サンジ過去編
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バラティエに戻った一週間後。見覚えのある女性ふたりが来店した。
「あらためてお礼を言いたくて」
ナマエの不在を伝えると、封筒を差し出される。
「今度いらしたときで構いません。返信も不要です。おねがいしてもよろしいでしょうか」
真剣なまなざし。次のショー日程は未定なので、もうナマエはバラティエにこない。そんな真実はすべて飲みこみ、笑顔で封筒を受けとった。じっと見つめられ、わずかに口が開閉するので、焦らず言葉を待つ。
「この一週間、ずっと考えていました。迷惑はかけたくありません。図々しいのも承知しています。ですが、ひとつだけ。お尋ねしてもよろしいですか」
付き添いの子が彼女の腕をとった。何度もとなりに謝りながら、彼女がこちらを見上げる。
「あの方は。私を助けてくださった方は、カタリさんなのですか」
ああ。
「たくさんお話をして、そのあとにショーを見て、なんとなく思ったのです。もしカタリさんなら、どうしても、もう一度お礼を伝えたくて」
直感はあなどれない。あんなにも間近でナマエと接したのだ。カタリは声をほとんど出さず、顔も隠れているが、背丈や髪は同じだと気づくはず。しかし自分は肯定できない。
「悪いが、それは答えられねェ。最初にここでショーをやったときにカタリと約束した。あいつはステージの上だけで生きている。影は徹底的に排除する男だ。すまねェ。わかってくれ」
スラスラと言葉がつながる。本人に直接聞いたわけでもないのに。つまり、自分がそう思っている。光を浴びたステージでしか生きられない、男。
「わかりました。本当に、ありがとうございます」
一瞬、くるしそうに顔をゆがませるが、深々と頭を下げる。こちらも胸が痛む。せめてもの罪滅ぼしにと、最後まで彼女たちを見送った。店を出て、ふたりの船が遠くはなれてから、ようやく息をつく。問題は封筒をいつ届けるか。いま顔を合わせても、どういう目で見ればいいかわからない。まだ迷っていた。男のまま割り切るか、女として受け入れるか。最悪、封筒はポストに突っ込めばいい。回復経過を確かめ、ショーの日程も調整したい。前へ進まなければ。
三日後、ローグタウンへ買い出しにいく。宿をとってからナマエの家へ。玄関をノック。反応なし。その場で煙草を一本吸いきり、結論をだす。手元の鍵で部屋に入った。今日の予定は、なし。それどころか予定表に何も書きこまれていない。背中が完治しなければ活動できないのだ。やはり傷の治りを直接確かめなければ。
冷蔵庫は少し入っている。偶然いまだけ留守なのだろう。洗面所には新品同様のカミソリ。そもそもあいつは使っていなかった。部屋を見わたすほど、自分の痕跡が目につく。歯ブラシも食器も二人分。忘れていった煙草も二箱見つけた。キッチンが一番変わったかもしれない。日持ちする調味料を買いそろえ、コーヒーを淹れる際のポットも新調した。荷物を増やしたくない意向を尊重し、ほかは手を付けていない。
さんざん迷ったあげく、クローゼットを開く。スーツが五着。いや、もう一着。サイズが微妙に違うが自分が買ったものではない。十日前に服を貸した。なんとなく察する。引き出しはのぞかない。封筒をテーブルに置き、適当な紙切れに走り書きを。彼女から受けとった旨を挟んでおく。玄関へ。ドアノブにふれてもいないのに、勝手に鍵が開いた。目を合わせたままナマエが入ってくる。自分は後ずさりで精一杯。瞬時に言葉を探す。
「封筒を渡しにきた。このあいだ助けた、あの子からだ。いまテーブルに置いた」
自分の背後を見すえ、とぎれがちに音が返ってくる。
「ありが、とう」
ナマエが封筒を開ける様子を見守る。中身は便箋一枚。メッセージではなく押し花が出てきた。青色の小花。見たことはあるが、名前を思い出せない。
「そうか」
ナマエの声が空気にとける。そばの椅子に座り、じっと押し花を見つめた。にがい表情だが、口元はほんのりゆるんでいる。
「彼女、なにか言ってたか」
正直に伝えよう。
「おまえがカタリと同一人物なのか聞かれた。もちろん答えなかった」
「やっぱり。バレてたか」
はにかんでみせる。機嫌は悪くない。
「この花、あのとき渡したやつだから。同じものを押し花にしてくれたんだ、きっと」
カタリはショーの最後にテーブルをまわる。すべての女性客にちがう花を贈っていた。
「そろそろ東の海も限界かもしれない」
なにを言っているのか。理解できない。
「彼女、言いふらすような子には見えなかったぞ」
「わかってる。いい子だった」
会話がとぎれる。いま自分が確かめなければならないのは、
「傷、どうだ」
「もう完治した。心配かけてごめん」
思わず目を細めてしまう。まだ一週間しかたっていない。あれだけの傷が、まさか。
「嘘つくな。心配もしてねェ。これ以上おれをだますな」
言ってから失態に気づく。「以前、自分はだまされていた」と責めたも同然だ。ナマエの表情も一変する。椅子から立ち上がり、こちらに背を向けた。
「本当に治っている。このとおり」
ジャケットを脱ぎ、ネクタイも外す。すべてをベッドへ放り投げていく。シャツがゆるみはじめたところで状況を理解した。
「まて。おい、やめろ」
止めようにもうかつに近づけない。手をこまねいているあいだにも、首まわりから肌色が広がっていく。両肩をさらし、腰が見えないぎりぎりまでシャツが下ろされた。背肌。背骨。肩甲骨。ひとまとめの髪も前へ流し、自分とのあいだからすべてが取り払われた。一週間前に見たはずの傷はどこにもない。かさぶたすら消えている。
「大丈夫だ。念のため、今は体を動かさないようにしている」
なぜだ。なぜこんなことができる。なぜ平然としていられる。なぜ男の自分に素肌をさらした。今までだって一度も見せたことはなかったのに。一週間前の偽者とはまるでちがう。この色、このライン。うなじなど意識したこともなかった。今は目がはなせない。その肌に近づきたい。知りたい。確かめたい。
「ナマエ」
首筋に顔を埋め、背後からきつくきつく抱えこむ。目を開けていられない。まだ胸元を見る勇気はなかった。どれだけ肩がはねようが、声がもれようが、今は離れたくない。何が真実か、何が正解か。もう割り切れない。女の色が見えてしまった以上、自分自身をあざむけない。
「ナマエ」
取り込むほど熱は上がる一方。迷わずベッドへ寝かせた。靴を脱がせ、自分も靴を脱ぎ、ナマエの上に覆いかぶさる。半端に開いたシャツで胸元は隠れていた。首筋、デコルテ、肩まで開かれていては、こちらを煽っているとしか思えない。ナマエはまっすぐと自分を見上げていた。いや、力は抜けている。眠る直前のように表情はゆるみ、息も静か。邪魔な眼鏡を取り去り、髪もほどく。抵抗しない。言葉も発しない。まばたきのみをくり返す。ひとことだけ忠告した。
「男に肌をさらせばどうなるか、わかるだろ」
わずかに首を横に振り、瞳がゆれる。
「サンジだから。ちゃんと治ったって伝えたかった」
