしい笑顔。妙にうれしそうで、つい自分もうなずいてしまう。
「赤いバラは、たった一本でもしびれるメッセージになる。ワン・ダース──十二本もプロポーズにはもってこいだ」
目の前の花束を手にとる。たった三本でも赤いバラは強烈に感覚を刺激する。深い色合い。どこまでも吸い寄せられ、まばたきすらも忘れる。
「職業柄、たいていの花は手にするし、扱い慣れてきたが、やっぱり赤バラは別格だ。いつまでたっても見慣れる気がしない。香りも病みつきになる」
鼻を近づけてみる。ふう、と気分が落ち着き、体の力が抜ける。やわらかい。さらに近づける。一気に香りが強くなった。くらりと酔いそうになる。視界が赤で埋めつくされるなか、無心で口を動かした。
「おまえの一番は、これなのか」
「花に一番も二番もない。すべてを愛し、すべてを手にしたい。それくらい強欲に生きていくつもりだが、まあ、そうだな」
花束を奪われる。そっと目を閉じ、三本に顔を埋めた。長い沈黙。顔を離し、ぽつりとつぶやく。
“I love you.”
「──シンプルな三つの単語。シンプルで強烈。その三つを三本で表現。こういうのは奥の手にとっておきたい。だから『一番好きな花束』とは答えられない、かな」
もったいぶりやがって。ひねくれている。素直ではない。それでも十分ヒントになる。
「言っておくが、おれが先だ。真似するなよ」
この、上から目線が鼻につく。
「知るか。同じ相手に贈るわけじゃねェだろ。ガキみてェなこと言いやがって」
「おまえは最初からコレで飛ばしそうだからな。ちゃんと順序よく、気持ちを汲んだうえで、最後の決め手に使え」
「わかったわかった。普段はやめとけばいいんだろ」
そもそもバラティエで生花の常備は厳しい。いつそんなイベントが訪れるのか。
「この辞典、気になるか」
思わずナマエと花言葉辞典を交互に見やる。言葉に迷っていると、気味悪いほど歯を見せてきた。
「遠慮するな。持ってけ」
「いや、おれは」
ぐいぐい押し付けられ、仕方なく手にとる。
「これがないと、おまえが困るんじゃねェのか」
「大丈夫。全部頭に入っている」
たしかに使い込まれている。最初からページをめくっていけば、ナマエの解説が始まった。質問を投げれば、さらに声がはずむ。本当にこいつは花が好きなんだな。
「悪い。喋りすぎた」
壁時計を見たナマエがにがい顔をする。時刻は午後十時。キッチンを片付けながら話を聞いていたので、やり残したことはない。おもむろにベッドを見る。あれだけ広ければ、ふたりでもストレスなく眠れる。宿に戻るのも面倒になってきた。
「そうだな。延々と聞かされて宿に帰る気力もねェ」
案の定ナマエはいい顔をしない。
「ごめん」
「言葉だけで済むと思っているのか?」
冗談っぽく、わざとらしく。固まったので、もうひと押ししてみる。ネクタイを外し、靴を脱ぐ。ベッドに倒れ込んだ。
「もう、このまま寝ちまいそうだ」
「おい、サンジ」
腕をとられ、ベッドから起こされそうになる。逆にナマエの手をつかみ、力いっぱい引き込んだ。体のバランスを崩し、自分のうえに倒れこむ。耳元で怒鳴られた。
「何やってんだ!」
「おまえが無理やり起こそうとするからだろ。眠いんだ。静かにしてくれ」
「ここはおれのベッドだ。なんでおまえに──」
「靴は脱げ」
体を丸め、ナマエの足に手を伸ばす。抵抗されるが、どうにか両足を脱がした。すぐにとなりへ転がり、逃げられる。自分は仰向けに、ナマエはうつ伏せに。お互い、顔を横へ向けて目を合わせる。
「本当に、帰れねェのか」
声のトーンが下がる。これは真剣に答えねば。
「三日間全力でやりきった。列をさばくのも体力勝負だからな。全部終わって気が抜けた。すっげェ眠い」
「明日はいつもどおりか」
「朝市で買い出しだ」
「四時に起きるんだな?」
「ああ」
ナマエが目を伏せる。手元のシーツをギュッと握りしめた。これは、なにかを迷っている。
「わかった。今日かぎりだ。好きにしろ」
押し切った。今までかたくなに拒否されていたのに。
「四時に戻る」
言葉を理解するのに数秒を要した。靴を履き、ベッドから立ち上がるのでとっさに引き止める。
「どこへ行く」
「おまえの部屋だ」
ニヤリと歯を見せ、宿の鍵をチラつかせる。また抜かれていた。
「なんでおまえが宿に」
「別にいいだろ。気分転換だ」
