サンジ過去編
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「今度こそナマエと向き合う」と約束してから二日。ひたすらキッシュの完成度を高めていた。自分の気持ちを正直に伝えられる唯一の手段。絶対にナマエから嫌われない方法。だが肝心の言葉は一向にまとまらない。一発勝負に賭ける段階にまで追いつめられていた。
「そろそろ、ラニシュの仕入れを考えねェとな」
パティがため息まじりに腕を組む。ここ最近、コックたちは知恵を出し合っていた。高級食材ラニシュの流通が激減し、いつもの業者から買い付けできなくなったからだ。流通変動の原因は不明。しかしラニシュを諦めるわけにはいかない。
「こうなったら、産地に直接行くしかねェな」
カルネの意見に反対する者はいない。適正に保存すれば一年はもつ。年に一度、現地へ行けばいい。そこまで手間をかけてでもラニシュは料理に不可欠だった。高級きのこ。別名黒いダイヤ。特有の香りがメイン食材を引き立てる。
「となると、買い付けはいつもどおり、サンジってことになるが」
皆から視線が。適当に肩をすくめておく。
「わかってる。おれが行く。たしか、ラニシュの産地は」
壁の地図から探す。ローグタウンの反対へ。干物の漁港よりさらに遠い。この方面はまだ手付かずだ。
「おまえ、そっちは行ったことねェだろ。知り合いで詳しい奴がいる。そいつに案内を頼んでおいた」
パティの手配に面食らう。自分が買い出し役なのは前々からの決定事項だとしても、だ。知らぬあいだに話が進められたのは気に食わない。
「誰の許可でそんな真似──」
「もちろん料理長だ」
ニカッと歯を見せ、気味悪いほど目をパチクリさせる。いつもの挑発。いつもの悪ノリ。とりあえず一発を足へ。
「それで。案内人はいつ来る」
「副料理長は話が早い。次の定期船だ。おまえは船の準備をしておけ」
勝手すぎる。許可したジジイもジジイだ。その案内人は本当に信用できるのか。もう一発蹴りをぶち込んだあと、地図から航海日数を予測し、十分な食糧を買い出し船に詰め込む。一時間後、店員食堂に上がってきたのは、
「久しぶりだな、ナマエ」
パティが声をかけた。自分は前方を見つめたまま、声もでない。目が合う。こちらに歩みでて、少しぎこちない笑顔がつくられた。
「ラニシュを買いに行くって聞いた。よろしく」
バラティエを出航して数時間。声をかければ応答するが、会話は続かない。空気が重い。ナマエの見た目は変わらず青年姿だ。
「三日で着くはずだ」
ナマエはラニシュ産地のとなり町でパフォーマンスしたことがあるらしい。一年以上前だが、地理も覚えている、と。
「そういや、このあいだ、セシルちゃんに会った」
一応伝えたほうがいいだろう。風が強いため、煙の方向を調整。五歩以上はなれたナマエを振り返る。案の定、目を丸くさせた。さらにレニーとカレンのことも話す。もちろん喧嘩関連の話は伏せた。
「そうか」
こちらに背を向ける。拳を握った。
「サンジ。ラニシュの買い付けが終わったら、話したいことがある」
ゆっくりと振り返り、目が合う。自分も即答した。
「おれもだ」
三日後。最寄りの港町に船をつけて内陸へ歩く。半日ほどで森が開けた。目についた住宅を訪ねて情報収集する。
「悪いが、直接ラニシュは売ってないんだ。ちょうど港町を通ってきただろう? あそこの問屋にすべて任せている」
ラニシュの問屋。ざっと港町を歩いたが、そんなものは見聞きしなかった。村の中心部で数人に聞き込むも、同じ答えが返ってくる。仕方がない。港町に戻るか。
「村長と話がしたい」
ナマエが通りすがりの男を引きとめる。
「彼の、娘さんについて」
男の表情が一変した。そばの住民と顔を合わせ、ぼそぼそ会話する。
「ついてきてください」
彼らのあとを追う。すぐさまとなりのナマエへ突っ込んだ。
「どういう意味だ」
ゆっくりと顔を向け、こちらに歯を見せる。
「サンジは知っているフリをして。絶対にうまくいく。ただの交渉だ」
どうみても怪しい。こういう隙のない笑顔ほど油断してはならない。だが今は従っておこう。一度くらいトップに掛け合ってもいいはずだ。おとなしく付いていく。
「お話とは何でしょうか」
村長とあいさつを済ませたナマエは目を伏せ、思い詰めた表情を見せる。
「一年前まで、あの港町には元気にラニシュを売る娘さんがいました。久しぶりにきたら彼女はいなかった。──話は聞いています。僕は彼女を助けたい」
ぞわりと鳥肌が立つも、努めて顔を引きしめる。村長が血相を変えて立ち上がった。
「なりません! 海軍に通報でもすれば、あの子は殺されてしまう。誰かを雇ったと悟られても同じです」
この村長の娘が、人質? どこで、誰に。
「海軍の手は借りない。目立つ動きもしない。自分ならできます。一年前、ローグタウンで海賊百人が捕まった事件はご存知ですか。あれは、本当は自分たちがやりました。この二人で百人を倒しました」
村長をはじめ、この場にいた全員が一斉にこちらを振り返る。
「新聞に名前が残るのは嫌なのです。だから海軍大佐の名でカモフラージュした。実力は信用してください」
「なぜ、たった二人で、こんな辺境まできて、ここまでしてくれるのですか」
声を震わせる村長に対し、ナマエはそっと微笑んだ。
「また、元気にラニシュを売る彼女が見たい。ここでつくられた、最高級のラニシュを東の海の隅々まで行き渡らせたい。皆にここのラニシュを知ってほしい」
村長と目が合う。自分も無言でじっくりとうなずいた。拳を震わせながら、村長が声を絞りだす。
「どうか、あの子を。たすけてください」
敵は村の外れにある古城を占拠していた。古城の内部構造を聞き込んでから、村長の家を出る。外はすっかり暗くなっていた。先を進むナマエは古城へ続く道からそれる。村からも十分離れたので、ようやく本心を吐きだした。
「何を知っている。いつからだ。これからどうするつもりだ」
目が合うも、立ちどまらない。森に入ったところで言葉が返ってくる。
「パティに誘われたときだ。地名を頼りにざっくり調べたら、物騒な噂を聞いて。村長の娘はよく知らないが、ラニシュを売る姿は印象的だった」
ちがう。それではない。
「海軍も感づいてない情報をどこで知った」
「さっき通った港町。一回、別行動をとっただろ。あそこで訳知りな奴を捕まえて、ちょっとね」
あの別行動。訳知り野郎、か。
「村長の家で見た手配書は何だ」
村長とナマエは必要最低限のやりとりで済ませていた。「知っているフリをしろ」と言われていたので、自分はまともに確認もできなかった。
「相手は海賊。手配書が出回っているからこそ、よそ者を警戒して、人質で村人を脅している。港町の問屋も海賊の手下だ。ラニシュの流通量と売値を操作してボロ儲けしている」
つまり、市場からラニシュが消えてからずっと、あの古城に女の子が閉じ込められている。
「懸賞金額はそこそこ。三百万ベリー。たしか、ローグタウンの百人、デュロック海賊団の頭は四百万だった。たいしたことない」
だとしてもだ。バラティエに百万超えの海賊は来たことがない。凶悪な前科があるから賞金首となっている。けっして油断できない。
「カギはふたつ。『人質の子』そして『賞金首の頭』だ。ふたつを同時に処理すれば、向こうの形勢は一気に崩れる。おれは頭をとる。サンジは人質を村へ運べ」
古城から村まで一キロメートル以上。例の隠し通路経由だと、往復で二十分はかかるはず。そのあいだを、こいつひとりに任せるわけには。
「逆にしろ。おまえが彼女を運べ。おれが海賊を相手する」
「サンジ」
久しぶりにまっすぐ名を呼ばれた。視線を絡ませ、目で強く訴えかけられる。
「おれが勝手に巻き込んだ。ふたりで倒せると豪語して、ここまで来てしまった。ケジメをつけさせてくれ」
何を言っているのだ。こいつはわかっていない。こちらの気持ちなど、みじんも。
「つまり、おれは足手まとい。そういうことだな」
一歩近づく。暗闇に慣れてきた目が、ナマエのわずかな表情をもとらえる。ひたすら首を横に振っていた。
「城の構造上、人質は地下だ。さっき隠し通路も教えてもらったから、すぐに助けだせる。サンジの手で、はやく彼女を安心させてほしい。サンジだから任せたいんだ」