いつもの重みが消えた、掠れ声。そうやって油断した音をもらすから聞きたくなる。上体を下げて、吐息がわかる位置まで顔を近づける。
「なら、おれに何をされたっていいのか」
肩に手をそえて、ゆっくりと二の腕へ。脱げかけたシャツをさらに下げていく。
「サンジにだけは、きらわれたくない」
波打ち、震え、くるおしいほど顔がゆがむ。泣く前兆だとわかっているのに、自分の熱はさらにこみ上げる。
「きらわれないなら、なんでもする」
ぐらりと視界がゆれる。どうにかナマエへ倒れこむことだけは食い止めた。いつからだ。いつからこんな、こんな距離になった。不本意な接触をすれば押さえ込まれた。いつだって近距離は警戒されていた。それが徐々に、ナマエの気がゆるみ、寝起きも油断するようになり。同じベッドで寝起きこそしないが、鍵をもらい、自宅のようにここへ出入りし、服を共有し、好みを知りつくし。夢も語り合った。
「女として見ても、いいのか」
ここを突破すれば、どこまでも取りこむに決まっている。飢えた心身を満たすため、何度も何度も肌を重ねるはず。なにもかもをつなぎ合わせたい。味わいたい。刻みこみたい。いま、一本の細い理性で暴走を食い止めている。これが切れれば、すべてが、
「それでサンジにきらわれない、なら」
絡み合ったのは、光を失ったまなざし。理性が切れる。同時に視界が一瞬、暗転した。必死に距離を保ち、となりへ寝転がる。間髪入れず、がむしゃらに上体を起こし、頭をかきむしる。急いで靴をはいた。自分の荷物をすべて拾い上げる。ジャケットの内ポケットから鍵を取りだし、テーブルへ。みにくい顔を隠すため、ナマエへ背を向けた。
「おれはまだ、おまえと向き合えない。いまのは、悪かった」
振り返る勇気もない。一度も足を止めることなく宿へかけこんだ。
あれから三週間。ナマエはバラティエに顔を出さない。連絡もこない。コックたちにグチグチ言われるも、適当にあしらう。買い出し先はローグタウンを避けた。だが、どうしても仕入れなければならない品があったので、久しぶりにローグタウンへ向かう。家からできるだけ遠い宿を借りた。見慣れない町通りを歩いてみる。
「サンジさん。サンジさんですよね」
駆けよってきた女性がサングラスを外した。自分を知っている。つまり、バラティエの客。いや、こんな美女を忘れるはずがない。だが、たしかにどこかで。
「申し遅れました。セシルと言います。このあいだは劇を観にきてくださり、ありがとうございます」
劇。そんなものは一度しかない。あのとき。セシル。まさか。一気に疑問がふくれあげるも、目についたカフェへ誘う。彼女はこころよく付いてきてくれた。
「おどろいた。まさか、プリマドンナに声をかけられるとはな」
ケーキを注文し、コーヒーも届いた。ニヤつく顔を必死に抑え、背筋を伸ばす。舞台メイクではないので、最初は気づかなかった。それでも笑い方は舞台で見たプリマドンナそのもの。彼女のまわりに花が咲いている。それくらい空気がやわらかかった。
「それは内緒です。今日はオフなので」
あわてて口をふさぐ。大丈夫。ちょうどとなりテーブルは空いている。キョロキョロしていれば、彼女が口元に手を添え、肩を震わせた。
「本当にサンジさんなのですね」
そうだ。聞かなくては。
「おれの名前、言ってねェよな? いや、そもそも話すこと自体、初めてなはず」
「ナマエさんです。あのとき一緒に来ていた方について、聞いたことがあって」
いやほど心臓がはね上がる。もうひと押し。
「やっぱり、最後はおれに笑ってくれたんだよな?」
プリマドンナが客席へあいさつした際、自分たちの席を見上げて、それはもう、とろけるような笑顔を向けてくれたのだ。
「ええ。おふたりが来てくれたことが、本当にうれしくて」
おふたり。つまり、自分だけではない。
「ナマエさん、来るときは前もって教えてくれるのです。あのときは友人を連れてくるとも聞いていました」
友人。あいつにとって、友人。
「そのあと、三日後くらいだったと思います。友人が私の歌を評価していたと伝えにきてくれて。とってもうれしかった。そのひとについて、たくさん教えてもらいました。名前も、職業も。どこで副料理長をしているかも」
じわり、じわりと胸があたたかくなる。くすぐったい。それなのにくるしい。あいつと劇を観にいける距離に戻れるのか。
「ああ、ごめんなさい。本人のいないところで話が進むなんて、いい気分はしないですよね。あんなにうれしそうなナマエさんは珍しくて。おふたりは本当に仲がいいのですね」
ナマエとセシルはそれなりの頻度で会っている。おれのことも話せるくらい、心を許している。そもそも彼女はあいつの性別を知っているのか。
「それが、そうでもねェんだ。実は最近、喧嘩しちまって」
性別の話はやめよう。女だと知らないなら、彼女が傷ついてしまう。
「やっぱり、まだ仲直りできていないのですね」
口をつけたコーヒーカップをはなしてしまう。どうにかソーサーに戻した。
「あいつに、なにを聞かされたんだ」
とがらないよう、努めて音を丸める。一瞬目をそらしたが、彼女がぽつり、ぽつりと語りだした。あいつは自分に嘘をついていた。それがバレたとき、うまく関係を修復できなかった。一度チャンスはあったが、余計に相手を傷つけてしまう。
「『合鍵を返された』と言ったときのナマエさんが、見ていられなくて。あんなに沈んでいるのは初めて見ました」
彼女がしっかりと向きなおった。目元からこぼれそうなほど瞳がゆれる。
「正直なところ、今日までサンジさんを疑っていました。ナマエさん伝いで聞くあなたは、あまりにも出来すぎていたから。でも、私の取り越し苦労だった。ナマエさんがあなたを大切にしている理由、わかった気がします。今日こうしてお会いできて、本当によかった」
返す言葉が見つからず、深呼吸してしまう。どうにか目は合わせつづけた。
「おれは完璧でもなんでもねェ。今だって、あいつと向き合えていない」
彼女が笑みをこぼした。空気がやわらかくなる。
「完璧だなんて言ってませんよ? サンジさんは、ナマエさん自身が持っていないと思っているものを、すべて持っている。だから『出来すぎ』と表現してしまいました」
頭が混乱する。あいつは何を持っていないのか。何を欲しているのか。
「どうか諦めないでください。ナマエさんも今、あなたとの関係で悩んでいます。あんな姿、とても見せられないくらい」
自分は見られないが、彼女は悩む姿を見ている。やはりセシルには心を許しているのだ。
「いま、変なことを考えませんでした? 私とナマエさんのあいだには何もありませんよ」
ビクリと肩が跳ねてしまう。
「ただ、少し早く出会っただけ」
彼女の掠れた声が空気にとけた。遠くを見つめるまなざしに、どこまでも引きこまれる。
「そろそろ戻りますね。最後に、なにかあれば遠慮なく聞いてください」
最後に、遠慮なく。勝手に口が動いた。
「おれたちが喧嘩した原因は、聞いているのか」
性別を偽ったのが原因だと、彼女は知っているのか。
