サンジ過去編
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着替えを貸した日のマジックショーは無事成功に終わった。今日はナマエが帰る四日目。こうして早朝から自分の部屋に駆け込んでくるのも珍しい。借りた服をローグタウンに持ち帰って洗いたい。そう申し出てくるも、丁重に断る。やけに食い下がるので、どうにか理由を吐かせた。
「だから、その」
目をそらされるので、さらに詰め寄る。顔をつかみ、どうにか前を向かせたが、きつく目を閉じてしまう。
「新しくシャツを買って、持ってこようと、思って、だな」
どっと気が抜ける。つい手を離してしまった。
「なんでそんなことを」
「着替えたとき、ラベルを見つけた。おれもその店、よく知っているんだ。だから、実物を持っていけばサイズもわかるし」
「そういうことじゃねェ。なぜ新品を買おうとした」
ナマエが目を開けた。キッと睨み、噛みつかんばかりに言葉を吐く。
「別にいいじゃねェか。礼をしたいと思ったって」
予想外の言葉。
「礼?」
「だから、貸してくれた礼とか。いろいろ」
声がしぼんでいく。目も伏せた。
「ナマエ」
相手の名を呼び、まっすぐと視線を交差させる。こうして向き合えば、いつかは本音がもれる。こいつに教わったことだ。
「おれは、おれは。言葉だけじゃ足りない。それくらい、サンジにはいつも助けられているから」
言葉。足りない。
「いつも顔を合わせている相手に物をあげたいと思って、何が悪い」
いつも。あげたい、相手。
「わかった。ちゃんと言う。今からすっげェかっこ悪いことを言う」
腕を振り払われ、背を向けた。
「おまえは、おれをマジシャンとして見てくれた。バラティエに来ているのもステージに立つため。ショーを見せるため。それをわかってくれている」
言葉に詰まる。声も震えはじめた。
「すごく、うれしかった」
ぞわりと全身がしびれ、一瞬、目がくらむ。どうにか足を踏ん張り、立ちつづけた。
「なあ、サンジ。おれはおまえに何をしてやれる。バラティエに人を呼べばいいか。仕入れできそうな、新しい街を探せばいいか」
ちがう。ちがう。
「金には困っていない。普段着くらい選んでもいいだろう。そういうことしか、してやれない」
声より先に手が動く。勢いよく振り向かせた。感情があふれるあまり怒鳴りそうになる。必死に声量を絞った。
「おれの料理を食え。食っていればいい」
誰かに礼をもらったらどうすればいいのか。自分の気持ちを伝えるには、どうすれば。料理以外の方法など思いつかない。わからない。そもそも、誰かに物をもらったことがあったか。
「それでも足りねェなら、おまえなりの礼を受ける」
深くため息をついてしまう。目の前にいる野郎は本当にナマエなのか。
「ひでェ面だ。客を喜ばせたいと、あんなにも工夫しているパフォーマーが、こうも弱気になるとはな」
「うるさい。こういうのは」
目を伏せ、急に声がどもる。聞きもらすまいと、全神経を耳に集中させた。
「はじめて、なんだ。だれかに礼をしなきゃ気が済まないなんて。はじ、めて、だから」
たったいま受けとった言葉を、何度も何度も胸の内でくり返す。ぐちゃぐちゃに噛みくだき、舌のうえで転がし、味わい、余すことなくていねいに飲み干した。まだ耳が熱い。鼓動も速い。ふらつく頭を手で押さえ、横を向き、前髪で顔を隠す。声だけは強がった。
「しょうがねェな。付き合ってやるか」
「い、いいのか?」
しょぼくれた声を出しやがって。
「その代わり、おまえの服を買わせろ。一着減った分を補充してやる」
結局、返り血で汚れた一式は使い物にならなくなった。
「それじゃ意味ねェ。礼にならない」
「礼なら他の方法を考えろ。おれも、ちょうど一着買おうと思っていたところだ」
気持ちが落ち着いてきたので、ようやく目を合わせる。渋い顔。納得できていない様子。あまりに予想どおりの反応で、つい頬をゆるめてしまう。
「何がおかしい」
「さっきも言っただろ。おまえの気が済むまで付き合ってやる。どこにでも連れていけ」
ぱっと目が輝く。こいつは、こうもわかりやすい性格だったか。妙に気が抜ける。
「とりあえずローグタウンで服を買おう。それ以外は計画を立てておく」
鼻歌でも始まりそうなほど声がはずむ。
「そういや、運の悪いことに、おれも今日明日でローグタウンへ行くつもりだ」
いつもの買い出し。今日ナマエが帰るタイミングに合わせたつもりはない。ただの偶然。
「わかっている。知ってた」
聞き捨てならない言葉。つい睨みかえせば、へらりと歯を見せてきた。
ローグタウン到着後、紳士服屋に入る。そもそも、ナマエと自分を接客していた店員が同一人物だった。お互い、久しぶりのオーダーなので採寸から始める。生地選び、ズボンの細さ、襟の形状。十分に吟味する。片方が選ぶ時間は、もう片方が文句をつける。こっちの方がいい、あっちの方がセンスいいだろ。試着をくり返し、どうにか相手の注文を受け入れた。仕上がりまで一週間。来週は久しぶりの定期市だ。タイミングもいい。
「なんだ、その数字は」
店を出て、歩きだしたナマエは数字の羅列を口にした。
「さあ。なんだろうな?」
挑発的な笑顔。やけに腹が立つ。まだ数字をくり返していた。金額にしては桁数が多い。番地にも聞こえるが長すぎる。プラス、マイナスが交互、いや、不規則に数字を足し、引いている。数式か? 意味がわからない。店を出てから急に──さきほど、数字を。採寸項目を、上から。互いの、差異。
「そんなのを覚えてどうする」
「服を借りるとき、調整の参考になる」
つまり、こいつは。
「おまえ、さっきのオーダーでさんざん文句つけてきただろ」
「文句じゃねェ。アドバイスだ。そっちこそ、最終的に生地を変えさせたくせに」
「あれがベストだ。来週の仕上がりが完璧で絶句するぞ。心の準備をしとけ」
顔をしかめてくるので、頬をつまんでおく。
「もう少し言葉を選べ。それが服を借りる奴の態度か」
急停止するので、頬から指を離してやる。目をそらし、軽く唇を噛むときは、たいてい緊張している。ようやくこいつの性格が読めてきた。
「思ったより動きやすかった。サイズがぴったりってわけじゃねェが、結構着れるものなんだな」
照れ隠しで言葉が虫食いになるのもわかってきた。脳内で単語を補完しておく。
「おれさ、遠征もバラティエ出張も、荷物が多いのは嫌なんだ。基本的に現地調達する」
こいつの部屋を訪れるようになり、生活スタイルもわかってきた。生活物資は必要最低限。ワードローブも五着だったはず。どれも生地は傷んでいなかった。定期的に五着を入れ替えているのだろう。
「昼間のバラティエで過ごすときだけでいい。その代わりと言っちゃなんだが、おまえのワードローブをこれからも補充させてくれ」
最後の言葉は予想外だった。反応に迷っていると、一気に畳み掛けられる。
「シャツは消耗品だ。ネクタイ、ハンカチが多くても困らない。借りただけ生地もはやく傷む。だからレンタル料代わりだ」
「それなら、おれのクローゼットにおまえの服を置いとけばいいだろ。そうすりゃサイズ調整する必要もねェ」
急にナマエが声を張った。
「おれはサンジの服が欲しいんだ」
ぎょっと目を見開いてしまう。どうにか後ずさりは耐えた。
「なんで、おまえが、おれの」
「自分しか着れねェ服が増えても困る。微妙にサイズが合わないのを、ぼやっと着崩した方が目立たねェだろ。カタリだってバレねェよう、そういう工夫も必要だ」
たしかに一理ある。臨時バイト、ウエイターとしてナマエの顔を覚える客が増えてもおかしくない頃合いだ。これも変装の一環。
「そういう話なら構わねェが。毎度、来るたびに補充する必要ねェからな? 金に余裕あるときだけにしろ」
