サンジ過去編
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甲高い叫びが響いた。銃声が数発。がむしゃらに店内へ駆けこむ。海賊が四人。全員倒れていた。客を見まわすも怪我人はゼロ。ただし、ナマエの足元で突っ伏す海賊は派手に斬られていた。床に赤が広がる。
「サンジ。こいつら、船に突き返しておいて」
ナマエがひとりの女性を振り返る。
「彼女、襲われかけた。そばにいてやりたい」
ナマエを見つめたまましゃがみこみ、全身を震わせ、言葉を失っている。駆け寄りたい衝動を抑えこみ、今回はおとなしくナマエに従う。介抱する様子を横目に海賊を運びだした。四人を船に放り込んだところでようやく気づく。以前、ナマエが派手に返り血を被った相手と同じではないか。一瞬で頭が沸騰する。頭を引きずりだし、食が目的ではないと十分に確認したうえで蹴りをぶちこむ。
「うちはレストランだ。てめェらは客でもねェ。とっとと失せろ!」
バラティエの要注意人物はナマエひとりだけだと思っていたらしい。余計に腹が立つ。パティ、カルネもやってきたので、三人で海賊を相手した。航海士をのぞく全員を床に寝かせ、船を出航させる。
「コックをナメすぎだ。──おい、パティ。ナマエに任せた彼女は大丈夫か」
煙草を新しく取りだし、一服。今は苛ついて声が尖ってしまう。落ち着いてから様子を見にいこう。
「一応、上の食堂で休ませている。あったかいもんを飲ませた。時間は必要だろうな」
拳を強く握ってしまう。ナマエの言葉だけでは推測しにくいが、おそらく、聞こえた銃声は彼女へ向けられたものだろう。そしてあいつが彼女を守った。
「とにかく、その子は大丈夫だ。おれたちは床掃除がある。おまえはウエイターをやれ」
カルネの指示に異論はない。テーブルすべてをまわり、客に声をかける。たいてい、乱闘直後は食事を頼まれない。慎重に顔色を確かめつつ、無難な話題を振り、紅茶、コーヒーを全員にサービスする。オーダーをとり、すべてのテーブルへ行き渡らせ、ようやくひと区切り。
「ちょっと彼女を見てくる」
すれ違いざまにパティへ声をかければ、腕をつかまれる。
「まて。ウエイターは料理長の命令だ。気になるなら、おれが見にいく」
なぜ。ジジイの命令だと?
「顔を見たいだけだ。すぐ戻る」
「お、おい! まて!」
パティの手を振りきり、二階店員食堂へ。女の子がふたり。彼女ともうひとり。一緒に来店した子だろう。笑顔を心がけ、となりに座る。
「このスープ、うまいだろ? おれがつくった」
まだ表情は硬いが、うなずいてくれる。軽い雑談を挟んだあと、苛立ちを隠しながら話を振る。
「あの野郎、戻ってこねェな。どこ行ったか知ってるか」
ナマエがいない。「そばにいてやりたい」と抜かした奴が、なぜ。
「私が。わたしが、わるいんです」
瞳が揺れ、涙がこぼれた瞬間、一気に感情が爆発する。とっさに言葉をつないだ。
「きみは悪くない。大丈夫だ」
圧倒的に情報が足りない。なぜあいつは姿を消し、彼女が自分を責めるのか。傷つけないよう慎重に言葉を選び、やわらかい音を紡ぐ。
「あいつに何かされたのか」
顔を伏せた彼女からは答えをもらえそうにないので、付き添いの子と目を合わせる。付き添いの子は彼女の肩を抱えながら、気丈に振る舞う。はじめから緻密に、すべてが語られた。海賊は最初からナマエが目的だった。三人はすばやく倒されたが、残ったひとりがしぶとかった。一番近くにいた彼女めがけて発砲。ナマエが抱えこんだため、弾は避けられたが、追撃を受けてしまう。海賊がナマエの背中へ刀を振りかざした。
「あいつ、が、斬られた……?」
口には出したものの、現実感がない。あたまがまっしろになる。
「ずっと『たいしたことない。平気』って。私たちも、背中が見えなかったから気づかなくて。ここまでは一緒に来たけれど、オーナーってひとが背中を見たら、すごく怒鳴ったんです。そのままどこかへ連れていかれました」
思わず椅子から立ち上がる。行き先は三階だ。笑顔でふたりに答える。
「すぐ戻る」
だが食堂出口をパティにふさがれる。
「どけ」
「断る」
泣いている彼女のまえでキツい言葉を吐きたくない。ひたすらパティを睨みつける。
「ナマエの手当てが済んだら料理長がここに顔を出すはずだ。それまで待ってろ」
気に食わない。なぜパティは自分より状況を把握している。なぜジジイは自分を遠ざける。自分がウエイター? そんなもの、代役ならいくらでもきく。気に食わない。気に食わない。
「おれは副料理長だ」
問答無用。パティを押しのけ、全速力で三階へ駆け上がる。勢いよく扉を開けた。ベッドにナマエ。背中。包帯の隙間から、ざっくりと一筋が透けている。巻きはじめたばかりの包帯が赤くにじむ。
「おまえは呼んでねェ。さっさと出ろ」
ジジイはこちらに見向きもしない。包帯を巻きつづける。床にはナマエのシャツ、ジャケットが。どちらも背中がぱっくり開いている。そして白い布。細切れ。これも斬られたのか。かける言葉が見つからない。立ち尽くしたまま、無心で名を呼ぶ。
「ナマエ」
肩が跳ねた。手を震わせながら、そばのシーツをかき集める。様子がおかしい。
「サンジ、出ろ」
ジジイの怒声など聞き飽きた。せめて、こいつの顔だけでも見たい。ベッドに駆け寄り、片ひざと手をつく。ナマエの正面へまわりこんだ。ゆがんだ顔。赤い。震えている。ちがう。もっと下。かき集めたシーツは胸元に。胸元。包帯の下が、ふくらんでいる。手を伸ばし、シーツを取り払う。腕で隠された。いや、隠しきれていない。きつめに巻いた包帯が、ふたつのふくらみをつぶし、胸元中央に、ひと筋の、谷が。
「ごめん、なさい」
なぜ声が震えている。なぜ泣きそうな、静かな音をもらす。こんな声は知らない。弱々しい。まるで、女のような、
「サンジ。ごめんなさい、だまっていて、ずっと、隠していて」
もうろうとしながらも、取り払ったシーツを広げ、前面を覆い隠してやる。いま、何が起きた。何を見た。何を謝られた。急激に腹の底がひねりつぶされる。逆流。気持ち悪い。手で口元を押さえ、必死に吐き気を沈める。這いつくばりながら、どうにかベッドを抜け出した。壁に手をつき、無我夢中で二階の自室へ。とにかく落ち着かなければ。扉の鍵を締めて部屋を暗くする。ベッドでシーツをかぶり、膝を抱えて横になる。力いっぱい目をつぶり、先ほどの光景を懸命に頭から追い払った。
十分、二十分は暗闇に閉じこもった。三階から二階へ、義足の音が響く。ジジイが下りてきた。かぶっていたシーツをはぎとり、上体を起こす。まだ頭がふらつくが、窓を開けて煙草を一本。吸い終えたらもう一本。三本目で気を奮い立たせ、ネクタイを締めなおす。無表情をよそおい、店員食堂へ入った。彼女たちとパティ。そしてジジイ。まずはふたりに声をかける。彼女の涙は消え、こちらにやわらかく微笑んだ。
「あのひとが起きるまで、ここにいてもいいですか」