「全部を聞けたのか、聞けなかったのか、そこまではわかりません。最後があいまいになってしまい、ごめんなさい」
もどかしい。これだけ困った顔をしているのだから、あいつが女だと知らない、とみていいだろう。時間を気にしているレディを引き止めてはならない。笑顔で席を立ち、握手を交わす。素敵な時間を過ごせた喜びを伝えるため、そっと手にくちづけを落とした。
買い出しから戻ってくると、さっそくパティに絡まれる。
「それで。ちゃんと話をつけてきたんだろうな?」
ナマエ、ナマエ、ナマエ。他の奴らも同じことしか聞いてこない。わかっている。ちゃんと向き合うつもりだ。あの麗しきプリマドンナに背中を押してもらった以上、逃げはしない。だが、どう割り切ればいい。頭では理解しているつもりが、己の体は、あいつを女だと認識している。三週間前も、一歩間違えれば無理やり抱いていた。それでは解決にならない。言葉では自分を許していたが、瞳は自分を見ていなかった。きっと、あいつにとって自分に抱かれることは不本意。相手が望まぬ距離など仲直りでもなんでもない。他の道を模索しなければ。
「指名が入ったぞ。オーダーはおまえにしか言わねェってさ。日頃のナンパが実を結んだな?」
厨房で盛り付けをしていれば、ニタニタ顔のカルネに呼ばれる。名指しで自分を呼ぶ客は珍しくない。常連は正直に味を評価してくれる。直接顔を合わせ、感想を聞ける時間は貴重だ。「ナンパ」とカルネは言っていたので女性客だろう。ネクタイを締めなおし、テーブルへ。目が合うと、彼女たちが手を振った。
「レニー。カレンも。久しぶりだな」
酒場で出会ったドレスでも、漁港で見た作業着でもない。動きやすそうなカジュアル。それでも目元の泣きぼくろ、ぷっくりした唇に目を奪われる。
「なかなか仕入れにこないから、きちゃった」
カレンのウインクにクラクラする。ナマエと行ってから、もうすぐ三ヶ月か。
「ごめん、うそ。今日は仕事。うちの干物がどう使われているか、見にきたの」
ふたりは船も操縦できるらしい。漁師の娘というだけのことはある。さっそくテーブルに並べていく。メニューに干物の産地を記していること、定番メニューになっていること、どうやって味付けしているか説明する。ひととおり食べ終えたが、ちょうど自分の休憩時間もきたので、二階の外で雑談する。
「そういえば。ナマエは元気?」
カレンと目を合わせたまま、言葉を失ってしまう。
「あの、ちがうから。またナマエに会いたいとか、そういうのではなくて」
顔を赤くさせ、ぱたぱた手を振って否定する。となりのレニーがカレンの肩に頭をのせた。
「今日の仕事、がんばってカレンがもぎとったのよ。バラティエは大口だから、下手な営業は許されない。この三ヶ月、ずっと努力していた」
「もう、余計なこと言わないで」
怒るカレンに、レニーが満面の笑みを向ける。そのあいだにも自分は必死に頭を働かせた。がんばってバラティエに来てくれたカレンを悲しませたくない。嫌な気分で帰ってほしくない。だが嘘もつけない。慎重に言葉を選ぶ。
「ナマエと喧嘩!?」
ふたりの声が重なった。自分はひたすら頭を下げる。
「もう三週間は顔を合わせていない。だから、あいつが元気かどうか、言えなくてごめん」
「あやまらないで。それより、仲直りできそうなの? 信じられない。だって、あんなにナマエはサンジのことを」
カレンが途中で言葉を切る。知りたい。あいつが自分のことをどう話していたのか。
「もし構わねェなら。あいつが何を言っていたか、教えてほしい」
カレンに顔をそらされる。
「あの言葉は、本当は私なんかが伝えたらダメなの。ナマエから直接聞かないと」
ダメ、か。
「どうして喧嘩になったの」
レニーに答えられない。性別の話は重すぎる。普段から男だと装ってきたあいつの個人情報を、ベラベラ喋っていいのか。
「悪い。込み入った話になっちまうから、人に言いにくいんだ」
カレンと自分を見たあと、レニーが人差し指を上げた。
「思いついた。カレンがナマエの言葉を伝える代わりに、サンジが喧嘩の原因を話す。これならウィンウィンでしょう?」
ぽかんと口を開けてしまう。すぐさまカレンが突っ込んだ。
「それだとナマエが一番損しちゃう。ここにいないのに、そんなことできない」
もっともな意見だ。しかし、この流れ、どこかで見た気が。
「もしかしたら、ナマエの言葉を伝えれば仲直りできるかもしれない。ナマエが元気になるかもしれない。カレン、これはナマエのためでもあるの」
レニーが場を支配した。ようやくセシルとの会話を思い出す。自分のいない場でナマエとセシルが話を進めていた。ならば、逆のことが起きても。レニーもカレンもいい子だ。あいつを裏切るような真似はしないだろう。
「ふたりが秘密にしてくれるなら、喧嘩の原因を話してもいい」
カレンが目を丸くする。となりのレニーを振り返った。
「あとはカレンだけ。ナマエのこと、言えそう?」
レニーが背を伸ばしてカレンの頭をなでる。目を泳がせていたカレンがこちらを見上げた。
「一応確認しておく。今から言うこと、誰にも言わない?」
ナマエが自分をどう言っていたか、誰かにバラすかどうか。即答する。
「絶対に言わねェ。この命をかける」
カレンがそっと頬をゆるめた。
「『サンジに言ったらダメ』とは言われてないから、いいか」
「なんでナマエは助けてくれるの。今日、はじめてコンコーディアにきたって言ってたのに」
「おれは、コンコーディアもとなりの漁港も守りたい。平和な町に戻したいんだ」
「でも、漁港だって知らなかったのでしょう?」
「おれのためじゃない。サンジのためだ。あいつはまた買い出しにくる。そうしたら必ず夜はコンコーディアに泊まる。今日みたいに女の子に話しかけて、甘い夜を過ごす。それだけで終わってほしいんだ。コックとして無事に買い出しが終わってほしい」
「たったひとりのために組織を壊すつもりなの?」
「ああ。サンジのためにすべてを壊す。サンジのために町を取り戻す。サンジのためならこんな仕事、どうってことない」
「あなたにとって、サンジはどういう存在なの」
「おれはサンジのようになりたい。おれの理想像がサンジだ。いろんなことを教わった。いろんなことに気づかされた。いやほど自分の弱点に気づかされ、どうしようもなく手を伸ばしたい。あこがれで、まぶしくて、ずっと背中を見ているのに、ちっとも追いつかない。すごく悔しい。そんな自分を友のように見てくれる。対等な関係だと思わせてくれる。全然飾らない。努力も怠らない。おれの欲しいものを全部持っている。だから、少しでもサンジの力になりたい。あいつの居場所を守りたい。血を浴びるのは自分だけでいい」
「──だから、私はナマエに協力した。ナマエがいないあいだ、サンジが気づかないように引きこんで時間稼ぎした」
ぶわっと汗が吹きだす。顔に熱が集まるのを感じ、すぐさま横を向いた。前髪で隠し、新しい煙草を取りだす。むしろ頭を抱えこみたい。顔を伏せたい。だが、レディのまえでかっこ悪い真似などできるものか。