「この、一流パフォーマーが金に困っているとでも?」
意地の悪い笑顔。調子に乗ってきた証拠だ。
「言っとくが、下着は自分でなんとかしろよ。そんなもんまで共有する気はねェぞ」
片眉を上げ、今日一番顔をゆがませた。
「当たり前だ。そんな見境ねェことするわけねェだろ」
見境ない、か。その境界は一般的に何と言うのか。
「とにかく、今日のオーダーを十分参考にするんだな。てめェのセンスに期待はしねェ」
担当店員が同じならハズレを引くはずがない。わかっているが、つい挑発してしまう。
「副料理長のお眼鏡にかなうよう、誠心誠意選びますとも」
いつもの呼び方。いつものカタリなあいさつ。こんな道ばたで、くだらない言い合いを、こいつと。バカバカしい。背中に軽く蹴りを入れ、共に歩きだす。夕めし探しに繁華街を目指した。
一週間後。半年ぶりの定期市。前回と同じく開催は三日間。初日から大繁盛した。となりの悲鳴は努めて聞き流す。もちろんカタリとはひとことも喋らない。午後三時に定期市が終わる。撤収完了後、四時に紳士服店前で待ち合わせ。仕上がったスーツは上々。受け取りを終えたはずが、ナマエにぐいぐい押され、試着室へ逆戻りする。見知らぬシャツ、カフスボタン、蝶ネクタイ、ポケットチーフも投げ込まれた。
「今日はとことん付き合ってもらうからな」
試着室のカーテン越しにナマエの声が届く。そうだった。「服以外の方法を考えろ」と言ったのは自分だ。苦笑しながらも、渡されたアイテムを身に着けていく。試着室を出れば、すでにナマエは着替え終えていた。自分同様、パーティ向けの装い。ふたりして店内の鏡をのぞく。あんなにも生地にこだわっていたのは、このためだったか。金額が上がるので避けていたが、すべて支払うと言われ、先週は渋々了承した。この蝶ネクタイやカフスボタンはいつ選んだのか。今からどこへ連れまわされるのか。考えれば考えるほど頬がゆるみそうになる。
「服はこれでオーケー」
終始ナマエは笑顔だ。店員に声をかけ、店をあとにする。次に向かった先は自宅。全身鏡のまえに椅子が移動されており、テーブルにはヘアスタイリング一式が並べられていた。強制的に座らされる。ナマエはジャケットを脱いだ。
「ちょっと整えるよ」
こちらの髪をすくいとっては離すをくり返す。
「全体的に固めていい?」
「好きにしろ」
とことん付き合う。決めたことだ。
「それなら、遠慮なく」
真正面に立ち、両手で一気に前髪をかき上げた。隠れていた左半分が明るくなる。とりあえず整髪料で固めるのだろう。ぼんやりと正面を向いていたが、ナマエの手は止まったまま。まだ両手が頭に置かれている。少しだけ頭を動かし、顔を見上げた。ゆるりと目が合う。小さく口を開けたまま、無表情。椅子の背にもたれかかり、さらに顔を上に向ける。まだ反応はない。互いにまばたきをくり返した。とりあえず声をかけてみる。
「どうした」
ビクリと手がはね、かき上げられた髪が下りる。左半分が元どおり隠れた。まだナマエの顔は変わらない。手だけが伸びてくる。もう一度両手で前髪をかき上げられた。
「ナマエ」
今度は息を吐き出す。浅く呼吸をくり返し、肩も大きく上下させる。こいつ、息を止めていたのか。
「おい、どうした」
「いや、サンジ。その」
まだ両手は前髪を押さえている。ただ小さく首を横に振るだけ。
「今まで、髪型を変えたことはあるのか」
「いや。最初からこれだった」
あいつらとは違う。自分はこの髪型が一番収まりがいい。
「変えようと思ったことはないのか」
「そんなこと、考えたこともねェな」
少なくとも、あの三人のようには、決して。
「なんでそんなことを聞く」
きつめに睨んでおく。ナマエの呼吸はだいぶ落ち着いてきた。今度は深呼吸をくり返している。
「なんでって、そう言われても、な」
「ナマエ」
声を張れば、ナマエが軽く背筋を伸ばす。それでも前髪はかき上げたまま。目もそらされない。
「両目を見たの、はじめて、だから、さ」
全身の力が抜け、正面の鏡を見てみる。オールバック。いま、こいつが言及したのは眉毛ではない。この両目がそんなに珍しいか。
「いや、変な意味じゃねェぞ。変ではなく、その」
またナマエを見上げる。いつものように視線を泳がせはじめた。唇を噛み、言葉を迷っている。この調子なら、ひたすら待てば話してくれる。一分、三分は経過した。きつく目を閉じながら、か細い声がもれる。
「景色が、見えた。おまえがこれから外を歩く、景色が」
予想外の言葉。景色?
「おもしろいくらいに周りが振り返る。『どこの誰だ』と素性を探ろうとする。声をかけたいと近づいてくる子も、いる」
うまく飲みこめない。なぜ、実際に見てもいない景色を、こいつは、
「そして、となりを歩く自分は、どうしようも、なく、どこまでも」
言葉が途切れ、目をそらした。じっとしていられず立ち上がってしまう。それでもナマエの手は頭から離れない。きつく腕をつかみ、両足のあいだに自身の片足を食いこませ、後退しようとする体を無理やり押さえこんだ。逃げられないよう顔も固定する。つかんだ顔は、わずかに震えていた。
「ナマエ」
今度はやわらかい音にする。閉じていた目がようやく開いた。瞳が揺れそうなほど苦々しい表情を浮かべる。
「ナマエ」
吐息まじりに、そっと空気に溶かす。ゆっくりと、少しずつ口が開いてきた。
「だって、かっこわるいだろ」
互いの息がかかるほど近づいていた。すべて吐かせるまで解放するものか。
「これは、ただの、おれの問題だ」
「ナマエ」
決定打を避けている。ごまかしている。もうひと押しを、
「逃げるな」
とたんに視線が鋭くなる。いい感じに挑発できた。
「いま逃げても、いつか必ず向き合う。さっさと楽になれ」
今回を見送ればどうなるか。いま手放せばいつ戻るか。
「今日のサンジ、すっげェいじわる」
「今日はとことん付き合う。おまえもおれに付き合うんだろ」
へらりと笑ってやれば、さらにきつく睨まれた。心地よい緊張感。
「だから嫌なのに。こんな奴に、なんで」
顔から手を離してやれば、深く息を吐き、両肩が下りていく。まだ腕は離せないが、つかむ力をゆるめる。目に見えて警戒が解かれていく。もう少し、もう少しだ。
「だから。おれは、おまえの、そういう顔で、そういう髪で、そういう笑い方が」
言葉に詰まる。自分も息を止めていた。
「全部、くやしいって思っただけだ。そんな顔をずっと隠していたのが、ずるいと思っただけだ」
頭が、まっしろになる。
「別にいいだろ。おれが何を思ったって。どう見えたっていいだろ。勝手にムカついて、勝手に意地張って、こうやっておまえを苛つかせた」
頭に置かれていた手がゆるみ、少しずつ髪が下りてくる。その都度ナマエは髪をかき上げなおした。
「悪い、無駄な時間を食っちまった。急がねェと」
無理やり口角を上げ、歯を見せてくる。強めに頭を押さえつけられたので椅子へ戻った。呆然としているあいだにも、ドライヤーを当てられ、髪にクセをつけていく。まだ何もつけていないのに、前髪は生え際からすべて後ろへ流れていた。このまま固めればオールバックになる。自分はブロンド。あれは緑。同じ髪型でも、似ても似つかない。わかるはずがない。誰が気づくものか。ナマエが整髪料を手にとった。ポマード。こちらに手を伸ばした瞬間、勝手に口が動く。
「少し、注文つけていいか」
「ん? どうした」
「完全に寝かさないでくれ。やわらかく、崩れるギリギリで」
「へえ」
言葉は続かない。妙にニヤつくので睨んでおく。
「それで。できるのか」
「もちろん。先に言ってくれて助かった」
手をふき、別の整髪料に変わった。あれは多分ワックス。前髪を持ち上げながら、もみこんでいく。複数のコームを使い分け、束感を残す。サイドはポマードでしっかりと固め、ドライヤーで全体を乾かした。
