サンジ過去編
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あのときも同じような席から舞台を眺めていた。王族として教養の一環。そんな芸術鑑賞も、しだいに回数が減っていく。三人はこの時間を毛嫌いしていたからだ。喜劇は好きだが悲劇は激しく嫌悪する。のちに、血統因子操作で感情が欠落していると知り、すべてのつじつまが合う。唯一、長女だけが楽器演奏さえも器用にこなしていた。
あらためて、となりのナマエを盗み見る。今日の演目は悲劇。舞台で笑いを誘うやりとり。ナマエも頬をゆるめる。つかの間のダンスシーン、軽やかなワルツ。ナマエも口元が笑っている。緊迫した戦闘シーン。拳を強く握り、じっと舞台を見つめる。恋人が刺された瞬間、苦々しく目を細める。自分と同じように喜び、驚き、悲しみ、楽しんでいた。この演目を味わえるほど感情に幅がある。そんなことは最初からわかっていた。客を喜ばせることを第一に考えるパフォーマーが、感情豊かでないはずがない。なぜ疑ったのか。嫌な記憶がよみがえったせいだ。もう忘れよう。
右目がチラつく。まぶしい。とっさに目を閉じる。なんだ、今のは。またチラつく。光源を探せば、反対側の二階ボックス席へ行き着く。今は舞台が明るいので客席も十分に視認できた。手鏡で光を反射させている。美しい女性。あのボックス席は相当高いはず。目が合った。扇子を開いて顔を隠す。少しずつ扇子を下げていき顔を見せる。自分を見つめたまま、ふわりと、ほほえんだ。息がとまる。まばたきも忘れた。彼女が口を動かしている。何と言っているのだろう。きっと自分へのメッセージだ。どこまでも深いまなざしで見つめられる。軽く首も傾げた。ああ、どうしようか。なにか、こちらからもメッセージを。
そうか。今日さんざん練習した。口角だけを上げ、笑っているかいないか、微妙なラインを。彼女がうれしそうに両手で口元を隠した。大成功だ。舞い上がってしまいそうになるが、努めて顔を引き締めた。彼女が小さく手を振る。自分もそっと振り返す。同時に拍手が沸き起こる。演目が終了したのだ。とっさに自分も舞台を見下ろし、拍手を送る。舞台最前列で深く頭を下げたのがプリマドンナ。たしかに可愛らしい。
「おまえ、やっぱり見る目があるじゃねェか」
もう終了したのだ。耳打ちくらいはいいだろう。ナマエも舞台を見ながら答える。
「今日は特によかった。喉の調子もいい」
プリマドンナがこちらを見上げる。目が合った。やわらかく、頬をとろけさせ、
「おい。目が合った。こっちを見たぞ」
「いや。おれだ。おれを見ているんだ」
となりを振り返る時間も惜しい。彼女が見てくれるかぎり、自分も口元をゆるめ、必死に目でアピールした。今日は最高にキマっているはず。顔を覚えてもらうチャンスだ。そんな努力もむなしく、幕は下りてしまう。ホールも明るくなった。ナマエが立ち上がるので、渋々自分も重い腰を上げる。
「今のは絶対におれだ」
「調子に乗るな。常連客を舐めるなよ」
ガミガミ言い合っているうちに自分たちの豚車へ戻ってきていた。ふたりが乗りこみ、御者が扉を閉めていく。途中、男がひとり駆け寄ってきた。
「手紙を届けに参りました。マダム・ソワールから、貴方様へ」
自分と目を合わせ、封筒を差し出してくる。だがナマエの手に阻まれた。
「受け取るな」
きつい口調。とにかく状況を整理したい。謎の男に問いかける。
「これは、おれ宛なんだな?」
「はい。マダムは、たしかに貴方様へ、と」
「やめろ。やめるんだ」
またナマエが会話に割り込んでくる。マダムが誰なのか、おおよそ予想はできた。終了間際にアイコンタクトをとった、あの麗しい女性。こちらがほほえむと、うれしそうに両手で口元を隠した。可愛らしく首も傾げてくれた。たかが手紙一通。拒む理由はない。
「これはおれへの手紙だ。てめェが口を挟む筋合いはない」
「たのむ。おれの言うことを聞いてくれ」
ナマエが顔をゆがませた瞬間、決意が揺らぎそうになるも、手紙を受け取る。男は深く頭を下げたあと、この場を離れた。すぐに豚車が動きだす。
「おまえ、マダム・ソワールと目を合わせたのか」
なぜわかった。
「しかも彼女に笑ったんだな?」
この、知ったような口の利き方。
「ああ、そうだ。おまえもマダムを知っているのか」
目が合う。力ない瞳を向けられ、つい片眉を上げてしまう。
「あの劇場では、ちょっとした有名人だ。本名はわからない。年齢も不明。通称夜の貴婦人。──最初、あのボックスは空だったのに」
額に手をあてがい、そっと息をつく。この反応は異常だ。とりあえず渡された封筒を開ける。