「私の話はこれで終わり。次はサンジの番」
当分熱は下がりそうにない。海をながめ、前髪で顔を隠したまま言葉をしぼりだした。
「あいつは、女だった」
となりが驚きの声をもらす。ふたりともだ。
「ずっと女なのを隠されていたんだ。このあいだ、服を脱いだ瞬間を偶然見ちまった。それからだ。女だと知った以上、今さら割り切れない。前の距離に戻りたいが、体がいうことをきかねェ」
「サンジはナマエが女の子でうれしいの? 悲しいの?」
レニーの声。まだとなりは振り返れない。
「悲しくなんかあるものか。だが、あいつが男の姿にこだわっている以上、女だと意識しすぎたらまずい。このあいだ、その距離をまちがえて、ナマエの心を殺してしまった」
心を殺し、生気を奪ってしまった。あいつはただ、無感情で女の肉体を自分に捧げようとしていた。
「ナマエは女の子が好きなの?」
思わずカレンを振り返ってしまう。その疑問が完全に抜け落ちていた。
「わからねェ。少なくとも、おれは拒絶された。あいつが花街に出入りするのは見たことがある」
正確には拒絶どころか受け入れようとしていた。だが、あれは自分に嫌われたくないがための選択。本心ではない。
「でも、もし女の子が好きだったとしても、それはサンジへの気持ちと同じではないと思う。サンジとナマエは、その、なんて言えばいいかな」
レニーがつぶやく。あいつが女好きなのは確かだ。あれだけ一緒に過ごし、何人もの女性を口説くのを見てきた。自分の前で性別を偽るために、あそこまで演技するとは思えない。
「ナマエはサンジと寝たくないけれど、サンジはナマエと寝たい。そういうこと?」
カレンの言葉が耳に痛い。うなずきたくないので、まばたきだけにとどめる。
「もしかしたら、ナマエは男と寝たことがないのかも。女の子同士とちがって、男相手だと最初は痛──」
あわてて両手で制する。今は真っ昼間だ。レニーはいろいろと恐れない。
「男に抱かれる感覚がわからなくて、こわいから、最初は拒絶されたのかも。あとは、性欲処理扱いされたと思って、急に冷めたとか。ほら、サンジって女遊び激しそうだし」
レニーだけでなくカレンも刺激たっぷりだ。ひたすら黙るしかない。
「サンジはナマエのこと、どう思っているの? 他の子と寝るときと、どうちがうの?」
頭を抱えたい。たしかにあいつを抱きたい欲はある。その欲が、他の子とどう違うか。あの電伝虫の直後。身代わりとして抱いたあと、なぜ虚無感に襲われたのか。
「おれはナマエが大切だ。おれだってナマエに嫌われたくない。だが、あの衝動がどうちがうのか、うまく言葉にできねェ。まだ混乱している」
「そういえば、サンジは今までナマエと寝たかったの?」
レニーの言葉をうまく飲みこめない。
「だから、男のナマエ」
すぐさま首を横に振る。レニーがじりじりとカレンと目を合わせた。少し、気まずい空気。
「野郎は興味ねェ」
「男同士だから?」
なぜレニーはこんなにも念押しするのか。しっかりとうなずいておく。
「どう思う、カレン」
「男のナマエも少しは意識していたなら、望みはあったけれど」
まずい。中途半端に事実を隠したせいで、悪い方向へ進んでいく。腹をくくるしかない。
「おれは、喧嘩してから女を抱いてねェ。正確には一度抱いたが、そのときの感覚が、その、いい気分になれなかった」
吐き出す言葉すべてが恥ずかしい。だが誤解をとくには、これしか。
「喧嘩したすぐあとに、ナマエと同じ長い黒髪の子を選んだ。できるだけナマエに見えるよう努力した。努力するほどむなしくなった。あんなことは二度としたくない。相手の子にも悪いことをした」
顔を伏せてしまう。ふたりの反応を見るのがこわかった。
「それならよかった」
やわらかい音。顔を上げればレニーがゆるりと口角を上げた。
「もう少しで仲直りできるよ。あと少し」
レニーは解決の糸口を見つけたのか。
「その仲直りってのを、どうすればいいのか迷っている。そもそも、どこから手を付ければいいか」
「だって、サンジはナマエを──」
カレンの口をレニーがふさいだ。
「言ったらだめ。サンジが自分で気づかないと」
口から手がはなれ、カレンがぼそぼそつぶやく。
「でも、すっごくもどかしい」
目が合う。顔も近づいてきた。
「ナマエの言葉、全部バラしちゃったからには、ぜったいに仲直りしてもらうからね? 約束して」
うなずいたが、カレンは動かない。なにか言わなくては。
「約束する。今度こそナマエと向き合う」
「どう向き合うの」
言葉が、胸に突き刺さる。
「あいつの求めていることを知って、応えてやりたい。おれの、今の正直な気持ちを伝える」
「その調子。ナマエが元気になったら教えて。次に仕入れるときでいいから」
仕入れ。漁港への買い出し。つまり猶予は一ヶ月未満。短すぎる。
「元気になったことを知るくらい、いいでしょう? 会いにいくような真似はしないから」
ようやく気づく。カレンはナマエを男だと思っていた。男のナマエを好きだった。
「わるい。あいつはカレンちゃんに性別をバラすつもりはなかったんだ。おれが、きみの大切な思い出を壊しちまった」
気持ちを伝えたくて、彼女の手に唇を重ねる。
「私は、ナマエが男でも女でも、どちらでもよかったけれど」
気の抜けた音。カレンは悲しむどころか、はにかんでみせた。
「サンジは興味ないかもしれないけれど、結構たのしいよ?」
レニーの言葉が理解できない。向かい合わせでカレンに抱きつき、こちらを見上げてくる。カジュアルな服だが、デコルテはしっかりと開いていた。レニーの、山が、大きく。カレンの小山が、ぷっくりと。なんて危険な山脈だ。以前、この山々を制覇したときの記憶が鮮やかによみがえる。
「女だってわかったから、ますますカレンがナマエを意識しちゃうかも」
あたまがまっしろになる。
「レニー、変なこと言わないで。私はサンジとナマエを仲直りさせたい側なの」
どうにか足を踏ん張った。必死に顔を引きしめる。
「でも、ちょっとうれしかった、かも。あんなに言葉が入ってくるの、初めてだったから。ナマエは私の欲しい言葉を知っていた。ひっついても全然いやじゃなかった」
今、このタイミングで聞くしかない。
「あのとき、おれが買い出しに行ったあと、二時間くらいはあったよな? そのとき、三人で、その。どこまでいったんだ」
ふたり同時にこちらを見上げ、互いの目を合わせる。数秒後、笑い声がもれた。
「私たちは、ナマエが女の子だって知らなかったのよ? たくさん抱きついて、抱きしめられて、キスしてたら眠くなって。いつのまにか私もレニーも寝ちゃってた」
まて。まてまて。したのか。キスもしたのか。
「すっごくくすぐったいキスだった。ナマエ、全然急がないの。毎回目を合わせて、言葉をくれる。だんだん心もつながっていくみたいに、やわらかくて、あったかくて」
レニーが、こんなにも瞳をとろけさせるとは。三人の様子を想像し、顔に熱が集まる。今度は本当にまずい。すぐさま横を向き、船の柵に腕を乗せ、しっかりと顔を伏せた。熱が冷めるまでは、ふたりの追撃という名の詳細なキスシーンを聞きながそう。