もっと直接伝えなければ。
「おれは、おまえに無茶をしてほしくない。これ以上、自分の体を傷つけてほしくない」
ナマエが深く深く息を吐く。そうやって困らせたいわけではない。ただ、理解してほしかった。
「わかった。こうしよう。ふたりで彼女を助けにいく。そのとき、どちらの手をとるか。彼女に選ばれた方がそのまま村へ運ぶ。外れた方が頭をとる」
「だめだ」
そんな運任せ、了承できるものか。
「ふうん? サンジは、おれが選ばれると思っているのか? レディに対して、そんなに自信がないのも珍しいな」
数秒遅れて意味を理解し、顔をそらしてしまう。もっともな理由を並べた。
「おまえらは一年前に会っている。知り合いを選ぶだろ、普通は」
「一年以上前だ。お互い、名前も知らない。そんな奴を覚えてるわけねェだろ」
これ以上はキリがない。新しく煙草を吸い、気を取りなおす。
「選ばれた側は絶対に引き受けろ。何がなんでも村に届けるんだ。いいな」
「わかってる」
声はとがっていない。むしろ丸いくらいだ。ようやく振り返れば、暗闇のなかで歯が見えた。
森のなかで隠し通路を見つける。ナマエが先に進んだ。城内に入り、地下へ一直線。牢の前で見張りをひとり沈ませた。
「交代の見張りがくる可能性もある。ここを自由に歩けるのは長くて三十分だ。彼女の居場所はわかる。ついてこい」
古城なだけあって、地下の造りもしっかりしている。今の今まで平気だった。しかし空の牢を奥まで見わたしたところで足がすくむ。そのあいだもナマエの足音は遠のいていく。体が動かない。
「どうした」
ナマエが戻ってきた。壁の松明で表情ははっきり読みとれる。つまり自分の顔色も察知されてしまう。急いで顔を伏せ、前髪で目元を隠した。
「交代の奴がこねェか、ここで見張っておく。おまえは彼女を探してこい」
「今すぐ交代はない。大丈夫だ。サンジ、いこう」
数歩進むが、またナマエは立ちどまる。視線を感じるも、さらに顔をそらしてしまう。まだ足は言うことをきかない。
「村で見た地図は迷路みたいに入り組んでいるし、牢の数も多かった。でも大丈夫だ。おれならすぐに見つける。すぐに助ける。三十分もかからない。安心しろ」
こちらへ近づいてくる。まだ、後ずさりできるだけの感覚は戻っていない。
「サンジ。おまえに付いてきてもらったのには、ちゃんと理由がある。彼女を迎えにいくとき、単独よりも複数のほうが安心させられると思ったからだ。一人よりも二人。単純に戦力も二倍。ふたりで行こう。一緒に行って、彼女を安心させよう」
震える手もとられた。わずかに引っ張られ、片足を前に出す。
「はぐれると面倒だから、このまま引っ張るよ。いい?」
強引にも、ほどがある。
「絶対に離さない。迷わない。卑怯なことを言うと──こういうの、慣れてるから。大船に乗った気持ちで任せて」
何を言っているのだ。慣れている? 何が。何を。どうして。
「現実的なことも話すと、ひとり倒したから今さら出直せない。前に進むしかないんだ。あと十秒待っても無理なら、おまえを担ぐ」
思わず振り返ってしまう。憎たらしい笑顔。
「十、九、八──」
必死に頭を働かせる。
「そんな無様な救出があるか」
「なんだ。めったにないチャンスだったのに」
だからといって、代替案も浮かばない。ひたすら睨みつける。
「わかった。担がない。その代わり。ちょっと失礼」
両手が伸びてくる。体を後退させるも間に合わない。両耳を手でふさがれた。
「目を見て」
軽く耳にふれた程度。声も十分聞こえる。
「一緒に深呼吸。吐いて。吸って」
無心になる。息の流れが重なり合った。耳から手がはなれていく。
「目を閉じて」
視界をふさぐと手をつかまれる。前に引っ張られ、さらに引っ張られる。徒歩から小走りへ。何度も角を曲がる。無我夢中で速度を合わせて付いていく。
「どこも空だ。誰もいない。だから多分、最後にもうひとり」
急停止した。目元があたたかい。ナマエの手が添えられていた。熱がはなれるタイミングで視界を広げる。目が合う。ナマエは余裕たっぷりに歯を見せ、小声でつぶやく。
「すぐそこだ。手をはなすよ」
とうの昔に震えはおさまっていた。無言でうなずけば、ナマエが駆けだす。前方の角を曲がった。男のうめき声。倒れこむ音。たどり着いた頃にはすべてが終わっていた。鉄の扉が見える。格子をのぞくと誰かがうずくまっていた。細かい金属音のあと、鍵も解除される。鉄扉を開けたナマエがこちらを振り返った。互いに目を合わせ、うなずく。自分はそばの松明を持ち、ナマエに続く。
「助けにきた」
返事はない。顔も上げない。そのあいだもナマエは忙しなく動く。壁につながった鎖を切断。──切断? 素手で切断? まばたきするも、武器は見当たらない。壁と首をつなぐ鎖の他に、手足の錠も解除された。薄暗いため、動きを目で追いきれない。ようやく彼女が顔を上げる。重いまぶた。寝ていたのか。こちらの顔が見えるよう、松明を前方に掲げる。自分たちは怪しい者ではない。ナマエがひざをつき、彼女と目線を合わせた。
「村長から話は聞いた。今からきみを助ける」
小さく口を開けたまま、呆然とこちらを見上げる。できるだけやわらかい笑顔を心がけた。ナマエへ視線が戻り、しだいに顔がゆがむ。
「鎖も全部切った。逃げよう」
ナマエが手を差し伸べた。自分の手も引っ張られ、強制的にひざをつき、ナマエのすぐとなりに手を差しだす。もちろん彼女はナマエへ倒れこんだ。話しかけたのはナマエ。見張りを倒したのもナマエ。そして自分は松明で手がふさがっている。これが最良の選択。
「急ごう」
さっくりと彼女を抱え上げ、ナマエが走りだす。自分も並走した。
「松明は置いとけ。手がふさがるし、目を闇に慣らしておきたい」
素直に従う。すべてを拒絶した往路とちがい、復路はしっかりと目を開けた。空の牢を見ても動じない。自分がなすべきことを胸に刻みなおす。こんな場所で立ちどまるものか。自分には不屈の精神がたたきこまれた。もう過去は振り返らない。
隠し通路の入り口でナマエが立ちどまる。
「すぐ戻る」
ゆっくりとこちらを振り返った。
「好きに暴れていい。手当たり次第に倒せばいい。一階から順に上がれば確実だ。頭には気をつけろ」
一瞬の沈黙。
「油断するな」
重く低い。感情のブレを隠すよう音に力が込められた。気を引きしめて体ごとナマエへ向きなおる。
「わかっている。さっさと行け」
背を向けるギリギリまで視線が絡み合った。彼女を抱えなおし、隠し通路へ消える。人気のない通路で、まずは一服。時刻は深夜一時。あいつのことだ。全速力で戻ってくるはず。見張りの交代時間も気になる。ならば、雑魚はすっ飛ばして、まっさきに頭をとるべきでは。
地下迷宮は断念したが、城内地図は頭にたたきこんだ。近くの倉庫でロープを探し、外の壁伝いに登る。目についた見張りを倒しつつ、十分足らずで最上階にたどり着いた。このバルコニーが一番広い。城の割には窓も広く、ガラス張りだ。カーテンもある。窓の鍵は──開いた。そっと足を踏み入れる。光はないが、部屋の内装くらいはわかる。地下迷宮や一階の通路、外壁からは想像できないほど宝飾品であふれていた。甘い香りが鼻をくすぐる。
前方のベッドで眠るのは、素肌をさらした長髪の女性。入る部屋をまちがえた。侵入した窓へ引き返すも、途中で足を止めてしまう。彼女も助けるべきでは。
「レディの寝床に侵入する不届き者は、どなた?」
息がとまる。ベッドへ振り返れば彼女が上体を起こしていた。胸元は長いブロンドで隠れたが、くびれの刺激が強すぎる。灯りがなくて助かった。初対面で赤い顔をさらすわけにはいかない。
「きみを助けにきた」
人質の子はナマエが救出した。自分だって誰かを。警戒されぬよう、じりじりとベッドへ歩みよる。
「誰から助けるつもり?」
「もちろん、ここの頭、バルバラだ」
バルバラ海賊団、船長バルバラ。醜くゆがんだ横顔が手配書となっていた。そいつが、このレディを囲っている。
「無理よ。バルバラは強い。あなたひとりでは太刀打ちできない」
悲痛な声色。やはり彼女は逃げたがっている。
「大丈夫だ。頼もしい奴がもうひとり来る。そいつがいなくても、おれの足で叩きのめしてやる」
そのためにもターゲットの居場所を。
「バルバラはどこにいる」