今夜九時に中央広場でお待ちしております
たった一行。自分はマダムに誘われた、ということか。ナマエに手紙をのぞかれる。
「これはどういう意味だ」
「マダムは鑑賞中にアイコンタクトをとってくる。そこでマダムに笑いかければ誘いに応じたとみなされる。帰り際に手紙が届き、待ち合わせ場所を指定される。手紙の受け取りが最終確認だ。もうマダムの誘いは断れない」
腕時計を確認。待ち合わせ時間まで三十分しかない。
「はっきり言うぞ。おまえは今夜、マダムに買われる」
ナマエの言葉を理解できない。
「これは決定事項だ。おまえはマダムが出す金を拒否できない。彼女の要求を断れない」
なぜ知っている。どうしてそんなに詳しいのだ。
「今から一番重要なことを話す。絶対に名前を教えるな。名前さえ教えなければ、必ず帰してもらえる。一晩だけの付き合いで終わる」
つまり、名前を教えてしまうと帰れない。
「とにかく一度マダムを満足させろ。おまえは明日、定期市がある。朝早くから仕込みもするんだろ?」
定期市は十時から。二時間前には設営を完了させ、その場で準備する。
「切り上げるのは早ければ早い方がいい。どうしても断りにくいなら『連れが心配していた』とでも言え」
やはり、ふたりは面識があるのでは。
「おまえも誘われたことがあるのか」
一瞬の沈黙。
「少なくとも、マダムはおれの名前を知らない」
完全な答えを得られそうにないので、次の質問に移る。
「マダムの家はどこにある」
「さあな。もちろん、今から中央広場に行けば豚車あたりが待っている。乗っているあいだは目隠しでもされるはずだ。おそらく劇場方面と同じ、丘の上だろう。彼女は金にまったく困っていない、貴族のようなものだ」
まあ、そうだろうな。男を買うマダム。未亡人か。
「もう一度言うぞ。名前は教えるな。とにかくマダムを満足させろ。金も拒否できない。時間を忘れるな。──はやく戻ってこい」
ジャケットの内側から何かを取り出す。コームだ。手に何かを塗り、こちらの髪にすりつける。
「もう少し髪を寝かせておく。マダムの前で髪を崩すなよ? 一生帰れなくなるぞ」
「それ以上崩すのは、本気で女を落とす時だけにしろ。目に毒だ」
「なんで持ってきた」
これだけで伝わるはず。
「ワックスは崩れやすいからな。見せる相手はちゃんと選べ」
照明のない車内は暗い。それでもこいつは迷いなく髪を押さえつけ、コームを使いこなす。
「これで数時間は持つ。激しい運動はほどほどにしとけ」
豚車が止まった。扉が開く。夜八時五十分の中央広場。
「はやく、戻ってこい」
そっと背中を押され、地面に足をつける。振り返り、目を合わせる。にがい笑顔。すぐに扉は閉じた。豚車が完全に見えなくなるまで。ひたすら目で追いかけた。しばらくすると猫車が目の前で止まる。手紙を渡した男が御者台から降りてきた。
「お迎えにあがりました。マダムがお待ちです」
ナマエの言ったとおり、目隠しされて十分以上猫車に揺られる。降りた後も、男が引く紐をつかみ、屋内を進む。ようやく視界が戻った。目の前には扉。意を決して押し開く。食卓にひとり。彼女がマダム。椅子から立ち上がり、こちらに歩み寄る。
「まだ、夕食は召し上がられていないと思いまして」
笑みを浮かべ、角の席へ誘導される。彼女も斜め向かいに座った。召使いがシャンパンを注ぐ。乾杯が始まる前に話を。
「今日、一日が終わる頃には許しを願いたい」
条件さえ守れば、話のわかる相手のはず。わずかに目を見開き、ゆるりと細くなる。食卓のろうそくが髪飾りを、首元の装飾を照らす。その唇に目を奪われ、唯一肌がのぞく胸元から必死に意識をそらす。部屋に焚かれた香がじわり、じわりと理性をかき乱す。ここ数時間、なにも口にしていない。喉が渇いた。無心に食らいつきたい。この飢えた身体をひたし、沈みこませ、うるおす場所を探していた。彼女から目が離せない。
「あなたに負担をかけたくない。ご心配なさらず。今日だけ。あと三時間。わたくしの話し相手になってくださりますか」
具体的な時刻を聞きだせた。一気に肩の荷が下りる。力なく笑いかければ、彼女がグラスを掲げた。話し相手とは。三時間も食卓を囲うのか。すでに自分は、飢えを満たそうと頭を働かせていた。この三時間くらいは心地よい夢を。快楽を。教わった「口元の微笑」を再現し、自分もグラスを手にとった。
アパートにたどり着く。手元の腕時計は午前零時二十分。降ろされた中央広場から歩いてきた。五階へ上がり、いつものように扉を叩く。すぐに開いた。まだスーツを着ている。自分を待っていたのか。ひでェ顔だ。
