サンジ過去編
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店内から悲鳴が聞こえ、すぐさま厨房を飛びだす。海賊五人は全員突っ伏していた。立ち尽くすナマエの背が見える。
「怪我はないか」
背を向けたまま、静かに首を横に振る。黙々と海賊を縛り上げていった。自分は客に頭を下げ、場を収める。ナマエと共に海賊を店外へ引きずりだした。船で待機していた仲間へ五人を投げれば、血相を変える。海賊船は逃げるようにバラティエを離れた。
「今回はただの冷やかしか。普通、レストランには腹を空かせて来るもんだろ」
新しい煙草を吸いながら、となりを振り返る。そういえば、さっきからひとことも喋らない。あらためて真正面からナマエを見まわした。一瞬、固まってしまう。
「てめェ、その血」
「ちがう。ただの返り血だ」
即答される。それにしても酷い。さっきの海賊は、こいつの顔を見て逃げたのでは。髪、顔、胸元が派手に染まっている。とっさに来た道を振り返った。一筋の赤。引きずった際にできたもの。あの五人のうち、誰かが斬られたのか。
「とりあえず落としてこい。店内はおれが片付ける」
こくりとうなずいたあと、とぼとぼと歩きだす。返り討ちした割には妙に静かだ。コック数人を呼んで手早く店内を掃除したあと、浴室へ向かう。だが、目的地の手前でナマエの背中を見つける。
「おまえ、まだ入ってなかったのか」
やはり様子がおかしい。正面にまわりこめば、虚ろな瞳を見せた。
「悪い。服、貸してくれねェか」
ぎこちなく歯を見せる。声も嗄れていた。
「わかった。とにかくおまえは入れ。着替えは脱衣所に置いておいてやる」
「悪い」
軽く頭を下げ、歩きだす。脱衣所に入ったことを確かめてから、急ぎ足で自室へ向かった。目についた服を手に脱衣所へ戻る。シャワー音。赤く汚れた服が床に脱ぎ捨てられている。声をかけるか迷うも、無言で着替えを置くことにした。数十分後、もう一度脱衣所をのぞく。誰もいない。外に出れば、タオルを頭に被せたナマエが腰を下ろしていた。近づけない。声をかけにくい。その場をぐるぐる歩いたあと、厨房にスープを取りにいった。今日の賄い分だ。温めなおし、マグカップに注ぐ。
「ほら、これでも飲んでおけ」
平静を装った声で、気だるげにとなりへ座ってみせる。ナマエの手にマグカップを持たせた。
「ありが、とう」
タオルで隠れて表情はわからない。マグカップに口を付けた瞬間、悟られぬようそっと息をつく。しばらくはとなりで煙草を吹かしていた。空になったマグカップを取り上げる際、上体をひねり、無理やり顔をのぞきこむ。冷めた瞳。ゾクリと背筋が凍るも、おどけた声で笑顔をつくった。
「ひでェ顔だな」
タオルごと頭をなでまわす。抵抗なし。それどころか、さらに頭を下げた。チクリと胸が痛くなる。
「何かあったのか」
頭から手を離し、座りなおす。今は近づいても逆効果だ。
「今まで、客に迷惑がかからないよう、静かに対処していた」
暴れる輩を返り討ちにしていた時のことか。
「うまくいけば、誰かに気づかれる前に全部終わらせられた。それが一番理想的だと思っていた」
なんとなく話が読めてきた。
「今日、客の声が聞こえたんだ。『派手な戦闘を見にきたのに』って。『最近はハズレ』とも言っていた」
ここ半年、ナマエの臨時バイトは一定の頻度で続いている。それなりの「海賊退治」もこなしていた。
「だから、カッとなって。うまく加減できなかった。なんとか自分だけ血を被れたけれど。逆効果だったらしい。血を見せすぎた」
たしかに乱闘後の店内は妙に静かだった。数人の客は顔を青ざめていたはず。
「悪い。二時間くらい休ませて。客だって、おれの顔を見たくないはずだ。反省する」
「ばかやろう」
タオルを取り払い、腕を引っ張る。こちらへ振り向かせた。
「うちの店員でもねェ奴が、何でも背負うな」
ガツンと言ってやらねば。