「あらためてお礼を言いたくて」
ナマエの不在を伝えると、封筒を差し出される。
「今度いらしたときで構いません。返信も不要です。おねがいしてもよろしいでしょうか」
真剣なまなざし。次のショー日程は未定なので、もうナマエはバラティエにこない。そんな真実はすべて飲みこみ、笑顔で封筒を受けとった。じっと見つめられ、わずかに口が開閉するので、焦らず言葉を待つ。
「この一週間、ずっと考えていました。迷惑はかけたくありません。図々しいのも承知しています。ですが、ひとつだけ。お尋ねしてもよろしいですか」
付き添いの子が彼女の腕をとった。何度もとなりに謝りながら、彼女がこちらを見上げる。
「あの方は。私を助けてくださった方は、カタリさんなのですか」
ああ。
「たくさんお話をして、そのあとにショーを見て、なんとなく思ったのです。もしカタリさんなら、どうしても、もう一度お礼を伝えたくて」
直感はあなどれない。あんなにも間近でナマエと接したのだ。カタリは声をほとんど出さず、顔も隠れているが、背丈や髪は同じだと気づくはず。しかし自分は肯定できない。
「悪いが、それは答えられねェ。最初にここでショーをやったときにカタリと約束した。あいつはステージの上だけで生きている。影は徹底的に排除する男だ。すまねェ。わかってくれ」
スラスラと言葉がつながる。本人に直接聞いたわけでもないのに。つまり、自分がそう思っている。光を浴びたステージでしか生きられない、男。
「わかりました。本当に、ありがとうございます」
一瞬、くるしそうに顔をゆがませるが、深々と頭を下げる。こちらも胸が痛む。せめてもの罪滅ぼしにと、最後まで彼女たちを見送った。店を出て、ふたりの船が遠くはなれてから、ようやく息をつく。問題は封筒をいつ届けるか。いま顔を合わせても、どういう目で見ればいいかわからない。まだ迷っていた。男のまま割り切るか、女として受け入れるか。最悪、封筒はポストに突っ込めばいい。回復経過を確かめ、ショーの日程も調整したい。前へ進まなければ。
三日後、ローグタウンへ買い出しにいく。宿をとってからナマエの家へ。玄関をノック。反応なし。その場で煙草を一本吸いきり、結論をだす。手元の鍵で部屋に入った。今日の予定は、なし。それどころか予定表に何も書きこまれていない。背中が完治しなければ活動できないのだ。やはり傷の治りを直接確かめなければ。
冷蔵庫は少し入っている。偶然いまだけ留守なのだろう。洗面所には新品同様のカミソリ。そもそもあいつは使っていなかった。部屋を見わたすほど、自分の痕跡が目につく。歯ブラシも食器も二人分。忘れていった煙草も二箱見つけた。キッチンが一番変わったかもしれない。日持ちする調味料を買いそろえ、コーヒーを淹れる際のポットも新調した。荷物を増やしたくない意向を尊重し、ほかは手を付けていない。
さんざん迷ったあげく、クローゼットを開く。スーツが五着。いや、もう一着。サイズが微妙に違うが自分が買ったものではない。十日前に服を貸した。なんとなく察する。引き出しはのぞかない。封筒をテーブルに置き、適当な紙切れに走り書きを。彼女から受けとった旨を挟んでおく。玄関へ。ドアノブにふれてもいないのに、勝手に鍵が開いた。目を合わせたままナマエが入ってくる。自分は後ずさりで精一杯。瞬時に言葉を探す。
「封筒を渡しにきた。このあいだ助けた、あの子からだ。いまテーブルに置いた」
自分の背後を見すえ、とぎれがちに音が返ってくる。
「ありが、とう」
ナマエが封筒を開ける様子を見守る。中身は便箋一枚。メッセージではなく押し花が出てきた。青色の小花。見たことはあるが、名前を思い出せない。
「そうか」
ナマエの声が空気にとける。そばの椅子に座り、じっと押し花を見つめた。にがい表情だが、口元はほんのりゆるんでいる。
「彼女、なにか言ってたか」
正直に伝えよう。
「おまえがカタリと同一人物なのか聞かれた。もちろん答えなかった」
「やっぱり。バレてたか」
はにかんでみせる。機嫌は悪くない。
「この花、あのとき渡したやつだから。同じものを押し花にしてくれたんだ、きっと」
カタリはショーの最後にテーブルをまわる。すべての女性客にちがう花を贈っていた。
「そろそろ東の海も限界かもしれない」
なにを言っているのか。理解できない。
「彼女、言いふらすような子には見えなかったぞ」
「わかってる。いい子だった」
会話がとぎれる。いま自分が確かめなければならないのは、
「傷、どうだ」
「もう完治した。心配かけてごめん」
思わず目を細めてしまう。まだ一週間しかたっていない。あれだけの傷が、まさか。
「嘘つくな。心配もしてねェ。これ以上おれをだますな」
言ってから失態に気づく。「以前、自分はだまされていた」と責めたも同然だ。ナマエの表情も一変する。椅子から立ち上がり、こちらに背を向けた。
「本当に治っている。このとおり」
ジャケットを脱ぎ、ネクタイも外す。すべてをベッドへ放り投げていく。シャツがゆるみはじめたところで状況を理解した。
「まて。おい、やめろ」
止めようにもうかつに近づけない。手をこまねいているあいだにも、首まわりから肌色が広がっていく。両肩をさらし、腰が見えないぎりぎりまでシャツが下ろされた。背肌。背骨。肩甲骨。ひとまとめの髪も前へ流し、自分とのあいだからすべてが取り払われた。一週間前に見たはずの傷はどこにもない。かさぶたすら消えている。
「大丈夫だ。念のため、今は体を動かさないようにしている」
なぜだ。なぜこんなことができる。なぜ平然としていられる。なぜ男の自分に素肌をさらした。今までだって一度も見せたことはなかったのに。一週間前の偽者とはまるでちがう。この色、このライン。うなじなど意識したこともなかった。今は目がはなせない。その肌に近づきたい。知りたい。確かめたい。
「ナマエ」
首筋に顔を埋め、背後からきつくきつく抱えこむ。目を開けていられない。まだ胸元を見る勇気はなかった。どれだけ肩がはねようが、声がもれようが、今は離れたくない。何が真実か、何が正解か。もう割り切れない。女の色が見えてしまった以上、自分自身をあざむけない。
「ナマエ」
取り込むほど熱は上がる一方。迷わずベッドへ寝かせた。靴を脱がせ、自分も靴を脱ぎ、ナマエの上に覆いかぶさる。半端に開いたシャツで胸元は隠れていた。首筋、デコルテ、肩まで開かれていては、こちらを煽っているとしか思えない。ナマエはまっすぐと自分を見上げていた。いや、力は抜けている。眠る直前のように表情はゆるみ、息も静か。邪魔な眼鏡を取り去り、髪もほどく。抵抗しない。言葉も発しない。まばたきのみをくり返す。ひとことだけ忠告した。
「男に肌をさらせばどうなるか、わかるだろ」
わずかに首を横に振り、瞳がゆれる。
「サンジだから。ちゃんと治ったって伝えたかった」
いつもの重みが消えた、掠れ声。そうやって油断した音をもらすから聞きたくなる。上体を下げて、吐息がわかる位置まで顔を近づける。