反応に困り、うしろを振り返る。ジジイは静かにうなずいた。聞くなら今しかない。
「ジジイ。話がある。おれの部屋だ」
答えを聞かずに歩きだす。うしろに足音が続く。自室の窓を閉め、ジジイが入ったなら扉も閉める。同じ二階だが、店員食堂から十分に離れている。彼女たちに聞かれることはない。向かい合ったまま、きつく睨んだ。
「ジジイは知ってたのか」
沈黙。ただ目が合うだけ。もう一度問う。
「あいつのこと、知ってたのか」
まだ口を開けない。
「答えろ」
きつく拳を握ってしまう。
「ジジイは、わかっていて、止めなかったのか」
なにもかもだ。なにもかもを、
「おれが、まちがってるサマを、陰で笑ってたのか」
踏み外した。男の道を踏み外してしまった。
「なんで、止めなかった。なんで、いつものように、怒鳴りつけなかったんだ」
何度も押し倒した。何度も足を出した。何度も何度も雑に放った。そのサマを、何度も放置されてきた。見過ごしたはずがない。あえて止めなかった。あえて怒鳴りつけなかった。
「あんなに叩きこまれた流儀は、何だったんだ──」
横に吹き飛ばされる。ベッドに倒れこんだ。こんなもの、痛くもかゆくもない。キリキリと押しつぶされた心臓の方が、よっぽど。上体を起こし、ひたすら睨みつける。
「おまえは、あいつの何を見てきた」
低く重い声。ぞくりと背筋が凍る。
「まちがえたら止めていた。何度か止めた」
いつの話だ。
「自分で気づけ。自分でなんとかしろ」
わからない。何を気づけばいいのか。何をどうすれば。
「男は女を蹴っちゃならねェ。そこだけはまちがえるな」
「だったら! なんで! あいつは」
胸ぐらをつかまれ、急に顔が近づく。息をとめてしまう。
「今度は止めねェぞ。いいか。道を見失うな」
きつい。くるしい。なぜ怒鳴らない。なぜすべてを言わない。なぜ最善を教えてくれないのだ。どうしてナマエを蹴ったとき、止めてくれなかった。
「さっさと仕事に戻れ」
手が離れ、部屋から出ていく。瞬間、どっと力が抜け、そのままベッドに倒れこむ。目を閉じ、軽くひと呼吸。冷静に考えを巡らせる。パティを自室へ呼び出し、直接聞きこんだ。
「おまえも気づいてたんだろ。いつからだ」
パティが渋い顔をする。遠慮がちに言葉が続いた。
「その、ナマエのことか?」
「女だって知ってたんだろ。だからさっき、おれを止めた」
どうにか流暢に吐き出した。女。実感のわかない言葉。
「なら、サンジはやっぱり気づいてなかったのか」
感情が爆発し、きつく両肩をつかんでしまう。
「さっさと言え。いつだ。どのタイミングだ」
「おれは、というか、コック全員だ。料理長はもっと早い段階らしいが。つまり、だな」
手を下ろし、パティに横を向けて新しく火をつける。冷静に答えを受け止めなくては。
「おまえら、一回、派手に喧嘩したことあっただろ。それでおまえがキッシュを食わせた。そのときだ」
キッシュ? あの試食?
「まさか、あんな風に泣くとは思わなかった。いま思えば、あれがナマエの素だったのかもな。ありゃ、完全に女の涙だった」
懸命に記憶をたどる。たしかに、今まで見たこともないような泣き方をした。ぐしゃぐしゃに顔をゆがませ、真っ赤にさせ、声だってあんなに──ああ。
「おまえがとんでもねェこと抜かすから、見ているこっちはヒヤヒヤしたぞ。てっきり、あのタイミングでおまえも女だと気づいたうえで、ああ言ったんだとばかり」
自分の吐いた言葉。思い出した瞬間、胸が苦しくなる。とっさに手で押さえた。すぐさま煙草を灰皿に押しつぶし、息を整える。
「おれに全部、預けてみないか』『気が狂うなら、おれが最後まで面倒を見る。こわいなら、ずっとそばにいてやる。暴走しそうになったら、おれが全力で止める。いま、ぐちゃぐちゃになっちまってるかもしれねェが、その先に何があるか、知りたくねェか?』『ナマエも知らない、なにかがある。渡りきった先には、なにかが見える。きっとそうだ』『どうなったっていい。おれが全部受け止める』『信じろ。ナマエにささげる。この身を全部」
その直後だ。ジジイにナマエを奪われたのは。「まちがえたら止めた」──あのとき、止められた。なぜ自分は気づかなかった。あんなにも吸いよせられる涙を見て、なぜレディとつながらなかった。
「おまえらが出ていったあと、試食を見ていた連中全員と確認したらよ、満場一致で『ナマエは女だ』って結論がでた。あとで聞いたら、料理長も女だと認めていた。ついでに口止めもされた。『サンジが自力で気づくまで放っておけ』ってな」
もう何ヶ月前だ。とっくの昔に自分以外は気づいていた。それとなく顔だけをパティへ振り返り、努めて平坦な音で尋ねる。
「自力で気づくまで、ジジイがおれを放置した理由はわかるか」
パティがこれでもかと片眉を上げた。
「あのなぁ」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめてみせる。
「おまえら、まだ若いだろ。そういうことだ。おれからもアドバイスしねェからな。自分で考えろ」
パティまでも上から目線で、ここまで抜かすとは。
「年を食っただけで、そこまで偉そうな口をきかれるとはな」
今度はムカつくほど歯を見せてきた。うざったらしいまばたきも始まる。
「大人になりゃ見えてくるもんだってある。背伸びしたくらいで全部見えるなら苦労しねェさ」
頭を適当にたたかれ、さらに腹が立つ。背丈だけは人一倍あるパティならではの嫌がらせだ。軽く足蹴りを入れておく。
「ほら。仕事に戻るぞ」
肩を組まれ、むりやり自室から引きずりだされる。はっきり言って混乱している。何が最優先か。店員食堂が見えてきたので、パティを振り払い、中に入る。ジジイはいない。談笑する彼女たちに声をかける。そうか。ふたりはあいつを待っている。様子を見にいくべきでは。
「わるい、心配かけて」
聞こえるはずのない声。食堂入口に姿を現した。自分の服を着ている。いつのまに。たった今、自室を空けた瞬間にもぐりこんだとしか考えられない。彼女たちがナマエへ駆けよった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
髪を纏め、眼鏡をかけ、きっちりスーツを着込んでいる。包帯は見えないが、多少動作がぎこちない。そばに来た彼女の手をとり、そっとくちづけを落とした。
「もう大丈夫。傷は浅かった。さっき、まともに食べられなかっただろ? なにかおごるよ」
表情は変わらない。レディへ話しかける、いつもの笑顔。口元をそっとゆるめ、やわらかいまなざしを相手に注ぐ。
「ここでたくさんごちそうしてもらいました。副料理長さんが良くしてくださって」
彼女たちがこちらを振り返る。ナマエとも目が合った。表情が決まらず、煙を吹かして横を向いてしまう。
「そうか。いつも副料理長には頭が上がらないな。ありがとうございます」