「いいか。おまえは今夜のメインゲストだ。昼間のウエイターはただの暇つぶし。そうだろう? その顔、三時間以内になんとかしろ。カタリを楽しみしているレディをがっかりさせる気か?」
まだ表情は硬い。いつかのように、頬を引っ張り笑顔をつくる。
「おまえは誰だ。なぜバラティエに来た」
答えない。じりじりと詰め寄れば、ようやく口が動く。
「おれはマジシャン。ショーをするために、ここへ来た」
「ああ、そうだ。てめェのメインステージは昼間の店内じゃねェ」
一瞬、目が丸くなる。空気もやわらかくなった。頬から手を離し、再度腕を引く。どうにか立ち上がらせた。
「まずはその髪をどうにかしなくちゃな。風邪引くぞ」
脱衣所に椅子はないので自室へ連れてきた。椅子に座らせ、自分が髪を乾かしていく。
「髪が長いと、乾かすのも面倒だろ」
「面倒と思ったことはない。昔からこの長さだからな」
おとなしく座ったまま、会話もつながる。この調子なら大丈夫そうだ。
「へえ。わざわざ伸ばしているのか」
「切らない方が便利なこともある」
「便利?」
ドライヤーをオフにし、ブラシをかけていく。髪紐を取り上げ、うしろでひとまとめに。
「そう。便利」
具体的な回答はもらえない。仕上がったので正面へまわりこんだ。まとめられた髪に手を添わせ、こちらを見上げてくる。
「信じられない」
思わず目を細めてしまう。
「何がだ」
「こんな風に髪を乾かす奴、初めてだ」
笑った。妙に嬉しそうだ。
「それは褒め言葉か?」
いまいち素直に受けとれない。訝しんでいれば、立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「もちろん。副料理長の腕を認めての言葉だ。おまえ、美容師の素質もあるんじゃねェのか」
バカバカしい。こいつが手放しで賞賛するときは決まって裏がある。
「そりゃどうも」
「おれは本気だ」
急に声色が変わる。目をそらしていたが、異変に気づき、ゆっくりと正面へ向きなおる。
「服も貸してもらって、さらに頼みごとは悪いんだが。香水もいいか?」
なぜ香水を。今度は目を泳がせ、深呼吸をくり返したので、次の言葉を待つ。
「このあいだのやつ、覚えているか? うちの家で、おまえをベッドに倒すまえの。あの時みたいに、においを確かめてほしい」
うまく飲みこめずにいると、腕をとられ、引き寄せられた。結んだひもをほどき、髪を手にとる。
「おまえなら気づくはずだ」
いつになく鋭いまなざし。そのままナマエの手から髪を奪い、鼻に近づける。わからない。
「これは、うちのシャンプーってことしか──」
「もう少し近いほうがいいな」
こちらに腕をまわしこみ、頭を押さえつけられる。一気に首筋へ近づいた。体のバランスを崩し、とっさに片足を前に出す。それでも間に合わない。夢中でナマエにしがみついた。
「あのときと、同じにおいがするはずだ」
声が掠れ、わずかに体も震わせている。同じにおい。香水でもない。シャンプーでもない。どんよりと重い、なにか。さっき、こいつは何を浴びた。何を洗い流した。首筋に顔を埋めながら、探した答えをそのまま音にする。
「血なまぐさい」
胸元を押され、半歩下がる。顔を伏せているため、目は合わない。
「料理の邪魔にならないタイプがいい。副料理長厳選の香水、見せてくれ」
考えがまとまらないうちに、ぐいぐい腕を引っ張られる。戸棚までやってきた。じっと見つめられるあまり、手が勝手に動く。一番爽やかなタイプを渡した。
「さんきゅ」
ウエスト、首のうしろ、足元。香水を戸棚に戻し、こちらに向きなおる。
「これでマシになったはず。どうだ?」
今度はみずから髪を上げ、首筋を見せてきた。まだ整理しきれていないが、吸い寄せられるように顔を埋める。今度はしがみつかず、自力で体勢を保った。正直に感想を伝える。
「ああ、これで紛れた」
顔を離していく。どう反応すればいい。何を聞けばいい。表情が決まらずにいると、ナマエは手早く髪を結ぶ。
「おれは無理に答えない。だからおまえも適当に線引きすればいい」