「サンジ。おまえ」
「ただいま」
ゆがんだ顔を横目に、部屋へ入る。とにかく煙草だ。ベランダに出て、六時間ぶりに吸う。
「おまえ、大丈夫なのか」
となりにやってくるが、あえて振り返らない。
「何がだ」
「だから、その。無事なのか? たとえば、変なことを吹き込まれたとか、毒でも盛られたとか」
吹き込まれた。これでもかと盛られ、吸収した。忘れられないほど強烈に叩き込まれた。
「そんなことを聞いてどうする」
気だるげに返せば、きつい口調になる。
「おれは心配しているんだ。ちょっと顔を見せてみろ」
どうも反応する気分ではない。無視して煙を吹かせていれば、煙草を抜き取られる。内ポケットの携帯灰皿に突っ込まれた。そのまま腕を引かれ、室内に戻る。椅子に座らされ、診察のようなものが始まった。眼球の動き、口内、脈をはかり、手足のしびれの有無を確認される。
「見たかぎり、ただの酔っぱらいだが」
「アルコールはとっくの昔に抜けた」
腕を組み、こちらを見下ろしてくる。冷蔵庫から瓶を持ってきた。
「もう少し水を飲んでおけ。ほら」
開封し、こちらに手渡す。仕方なく口をつけた。冷えたミネラルウォーター。飲みながらボタンを外し、ジャケットを脱ぐ。蝶ネクタイもとった。聞くなら今しかない。
「おまえ、セシルちゃんをどうしたいんだ」
向かいに座ったナマエは目を丸くさせた。
「マダムに、何を、言われた」
プリマドンナ、セシル。彼女の想い人が誰なのか。先ほどの舞台で、誰のために歌ったか。
「おまえもセシルちゃんの気持ちをわかっているんだろ。なぜ応えてやらない」
ふたりの想いは通じ合っているではないか。なぜ進まない。
「知った口を聞くな。これはおれの問題だ。放っといてくれ」
「セシルはマジシャンカタリの正体を知っている。三番ボックスの青年が誰なのか知っているのよ。プリマドンナになる前からの、古い付き合いみたい」
「このままでいいのか。いま動かねェと後悔するぞ」
「サンジ」
テーブルに乗せている拳を強く握る。目を伏せた。これは、なにかを打ち明けようとする前ぶれ。
「セシルとおれは、お互い、今の関係を望んでいる。これでいいんだ」
仮に今の話が事実ならば、マダムの言っていたあれは、
「おまえは今まで、本気で女性を愛したことがあるのか」
「どうしたんだ、いきなり」
「イエスかノー。たった二択だ。それくらい言えるだろ」
「じゃあ聞くが、おまえもそういう経験があるのか」
経験。本気の、経験。
「ほら、言えねェだろ。そういう、墓穴を掘るような質問はやめておけ。お互いのためにならない」
ちがう。そういう話に持っていきたいのではない。だが、どう切り出せばいい。
「彼が、誰かを連れてくるなんて初めてよ。それも、とびきりセクシーな男の子。男でも女でも、あなたを放っておかない。わたくしが彼の立場なら、あなたを大事に大事にする。他の女になびかないよう甘やかして、自分しか見えないようにする」
あいつは男だ。
「そんなこと、どうでもいいでしょう。相手が男だなんて、ほんのささいな個性。ひとは誰でも愛し合える。性別にとらわれる人生なんて、もったいないわ」
マダムの言葉が頭から離れない。考えたこともなかった。
「とにかく、無事でよかった。明日も早いんだろ。他に聞きたいことがあるなら、今度いくらでも答えてやる。今日はもう寝ろ」
立ち上がらされ、背を押される。すぐに玄関へたどり着いた。宿はとってある。ここからそう遠くない。こいつも場所を知っている。
「だるい。慣れねェ髪を維持するのに苦労した」
ナマエに背を向けたまま、自身の頭へ手を伸ばす。指を食いこませ、雑に髪を乱した。先ほどベッドで汗をかいたこともあり、容易に前髪が垂れる。今まで固まっていたのが奇跡なくらいだ。
「髪を洗い流したい。風呂、貸してくれ」
ゆっくりと振り返る。目が合うも、頭から足先までじろじろ見まわされ、最後に深く息をついた。
「なに言ってんだ、この酔っぱらい。おまえの宿はすぐそこだ。帰ってから風呂に入れ」
まったく動じない。この髪型をマダムに見られないよう、必死に努力したのに。効果なしか。無性に腹が立ち、一歩近づく。腕をつかみ、後退を阻止。なぜセシルとの関係を進めない。なぜ花街の上客をやっている。もし、女が本気でないなら、
「がんばって三時間で戻ってきたんだ。向こうでシャワーを浴びる余裕もなかった」
「だろうな。酒と煙草と女のにおいがプンプンする」
距離を縮めても反応なし。それどころか、近づくほど瞳は冷めていく。
「サンジ。はやく寝ろ。もう一時だ」
「ナマエ」
どうすれば反応する。何を言えば。
