サンジ過去編
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水流音。聞こえるはずのない物音。ナマエか。今日の予定は不在のはず。だからこのベッドで寝ているのに。手元の腕時計は午前二時。朝市まで三時間。頭も体も完全に寝ているので、ベッドから起き上がれない。扉の開閉音。誰かが風呂から出てきた。とにかく、ナマエ本人なのかだけでも確かめなければ。無理やり跳ね起き、人影に手を伸ばす。
「ナマエか?」
体を引っ張られる。ぐるりと回転し、床へうつ伏せに。何度も何度も受けた攻撃。背中のうしろで両腕を拘束され、体重が上からのしかかる。こちらを押さえこむナマエの手は濡れていた。乗っかられている部分もじわり、じわりと自分の服が湿っていく。こいつはまだ服を着ていない。弱々しい、掠れた声が降ってきた。
「なんで、なんでさんじが」
「予定表が『不在』だったから泊まった。悪い。行き違いになっちまって」
沈黙。こちらの腕をつかむ手が少しゆるんだ。
「許可するまで動くな。絶対に、振り返るな」
鋭い音。のしかかった体が離れていく。おとなしくうつ伏せのまま待機した。クローゼットを開く音。なにかを集め、袋に入れている。
「もういい。起きていい」
自力で起き上がるまえに腕を引っ張られ、うしろを振り向かされる。すぐに視界がふさがった。ほんのりぬれたバスタオル。顔を拭かれていく。首元、両手、腕から肩へ。シャツも脱がされ、新しい服を着付けられる。一瞬たりとも目が合わない。暗くてわからないが、絶対にナマエは自分の顔を見ていない。
「起こして悪かった」
ベッドに戻されるも、とっさに腕をつかんでしまう。冷たい肌。こいつも服を着ているが、髪はしたたるほどずぶぬれだ。
「はやく髪を拭け。風邪引くぞ」
「わかった。おまえは寝ろ」
強く肩を押され、完全に倒されてしまう。だが、ナマエの髪から垂れた水滴が腕に当たり、感情が沸騰する。とっさにベッドサイドランプをつけた。ぬれている。髪だけでなく、顔も、目元も。水ではない。なみだ。光の消えた、冷たいまなざし。ぞくりと背筋が凍った。
「ナマエ、おまえ」
顔を伏せられてしまう。離れようとする腕をきつくつかんだ。まだ震えている。まだ冷たい。テーブルに投げ置かれたバスタオルを見つけ、取りにいく。ふらつくナマエの頭にかぶせた。髪の水分を拭きとってやる。今度は抵抗されない。立ち上がり、向かい合ったまま黙々と手を動かす。最後に顔へ押し当てる。慎重に目元の涙を拭った。目が合いそうで合わない。自分ではなく、後方、遠くを見ている。
「ドライヤー使うぞ」
椅子に座らせ、洗面所から取ってくる。いまだ体を震わせているのでベッドの毛布をしっかりと巻き付けた。こいつに何が起きたのか。なぜ震えているのか。問いただしたい衝動をぐっと抑えこみ、ドライヤーに集中する。乾かし終えたあと、また手を握ってみる。冷たい。顔まわりはドライヤーの熱風であたたまったが、体は毛布だけでは間に合わない。
ここにきて、ようやく外の雨音に気づく。こいつは濡れながら帰ってきたのでは。
「ちょっと待ってろ」
昨日買った牛乳が余っていたはず。沸騰しないよう注意しながら鍋であたためる。ナマエにマグカップを握らせた。
「飲める分だけでいい」
となりへ椅子を持っていき、自分も座る。じっと真横から顔を見つめていれば、ようやくマグカップを傾けた。時間はかかったが、すべて飲み干す。もう一度手を握る。先ほどよりはマシだが、まだ一定間隔で震えている。やれるだけのことはやった。あとは、もう。
「横になっておけ」