意味がわからない。
「おれが臆病とでも言いたいのか。おまえを知るのが、そんなに悪いか」
「サンジ」
両肩をつかまれる。なぜ苦々しい顔をするのか。なぜ口元だけ笑ってみせるのか。
「これからも、できるだけ誠意を見せる。できる範囲のことはやる。意味もなく、おまえを拒絶しない。このあいだ、ああやって家で押し倒してからずっと考えていた。どこまで話すか。どこまで見せるか」
つまり、こいつは何かを隠している。
「おれはおまえに必要以上に踏み込まない。だが、要求されたらできるだけ応じたい。それだけだ」
具体的な言葉を避けている。これでは、とんでもない爆弾を抱えていると仄めかすも同然だ。
「ひとつだけ誓ってくれ。おまえは、バラティエにとって危険な存在ではないんだな?」
一度目を丸くさせ、すぐに頬がゆるむ。やわらかい音が空気に溶けた。
「そんなわけねェだろ。バラティエに危害は加えない。おれはマジシャンとして、ここにいる」
指を鳴らせば煙草が一本。こちらに差し出す。
「てめェ、いつのまに」
「ちょうど今、吸いたい頃かと思って」
半端に開けていた口に突っ込まれ、仕方なく受け入れる。火を付けて煙を吹かせば、ナマエがもう一度指を鳴らした。
「煙草のにおいもアリだな」
自身を指差し、見つめてくる。一度、大きく吸って吐く。煙で包んでやれば、その場で一回転した。ステージで見せるあいさつ。
「数々のお心遣い、感謝いたします」
「感謝、か」
とっさに出た言葉。思った以上に投げやりになってしまった。なめらかだったナマエの動きが固まる。何度もこちらを見ては、目をそらし、最後に背筋を伸ばした。
「服を貸してくれて、ありがとう。髪を乾かしてくれて、ありがとう。香水を、ありがとう」
最初はぼそぼそとつぶやくだけ。徐々に声を張っていく。ようやく目を合わせた。
「サンジ、ありがとう」
ほんのり色づいた気がした。散々周囲に吐いた煙で光の加減が変わったのだろう。じっとしていられず、体を横に向け、いつものように拳を突きだす。
「合格だ」
重なった感触。振り返らなくともわかる。またナマエが笑った。
「怪我はないか」
背を向けたまま、静かに首を横に振る。黙々と海賊を縛り上げていった。自分は客に頭を下げ、場を収める。ナマエと共に海賊を店外へ引きずりだした。船で待機していた仲間へ五人を投げれば、血相を変える。海賊船は逃げるようにバラティエを離れた。
「今回はただの冷やかしか。普通、レストランには腹を空かせて来るもんだろ」
新しい煙草を吸いながら、となりを振り返る。そういえば、さっきからひとことも喋らない。あらためて真正面からナマエを見まわした。一瞬、固まってしまう。
「てめェ、その血」
「ちがう。ただの返り血だ」
即答される。それにしても酷い。さっきの海賊は、こいつの顔を見て逃げたのでは。髪、顔、胸元が派手に染まっている。とっさに来た道を振り返った。一筋の赤。引きずった際にできたもの。あの五人のうち、誰かが斬られたのか。
「とりあえず落としてこい。店内はおれが片付ける」
こくりとうなずいたあと、とぼとぼと歩きだす。返り討ちした割には妙に静かだ。コック数人を呼んで手早く店内を掃除したあと、浴室へ向かう。だが、目的地の手前でナマエの背中を見つける。
「おまえ、まだ入ってなかったのか」
やはり様子がおかしい。正面にまわりこめば、虚ろな瞳を見せた。
「悪い。服、貸してくれねェか」
ぎこちなく歯を見せる。声も嗄れていた。
「わかった。とにかくおまえは入れ。着替えは脱衣所に置いておいてやる」
「悪い」
軽く頭を下げ、歩きだす。脱衣所に入ったことを確かめてから、急ぎ足で自室へ向かった。目についた服を手に脱衣所へ戻る。シャワー音。赤く汚れた服が床に脱ぎ捨てられている。声をかけるか迷うも、無言で着替えを置くことにした。数十分後、もう一度脱衣所をのぞく。誰もいない。外に出れば、タオルを頭に被せたナマエが腰を下ろしていた。近づけない。声をかけにくい。その場をぐるぐる歩いたあと、厨房にスープを取りにいった。今日の賄い分だ。温めなおし、マグカップに注ぐ。