「これでどう?」
前頭部はざっくりと。七三分け。少ない右側は固めているが、大部分の左側は前髪が垂れるほどゆるい。後頭部へ向かうにつれ、きつく固めている。襟足は遊ばせていた。
「悪くねェ」
鏡越しに目を合わせる。ナマエも満足そうに歯を見せた。
「ゆるさはこれが限界。もっと崩したいなら時と場所を選べ」
意味がわからない。続きを待っていたが、腕を引っ張られ、椅子から立たされる。今度はナマエが座った。自身の髪を整えようとするので、手で制してしまう。
「中途半端に切り上げるな。そろそろおれの性格を理解したらどうだ。最後まで吐かせるに決まってるだろ」
「わかってる。ちゃんと言うから。続きは移動中に話す。あと三十分しかない」
手元の腕時計を確認。五時すぎ。つまり五時半にはここを出る。仕方なく後退し、解放してやる。目まぐるしく手が動きだした。コーム、ワックス、スプレー、ドライヤー。最後に別の眼鏡をかける。五分もかからなかった。立ち上がり、全身鏡をのぞくナマエは口元に笑みを浮かべている。雑な仕上がりというよりも、
「慣れてるな」
「これもパフォーマーのたしなみですから」
仰々しい口調。いつものカタリ。だが、どうしても目元が気になる。
「その眼鏡、ない方がいいんじゃねェか」
とたんに目を丸くさせた。
「とんでもない。これがないと、ただのカタリだ。スーツで綺麗にまとめるほど、うまく変装できなくなる」
自然と手が伸びる。ためしに眼鏡を取っ払ってみた。これが素顔。もう一度かけてみる。やはり滑稽だ。フェイスペイントでもすれば、サーカスの司会にでもいそうな風貌。
「サングラスはどうだ」
「だめだ。カタリはハットを深く被っている。そうすると、目以外の情報を元に素顔を想像する。だから変装中は、あえて目を見せないと。他人を見るとき、顔のなかだと目元に焦点を合わせる。すれ違うくらいなら、目だけを見て、それで終わる」
なるほど。カタリで顔を隠しているから、あえて普段は素顔をさらしているのか。
「それにサングラスは使いものにならない。今日は尚さら、だ」
反応するひまもなく、腕をとられ、ふたり並んで全身鏡のまえに立つ。すでにナマエはジャケットを着込んでいた。手袋を渡され、素直に装着する。やはり眼鏡が気になってしまう。これを外せばかなり洗練されるのに。もったいない。
「そろそろ下りるか」
五階から地上へ。ナマエが手元の腕時計を気にしはじめる。遠くから、豚の鳴き声。だんだんと近づいてくる。アパート前に止まった。車輪、御者、そしてつながれた大きな豚。
「乗るぞ」
ナマエの声でようやく足が動く。努めて平静を装った。ふたりとも乗りこめば動きだす。車内のカーテンはすべて閉じられた。
「豚車は初めてか」
即答せねば。
「ああ」
「ちょっと遠出だ。坂の上にあるから豚車の方が都合よくてな」
買い出しで訪れる街では一度も見かけなかった。ローグタウンは広い。山の方には貴族の住まいもあるとか、ないとか。
「これが今日のメインイベントだ」
ナマエが胸元から二枚取り出す。チケット。劇場。オペラ。
「ちょうど二枚手に入った。主役はとびきりの美人だ。きっと驚くぞ」
てっきりパーティにでも行くのかと思っていた。貴族と顔を合わせたくはないので、気が楽になる。オペラか。
「おまえ、こういうのに興味あったんだな」
「当たり前だろ。一流パフォーマーは、あらゆるエンターテインメントに精通していなければならない」
なるほど。
「主役が美人ってのはどこ情報だ。まさか、通いつめているのか」
目を合わせたまま、うしろに背を預け、足を組みなおす。もったいぶりやがって。
「今回の演目は初めてだ。いろいろと縁があって、まあ、時間があれば観にいくようにしている」
こいつ。相当観ているな。
「おまえがノリ気で安心したよ。興味なさそうだったら、予定を全部変更するところだった」
嫌いではない。むしろ好んでいた。ただ、忘れたはずの地獄がフラッシュバックするだけ。
「まあ、おまえがそんなに褒めちぎる美人なら、見る価値はあるな」
「期待はほどほどにしとけ。おれは総合的に評価する」
そういえば、こいつの好みを聞いたことはない。
「つまり、その主役がおまえの好みなんだろ」
予想と違う反応。挑発的な笑みは消え、目を伏せる。組んでいた足もほどいた。
「そういうのじゃねェ。あの子は舞台で一番輝くべきだ。おれはただ、笑っていてくれれば、それでいい」
もしかすると、とんでもない地雷を踏み抜いたのでは。プリマドンナと客。叶わぬ恋。こいつが、恋。
「とにかく、あそこの演目は絶対に外れない。今回は悲劇だが、途中の盛り上がりが評判らしい」
声に元気が戻ってきたので、好きに喋らせる。なにか聞き忘れている気もするが、十五分ほどで豚車が止まった。自分たち同様、数台の豚車が劇場前に止まっている。なかには猫車も。腹の底からわき上がる記憶を必死に抑えこみ、ナマエのあとを付いていく。劇場入り口でチケット二枚を見せていた。
「失礼ですが、お連れ様は後ろの方でよろしいでしょうか」
チケットを確認する男と目が合う。ナマエに手招きされた。急ぎ足でとなりに並ぶ。後方にも客が並んでいるので、誰がナマエの連れなのか判断しかねたのだろう。
「なにか問題でも?」
急にナマエの声が鋭くなった。顔は笑っている。いや、こいつが、この状況で笑うときは決まって機嫌を悪くしている。男の顔が固まった。
「失礼しました。チケットはお返しします。スタッフに声をかけられた際は、こちらをお見せください」
少々手荒にチケットを奪い取り、ナマエが大股で進む。自分も足早にあとを追う。まっすぐホールへ向かうのではなく、横にそれて壁に行き着いた。
「悪い、サンジ」
ゆっくりとこちらを振り返る。険しい表情。まだ目は合わない。
「今日は窮屈な目に遭うかもしれない。おれの予測が甘かった」
ここまで歩いてくる際、薄々感づいてはいた。周囲から突き刺さる視線。つまり、自分たちは劇場内で異質。なぜだ。
「さっきの受付が何を言いたいか、わかったか」
素直に首を横に振る。
「周りの客を見てみろ。どのふたりも男と女。男ひとり、女ひとりならいるが、おれらのような組み合わせは皆無だ」
そうか。同伴者は女であるべき。古い風習だ。
「気に食わない。第一、いつもはひとりで来ているんだ。男を連れてきたっていいだろ。ああ、腹が立つ」
ようやく目が合った。がっしり両肩をつかまれる。
「いいか。おれたちはチケットで堂々と入った。文句を言われる筋合いはない。むしろ一杯食わせてやれ」
いったい何する気だ。
「今日一番キマっているのはおまえだ。その顔で見返してやれ。じろじろ見てくる客にカウンター食わせろ」
ナマエの口元がそっとゆるんだ。何度か見た表情。これは最初のカタリ。あのとき、挑発された、
「少しつり上げるだけでいい。笑っているかいないか、微妙なラインが理想だ。これを見せれば、相手は必ず魅入る」
手が伸びてくる。口の両端を指で軽く押された。
「そう。できるだけリラックスして」
今しかない。聞くなら今だ。
「カタリでこうやるのは、わざとなのか」
「これをやるようになってから、目に見えてリピーターが増えた」
「おれも取り込む気だったのか」
具体的に思い出させる必要もない。もう半年以上前だ。忘れているなら適当に話題転換すればいい。
「あれはしょうがなかった」
いつの話なのか、本当に理解できているのか。
「あの定期市が始まる前から噂されていた。前評判も高い。そんな有名店が自分のとなりに出店した。妙に爽やかな兄ちゃんが、真横からじっと見てくる。正面からも、横からも映えるような手品を選ばないといけない。苦労したよ」