「なら、おれに何をされたっていいのか」
肩に手をそえて、ゆっくりと二の腕へ。脱げかけたシャツをさらに下げていく。
「サンジにだけは、きらわれたくない」
波打ち、震え、くるおしいほど顔がゆがむ。泣く前兆だとわかっているのに、自分の熱はさらにこみ上げる。
「きらわれないなら、なんでもする」
ぐらりと視界がゆれる。どうにかナマエへ倒れこむことだけは食い止めた。いつからだ。いつからこんな、こんな距離になった。不本意な接触をすれば押さえ込まれた。いつだって近距離は警戒されていた。それが徐々に、ナマエの気がゆるみ、寝起きも油断するようになり。同じベッドで寝起きこそしないが、鍵をもらい、自宅のようにここへ出入りし、服を共有し、好みを知りつくし。夢も語り合った。
「女として見ても、いいのか」
ここを突破すれば、どこまでも取りこむに決まっている。飢えた心身を満たすため、何度も何度も肌を重ねるはず。なにもかもをつなぎ合わせたい。味わいたい。刻みこみたい。いま、一本の細い理性で暴走を食い止めている。これが切れれば、すべてが、
「それでサンジにきらわれない、なら」
絡み合ったのは、光を失ったまなざし。理性が切れる。同時に視界が一瞬、暗転した。必死に距離を保ち、となりへ寝転がる。間髪入れず、がむしゃらに上体を起こし、頭をかきむしる。急いで靴をはいた。自分の荷物をすべて拾い上げる。ジャケットの内ポケットから鍵を取りだし、テーブルへ。みにくい顔を隠すため、ナマエへ背を向けた。
「おれはまだ、おまえと向き合えない。いまのは、悪かった」
振り返る勇気もない。一度も足を止めることなく宿へかけこんだ。
あれから三週間。ナマエはバラティエに顔を出さない。連絡もこない。コックたちにグチグチ言われるも、適当にあしらう。買い出し先はローグタウンを避けた。だが、どうしても仕入れなければならない品があったので、久しぶりにローグタウンへ向かう。家からできるだけ遠い宿を借りた。見慣れない町通りを歩いてみる。
「サンジさん。サンジさんですよね」
駆けよってきた女性がサングラスを外した。自分を知っている。つまり、バラティエの客。いや、こんな美女を忘れるはずがない。だが、たしかにどこかで。
「申し遅れました。セシルと言います。このあいだは劇を観にきてくださり、ありがとうございます」
劇。そんなものは一度しかない。あのとき。セシル。まさか。一気に疑問がふくれあげるも、目についたカフェへ誘う。彼女はこころよく付いてきてくれた。
「おどろいた。まさか、プリマドンナに声をかけられるとはな」
ケーキを注文し、コーヒーも届いた。ニヤつく顔を必死に抑え、背筋を伸ばす。舞台メイクではないので、最初は気づかなかった。それでも笑い方は舞台で見たプリマドンナそのもの。彼女のまわりに花が咲いている。それくらい空気がやわらかかった。
「それは内緒です。今日はオフなので」
あわてて口をふさぐ。大丈夫。ちょうどとなりテーブルは空いている。キョロキョロしていれば、彼女が口元に手を添え、肩を震わせた。
「本当にサンジさんなのですね」
そうだ。聞かなくては。
「おれの名前、言ってねェよな? いや、そもそも話すこと自体、初めてなはず」
「ナマエさんです。あのとき一緒に来ていた方について、聞いたことがあって」
いやほど心臓がはね上がる。もうひと押し。
「やっぱり、最後はおれに笑ってくれたんだよな?」
プリマドンナが客席へあいさつした際、自分たちの席を見上げて、それはもう、とろけるような笑顔を向けてくれたのだ。
「ええ。おふたりが来てくれたことが、本当にうれしくて」
おふたり。つまり、自分だけではない。
「ナマエさん、来るときは前もって教えてくれるのです。あのときは友人を連れてくるとも聞いていました」
友人。あいつにとって、友人。
「そのあと、三日後くらいだったと思います。友人が私の歌を評価していたと伝えにきてくれて。とってもうれしかった。そのひとについて、たくさん教えてもらいました。名前も、職業も。どこで副料理長をしているかも」
じわり、じわりと胸があたたかくなる。くすぐったい。それなのにくるしい。あいつと劇を観にいける距離に戻れるのか。
「ああ、ごめんなさい。本人のいないところで話が進むなんて、いい気分はしないですよね。あんなにうれしそうなナマエさんは珍しくて。おふたりは本当に仲がいいのですね」
ナマエとセシルはそれなりの頻度で会っている。おれのことも話せるくらい、心を許している。そもそも彼女はあいつの性別を知っているのか。
「それが、そうでもねェんだ。実は最近、喧嘩しちまって」
性別の話はやめよう。女だと知らないなら、彼女が傷ついてしまう。
「やっぱり、まだ仲直りできていないのですね」
口をつけたコーヒーカップをはなしてしまう。どうにかソーサーに戻した。
「あいつに、なにを聞かされたんだ」
とがらないよう、努めて音を丸める。一瞬目をそらしたが、彼女がぽつり、ぽつりと語りだした。あいつは自分に嘘をついていた。それがバレたとき、うまく関係を修復できなかった。一度チャンスはあったが、余計に相手を傷つけてしまう。
「『合鍵を返された』と言ったときのナマエさんが、見ていられなくて。あんなに沈んでいるのは初めて見ました」
彼女がしっかりと向きなおった。目元からこぼれそうなほど瞳がゆれる。
「正直なところ、今日までサンジさんを疑っていました。ナマエさん伝いで聞くあなたは、あまりにも出来すぎていたから。でも、私の取り越し苦労だった。ナマエさんがあなたを大切にしている理由、わかった気がします。今日こうしてお会いできて、本当によかった」
返す言葉が見つからず、深呼吸してしまう。どうにか目は合わせつづけた。
「おれは完璧でもなんでもねェ。今だって、あいつと向き合えていない」
彼女が笑みをこぼした。空気がやわらかくなる。
「完璧だなんて言ってませんよ? サンジさんは、ナマエさん自身が持っていないと思っているものを、すべて持っている。だから『出来すぎ』と表現してしまいました」
頭が混乱する。あいつは何を持っていないのか。何を欲しているのか。
「どうか諦めないでください。ナマエさんも今、あなたとの関係で悩んでいます。あんな姿、とても見せられないくらい」
自分は見られないが、彼女は悩む姿を見ている。やはりセシルには心を許しているのだ。
「いま、変なことを考えませんでした? 私とナマエさんのあいだには何もありませんよ」
ビクリと肩が跳ねてしまう。
「ただ、少し早く出会っただけ」
彼女の掠れた声が空気にとけた。遠くを見つめるまなざしに、どこまでも引きこまれる。
「そろそろ戻りますね。最後に、なにかあれば遠慮なく聞いてください」
最後に、遠慮なく。勝手に口が動いた。
「おれたちが喧嘩した原因は、聞いているのか」
性別を偽ったのが原因だと、彼女は知っているのか。
「全部を聞けたのか、聞けなかったのか、そこまではわかりません。最後があいまいになってしまい、ごめんなさい」