そっと背中を押し、腕を引き、ベッドまで歩かせる。肩を押して倒そうとするも、なかなか動いてくれない。目で訴えかけられる。つまり、こいつは寝たくない。理由はわかる。今までだって、一度も同じベッドで寝たことがなかった。
「ここはおまえの家だ。おまえが寝ろ」
こうなったら強硬手段だ。瞬時に抱え上げ、横たわらせる。自分はベッドから離れようとしたが、引きとめられる。
「サンジ、寝て。もう、今日はいいから。もうすぐ朝市が始まる。それまで寝ないと」
どんどん腕を引く力が強くなる。ベッドへ引き込まれ、ナマエがサイドランプを消す。巻き付けた毛布をこちらへかけてくるものだから、あわてて突き返す。
「何やってんだ。おまえが被れ」
「これ一枚しかない。明日はオフだから。サンジだけ仕事。サンジ優先」
いがみ合うも、埒が明かない。さまざまな感情に見切りをつけ、引き寄せる。するりと胸元に収まった。とたんにナマエの体が固まる。
「なにが優先だ。こんなに寒そうな奴を放っとけるわけねェだろ」
抵抗されそうなので、きつく抱き込む。この距離を選んだのは他の目的もある。首元に顔を埋めれば、鈍く重い、あのにおい。やはり血を吸ったのだ。
「このにおいの原因を正直に吐けねェなら、おとなしく寝とけ」
徐々にナマエの硬直がとける。
「わかった。寝る。寝るから、おねがい。もう少しだけ離れて。一緒に毛布はかぶるから」
抱く腕をゆるめてやる。体をうつ伏せにして、顔だけこちらに向ける。
「うで、じゃま」
「そのまま頭乗せとけ。枕もひとつしかねェんだ」
毛布も枕もひとつ。シーツはベッドサイズと合っているが、他はちぐはぐだ。つまり、普段はふたりで寝ない。本当にこいつは女を連れ込まないのか。
「うつ伏せ、寝にくくねェのか」
「ちゃんと寝れる」
右腕は伸ばしたが、左腕はどうするか。仰向けか、横向きか。いつもは仰向けで寝るが、右腕が固定されたので、横向きの方が楽かもしれない。寝返りを打ち、左腕をナマエの上に乗せる。
「うで、重い」
「そう言うな。あと一時間もすれば、おまえがベッドを占領できる」
途端に声がしょぼくれる。
「ごめん。あと一時間しか寝れなくて」
「悪いと思うなら腕一本くらい受け入れろ」
とは言うものの、この体勢では足も曲げたい。左足を前へ出してみる。ナマエの脚にぶつかったので、上に重ねた。
「これも受け入れなきゃだめ?」
意外な反応。拒絶ではない。もうひと押しいけるか。右足も少し曲げておく。膝が接触した。
「少なくとも、この体勢が一番安定する」
言葉は返ってこない。自分も意識が重くなる。外の雨音に耳を傾けるなか、しだいに深く沈み込んでいった。
アラーム。ナマエの体がびくりとはねた。右腕が軽くなる。もう一時間たったか。
「サンジ、起きて」
「わかってる」
あくび混じりに上体を起こす。まだ外は暗いのでベッドサイドランプを付けた。毛布を肩にかぶり、同じように上体を起こしたナマエと目が合う。重いまぶた。自分に合わせ、無理に起きたのだろう。
「鍵は締めておく。寝とけ」
じっと見つめられるも、肩を押し、そっと寝かせる。いまいち納得していない表情。ここは甘やかしておくか。耳元でささやく。
「とっておきを作ってやる。それまでちゃんと寝ろ」
「でも、鍵くらい」
「ナマエ」
肩がはね、一瞬のさえずり。まずい、声を近づけすぎた。フォローの言葉も浮かばず、とっさにベッドを離れる。手早く着替え、一度もベッドを振り返ることなく部屋をあとにした。
午前六時。静かに上がり、朝めしの支度を。盛り付ける前にナマエの顔をのぞきこむ。昨夜、あんなに体を震わせ、冷たかったのだ。具合が悪そうなら、今すぐ起こす必要もない。
「ナマエ、食えるか」
それなりに近くでつぶやいたが、反応なし。頬を指でつついてみる。次で目覚めなければ、冷蔵庫にしまおう。