ベッド脇まで近づいた。なにかを羽織ってほしいが、近くに適当な布は見当たらない。裸体の彼女を直視しないよう務める。
「教えたら、あなたは飛びこんでいってしまう。そんなのいやよ」
まさか、見ず知らずの自分を心配してくれるとは。
「ありがとう。気持ちはうれしいが、約束しちまったんだ。あと十分でケリをつける。あいつが来るまでに全部終わらせたい」
ナマエが戻ってくるまで二十分。もう半分は過ぎた。
「なら、その方が来るまで待ちましょう? あなたに無駄死にしてほしくない」
ふわりと腕が、腰に。あたまがまっしろになる。素肌で抱きつかれた。瞬時に熱が集まる。
「あなたが来てくれて、うれしかった」
腰から引き寄せられ、ベッドに倒れこんでしまう。まずい。完全に熱が暴走している。頼む。腰から顔を離してくれ。
「どこからいらしたの? おいくつ?」
仰向けに寝かされ、彼女が腹部にまたがった。暗くて顔は見えないが、この体勢では髪で胸元を隠しきれない。でかい。ふんわり。揺れた。手が重なり、手首に違和感。
「顔は文句なし。声もすてき。大丈夫。痛くない」
両足首も固定されてようやく気づく。拘束された。
「なに、するんだ!」
口に指を突っ込まれ、下腹部をさすられる。一気にふくらんだ。まずい。まずいまずい。
「かわいい子はずっとそばに置きたいの。あなたを愛でてあげる」
ベッド下から取りだしたのは太いノコギリ。ゾッと背筋が凍った。
「もう遠くへ行かないで。丈夫な足は邪魔。はやく切らないと」
がむしゃらに身をよじるも、がっしり押さえつけられてしまう。おかしい。何かがおかしい。助けてほしいはずのレディがなぜこんな真似を──
「どけ! 手ェ出すな!」
風が舞う。全身が軽くなった。
「おい、しっかりしろ!」
聞き慣れた声。耳元でうるさいほど叫ばれ、一瞬目を閉じてしまう。そのあいだに両手足も解放された。ベッドから立ち上がらされる。
「あいつがバルバラだ」
ナマエの背に隠される。前方にはふらついた彼女が。落ちたノコギリを拾い上げる。
「まさか、彼女があの手配書なわけが」
「だまされるな。ここに来る途中、城内にいた奴は全部倒した。あとはこいつしか残っていない」
裸体の彼女は肩を震わせ、笑い声を響かせる。
「そうさ。おれがバルバラ。部下を全部やっただと? また集めなおさねェとな。面倒なことをしやがって」
口調も一変する。
「サンジ。下がっていろ。おれがやる」
ナマエが駆けだす。バルバラはノコギリを振りまわしはじめた。体勢を低くしたナマエが一気に間合いを詰める。懐に入り、下からあごを蹴りあげた。手合わせでみる、いつもの技。バルバラが吹き飛ぶ。ノコギリをうばいとり、床に押し倒す。首元に刃を突きつけた。
「サンジ、そこのロープをくれ」
ロープ。ベッドに散らばったロープをかき集めてナマエへ投げる。あれは、さきほど自分を拘束していたもの。ナマエが手早くバルバラを縛り上げる。
「あんたもいい顔しているじゃないか。どうだ。おれの下に付かないか」
バルバラは怯えるどころか、愉快そうに声をはずませる。
「おれは今、最高に気分がいい。てめェがやらかした仕打ちを見逃せるほど、やさしくはないんでね」
ナマエが笑っている。いや、完全に怒り狂っていた。初めて聞く声色に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「遠くに行かないで、だったか。丈夫な足は切らないと、なあ?」
途端にバルバラが暴れだした。ナマエがさらにロープを巻き付ける。うばいとったノコギリを彼女の足首にあてがった。何をするか理解し、がむしゃらに叫ぶ。
「やめろ! 女だぞ!」
ナマエと視線が絡まる。キッと睨まれ、ノコギリが振り下ろされた。足首ではなく、横にそれて床に突き刺さる。バルバラの腹に拳がぶち込まれた。動作すべてが停止する。意識を沈ませたのだ。
「シーツ、くれ」
ベッドシーツを放り投げる。ナマエはていねいに裸体を包み込んだ。上からもう一度ロープで縛り上げ、床に寝転がされる。
「用は済んだ。村に戻る」
こちらに歩いてきた。横を通りすぎ、自分が侵入した窓に手をかける。
「ほら、行くぞ」
外の見張り台を経由して城外へ出る。往路の隠し通路ではなく、正面から堂々と道を歩いた。村まで残り半分というところでナマエが立ちどまる。
「さっき村に戻ったとき、海軍へ通報するよう指示した。朝には港町の海兵が到着する」
正面に回り込まれる。鋭い視線がぶつかった。
「時間は海軍が来るまでだ。それまでに答えを出してくれ」
次の言葉にすべてを持っていかれた。
「おれを蹴ろ。今ここで蹴れねェなら、おまえと縁を切る」
わけがわからず立ち尽くしてしまう。ナマエが動きだした。足が振り上げられ、とっさに腕でガードする。さらに攻撃が重なり、言葉も続く。
「いつもの手合わせだ。いつもみたいに吹き飛ばせばいい。それくらいできるだろ」
「なに言ってんだ。今はそんなことしている場合じゃねェだろ」
「今しかねェんだ! ここで白黒つけないと! もう! 前みたいに戻れなくなる!」
悲痛な叫び。そのあいだもナマエの足蹴りはやまない。自分は防御に徹する。
「ちゃんと説明しろ。何の白黒をつける気だ」
「おれを女だとみなすなら、もう会わない。今までどおりなら仲直りしたい。どちらかを選べ」
なぜ今なのだ。なぜ、なぜそこまで徹底的に区別しなければならないのだ。
「女は蹴らん。おれがおれでいるための魂だ。──わかってくれ」
「わからない! なんで、なんでだよ。今までずっと、たのしかった、のに」
声が掠れる。攻撃も弱まった。
「女を見せたら、もっとサンジに近づけるのか。サンジのようになれるのか。弱い自分を克服できるのか」
女としておまえを受け入れたら、肉体的にはさらに近づける。うまく絡まれば、心だって通い合うはず。だが、女を引き出しても自分のようになれるわけではない。弱点を克服できるとは限らない。
「おれは、対等な目で見てくれるサンジがいいんだ。気を遣わないサンジがいいんだ。サンジを追いかければ強くなれる。理想に近づける。おれはサンジになりたい。サンジのようになりたい」
カレンから聞かされた言葉を思い出す。セシルに励まされた。カレンやレニーと約束した。正面から向き合う。ナマエが求めていることを知って、応えてやりたい。自分の正直な気持ちを伝えたい。
「おまえの気持ちをできるだけ受けとめたい。わかってやりたい。だが、おまえが女だという事実は変えられない。頭で割り切れても、体は女の情報を覚えちまった。おれだって、どうしたらいいかわからねェんだ」
「男か女の二択しかねェのか。おれは、サンジの特別にはなれねェのか」
ぎゅっと心臓をわしづかみされる。ナマエの攻撃がとまった。
「女のサインはもう出さない。サンジの前では男に徹する。肌も見せない。泣かない。弱らない。もっと強くなる。心配なんかかけさせない。だから!」
両肩をつかまれる。声、目つきだけではない。肌ごしに重い気迫を浴びる。全神経をナマエの音に集中させた。
「前みたいに、手合わせ、させてくれ」
手を伸ばすべきではない。抱き寄せるなどもってのほか。いま、きみに──こいつに必要なのは、言葉でもまなざしでもなく、渾身の一撃。五歩下がり、勢いをつけて回し蹴りを食らわせる。もちろん腕で受けとめられた。わかっている。絶対に防がれるからこそ足を出した。こいつが圧倒的に強くなければ割り切れない。そして今の蹴りで目が覚めた。
「完璧な約束はできねェが、これから努力する。今までの空気を大事にする。おれは、おまえの求める位置に戻る。それでいいか」
目を合わせたまま、ナマエが深く深く息を吐きだした。
「こんな、面倒な奴で、ごめん」
「謝るくらいなら、こっちからも注文をつけさせろ」
ナマエの求める理想を受けとめた。今度は自分の気持ちを伝える番。
「これだけは約束してくれ。絶対に嘘だけはつくな」
ずっと混乱していた。なぜ仲直りできなかったのか。自分から歩み寄れなかったのか。くやしかったのだ。あんなにも互いを許しあったはずが、元から一線を引かれていた。だまされた。嘘をつかれた。そんな感情を抱いてしまうほど、自分は信頼し合う関係を欲していた。