「ナマエ」
腰から背中へ。手を伸ばし、抱き込もうとした瞬間、体が浮いた。
「マダムに毒されすぎだ。頭を冷やせ」
担ぎ上げられ、玄関を出る。ナマエが駆けだした。五階から飛び下り、地面を蹴る。速い。宿に入り、階段を上がる。いつのまにか部屋の鍵も奪われていた。扉が開き、ようやく体を降ろされる。一瞬のできごとだった。
「ちゃんと鍵は締めろよ。おやすみ」
姿が消え、扉が閉まる。一気に熱が下がった。足を引きずり、服を脱ぎ捨て、シャワーを頭から被る。先ほどのやりとりを努めて頭から振り払う。無心でベッドへ沈み込んだ。
朝五時半。体が重い。いつもの買い出しより遅い時間に市場を訪れる。二人分の食材を確保。アパート五階に上がり、玄関前に来たところで昨晩のやりとりがフラッシュバックする。今さら引き返すのもかっこわるい。ノックすれば、眠そうな顔で出てきた。
「おはよう、サンジ」
部屋に通され、ジャケットを脱ぐ。さっそく朝食作りにとりかかった。特に会話も変わらない。自分も平静を装った。昨日こいつに言われたとおり、きっとマダムに毒されたのだ。なぜあんなに突っかかったのか。なぜあんな行動に出たのか。これ以上考えるのはやめよう。皿をテーブルに並べ、腰を落ち着けたところで、ようやく香りに気づく。花瓶に花束。淡い色合い。この花は何だったか。
「昨日、あったか?」
「髪を整えていた時には飾っていた」
朝めしを頬張るナマエはいつもと変わらない。おいしそうに食すのも見慣れた光景。
「もらったのか」
「おれが買ってきた。三日以上ローグタウンにいるときは飾るようにしている」
三日。
「そうか。バラティエは海のどまんなかだから、生花は飾らねェもんな。こういう切り花の寿命は最短三日だ。それ以上長持ちするかは、花の種類によって変わる。家を空けるときが多いから、毎日は飾れない」
「そんなに好きだったのか」
「当たり前だろ。おれは百花のマジシャンだ。花を知り尽くし、花を操る。普段から本物にふれておかないと」
本物か。つまり、マジックの花は偽物。
「時間は大丈夫なのか」
手元の腕時計を確認。六時半。
「八時に食材が届く。それまでに設営を終わらせる。七時には出るつもりだ」
「そうか」
お互い、ちょうど食べ終えた。コーヒーを淹れてやり、席につく。ナマエは目を伏せていた。長い沈黙。今はじっと待つべきだ。
「昨日は悪かった。いろいろ、おまえを巻き込んで」
こいつもマダムの件は誤算だったはず。結局、三時間きっちりで帰してもらえたし、本当に金も押し付けられた。不思議な女性だ。情を引きずらないためにも、金で体を買い、その場かぎりの関係と割り切る。自分も同じような夜を過ごすが、現金を渡したことはない。彼女には「あなたはそこまでしなくていい」と笑われた。こちらの素性は探られなかったが、ナマエとの関係はかなり攻め込まれた。観劇中、となりのナマエを盗み見ていたのもバレていたのだ。むしろ、それが自分を誘うきっかけだった。
「なぜ彼を見ていたの」
いや、特に意味はない。
「それに、始まる前はあんなに顔が赤かった。彼に何を言われたの」
最初から見ていたのか。別に。あいつは、なにも。
「無意識で赤くなったの? 無意識で見つめていたの?」
ちがう。そんなつもりは、
「そう。無邪気ってこわいわね」
「サンジ?」
意識が引き戻される。肩まではねてしまった。たしか今はナマエの話を聞いていたはず。
「いや、何もない。おれこそ、勝手に突っ込んでいっちまった。もう昨日のことは気にするな。おれはただ、おまえにとことん付き合っただけだ」
まだ表情は暗い。どうにか元気づけなければ。
「おれは楽しかった。おまえはどうなんだ」
「おれは。おれは、まあ、楽しかったことは楽しかったが。同じ遊びは、もうこりごりかな」
くしゃりと苦笑い。少し空気が和らいだ。
「おれもしばらくは遠慮する」
できれば今後マダムとは顔を合わせたくない。次に同じ質問をされたら、どう答えるか。
「スーツだけは一緒に買うのも悪くないけどな」
そんなに気に入っていたとは。
「まあな。おまえの意見も聞いてやらないことはない」
今度は自分が数字を並べていく。符号を入れ替えれば、自分から見たナマエのサイズがわかる。
「サンジが覚える必要ねェだろ」
なぜそんなに機嫌を悪くするのだ。今度、シャツくらいは選んでやろうかと思っていたのに。
「おまえが忘れたときのバックアップだ」
噛みつかれるまえに席を立つ。食器を洗い、ジャケットを手にとった。そろそろ七時。玄関まで付いてくるので、うしろを振り返る。
「いってくる」