どの瞬間か、こいつは完全にわかっていた。
「カタリはいつでも余裕がある。そう見えるよう、ずっと笑っていた。いや、笑いすぎて、あの口が直らなかったんだ。だから最後の最後に目が合ったとき、どうしても他の表情ができなかった」
つまり、自分に対してわざと笑ったのではない。
「あのとき、ひどい顔をされたから絶対に嫌われたと思った。パティの話を聞いたかぎり、カタリの印象は相当アレだったしな」
そうか。こちらの反応もバレていたのか。そしてパティの話で確信した、と。今さら否定するのもおかしいので、軽く肩をすくめるだけに留める。
「一ヶ月遅れたのも悪かった。遠征予定が詰まっていて、なかなかバラティエに行く時間がとれなくて。本当はまっさきに会いにいって、カタリとナマエが同一人物だと言いたかった」
思わぬ話へつながり、目を見開いてしまう。ナマエはくしゃりと自然に笑った。
「でもカタリは嫌われたと思ったからさ。どうにも踏ん切りがつかなくて」
「嫌われて動揺したのか」
あえて口元だけをゆるめる。笑っているかいないか、微妙なライン。これで本当に釣れるのか。
「さあな。結局、おまえとはこういう仲になった。おれをマジシャンとして見てくれた」
カタリは嫌われたと思ったから、マジシャンとして認められたのが余計に響いた。つまり、そういうことなのだろう。単純な野郎だ。
「いい顔だ。今日のおまえなら百発百中だろうな。こっちをじろじろ見てくるレディがいたら、逆に落としてやれ」
妙に好戦的だ。おだてられている気もする。そして、ここにきてようやく思い出した。
「移動中に話すと言ってたな」
一瞬、目をそらされる。軽く舌打ちまでしやがった。
「忘れたと思ったのに。わかったよ。そろそろ席につく。付いてこい」
とっさに腕をつかむ。はぐらかすな。
「わかってる。おまえは歩きながらレディにカウンター食わせろ。おれは話を続ける」
スムーズに付いていけるよう、ナマエの半歩うしろを歩く。すぐに周りが振り返った。男に同伴しているレディと目が合う。そっと、口元だけをゆるめて。彼女の足が止まった。顔が赤いので成功。次のレディにも同じ対応を。
「言っただろ。今日はおまえが主役。おれが脇役。持っていけるだけ全部持ってけ」
野郎も振り向くが、徹底的に無視する。
「髪を固めればフォーマルになる。適度に崩せばカジュアルになる。今日はギリギリフォーマル。おれの美学にも合致する。合格だ」
階段をのぼりはじめる。それでも一階を流し見た。吹き抜けのホールなので目を合わせやすい。見上げてくるレディへひとりずつ、笑顔のあいさつを。
「つまり、それ以上崩せば美学に反する。反則だ。こういうフォーマルな場には不適当な髪になる」
フォーマルではなくなる、か。
「だから『時と場所を選べ』と言った」
ようやく上階にたどり着いた。ここまで上がってくる客は皆無。ナマエが扉のまえで立ちどまる。となりの自分を振り返った。
「半日は崩れない計算だ。観劇中は問題ない」
前へ向きなおり、扉へ手を伸ばす。ゆっくりと押し開きながら続いた言葉は、
「それ以上崩すのは、本気で女を落とす時だけにしろ。目に毒だ」
中で待機していた女にチケットを見せれば案内される。ステージへ近づく。突き当たりから、ひとつ手前のボックスへ通された。下手。二階。両どなりは衝立で仕切られている。
「開演は二十分後だ」
右の椅子を指差すので、おとなしく座る。何から聞くべきか。
「ときどき観にくるんだよな」
「ああ」
質問を続けるか迷っているうちに、背後から声をかけられる。ナマエはすぐさま立ち上がった。恰幅のよい、口ひげをたくわえた男。いくつか言葉を交わしたあと、ボックスを離れた。ナマエが椅子に戻り、そっと耳打ちされる。
「ここの支配人だ。いつも左のボックスで観ている」
顔を上げるが、左隣は柱で完全に区切られているため、何も見えない。
「受付での無礼を謝られた」
支配人が出るほどの対応だったか。それとも、こいつが上客なのか。
「いつもこの席を買うのか」
「まさか」
ニヤリと歯を見せてくる。また手招きされるので耳を近づけた。
「実は、チケットはタダでもらっている。このボックスの持ち主と知り合いなんだよ」
思わず息を呑んでしまう。そうだとしても、だ。そんな者となぜ知り合いなのか。
「カタリのパフォーマンスを極めるために勉強しろ、ってな。よくしてもらっている。ローグタウンでBARをやっているオーナーだ。この席を好きに利用させてもらう代わりに、店で定期的にショーをやっている」
信じがたい。そこまで協力的な者がいるとは。
「そのBAR、おれは行ったことあるか」
「一回だけ連れていったかな。地下の店。ワインが充実していたところ」
あそこか。隠れ家のような雰囲気だった。
「なんだかんだ、おまえもうまくやっているんだな」
「本当に、バラティエも世話になりっぱなしですよ。副料理長さまさまだ」
妙に苛つく。こうして連れまわすのも仕事の一部なのか。
「おれは今、接待されているのか」
顔をしかめてくる。
「どうした、いきなり」
「そういうことだろ。全部パフォーマンスのため。利用し、利用されている」
わざとらしくため息をつかれる。
「あのなあ」
手が伸びてくる。また口元を指でつつかれた。
「一階の客席を見てみろ。おまえがカウンター食らわせたレディたちが、ずっとこっちを見ている」
「話をそらすな」
「そらしてない。今日はとことん付き合ってくれるんだろ」
うなずく気分ではない。それでもまばたきで意思表示する。
「仮に、接待だったとしよう。おれが、おまえを喜ばせたいのには変わらない。それに、こういうのが好きな自分を見せたかった。口で話すだけだと、わかりづらいしな」
こういう観劇が好きな自分を、見せたかった。
「今日だって質問攻めばかりだ。いつになく攻めこんできやがる。それでも、今のところ全部答えているはずだ」
質問攻め。たしかに必ず答えが返ってくる。
「とっくの昔に開きなおった。おれは今日、機嫌がいい方なんだ。喋ることには喋るが、今日答えた分は、明日以降も保証はしてやれない」
また口元をつつかれる。
「ほら。レディを見てやれよ。みんなソワソワしてるぞ」
まだ理由を聞けていない。
「また話をそらすのか」
無邪気な笑顔。なぜこのタイミングで上機嫌になるのか。
「わかってねェな。サンジは、いつになったら言葉以外も察してくれるんだ?」
腹が立つ。空気を読むにも限界があるだろ。
「今日の演目を見せたかった。自分の好きなエンターテインメントを知ってほしかった。最高に男前な友を、ここの客に自慢したかった。──これでいいか?」
口を開けるが、息を吐くだけで終わってしまう。
「もうすぐ始まる。それまでの暇つぶしだ。正直に吐いてやる」
とっさに壁時計を確認。あと三分。
「自分の全力を尽くして、おまえを仕上げてみたかった。理想どおりの姿がとなりを歩いて、誰もがとなりを振り返る。うれしいに決まってるだろ。うれしいんだよ、レディたちがおまえの虜になるのが」
何を言われているのか。何を聞かされているのか。
「いま、すっげェ気分がいい。最高だ。今日、おまえを連れてきてよかった」
徐々に照明が落とされる。どうにか感情を表に出さぬよう努めた。
「そろそろだ。──これを接待と思うなら、好きにすればいい。ここまで本音をぶちまけた相手を利用するのも、おまえの勝手だ。だがな」
途端に視線が鋭くなる。暗がりでもガツンと突き刺さった。
「演目自体はおれと関係ない。おれへの感情抜きに観てくれ」