「いくらでも隠せばいい。どんなナマエがいようとも責めない。否定しない。だが、わざわざおれに嘘は言うな。偽るな。おまえに裏切られるのが、一番、くやしい」
途中から声が震えだすも、どうにか言いきった。顔をそむけたいが、懸命に視線を固定する。
「わかった。サンジに嘘は言わない、絶対に」
求めていた答え。互いの意識が、ようやく重なった。どっと力が抜ける。とにかく新しい煙草を。ここにきてジジイの言葉が頭をよぎる。
「おまえはあいつの何を見てきた」
ナマエの何を見てきたのか。ジジイはナマエへ足を出すのを止めなかった。ナマエの戦場を見届けろと言われた。男、女ではなく、ナマエとして見てきた。女のなかのナマエではなく、ナマエのなかのナマエ。二択ではない、特別、か。
「無理難題を押しつけやがって」
つい声がもれてしまった。向かいのナマエはにがい顔で頭をかく。
「こんな難題、サンジにしか頼めないよ」
沈黙。目を合わせ、そろりと前へ向きなおる。どちらが言うまでもなく、村へ歩きだした。
深夜三時なのに村の家々は灯りがついていた。海軍への通報完了を確認したあと、借りた部屋で睡眠をむさぼる。翌朝。面倒ごとを避けたいナマエに同調し、海軍の取り調べから逃げきる。バルバラの懸賞額三百万ベリーは村長に支給された。港町の問屋も今ごろ捕まっているだろう。想定以上のラニシュを受けとってしまった。最後に村長の娘へ会いにいく。
「本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる彼女に、イチかバチか尋ねてみる。
「こいつの顔、覚えているか」
昨夜の牢でナマエを選んだ理由。わかっていて倒れこんだのか、瞬時に二択の答えを導きだしたのか。顔を上げた彼女はきょとんと目を丸くさせた。すぐに頬がゆるむ。
「まちがっていたら申し訳ないのですが。もしかすると、一年前にお花をくださった方、でしょうか」
となりを振り返る。ナマエは彼女を見つめたまま、手元から花を出現させた。マジックだ。
「この花で合ってたかな」
彼女が笑顔で受けとった。
「ええ」
ふたりの空間が作り上げられる。無性にイラつき、ナマエの腕を引っ張っていった。ふたりして彼女に手を振り、村を離れる。港町へ歩いた。
「てめェ、わかってたのか」
「なにが?」
とぼけやがって。ジリジリ睨みをきかせる。肩をすくめてみせたあと、ナマエが前へ向きなおった。
「おれの一年と、あの子の一年は多分、ちがう。村長の話から推測すると、あの子はおれと会ってすぐ人質になった。だから直前に会った人のことを、よく覚えていたんだと思う」
人間が一年も日に当たらずに幽閉されたらどうなるか。半年でさえ気が狂ったのに。ぐっと拳に力を入れてしまう。
「港町の花屋とラニシュ屋がとなり同士でさ。花を見にいくと、必ず彼女に声をかけられた。あんな美人に話しかけられたら誰だって足を止める。本当に、評判の看板娘だった」
さきほどの彼女は頬がやつれていた。ろくに食事も供給されなかったのだろう。それでも美しさは衰えていなかった。いつか、元気になった彼女の姿を見てみたい。
「だから、今回おまえと一緒に来てよかった。ありがとう」
久しぶりに聞く言葉。思わず立ちどまってしまう。
「そんなちんたら歩いていたら盗まれるぞ。それだけのラニシュ、いくらで売れると思っているんだ」
はにかみながらこちらを振り返る。あわててラニシュの袋を抱えなおした。となりと歩調を合わせる。
「おれは運搬に集中してんだ。囲まれたらおまえが蹴散らせ」
こいつが求めているのは、こういう関係。こういう距離。
「はいはい。さくっとバラティエに帰るか」
三日後の早朝。すでに事件の詳細が新聞で報じられていた。コックたちの質問攻めをかわし、ふたりして寝床につく。夕方に起きて店員食堂へ。入った途端、その場の全員が騒ぎはじめた。
「やったな! おれは信じていたぞ!」
「一週間あればどうにかなるもんだな」
「『失敗』に賭けた奴も結構いたぞ。まあ、おれはガッポリ儲けさせてもらったが」
頭が痛い。つまり、自分たちが仲直りするかどうか、皆で賭けをしていた。どうでもいい自慢話を右から左へ聞きながし、まっすぐ厨房へ向かう。味は固まっていた。あとは時間との勝負。
翌朝。ナマエが起きてくる頃合いを見計らって皿に盛る。本当は丸一日寝かせたいが、もたもたしているとローグタウンへ帰ってしまう。眠そうな顔が店員食堂に現れた。
「おまえの分だ」
となりに座り、真横から食事を観察する。一ヶ月ぶりのキッシュ。ひとくちを飲みこんだあと、ゆるんだ頬がこちらに向けられた。
「うん。やっぱり、サンジのキッシュはさいこうだ」
反応を忘れ、テーブルに頭を突っ伏す。ようやく出発点に戻った。やっと区切りがついた。胸にはびこっていた淀みが消えていく。
「これ。また持っていてほしい」
キッシュを頬張りながら置いたのは、金属のかたまり。理解するのに数秒はかかった。
「やっぱり、これは受けとれない?」
テーブルに突っ伏す自分と目線を合わせる。同じように顔を傾けた。まだ口をもぐもぐさせているのが、おかしくて仕方がない。
「ちゃんと説明しろ。これに関してだけは、全部が全部元どおりってわけにはいかねェだろ」
泊まるわけには。あの空間で酒を浴びるのも危険。何を求められているのか。
「また朝ごはんを作りにきてほしい。留守なら泊まってもいい。あれだけの調味料、おれには使いこなせない。サンジに有効活用してもらわないと」
瞳を閉じ、深呼吸。金属をつかみ、内ポケットに押しこんだ。途端にナマエが顔をほころばせる。
「てめェ、ナマエの家に泊まってたのか!?」
あわてて上体を起こせば、向かいに顔を引きつらせたパティが。目についたコックも何人か固まっている。
「こいつが遠征で留守のときだけだ」
「いや、その前の話だ。全部が全部、どうとか言ってたじゃねェか」
パティの追撃をどう逃れるか。ナマエが両手を振る。
「もうそれ以上はないから。酒を飲ませないようにするし、朝だけにする」
なにかを言いかけたが、パティは口を閉じてしまう。
「おまえら、料理長にはバレねェほうがいいぞ。おれなら絶対に隠す。特にサンジ、おまえだ。気をつけろ」
ついナマエと目を合わせてしまう。同時にパティを見上げた。となりのナマエがうなずいたので、自分も首を縦に振っておく。
「おまえなあ。ぜってェわかってねェだろ。ちょっと来い」
強引に引っ張られ、食堂をあとにする。反対側まで歩ききったところでようやくパティが立ちどまった。
「いいか。ナマエと仲直りしたのは結構だが、おまえにはまだノルマが残ってる。意味わかるか?」
ノルマ。必死に頭を働かせるも思いつかない。ナマエの意向は十分に聞いた。女扱いしないとも約束した。心残りだったキッシュも食べさせた。合鍵さえも手元に戻ってくる。これ以上何を求めるというのだ。
「おまえはまだ気づいてねェ。このあいだ干物の姉ちゃんだって言ってただろ。ナマエとこれからどうするか。目だけはそらすなよ」
一瞬、聞きまちがいかと思った。すぐに悟り、勢いあまってパティの胸ぐらをつかんでしまう。
「何を聞いた。どこから聞いた。答えろ」
レニーとカレンの話を聞かれた。
「あんなに堂々としゃべってりゃ、勝手に聞こえちまうだろ。まあ、だいたい最初からだ」
頭がふらつく。とんだ失態を犯してしまった。
「とにかくだ。あの姉ちゃんが『もう少しで仲直りできる』って言った理由をよく考えろ」
レニーだ。あのときはたしか。女を抱けない。身代わりに抱いてもむなしくなるだけだった、と。
「ナマエが特別だってことだろ」
今はこの言葉が一番しっくりくる。ナマエ自身もそうありたいと望んでいた。
「その特別ってのは、つまり、どういうことだ」
ずいと顔をのぞきこまれる。特別は特別だ。他とは違う距離、関係。
「答えられねェだろ」
沈黙を守る。きっと今は何を言っても不利だ。なにより、このパティに「無知」「未熟」だと認識されるのがムカつくほど悔しい。
「まあ、今のおまえにはこれが限界だな。あとはゆっくり、二年後三年後にでも気づけ」
あんなにもしかめっ面だったのに、今度はニタリと歯を見せてきた。ぐしゃぐしゃに髪をかき乱され、その場に取り残される。言いたいことだけ言いやがって。仕事前にもう一本吸っておくか。