「ナマエ、起きねェなら──」
体が跳ねた。
「サンジ。サンジ!」
悲痛な声。つついていた手をつかまれ、起き上がった体が胸元になだれ込む。すぐに離れ、顔を上げた。
「おねがい。聞いて。ずっと言えなかった。ごめん。隠していた」
なぜそんなに焦っているのか。言えないことのひとつやふたつ、自分にだってあるのに。
「落ち着け」
「だめだ。いま話さないと、きっと、一生言えないままだ」
くしゃりと顔をゆがませる。瞳も揺れた。昨夜の濡れた髪、濡れた顔、濡れた目元──なみだを思い出す。
「サンジ。おれは、おれは」
言葉が途切れ、息が乱れる。とっさに背中へ手をまわし、やわらかくさすっておく。
「焦らなくていい。急がなくていい。おれはここにいる。ずっと待っている。逃げるものか」
そもそも、無理やり吐き出す必要があるのか。十年前に捨てた人生を、おまえにさえ打ち明けるつもりはないのに。
「ナマエは、そんなにおれに話したいのか」
「だって、サンジは。サンジだから」
首を横に振りながら、こんなにも体を震わせて。そこまでして吐露すべきなのか。体に負担がかかってまでも吐かねばならないのか。
「もういい。無理するな。伝えたい気持ちだけで十分だ。ナマエは向き合いたいと思ってくれた。それだけでうれしい。ありがとう」
いつもの遠まわしな表現ではなく、まっすぐ伝える。ナマエの肩が下がり、力が抜けていく。こちらに体を傾けた。迷わず抱きとめる。
「ずるい。ひきょうだ。なんでそんな、かっこいいんだ」
「ずるさならてめェも大概だろ。もっと楽に生きろ」
おたがい、好きに生きればいい。ただのマジシャンとコック。それでいい。これ以上幸せな生活を求めてどうする。もう十分近づいた。たくさん相手を知った。夢だって語り合った。近づく余地があるならば、キッシュくらいだ。日に日に、少しずつ好みに寄せている。負担にならない絶妙なバランスを。いつか、絶対。
「サンジの、ばか。さいてい。やさしすぎ。あまやかしすぎ。これ以上とけたら、もう」
「全部とけたら固めてやる。おれの好みで味付けしてやる。トッピングくらいはおまえの意見も聞いてやろうか?」
腕のなかでナマエが吹き出した。空気が和らぎ、ふっと力が抜けていく。
「今から食うなら、あたためなおさねェとな。どうする」
耳元で、刺激しすぎない程度に。閾値を超えれば逆効果だ。さすがに学習した。
「うん。おなか、すいた」
ようやく朝めしを。頬をとろけさせ、ごくりと喉を通っていく。今日は特にへにゃへにゃだ。軽くつついたら、ぺしゃんこに潰れてしまうのでは。コーヒーの香りを楽しみ、キッチンも片付けた。あとは出るだけ。玄関まで付いてくるので、うしろを振り返る。
「もう少し寝とけよ」
こくりとうなずいた。なんとなく視線を絡ませ、ナマエの反応を待つ。
「今日は、いっぱいいっぱい、ありがとう。少しだけ楽になった」
それは心外だ。痛みをすべて取り除いてやりたかったのに。まだ甘やかす必要があるな。
「予定表の書き忘れは気をつける。帰ってきたとき、死ぬほどびっくりしたから」
結局、何をまとめて袋にしまったのだろう。返り血。汚れた服。捨てる服、か。
「いっそのこと、枕と毛布を買っとくか。余分にあっても困らねェだろ」
わずかに顔をゆがませ、目を伏せる。余分にあっては困る、ということか。
「考えておく。でも、割り切るのに時間がかかるかも」
何を割り切るのか。そんなに自分と寝るのが嫌なのか。ベッドが広いのだから、枕と毛布さえ足りれば快眠を得られるはず。
「おれは構わない」
ナマエの肩が跳ねた。わずかに身を引く。ここが限界、か。
「悪い。押し付けるつもりはない。ナマエの好きにしろ」