玄関に向かうので、どうにか腕をつかむ。
「おい、待て」
こちらを振り返った。宿とは別の鍵を見せてくる。
「ここの鍵も持っていく。おまえは朝四時までここを出られない。よく休め」
急に寄ってくるので思わず後ずさりする。また近づく。さらに後退。胸元を押され、背中からベッドに倒れ込んでしまう。
「宿の主人とは顔見知りだから平気。おやすみ」
背を向けて歩きだす。施錠音。本当に出ていってしまった。
「なんで、あいつが気を遣うんだよ」
寝返りを打つ。宿のベッドよりずっといい。すぐにまぶたが重くなる。どうにか照明を落とし、服を脱ぎ捨てる。おぼれるように意識が沈み込んでいった。
「サンジ、朝だ」
ナマエの声。ぐいと手を伸ばし、腕時計をつかむ。四時すぎ。アラームを忘れていた。どうにか上体を起こす。
「荷物は全部持ってきた」
テーブルに置かれる。バッグのなかから着替えとカミソリを探し、洗面室へ。シャワーを浴び、ようやく目が開いてきた。髭を剃り、髪を乾かす。部屋に戻るがナマエの姿は見当たらない。ベッドがふくらんでいる。寝たのか。とりあえず支度を済ませる。また朝めしづくりに戻ってくるとして、家の鍵はどうしようか。ベッドに乗り、ナマエに近づく。耳元で声をだした。
「いってくる。鍵はどうすればいい」
うっすら目を開き、こちらを見上げる。ベッドサイドテーブルへ手を伸ばした。だが届きそうにない。代わりに鍵をとってやる。渡したはずが、逆に押し付けられた。
「これ、つかって」
掠れた声。半分寝ているのだろう。念のため確認する。
「おれが鍵を持っていっていいんだな?」
目を閉じたまま、こくりとうなずく。
「わかった。七時には戻る」
頭をなでてみる。体を丸め、シーツをかぶってしまった。苦笑しながらベッドを離れる。玄関を施錠し、鍵を内ポケットにしまいこんだ。
六時半。予定より早い。静かに部屋へ上がった。そろり、そろりと歩き、ベッドを確認。まだ寝ている。今から調理すれば起こしてしまうのではないか。下準備のみを済ませ、ベランダに出る。しばらくは朝の街を眺めながら煙草を吹かせた。
「サンジ。戻ってたんだ」
ナマエがベランダに顔を出す。目をこすり、あくびを何度ももらした。こちらに歩いてくるが、肩を押し、ベッドに座らせる。自分もベッドに乗り、ゆっくりと押し倒した。
「できたら起こしてやる。寝とけ」
シーツもかけてやれば、ナマエの目が細くなる。まばたきをくり返し、最後には完全に閉じた。さっそく調理開始。皿に盛ったあと、またベッドに乗り、ナマエの横に腰を下ろす。
「朝めし。できたぞ」
耳元でささやいてみた。声がもれる。掠れた音。吐息まじりに喉を鳴らす。
「今日は用事あるのか」
もう一度耳元で。ようやく目が合った。重いまぶた。枕に顔をこすりつけたあと、両腕を上げ、背をそらし、伸びをする。大きなあくび。
「夕方に、ちょっとだけ」
なるほど。オフなのか。こんなに起き渋る姿は初めて見た。無理に食わせる必要もない。
「いま食えねェなら冷蔵庫に入れておく。どうする」
「だめ。たべる」
伸びをしながら上体を起こした。まだ目は半分閉じている。
「無理するな」
「してない。おなかすいた」
すねた声。スリッパを履き、とてとてと歩き、席につく。
「いただきます」
口に含んだ瞬間、へにゃりと頬がゆるんだ。食が進むにつれ、動きもハキハキしてくる。
「うまいか」
普段はこんな風に聞かない。相手が自然につぶやく感想が一番なのだ。
「うん。おいしい」
やはり朝の反応は桁違い。毎食このくらい気をゆるめればいいのだが。
「昼めしもつくってやろうか。夕方から出るんだろ」
ピタリと固まった。
「でも、時間」
「冷蔵庫のを使っていいなら、すぐできる」
わずかに顔をゆがませる。断られそうな雰囲気なので言葉をかぶせた。
「おれがつくりたいんだ。おれが食わせたい」
肩が跳ねる。少し身も引いた。押しすぎたか。
「サンジは、今日、よく寝れたのか」
途切れがちに音が紡がれる。
「ああ。一回も起きなかった。このベッド、うちにも欲しいくらいだ」
「よかった」
表情がやわらかくなる。
「あのさ。その。今度」
目を伏せ、唇を噛む。待ち望んだ反応。
「昼もいるときは、最初に言うことにする。そのときは頼んでいいか」
今日はお預け。次の昼めしは一泡吹かせてやる。
「まかせろ」