ライターを取りだす際、ポケットに硬い感触が。金属のかたまり。ナマエの鍵。合鍵。柵にもたれかかっていたが、落としたくないので半回転し、背を預ける。手のひらに乗せてひととおり眺めたあと、また内ポケットの奥底にしまいこんだ。
「そろそろ、ラニシュの仕入れを考えねェとな」
パティがため息まじりに腕を組む。ここ最近、コックたちは知恵を出し合っていた。高級食材ラニシュの流通が激減し、いつもの業者から買い付けできなくなったからだ。流通変動の原因は不明。しかしラニシュを諦めるわけにはいかない。
「こうなったら、産地に直接行くしかねェな」
カルネの意見に反対する者はいない。適正に保存すれば一年はもつ。年に一度、現地へ行けばいい。そこまで手間をかけてでもラニシュは料理に不可欠だった。高級きのこ。別名黒いダイヤ。特有の香りがメイン食材を引き立てる。
「となると、買い付けはいつもどおり、サンジってことになるが」
皆から視線が。適当に肩をすくめておく。
「わかってる。おれが行く。たしか、ラニシュの産地は」
壁の地図から探す。ローグタウンの反対へ。干物の漁港よりさらに遠い。この方面はまだ手付かずだ。
「おまえ、そっちは行ったことねェだろ。知り合いで詳しい奴がいる。そいつに案内を頼んでおいた」
パティの手配に面食らう。自分が買い出し役なのは前々からの決定事項だとしても、だ。知らぬあいだに話が進められたのは気に食わない。
「誰の許可でそんな真似──」
「もちろん料理長だ」
ニカッと歯を見せ、気味悪いほど目をパチクリさせる。いつもの挑発。いつもの悪ノリ。とりあえず一発を足へ。
「それで。案内人はいつ来る」
「副料理長は話が早い。次の定期船だ。おまえは船の準備をしておけ」
勝手すぎる。許可したジジイもジジイだ。その案内人は本当に信用できるのか。もう一発蹴りをぶち込んだあと、地図から航海日数を予測し、十分な食糧を買い出し船に詰め込む。一時間後、店員食堂に上がってきたのは、
「久しぶりだな、ナマエ」
パティが声をかけた。自分は前方を見つめたまま、声もでない。目が合う。こちらに歩みでて、少しぎこちない笑顔がつくられた。
「ラニシュを買いに行くって聞いた。よろしく」
バラティエを出航して数時間。声をかければ応答するが、会話は続かない。空気が重い。ナマエの見た目は変わらず青年姿だ。
「三日で着くはずだ」
ナマエはラニシュ産地のとなり町でパフォーマンスしたことがあるらしい。一年以上前だが、地理も覚えている、と。
「そういや、このあいだ、セシルちゃんに会った」
一応伝えたほうがいいだろう。風が強いため、煙の方向を調整。五歩以上はなれたナマエを振り返る。案の定、目を丸くさせた。さらにレニーとカレンのことも話す。もちろん喧嘩関連の話は伏せた。
「そうか」
こちらに背を向ける。拳を握った。
「サンジ。ラニシュの買い付けが終わったら、話したいことがある」
ゆっくりと振り返り、目が合う。自分も即答した。
「おれもだ」
三日後。最寄りの港町に船をつけて内陸へ歩く。半日ほどで森が開けた。目についた住宅を訪ねて情報収集する。
「悪いが、直接ラニシュは売ってないんだ。ちょうど港町を通ってきただろう? あそこの問屋にすべて任せている」
ラニシュの問屋。ざっと港町を歩いたが、そんなものは見聞きしなかった。村の中心部で数人に聞き込むも、同じ答えが返ってくる。仕方がない。港町に戻るか。
「村長と話がしたい」
ナマエが通りすがりの男を引きとめる。
「彼の、娘さんについて」
男の表情が一変した。そばの住民と顔を合わせ、ぼそぼそ会話する。
「ついてきてください」
彼らのあとを追う。すぐさまとなりのナマエへ突っ込んだ。
「どういう意味だ」
ゆっくりと顔を向け、こちらに歯を見せる。
「サンジは知っているフリをして。絶対にうまくいく。ただの交渉だ」
どうみても怪しい。こういう隙のない笑顔ほど油断してはならない。だが今は従っておこう。一度くらいトップに掛け合ってもいいはずだ。おとなしく付いていく。
「お話とは何でしょうか」
村長とあいさつを済ませたナマエは目を伏せ、思い詰めた表情を見せる。
「一年前まで、あの港町には元気にラニシュを売る娘さんがいました。久しぶりにきたら彼女はいなかった。──話は聞いています。僕は彼女を助けたい」
ぞわりと鳥肌が立つも、努めて顔を引きしめる。村長が血相を変えて立ち上がった。
「なりません! 海軍に通報でもすれば、あの子は殺されてしまう。誰かを雇ったと悟られても同じです」
この村長の娘が、人質? どこで、誰に。
「海軍の手は借りない。目立つ動きもしない。自分ならできます。一年前、ローグタウンで海賊百人が捕まった事件はご存知ですか。あれは、本当は自分たちがやりました。この二人で百人を倒しました」
村長をはじめ、この場にいた全員が一斉にこちらを振り返る。
「新聞に名前が残るのは嫌なのです。だから海軍大佐の名でカモフラージュした。実力は信用してください」
「なぜ、たった二人で、こんな辺境まできて、ここまでしてくれるのですか」
声を震わせる村長に対し、ナマエはそっと微笑んだ。
「また、元気にラニシュを売る彼女が見たい。ここでつくられた、最高級のラニシュを東の海の隅々まで行き渡らせたい。皆にここのラニシュを知ってほしい」
村長と目が合う。自分も無言でじっくりとうなずいた。拳を震わせながら、村長が声を絞りだす。
「どうか、あの子を。たすけてください」
敵は村の外れにある古城を占拠していた。古城の内部構造を聞き込んでから、村長の家を出る。外はすっかり暗くなっていた。先を進むナマエは古城へ続く道からそれる。村からも十分離れたので、ようやく本心を吐きだした。
「何を知っている。いつからだ。これからどうするつもりだ」
目が合うも、立ちどまらない。森に入ったところで言葉が返ってくる。
「パティに誘われたときだ。地名を頼りにざっくり調べたら、物騒な噂を聞いて。村長の娘はよく知らないが、ラニシュを売る姿は印象的だった」
ちがう。それではない。
「海軍も感づいてない情報をどこで知った」
「さっき通った港町。一回、別行動をとっただろ。あそこで訳知りな奴を捕まえて、ちょっとね」
あの別行動。訳知り野郎、か。
「村長の家で見た手配書は何だ」
村長とナマエは必要最低限のやりとりで済ませていた。「知っているフリをしろ」と言われていたので、自分はまともに確認もできなかった。
「相手は海賊。手配書が出回っているからこそ、よそ者を警戒して、人質で村人を脅している。港町の問屋も海賊の手下だ。ラニシュの流通量と売値を操作してボロ儲けしている」
つまり、市場からラニシュが消えてからずっと、あの古城に女の子が閉じ込められている。
「懸賞金額はそこそこ。三百万ベリー。たしか、ローグタウンの百人、デュロック海賊団の頭は四百万だった。たいしたことない」
だとしてもだ。バラティエに百万超えの海賊は来たことがない。凶悪な前科があるから賞金首となっている。けっして油断できない。
「カギはふたつ。『人質の子』そして『賞金首の頭』だ。ふたつを同時に処理すれば、向こうの形勢は一気に崩れる。おれは頭をとる。サンジは人質を村へ運べ」
古城から村まで一キロメートル以上。例の隠し通路経由だと、往復で二十分はかかるはず。そのあいだを、こいつひとりに任せるわけには。
「逆にしろ。おまえが彼女を運べ。おれが海賊を相手する」
「サンジ」
久しぶりにまっすぐ名を呼ばれた。視線を絡ませ、目で強く訴えかけられる。
「おれが勝手に巻き込んだ。ふたりで倒せると豪語して、ここまで来てしまった。ケジメをつけさせてくれ」
何を言っているのだ。こいつはわかっていない。こちらの気持ちなど、みじんも。
「つまり、おれは足手まとい。そういうことだな」
一歩近づく。暗闇に慣れてきた目が、ナマエのわずかな表情をもとらえる。ひたすら首を横に振っていた。
「城の構造上、人質は地下だ。さっき隠し通路も教えてもらったから、すぐに助けだせる。サンジの手で、はやく彼女を安心させてほしい。サンジだから任せたいんだ」
もっと直接伝えなければ。
「おれは、おまえに無茶をしてほしくない。これ以上、自分の体を傷つけてほしくない」
ナマエが深く深く息を吐く。そうやって困らせたいわけではない。ただ、理解してほしかった。