無言の圧力。ゆっくりとうなずけば、ナマエが歯を見せた。ようやく舞台を振り返る。背が見えた瞬間、静かに息をつく。暗くて助かった。髪を上げているので隠せない。あつい。頬に熱がたまっている。何を考えればいいのか。どこから思い出せばいいのか。そうこうしているうちに幕が上がる。スポットライトを浴びた女がひとり、舞台に姿を現した。
「だから、その」
目をそらされるので、さらに詰め寄る。顔をつかみ、どうにか前を向かせたが、きつく目を閉じてしまう。
「新しくシャツを買って、持ってこようと、思って、だな」
どっと気が抜ける。つい手を離してしまった。
「なんでそんなことを」
「着替えたとき、ラベルを見つけた。おれもその店、よく知っているんだ。だから、実物を持っていけばサイズもわかるし」
「そういうことじゃねェ。なぜ新品を買おうとした」
ナマエが目を開けた。キッと睨み、噛みつかんばかりに言葉を吐く。
「別にいいじゃねェか。礼をしたいと思ったって」
予想外の言葉。
「礼?」
「だから、貸してくれた礼とか。いろいろ」
声がしぼんでいく。目も伏せた。
「ナマエ」
相手の名を呼び、まっすぐと視線を交差させる。こうして向き合えば、いつかは本音がもれる。こいつに教わったことだ。
「おれは、おれは。言葉だけじゃ足りない。それくらい、サンジにはいつも助けられているから」
言葉。足りない。
「いつも顔を合わせている相手に物をあげたいと思って、何が悪い」
いつも。あげたい、相手。
「わかった。ちゃんと言う。今からすっげェかっこ悪いことを言う」
腕を振り払われ、背を向けた。
「おまえは、おれをマジシャンとして見てくれた。バラティエに来ているのもステージに立つため。ショーを見せるため。それをわかってくれている」
言葉に詰まる。声も震えはじめた。
「すごく、うれしかった」
ぞわりと全身がしびれ、一瞬、目がくらむ。どうにか足を踏ん張り、立ちつづけた。
「なあ、サンジ。おれはおまえに何をしてやれる。バラティエに人を呼べばいいか。仕入れできそうな、新しい街を探せばいいか」
ちがう。ちがう。
「金には困っていない。普段着くらい選んでもいいだろう。そういうことしか、してやれない」
声より先に手が動く。勢いよく振り向かせた。感情があふれるあまり怒鳴りそうになる。必死に声量を絞った。
「おれの料理を食え。食っていればいい」
誰かに礼をもらったらどうすればいいのか。自分の気持ちを伝えるには、どうすれば。料理以外の方法など思いつかない。わからない。そもそも、誰かに物をもらったことがあったか。
「それでも足りねェなら、おまえなりの礼を受ける」
深くため息をついてしまう。目の前にいる野郎は本当にナマエなのか。
「ひでェ面だ。客を喜ばせたいと、あんなにも工夫しているパフォーマーが、こうも弱気になるとはな」
「うるさい。こういうのは」
目を伏せ、急に声がどもる。聞きもらすまいと、全神経を耳に集中させた。
「はじめて、なんだ。だれかに礼をしなきゃ気が済まないなんて。はじ、めて、だから」
たったいま受けとった言葉を、何度も何度も胸の内でくり返す。ぐちゃぐちゃに噛みくだき、舌のうえで転がし、味わい、余すことなくていねいに飲み干した。まだ耳が熱い。鼓動も速い。ふらつく頭を手で押さえ、横を向き、前髪で顔を隠す。声だけは強がった。
「しょうがねェな。付き合ってやるか」
「い、いいのか?」
しょぼくれた声を出しやがって。
「その代わり、おまえの服を買わせろ。一着減った分を補充してやる」
結局、返り血で汚れた一式は使い物にならなくなった。
「それじゃ意味ねェ。礼にならない」
「礼なら他の方法を考えろ。おれも、ちょうど一着買おうと思っていたところだ」
気持ちが落ち着いてきたので、ようやく目を合わせる。渋い顔。納得できていない様子。あまりに予想どおりの反応で、つい頬をゆるめてしまう。
「何がおかしい」
「さっきも言っただろ。おまえの気が済むまで付き合ってやる。どこにでも連れていけ」
ぱっと目が輝く。こいつは、こうもわかりやすい性格だったか。妙に気が抜ける。
「とりあえずローグタウンで服を買おう。それ以外は計画を立てておく」
鼻歌でも始まりそうなほど声がはずむ。
「そういや、運の悪いことに、おれも今日明日でローグタウンへ行くつもりだ」
いつもの買い出し。今日ナマエが帰るタイミングに合わせたつもりはない。ただの偶然。
「わかっている。知ってた」
聞き捨てならない言葉。つい睨みかえせば、へらりと歯を見せてきた。
ローグタウン到着後、紳士服屋に入る。そもそも、ナマエと自分を接客していた店員が同一人物だった。お互い、久しぶりのオーダーなので採寸から始める。生地選び、ズボンの細さ、襟の形状。十分に吟味する。片方が選ぶ時間は、もう片方が文句をつける。こっちの方がいい、あっちの方がセンスいいだろ。試着をくり返し、どうにか相手の注文を受け入れた。仕上がりまで一週間。来週は久しぶりの定期市だ。タイミングもいい。
「なんだ、その数字は」
店を出て、歩きだしたナマエは数字の羅列を口にした。
「さあ。なんだろうな?」
挑発的な笑顔。やけに腹が立つ。まだ数字をくり返していた。金額にしては桁数が多い。番地にも聞こえるが長すぎる。プラス、マイナスが交互、いや、不規則に数字を足し、引いている。数式か? 意味がわからない。店を出てから急に──さきほど、数字を。採寸項目を、上から。互いの、差異。
「そんなのを覚えてどうする」
「服を借りるとき、調整の参考になる」
つまり、こいつは。
「おまえ、さっきのオーダーでさんざん文句つけてきただろ」
「文句じゃねェ。アドバイスだ。そっちこそ、最終的に生地を変えさせたくせに」
「あれがベストだ。来週の仕上がりが完璧で絶句するぞ。心の準備をしとけ」
顔をしかめてくるので、頬をつまんでおく。
「もう少し言葉を選べ。それが服を借りる奴の態度か」
急停止するので、頬から指を離してやる。目をそらし、軽く唇を噛むときは、たいてい緊張している。ようやくこいつの性格が読めてきた。
「思ったより動きやすかった。サイズがぴったりってわけじゃねェが、結構着れるものなんだな」
照れ隠しで言葉が虫食いになるのもわかってきた。脳内で単語を補完しておく。
「おれさ、遠征もバラティエ出張も、荷物が多いのは嫌なんだ。基本的に現地調達する」
こいつの部屋を訪れるようになり、生活スタイルもわかってきた。生活物資は必要最低限。ワードローブも五着だったはず。どれも生地は傷んでいなかった。定期的に五着を入れ替えているのだろう。
「昼間のバラティエで過ごすときだけでいい。その代わりと言っちゃなんだが、おまえのワードローブをこれからも補充させてくれ」
最後の言葉は予想外だった。反応に迷っていると、一気に畳み掛けられる。
「シャツは消耗品だ。ネクタイ、ハンカチが多くても困らない。借りただけ生地もはやく傷む。だからレンタル料代わりだ」
「それなら、おれのクローゼットにおまえの服を置いとけばいいだろ。そうすりゃサイズ調整する必要もねェ」
急にナマエが声を張った。
「おれはサンジの服が欲しいんだ」
ぎょっと目を見開いてしまう。どうにか後ずさりは耐えた。
「なんで、おまえが、おれの」
「自分しか着れねェ服が増えても困る。微妙にサイズが合わないのを、ぼやっと着崩した方が目立たねェだろ。カタリだってバレねェよう、そういう工夫も必要だ」
たしかに一理ある。臨時バイト、ウエイターとしてナマエの顔を覚える客が増えてもおかしくない頃合いだ。これも変装の一環。
「そういう話なら構わねェが。毎度、来るたびに補充する必要ねェからな? 金に余裕あるときだけにしろ」
「この、一流パフォーマーが金に困っているとでも?」
意地の悪い笑顔。調子に乗ってきた証拠だ。
「言っとくが、下着は自分でなんとかしろよ。そんなもんまで共有する気はねェぞ」