「ほら、これでも飲んでおけ」
平静を装った声で、気だるげにとなりへ座ってみせる。ナマエの手にマグカップを持たせた。
「ありが、とう」
タオルで隠れて表情はわからない。マグカップに口を付けた瞬間、悟られぬようそっと息をつく。しばらくはとなりで煙草を吹かしていた。空になったマグカップを取り上げる際、上体をひねり、無理やり顔をのぞきこむ。冷めた瞳。ゾクリと背筋が凍るも、おどけた声で笑顔をつくった。
「ひでェ顔だな」
タオルごと頭をなでまわす。抵抗なし。それどころか、さらに頭を下げた。チクリと胸が痛くなる。
「何かあったのか」
頭から手を離し、座りなおす。今は近づいても逆効果だ。
「今まで、客に迷惑がかからないよう、静かに対処していた」
暴れる輩を返り討ちにしていた時のことか。
「うまくいけば、誰かに気づかれる前に全部終わらせられた。それが一番理想的だと思っていた」
なんとなく話が読めてきた。
「今日、客の声が聞こえたんだ。『派手な戦闘を見にきたのに』って。『最近はハズレ』とも言っていた」
ここ半年、ナマエの臨時バイトは一定の頻度で続いている。それなりの「海賊退治」もこなしていた。
「だから、カッとなって。うまく加減できなかった。なんとか自分だけ血を被れたけれど。逆効果だったらしい。血を見せすぎた」
たしかに乱闘後の店内は妙に静かだった。数人の客は顔を青ざめていたはず。
「悪い。二時間くらい休ませて。客だって、おれの顔を見たくないはずだ。反省する」
「ばかやろう」
タオルを取り払い、腕を引っ張る。こちらへ振り向かせた。
「うちの店員でもねェ奴が、何でも背負うな」
ガツンと言ってやらねば。
「いいか。おまえは今夜のメインゲストだ。昼間のウエイターはただの暇つぶし。そうだろう? その顔、三時間以内になんとかしろ。カタリを楽しみしているレディをがっかりさせる気か?」
まだ表情は硬い。いつかのように、頬を引っ張り笑顔をつくる。
「おまえは誰だ。なぜバラティエに来た」
答えない。じりじりと詰め寄れば、ようやく口が動く。
「おれはマジシャン。ショーをするために、ここへ来た」
「ああ、そうだ。てめェのメインステージは昼間の店内じゃねェ」
一瞬、目が丸くなる。空気もやわらかくなった。頬から手を離し、再度腕を引く。どうにか立ち上がらせた。
「まずはその髪をどうにかしなくちゃな。風邪引くぞ」
脱衣所に椅子はないので自室へ連れてきた。椅子に座らせ、自分が髪を乾かしていく。
「髪が長いと、乾かすのも面倒だろ」
「面倒と思ったことはない。昔からこの長さだからな」
おとなしく座ったまま、会話もつながる。この調子なら大丈夫そうだ。
「へえ。わざわざ伸ばしているのか」
「切らない方が便利なこともある」
「便利?」
ドライヤーをオフにし、ブラシをかけていく。髪紐を取り上げ、うしろでひとまとめに。
「そう。便利」
具体的な回答はもらえない。仕上がったので正面へまわりこんだ。まとめられた髪に手を添わせ、こちらを見上げてくる。
「信じられない」
思わず目を細めてしまう。
「何がだ」
「こんな風に髪を乾かす奴、初めてだ」
笑った。妙に嬉しそうだ。
「それは褒め言葉か?」
いまいち素直に受けとれない。訝しんでいれば、立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「もちろん。副料理長の腕を認めての言葉だ。おまえ、美容師の素質もあるんじゃねェのか」
バカバカしい。こいつが手放しで賞賛するときは決まって裏がある。
「そりゃどうも」
「おれは本気だ」
急に声色が変わる。目をそらしていたが、異変に気づき、ゆっくりと正面へ向きなおる。
「服も貸してもらって、さらに頼みごとは悪いんだが。香水もいいか?」
なぜ香水を。今度は目を泳がせ、深呼吸をくり返したので、次の言葉を待つ。