「わかった。こうしよう。ふたりで彼女を助けにいく。そのとき、どちらの手をとるか。彼女に選ばれた方がそのまま村へ運ぶ。外れた方が頭をとる」
「だめだ」
そんな運任せ、了承できるものか。
「ふうん? サンジは、おれが選ばれると思っているのか? レディに対して、そんなに自信がないのも珍しいな」
数秒遅れて意味を理解し、顔をそらしてしまう。もっともな理由を並べた。
「おまえらは一年前に会っている。知り合いを選ぶだろ、普通は」
「一年以上前だ。お互い、名前も知らない。そんな奴を覚えてるわけねェだろ」
これ以上はキリがない。新しく煙草を吸い、気を取りなおす。
「選ばれた側は絶対に引き受けろ。何がなんでも村に届けるんだ。いいな」
「わかってる」
声はとがっていない。むしろ丸いくらいだ。ようやく振り返れば、暗闇のなかで歯が見えた。
森のなかで隠し通路を見つける。ナマエが先に進んだ。城内に入り、地下へ一直線。牢の前で見張りをひとり沈ませた。
「交代の見張りがくる可能性もある。ここを自由に歩けるのは長くて三十分だ。彼女の居場所はわかる。ついてこい」
古城なだけあって、地下の造りもしっかりしている。今の今まで平気だった。しかし空の牢を奥まで見わたしたところで足がすくむ。そのあいだもナマエの足音は遠のいていく。体が動かない。
「どうした」
ナマエが戻ってきた。壁の松明で表情ははっきり読みとれる。つまり自分の顔色も察知されてしまう。急いで顔を伏せ、前髪で目元を隠した。
「交代の奴がこねェか、ここで見張っておく。おまえは彼女を探してこい」
「今すぐ交代はない。大丈夫だ。サンジ、いこう」
数歩進むが、またナマエは立ちどまる。視線を感じるも、さらに顔をそらしてしまう。まだ足は言うことをきかない。
「村で見た地図は迷路みたいに入り組んでいるし、牢の数も多かった。でも大丈夫だ。おれならすぐに見つける。すぐに助ける。三十分もかからない。安心しろ」
こちらへ近づいてくる。まだ、後ずさりできるだけの感覚は戻っていない。
「サンジ。おまえに付いてきてもらったのには、ちゃんと理由がある。彼女を迎えにいくとき、単独よりも複数のほうが安心させられると思ったからだ。一人よりも二人。単純に戦力も二倍。ふたりで行こう。一緒に行って、彼女を安心させよう」
震える手もとられた。わずかに引っ張られ、片足を前に出す。
「はぐれると面倒だから、このまま引っ張るよ。いい?」
強引にも、ほどがある。
「絶対に離さない。迷わない。卑怯なことを言うと──こういうの、慣れてるから。大船に乗った気持ちで任せて」
何を言っているのだ。慣れている? 何が。何を。どうして。
「現実的なことも話すと、ひとり倒したから今さら出直せない。前に進むしかないんだ。あと十秒待っても無理なら、おまえを担ぐ」
思わず振り返ってしまう。憎たらしい笑顔。
「十、九、八──」
必死に頭を働かせる。
「そんな無様な救出があるか」
「なんだ。めったにないチャンスだったのに」
だからといって、代替案も浮かばない。ひたすら睨みつける。
「わかった。担がない。その代わり。ちょっと失礼」
両手が伸びてくる。体を後退させるも間に合わない。両耳を手でふさがれた。
「目を見て」
軽く耳にふれた程度。声も十分聞こえる。
「一緒に深呼吸。吐いて。吸って」
無心になる。息の流れが重なり合った。耳から手がはなれていく。
「目を閉じて」
視界をふさぐと手をつかまれる。前に引っ張られ、さらに引っ張られる。徒歩から小走りへ。何度も角を曲がる。無我夢中で速度を合わせて付いていく。
「どこも空だ。誰もいない。だから多分、最後にもうひとり」
急停止した。目元があたたかい。ナマエの手が添えられていた。熱がはなれるタイミングで視界を広げる。目が合う。ナマエは余裕たっぷりに歯を見せ、小声でつぶやく。
「すぐそこだ。手をはなすよ」
とうの昔に震えはおさまっていた。無言でうなずけば、ナマエが駆けだす。前方の角を曲がった。男のうめき声。倒れこむ音。たどり着いた頃にはすべてが終わっていた。鉄の扉が見える。格子をのぞくと誰かがうずくまっていた。細かい金属音のあと、鍵も解除される。鉄扉を開けたナマエがこちらを振り返った。互いに目を合わせ、うなずく。自分はそばの松明を持ち、ナマエに続く。
「助けにきた」
返事はない。顔も上げない。そのあいだもナマエは忙しなく動く。壁につながった鎖を切断。──切断? 素手で切断? まばたきするも、武器は見当たらない。壁と首をつなぐ鎖の他に、手足の錠も解除された。薄暗いため、動きを目で追いきれない。ようやく彼女が顔を上げる。重いまぶた。寝ていたのか。こちらの顔が見えるよう、松明を前方に掲げる。自分たちは怪しい者ではない。ナマエがひざをつき、彼女と目線を合わせた。
「村長から話は聞いた。今からきみを助ける」
小さく口を開けたまま、呆然とこちらを見上げる。できるだけやわらかい笑顔を心がけた。ナマエへ視線が戻り、しだいに顔がゆがむ。
「鎖も全部切った。逃げよう」
ナマエが手を差し伸べた。自分の手も引っ張られ、強制的にひざをつき、ナマエのすぐとなりに手を差しだす。もちろん彼女はナマエへ倒れこんだ。話しかけたのはナマエ。見張りを倒したのもナマエ。そして自分は松明で手がふさがっている。これが最良の選択。
「急ごう」
さっくりと彼女を抱え上げ、ナマエが走りだす。自分も並走した。
「松明は置いとけ。手がふさがるし、目を闇に慣らしておきたい」
素直に従う。すべてを拒絶した往路とちがい、復路はしっかりと目を開けた。空の牢を見ても動じない。自分がなすべきことを胸に刻みなおす。こんな場所で立ちどまるものか。自分には不屈の精神がたたきこまれた。もう過去は振り返らない。
隠し通路の入り口でナマエが立ちどまる。
「すぐ戻る」
ゆっくりとこちらを振り返った。
「好きに暴れていい。手当たり次第に倒せばいい。一階から順に上がれば確実だ。頭には気をつけろ」
一瞬の沈黙。
「油断するな」
重く低い。感情のブレを隠すよう音に力が込められた。気を引きしめて体ごとナマエへ向きなおる。
「わかっている。さっさと行け」
背を向けるギリギリまで視線が絡み合った。彼女を抱えなおし、隠し通路へ消える。人気のない通路で、まずは一服。時刻は深夜一時。あいつのことだ。全速力で戻ってくるはず。見張りの交代時間も気になる。ならば、雑魚はすっ飛ばして、まっさきに頭をとるべきでは。
地下迷宮は断念したが、城内地図は頭にたたきこんだ。近くの倉庫でロープを探し、外の壁伝いに登る。目についた見張りを倒しつつ、十分足らずで最上階にたどり着いた。このバルコニーが一番広い。城の割には窓も広く、ガラス張りだ。カーテンもある。窓の鍵は──開いた。そっと足を踏み入れる。光はないが、部屋の内装くらいはわかる。地下迷宮や一階の通路、外壁からは想像できないほど宝飾品であふれていた。甘い香りが鼻をくすぐる。
前方のベッドで眠るのは、素肌をさらした長髪の女性。入る部屋をまちがえた。侵入した窓へ引き返すも、途中で足を止めてしまう。彼女も助けるべきでは。
「レディの寝床に侵入する不届き者は、どなた?」
息がとまる。ベッドへ振り返れば彼女が上体を起こしていた。胸元は長いブロンドで隠れたが、くびれの刺激が強すぎる。灯りがなくて助かった。初対面で赤い顔をさらすわけにはいかない。
「きみを助けにきた」
人質の子はナマエが救出した。自分だって誰かを。警戒されぬよう、じりじりとベッドへ歩みよる。
「誰から助けるつもり?」
「もちろん、ここの頭、バルバラだ」
バルバラ海賊団、船長バルバラ。醜くゆがんだ横顔が手配書となっていた。そいつが、このレディを囲っている。
「無理よ。バルバラは強い。あなたひとりでは太刀打ちできない」
悲痛な声色。やはり彼女は逃げたがっている。
「大丈夫だ。頼もしい奴がもうひとり来る。そいつがいなくても、おれの足で叩きのめしてやる」
そのためにもターゲットの居場所を。
「バルバラはどこにいる」
ベッド脇まで近づいた。なにかを羽織ってほしいが、近くに適当な布は見当たらない。裸体の彼女を直視しないよう務める。
「教えたら、あなたは飛びこんでいってしまう。そんなのいやよ」