なぜ敬語を。なぜ仰々しく頭を下げる。返す言葉が見つからない。ぎこちなく口だけ笑ってみせ、また横を向いて煙草を吸う。居心地が悪い。外でもう一本吸いなおすか。
「あと三十分か。そろそろ席への案内が始まる。一階に下りた方がいい」
ナマエの言葉に、すべてが吹き飛んだ。まさか、こいつ、その体で、
「まて」
彼女たちを一階へ誘導する背中へ鋭い音を突きさす。足は止まったが、こちらを振り返らない。
「サンジ。話はあとで聞く」
数分後、ナマエだけが店員食堂へ戻ってくる。すぐさま食いかかった。
「今からショーをやる気か」
声は張り上げるが、けっして近づかない。もう胸ぐらも、肩もつかまない。
「さっきも言ったが、傷は浅い。多少マジックは入れ替える。問題ない」
「問題ないわけねェだろ。あれは浅くなかった。今だって腕を上げるのも痛いはずだ」
ざっくり一筋、赤かった。包帯がにじむほど深い。なぜ、そんなに涼しい顔をしていられる。
「痛いくらい、なんてことない。今日で最後だ。明日はローグタウンに帰るだけ。今からの一時間を乗り切れば休める」
「やめろ。今日は中止にしとけ」
無理する必要はない。傷が悪化すれば治りも遅くなる。回復に専念して、後日ショーをやり直せばいい。
「サンジ。おれは、おれのためにショーをやりたい。そして、彼女のために」
表情が微妙に変わるたび、女だと再認識してしまう。外見は野郎そのものなのに、唇をかみ、くるしそうに目を細め、波打つ声をもらす。こわれそうなほど、はかなく、繊細。なぜこんなにもわかりやすいのに自分は気づかなかった。
「奴らに襲われるまえから聞いていたんだ。今日のショーを見にきたって。いい席がとれたから、すごく楽しみだって。おれは、ふたりに笑ってほしい。笑って帰ってほしい。いやなことを全部忘れて、しあわせな気持ちにしてやりたい。カタリにしかできないんだ」
言いたいことはわかる。以前なら止めなかった。そっと背中を押していた。だがこいつは、この男は、彼は──いや、ちがう。きみは、この子は、彼女は、まちがいなく。
「副料理長の命令だ。ショーがキャンセルになった代わりに、スペシャルディナーを用意する。今からコック全員で準備すれば間に合う」
「たのむ! やらせてくれ!」
この叫びは泣いている。目元からこぼれはしないが、心が泣いている。
「おれが全力でフォローする。できるかぎりのことはやる。無理させるわけにはいかねェんだ」
一時間もパフォーマンスすれば必ず傷が開く。うちに医者はいない。ジジイの簡易措置では心もとない。ローグタウンへ戻るまで安静にしなければ。
「ナマエ、聞いてくれ。おれの言うことを」
一歩、また一歩。じりじりと近づき、いつもの距離に戻る。自分が心配しているのだと伝えたい。きみに知ってほしい。どうすれば。
「おれは、大切だ。これ以上傷ついてほしくない」
きみが大切だ、とまでは言えなかった。それでも気づいてほしくて手をとる。なぜ震えるのだ。少し身も引いた。わずかに首を横に振り、にがい表情を浮かべる。そんなに嫌なのか。こちらの厚意がそんなに、
「ナマエ、行ってこい。許可する」
とっさに入り口を振り返る。ジジイだ。うしろにパティもいる。さっき出ていったのは、ジジイを呼びにいったのか。
「ジジイ。無茶させるな」
「てめェはだまってろ!」
突然の怒声に半歩下がってしまう。ナマエの手もはなしてしまった。
「ありがとうございます、料理長」
深々と頭を下げ、ナマエが歩きだす。とっさに腕をつかんだ。しかし振り払われてしまう。
「悪い、サンジ。今日だけのわがままだ。やらせてくれ」
背を向けたまま、ぽつりとつぶやく。今度こそ食堂を出ていった。あたまがまっしろになる。何も考えられない。
「ジジイ、てめェ」
行き場を失った感情を向けた先は、自分よりも権限のある料理長。
「持ち場に戻れ。いつもどおりだ。今から一時間、ナマエに口出しするな。ショーを無理やり中断でもしたらタダじゃおかねェぞ」
ギロリと睨まれ、仕方なく目をそらす。この一本を吸い終えたら一階に下りよう。言われたからには中断させない。だが、ナマエに異変があれば、すぐジジイに通告しよう。どうにか感情を腹の底に沈ませ、ショーの準備を開始する。
舞台袖からカタリの一挙一動を目で追う。わずかにのぞく首筋には汗が。しかも悪い汗だ。息も荒い。ハットを深くかぶっているので目元は隠れているが、ここから見るかぎり、いつもの目つきではない。無茶しやがって。駆けよりたい衝動を抑え、ひたすら両腕を組み、横顔を観察する。
「ジジイ。このあとのことは考えているんだろうな」
背後にいるのはわかっていた。カタリから目をそらさずに後ろへ問いかける。
「あれくらいの傷、放っとけば治る」
ナマエもジジイも、なぜ軽視するのだ。
「医者でもねェくせに。ナマエに何かあったらどうするんだ」
「まだわからねェのか。あいつは今、戦場にいる」
思わず後ろを振り返ってしまう。しかし顔を無理やり舞台へ固定される。すぐそばでジジイの声が響いた。
「おれたちの戦場は厨房だ。この店、バラティエだ。戦場を守る。戦場でしのぎを削る」
何度も聞かされてきた。この場所を守るのだと、ここで戦いつづけるのだと。
「あいつは今、何と戦っている。あいつは何を守っている。てめェの目は節穴か」
カタリ──ナマエは今、パフォーマーとして。自分の居場所を。だとしてもだ。
「自分の体を犠牲にしてまで、あんな無謀に──」
「男なら見届けていた。野郎なら止めなかった。そんなバカげたことを考えちゃいねェだろうな」
息がとまる。
「おまえは、あいつの何を見てきた」
さきほどと同じ言葉。おれは、あいつを。思い出せない。すべての前提がひっくり返った今、どうしろと。どう受け止めろと。どう解釈し、あいつと接すればいいのだ。
「よく見極めろ」
ジジイの手が離れていく。それでも自分はカタリの横顔を見つづけた。ちょうどショーが終わる。ステージ中央で深々と頭を下げた。悪い汗をかいている。息も乱れている。微細な変化など、客席からではわからない。きっと自分しか気づいていない。それでもあいつはやりきった。自分の戦場を守り抜いたのだ。こちらに歩いてくる。目が合いそうになるも、必死に顔をそらす。かける言葉がみつからない。わからない。わからない。逃げるように二階へ駆け上がった。
ショー三日間の日程が終わった。ナマエは今日の定期便で帰る。だが、コックたちに「ローグタウンまで送れ」とくり返される。買い出しではなく、ただの往復など無駄が多すぎる。渋っていると、ジジイに宿代も押し付けられてしまった。
「わるい。迷惑かけて」
こちらに謝るナマエはふらついていた。少し熱があるらしい。昨夜、ショーをやりきったからだ。しかし病人を責め立てるべきではない。あらゆる言葉を飲みこみ、一緒に定期船へ乗りこむ。席につくも、こちらに背を向け、横に傾く。そのまま座れば背中の傷にさわる。わかってはいるが、もどかしい。水分補給に気をつけて、定期的にとなりの様子をうかがう。