理由なく、いたずらにつぶやく。海上のホームがバラティエなら、陸のホームはここ。なんとなく、気分的に。
「ああ。おれもあとで行く」
期待した言葉ではないが、機嫌が戻ったので良しとする。アパートを出た頃には、寝起きの気だるさは完全に消えていた。
あらためて、となりのナマエを盗み見る。今日の演目は悲劇。舞台で笑いを誘うやりとり。ナマエも頬をゆるめる。つかの間のダンスシーン、軽やかなワルツ。ナマエも口元が笑っている。緊迫した戦闘シーン。拳を強く握り、じっと舞台を見つめる。恋人が刺された瞬間、苦々しく目を細める。自分と同じように喜び、驚き、悲しみ、楽しんでいた。この演目を味わえるほど感情に幅がある。そんなことは最初からわかっていた。客を喜ばせることを第一に考えるパフォーマーが、感情豊かでないはずがない。なぜ疑ったのか。嫌な記憶がよみがえったせいだ。もう忘れよう。
右目がチラつく。まぶしい。とっさに目を閉じる。なんだ、今のは。またチラつく。光源を探せば、反対側の二階ボックス席へ行き着く。今は舞台が明るいので客席も十分に視認できた。手鏡で光を反射させている。美しい女性。あのボックス席は相当高いはず。目が合った。扇子を開いて顔を隠す。少しずつ扇子を下げていき顔を見せる。自分を見つめたまま、ふわりと、ほほえんだ。息がとまる。まばたきも忘れた。彼女が口を動かしている。何と言っているのだろう。きっと自分へのメッセージだ。どこまでも深いまなざしで見つめられる。軽く首も傾げた。ああ、どうしようか。なにか、こちらからもメッセージを。
そうか。今日さんざん練習した。口角だけを上げ、笑っているかいないか、微妙なラインを。彼女がうれしそうに両手で口元を隠した。大成功だ。舞い上がってしまいそうになるが、努めて顔を引き締めた。彼女が小さく手を振る。自分もそっと振り返す。同時に拍手が沸き起こる。演目が終了したのだ。とっさに自分も舞台を見下ろし、拍手を送る。舞台最前列で深く頭を下げたのがプリマドンナ。たしかに可愛らしい。
「おまえ、やっぱり見る目があるじゃねェか」
もう終了したのだ。耳打ちくらいはいいだろう。ナマエも舞台を見ながら答える。
「今日は特によかった。喉の調子もいい」
プリマドンナがこちらを見上げる。目が合った。やわらかく、頬をとろけさせ、
「おい。目が合った。こっちを見たぞ」
「いや。おれだ。おれを見ているんだ」
となりを振り返る時間も惜しい。彼女が見てくれるかぎり、自分も口元をゆるめ、必死に目でアピールした。今日は最高にキマっているはず。顔を覚えてもらうチャンスだ。そんな努力もむなしく、幕は下りてしまう。ホールも明るくなった。ナマエが立ち上がるので、渋々自分も重い腰を上げる。
「今のは絶対におれだ」
「調子に乗るな。常連客を舐めるなよ」
ガミガミ言い合っているうちに自分たちの豚車へ戻ってきていた。ふたりが乗りこみ、御者が扉を閉めていく。途中、男がひとり駆け寄ってきた。
「手紙を届けに参りました。マダム・ソワールから、貴方様へ」
自分と目を合わせ、封筒を差し出してくる。だがナマエの手に阻まれた。
「受け取るな」
きつい口調。とにかく状況を整理したい。謎の男に問いかける。
「これは、おれ宛なんだな?」
「はい。マダムは、たしかに貴方様へ、と」
「やめろ。やめるんだ」
またナマエが会話に割り込んでくる。マダムが誰なのか、おおよそ予想はできた。終了間際にアイコンタクトをとった、あの麗しい女性。こちらがほほえむと、うれしそうに両手で口元を隠した。可愛らしく首も傾げてくれた。たかが手紙一通。拒む理由はない。
「これはおれへの手紙だ。てめェが口を挟む筋合いはない」
「たのむ。おれの言うことを聞いてくれ」
ナマエが顔をゆがませた瞬間、決意が揺らぎそうになるも、手紙を受け取る。男は深く頭を下げたあと、この場を離れた。すぐに豚車が動きだす。
「おまえ、マダム・ソワールと目を合わせたのか」
なぜわかった。
「しかも彼女に笑ったんだな?」
この、知ったような口の利き方。
「ああ、そうだ。おまえもマダムを知っているのか」
目が合う。力ない瞳を向けられ、つい片眉を上げてしまう。
「あの劇場では、ちょっとした有名人だ。本名はわからない。年齢も不明。通称夜の貴婦人。──最初、あのボックスは空だったのに」
額に手をあてがい、そっと息をつく。この反応は異常だ。とりあえず渡された封筒を開ける。
今夜九時に中央広場でお待ちしております
たった一行。自分はマダムに誘われた、ということか。ナマエに手紙をのぞかれる。
「これはどういう意味だ」