まさか、見ず知らずの自分を心配してくれるとは。
「ありがとう。気持ちはうれしいが、約束しちまったんだ。あと十分でケリをつける。あいつが来るまでに全部終わらせたい」
ナマエが戻ってくるまで二十分。もう半分は過ぎた。
「なら、その方が来るまで待ちましょう? あなたに無駄死にしてほしくない」
ふわりと腕が、腰に。あたまがまっしろになる。素肌で抱きつかれた。瞬時に熱が集まる。
「あなたが来てくれて、うれしかった」
腰から引き寄せられ、ベッドに倒れこんでしまう。まずい。完全に熱が暴走している。頼む。腰から顔を離してくれ。
「どこからいらしたの? おいくつ?」
仰向けに寝かされ、彼女が腹部にまたがった。暗くて顔は見えないが、この体勢では髪で胸元を隠しきれない。でかい。ふんわり。揺れた。手が重なり、手首に違和感。
「顔は文句なし。声もすてき。大丈夫。痛くない」
両足首も固定されてようやく気づく。拘束された。
「なに、するんだ!」
口に指を突っ込まれ、下腹部をさすられる。一気にふくらんだ。まずい。まずいまずい。
「かわいい子はずっとそばに置きたいの。あなたを愛でてあげる」
ベッド下から取りだしたのは太いノコギリ。ゾッと背筋が凍った。
「もう遠くへ行かないで。丈夫な足は邪魔。はやく切らないと」
がむしゃらに身をよじるも、がっしり押さえつけられてしまう。おかしい。何かがおかしい。助けてほしいはずのレディがなぜこんな真似を──
「どけ! 手ェ出すな!」
風が舞う。全身が軽くなった。
「おい、しっかりしろ!」
聞き慣れた声。耳元でうるさいほど叫ばれ、一瞬目を閉じてしまう。そのあいだに両手足も解放された。ベッドから立ち上がらされる。
「あいつがバルバラだ」
ナマエの背に隠される。前方にはふらついた彼女が。落ちたノコギリを拾い上げる。
「まさか、彼女があの手配書なわけが」
「だまされるな。ここに来る途中、城内にいた奴は全部倒した。あとはこいつしか残っていない」
裸体の彼女は肩を震わせ、笑い声を響かせる。
「そうさ。おれがバルバラ。部下を全部やっただと? また集めなおさねェとな。面倒なことをしやがって」
口調も一変する。
「サンジ。下がっていろ。おれがやる」
ナマエが駆けだす。バルバラはノコギリを振りまわしはじめた。体勢を低くしたナマエが一気に間合いを詰める。懐に入り、下からあごを蹴りあげた。手合わせでみる、いつもの技。バルバラが吹き飛ぶ。ノコギリをうばいとり、床に押し倒す。首元に刃を突きつけた。
「サンジ、そこのロープをくれ」
ロープ。ベッドに散らばったロープをかき集めてナマエへ投げる。あれは、さきほど自分を拘束していたもの。ナマエが手早くバルバラを縛り上げる。
「あんたもいい顔しているじゃないか。どうだ。おれの下に付かないか」
バルバラは怯えるどころか、愉快そうに声をはずませる。
「おれは今、最高に気分がいい。てめェがやらかした仕打ちを見逃せるほど、やさしくはないんでね」
ナマエが笑っている。いや、完全に怒り狂っていた。初めて聞く声色に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「遠くに行かないで、だったか。丈夫な足は切らないと、なあ?」
途端にバルバラが暴れだした。ナマエがさらにロープを巻き付ける。うばいとったノコギリを彼女の足首にあてがった。何をするか理解し、がむしゃらに叫ぶ。
「やめろ! 女だぞ!」
ナマエと視線が絡まる。キッと睨まれ、ノコギリが振り下ろされた。足首ではなく、横にそれて床に突き刺さる。バルバラの腹に拳がぶち込まれた。動作すべてが停止する。意識を沈ませたのだ。
「シーツ、くれ」
ベッドシーツを放り投げる。ナマエはていねいに裸体を包み込んだ。上からもう一度ロープで縛り上げ、床に寝転がされる。
「用は済んだ。村に戻る」
こちらに歩いてきた。横を通りすぎ、自分が侵入した窓に手をかける。
「ほら、行くぞ」
外の見張り台を経由して城外へ出る。往路の隠し通路ではなく、正面から堂々と道を歩いた。村まで残り半分というところでナマエが立ちどまる。
「さっき村に戻ったとき、海軍へ通報するよう指示した。朝には港町の海兵が到着する」
正面に回り込まれる。鋭い視線がぶつかった。
「時間は海軍が来るまでだ。それまでに答えを出してくれ」
次の言葉にすべてを持っていかれた。
「おれを蹴ろ。今ここで蹴れねェなら、おまえと縁を切る」
わけがわからず立ち尽くしてしまう。ナマエが動きだした。足が振り上げられ、とっさに腕でガードする。さらに攻撃が重なり、言葉も続く。
「いつもの手合わせだ。いつもみたいに吹き飛ばせばいい。それくらいできるだろ」
「なに言ってんだ。今はそんなことしている場合じゃねェだろ」
「今しかねェんだ! ここで白黒つけないと! もう! 前みたいに戻れなくなる!」
悲痛な叫び。そのあいだもナマエの足蹴りはやまない。自分は防御に徹する。
「ちゃんと説明しろ。何の白黒をつける気だ」
「おれを女だとみなすなら、もう会わない。今までどおりなら仲直りしたい。どちらかを選べ」
なぜ今なのだ。なぜ、なぜそこまで徹底的に区別しなければならないのだ。
「女は蹴らん。おれがおれでいるための魂だ。──わかってくれ」
「わからない! なんで、なんでだよ。今までずっと、たのしかった、のに」
声が掠れる。攻撃も弱まった。
「女を見せたら、もっとサンジに近づけるのか。サンジのようになれるのか。弱い自分を克服できるのか」
女としておまえを受け入れたら、肉体的にはさらに近づける。うまく絡まれば、心だって通い合うはず。だが、女を引き出しても自分のようになれるわけではない。弱点を克服できるとは限らない。
「おれは、対等な目で見てくれるサンジがいいんだ。気を遣わないサンジがいいんだ。サンジを追いかければ強くなれる。理想に近づける。おれはサンジになりたい。サンジのようになりたい」
カレンから聞かされた言葉を思い出す。セシルに励まされた。カレンやレニーと約束した。正面から向き合う。ナマエが求めていることを知って、応えてやりたい。自分の正直な気持ちを伝えたい。
「おまえの気持ちをできるだけ受けとめたい。わかってやりたい。だが、おまえが女だという事実は変えられない。頭で割り切れても、体は女の情報を覚えちまった。おれだって、どうしたらいいかわからねェんだ」
「男か女の二択しかねェのか。おれは、サンジの特別にはなれねェのか」
ぎゅっと心臓をわしづかみされる。ナマエの攻撃がとまった。
「女のサインはもう出さない。サンジの前では男に徹する。肌も見せない。泣かない。弱らない。もっと強くなる。心配なんかかけさせない。だから!」
両肩をつかまれる。声、目つきだけではない。肌ごしに重い気迫を浴びる。全神経をナマエの音に集中させた。
「前みたいに、手合わせ、させてくれ」
手を伸ばすべきではない。抱き寄せるなどもってのほか。いま、きみに──こいつに必要なのは、言葉でもまなざしでもなく、渾身の一撃。五歩下がり、勢いをつけて回し蹴りを食らわせる。もちろん腕で受けとめられた。わかっている。絶対に防がれるからこそ足を出した。こいつが圧倒的に強くなければ割り切れない。そして今の蹴りで目が覚めた。
「完璧な約束はできねェが、これから努力する。今までの空気を大事にする。おれは、おまえの求める位置に戻る。それでいいか」
目を合わせたまま、ナマエが深く深く息を吐きだした。
「こんな、面倒な奴で、ごめん」
「謝るくらいなら、こっちからも注文をつけさせろ」
ナマエの求める理想を受けとめた。今度は自分の気持ちを伝える番。
「これだけは約束してくれ。絶対に嘘だけはつくな」
ずっと混乱していた。なぜ仲直りできなかったのか。自分から歩み寄れなかったのか。くやしかったのだ。あんなにも互いを許しあったはずが、元から一線を引かれていた。だまされた。嘘をつかれた。そんな感情を抱いてしまうほど、自分は信頼し合う関係を欲していた。
「いくらでも隠せばいい。どんなナマエがいようとも責めない。否定しない。だが、わざわざおれに嘘は言うな。偽るな。おまえに裏切られるのが、一番、くやしい」
途中から声が震えだすも、どうにか言いきった。顔をそむけたいが、懸命に視線を固定する。