ローグタウンまでの移動は問題なかった。船から降り、家まで歩くも、徐々にふらつきはじめる。声をかけるが「ちゃんと歩ける」と譲らない。だが、途中から足を止めて息を整えだしたので、強引に肩を持つ。歩く速度をそろえ、ゆっくりと進む。ようやく家にたどり着いた。
「担ぐぞ」
横に抱き上げては、どうしても背中をさわってしまう。首に腕をまわすよう指示し、ナマエを背負う。そのまま階段をのぼっていった。
「本当に、ごめん」
耳元で小さくつぶやく。気にするな、とは言えない。昨夜のショーを止められなかったことをいまだ悔やんでいた。それにしても、本当にこいつは。布を巻きつけるだけで凹凸は消えるものなのか。今朝から全身を観察しているが、やはり外見は野郎そのものだ。今も違和感はない。昨日のことは夢であってほしい。あいつらが勝手に勘違いしているだけだ。胸のふくらみなど幻覚だった。
「開けるぞ」
手元の鍵で部屋に入る。まずはナマエをベッドに座らせる。予定表を見るかぎり、今日から三日間は何もない。換気をし、冷蔵庫のなかを確認。いつもどおり、ミネラルウォーターは山ほどある。チーズもハムも。ただ、今すぐ病人が食えるものはない。とりあえず水を飲ませる。つらそうなので、ジャケット、靴を脱がせてやる。髪をほどき、眼鏡も外す。うつ伏せに寝かせながら、確認をとる。
「かかりつけの医者はいるのか」
「うん。今から連絡する」
自身の電伝虫をかける。
「ナマエだ。海賊に斬られた。薬がほしい。家まで持ってきてくれ」
すぐに通話は終わった。家の住所も知っている医者。それなら任せてもいいだろう。
「まだ熱があるだろ。食欲がねェなら、おかゆでも何でも作ってやる」
うつ伏せのまま、こちらを見上げる。瞬間、ぐらりと視界がゆれた。下ろした髪が顔にかかり、頬が上気し、熱で瞳がうるんでいる。ちがう。ちがう。こいつは男ではない。勝手に手が伸び、そっと肩を押す。うつ伏せから横向きへ。自分もそばで膝をつき、目線を合わせる。まだ首元がくるしそうだ。上からシャツのボタンをひとつずつ外す。抵抗されない。息が上がったまま、こちらをぼんやりと見つめる。包帯が見えたところで手をはなす。おちつけ。おちつくんだ。長く目を閉じて深呼吸をくり返す。いま目の前に見えたのは、ふくらみを押さえてできた谷間。幻覚ではなかった。なぜだ。なぜだ。情けない。くるしそうな瞳にかき乱され、勝手に熱がこみ上げる。これ以上見てはならない。すぐに立ち上がり、背を向ける。
「医者とは仲がいいのか。買い出しくらいは頼めるか」
「うん。よく知っているひとだから。大丈夫。食事くらい、なんとかなる」
今の自分では務まらない。こんな簡単に理性を吹っ飛ばす男など、この部屋にとどまれない。
「今日は一泊する。何かあったらすぐ電伝虫しろ」
自分の子電伝虫を取りだす。ついでに鍵も。
「鍵は締めておく。医者が来るまで横になっておけ」
もう振り返れない。はやくこの空気から抜け出さなくては。
「ありがとう」
歩きだすも、やわらかい音に一瞬立ちどまってしまう。どうにか腹の底から声をしぼりだした。
「さっさと治せ」
今度こそ玄関を出る。鍵を締め、廊下を進んだが、階段にさしかかったところでしゃがみこんでしまう。とにかく熱を下げなくては。階段に座りこみ、一本を吸いきる。まずは宿をとった。夕めしを適当に済ませ、ふたたび宿に戻ってくる。あとは寝るだけ。買い出しもないため、はやく寝る必要はない。先ほどの会話を思い出し、自分から電伝虫をかけてみる。
「おれだ。医者は来たか」
『うん。切り傷にきく薬をぬった。安静にしていれば熱も下がるって』
掠れた声。あまい。あまったるい。とろとろに、どうしようもなく。静かにベッドへ寝転がり、耳元に電伝虫を設置。かぎりなく音を下げて、低いささやき声をだす。
「そうか。あれから寝たのか」
『すこし。二時間はぐっすりだったはず』
視界がぼやける。全身がしびれ、また熱がこみ上げる。息も上がってきた。この部屋は誰にも邪魔されない。誰もこない。開きなおる。会話をつなぐことだけに集中した。
「なにか食ったか。水だけじゃ治らねェぞ」
『わかってる。向かいのベーカリーでキッシュを買ってきてもらった』
声がはずんだ。急に声が高くなり、くるおしいほど耳がくすぐったい。背をそらしたくなるも、ぐっと我慢する。それでもとうの昔に理性はとけていた。
「『いつもの味』か? あれは消化がいいとは言えねェ。ほどほどにしとけ」
『もう。サンジは厳しすぎ。いつもの味をおいしく食べれるうちは、元気な証拠。そうでしょう?』
今の通話先は野郎ではない。熱のせいか、言葉づかいも油断している。以前も何度かあった。気づけなかった。気づかなかった。ようやく素の声だと理解する。もっと引き出したい。さらに声を低くする。
「まあ、そんな口がきけるならマシだな。今度、消化にいいキッシュを作ってやる」
『いつも、ありがとう』
泣きそうな声。きっと顔を赤くさせている。となりにいたら絶対に手を伸ばしていた。抱きしめていた。そんな距離は許されない。病人に手を出すなど最低だ。これ以上の通話も毒。
「感謝しとけ。おれほど親切なコックはいねェ。そろそろ切るぞ」
『うん。感謝しとく。おやすみ』
何度か聞いた言葉。一度は自分もささやいた。通話ごしは初めて聞く。それでもくすぐったさは変わらない。理性はとろとろにこぼれ落ち、もう拾いきれない。無心で口を動かした。
「ああ。おやすみ」
通話が切れたあとも声の余韻にひたる。どうにか熱は沈めたが、頭のなかではぐるぐる巡りつづける。無性に喉が渇いた。もう自分では手に負えない。このままでは寝付けない。乱れたシャツをなおし、ジャケットを羽織る。煙草を一本吸いきり、夜の街へ。以前から通っている彼女を指名。本当に偶然だが、彼女も長い黒髪。背丈も低くない。今日の方向性を聞かれ、迷いなく答える。
「声はできるだけ押し殺して。目隠しも。こっちから動くから、ひたすら嫌がる振りをしてくれ。振りだけでいい。最後はおれに夢中になって。今日は後ろからを多くする。背中が見たい。きみの髪を乱して、腰の動きをじっくりながめていたい。もしかしたら激しくするかもしれねェ。ごめん。今日だけだ。全部受けとめてほしい」
次も言うか。最後の最後まで迷った。
「ちがう子の名前を口走ったら、許してほしい」
なにもかも。すべてをつかみそこねた。肌を欲したのに、差異を痛感してくるしくなる。何度も何度も欲を吐き出したのに満たされない。抱けば抱くほど胸に穴があく。くるしい。息も詰まる。髪の手ざわりもまったくの別物だ。本物とふれあったこともないのに、唇のやわらかさは偽物だと思い知る。目を隠し、声も封じた。それでも。きっとこんな体つきではない。こんな胸元ではない。こんな風に腰を振らない。こんな、こんな乱れ方ではない。知らないはずなのに、なぜわかるのだ。