「マダムは鑑賞中にアイコンタクトをとってくる。そこでマダムに笑いかければ誘いに応じたとみなされる。帰り際に手紙が届き、待ち合わせ場所を指定される。手紙の受け取りが最終確認だ。もうマダムの誘いは断れない」
腕時計を確認。待ち合わせ時間まで三十分しかない。
「はっきり言うぞ。おまえは今夜、マダムに買われる」
ナマエの言葉を理解できない。
「これは決定事項だ。おまえはマダムが出す金を拒否できない。彼女の要求を断れない」
なぜ知っている。どうしてそんなに詳しいのだ。
「今から一番重要なことを話す。絶対に名前を教えるな。名前さえ教えなければ、必ず帰してもらえる。一晩だけの付き合いで終わる」
つまり、名前を教えてしまうと帰れない。
「とにかく一度マダムを満足させろ。おまえは明日、定期市がある。朝早くから仕込みもするんだろ?」
定期市は十時から。二時間前には設営を完了させ、その場で準備する。
「切り上げるのは早ければ早い方がいい。どうしても断りにくいなら『連れが心配していた』とでも言え」
やはり、ふたりは面識があるのでは。
「おまえも誘われたことがあるのか」
一瞬の沈黙。
「少なくとも、マダムはおれの名前を知らない」
完全な答えを得られそうにないので、次の質問に移る。
「マダムの家はどこにある」
「さあな。もちろん、今から中央広場に行けば豚車あたりが待っている。乗っているあいだは目隠しでもされるはずだ。おそらく劇場方面と同じ、丘の上だろう。彼女は金にまったく困っていない、貴族のようなものだ」
まあ、そうだろうな。男を買うマダム。未亡人か。
「もう一度言うぞ。名前は教えるな。とにかくマダムを満足させろ。金も拒否できない。時間を忘れるな。──はやく戻ってこい」
ジャケットの内側から何かを取り出す。コームだ。手に何かを塗り、こちらの髪にすりつける。
「もう少し髪を寝かせておく。マダムの前で髪を崩すなよ? 一生帰れなくなるぞ」
「それ以上崩すのは、本気で女を落とす時だけにしろ。目に毒だ」
「なんで持ってきた」
これだけで伝わるはず。
「ワックスは崩れやすいからな。見せる相手はちゃんと選べ」
照明のない車内は暗い。それでもこいつは迷いなく髪を押さえつけ、コームを使いこなす。
「これで数時間は持つ。激しい運動はほどほどにしとけ」
豚車が止まった。扉が開く。夜八時五十分の中央広場。
「はやく、戻ってこい」
そっと背中を押され、地面に足をつける。振り返り、目を合わせる。にがい笑顔。すぐに扉は閉じた。豚車が完全に見えなくなるまで。ひたすら目で追いかけた。しばらくすると猫車が目の前で止まる。手紙を渡した男が御者台から降りてきた。
「お迎えにあがりました。マダムがお待ちです」
ナマエの言ったとおり、目隠しされて十分以上猫車に揺られる。降りた後も、男が引く紐をつかみ、屋内を進む。ようやく視界が戻った。目の前には扉。意を決して押し開く。食卓にひとり。彼女がマダム。椅子から立ち上がり、こちらに歩み寄る。
「まだ、夕食は召し上がられていないと思いまして」
笑みを浮かべ、角の席へ誘導される。彼女も斜め向かいに座った。召使いがシャンパンを注ぐ。乾杯が始まる前に話を。
「今日、一日が終わる頃には許しを願いたい」
条件さえ守れば、話のわかる相手のはず。わずかに目を見開き、ゆるりと細くなる。食卓のろうそくが髪飾りを、首元の装飾を照らす。その唇に目を奪われ、唯一肌がのぞく胸元から必死に意識をそらす。部屋に焚かれた香がじわり、じわりと理性をかき乱す。ここ数時間、なにも口にしていない。喉が渇いた。無心に食らいつきたい。この飢えた身体をひたし、沈みこませ、うるおす場所を探していた。彼女から目が離せない。
「あなたに負担をかけたくない。ご心配なさらず。今日だけ。あと三時間。わたくしの話し相手になってくださりますか」
具体的な時刻を聞きだせた。一気に肩の荷が下りる。力なく笑いかければ、彼女がグラスを掲げた。話し相手とは。三時間も食卓を囲うのか。すでに自分は、飢えを満たそうと頭を働かせていた。この三時間くらいは心地よい夢を。快楽を。教わった「口元の微笑」を再現し、自分もグラスを手にとった。
アパートにたどり着く。手元の腕時計は午前零時二十分。降ろされた中央広場から歩いてきた。五階へ上がり、いつものように扉を叩く。すぐに開いた。まだスーツを着ている。自分を待っていたのか。ひでェ顔だ。
「サンジ。おまえ」
「ただいま」
ゆがんだ顔を横目に、部屋へ入る。とにかく煙草だ。ベランダに出て、六時間ぶりに吸う。
「おまえ、大丈夫なのか」
となりにやってくるが、あえて振り返らない。
「何がだ」