最後に硬い表情はいただけない。頬をつまみ、無理やり口角を上げておく。こちらも笑ってみせれば、自然と頬がゆるんだ。手を離し、まっすぐ音を伝える。
「いってくる」
見つめていれば、口が動く。初めて聞く言葉。妙にくすぐったい。背中を押される感覚。一瞬で耳になじんだ。
「気をつけて」
「ナマエか?」
体を引っ張られる。ぐるりと回転し、床へうつ伏せに。何度も何度も受けた攻撃。背中のうしろで両腕を拘束され、体重が上からのしかかる。こちらを押さえこむナマエの手は濡れていた。乗っかられている部分もじわり、じわりと自分の服が湿っていく。こいつはまだ服を着ていない。弱々しい、掠れた声が降ってきた。
「なんで、なんでさんじが」
「予定表が『不在』だったから泊まった。悪い。行き違いになっちまって」
沈黙。こちらの腕をつかむ手が少しゆるんだ。
「許可するまで動くな。絶対に、振り返るな」
鋭い音。のしかかった体が離れていく。おとなしくうつ伏せのまま待機した。クローゼットを開く音。なにかを集め、袋に入れている。
「もういい。起きていい」
自力で起き上がるまえに腕を引っ張られ、うしろを振り向かされる。すぐに視界がふさがった。ほんのりぬれたバスタオル。顔を拭かれていく。首元、両手、腕から肩へ。シャツも脱がされ、新しい服を着付けられる。一瞬たりとも目が合わない。暗くてわからないが、絶対にナマエは自分の顔を見ていない。
「起こして悪かった」
ベッドに戻されるも、とっさに腕をつかんでしまう。冷たい肌。こいつも服を着ているが、髪はしたたるほどずぶぬれだ。
「はやく髪を拭け。風邪引くぞ」
「わかった。おまえは寝ろ」
強く肩を押され、完全に倒されてしまう。だが、ナマエの髪から垂れた水滴が腕に当たり、感情が沸騰する。とっさにベッドサイドランプをつけた。ぬれている。髪だけでなく、顔も、目元も。水ではない。なみだ。光の消えた、冷たいまなざし。ぞくりと背筋が凍った。
「ナマエ、おまえ」
顔を伏せられてしまう。離れようとする腕をきつくつかんだ。まだ震えている。まだ冷たい。テーブルに投げ置かれたバスタオルを見つけ、取りにいく。ふらつくナマエの頭にかぶせた。髪の水分を拭きとってやる。今度は抵抗されない。立ち上がり、向かい合ったまま黙々と手を動かす。最後に顔へ押し当てる。慎重に目元の涙を拭った。目が合いそうで合わない。自分ではなく、後方、遠くを見ている。
「ドライヤー使うぞ」
椅子に座らせ、洗面所から取ってくる。いまだ体を震わせているのでベッドの毛布をしっかりと巻き付けた。こいつに何が起きたのか。なぜ震えているのか。問いただしたい衝動をぐっと抑えこみ、ドライヤーに集中する。乾かし終えたあと、また手を握ってみる。冷たい。顔まわりはドライヤーの熱風であたたまったが、体は毛布だけでは間に合わない。
ここにきて、ようやく外の雨音に気づく。こいつは濡れながら帰ってきたのでは。
「ちょっと待ってろ」
昨日買った牛乳が余っていたはず。沸騰しないよう注意しながら鍋であたためる。ナマエにマグカップを握らせた。
「飲める分だけでいい」
となりへ椅子を持っていき、自分も座る。じっと真横から顔を見つめていれば、ようやくマグカップを傾けた。時間はかかったが、すべて飲み干す。もう一度手を握る。先ほどよりはマシだが、まだ一定間隔で震えている。やれるだけのことはやった。あとは、もう。
「横になっておけ」
そっと背中を押し、腕を引き、ベッドまで歩かせる。肩を押して倒そうとするも、なかなか動いてくれない。目で訴えかけられる。つまり、こいつは寝たくない。理由はわかる。今までだって、一度も同じベッドで寝たことがなかった。
「ここはおまえの家だ。おまえが寝ろ」
こうなったら強硬手段だ。瞬時に抱え上げ、横たわらせる。自分はベッドから離れようとしたが、引きとめられる。