宿へ戻り、ベッドに身を投げだす。子電伝虫を手にとるも、頭を振り、サイドテーブルに置く。声を聞いたところで会えない。こんなみにくい自分を見せるわけにはいかない。飢えた心身は他の女では満たされない。満たされなくなってしまった。
「サンジ。こいつら、船に突き返しておいて」
ナマエがひとりの女性を振り返る。
「彼女、襲われかけた。そばにいてやりたい」
ナマエを見つめたまましゃがみこみ、全身を震わせ、言葉を失っている。駆け寄りたい衝動を抑えこみ、今回はおとなしくナマエに従う。介抱する様子を横目に海賊を運びだした。四人を船に放り込んだところでようやく気づく。以前、ナマエが派手に返り血を被った相手と同じではないか。一瞬で頭が沸騰する。頭を引きずりだし、食が目的ではないと十分に確認したうえで蹴りをぶちこむ。
「うちはレストランだ。てめェらは客でもねェ。とっとと失せろ!」
バラティエの要注意人物はナマエひとりだけだと思っていたらしい。余計に腹が立つ。パティ、カルネもやってきたので、三人で海賊を相手した。航海士をのぞく全員を床に寝かせ、船を出航させる。
「コックをナメすぎだ。──おい、パティ。ナマエに任せた彼女は大丈夫か」
煙草を新しく取りだし、一服。今は苛ついて声が尖ってしまう。落ち着いてから様子を見にいこう。
「一応、上の食堂で休ませている。あったかいもんを飲ませた。時間は必要だろうな」
拳を強く握ってしまう。ナマエの言葉だけでは推測しにくいが、おそらく、聞こえた銃声は彼女へ向けられたものだろう。そしてあいつが彼女を守った。
「とにかく、その子は大丈夫だ。おれたちは床掃除がある。おまえはウエイターをやれ」
カルネの指示に異論はない。テーブルすべてをまわり、客に声をかける。たいてい、乱闘直後は食事を頼まれない。慎重に顔色を確かめつつ、無難な話題を振り、紅茶、コーヒーを全員にサービスする。オーダーをとり、すべてのテーブルへ行き渡らせ、ようやくひと区切り。
「ちょっと彼女を見てくる」
すれ違いざまにパティへ声をかければ、腕をつかまれる。
「まて。ウエイターは料理長の命令だ。気になるなら、おれが見にいく」
なぜ。ジジイの命令だと?
「顔を見たいだけだ。すぐ戻る」
「お、おい! まて!」
パティの手を振りきり、二階店員食堂へ。女の子がふたり。彼女ともうひとり。一緒に来店した子だろう。笑顔を心がけ、となりに座る。
「このスープ、うまいだろ? おれがつくった」
まだ表情は硬いが、うなずいてくれる。軽い雑談を挟んだあと、苛立ちを隠しながら話を振る。
「あの野郎、戻ってこねェな。どこ行ったか知ってるか」
ナマエがいない。「そばにいてやりたい」と抜かした奴が、なぜ。
「私が。わたしが、わるいんです」
瞳が揺れ、涙がこぼれた瞬間、一気に感情が爆発する。とっさに言葉をつないだ。
「きみは悪くない。大丈夫だ」
圧倒的に情報が足りない。なぜあいつは姿を消し、彼女が自分を責めるのか。傷つけないよう慎重に言葉を選び、やわらかい音を紡ぐ。
「あいつに何かされたのか」
顔を伏せた彼女からは答えをもらえそうにないので、付き添いの子と目を合わせる。付き添いの子は彼女の肩を抱えながら、気丈に振る舞う。はじめから緻密に、すべてが語られた。海賊は最初からナマエが目的だった。三人はすばやく倒されたが、残ったひとりがしぶとかった。一番近くにいた彼女めがけて発砲。ナマエが抱えこんだため、弾は避けられたが、追撃を受けてしまう。海賊がナマエの背中へ刀を振りかざした。
「あいつ、が、斬られた……?」
口には出したものの、現実感がない。あたまがまっしろになる。
「ずっと『たいしたことない。平気』って。私たちも、背中が見えなかったから気づかなくて。ここまでは一緒に来たけれど、オーナーってひとが背中を見たら、すごく怒鳴ったんです。そのままどこかへ連れていかれました」
思わず椅子から立ち上がる。行き先は三階だ。笑顔でふたりに答える。
「すぐ戻る」
だが食堂出口をパティにふさがれる。
「どけ」
「断る」
泣いている彼女のまえでキツい言葉を吐きたくない。ひたすらパティを睨みつける。
「ナマエの手当てが済んだら料理長がここに顔を出すはずだ。それまで待ってろ」
気に食わない。なぜパティは自分より状況を把握している。なぜジジイは自分を遠ざける。自分がウエイター? そんなもの、代役ならいくらでもきく。気に食わない。気に食わない。
「おれは副料理長だ」
問答無用。パティを押しのけ、全速力で三階へ駆け上がる。勢いよく扉を開けた。ベッドにナマエ。背中。包帯の隙間から、ざっくりと一筋が透けている。巻きはじめたばかりの包帯が赤くにじむ。
「おまえは呼んでねェ。さっさと出ろ」
ジジイはこちらに見向きもしない。包帯を巻きつづける。床にはナマエのシャツ、ジャケットが。どちらも背中がぱっくり開いている。そして白い布。細切れ。これも斬られたのか。かける言葉が見つからない。立ち尽くしたまま、無心で名を呼ぶ。
「ナマエ」
肩が跳ねた。手を震わせながら、そばのシーツをかき集める。様子がおかしい。
「サンジ、出ろ」
ジジイの怒声など聞き飽きた。せめて、こいつの顔だけでも見たい。ベッドに駆け寄り、片ひざと手をつく。ナマエの正面へまわりこんだ。ゆがんだ顔。赤い。震えている。ちがう。もっと下。かき集めたシーツは胸元に。胸元。包帯の下が、ふくらんでいる。手を伸ばし、シーツを取り払う。腕で隠された。いや、隠しきれていない。きつめに巻いた包帯が、ふたつのふくらみをつぶし、胸元中央に、ひと筋の、谷が。
「ごめん、なさい」
なぜ声が震えている。なぜ泣きそうな、静かな音をもらす。こんな声は知らない。弱々しい。まるで、女のような、
「サンジ。ごめんなさい、だまっていて、ずっと、隠していて」
もうろうとしながらも、取り払ったシーツを広げ、前面を覆い隠してやる。いま、何が起きた。何を見た。何を謝られた。急激に腹の底がひねりつぶされる。逆流。気持ち悪い。手で口元を押さえ、必死に吐き気を沈める。這いつくばりながら、どうにかベッドを抜け出した。壁に手をつき、無我夢中で二階の自室へ。とにかく落ち着かなければ。扉の鍵を締めて部屋を暗くする。ベッドでシーツをかぶり、膝を抱えて横になる。力いっぱい目をつぶり、先ほどの光景を懸命に頭から追い払った。
十分、二十分は暗闇に閉じこもった。三階から二階へ、義足の音が響く。ジジイが下りてきた。かぶっていたシーツをはぎとり、上体を起こす。まだ頭がふらつくが、窓を開けて煙草を一本。吸い終えたらもう一本。三本目で気を奮い立たせ、ネクタイを締めなおす。無表情をよそおい、店員食堂へ入った。彼女たちとパティ。そしてジジイ。まずはふたりに声をかける。彼女の涙は消え、こちらにやわらかく微笑んだ。
「あのひとが起きるまで、ここにいてもいいですか」
反応に困り、うしろを振り返る。ジジイは静かにうなずいた。聞くなら今しかない。
「ジジイ。話がある。おれの部屋だ」