片眉を上げ、今日一番顔をゆがませた。
「当たり前だ。そんな見境ねェことするわけねェだろ」
見境ない、か。その境界は一般的に何と言うのか。
「とにかく、今日のオーダーを十分参考にするんだな。てめェのセンスに期待はしねェ」
担当店員が同じならハズレを引くはずがない。わかっているが、つい挑発してしまう。
「副料理長のお眼鏡にかなうよう、誠心誠意選びますとも」
いつもの呼び方。いつものカタリなあいさつ。こんな道ばたで、くだらない言い合いを、こいつと。バカバカしい。背中に軽く蹴りを入れ、共に歩きだす。夕めし探しに繁華街を目指した。
一週間後。半年ぶりの定期市。前回と同じく開催は三日間。初日から大繁盛した。となりの悲鳴は努めて聞き流す。もちろんカタリとはひとことも喋らない。午後三時に定期市が終わる。撤収完了後、四時に紳士服店前で待ち合わせ。仕上がったスーツは上々。受け取りを終えたはずが、ナマエにぐいぐい押され、試着室へ逆戻りする。見知らぬシャツ、カフスボタン、蝶ネクタイ、ポケットチーフも投げ込まれた。
「今日はとことん付き合ってもらうからな」
試着室のカーテン越しにナマエの声が届く。そうだった。「服以外の方法を考えろ」と言ったのは自分だ。苦笑しながらも、渡されたアイテムを身に着けていく。試着室を出れば、すでにナマエは着替え終えていた。自分同様、パーティ向けの装い。ふたりして店内の鏡をのぞく。あんなにも生地にこだわっていたのは、このためだったか。金額が上がるので避けていたが、すべて支払うと言われ、先週は渋々了承した。この蝶ネクタイやカフスボタンはいつ選んだのか。今からどこへ連れまわされるのか。考えれば考えるほど頬がゆるみそうになる。
「服はこれでオーケー」
終始ナマエは笑顔だ。店員に声をかけ、店をあとにする。次に向かった先は自宅。全身鏡のまえに椅子が移動されており、テーブルにはヘアスタイリング一式が並べられていた。強制的に座らされる。ナマエはジャケットを脱いだ。
「ちょっと整えるよ」
こちらの髪をすくいとっては離すをくり返す。
「全体的に固めていい?」
「好きにしろ」
とことん付き合う。決めたことだ。
「それなら、遠慮なく」
真正面に立ち、両手で一気に前髪をかき上げた。隠れていた左半分が明るくなる。とりあえず整髪料で固めるのだろう。ぼんやりと正面を向いていたが、ナマエの手は止まったまま。まだ両手が頭に置かれている。少しだけ頭を動かし、顔を見上げた。ゆるりと目が合う。小さく口を開けたまま、無表情。椅子の背にもたれかかり、さらに顔を上に向ける。まだ反応はない。互いにまばたきをくり返した。とりあえず声をかけてみる。
「どうした」
ビクリと手がはね、かき上げられた髪が下りる。左半分が元どおり隠れた。まだナマエの顔は変わらない。手だけが伸びてくる。もう一度両手で前髪をかき上げられた。
「ナマエ」
今度は息を吐き出す。浅く呼吸をくり返し、肩も大きく上下させる。こいつ、息を止めていたのか。
「おい、どうした」
「いや、サンジ。その」
まだ両手は前髪を押さえている。ただ小さく首を横に振るだけ。
「今まで、髪型を変えたことはあるのか」
「いや。最初からこれだった」
あいつらとは違う。自分はこの髪型が一番収まりがいい。
「変えようと思ったことはないのか」
「そんなこと、考えたこともねェな」
少なくとも、あの三人のようには、決して。
「なんでそんなことを聞く」
きつめに睨んでおく。ナマエの呼吸はだいぶ落ち着いてきた。今度は深呼吸をくり返している。
「なんでって、そう言われても、な」
「ナマエ」
声を張れば、ナマエが軽く背筋を伸ばす。それでも前髪はかき上げたまま。目もそらされない。
「両目を見たの、はじめて、だから、さ」
全身の力が抜け、正面の鏡を見てみる。オールバック。いま、こいつが言及したのは眉毛ではない。この両目がそんなに珍しいか。
「いや、変な意味じゃねェぞ。変ではなく、その」
またナマエを見上げる。いつものように視線を泳がせはじめた。唇を噛み、言葉を迷っている。この調子なら、ひたすら待てば話してくれる。一分、三分は経過した。きつく目を閉じながら、か細い声がもれる。
「景色が、見えた。おまえがこれから外を歩く、景色が」
予想外の言葉。景色?
「おもしろいくらいに周りが振り返る。『どこの誰だ』と素性を探ろうとする。声をかけたいと近づいてくる子も、いる」
うまく飲みこめない。なぜ、実際に見てもいない景色を、こいつは、
「そして、となりを歩く自分は、どうしようも、なく、どこまでも」
言葉が途切れ、目をそらした。じっとしていられず立ち上がってしまう。それでもナマエの手は頭から離れない。きつく腕をつかみ、両足のあいだに自身の片足を食いこませ、後退しようとする体を無理やり押さえこんだ。逃げられないよう顔も固定する。つかんだ顔は、わずかに震えていた。
「ナマエ」
今度はやわらかい音にする。閉じていた目がようやく開いた。瞳が揺れそうなほど苦々しい表情を浮かべる。
「ナマエ」
吐息まじりに、そっと空気に溶かす。ゆっくりと、少しずつ口が開いてきた。
「だって、かっこわるいだろ」
互いの息がかかるほど近づいていた。すべて吐かせるまで解放するものか。
「これは、ただの、おれの問題だ」
「ナマエ」
決定打を避けている。ごまかしている。もうひと押しを、
「逃げるな」
とたんに視線が鋭くなる。いい感じに挑発できた。
「いま逃げても、いつか必ず向き合う。さっさと楽になれ」
今回を見送ればどうなるか。いま手放せばいつ戻るか。
「今日のサンジ、すっげェいじわる」
「今日はとことん付き合う。おまえもおれに付き合うんだろ」
へらりと笑ってやれば、さらにきつく睨まれた。心地よい緊張感。
「だから嫌なのに。こんな奴に、なんで」
顔から手を離してやれば、深く息を吐き、両肩が下りていく。まだ腕は離せないが、つかむ力をゆるめる。目に見えて警戒が解かれていく。もう少し、もう少しだ。
「だから。おれは、おまえの、そういう顔で、そういう髪で、そういう笑い方が」
言葉に詰まる。自分も息を止めていた。
「全部、くやしいって思っただけだ。そんな顔をずっと隠していたのが、ずるいと思っただけだ」
頭が、まっしろになる。
「別にいいだろ。おれが何を思ったって。どう見えたっていいだろ。勝手にムカついて、勝手に意地張って、こうやっておまえを苛つかせた」
頭に置かれていた手がゆるみ、少しずつ髪が下りてくる。その都度ナマエは髪をかき上げなおした。
「悪い、無駄な時間を食っちまった。急がねェと」
無理やり口角を上げ、歯を見せてくる。強めに頭を押さえつけられたので椅子へ戻った。呆然としているあいだにも、ドライヤーを当てられ、髪にクセをつけていく。まだ何もつけていないのに、前髪は生え際からすべて後ろへ流れていた。このまま固めればオールバックになる。自分はブロンド。あれは緑。同じ髪型でも、似ても似つかない。わかるはずがない。誰が気づくものか。ナマエが整髪料を手にとった。ポマード。こちらに手を伸ばした瞬間、勝手に口が動く。
「少し、注文つけていいか」
「ん? どうした」
「完全に寝かさないでくれ。やわらかく、崩れるギリギリで」
「へえ」
言葉は続かない。妙にニヤつくので睨んでおく。
「それで。できるのか」
「もちろん。先に言ってくれて助かった」
手をふき、別の整髪料に変わった。あれは多分ワックス。前髪を持ち上げながら、もみこんでいく。複数のコームを使い分け、束感を残す。サイドはポマードでしっかりと固め、ドライヤーで全体を乾かした。
「これでどう?」