「このあいだのやつ、覚えているか? うちの家で、おまえをベッドに倒すまえの。あの時みたいに、においを確かめてほしい」
うまく飲みこめずにいると、腕をとられ、引き寄せられた。結んだひもをほどき、髪を手にとる。
「おまえなら気づくはずだ」
いつになく鋭いまなざし。そのままナマエの手から髪を奪い、鼻に近づける。わからない。
「これは、うちのシャンプーってことしか──」
「もう少し近いほうがいいな」
こちらに腕をまわしこみ、頭を押さえつけられる。一気に首筋へ近づいた。体のバランスを崩し、とっさに片足を前に出す。それでも間に合わない。夢中でナマエにしがみついた。
「あのときと、同じにおいがするはずだ」
声が掠れ、わずかに体も震わせている。同じにおい。香水でもない。シャンプーでもない。どんよりと重い、なにか。さっき、こいつは何を浴びた。何を洗い流した。首筋に顔を埋めながら、探した答えをそのまま音にする。
「血なまぐさい」
胸元を押され、半歩下がる。顔を伏せているため、目は合わない。
「料理の邪魔にならないタイプがいい。副料理長厳選の香水、見せてくれ」
考えがまとまらないうちに、ぐいぐい腕を引っ張られる。戸棚までやってきた。じっと見つめられるあまり、手が勝手に動く。一番爽やかなタイプを渡した。
「さんきゅ」
ウエスト、首のうしろ、足元。香水を戸棚に戻し、こちらに向きなおる。
「これでマシになったはず。どうだ?」
今度はみずから髪を上げ、首筋を見せてきた。まだ整理しきれていないが、吸い寄せられるように顔を埋める。今度はしがみつかず、自力で体勢を保った。正直に感想を伝える。
「ああ、これで紛れた」
顔を離していく。どう反応すればいい。何を聞けばいい。表情が決まらずにいると、ナマエは手早く髪を結ぶ。
「おれは無理に答えない。だからおまえも適当に線引きすればいい」
意味がわからない。
「おれが臆病とでも言いたいのか。おまえを知るのが、そんなに悪いか」
「サンジ」
両肩をつかまれる。なぜ苦々しい顔をするのか。なぜ口元だけ笑ってみせるのか。
「これからも、できるだけ誠意を見せる。できる範囲のことはやる。意味もなく、おまえを拒絶しない。このあいだ、ああやって家で押し倒してからずっと考えていた。どこまで話すか。どこまで見せるか」
つまり、こいつは何かを隠している。
「おれはおまえに必要以上に踏み込まない。だが、要求されたらできるだけ応じたい。それだけだ」
具体的な言葉を避けている。これでは、とんでもない爆弾を抱えていると仄めかすも同然だ。
「ひとつだけ誓ってくれ。おまえは、バラティエにとって危険な存在ではないんだな?」
一度目を丸くさせ、すぐに頬がゆるむ。やわらかい音が空気に溶けた。
「そんなわけねェだろ。バラティエに危害は加えない。おれはマジシャンとして、ここにいる」
指を鳴らせば煙草が一本。こちらに差し出す。
「てめェ、いつのまに」
「ちょうど今、吸いたい頃かと思って」
半端に開けていた口に突っ込まれ、仕方なく受け入れる。火を付けて煙を吹かせば、ナマエがもう一度指を鳴らした。
「煙草のにおいもアリだな」
自身を指差し、見つめてくる。一度、大きく吸って吐く。煙で包んでやれば、その場で一回転した。ステージで見せるあいさつ。
「数々のお心遣い、感謝いたします」
「感謝、か」
とっさに出た言葉。思った以上に投げやりになってしまった。なめらかだったナマエの動きが固まる。何度もこちらを見ては、目をそらし、最後に背筋を伸ばした。
「服を貸してくれて、ありがとう。髪を乾かしてくれて、ありがとう。香水を、ありがとう」
最初はぼそぼそとつぶやくだけ。徐々に声を張っていく。ようやく目を合わせた。
「サンジ、ありがとう」
ほんのり色づいた気がした。散々周囲に吐いた煙で光の加減が変わったのだろう。じっとしていられず、体を横に向け、いつものように拳を突きだす。
「合格だ」
重なった感触。振り返らなくともわかる。またナマエが笑った。