答えを聞かずに歩きだす。うしろに足音が続く。自室の窓を閉め、ジジイが入ったなら扉も閉める。同じ二階だが、店員食堂から十分に離れている。彼女たちに聞かれることはない。向かい合ったまま、きつく睨んだ。
「ジジイは知ってたのか」
沈黙。ただ目が合うだけ。もう一度問う。
「あいつのこと、知ってたのか」
まだ口を開けない。
「答えろ」
きつく拳を握ってしまう。
「ジジイは、わかっていて、止めなかったのか」
なにもかもだ。なにもかもを、
「おれが、まちがってるサマを、陰で笑ってたのか」
踏み外した。男の道を踏み外してしまった。
「なんで、止めなかった。なんで、いつものように、怒鳴りつけなかったんだ」
何度も押し倒した。何度も足を出した。何度も何度も雑に放った。そのサマを、何度も放置されてきた。見過ごしたはずがない。あえて止めなかった。あえて怒鳴りつけなかった。
「あんなに叩きこまれた流儀は、何だったんだ──」
横に吹き飛ばされる。ベッドに倒れこんだ。こんなもの、痛くもかゆくもない。キリキリと押しつぶされた心臓の方が、よっぽど。上体を起こし、ひたすら睨みつける。
「おまえは、あいつの何を見てきた」
低く重い声。ぞくりと背筋が凍る。
「まちがえたら止めていた。何度か止めた」
いつの話だ。
「自分で気づけ。自分でなんとかしろ」
わからない。何を気づけばいいのか。何をどうすれば。
「男は女を蹴っちゃならねェ。そこだけはまちがえるな」
「だったら! なんで! あいつは」
胸ぐらをつかまれ、急に顔が近づく。息をとめてしまう。
「今度は止めねェぞ。いいか。道を見失うな」
きつい。くるしい。なぜ怒鳴らない。なぜすべてを言わない。なぜ最善を教えてくれないのだ。どうしてナマエを蹴ったとき、止めてくれなかった。
「さっさと仕事に戻れ」
手が離れ、部屋から出ていく。瞬間、どっと力が抜け、そのままベッドに倒れこむ。目を閉じ、軽くひと呼吸。冷静に考えを巡らせる。パティを自室へ呼び出し、直接聞きこんだ。
「おまえも気づいてたんだろ。いつからだ」
パティが渋い顔をする。遠慮がちに言葉が続いた。
「その、ナマエのことか?」
「女だって知ってたんだろ。だからさっき、おれを止めた」
どうにか流暢に吐き出した。女。実感のわかない言葉。
「なら、サンジはやっぱり気づいてなかったのか」
感情が爆発し、きつく両肩をつかんでしまう。
「さっさと言え。いつだ。どのタイミングだ」
「おれは、というか、コック全員だ。料理長はもっと早い段階らしいが。つまり、だな」
手を下ろし、パティに横を向けて新しく火をつける。冷静に答えを受け止めなくては。
「おまえら、一回、派手に喧嘩したことあっただろ。それでおまえがキッシュを食わせた。そのときだ」
キッシュ? あの試食?
「まさか、あんな風に泣くとは思わなかった。いま思えば、あれがナマエの素だったのかもな。ありゃ、完全に女の涙だった」
懸命に記憶をたどる。たしかに、今まで見たこともないような泣き方をした。ぐしゃぐしゃに顔をゆがませ、真っ赤にさせ、声だってあんなに──ああ。
「おまえがとんでもねェこと抜かすから、見ているこっちはヒヤヒヤしたぞ。てっきり、あのタイミングでおまえも女だと気づいたうえで、ああ言ったんだとばかり」
自分の吐いた言葉。思い出した瞬間、胸が苦しくなる。とっさに手で押さえた。すぐさま煙草を灰皿に押しつぶし、息を整える。
「おれに全部、預けてみないか』『気が狂うなら、おれが最後まで面倒を見る。こわいなら、ずっとそばにいてやる。暴走しそうになったら、おれが全力で止める。いま、ぐちゃぐちゃになっちまってるかもしれねェが、その先に何があるか、知りたくねェか?』『ナマエも知らない、なにかがある。渡りきった先には、なにかが見える。きっとそうだ』『どうなったっていい。おれが全部受け止める』『信じろ。ナマエにささげる。この身を全部」
その直後だ。ジジイにナマエを奪われたのは。「まちがえたら止めた」──あのとき、止められた。なぜ自分は気づかなかった。あんなにも吸いよせられる涙を見て、なぜレディとつながらなかった。
「おまえらが出ていったあと、試食を見ていた連中全員と確認したらよ、満場一致で『ナマエは女だ』って結論がでた。あとで聞いたら、料理長も女だと認めていた。ついでに口止めもされた。『サンジが自力で気づくまで放っておけ』ってな」
もう何ヶ月前だ。とっくの昔に自分以外は気づいていた。それとなく顔だけをパティへ振り返り、努めて平坦な音で尋ねる。
「自力で気づくまで、ジジイがおれを放置した理由はわかるか」
パティがこれでもかと片眉を上げた。
「あのなぁ」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめてみせる。
「おまえら、まだ若いだろ。そういうことだ。おれからもアドバイスしねェからな。自分で考えろ」
パティまでも上から目線で、ここまで抜かすとは。
「年を食っただけで、そこまで偉そうな口をきかれるとはな」
今度はムカつくほど歯を見せてきた。うざったらしいまばたきも始まる。
「大人になりゃ見えてくるもんだってある。背伸びしたくらいで全部見えるなら苦労しねェさ」
頭を適当にたたかれ、さらに腹が立つ。背丈だけは人一倍あるパティならではの嫌がらせだ。軽く足蹴りを入れておく。
「ほら。仕事に戻るぞ」
肩を組まれ、むりやり自室から引きずりだされる。はっきり言って混乱している。何が最優先か。店員食堂が見えてきたので、パティを振り払い、中に入る。ジジイはいない。談笑する彼女たちに声をかける。そうか。ふたりはあいつを待っている。様子を見にいくべきでは。
「わるい、心配かけて」
聞こえるはずのない声。食堂入口に姿を現した。自分の服を着ている。いつのまに。たった今、自室を空けた瞬間にもぐりこんだとしか考えられない。彼女たちがナマエへ駆けよった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
髪を纏め、眼鏡をかけ、きっちりスーツを着込んでいる。包帯は見えないが、多少動作がぎこちない。そばに来た彼女の手をとり、そっとくちづけを落とした。
「もう大丈夫。傷は浅かった。さっき、まともに食べられなかっただろ? なにかおごるよ」
表情は変わらない。レディへ話しかける、いつもの笑顔。口元をそっとゆるめ、やわらかいまなざしを相手に注ぐ。
「ここでたくさんごちそうしてもらいました。副料理長さんが良くしてくださって」
彼女たちがこちらを振り返る。ナマエとも目が合った。表情が決まらず、煙を吹かして横を向いてしまう。
「そうか。いつも副料理長には頭が上がらないな。ありがとうございます」
なぜ敬語を。なぜ仰々しく頭を下げる。返す言葉が見つからない。ぎこちなく口だけ笑ってみせ、また横を向いて煙草を吸う。居心地が悪い。外でもう一本吸いなおすか。
「あと三十分か。そろそろ席への案内が始まる。一階に下りた方がいい」