前頭部はざっくりと。七三分け。少ない右側は固めているが、大部分の左側は前髪が垂れるほどゆるい。後頭部へ向かうにつれ、きつく固めている。襟足は遊ばせていた。
「悪くねェ」
鏡越しに目を合わせる。ナマエも満足そうに歯を見せた。
「ゆるさはこれが限界。もっと崩したいなら時と場所を選べ」
意味がわからない。続きを待っていたが、腕を引っ張られ、椅子から立たされる。今度はナマエが座った。自身の髪を整えようとするので、手で制してしまう。
「中途半端に切り上げるな。そろそろおれの性格を理解したらどうだ。最後まで吐かせるに決まってるだろ」
「わかってる。ちゃんと言うから。続きは移動中に話す。あと三十分しかない」
手元の腕時計を確認。五時すぎ。つまり五時半にはここを出る。仕方なく後退し、解放してやる。目まぐるしく手が動きだした。コーム、ワックス、スプレー、ドライヤー。最後に別の眼鏡をかける。五分もかからなかった。立ち上がり、全身鏡をのぞくナマエは口元に笑みを浮かべている。雑な仕上がりというよりも、
「慣れてるな」
「これもパフォーマーのたしなみですから」
仰々しい口調。いつものカタリ。だが、どうしても目元が気になる。
「その眼鏡、ない方がいいんじゃねェか」
とたんに目を丸くさせた。
「とんでもない。これがないと、ただのカタリだ。スーツで綺麗にまとめるほど、うまく変装できなくなる」
自然と手が伸びる。ためしに眼鏡を取っ払ってみた。これが素顔。もう一度かけてみる。やはり滑稽だ。フェイスペイントでもすれば、サーカスの司会にでもいそうな風貌。
「サングラスはどうだ」
「だめだ。カタリはハットを深く被っている。そうすると、目以外の情報を元に素顔を想像する。だから変装中は、あえて目を見せないと。他人を見るとき、顔のなかだと目元に焦点を合わせる。すれ違うくらいなら、目だけを見て、それで終わる」
なるほど。カタリで顔を隠しているから、あえて普段は素顔をさらしているのか。
「それにサングラスは使いものにならない。今日は尚さら、だ」
反応するひまもなく、腕をとられ、ふたり並んで全身鏡のまえに立つ。すでにナマエはジャケットを着込んでいた。手袋を渡され、素直に装着する。やはり眼鏡が気になってしまう。これを外せばかなり洗練されるのに。もったいない。
「そろそろ下りるか」
五階から地上へ。ナマエが手元の腕時計を気にしはじめる。遠くから、豚の鳴き声。だんだんと近づいてくる。アパート前に止まった。車輪、御者、そしてつながれた大きな豚。
「乗るぞ」
ナマエの声でようやく足が動く。努めて平静を装った。ふたりとも乗りこめば動きだす。車内のカーテンはすべて閉じられた。
「豚車は初めてか」
即答せねば。
「ああ」
「ちょっと遠出だ。坂の上にあるから豚車の方が都合よくてな」
買い出しで訪れる街では一度も見かけなかった。ローグタウンは広い。山の方には貴族の住まいもあるとか、ないとか。
「これが今日のメインイベントだ」
ナマエが胸元から二枚取り出す。チケット。劇場。オペラ。
「ちょうど二枚手に入った。主役はとびきりの美人だ。きっと驚くぞ」
てっきりパーティにでも行くのかと思っていた。貴族と顔を合わせたくはないので、気が楽になる。オペラか。
「おまえ、こういうのに興味あったんだな」
「当たり前だろ。一流パフォーマーは、あらゆるエンターテインメントに精通していなければならない」
なるほど。
「主役が美人ってのはどこ情報だ。まさか、通いつめているのか」
目を合わせたまま、うしろに背を預け、足を組みなおす。もったいぶりやがって。
「今回の演目は初めてだ。いろいろと縁があって、まあ、時間があれば観にいくようにしている」
こいつ。相当観ているな。
「おまえがノリ気で安心したよ。興味なさそうだったら、予定を全部変更するところだった」
嫌いではない。むしろ好んでいた。ただ、忘れたはずの地獄がフラッシュバックするだけ。
「まあ、おまえがそんなに褒めちぎる美人なら、見る価値はあるな」
「期待はほどほどにしとけ。おれは総合的に評価する」
そういえば、こいつの好みを聞いたことはない。
「つまり、その主役がおまえの好みなんだろ」
予想と違う反応。挑発的な笑みは消え、目を伏せる。組んでいた足もほどいた。
「そういうのじゃねェ。あの子は舞台で一番輝くべきだ。おれはただ、笑っていてくれれば、それでいい」
もしかすると、とんでもない地雷を踏み抜いたのでは。プリマドンナと客。叶わぬ恋。こいつが、恋。
「とにかく、あそこの演目は絶対に外れない。今回は悲劇だが、途中の盛り上がりが評判らしい」
声に元気が戻ってきたので、好きに喋らせる。なにか聞き忘れている気もするが、十五分ほどで豚車が止まった。自分たち同様、数台の豚車が劇場前に止まっている。なかには猫車も。腹の底からわき上がる記憶を必死に抑えこみ、ナマエのあとを付いていく。劇場入り口でチケット二枚を見せていた。
「失礼ですが、お連れ様は後ろの方でよろしいでしょうか」
チケットを確認する男と目が合う。ナマエに手招きされた。急ぎ足でとなりに並ぶ。後方にも客が並んでいるので、誰がナマエの連れなのか判断しかねたのだろう。
「なにか問題でも?」
急にナマエの声が鋭くなった。顔は笑っている。いや、こいつが、この状況で笑うときは決まって機嫌を悪くしている。男の顔が固まった。
「失礼しました。チケットはお返しします。スタッフに声をかけられた際は、こちらをお見せください」
少々手荒にチケットを奪い取り、ナマエが大股で進む。自分も足早にあとを追う。まっすぐホールへ向かうのではなく、横にそれて壁に行き着いた。
「悪い、サンジ」
ゆっくりとこちらを振り返る。険しい表情。まだ目は合わない。
「今日は窮屈な目に遭うかもしれない。おれの予測が甘かった」
ここまで歩いてくる際、薄々感づいてはいた。周囲から突き刺さる視線。つまり、自分たちは劇場内で異質。なぜだ。
「さっきの受付が何を言いたいか、わかったか」
素直に首を横に振る。
「周りの客を見てみろ。どのふたりも男と女。男ひとり、女ひとりならいるが、おれらのような組み合わせは皆無だ」
そうか。同伴者は女であるべき。古い風習だ。
「気に食わない。第一、いつもはひとりで来ているんだ。男を連れてきたっていいだろ。ああ、腹が立つ」
ようやく目が合った。がっしり両肩をつかまれる。
「いいか。おれたちはチケットで堂々と入った。文句を言われる筋合いはない。むしろ一杯食わせてやれ」
いったい何する気だ。
「今日一番キマっているのはおまえだ。その顔で見返してやれ。じろじろ見てくる客にカウンター食わせろ」
ナマエの口元がそっとゆるんだ。何度か見た表情。これは最初のカタリ。あのとき、挑発された、
「少しつり上げるだけでいい。笑っているかいないか、微妙なラインが理想だ。これを見せれば、相手は必ず魅入る」
手が伸びてくる。口の両端を指で軽く押された。
「そう。できるだけリラックスして」
今しかない。聞くなら今だ。
「カタリでこうやるのは、わざとなのか」
「これをやるようになってから、目に見えてリピーターが増えた」
「おれも取り込む気だったのか」
具体的に思い出させる必要もない。もう半年以上前だ。忘れているなら適当に話題転換すればいい。
「あれはしょうがなかった」
いつの話なのか、本当に理解できているのか。
「あの定期市が始まる前から噂されていた。前評判も高い。そんな有名店が自分のとなりに出店した。妙に爽やかな兄ちゃんが、真横からじっと見てくる。正面からも、横からも映えるような手品を選ばないといけない。苦労したよ」
どの瞬間か、こいつは完全にわかっていた。
「カタリはいつでも余裕がある。そう見えるよう、ずっと笑っていた。いや、笑いすぎて、あの口が直らなかったんだ。だから最後の最後に目が合ったとき、どうしても他の表情ができなかった」