「だから、その。無事なのか? たとえば、変なことを吹き込まれたとか、毒でも盛られたとか」
吹き込まれた。これでもかと盛られ、吸収した。忘れられないほど強烈に叩き込まれた。
「そんなことを聞いてどうする」
気だるげに返せば、きつい口調になる。
「おれは心配しているんだ。ちょっと顔を見せてみろ」
どうも反応する気分ではない。無視して煙を吹かせていれば、煙草を抜き取られる。内ポケットの携帯灰皿に突っ込まれた。そのまま腕を引かれ、室内に戻る。椅子に座らされ、診察のようなものが始まった。眼球の動き、口内、脈をはかり、手足のしびれの有無を確認される。
「見たかぎり、ただの酔っぱらいだが」
「アルコールはとっくの昔に抜けた」
腕を組み、こちらを見下ろしてくる。冷蔵庫から瓶を持ってきた。
「もう少し水を飲んでおけ。ほら」
開封し、こちらに手渡す。仕方なく口をつけた。冷えたミネラルウォーター。飲みながらボタンを外し、ジャケットを脱ぐ。蝶ネクタイもとった。聞くなら今しかない。
「おまえ、セシルちゃんをどうしたいんだ」
向かいに座ったナマエは目を丸くさせた。
「マダムに、何を、言われた」
プリマドンナ、セシル。彼女の想い人が誰なのか。先ほどの舞台で、誰のために歌ったか。
「おまえもセシルちゃんの気持ちをわかっているんだろ。なぜ応えてやらない」
ふたりの想いは通じ合っているではないか。なぜ進まない。
「知った口を聞くな。これはおれの問題だ。放っといてくれ」
「セシルはマジシャンカタリの正体を知っている。三番ボックスの青年が誰なのか知っているのよ。プリマドンナになる前からの、古い付き合いみたい」
「このままでいいのか。いま動かねェと後悔するぞ」
「サンジ」
テーブルに乗せている拳を強く握る。目を伏せた。これは、なにかを打ち明けようとする前ぶれ。
「セシルとおれは、お互い、今の関係を望んでいる。これでいいんだ」
仮に今の話が事実ならば、マダムの言っていたあれは、
「おまえは今まで、本気で女性を愛したことがあるのか」
「どうしたんだ、いきなり」
「イエスかノー。たった二択だ。それくらい言えるだろ」
「じゃあ聞くが、おまえもそういう経験があるのか」
経験。本気の、経験。
「ほら、言えねェだろ。そういう、墓穴を掘るような質問はやめておけ。お互いのためにならない」
ちがう。そういう話に持っていきたいのではない。だが、どう切り出せばいい。
「彼が、誰かを連れてくるなんて初めてよ。それも、とびきりセクシーな男の子。男でも女でも、あなたを放っておかない。わたくしが彼の立場なら、あなたを大事に大事にする。他の女になびかないよう甘やかして、自分しか見えないようにする」
あいつは男だ。
「そんなこと、どうでもいいでしょう。相手が男だなんて、ほんのささいな個性。ひとは誰でも愛し合える。性別にとらわれる人生なんて、もったいないわ」
マダムの言葉が頭から離れない。考えたこともなかった。
「とにかく、無事でよかった。明日も早いんだろ。他に聞きたいことがあるなら、今度いくらでも答えてやる。今日はもう寝ろ」
立ち上がらされ、背を押される。すぐに玄関へたどり着いた。宿はとってある。ここからそう遠くない。こいつも場所を知っている。
「だるい。慣れねェ髪を維持するのに苦労した」
ナマエに背を向けたまま、自身の頭へ手を伸ばす。指を食いこませ、雑に髪を乱した。先ほどベッドで汗をかいたこともあり、容易に前髪が垂れる。今まで固まっていたのが奇跡なくらいだ。
「髪を洗い流したい。風呂、貸してくれ」
ゆっくりと振り返る。目が合うも、頭から足先までじろじろ見まわされ、最後に深く息をついた。
「なに言ってんだ、この酔っぱらい。おまえの宿はすぐそこだ。帰ってから風呂に入れ」
まったく動じない。この髪型をマダムに見られないよう、必死に努力したのに。効果なしか。無性に腹が立ち、一歩近づく。腕をつかみ、後退を阻止。なぜセシルとの関係を進めない。なぜ花街の上客をやっている。もし、女が本気でないなら、
「がんばって三時間で戻ってきたんだ。向こうでシャワーを浴びる余裕もなかった」
「だろうな。酒と煙草と女のにおいがプンプンする」
距離を縮めても反応なし。それどころか、近づくほど瞳は冷めていく。
「サンジ。はやく寝ろ。もう一時だ」
「ナマエ」
どうすれば反応する。何を言えば。
「ナマエ」
腰から背中へ。手を伸ばし、抱き込もうとした瞬間、体が浮いた。
「マダムに毒されすぎだ。頭を冷やせ」