ナマエの言葉に、すべてが吹き飛んだ。まさか、こいつ、その体で、
「まて」
彼女たちを一階へ誘導する背中へ鋭い音を突きさす。足は止まったが、こちらを振り返らない。
「サンジ。話はあとで聞く」
数分後、ナマエだけが店員食堂へ戻ってくる。すぐさま食いかかった。
「今からショーをやる気か」
声は張り上げるが、けっして近づかない。もう胸ぐらも、肩もつかまない。
「さっきも言ったが、傷は浅い。多少マジックは入れ替える。問題ない」
「問題ないわけねェだろ。あれは浅くなかった。今だって腕を上げるのも痛いはずだ」
ざっくり一筋、赤かった。包帯がにじむほど深い。なぜ、そんなに涼しい顔をしていられる。
「痛いくらい、なんてことない。今日で最後だ。明日はローグタウンに帰るだけ。今からの一時間を乗り切れば休める」
「やめろ。今日は中止にしとけ」
無理する必要はない。傷が悪化すれば治りも遅くなる。回復に専念して、後日ショーをやり直せばいい。
「サンジ。おれは、おれのためにショーをやりたい。そして、彼女のために」
表情が微妙に変わるたび、女だと再認識してしまう。外見は野郎そのものなのに、唇をかみ、くるしそうに目を細め、波打つ声をもらす。こわれそうなほど、はかなく、繊細。なぜこんなにもわかりやすいのに自分は気づかなかった。
「奴らに襲われるまえから聞いていたんだ。今日のショーを見にきたって。いい席がとれたから、すごく楽しみだって。おれは、ふたりに笑ってほしい。笑って帰ってほしい。いやなことを全部忘れて、しあわせな気持ちにしてやりたい。カタリにしかできないんだ」
言いたいことはわかる。以前なら止めなかった。そっと背中を押していた。だがこいつは、この男は、彼は──いや、ちがう。きみは、この子は、彼女は、まちがいなく。
「副料理長の命令だ。ショーがキャンセルになった代わりに、スペシャルディナーを用意する。今からコック全員で準備すれば間に合う」
「たのむ! やらせてくれ!」
この叫びは泣いている。目元からこぼれはしないが、心が泣いている。
「おれが全力でフォローする。できるかぎりのことはやる。無理させるわけにはいかねェんだ」
一時間もパフォーマンスすれば必ず傷が開く。うちに医者はいない。ジジイの簡易措置では心もとない。ローグタウンへ戻るまで安静にしなければ。
「ナマエ、聞いてくれ。おれの言うことを」
一歩、また一歩。じりじりと近づき、いつもの距離に戻る。自分が心配しているのだと伝えたい。きみに知ってほしい。どうすれば。
「おれは、大切だ。これ以上傷ついてほしくない」
きみが大切だ、とまでは言えなかった。それでも気づいてほしくて手をとる。なぜ震えるのだ。少し身も引いた。わずかに首を横に振り、にがい表情を浮かべる。そんなに嫌なのか。こちらの厚意がそんなに、
「ナマエ、行ってこい。許可する」
とっさに入り口を振り返る。ジジイだ。うしろにパティもいる。さっき出ていったのは、ジジイを呼びにいったのか。
「ジジイ。無茶させるな」
「てめェはだまってろ!」
突然の怒声に半歩下がってしまう。ナマエの手もはなしてしまった。
「ありがとうございます、料理長」
深々と頭を下げ、ナマエが歩きだす。とっさに腕をつかんだ。しかし振り払われてしまう。
「悪い、サンジ。今日だけのわがままだ。やらせてくれ」
背を向けたまま、ぽつりとつぶやく。今度こそ食堂を出ていった。あたまがまっしろになる。何も考えられない。
「ジジイ、てめェ」
行き場を失った感情を向けた先は、自分よりも権限のある料理長。
「持ち場に戻れ。いつもどおりだ。今から一時間、ナマエに口出しするな。ショーを無理やり中断でもしたらタダじゃおかねェぞ」
ギロリと睨まれ、仕方なく目をそらす。この一本を吸い終えたら一階に下りよう。言われたからには中断させない。だが、ナマエに異変があれば、すぐジジイに通告しよう。どうにか感情を腹の底に沈ませ、ショーの準備を開始する。
舞台袖からカタリの一挙一動を目で追う。わずかにのぞく首筋には汗が。しかも悪い汗だ。息も荒い。ハットを深くかぶっているので目元は隠れているが、ここから見るかぎり、いつもの目つきではない。無茶しやがって。駆けよりたい衝動を抑え、ひたすら両腕を組み、横顔を観察する。
「ジジイ。このあとのことは考えているんだろうな」
背後にいるのはわかっていた。カタリから目をそらさずに後ろへ問いかける。
「あれくらいの傷、放っとけば治る」
ナマエもジジイも、なぜ軽視するのだ。
「医者でもねェくせに。ナマエに何かあったらどうするんだ」
「まだわからねェのか。あいつは今、戦場にいる」
思わず後ろを振り返ってしまう。しかし顔を無理やり舞台へ固定される。すぐそばでジジイの声が響いた。
「おれたちの戦場は厨房だ。この店、バラティエだ。戦場を守る。戦場でしのぎを削る」
何度も聞かされてきた。この場所を守るのだと、ここで戦いつづけるのだと。
「あいつは今、何と戦っている。あいつは何を守っている。てめェの目は節穴か」
カタリ──ナマエは今、パフォーマーとして。自分の居場所を。だとしてもだ。
「自分の体を犠牲にしてまで、あんな無謀に──」
「男なら見届けていた。野郎なら止めなかった。そんなバカげたことを考えちゃいねェだろうな」
息がとまる。
「おまえは、あいつの何を見てきた」
さきほどと同じ言葉。おれは、あいつを。思い出せない。すべての前提がひっくり返った今、どうしろと。どう受け止めろと。どう解釈し、あいつと接すればいいのだ。
「よく見極めろ」
ジジイの手が離れていく。それでも自分はカタリの横顔を見つづけた。ちょうどショーが終わる。ステージ中央で深々と頭を下げた。悪い汗をかいている。息も乱れている。微細な変化など、客席からではわからない。きっと自分しか気づいていない。それでもあいつはやりきった。自分の戦場を守り抜いたのだ。こちらに歩いてくる。目が合いそうになるも、必死に顔をそらす。かける言葉がみつからない。わからない。わからない。逃げるように二階へ駆け上がった。
ショー三日間の日程が終わった。ナマエは今日の定期便で帰る。だが、コックたちに「ローグタウンまで送れ」とくり返される。買い出しではなく、ただの往復など無駄が多すぎる。渋っていると、ジジイに宿代も押し付けられてしまった。
「わるい。迷惑かけて」
こちらに謝るナマエはふらついていた。少し熱があるらしい。昨夜、ショーをやりきったからだ。しかし病人を責め立てるべきではない。あらゆる言葉を飲みこみ、一緒に定期船へ乗りこむ。席につくも、こちらに背を向け、横に傾く。そのまま座れば背中の傷にさわる。わかってはいるが、もどかしい。水分補給に気をつけて、定期的にとなりの様子をうかがう。
ローグタウンまでの移動は問題なかった。船から降り、家まで歩くも、徐々にふらつきはじめる。声をかけるが「ちゃんと歩ける」と譲らない。だが、途中から足を止めて息を整えだしたので、強引に肩を持つ。歩く速度をそろえ、ゆっくりと進む。ようやく家にたどり着いた。