もどかしい。これだけ困った顔をしているのだから、あいつが女だと知らない、とみていいだろう。時間を気にしているレディを引き止めてはならない。笑顔で席を立ち、握手を交わす。素敵な時間を過ごせた喜びを伝えるため、そっと手にくちづけを落とした。
買い出しから戻ってくると、さっそくパティに絡まれる。
「それで。ちゃんと話をつけてきたんだろうな?」
ナマエ、ナマエ、ナマエ。他の奴らも同じことしか聞いてこない。わかっている。ちゃんと向き合うつもりだ。あの麗しきプリマドンナに背中を押してもらった以上、逃げはしない。だが、どう割り切ればいい。頭では理解しているつもりが、己の体は、あいつを女だと認識している。三週間前も、一歩間違えれば無理やり抱いていた。それでは解決にならない。言葉では自分を許していたが、瞳は自分を見ていなかった。きっと、あいつにとって自分に抱かれることは不本意。相手が望まぬ距離など仲直りでもなんでもない。他の道を模索しなければ。
「指名が入ったぞ。オーダーはおまえにしか言わねェってさ。日頃のナンパが実を結んだな?」
厨房で盛り付けをしていれば、ニタニタ顔のカルネに呼ばれる。名指しで自分を呼ぶ客は珍しくない。常連は正直に味を評価してくれる。直接顔を合わせ、感想を聞ける時間は貴重だ。「ナンパ」とカルネは言っていたので女性客だろう。ネクタイを締めなおし、テーブルへ。目が合うと、彼女たちが手を振った。
「レニー。カレンも。久しぶりだな」
酒場で出会ったドレスでも、漁港で見た作業着でもない。動きやすそうなカジュアル。それでも目元の泣きぼくろ、ぷっくりした唇に目を奪われる。
「なかなか仕入れにこないから、きちゃった」
カレンのウインクにクラクラする。ナマエと行ってから、もうすぐ三ヶ月か。
「ごめん、うそ。今日は仕事。うちの干物がどう使われているか、見にきたの」
ふたりは船も操縦できるらしい。漁師の娘というだけのことはある。さっそくテーブルに並べていく。メニューに干物の産地を記していること、定番メニューになっていること、どうやって味付けしているか説明する。ひととおり食べ終えたが、ちょうど自分の休憩時間もきたので、二階の外で雑談する。
「そういえば。ナマエは元気?」
カレンと目を合わせたまま、言葉を失ってしまう。
「あの、ちがうから。またナマエに会いたいとか、そういうのではなくて」
顔を赤くさせ、ぱたぱた手を振って否定する。となりのレニーがカレンの肩に頭をのせた。
「今日の仕事、がんばってカレンがもぎとったのよ。バラティエは大口だから、下手な営業は許されない。この三ヶ月、ずっと努力していた」
「もう、余計なこと言わないで」
怒るカレンに、レニーが満面の笑みを向ける。そのあいだにも自分は必死に頭を働かせた。がんばってバラティエに来てくれたカレンを悲しませたくない。嫌な気分で帰ってほしくない。だが嘘もつけない。慎重に言葉を選ぶ。
「ナマエと喧嘩!?」
ふたりの声が重なった。自分はひたすら頭を下げる。
「もう三週間は顔を合わせていない。だから、あいつが元気かどうか、言えなくてごめん」
「あやまらないで。それより、仲直りできそうなの? 信じられない。だって、あんなにナマエはサンジのことを」
カレンが途中で言葉を切る。知りたい。あいつが自分のことをどう話していたのか。
「もし構わねェなら。あいつが何を言っていたか、教えてほしい」
カレンに顔をそらされる。
「あの言葉は、本当は私なんかが伝えたらダメなの。ナマエから直接聞かないと」
ダメ、か。
「どうして喧嘩になったの」
レニーに答えられない。性別の話は重すぎる。普段から男だと装ってきたあいつの個人情報を、ベラベラ喋っていいのか。
「悪い。込み入った話になっちまうから、人に言いにくいんだ」
カレンと自分を見たあと、レニーが人差し指を上げた。
「思いついた。カレンがナマエの言葉を伝える代わりに、サンジが喧嘩の原因を話す。これならウィンウィンでしょう?」
ぽかんと口を開けてしまう。すぐさまカレンが突っ込んだ。
「それだとナマエが一番損しちゃう。ここにいないのに、そんなことできない」
もっともな意見だ。しかし、この流れ、どこかで見た気が。
「もしかしたら、ナマエの言葉を伝えれば仲直りできるかもしれない。ナマエが元気になるかもしれない。カレン、これはナマエのためでもあるの」
レニーが場を支配した。ようやくセシルとの会話を思い出す。自分のいない場でナマエとセシルが話を進めていた。ならば、逆のことが起きても。レニーもカレンもいい子だ。あいつを裏切るような真似はしないだろう。
「ふたりが秘密にしてくれるなら、喧嘩の原因を話してもいい」
カレンが目を丸くする。となりのレニーを振り返った。
「あとはカレンだけ。ナマエのこと、言えそう?」
レニーが背を伸ばしてカレンの頭をなでる。目を泳がせていたカレンがこちらを見上げた。
「一応確認しておく。今から言うこと、誰にも言わない?」
ナマエが自分をどう言っていたか、誰かにバラすかどうか。即答する。
「絶対に言わねェ。この命をかける」
カレンがそっと頬をゆるめた。
「『サンジに言ったらダメ』とは言われてないから、いいか」
「なんでナマエは助けてくれるの。今日、はじめてコンコーディアにきたって言ってたのに」
「おれは、コンコーディアもとなりの漁港も守りたい。平和な町に戻したいんだ」
「でも、漁港だって知らなかったのでしょう?」
「おれのためじゃない。サンジのためだ。あいつはまた買い出しにくる。そうしたら必ず夜はコンコーディアに泊まる。今日みたいに女の子に話しかけて、甘い夜を過ごす。それだけで終わってほしいんだ。コックとして無事に買い出しが終わってほしい」
「たったひとりのために組織を壊すつもりなの?」
「ああ。サンジのためにすべてを壊す。サンジのために町を取り戻す。サンジのためならこんな仕事、どうってことない」
「あなたにとって、サンジはどういう存在なの」
「おれはサンジのようになりたい。おれの理想像がサンジだ。いろんなことを教わった。いろんなことに気づかされた。いやほど自分の弱点に気づかされ、どうしようもなく手を伸ばしたい。あこがれで、まぶしくて、ずっと背中を見ているのに、ちっとも追いつかない。すごく悔しい。そんな自分を友のように見てくれる。対等な関係だと思わせてくれる。全然飾らない。努力も怠らない。おれの欲しいものを全部持っている。だから、少しでもサンジの力になりたい。あいつの居場所を守りたい。血を浴びるのは自分だけでいい」
「──だから、私はナマエに協力した。ナマエがいないあいだ、サンジが気づかないように引きこんで時間稼ぎした」
ぶわっと汗が吹きだす。顔に熱が集まるのを感じ、すぐさま横を向いた。前髪で隠し、新しい煙草を取りだす。むしろ頭を抱えこみたい。顔を伏せたい。だが、レディのまえでかっこ悪い真似などできるものか。
「私の話はこれで終わり。次はサンジの番」