「サンジ、寝て。もう、今日はいいから。もうすぐ朝市が始まる。それまで寝ないと」
どんどん腕を引く力が強くなる。ベッドへ引き込まれ、ナマエがサイドランプを消す。巻き付けた毛布をこちらへかけてくるものだから、あわてて突き返す。
「何やってんだ。おまえが被れ」
「これ一枚しかない。明日はオフだから。サンジだけ仕事。サンジ優先」
いがみ合うも、埒が明かない。さまざまな感情に見切りをつけ、引き寄せる。するりと胸元に収まった。とたんにナマエの体が固まる。
「なにが優先だ。こんなに寒そうな奴を放っとけるわけねェだろ」
抵抗されそうなので、きつく抱き込む。この距離を選んだのは他の目的もある。首元に顔を埋めれば、鈍く重い、あのにおい。やはり血を吸ったのだ。
「このにおいの原因を正直に吐けねェなら、おとなしく寝とけ」
徐々にナマエの硬直がとける。
「わかった。寝る。寝るから、おねがい。もう少しだけ離れて。一緒に毛布はかぶるから」
抱く腕をゆるめてやる。体をうつ伏せにして、顔だけこちらに向ける。
「うで、じゃま」
「そのまま頭乗せとけ。枕もひとつしかねェんだ」
毛布も枕もひとつ。シーツはベッドサイズと合っているが、他はちぐはぐだ。つまり、普段はふたりで寝ない。本当にこいつは女を連れ込まないのか。
「うつ伏せ、寝にくくねェのか」
「ちゃんと寝れる」
右腕は伸ばしたが、左腕はどうするか。仰向けか、横向きか。いつもは仰向けで寝るが、右腕が固定されたので、横向きの方が楽かもしれない。寝返りを打ち、左腕をナマエの上に乗せる。
「うで、重い」
「そう言うな。あと一時間もすれば、おまえがベッドを占領できる」
途端に声がしょぼくれる。
「ごめん。あと一時間しか寝れなくて」
「悪いと思うなら腕一本くらい受け入れろ」
とは言うものの、この体勢では足も曲げたい。左足を前へ出してみる。ナマエの脚にぶつかったので、上に重ねた。
「これも受け入れなきゃだめ?」
意外な反応。拒絶ではない。もうひと押しいけるか。右足も少し曲げておく。膝が接触した。
「少なくとも、この体勢が一番安定する」
言葉は返ってこない。自分も意識が重くなる。外の雨音に耳を傾けるなか、しだいに深く沈み込んでいった。
アラーム。ナマエの体がびくりとはねた。右腕が軽くなる。もう一時間たったか。
「サンジ、起きて」
「わかってる」
あくび混じりに上体を起こす。まだ外は暗いのでベッドサイドランプを付けた。毛布を肩にかぶり、同じように上体を起こしたナマエと目が合う。重いまぶた。自分に合わせ、無理に起きたのだろう。
「鍵は締めておく。寝とけ」
じっと見つめられるも、肩を押し、そっと寝かせる。いまいち納得していない表情。ここは甘やかしておくか。耳元でささやく。
「とっておきを作ってやる。それまでちゃんと寝ろ」
「でも、鍵くらい」
「ナマエ」
肩がはね、一瞬のさえずり。まずい、声を近づけすぎた。フォローの言葉も浮かばず、とっさにベッドを離れる。手早く着替え、一度もベッドを振り返ることなく部屋をあとにした。
午前六時。静かに上がり、朝めしの支度を。盛り付ける前にナマエの顔をのぞきこむ。昨夜、あんなに体を震わせ、冷たかったのだ。具合が悪そうなら、今すぐ起こす必要もない。
「ナマエ、食えるか」
それなりに近くでつぶやいたが、反応なし。頬を指でつついてみる。次で目覚めなければ、冷蔵庫にしまおう。
「ナマエ、起きねェなら──」
体が跳ねた。
「サンジ。サンジ!」
悲痛な声。つついていた手をつかまれ、起き上がった体が胸元になだれ込む。すぐに離れ、顔を上げた。
「おねがい。聞いて。ずっと言えなかった。ごめん。隠していた」