「担ぐぞ」
横に抱き上げては、どうしても背中をさわってしまう。首に腕をまわすよう指示し、ナマエを背負う。そのまま階段をのぼっていった。
「本当に、ごめん」
耳元で小さくつぶやく。気にするな、とは言えない。昨夜のショーを止められなかったことをいまだ悔やんでいた。それにしても、本当にこいつは。布を巻きつけるだけで凹凸は消えるものなのか。今朝から全身を観察しているが、やはり外見は野郎そのものだ。今も違和感はない。昨日のことは夢であってほしい。あいつらが勝手に勘違いしているだけだ。胸のふくらみなど幻覚だった。
「開けるぞ」
手元の鍵で部屋に入る。まずはナマエをベッドに座らせる。予定表を見るかぎり、今日から三日間は何もない。換気をし、冷蔵庫のなかを確認。いつもどおり、ミネラルウォーターは山ほどある。チーズもハムも。ただ、今すぐ病人が食えるものはない。とりあえず水を飲ませる。つらそうなので、ジャケット、靴を脱がせてやる。髪をほどき、眼鏡も外す。うつ伏せに寝かせながら、確認をとる。
「かかりつけの医者はいるのか」
「うん。今から連絡する」
自身の電伝虫をかける。
「ナマエだ。海賊に斬られた。薬がほしい。家まで持ってきてくれ」
すぐに通話は終わった。家の住所も知っている医者。それなら任せてもいいだろう。
「まだ熱があるだろ。食欲がねェなら、おかゆでも何でも作ってやる」
うつ伏せのまま、こちらを見上げる。瞬間、ぐらりと視界がゆれた。下ろした髪が顔にかかり、頬が上気し、熱で瞳がうるんでいる。ちがう。ちがう。こいつは男ではない。勝手に手が伸び、そっと肩を押す。うつ伏せから横向きへ。自分もそばで膝をつき、目線を合わせる。まだ首元がくるしそうだ。上からシャツのボタンをひとつずつ外す。抵抗されない。息が上がったまま、こちらをぼんやりと見つめる。包帯が見えたところで手をはなす。おちつけ。おちつくんだ。長く目を閉じて深呼吸をくり返す。いま目の前に見えたのは、ふくらみを押さえてできた谷間。幻覚ではなかった。なぜだ。なぜだ。情けない。くるしそうな瞳にかき乱され、勝手に熱がこみ上げる。これ以上見てはならない。すぐに立ち上がり、背を向ける。
「医者とは仲がいいのか。買い出しくらいは頼めるか」
「うん。よく知っているひとだから。大丈夫。食事くらい、なんとかなる」
今の自分では務まらない。こんな簡単に理性を吹っ飛ばす男など、この部屋にとどまれない。
「今日は一泊する。何かあったらすぐ電伝虫しろ」
自分の子電伝虫を取りだす。ついでに鍵も。
「鍵は締めておく。医者が来るまで横になっておけ」
もう振り返れない。はやくこの空気から抜け出さなくては。
「ありがとう」
歩きだすも、やわらかい音に一瞬立ちどまってしまう。どうにか腹の底から声をしぼりだした。
「さっさと治せ」
今度こそ玄関を出る。鍵を締め、廊下を進んだが、階段にさしかかったところでしゃがみこんでしまう。とにかく熱を下げなくては。階段に座りこみ、一本を吸いきる。まずは宿をとった。夕めしを適当に済ませ、ふたたび宿に戻ってくる。あとは寝るだけ。買い出しもないため、はやく寝る必要はない。先ほどの会話を思い出し、自分から電伝虫をかけてみる。
「おれだ。医者は来たか」
『うん。切り傷にきく薬をぬった。安静にしていれば熱も下がるって』
掠れた声。あまい。あまったるい。とろとろに、どうしようもなく。静かにベッドへ寝転がり、耳元に電伝虫を設置。かぎりなく音を下げて、低いささやき声をだす。
「そうか。あれから寝たのか」
『すこし。二時間はぐっすりだったはず』
視界がぼやける。全身がしびれ、また熱がこみ上げる。息も上がってきた。この部屋は誰にも邪魔されない。誰もこない。開きなおる。会話をつなぐことだけに集中した。
「なにか食ったか。水だけじゃ治らねェぞ」
『わかってる。向かいのベーカリーでキッシュを買ってきてもらった』
声がはずんだ。急に声が高くなり、くるおしいほど耳がくすぐったい。背をそらしたくなるも、ぐっと我慢する。それでもとうの昔に理性はとけていた。
「『いつもの味』か? あれは消化がいいとは言えねェ。ほどほどにしとけ」
『もう。サンジは厳しすぎ。いつもの味をおいしく食べれるうちは、元気な証拠。そうでしょう?』
今の通話先は野郎ではない。熱のせいか、言葉づかいも油断している。以前も何度かあった。気づけなかった。気づかなかった。ようやく素の声だと理解する。もっと引き出したい。さらに声を低くする。
「まあ、そんな口がきけるならマシだな。今度、消化にいいキッシュを作ってやる」
『いつも、ありがとう』
泣きそうな声。きっと顔を赤くさせている。となりにいたら絶対に手を伸ばしていた。抱きしめていた。そんな距離は許されない。病人に手を出すなど最低だ。これ以上の通話も毒。
「感謝しとけ。おれほど親切なコックはいねェ。そろそろ切るぞ」
『うん。感謝しとく。おやすみ』
何度か聞いた言葉。一度は自分もささやいた。通話ごしは初めて聞く。それでもくすぐったさは変わらない。理性はとろとろにこぼれ落ち、もう拾いきれない。無心で口を動かした。
「ああ。おやすみ」
通話が切れたあとも声の余韻にひたる。どうにか熱は沈めたが、頭のなかではぐるぐる巡りつづける。無性に喉が渇いた。もう自分では手に負えない。このままでは寝付けない。乱れたシャツをなおし、ジャケットを羽織る。煙草を一本吸いきり、夜の街へ。以前から通っている彼女を指名。本当に偶然だが、彼女も長い黒髪。背丈も低くない。今日の方向性を聞かれ、迷いなく答える。
「声はできるだけ押し殺して。目隠しも。こっちから動くから、ひたすら嫌がる振りをしてくれ。振りだけでいい。最後はおれに夢中になって。今日は後ろからを多くする。背中が見たい。きみの髪を乱して、腰の動きをじっくりながめていたい。もしかしたら激しくするかもしれねェ。ごめん。今日だけだ。全部受けとめてほしい」
次も言うか。最後の最後まで迷った。
「ちがう子の名前を口走ったら、許してほしい」
なにもかも。すべてをつかみそこねた。肌を欲したのに、差異を痛感してくるしくなる。何度も何度も欲を吐き出したのに満たされない。抱けば抱くほど胸に穴があく。くるしい。息も詰まる。髪の手ざわりもまったくの別物だ。本物とふれあったこともないのに、唇のやわらかさは偽物だと思い知る。目を隠し、声も封じた。それでも。きっとこんな体つきではない。こんな胸元ではない。こんな風に腰を振らない。こんな、こんな乱れ方ではない。知らないはずなのに、なぜわかるのだ。
宿へ戻り、ベッドに身を投げだす。子電伝虫を手にとるも、頭を振り、サイドテーブルに置く。声を聞いたところで会えない。こんなみにくい自分を見せるわけにはいかない。飢えた心身は他の女では満たされない。満たされなくなってしまった。