つまり、自分に対してわざと笑ったのではない。
「あのとき、ひどい顔をされたから絶対に嫌われたと思った。パティの話を聞いたかぎり、カタリの印象は相当アレだったしな」
そうか。こちらの反応もバレていたのか。そしてパティの話で確信した、と。今さら否定するのもおかしいので、軽く肩をすくめるだけに留める。
「一ヶ月遅れたのも悪かった。遠征予定が詰まっていて、なかなかバラティエに行く時間がとれなくて。本当はまっさきに会いにいって、カタリとナマエが同一人物だと言いたかった」
思わぬ話へつながり、目を見開いてしまう。ナマエはくしゃりと自然に笑った。
「でもカタリは嫌われたと思ったからさ。どうにも踏ん切りがつかなくて」
「嫌われて動揺したのか」
あえて口元だけをゆるめる。笑っているかいないか、微妙なライン。これで本当に釣れるのか。
「さあな。結局、おまえとはこういう仲になった。おれをマジシャンとして見てくれた」
カタリは嫌われたと思ったから、マジシャンとして認められたのが余計に響いた。つまり、そういうことなのだろう。単純な野郎だ。
「いい顔だ。今日のおまえなら百発百中だろうな。こっちをじろじろ見てくるレディがいたら、逆に落としてやれ」
妙に好戦的だ。おだてられている気もする。そして、ここにきてようやく思い出した。
「移動中に話すと言ってたな」
一瞬、目をそらされる。軽く舌打ちまでしやがった。
「忘れたと思ったのに。わかったよ。そろそろ席につく。付いてこい」
とっさに腕をつかむ。はぐらかすな。
「わかってる。おまえは歩きながらレディにカウンター食わせろ。おれは話を続ける」
スムーズに付いていけるよう、ナマエの半歩うしろを歩く。すぐに周りが振り返った。男に同伴しているレディと目が合う。そっと、口元だけをゆるめて。彼女の足が止まった。顔が赤いので成功。次のレディにも同じ対応を。
「言っただろ。今日はおまえが主役。おれが脇役。持っていけるだけ全部持ってけ」
野郎も振り向くが、徹底的に無視する。
「髪を固めればフォーマルになる。適度に崩せばカジュアルになる。今日はギリギリフォーマル。おれの美学にも合致する。合格だ」
階段をのぼりはじめる。それでも一階を流し見た。吹き抜けのホールなので目を合わせやすい。見上げてくるレディへひとりずつ、笑顔のあいさつを。
「つまり、それ以上崩せば美学に反する。反則だ。こういうフォーマルな場には不適当な髪になる」
フォーマルではなくなる、か。
「だから『時と場所を選べ』と言った」
ようやく上階にたどり着いた。ここまで上がってくる客は皆無。ナマエが扉のまえで立ちどまる。となりの自分を振り返った。
「半日は崩れない計算だ。観劇中は問題ない」
前へ向きなおり、扉へ手を伸ばす。ゆっくりと押し開きながら続いた言葉は、
「それ以上崩すのは、本気で女を落とす時だけにしろ。目に毒だ」
中で待機していた女にチケットを見せれば案内される。ステージへ近づく。突き当たりから、ひとつ手前のボックスへ通された。下手。二階。両どなりは衝立で仕切られている。
「開演は二十分後だ」
右の椅子を指差すので、おとなしく座る。何から聞くべきか。
「ときどき観にくるんだよな」
「ああ」
質問を続けるか迷っているうちに、背後から声をかけられる。ナマエはすぐさま立ち上がった。恰幅のよい、口ひげをたくわえた男。いくつか言葉を交わしたあと、ボックスを離れた。ナマエが椅子に戻り、そっと耳打ちされる。
「ここの支配人だ。いつも左のボックスで観ている」
顔を上げるが、左隣は柱で完全に区切られているため、何も見えない。
「受付での無礼を謝られた」
支配人が出るほどの対応だったか。それとも、こいつが上客なのか。
「いつもこの席を買うのか」
「まさか」
ニヤリと歯を見せてくる。また手招きされるので耳を近づけた。
「実は、チケットはタダでもらっている。このボックスの持ち主と知り合いなんだよ」
思わず息を呑んでしまう。そうだとしても、だ。そんな者となぜ知り合いなのか。
「カタリのパフォーマンスを極めるために勉強しろ、ってな。よくしてもらっている。ローグタウンでBARをやっているオーナーだ。この席を好きに利用させてもらう代わりに、店で定期的にショーをやっている」
信じがたい。そこまで協力的な者がいるとは。
「そのBAR、おれは行ったことあるか」
「一回だけ連れていったかな。地下の店。ワインが充実していたところ」
あそこか。隠れ家のような雰囲気だった。
「なんだかんだ、おまえもうまくやっているんだな」
「本当に、バラティエも世話になりっぱなしですよ。副料理長さまさまだ」
妙に苛つく。こうして連れまわすのも仕事の一部なのか。
「おれは今、接待されているのか」
顔をしかめてくる。
「どうした、いきなり」
「そういうことだろ。全部パフォーマンスのため。利用し、利用されている」
わざとらしくため息をつかれる。
「あのなあ」
手が伸びてくる。また口元を指でつつかれた。
「一階の客席を見てみろ。おまえがカウンター食らわせたレディたちが、ずっとこっちを見ている」
「話をそらすな」
「そらしてない。今日はとことん付き合ってくれるんだろ」
うなずく気分ではない。それでもまばたきで意思表示する。
「仮に、接待だったとしよう。おれが、おまえを喜ばせたいのには変わらない。それに、こういうのが好きな自分を見せたかった。口で話すだけだと、わかりづらいしな」
こういう観劇が好きな自分を、見せたかった。
「今日だって質問攻めばかりだ。いつになく攻めこんできやがる。それでも、今のところ全部答えているはずだ」
質問攻め。たしかに必ず答えが返ってくる。
「とっくの昔に開きなおった。おれは今日、機嫌がいい方なんだ。喋ることには喋るが、今日答えた分は、明日以降も保証はしてやれない」
また口元をつつかれる。
「ほら。レディを見てやれよ。みんなソワソワしてるぞ」
まだ理由を聞けていない。
「また話をそらすのか」
無邪気な笑顔。なぜこのタイミングで上機嫌になるのか。
「わかってねェな。サンジは、いつになったら言葉以外も察してくれるんだ?」
腹が立つ。空気を読むにも限界があるだろ。
「今日の演目を見せたかった。自分の好きなエンターテインメントを知ってほしかった。最高に男前な友を、ここの客に自慢したかった。──これでいいか?」
口を開けるが、息を吐くだけで終わってしまう。
「もうすぐ始まる。それまでの暇つぶしだ。正直に吐いてやる」
とっさに壁時計を確認。あと三分。
「自分の全力を尽くして、おまえを仕上げてみたかった。理想どおりの姿がとなりを歩いて、誰もがとなりを振り返る。うれしいに決まってるだろ。うれしいんだよ、レディたちがおまえの虜になるのが」
何を言われているのか。何を聞かされているのか。
「いま、すっげェ気分がいい。最高だ。今日、おまえを連れてきてよかった」
徐々に照明が落とされる。どうにか感情を表に出さぬよう努めた。
「そろそろだ。──これを接待と思うなら、好きにすればいい。ここまで本音をぶちまけた相手を利用するのも、おまえの勝手だ。だがな」
途端に視線が鋭くなる。暗がりでもガツンと突き刺さった。
「演目自体はおれと関係ない。おれへの感情抜きに観てくれ」
無言の圧力。ゆっくりとうなずけば、ナマエが歯を見せた。ようやく舞台を振り返る。背が見えた瞬間、静かに息をつく。暗くて助かった。髪を上げているので隠せない。あつい。頬に熱がたまっている。何を考えればいいのか。どこから思い出せばいいのか。そうこうしているうちに幕が上がる。スポットライトを浴びた女がひとり、舞台に姿を現した。