なぜそんなに焦っているのか。言えないことのひとつやふたつ、自分にだってあるのに。
「落ち着け」
「だめだ。いま話さないと、きっと、一生言えないままだ」
くしゃりと顔をゆがませる。瞳も揺れた。昨夜の濡れた髪、濡れた顔、濡れた目元──なみだを思い出す。
「サンジ。おれは、おれは」
言葉が途切れ、息が乱れる。とっさに背中へ手をまわし、やわらかくさすっておく。
「焦らなくていい。急がなくていい。おれはここにいる。ずっと待っている。逃げるものか」
そもそも、無理やり吐き出す必要があるのか。十年前に捨てた人生を、おまえにさえ打ち明けるつもりはないのに。
「ナマエは、そんなにおれに話したいのか」
「だって、サンジは。サンジだから」
首を横に振りながら、こんなにも体を震わせて。そこまでして吐露すべきなのか。体に負担がかかってまでも吐かねばならないのか。
「もういい。無理するな。伝えたい気持ちだけで十分だ。ナマエは向き合いたいと思ってくれた。それだけでうれしい。ありがとう」
いつもの遠まわしな表現ではなく、まっすぐ伝える。ナマエの肩が下がり、力が抜けていく。こちらに体を傾けた。迷わず抱きとめる。
「ずるい。ひきょうだ。なんでそんな、かっこいいんだ」
「ずるさならてめェも大概だろ。もっと楽に生きろ」
おたがい、好きに生きればいい。ただのマジシャンとコック。それでいい。これ以上幸せな生活を求めてどうする。もう十分近づいた。たくさん相手を知った。夢だって語り合った。近づく余地があるならば、キッシュくらいだ。日に日に、少しずつ好みに寄せている。負担にならない絶妙なバランスを。いつか、絶対。
「サンジの、ばか。さいてい。やさしすぎ。あまやかしすぎ。これ以上とけたら、もう」
「全部とけたら固めてやる。おれの好みで味付けしてやる。トッピングくらいはおまえの意見も聞いてやろうか?」
腕のなかでナマエが吹き出した。空気が和らぎ、ふっと力が抜けていく。
「今から食うなら、あたためなおさねェとな。どうする」
耳元で、刺激しすぎない程度に。閾値を超えれば逆効果だ。さすがに学習した。
「うん。おなか、すいた」
ようやく朝めしを。頬をとろけさせ、ごくりと喉を通っていく。今日は特にへにゃへにゃだ。軽くつついたら、ぺしゃんこに潰れてしまうのでは。コーヒーの香りを楽しみ、キッチンも片付けた。あとは出るだけ。玄関まで付いてくるので、うしろを振り返る。
「もう少し寝とけよ」
こくりとうなずいた。なんとなく視線を絡ませ、ナマエの反応を待つ。
「今日は、いっぱいいっぱい、ありがとう。少しだけ楽になった」
それは心外だ。痛みをすべて取り除いてやりたかったのに。まだ甘やかす必要があるな。
「予定表の書き忘れは気をつける。帰ってきたとき、死ぬほどびっくりしたから」
結局、何をまとめて袋にしまったのだろう。返り血。汚れた服。捨てる服、か。
「いっそのこと、枕と毛布を買っとくか。余分にあっても困らねェだろ」
わずかに顔をゆがませ、目を伏せる。余分にあっては困る、ということか。
「考えておく。でも、割り切るのに時間がかかるかも」
何を割り切るのか。そんなに自分と寝るのが嫌なのか。ベッドが広いのだから、枕と毛布さえ足りれば快眠を得られるはず。
「おれは構わない」
ナマエの肩が跳ねた。わずかに身を引く。ここが限界、か。
「悪い。押し付けるつもりはない。ナマエの好きにしろ」
最後に硬い表情はいただけない。頬をつまみ、無理やり口角を上げておく。こちらも笑ってみせれば、自然と頬がゆるんだ。手を離し、まっすぐ音を伝える。
「いってくる」
見つめていれば、口が動く。初めて聞く言葉。妙にくすぐったい。背中を押される感覚。一瞬で耳になじんだ。
「気をつけて」