「わかった。サンジに嘘は言わない、絶対に」
求めていた答え。互いの意識が、ようやく重なった。どっと力が抜ける。とにかく新しい煙草を。ここにきてジジイの言葉が頭をよぎる。
「おまえはあいつの何を見てきた」
ナマエの何を見てきたのか。ジジイはナマエへ足を出すのを止めなかった。ナマエの戦場を見届けろと言われた。男、女ではなく、ナマエとして見てきた。女のなかのナマエではなく、ナマエのなかのナマエ。二択ではない、特別、か。
「無理難題を押しつけやがって」
つい声がもれてしまった。向かいのナマエはにがい顔で頭をかく。
「こんな難題、サンジにしか頼めないよ」
沈黙。目を合わせ、そろりと前へ向きなおる。どちらが言うまでもなく、村へ歩きだした。
深夜三時なのに村の家々は灯りがついていた。海軍への通報完了を確認したあと、借りた部屋で睡眠をむさぼる。翌朝。面倒ごとを避けたいナマエに同調し、海軍の取り調べから逃げきる。バルバラの懸賞額三百万ベリーは村長に支給された。港町の問屋も今ごろ捕まっているだろう。想定以上のラニシュを受けとってしまった。最後に村長の娘へ会いにいく。
「本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる彼女に、イチかバチか尋ねてみる。
「こいつの顔、覚えているか」
昨夜の牢でナマエを選んだ理由。わかっていて倒れこんだのか、瞬時に二択の答えを導きだしたのか。顔を上げた彼女はきょとんと目を丸くさせた。すぐに頬がゆるむ。
「まちがっていたら申し訳ないのですが。もしかすると、一年前にお花をくださった方、でしょうか」
となりを振り返る。ナマエは彼女を見つめたまま、手元から花を出現させた。マジックだ。
「この花で合ってたかな」
彼女が笑顔で受けとった。
「ええ」
ふたりの空間が作り上げられる。無性にイラつき、ナマエの腕を引っ張っていった。ふたりして彼女に手を振り、村を離れる。港町へ歩いた。
「てめェ、わかってたのか」
「なにが?」
とぼけやがって。ジリジリ睨みをきかせる。肩をすくめてみせたあと、ナマエが前へ向きなおった。
「おれの一年と、あの子の一年は多分、ちがう。村長の話から推測すると、あの子はおれと会ってすぐ人質になった。だから直前に会った人のことを、よく覚えていたんだと思う」
人間が一年も日に当たらずに幽閉されたらどうなるか。半年でさえ気が狂ったのに。ぐっと拳に力を入れてしまう。
「港町の花屋とラニシュ屋がとなり同士でさ。花を見にいくと、必ず彼女に声をかけられた。あんな美人に話しかけられたら誰だって足を止める。本当に、評判の看板娘だった」
さきほどの彼女は頬がやつれていた。ろくに食事も供給されなかったのだろう。それでも美しさは衰えていなかった。いつか、元気になった彼女の姿を見てみたい。
「だから、今回おまえと一緒に来てよかった。ありがとう」
久しぶりに聞く言葉。思わず立ちどまってしまう。
「そんなちんたら歩いていたら盗まれるぞ。それだけのラニシュ、いくらで売れると思っているんだ」
はにかみながらこちらを振り返る。あわててラニシュの袋を抱えなおした。となりと歩調を合わせる。
「おれは運搬に集中してんだ。囲まれたらおまえが蹴散らせ」
こいつが求めているのは、こういう関係。こういう距離。
「はいはい。さくっとバラティエに帰るか」
三日後の早朝。すでに事件の詳細が新聞で報じられていた。コックたちの質問攻めをかわし、ふたりして寝床につく。夕方に起きて店員食堂へ。入った途端、その場の全員が騒ぎはじめた。
「やったな! おれは信じていたぞ!」
「一週間あればどうにかなるもんだな」
「『失敗』に賭けた奴も結構いたぞ。まあ、おれはガッポリ儲けさせてもらったが」
頭が痛い。つまり、自分たちが仲直りするかどうか、皆で賭けをしていた。どうでもいい自慢話を右から左へ聞きながし、まっすぐ厨房へ向かう。味は固まっていた。あとは時間との勝負。
翌朝。ナマエが起きてくる頃合いを見計らって皿に盛る。本当は丸一日寝かせたいが、もたもたしているとローグタウンへ帰ってしまう。眠そうな顔が店員食堂に現れた。
「おまえの分だ」
となりに座り、真横から食事を観察する。一ヶ月ぶりのキッシュ。ひとくちを飲みこんだあと、ゆるんだ頬がこちらに向けられた。
「うん。やっぱり、サンジのキッシュはさいこうだ」
反応を忘れ、テーブルに頭を突っ伏す。ようやく出発点に戻った。やっと区切りがついた。胸にはびこっていた淀みが消えていく。
「これ。また持っていてほしい」
キッシュを頬張りながら置いたのは、金属のかたまり。理解するのに数秒はかかった。
「やっぱり、これは受けとれない?」
テーブルに突っ伏す自分と目線を合わせる。同じように顔を傾けた。まだ口をもぐもぐさせているのが、おかしくて仕方がない。
「ちゃんと説明しろ。これに関してだけは、全部が全部元どおりってわけにはいかねェだろ」
泊まるわけには。あの空間で酒を浴びるのも危険。何を求められているのか。
「また朝ごはんを作りにきてほしい。留守なら泊まってもいい。あれだけの調味料、おれには使いこなせない。サンジに有効活用してもらわないと」
瞳を閉じ、深呼吸。金属をつかみ、内ポケットに押しこんだ。途端にナマエが顔をほころばせる。
「てめェ、ナマエの家に泊まってたのか!?」
あわてて上体を起こせば、向かいに顔を引きつらせたパティが。目についたコックも何人か固まっている。
「こいつが遠征で留守のときだけだ」
「いや、その前の話だ。全部が全部、どうとか言ってたじゃねェか」
パティの追撃をどう逃れるか。ナマエが両手を振る。
「もうそれ以上はないから。酒を飲ませないようにするし、朝だけにする」
なにかを言いかけたが、パティは口を閉じてしまう。
「おまえら、料理長にはバレねェほうがいいぞ。おれなら絶対に隠す。特にサンジ、おまえだ。気をつけろ」
ついナマエと目を合わせてしまう。同時にパティを見上げた。となりのナマエがうなずいたので、自分も首を縦に振っておく。
「おまえなあ。ぜってェわかってねェだろ。ちょっと来い」
強引に引っ張られ、食堂をあとにする。反対側まで歩ききったところでようやくパティが立ちどまった。
「いいか。ナマエと仲直りしたのは結構だが、おまえにはまだノルマが残ってる。意味わかるか?」
ノルマ。必死に頭を働かせるも思いつかない。ナマエの意向は十分に聞いた。女扱いしないとも約束した。心残りだったキッシュも食べさせた。合鍵さえも手元に戻ってくる。これ以上何を求めるというのだ。
「おまえはまだ気づいてねェ。このあいだ干物の姉ちゃんだって言ってただろ。ナマエとこれからどうするか。目だけはそらすなよ」
一瞬、聞きまちがいかと思った。すぐに悟り、勢いあまってパティの胸ぐらをつかんでしまう。
「何を聞いた。どこから聞いた。答えろ」
レニーとカレンの話を聞かれた。
「あんなに堂々としゃべってりゃ、勝手に聞こえちまうだろ。まあ、だいたい最初からだ」
頭がふらつく。とんだ失態を犯してしまった。
「とにかくだ。あの姉ちゃんが『もう少しで仲直りできる』って言った理由をよく考えろ」
レニーだ。あのときはたしか。女を抱けない。身代わりに抱いてもむなしくなるだけだった、と。
「ナマエが特別だってことだろ」
今はこの言葉が一番しっくりくる。ナマエ自身もそうありたいと望んでいた。
「その特別ってのは、つまり、どういうことだ」
ずいと顔をのぞきこまれる。特別は特別だ。他とは違う距離、関係。
「答えられねェだろ」
沈黙を守る。きっと今は何を言っても不利だ。なにより、このパティに「無知」「未熟」だと認識されるのがムカつくほど悔しい。
「まあ、今のおまえにはこれが限界だな。あとはゆっくり、二年後三年後にでも気づけ」
あんなにもしかめっ面だったのに、今度はニタリと歯を見せてきた。ぐしゃぐしゃに髪をかき乱され、その場に取り残される。言いたいことだけ言いやがって。仕事前にもう一本吸っておくか。
ライターを取りだす際、ポケットに硬い感触が。金属のかたまり。ナマエの鍵。合鍵。柵にもたれかかっていたが、落としたくないので半回転し、背を預ける。手のひらに乗せてひととおり眺めたあと、また内ポケットの奥底にしまいこんだ。