担ぎ上げられ、玄関を出る。ナマエが駆けだした。五階から飛び下り、地面を蹴る。速い。宿に入り、階段を上がる。いつのまにか部屋の鍵も奪われていた。扉が開き、ようやく体を降ろされる。一瞬のできごとだった。
「ちゃんと鍵は締めろよ。おやすみ」
姿が消え、扉が閉まる。一気に熱が下がった。足を引きずり、服を脱ぎ捨て、シャワーを頭から被る。先ほどのやりとりを努めて頭から振り払う。無心でベッドへ沈み込んだ。
朝五時半。体が重い。いつもの買い出しより遅い時間に市場を訪れる。二人分の食材を確保。アパート五階に上がり、玄関前に来たところで昨晩のやりとりがフラッシュバックする。今さら引き返すのもかっこわるい。ノックすれば、眠そうな顔で出てきた。
「おはよう、サンジ」
部屋に通され、ジャケットを脱ぐ。さっそく朝食作りにとりかかった。特に会話も変わらない。自分も平静を装った。昨日こいつに言われたとおり、きっとマダムに毒されたのだ。なぜあんなに突っかかったのか。なぜあんな行動に出たのか。これ以上考えるのはやめよう。皿をテーブルに並べ、腰を落ち着けたところで、ようやく香りに気づく。花瓶に花束。淡い色合い。この花は何だったか。
「昨日、あったか?」
「髪を整えていた時には飾っていた」
朝めしを頬張るナマエはいつもと変わらない。おいしそうに食すのも見慣れた光景。
「もらったのか」
「おれが買ってきた。三日以上ローグタウンにいるときは飾るようにしている」
三日。
「そうか。バラティエは海のどまんなかだから、生花は飾らねェもんな。こういう切り花の寿命は最短三日だ。それ以上長持ちするかは、花の種類によって変わる。家を空けるときが多いから、毎日は飾れない」
「そんなに好きだったのか」
「当たり前だろ。おれは百花のマジシャンだ。花を知り尽くし、花を操る。普段から本物にふれておかないと」
本物か。つまり、マジックの花は偽物。
「時間は大丈夫なのか」
手元の腕時計を確認。六時半。
「八時に食材が届く。それまでに設営を終わらせる。七時には出るつもりだ」
「そうか」
お互い、ちょうど食べ終えた。コーヒーを淹れてやり、席につく。ナマエは目を伏せていた。長い沈黙。今はじっと待つべきだ。
「昨日は悪かった。いろいろ、おまえを巻き込んで」
こいつもマダムの件は誤算だったはず。結局、三時間きっちりで帰してもらえたし、本当に金も押し付けられた。不思議な女性だ。情を引きずらないためにも、金で体を買い、その場かぎりの関係と割り切る。自分も同じような夜を過ごすが、現金を渡したことはない。彼女には「あなたはそこまでしなくていい」と笑われた。こちらの素性は探られなかったが、ナマエとの関係はかなり攻め込まれた。観劇中、となりのナマエを盗み見ていたのもバレていたのだ。むしろ、それが自分を誘うきっかけだった。
「なぜ彼を見ていたの」
いや、特に意味はない。
「それに、始まる前はあんなに顔が赤かった。彼に何を言われたの」
最初から見ていたのか。別に。あいつは、なにも。
「無意識で赤くなったの? 無意識で見つめていたの?」
ちがう。そんなつもりは、
「そう。無邪気ってこわいわね」
「サンジ?」
意識が引き戻される。肩まではねてしまった。たしか今はナマエの話を聞いていたはず。
「いや、何もない。おれこそ、勝手に突っ込んでいっちまった。もう昨日のことは気にするな。おれはただ、おまえにとことん付き合っただけだ」
まだ表情は暗い。どうにか元気づけなければ。
「おれは楽しかった。おまえはどうなんだ」
「おれは。おれは、まあ、楽しかったことは楽しかったが。同じ遊びは、もうこりごりかな」
くしゃりと苦笑い。少し空気が和らいだ。
「おれもしばらくは遠慮する」
できれば今後マダムとは顔を合わせたくない。次に同じ質問をされたら、どう答えるか。
「スーツだけは一緒に買うのも悪くないけどな」
そんなに気に入っていたとは。
「まあな。おまえの意見も聞いてやらないことはない」
今度は自分が数字を並べていく。符号を入れ替えれば、自分から見たナマエのサイズがわかる。
「サンジが覚える必要ねェだろ」
なぜそんなに機嫌を悪くするのだ。今度、シャツくらいは選んでやろうかと思っていたのに。
「おまえが忘れたときのバックアップだ」
噛みつかれるまえに席を立つ。食器を洗い、ジャケットを手にとった。そろそろ七時。玄関まで付いてくるので、うしろを振り返る。
「いってくる」
理由なく、いたずらにつぶやく。海上のホームがバラティエなら、陸のホームはここ。なんとなく、気分的に。
「ああ。おれもあとで行く」
期待した言葉ではないが、機嫌が戻ったので良しとする。アパートを出た頃には、寝起きの気だるさは完全に消えていた。