当分熱は下がりそうにない。海をながめ、前髪で顔を隠したまま言葉をしぼりだした。
「あいつは、女だった」
となりが驚きの声をもらす。ふたりともだ。
「ずっと女なのを隠されていたんだ。このあいだ、服を脱いだ瞬間を偶然見ちまった。それからだ。女だと知った以上、今さら割り切れない。前の距離に戻りたいが、体がいうことをきかねェ」
「サンジはナマエが女の子でうれしいの? 悲しいの?」
レニーの声。まだとなりは振り返れない。
「悲しくなんかあるものか。だが、あいつが男の姿にこだわっている以上、女だと意識しすぎたらまずい。このあいだ、その距離をまちがえて、ナマエの心を殺してしまった」
心を殺し、生気を奪ってしまった。あいつはただ、無感情で女の肉体を自分に捧げようとしていた。
「ナマエは女の子が好きなの?」
思わずカレンを振り返ってしまう。その疑問が完全に抜け落ちていた。
「わからねェ。少なくとも、おれは拒絶された。あいつが花街に出入りするのは見たことがある」
正確には拒絶どころか受け入れようとしていた。だが、あれは自分に嫌われたくないがための選択。本心ではない。
「でも、もし女の子が好きだったとしても、それはサンジへの気持ちと同じではないと思う。サンジとナマエは、その、なんて言えばいいかな」
レニーがつぶやく。あいつが女好きなのは確かだ。あれだけ一緒に過ごし、何人もの女性を口説くのを見てきた。自分の前で性別を偽るために、あそこまで演技するとは思えない。
「ナマエはサンジと寝たくないけれど、サンジはナマエと寝たい。そういうこと?」
カレンの言葉が耳に痛い。うなずきたくないので、まばたきだけにとどめる。
「もしかしたら、ナマエは男と寝たことがないのかも。女の子同士とちがって、男相手だと最初は痛──」
あわてて両手で制する。今は真っ昼間だ。レニーはいろいろと恐れない。
「男に抱かれる感覚がわからなくて、こわいから、最初は拒絶されたのかも。あとは、性欲処理扱いされたと思って、急に冷めたとか。ほら、サンジって女遊び激しそうだし」
レニーだけでなくカレンも刺激たっぷりだ。ひたすら黙るしかない。
「サンジはナマエのこと、どう思っているの? 他の子と寝るときと、どうちがうの?」
頭を抱えたい。たしかにあいつを抱きたい欲はある。その欲が、他の子とどう違うか。あの電伝虫の直後。身代わりとして抱いたあと、なぜ虚無感に襲われたのか。
「おれはナマエが大切だ。おれだってナマエに嫌われたくない。だが、あの衝動がどうちがうのか、うまく言葉にできねェ。まだ混乱している」
「そういえば、サンジは今までナマエと寝たかったの?」
レニーの言葉をうまく飲みこめない。
「だから、男のナマエ」
すぐさま首を横に振る。レニーがじりじりとカレンと目を合わせた。少し、気まずい空気。
「野郎は興味ねェ」
「男同士だから?」
なぜレニーはこんなにも念押しするのか。しっかりとうなずいておく。
「どう思う、カレン」
「男のナマエも少しは意識していたなら、望みはあったけれど」
まずい。中途半端に事実を隠したせいで、悪い方向へ進んでいく。腹をくくるしかない。
「おれは、喧嘩してから女を抱いてねェ。正確には一度抱いたが、そのときの感覚が、その、いい気分になれなかった」
吐き出す言葉すべてが恥ずかしい。だが誤解をとくには、これしか。
「喧嘩したすぐあとに、ナマエと同じ長い黒髪の子を選んだ。できるだけナマエに見えるよう努力した。努力するほどむなしくなった。あんなことは二度としたくない。相手の子にも悪いことをした」
顔を伏せてしまう。ふたりの反応を見るのがこわかった。
「それならよかった」
やわらかい音。顔を上げればレニーがゆるりと口角を上げた。
「もう少しで仲直りできるよ。あと少し」
レニーは解決の糸口を見つけたのか。
「その仲直りってのを、どうすればいいのか迷っている。そもそも、どこから手を付ければいいか」
「だって、サンジはナマエを──」
カレンの口をレニーがふさいだ。
「言ったらだめ。サンジが自分で気づかないと」
口から手がはなれ、カレンがぼそぼそつぶやく。
「でも、すっごくもどかしい」
目が合う。顔も近づいてきた。
「ナマエの言葉、全部バラしちゃったからには、ぜったいに仲直りしてもらうからね? 約束して」
うなずいたが、カレンは動かない。なにか言わなくては。
「約束する。今度こそナマエと向き合う」
「どう向き合うの」
言葉が、胸に突き刺さる。
「あいつの求めていることを知って、応えてやりたい。おれの、今の正直な気持ちを伝える」
「その調子。ナマエが元気になったら教えて。次に仕入れるときでいいから」
仕入れ。漁港への買い出し。つまり猶予は一ヶ月未満。短すぎる。
「元気になったことを知るくらい、いいでしょう? 会いにいくような真似はしないから」
ようやく気づく。カレンはナマエを男だと思っていた。男のナマエを好きだった。
「わるい。あいつはカレンちゃんに性別をバラすつもりはなかったんだ。おれが、きみの大切な思い出を壊しちまった」
気持ちを伝えたくて、彼女の手に唇を重ねる。
「私は、ナマエが男でも女でも、どちらでもよかったけれど」
気の抜けた音。カレンは悲しむどころか、はにかんでみせた。
「サンジは興味ないかもしれないけれど、結構たのしいよ?」
レニーの言葉が理解できない。向かい合わせでカレンに抱きつき、こちらを見上げてくる。カジュアルな服だが、デコルテはしっかりと開いていた。レニーの、山が、大きく。カレンの小山が、ぷっくりと。なんて危険な山脈だ。以前、この山々を制覇したときの記憶が鮮やかによみがえる。
「女だってわかったから、ますますカレンがナマエを意識しちゃうかも」
あたまがまっしろになる。
「レニー、変なこと言わないで。私はサンジとナマエを仲直りさせたい側なの」
どうにか足を踏ん張った。必死に顔を引きしめる。
「でも、ちょっとうれしかった、かも。あんなに言葉が入ってくるの、初めてだったから。ナマエは私の欲しい言葉を知っていた。ひっついても全然いやじゃなかった」
今、このタイミングで聞くしかない。
「あのとき、おれが買い出しに行ったあと、二時間くらいはあったよな? そのとき、三人で、その。どこまでいったんだ」
ふたり同時にこちらを見上げ、互いの目を合わせる。数秒後、笑い声がもれた。
「私たちは、ナマエが女の子だって知らなかったのよ? たくさん抱きついて、抱きしめられて、キスしてたら眠くなって。いつのまにか私もレニーも寝ちゃってた」
まて。まてまて。したのか。キスもしたのか。
「すっごくくすぐったいキスだった。ナマエ、全然急がないの。毎回目を合わせて、言葉をくれる。だんだん心もつながっていくみたいに、やわらかくて、あったかくて」
レニーが、こんなにも瞳をとろけさせるとは。三人の様子を想像し、顔に熱が集まる。今度は本当にまずい。すぐさま横を向き、船の柵に腕を乗せ、しっかりと顔を伏せた。熱が冷めるまでは、ふたりの追撃という名の詳細なキスシーンを聞きながそう。